●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●           PBeM     猪槌城(いづちじょう)                第3回結果 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●                                     柳井政和 ver 0.01 2000.01.18 ver 0.02 2000.01.19 ver 0.03 2000.01.24 ver 0.04 2000.01.27 ver 0.05 2000.01.28 ver 0.06 2000.01.30 ver 0.07 2000.01.31 ver 0.08 2000.02.01 ver 0.09 2000.02.02 ver 0.10 2000.02.04 ver 0.11 2000.02.05 ────────── ver 0.12 2000.09.24 台詞を変更 第6〜7話の結果です。第4回のシナリオは、また別にアップいたします。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■第6話「いでの鼻」挿話 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  万字賀谷の底を逃げる三人の影があった。一人は女、一人は怪我人、いま一人は、怪我 をした兄を背負っている。≪氷室≫(ひむろ)直属の忍者、氷牙の<紅松>(べにまつ)、 <蒼竹>(あおだけ)、<白梅>(しらうめ)である。 「俺を置いて先に行け」  <紅松>が、かすれるような声で言った。顔は既に青くなり始めていた。 「にいちゃんを置いていけるはずないでしょう」  <白梅>が涙目で<紅松>にすがり付く。<蒼竹>は、しばしその場に立ち止まり、考 え込んだ後、兄の体を地面に置いた。 「すまんな、蒼竹。白梅を頼む」 「兄上・・・」  <蒼竹>は、何か言おうとして口をつぐんだ。<白梅>の手を引き、その場を急いで立 ち去る。 「にいちゃん!」  <白梅>の声が、谷に谺して消えた。 ──────────────────────────────────────── 「行ったか」  紅松は手元に残った火薬を取り出した。そろそろ月組の忍者たちが来る頃だ。二人のた めにも、ここで足止めをしなければならない。  月組の忍者たちが訪れた。座している<紅松>を警戒するように、人垣を作り取り囲む。 「爆炎微塵隠れ!」  <紅松>の声と共に、無数の火薬が四方に飛び散った。火薬には、一つずつ式神が取り 付いている。式神の取り付いた火薬は、敵を逃がさず殲滅した。辺り一帯に爆音が響いた。 谷に爆音が谺する。  体には無数の傷があった。多くの血が流れた。<紅松>は、見慣れた万字賀谷の空を見 上げた。全てが遠い。白濁した空は、思い出の中の晴れた空とは違っていた。過去が走馬 灯のように過ぎ去り、一つ一つの顔が目まぐるしく過ぎていく。<白梅>、<蒼竹>の顔 も。 「氷室様に、報告せねば」  空には雪が降り始めていた。痛みが寒さで消えていく。永劫とも思える道のりを、<紅 松>は雪組地下屋敷に向かって進んで行った。そして、雪の中に倒れて死んだ。<紅松> が死んだ場所は、わずかに雪組地下屋敷には達していなかった。 ────────────────────────────────────────  その地下洞窟の底には、一人の男の笑い声が響き渡っていた。それ以外は静寂が満たし ている。  雪組が引き払った後の、雪組地下屋敷。その底には、二人の雪組忍者の姿があった。一 人は先代雪組頭領≪深雪≫(みゆき)。そして、雪組老人衆の一人≪氷室≫。  正確には、つい先程までもう一人いた。雪組下忍、<蝉雨>(せみあめ)。  <蝉雨>は、ただ、ひたすら走っていた。額には大粒の汗が滲んでいる。しかし、体は ひどく冷え切っていた。  全身恐怖で打ち震えている。あの、悪夢のような光景に。死体が息を吹き返し、立ち上 がった光景に。  それに、あの男。顔は≪豪雪≫様に似ている。しかし、似て非なるものだ。あの、全身 の毛穴が開くような恐怖。あのような恐怖は、初めて経験した。  たしか、聞いたことがある。先代雪組頭領≪深雪≫様と言えば、雪組の恐怖の象徴であ ったという。  子供心に、昔話で聞いたときには、実感などなかった。しかし今なら、あの頃、父親た ちの言っていたことがよく分かる。毒気。あの人型の魔性の近くに寄るだけで、毒されて しまいそうな気がする。空気が悪意で歪んでいる。  体は正直だ。震えが止まらない。地下屋敷を出た。吹雪が吹いていた。しかし、その吹 雪さえ、今は暖かく感じる。  地下屋敷の出入り口には、数体の死体が転がっていた。動転している<蝉雨>は、その 死体の一つに足をつまづかせた。転がり、雪に頭から倒れ込む。<蝉雨>は雪の中でもが く。 「俺は、こんな死体にはならない」  立ち上がりながら、息を整えた。「これからどこへ向かうべきか」次第に心が落ち着い てくる。 「洞窟へ引き返せば、深雪様に出くわす。命はないだろう・・・。城下町へ逃げようと思 えば、月組との戦い。抜けられる程の腕は俺にはない・・・。豪雪様の下に行けば、その 両方と戦うことになるかもしれない。俺の命の在処はない」  <蝉雨>は考えた。刻はない。すぐにでも≪深雪≫は上がってくるやもしれない。 「もし、深雪様と月組が戦えば、その隙をつき、万字賀谷から雪組は抜けられる。無論、 俺も抜けられる。そんなことが可能か?」  <蝉雨>は筆と半紙を取りだした。忍び文字で書状をしたためた。一度だけ、地下屋敷 の入り口を振り返り、そしてその場を後にした。 ──────────────────────────────────────── 「そうか、氷室よ。次第に思い出してきたか。豪雪の娘の名は雪姫か。まあ、気に病むな。 死から復活してすぐは、意識が混濁しているものだ。俺も、最初に怪異に落ちたとき、だ いぶ混乱したものだ。まあ、あんなもの、分かってしまえば、どうということはないがな」  地下屋敷の出入り口から、長い白銀の髪を持つ、若く美しい男が現れた。続いて、虚ろな 目をした、老忍者が現れた。先代雪組頭領≪深雪≫と、雪組老人衆の≪氷室≫である。  二人は、吹きすさぶ吹雪の中に立った。≪深雪≫は、眉を寄せ、口の端を少し上げて笑 みを浮かべた。威風堂々とした立ち居振舞いで辺りを見回す。 「弟は、また、念じ衆を使っているな」  楽しそうに言う。  「さて、氷室よ。お前と俺の二人だけでは心もとない。今は老人衆にまでなったお前が 使い走りをするのは面白くなかろう。適当な死体を持ってこい。黄金蟲をくれてやるわ」 ≪深雪≫は高らかに笑った。 「御意」  ≪氷室≫は地下屋敷入り口周辺に転がっている死体のいくつかを見て回った。 ──────────────────────────────────────── 「この死体がよろしいかと」  ≪氷室≫が持ってきた死体は、無数の傷を負い、ひどくくたびれていた。硝煙の臭いが 漂っている。  「腕は立つのか?」≪深雪≫が問うた。  「はっ、私の子飼いの忍者で紅松と申します」≪深雪≫は「ふむ」と頷くと、黄金蟲を 両手の間に現出させた。  ゆっくりと、冷たくなった死体の上に、蟲を落とす。蟲は、二回、三回と体を揺らせ、 そして<紅松>の傷の間から、体の中に滑り込んでいった。  虚ろな目の<紅松>が置き出した。無表情のその男に、≪氷室≫は、新しい主人を紹介 した。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■第6話「いでの鼻」本編 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  雪が壁のように空を覆っていた。見渡す限り銀、銀、銀の世界。  しかし、その銀は、陽の下で見る銀ではなかった。陽の光の温かさはない。鈍く影をた たえる、研ぎ澄まされた日本刀の銀。鋼の銀の色であった。  月組頭領≪青い目の爪牙≫(あおいめのそうが)は、静かに空を仰ぎ見た。「闇がわだ かまっている」ポツリと呟く。 「爪牙様!」  ≪爪牙≫の下に、一人の族長が歩み出てきた。≪爪牙≫に耳打ちをする。雪組の消息を 探しに出していた下忍から報告があったらしい。 「雪組の下忍を一人捕まえました。取り調べましたところ、懐に密書らしき書状を持って おりました。腕は二流。密使とも思えませんが、気になる文面でしたので」  ≪爪牙≫は差し出された書状を開いた。忍び文字が書きつけられてある。  深雪様復活ノ儀、万事完了。月怖ルルニ能ワズ。万字賀谷ニ集ヘ。氷室。  ≪深雪≫(みゆき)。雪組先代頭領であり、神通力の達人。相手が神通力の達人なら、 常人ではまず勝てない。もしこの書状が本物なら、こちらにも神通力の使い手が数人いる だろう。神通力に目覚めたばかりの俺だけでは数が少ない。  ≪青い目の爪牙≫は、振り返り、自分の後ろに控えている数人の青鉢巻たちを見た。彼 らの中から、神通力を使える者を、少しでも早く育て上げなければならない。何人か、そ の過程で死ぬだろう。しかし、もし≪深雪≫復活の報が本当ならば、死者はそれでは済ま ない。  ≪爪牙≫は、直属の部下である青鉢巻たちの顔を見た。<爪牙>の顔は険しい。 「荒行になる」  青鉢巻たちの間に緊張が走る。<曹沙亜>(そうさあ)は、≪爪牙≫の表情に、苦悩が 浮かんでいるのを垣間見た。何かを恐れている。  彼の力になりたい。そう思った。  「まずは、その書状を持っていた雪組忍者を責め立てろ。死ぬ直前まで痛めつけるが良 い。死の直前まで、語る言葉には耳を貸すな。その者が、自らの死を察した瞬間の言葉の みに耳を傾けろ。問う内容はこの書状の真偽」≪爪牙≫は、書状を持ってきた族長の目を 見た。 「拷問の方法は問わん。急げ」 「御意」 ────────────────────────────────────────  「・・・ここは、どこだ」月組の天幕の中で、雪組の下忍<蝉雨>(せみあめ)はうつ ろな声を出した。確か、雪組地下屋敷を離れて、いでの鼻に向かっていたはず。まぶたが 開き、瞳に光りがこぼれこむ。 「敵の真ん中で、俺だけが味方さ」  ふいに、中年の男の声が聞こえてきた。月組の居候、<大矢野一郎>(おおやのいちろ う)は陽気に応え、治療を続けた。  「ここは、月組か?」<蝉雨>は、中年の男に向かって尋ねた。<大矢野>は「そうだ」 と答える。 「密書のせいで、とんだ目にあったようだな」  <大矢野一郎>は気の毒そうに言った。思い出してきた。密書。あれはこの<蝉雨>が 書いた物だ。拷問に耐え切れず、全てを吐いてしまった。まあ、結果は変らない。最後の 署名以外は、ほぼ本当だ。それだってせいぜい代筆したって言えるさ。  <蝉雨>は、拷問を思い出した。拷問は受けたが、結果的に殺されなかった。傷の治療 も受けている。助かるかな、俺。そう思い、再び目を閉じた。 ────────────────────────────────────────  猪槌城城下町では、相変わらずの日常生活が繰り返されていた。死体は道の端に山積み にされ、月河に捨てられる。しかし、その死体も毎日になれば、日常の一風景と化してし まう。人々は逞しかった。  これだけ人死にが出れば、世の中は、自然と厭世観が支配してくる。  人々は享楽へと流れるようになり、市中にも乱暴狼藉を働く者が多くなっていた。  普段では、相手も居らず、乱暴をする側に回っている十六夜の荒くれ者たちも、これ幸 いと、市中で刀を振るっている。死は死を呼び、末世の感がある。  <日狩>(ひかり)と<児玉>(こだま)の十六夜の見習いたちも町を走り回っていた。 ただし、彼らは逃げるために走っている。  ≪明光院≫の一党たちと出会った<日狩>と<児玉>は、町の辻々を、こまねずみの様 に走り回っていた。その途中、老人の顔を見たことがあると<児玉>が漏らした。  「どこで見たんだろう。あの顔は」<児玉>はブツブツと同じことを繰り返して言う。 先ほど見た、一団を率いていた老人が気になってしょうがない。 「どこだったっけかな。何かここまで名前が出かかってんだよ。なんとか光・・・」  <日狩>が<児玉>の言葉に合わせるように、適当な言葉をつなげて囃し立てた。「月 光、逆光、かっこう、発光、一向一揆が起こったならば、真っ向勝負で皆殺し」 「そうそうそうそう、日光に行く途中、そんなことを言ってたよな・・・あ」  <児玉>は、<日狩>をまじまじと見た。やっと気づいたかという顔を<日狩>はして いた。  「あれだよ、ほら。日光東照宮に行ったときに見た、お偉いさん」<日狩>が、<児玉 >を促す。  「確か、幕府の重臣の一人で・・・」<児玉>は生唾を飲み込んだ。  「あんときゃお互いガキだったなぁ」のんびりした<日狩>の口調をよそに<児玉>は 必死に考え込んでいた。「って、ことは、幕府が直接この場所を攻めてきたってことかよ。 やばいんじゃないか? 俺ら消されちまうよ。秘密を知ったって」<児玉>は立ち止まり、 恐る恐る口を開いた。  「大丈夫。秘密じゃなくなりゃ、秘密じゃない」<日狩>が無責任に笑った。<児玉> の顔は青ざめている。 「言いふらすのよ。城下町で誰でも知ってる噂にするのさ」<日狩>が胸を張って言った。 「待てよ。お前のそういうのに付き合って、いろんなところで痛い目あってんだろうが。 ここから逃げ出すあては無いんだぜ? おいっ」  しかし、結局<児玉>も<日狩>にしたがった。こんなすごい噂、この二人に黙ってお けるはずが無い。 ────────────────────────────────────────  城下町に噂が流れた。噂は、人心が乱れているときほど良く広がる。この噂は、瞬く間 に広がりった。 「幕府が、猪槌の里に攻めてきた」 「忍軍の戦争は、幕府の策略である」  その噂より後、家財道具を持って町を離れる人々の姿が急増した。城下町の各所では、 大八車を押す、町人たちの姿が道にあふれ返った。そして、各所で暴動が起こり始めた。 ──────────────────────────────────────── 「どうやら本当のようだ」  それが結論だった。雪組の忍者<蝉雨>を拷問した月組の族長の一人は、≪爪牙≫に耳 打ちをした。≪深雪≫が出てきた雪組地下屋敷の場所を聞き出し、そこに向かわせた下忍 たちも、一人も戻ってきていない。下忍の中でも、手練を選び向かわせている。信憑性は 高い。 「こちらにも、数人の神通力の使い手を、早々に確保しなければならないな」  ≪爪牙≫は苦い顔をする。依然とは違い、どこか大人びた、老人めいた表情を、この少 年はするようになっていた。  ≪爪牙≫は、青鉢巻たちを雪上に並ばせた。「この中から、何人かが死ぬ」≪爪牙≫の 声に、ざわめきが走った。「そして何人かが生き残る。生き残った者は、神通力を身につ ける」<曹沙亜>は息を呑んだ。何人かが死ぬ。≪爪牙≫が言葉を続けた。 「ことは急を要する。ちょうど、今より二十年ほど前になるか。雪組の頭領は、豪雪の兄、 深雪という者であった。その男、刀より切れる知恵を持ち、神通力を扱わせれば、神の如 しであったという。  しかし、その中身は凶徒。雪組にとっては凶兆。殺戮を快楽とし、人血を酒とした男。 いつしかその姿は消え、豪雪が頭領となった。その深雪が戻ってきた。奴は強い。戦えば 負ける」  「爪牙様が戦ってもですか?」青鉢巻きの一人が尋ねた。  「負ける」動揺が走る。「負けぬために、お前達を早く育てる。早く育てるから、不必 要に多く死ぬ」  ≪爪牙≫が目を青鉢巻たちに向けた。数人が恐怖に負けて逃げ出そうとした。その者た ちは、族長たちの手により、一刀の下に切り伏せられた。<曹沙亜>は直立不動でその場 に立ちすくんでいる。  次々に、≪青い目の爪牙≫の眼光が、青鉢巻たちを貫く。青鉢巻たちの心臓に、突如青 い芽が芽生えた。青い芽は、彼らの血を吸い急速に成長し、青い花を咲かせた。青鉢巻た ちは、干からびて絶命した。  「全員死んだか・・・」≪爪牙≫は呟いた。月組全体に、沈黙が訪れた。 ────────────────────────────────────────  いでの鼻に近い谷の裂に、雪組忍者たちは潜んでいた。≪豪雪≫(ごうせつ)は、月組 忍者たちの会話を遠目から観察していた。この吹雪の中でも、遠方が見渡せる忍者は数少 ない。また、この距離で唇の動きを読める忍者も少ない。  「豪雪様、どういたされました? 顔色が優れぬようじゃ」<紗織>(さおり)が心配 そうな顔で尋ねた。  「いや、何でもない」≪豪雪≫はそのまま口を閉ざした。  兄上が復活。そんな馬鹿な。≪豪雪≫は息を呑んだ。だが、月組がそんな嘘をつくとも 思えない。一体何故兄上が。  「豪雪様、準備が整いました」≪豪雪≫の足元で、雪色のネズミが言葉を発した。ネズ ミは、変身を解き、男の姿に戻る。式神たちが、白色の忍び装束を持って集まり、<風幻 >(ふうげん)の身を包む。  <風幻>ら、城下町からの戻り組との情報交換は、既に終わっていた。城下町の雪組も 劣勢である。早く合流しなければ、各個撃破をされてしまうだろう。先に攻めた方が、戦 の流れをつかみ、利があるということか。急いで合流し、体勢を立て直す必要がある。  手筈はこうである。<風幻>の仕掛けた式神たちが、月組の注意を引きつけている間に、 一気に、月組の裏、城下町側に回り込む。後は、念じ衆たちの吹雪が、雪組の姿を隠して くれる。もし、斬り合いになった場合は、なるべく戦わずに、吹雪に飛び込む。月組頭領 の首が取れそうなら取る。  吹雪は、月組にとっては視界と聴覚を奪う壁であるが、雪組にとっては、慣れ親しんだ 友である。吹雪が雪組を助け、吹雪が月組を封じ込める。  雪組は、雪原に散った。 ────────────────────────────────────────  吹雪の中を、悠々と進む三人の姿があった。雪組先代頭領≪深雪≫と、老人衆の≪氷室 ≫(ひむろ)、そして、≪氷室≫の弟子である<紅松>(べにまつ)である。≪氷室≫と <紅松>の目は暗い。瞬きの必要のなくなった目には、雪が積もっている。眼球を凍らせ ないためだけに、時折まぶたが動かされる。  ≪深雪≫は、世界を満喫するがごとく悠然と進む。≪深雪≫は、≪氷室≫や<紅松>に 現在の情勢を聞き、怪異に落ちていた時間を埋めつつあった。  何人かの影が動くのが見えた。「ふむ、月組の偵察隊か?」≪深雪≫は、既に、最近の 雪組と月組の戦いを、把握している。「紅松、やれ」<紅松>の背を軽く叩いた。<紅松 >が白銀の星となり、雪の中に消える。  月組忍者は、素早く谷の各所に散った。<紅松>は、短刀を取り出し、自分の左手首を 斬り落とした。月組の何人かが、突然のその行為に驚き、動きを止めた。次の瞬間、斬り 落とした手が、生き物のように動き、月組忍者の喉笛に襲い掛かった。紅松の左手が、月 組忍者の喉を絞める。振り払う間もなく、左手首は爆発した。月組忍者が四散する。  <紅松>は、既に雪組地下屋敷で、火薬を補充している。その<紅松>が雪原に転がっ た。足も手もない。口には短刀をくわえている。  忍び寄った腕が、足が、たちどころに爆炎となって、月組忍者の命を奪う。辺りに死体 が転がった。<紅松>は、芋虫のようにその死骸に忍び寄った。黄金蟲の触手が延び、死 骸の中から、体の失われた部分を拾う。再びつなぎ合わされた<紅松>の死体は、吹雪の 中に立ち上がった。  「これは面白い芸だ」≪深雪≫が大笑いをする。「芸に合った名を付けるべきだな」≪ 深雪≫は、一人楽しそうに笑い声を上げた。「よし、式神を使い、死人を奪う鬼というこ とで、今後は式鬼と呼ぼう。氷室よ、こいつの名前は、今後は、しき、だぞ。忘れるな」 ≪氷室≫は静かに頷いた。 「さて、余興も終わった。行くとするか。月組と雪組の衝突という、なかなか見れない出 し物を見逃す手はない。いや、楽しみだ。どれほど、雪が紅く染まるのか。今からとても 楽しみだ」  三人は連れ立って歩いていく。≪深雪≫は、ふと谷の岩壁に眼をやった。壁には亀裂が 走っており、文字のように見える。 「豪雪の娘も、なかなか名が響いているようだな。こんな場所にも名が彫ってある」  ≪深雪≫は、高笑いを残し、その場を後にした。 ────────────────────────────────────────  いでの鼻の吹雪が一段と強くなった。「来るか?」≪青い目の爪牙≫は身構えた。もし 自分が雪組なら、この吹雪に乗じて攻めてくる。  気配を殺した一団が、雪に紛れて移動する。「見物だな」声が響く。その一団は、谷の 上で止まり、谷底を見下ろしていた。≪深雪≫たち一行である  突如、月組の周りで、雪が跳ね上がった。<風幻>の放った式神たちである。月組の忍 者たちの注意が、一瞬そちらに逸れる。その隙をついて、雪組忍者たちは、いでの鼻の先 に回り込んだ。≪爪牙≫だけが、その動きを防ぐべく動いた。 「そこだ」  ≪爪牙≫が刀を振り下ろした。喝という乾いた音がして、刀は弾き返された。≪豪雪≫ である。≪豪雪≫は、吹雪の入り口に立っており、≪爪牙≫の隙を見つけて、吹雪に逃げ 込もうとしている。≪爪牙≫が眼光を発するが、豪雪は、二、三歩動き、その視線を外す。  「くっくっく」谷の上から、見下ろしている≪深雪≫が忍び笑いを漏らす。「まだまだ 若いな。動きが直線的だ。仮にも相手は雪組頭領。そんな単純な攻撃では首は取れんな。 ましてや、弟は、この兄を、奸計にはめ、二十年近く、怪異の中に封じ込めた男。子供に は荷が重いか」  ≪爪牙≫が、≪豪雪≫の動きを追おうとした隙に、頭上から、他の刀が振り下ろされた。 <玖須>(くず)である。≪爪牙≫は、刀で刀を弾き返す。<玖須>は、そのまま、目潰 しを爪牙に放つ。しかし、既に目のない≪爪牙≫には、目潰しは効かなかった。  乱戦の中、≪豪雪≫の手裏剣が≪爪牙≫に放たれた。≪爪牙≫が引く。≪豪雪≫たちは 再び距離を取った。  ≪豪雪≫、<玖須>などの雪組勢は、螺旋を描くように≪爪牙≫を取り囲んでいく。  吹雪の中、雪組忍者の足が雪を舞い上げる。輪が急に狭まった。無数の刀が≪爪牙≫に 向けて突き出された。≪青い目の爪牙≫は、地を蹴り、宙に舞う。新雪はまだ柔らかく、 十分な高さが得られない。  <玖須>が、背中を≪豪雪≫に向けた。「応」と短く唱え、≪豪雪≫は、<玖須>の背 を一気に駆け上がる。≪豪雪≫の体が宙に浮いた。  迫る≪豪雪≫を睨もうと、≪爪牙≫の顔が動く。≪豪雪≫は、裏拳で、≪爪牙≫の顔を 横殴りにした。≪爪牙≫の眼が、≪豪雪≫から逸れる。  素早く≪豪雪≫は、≪爪牙≫の軽い体をつかみ、体重を乗せて地面に落下した。  ≪爪牙≫の体が軋み、口から鮮血が吹き出した。月組から声が漏れる。≪豪雪≫はその まま≪爪牙≫に馬乗りになり、組み敷き、左手で顔を横向きにねじ伏せた。これで青い目 は使えない。  雪組の一党が、月組の前に立ちはだかり壁となる。≪豪雪≫は、体重を乗せて右の拳を 振り下ろした。≪爪牙≫の体に鈍い音が響く。 「うおぉー」  地を震わすような大音声が≪爪牙≫の口から発せられた。一条の青い光が、地を這い、 谷の壁に当たった。谷の壁面に亀裂が走り、亀裂から、青い根が出現し、竜のように地を のたくる。≪爪牙≫の息はだいぶ荒い。  ≪爪牙≫の声に呼応するかのように、谷に咲いた青い花から光が発せられた。先程まで 干からびていた青鉢巻の幾人かが起き上がる。皆一様に貌が蒼白い。唇などは、粉が吹い たように白くなっている。  <曹沙亜>も起き上がった。「体が重い」それが最初の実感だった。四肢の熱が抜け、 まるで岩のように硬くなっている。目の前では、吹雪が轟々と音を立てて舞っている。 視線の先には、雪組の忍者たちがいた。人垣を作っている。その先には、≪豪雪≫と、組 み敷かれている≪爪牙≫の姿がある。  咄嗟に、銃を構えた。火薬も確かめず、念を込めて引き金を引く。吹雪の壁を貫き、弾 が≪豪雪≫に至る。≪豪雪≫の左肩を弾がかすめた。≪豪雪≫の押えが緩む。≪爪牙≫が 素早く、≪豪雪≫の方を向いた。青い光が≪豪雪≫に向かって放たれた。その場には、服 一枚が残され、≪豪雪≫の姿は消えていた。「空蝉の術か」≪爪牙≫は言い捨て、素早く 立ち上がった。 「左」  <曹沙亜>の声が響いた。左に敵がいる。≪爪牙≫は、眼から閃光を横薙ぎに放った。  その下を潜り抜けるように≪豪雪≫が近づき、掌底を打ち込んだ。≪爪牙≫の体が宙に 舞う。「タン」と銃声が響いた。<曹沙亜>の銃から弾が放たれた。≪豪雪≫の膝が折れ る。  雪組忍者たちが、≪豪雪≫の下に集おうとした。<玖須>が、<風幻>が、<紗織>た ちが駆け寄る。≪爪牙≫は、背中から刀を抜き、荒い呼吸を整え≪豪雪≫に迫る。一人の 雪組忍者が、≪豪雪≫の前に立ちはだかった。「女、どけ」≪爪牙≫は声と共に、女を斬 り伏せた。  その女、<銀華>(ぎんが)が斬られたのが、雪組撤退の合図となった。<銀華>の血 が、華のように宙に舞う。宙に舞った血は、霧のように雪組の姿を隠した。血の霧はなお も晴れない。既に、雪組の姿はない。  ≪爪牙≫は、その血の霧の一つをつかんだ。式神だ。式神が主人の死の後も、血を運び、 目くらましを続けている。  「逃げられたか」≪爪牙≫が呟くのと、「危ない」という声が上がるのは、同時だった。 谷の壁面が一気に爆ぜ、雪崩が生じた。月組忍者は、雪崩が起きたのとは逆の谷に、急い で駆け上る。逃げ遅れた者たちが雪崩に飲み込まれて行く。 「爪牙」  <曹沙亜>は、主人であり友である男の下に走った。雪崩の瀑布が二人に迫る。<曹沙 亜>は、戦いで息を荒げた≪爪牙≫に肩を貸し、必死に雪崩を逃れるため、逆の谷を目指 した。  距離が足りない。二人の足元はすくわれ、濁流と化した雪の流れは、容赦なく子供たち の体を流し去ろうとする。 「木の力よ、我らを助けよ」  <曹沙亜>は、必死に祈念した。流れから身を引き上げる縄でもあれば。そう思ったと き、<曹沙亜>の手元から、一本の蔦が谷に向かって伸びた。蔦は、岩壁の枯れ木に絡み、 二人の体を、雪の氾濫から引き上げた。 「この蔦は・・・」 「銃床だな」  谷にぶら下がった状態で、≪爪牙≫が<曹沙亜>に答えた。銃床に枝が生え、蔦が絡み、 上に向かって伸びていた。  「この銃のおかげで何度か命を救われたな」≪爪牙≫が呟く。「確かに」<曹沙亜>が 頷いた。 ────────────────────────────────────────  雪崩はおさまった。月組は再びいでの鼻に集結した。吹雪の壁が厚く、誰も抜けられな い。どうやら、完全に猪槌の里から締め出されたようだ。「小憎らしいことをやってくれ る」≪爪牙≫は毒づいた。抜け道があるはずだ。自分ならそうする。≪爪牙≫は思い、何 人かの下忍を放った。 ──────────────────────────────────────── 「名刀には、名前が必ずある。その銃の名はなんと言う」  ≪爪牙≫は、傍らの<曹沙亜>に問うた。下忍たちが、抜け道を見つけるまで、≪爪牙 ≫は、谷を遮る吹雪の壁を眺めていた。 「名は、特にありません。しいて言うならば、種子島改千八十八番と銘が入っておりまし た」 「名は力を持っている。言霊は、その者の力を左右する。名もなきものは存在危うく、名 強きものは、いよいよ盛んになる。豪雪は、その名の通り強壮の手練であった。名は、そ の者の生き方、死に方を暗示している。その銃に名を授けよ」 「名ですか?」 「そうだ。お前が決めろ。お前の銃だ。名は、親が子に、主人が臣下に授けるものだ。お 前はその銃の主人だ。お前が名を授ければ、その銃も、今以上の働きをするだろう」  <曹沙亜>は考え込んだ。自分が名付けをするなど、これまで考えたこともなかった。 自分は下忍。一生涯、その境遇で終わるものと考え、これまで生きてきた。自分が、臣下 を持つような身分になるなど、考えてきたことなどない。  たとえ銃でも、初めての臣下だ。<曹沙亜>は、しばし考え込んで答えた。  「ちはや。・・・種ちはや」種子島のちはやだ。<曹沙亜>は、銃が微かに喜んでいる ような気がした。  「枕詞だな」≪爪牙≫は、なおも吹雪を見ながら呟いた。「枕詞?」思わず<曹沙亜> が聞き返す。 「千早振る、神世もきかず、竜田川、唐紅に、水括るとは。在原業平朝臣。六歌仙の一人 だ。  千早振るは、強大な力を持つ意から、神を導き出す枕詞。種は木の五行を表す。木の五 行は色は青、五神は竜。生命生まれ出る春を表し、方角は東を指す。五倫は君臣、臣下の 立場なら、主人に良く仕えることを尊しとする。  東方で生まれ、強大な力を持ち、主人に良く仕え、主人の隆盛を助ける者。良い名をつ けたな。曹沙亜」  ≪爪牙≫は難しいことを言う。何だか分からないが、誉められていることだけは分かる。 「良い名だ」と≪爪牙≫が言ってくれた。そして、名付け親の自分を誉めてくれた。いつ のまにか、この銃が大変貴重な銃に思えてきた。 「でも、そんなに難しいことは、覚えられそうもないです」 「人の上に立つ者には、由緒が必要だ。人を納得させる名と言った方がよかろうか。人に その銃のことを聞かれれば、こう答えろ。爪牙も認めてくれた、由緒正しい名前を持った 銃だと。人がお前を見る目が変る。試してみれば分かる」  <曹沙亜>は、≪爪牙≫がなぜそんなことを言うのか分からず戸惑った。  「大切にしろよ。そして俺と共に戦え」≪爪牙≫がニコリと微笑んだ。「はい」<曹沙 亜>は一礼した。  ≪爪牙≫は目をつぶった。青鉢巻たちには、下忍の出身が多い。いつまでも、下忍の心 で働いてもらっては困る。彼らは力を得た。次は心だ。人の上に立つ者の自覚を持たせ、 その術も教えていかなければならないだろう。 ────────────────────────────────────────  吹雪を抜けて、蛇背に至る。霧は、世界を白に変え、その中を白装束の一団が駆け抜け て行く。雪組忍軍たちである。<銀華>を除き、死者はなし。犠牲は最小限で済んだ。  城下町に至った。このようなときの、待ち合わせの場所がある。  つなぎは<五伏>(いぶせ)という初老の男である。白髪混じりの小柄な爺だ。彼は草 である。普段は、町衆として、城下町の住人と化している。<五伏>は、各々の忍者たち に、所定の隠れ家を割り当てていった。手配は既に済んでいる。  忍者たちは、皆町に散った。<五伏>と≪豪雪≫がその場に残る。二人は連れ立って、 町の入り口に向かった。≪豪雪≫は、歩きながら服を素早く変える。商家の旦那にしか見 えない姿になった。二人連れだって歩くと、裕福な商人が町に帰ってきたようにしか見え ない。  関所の兵士に軽く手を振り、さも当然そうに二人は町に入った。並んで歩きながら、口 を動かさずに、≪豪雪≫は<五伏>に語った。 「もしや、兄者が戻ってきたやもしれん」 「深雪殿が?」  ≪豪雪≫と<五伏>は、無言のまま町を歩いていく。建物が、無機的にに二人の脇を通 り過ぎていく。 「あれから二十年近くも経っております。戻りましょうか? あの頃子供だった者や、赤 子だった者も、すでに立派な忍び。それほどの時間が経っております」  二十年。確かにそれほど経っている。≪豪雪≫は、その当時の記憶を手繰っていた。今 ははっきりと思い出せる。まだ、≪豪雪≫が十代の青年であった頃、≪深雪≫が雪組の頭 領であった頃を。 ────────────────────────────────────────  雪が、涙のようにはらはらと落ちる夜だった。  雪組天上屋敷、頭領の間には、雪組頭領≪深雪≫と、その弟≪豪雪≫がいた。部屋は、 京より取り寄せた油で、橙に染まっていた。  ≪豪雪≫は若い。年は十八。この頃はまだ髭はなく、秀麗な顔立ちが貴種を思わせる。 ≪深雪≫は二十三。≪豪雪≫より五つ上。五年前に、父を追い、雪組頭領の座に就く。ま だ、少年だった≪豪雪≫は、兄に付き従い、共に戦い父を殺した。  それから五年。  ≪深雪≫が頭領になってからの雪組は、大きく版図を広げた。月組は鳴りをひそめ、雪 組以外の忍軍は猪槌の里に、いないかの如くであった。≪深雪≫は強い。≪深雪≫には、 強大な神通力があった。父を追った後、地下屋敷の奥の洞窟で得た力であった。  神通力を得てから、≪深雪≫は変った。外見上の変化は、白髪になったことだ。それよ りも大きな変化は、冷酷無比の男となったことであろう。  最初は、頭領になったということで、厳しくことに当たっているのであろうと思った。 確かに初めはそう見えた。≪深雪≫の統率により、雪組の力は強くなったからだ。  しかし、月組が鳴りをひそめると、≪深雪≫の行動に変化が現れた。血を求めるのだ。 月組の血が流されなくなった代りに、雪組の血を求めるようになった。毎夜残虐な行為を 求め、日に一人は命を奪おうとする。それを止めるのは、いつも≪豪雪≫の役割であった。  ≪深雪≫は今、天上屋敷の頭領の間で杯を重ねている。酌をするのは妻、そして、杯に 付き合っているのは≪豪雪≫であった。 「兄者、兄者は変られた。なぜ、このような虐殺ばかりをおこなうのか」  ≪豪雪≫は、≪深雪≫の顔を見ながら声を漏らした。現在、雪組の者たちの口は重い。 今、≪深雪≫にこのような言葉をかけられるのは、実弟の≪豪雪≫しかいない。他の者が 言えば、命はない。 「死を解き明かしたい。それだけだ」  ≪深雪≫は、言葉を吐き捨てた。部屋の隅には、≪深雪≫の正室、≪姫百合≫(ひめゆ り)が小さくなっている。視線を向けた≪姫百合≫を、≪豪雪≫はかなしいと思った。再 び視線を≪深雪≫に戻し、口を開く。 「死は誰もが迎えるもの、死すべきときに死ぬ。それでいいではないですか」  ≪豪雪≫の声が聞こえぬかのように、≪深雪≫は杯を重ねる。≪姫百合≫が、恐る恐る 酌をする。  「千重に会うたわ」≪深雪≫は出し抜けに言った。猪槌城城主≪千重≫(せんじゅう)。 猪槌の里の支配者にして、神通力を極めし者である。≪深雪≫は、雪組頭領として、謁見 したのであろう。「何を話されました」「死についてだ」≪深雪≫は、ここ数日同じこと を繰り返す。そして、時折遠い眼をする。  「千重に不死の法を聞いた」≪深雪≫の声に、≪姫百合≫が体を震わす。 「千重は言うたわ。不死を喰む者は、生を喰むと。もし、不死を得たいのならば、三戒を 守れと俺に言うた。一つ、神通力を極めよ。二つ、俗世との縁を絶て。三つ、時を止め ろ」  「時を止めろ?」≪豪雪≫は怪訝な顔をした。時を止めろとはどういうことであろうか。 「くっくっく。何を不思議そうな顔をしている豪雪よ。簡単なことだ。どんなに不死を装 うとも、周りの者の時が過ぎれば、自然と自分の時も過ぎる。仙人がそうであろう。一人 山奥で生活するか、仙人だけで、仙境を作る。時を止めるには、己の周りの時の流れをも 塞き止めることが必要だ。竜神丹の作り方を世間に撒いたりしてな。  だが、最も大切なことがある。新しい子種を作らぬようにすることだ。子は親を殺す。 我らがそうであったろう。直接は殺さずとも、子の成長が親を死に近づける。  俺の眼に届く、全ての生あるものから、新たな命が生まれぬようにせねばならん。女は 穢れよ」  ≪豪雪≫は、≪深雪≫が何を言わんとしているか、計り兼ねた。 「まずは、我が妻を殺す」  「あっ」と≪豪雪≫は声を上げた。≪姫百合≫が、泣きそうな顔で必死にその場で座し ている。 「こっ、殺してどうするのじゃ、兄者。殺してどうする」 「そのためにの死者操の法よ」  ≪深雪≫が眉を寄せ、口の端を上げた。≪豪雪≫は開いた口が塞がらなかった。その時、 兄を亡き者にする決意をした。 ────────────────────────────────────────  普段人の来ない雪組地下屋敷に、数人の忍者が集まっている。辺りは闇。その闇の中に、 爛々と燃える目が二十ばかり。 「これは、上位討ちだ。分かっているか」  ≪豪雪≫の声が静かに響く。集まっている者には、若い忍者もいれば、老いた忍者もい る。上忍もいれば、下忍もいる。その数約十。 「分かっております。深雪様を倒せば、次期頭領と成られる豪雪様以外、皆謀反人。それ を承知で集まっております。死はもとより覚悟の上」  ≪豪雪≫は静かに頷いた。≪深雪≫を倒すには策がいる。≪深雪≫は神通力の使い手だ。 まともに戦えば勝てない。 「それでは、手筈通りに」  忍びたちは、闇に散った。  ≪豪雪≫も散った。闇を駆ける。  神通力に溺れる≪深雪≫を見て、≪豪雪≫は、遂に神通力を得ることを断念した。神通 力は人の心を狂わせる。しかし、神通力を使うのは人。人であるのならば、勝機はある。 ──────────────────────────────────────── 「豪雪よ。こんな吹雪の夜更けに、谷の奥に呼び付けてどういうつもりだ」  雪組地下屋敷の間近に立つ≪深雪≫が、カラカラと笑う。雪組頭領の血を引く者にとっ て、吹雪はむしろ心地良い。 「兄者。今日限り隠居していただきます」  複数の影が、雪の中より躍り出て、一瞬で≪深雪≫の腹に刀を突き立てた。甲高い音が 吹雪に響く。刀はその切っ先を見事に折られていた。 「我が肉体は金剛。これしきの刃で、貫き通せると思ったか」  ≪深雪≫は、白髪を数本抜き、それを空に放った。巨大な白い虎が十頭ばかり現れ、瞬 く間に、数人が食われる。≪深雪≫は悠然と≪豪雪≫に近づいてくる。数撃打ち合った。 風の中に火花が散る。  二人は谷の上に来た。谷底から、吹き上げるような寒風が舞い上がっている。  「弟よ。我が妻に懸想したか」≪深雪≫が嘲るように笑う。 「兄者。兄者の神通力の五行は金。金を討つのは火。ここには、その火はないと安心しき っているでしょう」  「むっ」≪深雪≫は辺りを伺う。火の神通力の使い手でも隠れているのか。黄金蟲を出 し、体を鎧のように覆う。 「力も、使い方を誤れば身を滅ぼす。浮世を支配するのは力ばかりではないということを お見せしましょう」  轟と突如風が吹いた。ただの風ではない。≪豪雪≫たちが、念を込めて用意した凍風で ある。このために、≪豪雪≫も多くの血を流した。風は凄まじいばかりの冷たさで、≪深 雪≫の体を捉えた。黄金蟲たちが凍り付き、≪深雪≫の動きが完全に止まる。  ≪豪雪≫は、≪深雪≫もろとも谷底に向かって飛んだ。この下には、怪異を用意してあ る。どんなに神通力を備えた者でも、怪異に閉じ込めれば、外から口が開けられるまで出 て来ることは叶わない。  兄弟で落ちるのも悪くない。そう≪豪雪≫が思ったとき、共に戦った忍者たちが、≪豪 雪≫の体をつかんだ。兄だけが崖下に落ちていく。消えるときはあっけない。≪深雪≫は 消えた。 ────────────────────────────────────────  それからしばらくして、兄のことを思い出した。初めは書であった。≪深雪≫は消えた が、深雪の書いた日記は消えていなかった。≪深雪≫が消え、≪豪雪≫は当然の如く、雪 組頭領の座についた。≪深雪≫の代りに、そのまま≪豪雪≫がすげ替えられたようなもの だ。  しかし、時を経るうちに、多くの者が≪深雪≫の痕跡を見つけ、徐々に≪深雪≫がいた ことを知っていった。 ────────────────────────────────────────  それから、二十年近くが経った。  <五伏>と≪豪雪≫は、足袋屋に入った。<五伏>が普段生活を営んでいる商家である。 ≪豪雪≫が軒に腰を下ろす。  「これからどうなさるので」<五伏>が問うた。 「城下町を占拠する」 「今は、月組の忍者が跋扈しております」 「本隊は今、雪の中だ」  <五伏>は静かに頷いた。「主立つ者を集めてきます」そう言い残すと、再び外に出て いった。 ────────────────────────────────────────  吹雪が壁を作る。その迷路の中を抜けて行くと、再び谷に戻ってくる。進んでいるよう な気もするし、進んでいないような気もする。  万字賀谷の吹雪の中を、迷っている女がいる。しかし、まだ自分が迷っていることには 気がついていない様子だ。 「な〜んだ。こんなに簡単に霊薬が手に入るのなら、もっと早く猪槌に来るのだったわ」  <紫>(むらさき)は、吹雪の中を、逸る気持ちを押さえつつ進んだ。きっと、これが 探し求めていた霊薬に違いない。竜神丹の小瓶を抱えた<紫>は嬉しさを隠しきれなかっ た。しかし、雪が強い。  このままでは、行き倒れてしまうかも知れない。こんな可憐な女の子が雪の中で遭難す るなって、ちょっと絵にるわ。そんな自分に酔ってみる。 「一純様。紫が、お薬をお届けできるその日まで、元気でいてください」  人の心配より、今は自分の心配。そんな心の中の声を押し隠しながら、<紫>は、猪槌 の里の外に向かい進んでいった。だが、彼女は道に迷っている。 ────────────────────────────────────────  猪槌城城下町。その辻々に、十六夜の剣士たちが忙しそうに歩き回っていた。手にはそ れぞれ人相書きを持っている。「この顔の女を見た者は、ただちに通報するように。千重 様より、金子を与える次第である云々」町中には、人相書きを持った十六夜の剣士たちが 多数出ている。自然人目にもつく。いざこざもある。 「ふむ、何だ、この人相書きは。罪人か。十六夜総出で探してやがる」  ≪二重≫(ふたえ)は人相書きの一つを懐に押しこんで道場に向かった。先程倒した相 手から奪った紙だ。  話のタネにでもなるだろう。道場には町のあらゆる階層の者たちが集まる、兎角道場の 者は噂話が好きである。≪二重≫は、足取りも軽く道場に向かった。 ────────────────────────────────────────  十六夜の剣士たちは、町のそこかしこにいる。出歩いていればいつかは出くわす。  何を為すべきか見失った≪氷雨≫(ひさめ)は、十六夜の剣士たちに、その人相書きを 見せられた。  顔立ちから、高貴そうな女だと分かる。その顔を見たときに、≪氷雨≫は心が震えた。 「そう、この顔」心の芯では、未だ焦点が定まらない。 「おいおい、姉ちゃん。知っているのかい。教えてくれよ」  ≪氷雨≫は、人相書きを奪い、握り閉めている。人相書きを奪われた十六夜の剣士が、 ≪氷雨≫の体に絡んだ。体に触れられるのも構わず≪氷雨≫はその顔に食い入る。 「・・・いえ、存じません」  ≪氷雨≫は、人相書きを名残惜しそうに手放し、横道に消えた。薄暗い路地裏で、≪氷 雨≫は、式神を放った。 「式神たちよ。あの顔のお方を探しておくれ」  式神たちは、路地裏の角を折れると、忽然と姿を消した。 ────────────────────────────────────────  雷神道場では、相も変わらず稽古の声が響いている。かしましく上がりかまちを抜け、 ≪二重≫は道場に入った。「二重さん」道場の者たちが明るい声で挨拶をしていく。  ≪鍬形≫(くわがた)も≪蜻蛉≫(とんぼ)もいないようだ 「面白い物を持ってきた。十六夜の者たちが、この女を探し回っているようだ」  ≪二重≫はそう言うと、先程奪ってきた人相書きを見せびらかした。門下生たちが、興 味深けに覗きこむ。人相書きに描かれているのは、かなりの美少女である。実物はどうで あろうか。それにしても、このような美少女が、なぜ十六夜に追われているのだろうか。 それは、彼らには分からない。  彼らは、その顔を繁々と眺めていた。  時同じ頃、雷神の道場を出て行こうとする者がいた。両生類のような顔付きをした男で、 名は<厳瑞>(ごんずい)と言う。今朝起きてみると、不思議なことに、横に高貴そうな 女が寝ていた。床は違う。妻ではなさそうだ。この女は誰だ? それが第一の疑問だった。  自分が行き倒れて雷神道場に拾われたのは覚えている。しかし、記憶の所々が抜けてい る。自分が何故行き倒れたのかも合点がゆかぬ。何故だ。 「しかし、この女。見るからに高貴そうだ。使えそうな気はする。金にはなるだろう。誰 もいない今なら売りに行ける。遊郭街にでも売りに行けば懐も暖まる。あそこならば、ど こで手に入れたかも聞かれずに済むだろうしな」  <厳瑞>は、女を肩にかけた。何か、もっと有効な使い道があった気もするが思い出せ ない。「まあ良い。傷も癒えた」<厳瑞>は、こっそりと雷神道場を抜けた。 ────────────────────────────────────────  城下町の死者の数は、衰えることなく増えつづけている。死は、いとも簡単に人をこの 世から消し去る。怪異もそうだ。  ≪火野熊≫は、町を歩きながら思った。人の記憶とは、物に依存する。物に残らぬ記憶 は、人の心から流れ去る。人の心から消えたものは、この世から消える。死はそういう物 かも知れない。 「ななえよ。死はどこから来る」  ≪火野熊≫(ひのくま)は、傍らに付き従う女に声をけかた。返事を期待しているわけ ではない。その女<ななえ>は「あい」とだけ答えた。 「人が世界を作り、世界が人を殺す」  ≪火野熊≫は、町を見渡した。人々が、忙しそうに動き回っている。目を閉じ、もう一 度見る。その光景は、蟻の群れのように見えた。 ──────────────────────────────────────── 「ふう、ふう、ふう」  <厳瑞>は、女の体を抱え、路地裏を走り逃げていた。先程より、式神たちが自分を追 っている。渡るか。そう思い、白銀の光に身を包んだ。一条の光芒がその場を後にした。  別の所で何人かが空を見上げた。銀の光矢だ。<氷雨>は、その到着点がどこかを見定 めていた。「式に追われ、何者かが渡った。あの先に目指すお方は」<氷雨>は、素早く 着地点に向かった。  同じ様にその銀の光を見つめる目があった。 「どうした、ななえ」  ≪火野熊≫が、路上で空を見上げている<ななえ>に声をかけた。「あー」と言い、空 の一点を指差している。渡りか。≪火野熊≫は直感的に思った。忍者共か。捨ててはおけ ないな。  短く合図を送り、≪火野熊≫は<ななえ>と共に走り出した。 ────────────────────────────────────────  着いた先は、武家の屋根の上であった。屋根は瓦葺である。乾いたカラリという音と共 に着地する。  眼前には、猪槌城の威容が広がっている。<厳瑞>は周囲を見渡した。式神はいない。 撒いたか。そう思ったとき、一条の光の軌跡が瓦に落ちた。 「氷雨か」  <厳瑞>は女を肩に乗せたまま身構えた。 「そのお方を渡しなさい」  <氷雨>が刀を抜いた。<厳瑞>は舌を鳴らす。<氷雨>の実力は知っている。刀で打 ち合えば自分が負ける。それに肩には女を背負っている。この女、それほど重要なのか。 <氷雨>が間合いを詰め、刀を振るう。躱せない。二合、三合と打ち合っているうちに、 浅い傷を負った。  さすれば逃げるのみ。<厳瑞>は身を翻し、道に下りた。そこには、髭面の男と、一人 の女がいた。  「見つけたぞ」≪火野熊≫は、短く言うと、厳瑞の肩に手をかけた。動けない。<厳瑞 >の体に、重い鉄塊が乗ったかのように足が震えた。  ≪氷雨≫が道に下りてくる。≪火野熊≫は「ななえ」と短く言うと、<厳瑞>の顔を見 た。どこか両生類を思わせる相貌をしている。この男には魅力がない。部下としては使え ぬな。そう思った。  「この女をお探しで?」<厳瑞>は下卑た笑いを浮かべた。≪火野熊≫に取り入ろうと いう魂胆が見え見えである。  「女よ。この女を知っているのか」≪火野熊≫は、<ななえ>と相対している女に声を かけた。女の目には忠の心が見える。こちらは、部下として使えるやも知れぬ。  <氷雨>は何かを言いかけて口をつぐんだ。知っているのか、知らないのか分からない。 しかし「大切な人」であることには違いない。そう答えた。  ≪火野熊≫は、<厳瑞>の腹に拳を打ちこみ、女を奪った。<厳瑞>が体をくの字に曲 げて倒れこむ。「行くぞ、ななえ」≪火野熊≫は、その場を立ち去ろうとした。「待って」 <氷雨>が後を追おうとした。 「着いて来い。一緒にいる分には、誰も咎めはしない」  <氷雨>は、刀を鞘にしまい、≪火野熊≫の後に従い、歩き出した。 ────────────────────────────────────────  世界が青い。葦の原が茂る半月湖睦月の見える居館に、一人の男が入って行った。既に、 何度月河と万字賀谷を往復したであろうか。まるで韋駄天の様に、東に西に走り回ってい る。  男は<鯨州丸>(げいしゅうまる)である。  カラリと木戸を開ける。中は、質素ながらも数寄を凝らした作りになっている。中では、 <錐鮫>(きりさめ)が、地図を見下ろし待っていた。 「鯨州丸か・・・戻ったようだな」  <錐鮫>は、万字賀谷の地図から顔を上げた。傍らには、城下町の地図も広げられてい る。地図には、彼自身が実際に歩いて調べてきた、様々な所見が記されている。  「報告を聞こうか」<錐鮫>は短く言った。 「大変ですぜ、爪牙が・・・青い目が目覚めやがった」  「そうか、少し早かったな・・・いや、遅かったというべきかな」<錐鮫>は短く笑っ た。鯨州丸の報告が続く。万字賀谷は吹雪、蛇の背は霧。月組は雪の中で立ち往生し、自 分だけは、以前<錐鮫>に教わった抜け道で帰ってきたと。  吹雪という言葉で、<錐鮫>が反応した。「何、もう一度言って見ろ」<錐鮫>の目が 爛と輝く。<錐鮫>の意外な反応に<鯨州丸>は驚いた。  「今の言葉をもう一度だ」<錐鮫>が念を押して言う。 「へ、へえ。蛇背に濃い霧が出ていて、万字賀谷は猛吹雪だったってとこですかい」  「豪雪に何かあったな」<錐鮫>は呟いた。しばし沈黙を続ける。  雪組の頭領の血筋の者に事件が起こったとき、万字賀谷の霧は吹雪に変わる。そして今、 雪組の頭領の血筋は≪豪雪≫ただ一人。地下屋敷にいる≪豪雪≫の身に何か起こったか?  いや違う、今回の吹雪は雪組に都合がよすぎる。ということは≪豪雪≫め、仕組んだな。 <錐鮫>の顔に暗い笑みが浮かぶ。 「鯨州丸、もう一度万字賀谷に行ってもらうぞ」  「へい、次はどんなことをするので?」<錐鮫>にだけは実直なこの男は、姿勢を正し ながら応じた。 「豪雪めが念じ衆を使い、吹雪で、爪牙を谷に閉じこめている。お前はこの念じ衆を叩き 潰し、爪牙らを吹雪から助けてやるのだ。そして、爪牙にたっぷり恩を着せてこい」  「はあ・・・」<鯨州丸>はやや惚けた面を見せた。  「念じ衆はおそらくこのあたりにいる」<錐鮫>は広げてあった万字賀谷の地図に印を つけた。 「今から発てば、豪雪めら雪組が城下町に着いた頃、お前が谷につくだろう。首尾よく念 じ衆を始末したら爪牙に手柄を報告しろ。そして、雪組が城下町に向かったと教えてやれ。 爪牙のことだ。すぐに城下町に向かうだろう」 「了解した。わしの役目は念じ衆の始末と、爪牙を助け情報を伝えることだな」 「そうだ。行って来い」 「大暴れができそうだな」  <鯨州丸>の言葉に<錐鮫>が首を横に振る。「今回は一暴れで十分だ。次はこちらか ら連絡する」<鯨州丸>は一つうなずくと館を立ち去った。  青い野に建つ館に、一人の男だけが残された。<錐鮫>は刀を手に立ち上がる。  「雪組には全滅してもらわねばな。しかし、月組だけが残っては困るのだ」<錐鮫>は、 忍び笑いを口元にためながら、その居館を後にした。 ────────────────────────────────────────  雪と風の壁が、天然の迷路をその谷に作り上げていた。吹雪の万字賀谷。人を寄せ付け ぬ要害。  しかし、そんな迷路にも、抜け道はある。なければ、困る者がいるからだ。その道を巨 漢が抜けていく。月組の忍者、<鯨州丸>である。 「いたな。錐鮫殿の言ったとおりだ」  念じ衆共が、呪詛の音声を一心不乱に上げている。数は多いが、刈るのはたやすい。  <鯨州丸>は背中の棍棒を手に持ち替え、そして駆け出した。<鯨州丸>の棍棒で、一 人目が、言葉も発せず死ぬ。声が止んだ。 「雪組の念じ衆。このわしの手に掛かって死ねることを光栄に思うんだな」  棍棒で次の敵を叩き潰しつつ、反対の手で長刀を抜いた。  その場は、屠殺場と化した。悲鳴が吹雪の中に、か細く聞こえる。  いくぶんか経ち、吹雪の足が弱まった気がした。辺りに静寂が訪れる。白い壁が薄まり、 眼下に月組の一党が見渡せる。  「雪組の念じ衆はこの鯨州丸が討ち取った」<鯨州丸>は勝ち名乗りを上げた。大音声 で、いでの鼻の月組に告げる。  「全軍、雪を追え」≪青い目の爪牙≫が、城下町の前に立ちはだかる白い壁に身を躍ら せた。今度は潜れる。月組は次々と吹雪に向かって飛びこんだ。<鯨州丸>は、素早く谷 から下り、≪爪牙≫の横に付き従った。 「爪牙殿。雪組は月組を吹雪に閉じこめた後、城下町の方へ向かっていきやしたぜ。とり あえず月組本体を吹雪から助けることを優先しやしたが、いそがねえとまずいですぜ」 「ふん。知れたことよ。しかし、相変わらずこちらの優位は動いていない。向こうは本陣 はなく、不慣れな地で作戦指揮を取らねばならぬ。もちろん補給も町から略奪してこなけ ればならない。これまで交易で蓄えてきた財の多くは万字賀谷に置いてあるだろうからな。  それに引き換えこちらは、本陣に豊富な穀倉地帯を擁し、多くの忍者を市中に潜ませて いる。雪組は、袋の鼠だ」  ≪爪牙≫は、誰に語るでもなく声を出した。横では、<曹沙亜>たち青鉢巻がその言葉 を聞いている。「陣容を整え次第、褒美を取らす」≪爪牙≫は<鯨州丸>に短く言い、そ して疾風のようにその場を後にした。 ────────────────────────────────────────  月組の去った後の万字賀谷。谷の空は晴れ始めていた。  辺りの惨状が次第に顕になる。谷には、あちらこちらに、死体が転がっていた。 「まったく、この猪槌ときたら。なんでこんなに血なまぐさいところなのかしら。町の内 にも外にも死体だらけ。怪しげな怪異。馬鹿でかい鉄の化け物。もしこいつらが外の世界 に現れたなら」  <紫>は、迷い迷った挙句、再び万字賀谷の入り口である、いでの鼻まで戻ってきてい た。今は、谷の死体を覗きこみながら、トボトボと歩いている。  もしそうなったら、日本は再び、戦国の世になってしまうのかもしれない。そう思うと ちょっと怖い。でもわくわくするところもある。  そのとき、死体が動いた。いや、死体だと思っていたが、どうやらまだ生きているよう だ。と言っても、相当な重傷を負っている。どうやら、拷問の責め苦を受けたようだ。ほ うっておけば死んでしまうかもしれない。  その相手は荒く息を吐いた。下忍のようだ。<紫>には、あまり品の良さそうな顔には 見えなかった。  そのとき<紫>はあることを思いついた。手に入れた薬の効果がどれほどのものか、試 してみることだ。竜神丹を、この男で試してみよう。  <紫>は、竜神丹の小瓶を取り出した。 「え〜とお、いくつ飲ませばいいんだっけ? まあもったいないから一つだけ飲ませてあ げよう」  <紫>は、薬を無理やり男の口にねじ込んで、竹筒の水を、少し口に含ませてやった。 ────────────────────────────────────────  男はしばらくして目を覚ました。 「ここは・・・」  呆然とした様子で、目の前の女に、ことのあらましを聞いた。そうか、月組の動きがあ ったため捨てられていったか。運が良い。さらに、女に薬を飲まされたおかげで傷も癒え ている。重ねて運が良い。俺はついている。  「あなた、名前は?」<紫>が尋ねた。 「蝉雨だ」  雪組の下忍<蝉雨>は、その後、謝辞を述べた。女は<紫>と名乗った。この女は、命 の恩人だ。それに、猪槌の人間とも違うようだ。  「猪槌の里は、外と比べてどうだ?」<蝉雨>は、<紫>に問うてみた。内の者ならば、 この問いに首を傾げるであろう。 「まったく、この猪槌ときたら。なんでこんなに血なまぐさいところなのかしら。町の内 にも外にも死体だらけ。怪しげな怪異。馬鹿でかい鉄の化け物。外は泰平の世の中なのに ね」  <紫>は愚痴っぽく言った。素晴らしい。外の世には争いがないのか。<蝉雨>は、万 字賀谷の遥か向こうを見やった。  背後で音が聞こえた。雪を踏みしめる音が近づいてくる。<紫>と<蝉雨>は、振り返 って身構えた。<蝉雨>は、その者たちの顔を見て戦慄した。≪氷室≫様がいる。という ことは、あのお方が≪深雪≫様。その場には、≪氷室≫と≪深雪≫、そして今は名を<式 鬼>(しき)と変え、顔を隠している<紅松>の姿があった。  空が次第に晴れ始める。青い天を背に、三人が立っていた。 「式鬼よ、先程のくの一の死体を回収して来い。なかなかの手練だ。捨てるのは惜しい。 雪組の正統な頭領に仕えてもらうとしよう」  <式鬼>は頷くと、<銀華>の死体を回収しに走った。 「さて、氷室よどうするか」  ≪深雪≫は、楽しそうに<紫>と<蝉雨>を見下ろす。<蝉雨>は、全身の毛穴が開く ような恐怖を感じていた。がしかし、<紫>は≪深雪≫の姿を見て、「あら良い男じゃな い」と思っている。絹のような白髪を腰までなびかせ、涼しげな顔立ちで笑みを浮かべて いる。立ち居振舞いも、どこか芝居じみていて、田舎臭さを感じない。京でもこれほど見 目麗しい男はいないだろう。 「深雪様、生者も部下に必要でしょう。死者ばかりでは不都合も生じます」  ≪氷室≫が口を開く。ふむ。と≪深雪≫は頷き、二人に向き直った。 「着いて来い」  ≪深雪≫はそれだけ言った。<蝉雨>は断れない。自分の命が惜しい。<紫>も、谷が 通れないなら、この男についていくのも少し面白いかなと思い始めている。 「連れてきました」  <式鬼>が<銀華>の死体を引いてきた。≪深雪≫が死体に触れる。一瞬黄金色の何か が見えたかと思うと、死体のはずだった<銀華>が動き始めた。  「あら、死んだと思っていたのに、生きかえっちゃった」<紫>は、≪深雪≫を、まる で、医師か何かを見るように見つめて呟いた。 ────────────────────────────────────────  猪槌城の城下町では、最近新しい店がちらほらと見られる。時勢が変わり、環境が変わ れば経済が変わる。それらの新興の店の中に、あゆ屋があった。  鮎の塩焼きを主に出す店である。清水が干上がり、できた塩を使っている。その塩で川 魚の鮎を包んで蒸し焼きにする。添え物として、葱と茗荷を置き、柚子を振る。それを酒 と共に食べる。鮎の油と塩が溶け合い美味い。酒も進む。  ≪蜻蛉≫も、最近はあゆ屋に良く行く。  その店の端で、一人の男が杯を傾けていた。体躯は細身で長身。顔立ちは整っているが、 目つきの鋭さが災いして、近寄りがたい雰囲気を作っている。頬には傷があり、顔立ちの 割に悪人の人相を思わせる。睦月の館を出て、城下町に入った<錐鮫>である。  <錐鮫>は無言で杯を傾ける。蛇背に霧が出た。言い伝えに寄れば、それは猪槌に誰か が侵入した証。その何者かが外から来た者であり、内で何かをする気なら、城下町には必 ず来る。  猪槌の里には、町と呼べる場所はここしかない。だから、必ず立ち寄るだろう。また、 そういった事情に通じている者は限られている。多くの人と交流し、かつ様々な階層の人 間から情報を仕入れることができる者といえば、そう多くない。  <錐鮫>は、かつて城下町で調べた、いろいろな場所、人物の情報を思い出していた。 そのときに≪蜻蛉≫という男のことを調べた。  その父は≪千重≫の御伽衆として食禄を喰み、城下には雷神という道場を持っていた。 今は、その道場を継ぎ道場主となっている。道場は、身分の貴賎を問わず人を入れ、流れ 者も積極的に迎え入れる。自然と情報が集まってくる。また、≪千重≫の下に出仕してお り、城の情報にも通じている。が、それだけの男ではない。  道場では、身分に応じてしか金は取らない。自然、そういう場所だから儲かりはしない。 だが、この男には裏の顔がある。彼が一代で興した油問屋、石神油。その油屋の大旦那で ある。油だけでなく、薬など手広く商っており収入は大きい。客からの情報や噂も、逐一 報告させているらしい。  もう一つ顔がある。遊郭での遊び人としての顔だ。金遣いが派手だ。遊郭の遊興費は誰 よりも多い。しかし、遊郭の油を提供しているのは石神油だ。大きく遊び、遊郭が賑わえ ば、自然≪蜻蛉≫の懐も暖まる。また、遊郭に集まる情報にも通じている。  ともかく情報通である。並の情報屋の知り得ない情報まで、この男の耳には入る。しか し、世間では悪魔で、雷神の道場主で遊び人ということで通している。  その男が最近、良くこの店に来るという情報も仕入れていた。  店の入り口で明るい挨拶の声が響いた。笑いながら≪蜻蛉≫が店に入ってくる。<錐鮫 >は手にした杯を起き、席を移るために立ち上がった。  <錐鮫>は、≪蜻蛉≫の横に座り直し、軽く一礼する。 「蜻蛉殿。貴殿の話をお聞きしたいのだが、一杯おごらせてもらえないかな」  「いやいや、結構」と≪蜻蛉≫は頭を振り、「いつもの」を店の主人に頼んだ。<錐鮫 >が口を開こうとするのを制するように、≪蜻蛉≫が口を開いた。 「最近は、鮎が良いです。酒も良いですが、この店に来たなら鮎を食すべきです」  「鮎ですか」<錐鮫>は苦笑した。自分の手元に鮎はない。 「私は鮎を食べにやってきました。あなたが聞きたい話は、鮎についての話ですか。そう でないのなら失礼。私は、今から鮎を食べるのに夢中になりますので」  ≪蜻蛉≫はそう言うと、店の者が出した酒に手をつけた。暗に<錐鮫>の話を拒もうと している。  「実は聞きたいことがあって・・」<錐鮫>は、率直に聞こうとした。万字賀谷を越え てやってきた者たちの情報を。  それを手で制しながら≪蜻蛉≫は口を開いた。 「一見した所、そなたは侠気のお方ではないようにお見受けする。代わりに私が聞こう。 何のために?」  ≪蜻蛉≫の目には、有無を言わさぬ威圧感があった。  <錐鮫>は、その場は押し黙った。 ────────────────────────────────────────  少し時は戻る。猪槌城天守閣。その窓から、≪千重≫は万字賀谷を見やっていた。階段 を登り、≪火野熊≫が上がってくる。肩には女の体が乗っている。≪火野熊≫は、天守閣 の頂上まで登り、そして≪千重≫に一礼した。 「手に入ったようだな」  ≪千重≫が、涼しげな面を、≪火野熊≫の方に巡らす。部屋の隅には、≪滝川≫(たき がわ)の姿があった。  ≪火野熊≫が、女の体を床に横たえた。滝川がその上に立つ。≪千重≫が腕を振るうと、 ≪滝川≫の姿が、女の体の中に吸い込まれていった。一時して、女の体が動き出した。  女が立ち上がった。部屋に香気が満ちる。女の姿は、艶やかに輝き、その一挙手一投足 が、部屋に花の香気を振りまいた。 「火野熊よ、この者は、今後ゆきひめと名乗る。ゆきは人が死ぬ、逝き。ひめは、秘事の、 秘め。二つの字を当てて、逝き秘め。外には言葉の音だけを伝えよ。言霊が解ければ術も 解ける」 「分かりました。ゆきひめですね。記し方を聞かれればどう答えましょう」  ≪火野熊≫の問いに、≪千重≫はしばらく万字賀谷の方を見続けて、そして答えた。 「雪姫」と。また、≪千重≫は、全ての者に≪雪姫≫を見せ、そして我が妻とする旨伝え るように指示を出した。 「まずは、雪姫を下で十六夜の者共に見せよ。我が妻とする旨を徹底するのじゃ」  ≪火野熊≫は、≪雪姫≫と共に部屋を出た。≪火野熊≫が部屋を去った直後、≪千重≫ は闇に姿を変えた。「再び開いたか」≪千重≫はそれだけ言い残し、再び黒衣をまとい、 闇の中の部屋に戻って行った。 ────────────────────────────────────────  <氷雨>は、十六夜の詰め所で≪火野熊≫の帰りを待っていた。≪火野熊≫はすぐに戻 るであろうと言っていた。なぜか不安が残る。大丈夫であろうか。あの女性のことが気に なる。  「おい、皆の者集まれ」≪火野熊≫の大きな声が詰め所に響いた。部屋に、≪火野熊≫ と共に、美しい女人が現れた。みんな息を飲んだ。詰め所が、一瞬のうちに法悦の境地へ と変わった。花の香りが大部屋を包む。  「このお方は、千重様の妻となるお方だ」≪火野熊≫の声と共に、部屋にどよめきが起 こる。≪火野熊≫は言葉を続けた。 「名は、雪姫と言う」  その言葉を聞いたときに、<氷雨>は全てを思い出した。涙が頬を伝う。≪雪姫≫様。 私がお仕えするお方。<氷雨>は、その場で進み出て、両の掌を床についた。 「どうか、私に雪姫様のお世話をさせてください」  そう≪火野熊≫に懇願した。女を世話する女官はこの城にはいない。「良いだろう」≪ 火野熊≫は快諾した。  雪姫は、部屋の全ての者に、一人ずつ声をかけて回った。詰め所の者たちは、この若き ≪千重≫の妻に心を奪われた。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- 今回の結果 ■神通力の獲得 ゲームが進んでいく中で、キャラクターは「怪異」(超常的な不思議な現象)に巻き込ま れることがあります。キャラクターは「怪異」に出会うと、「五行の神通力」を身につけ ることができます。どの五行の神通力を身につけたかはマスターから宣言します。 曹沙亜:系統能力 五行の神通力+1 ■能力の成長 ゲームが進んでいく中で、特に成長の認められる行為をおこなったキャラクターは、プレ イヤーがマスターに申請してください。プレイヤーからの申請によって、マスターはキャ ラクター能力の上昇を認めます。 ■負傷 キャラクターは、マスターより負傷段階を宣言されることがあります。負傷には、重症、 致命傷、能力減退の3種類があります。 大矢野一郎:重傷より回復 ■アイテムの獲得 キャラクターは、マスターよりアイテムの獲得を宣言されることがあります。アイテムは、 通常の行動の中で使用することができます。 紅松:黄金蟲 銀華:黄金蟲 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■第7話「満月」本編 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  遊郭街の入り口には、門柱の上部に横木を渡しただけの冠木門がある。その大門を抜け ていくと、右手には四郎兵衛会所がある。そこでは番人が遊女の逃亡を監視している。  遊女が大門を出るためには抱え主から許可をもらい、通行を認めた切手を所持する必要 があった。一般の女もまた茶屋の発行する切手がなければ大門をくぐることはできない。 しかし、その掟の外にある者たちも遊郭街にはいた。花組忍者たちである。  彼女らは、無論大門から出入りはしない。しかるべき場所から出入りする。  遊郭街の奥には、寂れた一角がある。その場所は、過去に忌み事があったという理由で 閉鎖されている。その場所には、その忌み事を沈めるためという名目で寺が一つ建ってい た。  一般の者は入ることはできない。遊女のみが参拝を許される寺である。名を東慶寺とい う。鎌倉にある縁切寺の東慶寺と同じ名である。しかし、ここは遊郭街。夫を持った女は 無論駆けこむことなどできない。それに、この寺は縁切寺などではない。名は誰がつけた か知らぬが、目的は一つ。花組が外との行き来に常用する抜け道のある寺であった。  この寺、背中合わせにもう一つ寺がある。この寺の名も東慶寺。こちらは、正真正銘の 縁切寺である。名は、誰かが鎌倉の東慶寺にあやかりつけたに違いない。  この二つの東慶寺は、庭にいくつか抜け穴があり、つながっている。無論花組忍者しか 知らない。縁切寺の東慶寺にいるのも、花組の息のかかった者たちである。夫から逃げ、 子連れで東慶寺に来た女などは、子供が神隠しに会うこともしばしばある。  寺という顔で子供を預かり、その子はもう一つの東慶寺に回される。遊廓の東慶寺。そ の東慶寺の地下。  地下には、洞窟が走っており、その洞窟は扇屋や、その他の花組忍者のいる見世に続い ている。扇屋の地下には、連れてきた幼子を篭絡するための牢がいくつかあった。  その牢に、一人の少女が入れられている。東慶寺で引き取られ、そのままここに連れて こられた少女である。この所の忍者たちの戦いで、多くの遺児たちが、寺に引き取られて いた。 「なかなか気の強い娘です。花扇様。まったく食事をとりません」  見張りをしていた老女が、すまなさそうに≪花扇≫(はなおうぎ)に報告した。≪花扇 ≫は、人好きのする笑顔でコロコロと笑った。それぐらい気が強い子の方が、将来が楽し みだと微笑む。  ≪花扇≫は戸を開け、少女の待つ牢の中に入った。  ≪花扇≫は、少女の横に座る。少女は無反応だ。「お母さんが死んじゃったのね。怖かっ たわね」そう言い、優しく両の腕で少女を包み込む。少女の体から悲しみが伝わってくる。  しかし、少女に変化はない。  駄目だわ。気が強いのではない。悲しみと恐怖で心が閉じてしまっている。≪花扇≫は、 少女の頭を優しく撫でてやった。  花組では、近隣の農村や東慶寺などの寺社から、多くの女児を集めてくる。そして、忍 びとしての修行を積ませる。禿から新造になるまでに、十人の内九人が死ぬ。新造から花 魁になれるのは、さらに十人に一人程度である。  集められた少女たちは、まず、花組の一員として洗脳される。忠実な花組忍者となるた めである。洗脳には薬を使う。  しかし、≪花扇≫は、薬を使うのを避け、なるべく術を使い子供の心を洗脳していた。 ≪花扇≫の言葉、仕草を見ているうちに、自然と催眠状態に陥る。さらに、五感を駆使し、 相手の心を開かせ、記憶を上書きする。薬と違い、精神に異常を来すことも少ないし、体 を壊すことも少ない。  余談だが、禿の死亡率の三割が薬のためである。また、大人の記憶を消すには、致死量 を越える薬が必要になる。この薬の量を間違い、多くの禿が死んでいった。≪花扇≫に託 された子供は幸せと言えるかもしれない。それだけで、死亡率が三割減る。 「あとは私に任せなさい。人払いをするように」  ≪花扇≫は、牢の外に声をかけた。牢番の老女は、鍵を開けたままその場所を離れた。  ≪花扇≫は、少女の様子を見た。この調子では、初めだけは薬を飲ませた方が良さそう だ。ただし、自分では飲めそうもない。≪花扇≫は、懐から一枚の懐紙に包まれた丸薬を 取りだし。自らの口に含ませた。そっと少女の顎を上げ、唇を優しく重ねた。少女の喉に、 丸薬が流れ込む。  少し経ち、少女の顔が上気してきた。先程とは違って、輝かせた瞳がキョロキョロと忙 しげに動いている。  「貴方は誰。それにここは」少女は、なおも目を忙しげに動かしながら、≪花扇≫に問 うた。 「私は花扇。貴方のお姉さんよ。ここは私達の家の地下の部屋」  「お姉さん。私は誰なの」少し不安げな顔をして、少女が≪花扇≫に尋ねた。≪花扇≫ はしばらく考えて、「貴方は、そうねえ、明日香という名前よ」と答えた。「あすか」少 女は反芻するように、その名前を呟く。  「貴方は明日香。私の妹であり、私の禿。私の命令は絶対。あなたは、これから、私の 忠実な下僕になるのよ」≪花扇≫は、菩薩の様に微笑んだ。  そうだわ。<魅遊>(みゆ)に紹介する禿はこの娘にしましょう。必要な能力はありそ うだし、何より、<魅遊>の好みに合いそうだし。 ────────────────────────────────────────  石神油の本店は城下町の東、月河のほとりにある。この地は、鈍砂山からの油の輸送が 容易であり、かつ、油の一大消費地である遊郭街にも近い。店を出すには万事都合が良い。  また、のれん分けを許された支店は、城下町の各所に散らばっており、ここでは、油や 薬の小売がなされていた。  <魅遊>はその、石神油の本店で働いている。本店は、いわば問屋である。主に遊郭街 用の油が大量に蓄えられている。  <魅遊>は普段から遅くまで起きている。静かな夜に仕事をするのが好きだった。薬の 研究もはかどる。文献を盗み見るのも容易い。また怪異を探すために式神を放つこともあ った。  しかし、この数日は騒がしい夜が続いている。  もう夜が明けようという頃、石神油の戸を叩く者がいた。 「誰か、起きているなら開けてくれ」  その声が≪鍬形≫(くわがた)のものであることに気づいた<魅遊>は戸を開けた。 「おお、魅遊さんか。すまぬが薬をもらえぬか。怪我人を拾ってしまった」  ≪鍬形≫が支えている男は、ぐったりとして、意識がない。  「見たところ忍者のようですが、よろしいのですか。忍者など連れ込んで」<魅遊>が 怪訝な顔で尋ねる。  「実のところあまりよくはない。このことは他言しないでくれ」≪鍬形≫が申し訳なさ そうに<魅遊>に頼む。 「それなら人目につくとまずいですね。いそいで奥へ。今、薬と湯を用意しましょう」  薬が効いたのか、運ばれてきた男はじきに目を覚ました。男は<三畳>(さんじょう) と名乗った。<三畳>は≪鍬形≫と何か相談をしているようだ。かすかに黒鬼がどうのこ うのと言っている様だった。 ────────────────────────────────────────  部屋には油の灯が灯っている。石神油でも、雷神の道場と同様に油は自由に使える。た だ、店の夜に灯をつけている者はそれほどに多くはない。本を読んでいる者か、不寝番を している者程度である。  ここでは、誰にも咎められずに油が使える。もちろん、外への持ち出し、盗みは重罪で ある。  <三畳>が意識を取り戻したとき、部屋には≪鍬形≫のみがいた。部屋は油の灯で明る く照らされている。<三畳>の体には包帯が巻かれていた。  傷跡に薬が染みる。重傷を追った<三畳>は、≪鍬形≫の手により石神油の本店に連れ 込まれ、手当てを受けていた。  ≪鍬形≫が<三畳>に語りかける。 「意識を取り戻したようだな、そば屋」 「へい。鍬形様。以前も助けていただきました。この礼はいつか」 「礼などいい。俺のことは忘れよ。雷神の鍬形が月組と雪組の乱闘に手を出した。これが どういうことを意味するか、判るだろう」 「雪組と月組の戦いに、雷神も巻き込まれ、血みどろの戦いになるでしょう」 「そうだ。そして罪もない者の血が無駄に流れる。俺に恩返しする気があるなら、黙って いてくれ」  <三畳>は考えた。≪鍬形≫という御仁は優しいお方だ。<樹羅>の敵討ちさえなけれ ば、何かお手伝いしてもよいのだが。そうだ。  「どうでしょう。私が貴方の身代わりをするというのは」<三畳>は、我ながら妙案だ と思い、提案した。「今宵、貴方が行ったことは、全て私とその仲間が行ったことにすれ ば良いのです。つまり貴方以外の何者かが今宵の犯人になればよい。雷神は何もしていま せん。どうでしょう」  ≪鍬形≫は考え込む。 「たしかに、今宵の俺は般若の面を付け、黒鬼と名乗った」 「ならば、私も般若の面をして、黒鬼と名乗りましょう。時を同じくして、別の場所に鍬 形様がいれば、ああ、あれは別の誰かか。ということになりましょう。もっと上策は、覆 面をしていない貴方を襲い、返り討ちにあった振りをする。これで、貴方と黒鬼は対立す るものであると、思わせることができましょう」 「前の案はともかく、後の案は無茶だ。いや、前の案もそなたに危険が伴う。今は、ただ 寝ているが良い。傷は浅くはない。養生しろ」  ≪鍬形≫は、慌てて<三畳>の提案を否定する。  「月組は私の妻の敵。実際、今宵の死者の幾人かは私が作ったもの。たいした違いはあ りません」<三畳>の目に、狂気の光が一瞬灯る。 「そうか、決意の程は判った。だが、ともかく傷を治せ。傷が癒えたときに、改めて頼む ことにしよう」  ≪鍬形≫は、<三畳>の提案を曖昧に濁す他なかった。 ────────────────────────────────────────  ≪鍬形≫は、石神油を出た。部屋に帰って寝るにはもう時間が遅い。雷神道場に行って、 そのまま明けるまで横になるとしよう。  夜道を雷神道場まで急ぐ。道すがら、≪鍬形≫は、昔のことを思い出していた。  ≪鍬形≫十五歳、≪蜻蛉≫(とんぼ)十歳。二人は五歳ほど年が離れている。  ≪鍬形≫は、雷神道場の奉公人の息子であったが、≪蜻蛉≫の父、≪螳螂≫(かまきり) にその才を見出され、剣士としての修行を積んでいた。≪蜻蛉≫も同じく道場で修業を積 む。しかし、≪蜻蛉≫は剣を持たせては、からきし弱かった。  ≪蜻蛉≫は、道場主の息子だけあって、腕は立つ。しかし、人を相手に打ち合いをする と、どういうわけだか必ず負ける。喧嘩をしても必ず負ける。その当時、≪鍬形≫は、≪ 蜻蛉≫の兄の様な立場であったため、その度に喧嘩の加勢に入ったものだった。 「あの当時から、人の争いに首を突っ込む癖は抜けていないようだな」  ≪鍬形≫は苦笑せざるを得なかった。三つ子の魂百までと言うが、案外そうかもしれな い。子供の頃から、やっていることは、全て繰り返されるような気もする。ただ、今は、 子供の頃と違って喧嘩の規模が違う。用心に用心を重ねた方が良い。  しかし、どういうわけか、この胸の高まりは戦いを望んでいる。  俺は、道場の師範代か。いや、剣士である。心の中で、自分の立場と本心との葛藤が始 まっていた。 ────────────────────────────────────────  城下町の南。この地は、つい最近までは、清水での漁を中心とした港町であった。早朝 には、威勢の良い、魚取引の声が響き、水揚げされたばかりの魚が飛ぶように売れた。し かし、清水が干上がって以来、この辺りは寂れている。自然、犯罪も多く、空き屋も多い。  ここに廃寺がある。すでに、名も分からぬ程に荒れている。人が隠れるには、格好の場 所である。≪明光院≫(めいこういん)たち一党は、この廃寺に入っていた。  ≪明光院≫は、一人庭に出て待っていた。すると、一条の銀光が城下町の真上に来て止 まった。しばらくして、一羽の梟が廃寺に下りたって来た。梟は、先程まで、鈍砂山で≪ 真鉄≫(まてつ)たち一党を見張っていた。  「ご苦労」≪明光院≫は短くねぎらった。  梟は、スタスタと明光院の前まで歩み出て、口を開いた。どうやら、この猪槌の里にも、 怪異の研究を行っている者がいると知ったのは、少し前の報告からであった。名は≪真鉄 ≫。恐ろしく切れる。兵器も作る。奇想天外な兵器ばかりである。  前回の報告では、「巨鉄兵なる兵器を作っている」と聞いて驚いた。怪異が動力源らし い。古今東西、怪異を動力源に使うなどと言った話は聞いたことがない。  梟は、姿を人の姿に戻していた。名は<金梟>(きんぶくろう)。通り名である。本名 は捨てて久しい。目がクリクリと大きく、髪は白い。日中は真鍮製の遮光器を付けている。 梟に変身せずとも、その容貌は梟を彷彿とさせる。  ≪明光院≫は、手に持っていた服を投げてやった。<金梟>は、煩わしそうに服を着た。 「巨鉄兵は動いていた。身の丈は三十間、全身鉄でできており、岩をも砕く破壊力。動き は、並の剣士より早く、駆ける、跳ぶができる。操縦者の名前は山嵐、操縦者がいなけれ ば動きは止まる。早晩、巨鉄兵は千重に納品される」  そこまで言い終わり、<金梟>は服を着終えた。「着く前に攻めた方が得策だな」≪明 光院≫が相槌を打つ。しかし、今回は巨鉄兵を待つ。≪真鉄≫という男、一度会ってみた い。 「後、真鉄には妻と子がいる。妻子は、常時鈍砂山にいる」  「ふむ」≪明光院≫は頷いた。なるほど。≪真鉄≫個人には、その手が使える。 「寝る」  そう言うと、<金梟>は庫裏に入って行った。≪明光院≫は空を見上げた。そうか。朝 が明けるか。≪明光院≫は、しばし夜明けを待った。 ────────────────────────────────────────  鈍砂山。夜明け頃。≪真鉄≫の工房の地下室では、二人の男が佇んでいた。<土亘> (どせん)と≪真鉄≫である。薄暗い部屋の中には、≪真鉄≫考案の、様々な拷問道具や 処刑道具が、所狭しと並べられている。  なぜ、こんな物を作ったんだと、怪訝な顔で<土亘>が聞く。人の恐怖と死について興 味があったからだと≪真鉄≫は答えた。  手を固定して、五指の爪の間に鋭い鋸を刺す機械。人間を身体ごと固定し、回転刃で、 足元から徐々に輪切りにしていく装置。人間の外側を最小限にしか傷つけず、肋骨を次々 に切断していく器具。腸に、焼けた鉛を流し込む道具。  機器は、どれも手入れが行き届いていないのか、薄汚れている。  <土亘>は、それらの道具の使用方法を考えただけで、吐き気を催しそうになった。  ≪真鉄≫が一つの扉の前で足を止めた。扉を開けて中に入ると、部屋には何もなく、た だ一つ、足元に鉄製の扉があった。≪真鉄≫がその扉を開ける。何やら、血糊だか、錆だ か分からない染みが、鉄の扉の裏側にはついていた。 「この中に飛び込めばいいのか?」  怪訝そうな顔をして<土亘>は≪真鉄≫に尋ねた。扉の下には、石で作られた洞穴が口 を広げている。  「本当に大丈夫なんだろうな?」<土亘>が念を押す。  「くどいぞ。生き死には最初から保証していない。おまえが決めたことだ。こっちはや めても良いのだぞ」≪真鉄≫は面倒臭そうに答える。  「ええい。ままよ」そう叫ぶと<土亘>は穴に飛び込んだ。底は思ったほど深くはなか った。鉄の扉までは、自分の背の二倍少し。重苦しい音と共に、≪真鉄≫は鉄の扉を閉じ た。  鉄の扉に、錠を下ろす。水が漏れないように、念入りに目張りをする。水漏れが起こる と、また妻がうるさい。  ≪真鉄≫は壁にいくつかある板のうちの一つをおもむろに押した。すると≪真鉄≫の足 元で、水の流れる音が聞こえてきた。しばらく後に絶叫が聞こえる。どうやら<土亘>の 声らしい。暗闇の中の水は、想像以上に恐怖心を煽る。しかし、これもすぐに水の音によ ってかき消されてしまった。 「生きていれば、神通力を得ているだろう」  そう呟くと、≪真鉄≫は猪槌城へと赴くため、この地下室を後にした。 ────────────────────────────────────────  猪槌城城下町の西、雷神道場。外から来た人間たちの多い、雑多な家屋が建ち並ぶ場所 に、雷神の道場はある。  夜明けが近い。  道場の庭で、竹刀を振っている者がいる。雷神の門下生、<東雲>(しののめ)である。  汗が夜気で湯気を立てる。  またあの夢を見た。深い霧の中で、兄の姿が見える。<東雲>が、兄の名を呼ぼうとす ると、霧は闇と変り、兄を食らう。  この夢を見たときは、決まってその後寝付けなくなる。そんなときは、汗を流して、深 い眠りに落ちるに限る。汗が頬を伝って落ちた。ふと、先日の≪花扇≫(はなおうぎ)の 汗の臭いを思い出した。まるで、華のようなあの匂い。あの後、兄の姿が少し明瞭になっ たような気がする。 「気は済んだか」  入り口から声がかけられた。≪鍬形≫の声だ。見慣れぬ黒装束に身を包んだ≪鍬形≫が、 <東雲>の様子を伺っている。 「師範代。申し訳ありません。騒がしかったでしょうか」  <東雲>が少年のような甲高い声で答えた。「そんなことはない」と、≪鍬形≫は頭を 振る。  「眠れないのか」≪鍬形≫が近づいてくる。竹刀を立てかけながら<東雲>は言葉を捜 していた。  心の内が、まだ良く整理できていない。≪鍬形≫が間近に近づくまで待ち、<東雲>は 口を開いた。 「ここにいることが夢なんじゃないかと思えて。ときたま眠るのが怖くなるんです。おか しな話ですよね」  汗をかき、上気しているはずの東雲の顔が、なぜだか青ざめて見えた。「ばかもん」と、 ≪鍬形≫が<東雲>の頭を叩いた。 「い、痛い。なにするんですか」  「夢じゃあないだろう?」≪鍬形≫は<東雲>の頭に軽く手を置いてやりながら言った。  だいぶ明るくなった。≪鍬形≫はそう思った。  最初、道場に来たときには、やせ細り、自分の名を言うのがやっとだった子供が、よく ここまで明るくなった。≪鍬形≫は、<東雲>の頭を軽く撫でてやりながら道場に入って 行こうとした。  「子供扱いはやめてくださいっ」<東雲>は頭に置かれた手を振り払いながらどこかほ っとした顔になっていた。  <東雲>と≪鍬形≫は、道場に入った。道場の中の灯かりに照らされた≪鍬形≫を見て、 <東雲>は、その服に血がついているのに気づいた。  「あれ、師範代、怪我をなさってるんですか」<東雲>が怪訝そうに聞いた。  忍者どもを切って捨てたときについた返り血だ。しまった、道場に入る前に洗うべきだ った。≪鍬形≫は渋面を作る。 「怪我なぞしておらん、心配するな」  ≪鍬形≫は板間の上で服を脱いだ。<東雲>は足先から頭までを舐めるようにじっと見 て、何か言いたげにこっちを見ている。さっさと寝るに限る。 「も、もう寝ろ。一汗かいたのならぐっすり眠れるだろう」  ≪鍬形≫は<東雲>の背中を押して道場から追い出そうとした。追い出された<東雲> は振り返り、≪鍬形≫に言った。 「その黒装束、明日洗濯に出してください。そうしないと血の臭い、取れなくなりますよ っ」 「分かった。分かった。血のことは、誰にも言うな」  「もちろんです」<東雲>は小走りに廊下に消えていった。≪鍬形≫は、その小さな背 中を見送りながら横になった。さて、どうすることやら。 ────────────────────────────────────────  夜が明けた。陽は町を荘厳に照らし、町の景色を一変させた。つい先程まで、この地で 血生臭い殺戮劇が繰り広げられていたとは到底思えない。  朝の時分、客が引けた頃、<魅遊>は≪花扇≫に呼び出され、扇屋に出向いた。部屋に は、≪花扇≫と小さな子供がいる。  「約束の禿はこの娘ね。まあ、かわいい」<魅遊>が、うっとりするような目で、子供 を見やる。  「あら。そういうつもりは、ないんじゃなかったのかしら」と、≪花扇≫が楽しそうに 言う。「もちろん、そうだけど。でも、かわいいわね」<魅遊>は嬉しそうに、禿を自分 の方に引き寄せた。まったく、昔から子供に弱いのだから。  「ねえ。約束は三日だったけど。二日にしない」≪花扇≫が、<魅遊>に提案する。< 魅遊>が驚き、「それではあまり探索できないわ」と抗議の声を上げる。 「その代わりに教えてあげる。最近、十六夜が清水に向かったわ。目的は、」 「もしかして、怪異」 「十六夜の若い衆が色里で話していたことをまとめると、そうなるかしら」  そのとき、≪花扇≫は、≪蜻蛉≫の古くからの友人のことを思い出した。怪異について 知りたいのなら、あの人に会わせてあげれば良いかもしれない。うまくいけば、禿を貸さ ずにすむかもしれないし。 「そういえば、蜻蛉さんが、今晩辺りに、真鉄さんがここに遊びに来るかもしれないって 言っていたわ。あの人なら色々知っていると思うわ。蜻蛉さんが昔から、この世の中で、 分からない現象があれば、真鉄に聞けばいいって言っていたわよ。どう? 貴方も会って 見る」  ≪花扇≫は、心の中で「会ったことがあるかも知れないけどね」と呟いた。石神油のも う一人の創設者が≪真鉄≫だ。≪蜻蛉≫は販売担当、≪真鉄≫は生産担当と言える。 「え。でも蜻蛉さんに見られたら、困るわ」  「お化粧すれば、ばれないわよ。でも、もしかしたら口説かれて、伽に呼ばれるかもね」 ≪花扇≫は、人の心をとろかす声でコロコロと笑った。 「う〜ん。じゃあ、ちょこっとだけ」  好奇心には耐えられず、<魅遊>は≪花扇≫について、見世に出ることを承諾した。 ────────────────────────────────────────  廃寺の庭に、≪明光院≫の一党たちが整列していた。既に夜は明けている。万字賀谷を 抜ける行軍の疲れも十分癒えたようである。一人、≪明光院≫だけは、夜を徹して起きて いた。しかし、疲れは微塵もない。  ≪明光院≫の前に、四人の若者が進み出た。 「明光院様。猪槌の里を攻める先陣。我らに任せていただきたい」  「ふむ」≪明光院≫は、その者たちの姿を見た。≪明光院≫の一党には、方々で拾って 育てた異能の者が多い。一人は名を<寿羅>(じゅら)という坊主頭の男。いま一人は名 を<修羅>(しゅら)という武士。そして、<吉野秀華>(よしのひでか)という女剣士。 <鴉問>(あもん)という異能の武人。  皆それぞれに腕は立つ。 「四人でどうやって町を落とす」  ≪明光院≫は、四人に問うた。「火をもって」と<寿羅>が答えた。≪明光院≫は露骨 に嫌な顔をする。火攻めに良い思い出はない。火は、歴史を、文化を、芸術を焼き尽くす。 ろくなものではない。  そもそも、今回の任務は、猪槌の里を支配下に置く、もしくは破壊しろというものだ。 何も攻め滅ぼすばかりが能ではない。疲弊させ、奪うことの方が易が大きい。  しかし、この者たちにも、異能の者たちとの実戦を積ませておくべきだ。今後の役に立 つ。何より、望むことをさせた方が働きも大きい。  外の世界では、異能の者は少ない。自然、彼らは奢っている。最後の詰めで、わしが手 を下せば良い。 「よし、行け」  ≪明光院≫は、促した。負ければここに戻ってくるであろう。三人が北の市街へと散っ た。一人だけ、<修羅>が残った。 「どうした、修羅。お前は行かぬのか」 「はあ。実は、先程の戦闘で鉄砲をなくしてしまい。私は鉄砲しか能のない男ですから」  <修羅>は、申し訳なさそうに頭を掻いた。鉄砲をもらうまで、てこでも動かないつも りらしい。 「誰か貸してやれ。よいか修羅、次は無くすなよ。数は少ないんだからな」  ≪明光院≫に銃を手渡され、<修羅>は大喜びしながら、玄関から外に走り出ていった。 「あいつは、大丈夫だろうか」≪明光院≫の心に、一抹の不安が残った。 ────────────────────────────────────────  火の手は、城下町の南から上がった。南には、小さな家屋が密集して建っている。自然 火の周りも早い。また、風が災いした。その日、南方より乾いた風が吹きつけており、火 の手は勢い良く広がった。  城下町の南方に、赤い壁ができはじめる。その火の間を駆け回っている者がいた。≪明 光院≫の一党の<寿羅>である。火種を持った式神を従え、町を縦横に駆け巡っている。  火は、次第に大きく膨れ上がり、町に炎の海を作り始めた。 ────────────────────────────────────────  十六夜の詰め所に急使が入った。≪火野熊≫(ひのくま)は、その急使から、城下町の 南で火事が起こったことを聞いた。すぐに向かわねばならないだろう。  この時代の消火は、破壊消火である。火が広がらないように、先回りをして燃えそうな 建物を片っ端から壊す。燃え移る物のなくなった火は自然に鎮火する。  普段、≪千重≫(せんじゅう)が面に出てきているときならば、火など一瞬で消し去る。 しかし、また奥に引きこもってしまった。  ≪火野熊≫たちが、破壊消火に出て、火を消すしかない。≪火野熊≫は、周りの者に指 示を送り、自分もすぐに出られるよう支度をした。  詰め所を出ようとした≪火野熊≫に、女が声をかけた。十六夜の女剣士<双沙>(そう しゃ)である。城下町の東の富家の娘である。 「あの、火野熊の大親分。郎蘭はどこにいますか」  先日≪火野熊≫に付き従い出かけた後、<郎蘭>の姿を見ていない。≪火野熊≫は帰っ ているのだから、こちらの詰め所にいるだろうと尋ねてきた。≪火野熊≫は、出がけに引 き止められたために、ことさら短く答えた。 「死んだ」  そして、手下たちを引き連れて、街の大路に駆け出した。男たちが、手に手に破壊道具 を持ち、詰め所から出て行く。<双沙>は、その様子を呆然と見送った。にわかには信じ られない。しかし、≪火野熊≫は、こんなことで嘘をつくような男ではない。ならば真実 か。  <双沙>は、その場でしばし佇み、そしてトボトボと屋敷に帰っていった。 ────────────────────────────────────────  地震の様な音と共に、城下町に、巨大な人影が近づいてきていた。その人影の上には、 ≪真鉄≫と<山嵐>(やまあらし)が乗っている。≪真鉄≫は遠眼鏡を取り出し、町の様 子を眺めていた。  「真鉄殿。町の向こうが赤いようですが、どうしたんでしょうね」<山嵐>が、巨鉄兵 を操縦しながら、隣の≪真鉄≫に聞く。  「どうやら、町の南側が燃えているようだな」≪真鉄≫は、無愛想に答えながら、遠眼 鏡を離した。今朝、鈍砂山を経ってから、だいぶ経ったが、巨鉄兵は順調に動いている。  しかし、あの火はだいぶ大きい。何やら一騒動ありそうだ。  「巨鉄兵の能力を、試すには良いかもしれん。山嵐よ、少し急ごう」そう言うと、≪真 鉄≫は再び遠眼鏡を覗き込んだ。 ────────────────────────────────────────  永久の暗闇が、世界の全てであった。闇。闇。  <銀狼>(ぎんろう)は、闇の中で、半ば失いかけた意識を必死に止めようとしていた。 時の流れを一切感じない。百年この中にいる気もすれば、一瞬のような気もする。酷く憂 鬱だ。だが、何者かがいる気配もする。  その場所には、確かに何者かがいた。  いた。幾千の時を経た過去から、そして、これからも。闇の中には、見えない怪物がい る。  <銀狼>は、先ほどから、この闇の中に、規則的な律が流れているのを感じていた。そ れは、風とも言える物であった。  もし、止まった時の中に、止まっていない物があるのなら、それは変化の兆し。そこに 行けば、ここから出られるやもしれない。  闇をかいた。泳ぐようにかいた。少しずつ先に進む。手にはまだ壷があった。未だ、何 者かがいた。見られている。向こう側の何者かが<銀狼>に追いつこうとしているような 気がした。<銀狼>はひたすら逃げた。 ────────────────────────────────────────  城下町の南では、炎が激しく燃え盛っていた。「片っ端から壊せ」≪火野熊≫の檄が飛 ぶ。十六夜の面々は、手に手に槌を持ち、建物を破壊していった。  その十六夜の剣士たちが何者かに襲われている。「この糞忙しい時に」≪火野熊≫は、 目を血走らせながら刀を抜いた。何者かは知らんが、この火の中で消火の邪魔をする奴は、 素性が知れている。火をつけた奴等だ。  「狩りを始めるぞ」≪火野熊≫たち一隊が、混乱する火事場に踊り込んだ。 ────────────────────────────────────────  炎に煽られるように飛び出す者たちがいた。南に潜み隠れていた忍者たちである。その 忍者を狩る者たちがいる。≪明光院≫の一党たちである。 「この調子なら、数刻で町は落とせる」  屋根の上、燃え盛る炎を背に、黒い外套をまとった男、<鴉問>は呟いた。 「確かに、この調子なら、皆殺しにできるわね」  やはり、≪明光院≫の一党である、女剣士<吉野>が応ずる。町の火は強い。この火に 煽られて出てきた忍者を、田の稲を刈るように葬る。町人も狩る。造作もない。  二人がその場を離れようとしたとき、地を割るような咆哮が発せられた。「何だ」<鴉 問>が振り返る。そこには、左肩に、膿んで盛り上がった傷を負った大男が立っていた。 「人の眠りを妨げてくれたんだ。それ相応の代償を置いていってもらおうか。その命で」  その男、<禍丸>は口元を卑しい蝦蟇のように広げた。  「ふん、猪槌の忍者か」<鴉問>が銀の光となり、<禍丸>の背後に回り込む。背後に 回り込み、渡りを解き急所を狙う。<禍丸>が面倒臭そうに拳を振るった。<鴉問>の体 がくの字に曲がり、口から血を吐く。  「女か、久しぶりだな」<禍丸>は、舌なめずりをして、<吉野>に近づいた。その背 後から、再び<鴉問>が銀の光となり、<禍丸>に体当たりをする。今度は、<禍丸>が 血を吐く番であった。 「お前達か犯人は」  怒鳴りながら、屋根を上がってくる人影があった。≪火野熊≫である。≪火野熊≫の後 ろからは、大勢の十六夜の剣士たちが続く。さすがに、多勢に無勢である。分が悪い。  屋根の上にいた者たちは方々に散った。 ────────────────────────────────────────  少し時は戻る。この日の朝。雷神道場。  門下生たちが朝の稽古にやってくる足音で、≪鍬形≫は目を覚ました。門下生たちの朝 の挨拶を受ける間に、新しい服を着て、前日の服は洗濯に出す。  その様子を<ジョン・義理>(じょんぎり)が子細に眺めていた。  今日、道場に来る途中、町の者たちが騒いでいた。「黒鬼という奴が忍者を狩っている」 朝の時点では、噂はまだ、一人の黒鬼が忍者を狩っていたことになっていた。昼頃には、 黒鬼党と、複数になるのだが。  ジョンは考えた。そんな腕を持っている者は、そう多くはない。忍者たちを、次々に殺 していけるような腕を持つのは、≪二重≫(ふたえ)か≪鍬形≫ぐらいのものであろう。 何より、斬っている数が尋常でない。  ≪二重≫は、絶対に夜は部屋から出ない。  残るは≪鍬形≫。「師範代」そう言い、<ジョン>は、≪鍬形≫に近づいた。耳に口を 当て、小声でささやく。 「人斬りですかい。血の臭いが残っています」  ≪鍬形≫が渋面を作る。<ジョン>は、読みは当たったと思った。自分に都合が悪いと きの≪鍬形≫の癖だ。それが本当なら、師範代の夜の活動を止めないといけないだろう。 火の粉が雷神道場全体に降りかかってくるやも知れぬ。  <ジョン>は、≪鍬形≫の動きを待つことにした。 ────────────────────────────────────────  雷神道場。朝の稽古を終えた門下生たちが朝餉を食べ終わった頃、十六夜の<植刃> (うえば)が、道場に現れた。 「邪魔するぜ」 「ああ、植刃さん。今日は来るのが遅かったですね」  ≪二重≫のしごきについて行ける。それだけで、<植刃>は雷神の門下生達に一目置か れるようになっていた。と同時に<ジョン・義理>などに、手合わせを頼まれることも多 い。だが、彼とは戦わないようにしている。  困ったものだ。十年前なら。剣客になる夢を持っていたあの頃なら。彼らと友達になる のも良かったろうに。と思ってしまう。  <植刃>の立場は、微妙なところである。彼は未だに、十六夜に籍を置いている。飯に は食い逸れないし、寝る場所も得られるからだ。しかし、昨日、今日と、日を置かず、雷 神道場に通っている。朝から晩まで雷神道場にいるので、ほとんど雷神の門下生と変わら ない。だんだん≪二重≫の稽古にも慣れてきた。≪二重≫のほうも「しごきがいのある男 だ」と、喜んでいる。  今日も来た。しかし、今日は別の用もある。≪火野熊≫に命じられて、似顔絵の女を捜 していた。まあ、あまりやる気もないが。  <植刃>としては気の進まぬ仕事だが、行かねば十六夜から叩き出される。だから、適 当に探した振りをして、≪二重≫に稽古をつけてもらうつもりで来た。  「ふむふむ。この道場に若い女はいないか? うむ、やはりいないようだ」と言いなが ら、朝餉の輪に入る。「何ですか。その独り言は」<東雲>が聞きとがめる。「いや、い や気にしないでくれ」<植刃>は味噌汁を口に掻き込んだ。 「まあ、野暮用だ。さあ、二重さんを呼んでくれ」  「それが、今日はあいにくと出かけてますよ。ふらふらと外に出かけたみたいです」門 下生の一人が答える。 「何だ。そうか、じゃあ。一人で稽古でもするか」  「まあ、いつものことですから」門下生の一人が涼しい顔で答えた。≪二重≫は時々ふ らふらと外に消える。そういうときは決まって帰りは昼頃になる。 「何だ、何だ。朝っぱらから、女探しかい。道場なんかで探しても駄目だ。もっと相応し い場所で探さないとな」  大欠伸をしながら、≪蜻蛉≫が朝食を食べに現れた。<東雲>は珍しいと思った。だい たい、朝に出てくることなどほとんどない。  「今日は何かあるんですか?」<東雲>が聞いた。≪真鉄≫が来る。なので、一足先に 遊郭で遊んでおいて、悔しがらせてやるとのことだった。「植刃もどうだ。確か好きだっ たな。なんなら憧れの扇屋にでも行くかい」≪蜻蛉≫が愛嬌のある顔で微笑んだ。  「ほ、本当ですかい。それなら、どこまでもお供しますぜ。どこか肩か腰でもお揉みし ましょうか」<植刃>がもみ手をする。 「そうと決まれば、早い方がいいな。今なら、まだ花扇も暇を持て余しているだろう。さ あ、遊びに行くか」  「へえ、花扇さんの所に。でも、そろそろ寝る時間じゃないんですか」<植刃>が心配 そうに聞く。  「はて」≪蜻蛉≫が小首を傾げる。「花扇が寝ているところは見たことがないなあ」  二人は、そんな話をしながら、道場を後にした。 ────────────────────────────────────────  部屋の中の男女が忽然と消えていた。<東雲>は、廊下の奥で、≪鍬形≫にことの次第 を報告していた。顔は半泣きである。  「分かった。分かった。泣くな泣くな」≪鍬形≫が、<東雲>をなだめながら、話を聞 いてやる。「泣いていません」という<東雲>の顔には、涙がうっすらと浮かんでいる。  「まあ、元々拾ってきただけの怪我人だし、治ったから出て行ったのだろう。別段問題 はない」しかし、最近は事件が多い。身の回りにしても、雑多なことが多すぎる。まあ、 気に病んでも仕方がない。なるようにしかならない。  ≪鍬形≫は、どうにか<東雲>をなだめて、再び道場に戻った。≪二重≫が来て、道場 の隅で横になっている。<植刃>が<蜻蛉>と共に扇屋に行ったと聞いてふてくされてい るのだろう。  案の定、≪二重≫は暇そうに欠伸をしている。  「二重。そんなところで寝ていると、顔を踏まれるぞ」≪鍬形≫が、暗にきちんとしろ と言った。  「二重さん。顔を踏まれないで下さいね」<東雲>も心配そうに声をかけた。≪二重≫ は、ばつが悪そうに置き上がった。暇そうな顔で、稽古の様子を見ている。まるで、猫み たいだ。<東雲>は、≪二重≫の様子を見てそう思った。  取りあえず、≪二重≫の横に、ちょこんと座る。 「東雲、最近あまり道場で顔を見ないが、そんなに雑用があるのか? 何でもおまえがす ることはないんだぞ」  ≪二重≫は、髪を指で弄びながらそう言った。≪二重≫なりに、<東雲>のことを心配 しているようだ。 「そんな事ありませんよ。二重様こそ、植刃さんが来てから、妙に稽古熱心ですね。あん なに稽古をしている二重様を初めて見ました」  熱っぽく語る<東雲>の目を、≪二重≫がじっと見ている。その美しい顔立ちと、澄ん だ瞳に見つめられているうちに、<東雲>は、何だか顔が赤くなった。≪花扇≫のことを 少し思い出した。何となく、扇屋の遊女たちに似ている。慌てて、その考えを打ち消そう と口を開く。 「でも、今日は稽古をしていませんね」 「眠い」  そう言うと、≪二重≫はうとうとし始め、<東雲>の肩に頭をもたれかけさせ、すぐに 寝てしまった。≪二重≫は、昔から、満月が近くなると良く眠る。感情の起伏も大きくな る。そう言えば今日は満月だ。  <東雲>は、そっと≪二重≫の髪に指を触れた。まるで小猫のようだ。そう思った。< 東雲>は、かつて、≪蜻蛉≫が≪花扇≫のことを語っていた言葉を思い出した。「男にと ってはな、女を尊敬するのが惚れるってことなのさ。逆に女はな、男に母性愛を持つのが 惚れるってことだ。男は立つ瀬がない。男は、何歳になっても、女にとっては子供扱いっ てことだからな。だから俺は、花扇には、めいっぱい甘える」女にとって、男は子供。≪ 二重≫の寝顔は子供のように可愛い。<東雲>はそう思った。  <東雲>が≪二重≫の寝顔を見ていると、玄関の方で、うるさく声が聞こえてきた。 ────────────────────────────────────────  玄関の戸を激しく叩く者がいる。≪鍬形≫は、不機嫌な顔で面に出た。ここ最近顔を見 ていなかった瓦版屋が表にいる。そばかす顔の女瓦版屋の<観影>(みかげ)である。こ の瓦版屋が来ると、ろくなことがない。  それは、当然だ。事件があるたびに来ている。自然、≪鍬形≫もこの<観影>が来ると 不機嫌になる。 「あー、蜻蛉はんか鍬形はん居られます? 観影です。話聞かせてもらえまへんやろか?」  「話はない」≪鍬形≫が仏頂面で答える。「そんなこと、ありまへんやろ。鍬形はんの 話、ほんに楽しみにしていたんでえ」と<観影>が微笑む。≪鍬形≫は憮然としている。 女の相手なら、≪蜻蛉≫が居れば良かったのにと悔やむ。  ≪蜻蛉≫がいれば、酒を飲ませに連れて行って、一晩は帰ってこない。≪鍬形≫は、そ の方が気が楽だ。  <観影>は、そんな≪鍬形≫の考えなどお構いなしに話を続けた。 「鍬形はん、こないだ万字賀谷が開きおったのをきっかけに、この城下が物騒になったや ないですか。ほんで、この道場にもわんさと人が詰めかけてさわぎになったって聞いてお りますえ。  そこで、ちょちょっと鍬形はんがどんなことを考えておるか聞かせて欲しいんですわ」  <観影>が明るく微笑む。 「いや、何も小難しいことは言わんでも結構です。みんなが安心できるような、頼もしい お話などを一つ聞かせて欲しいんですわ。忍者なんか、俺が全て倒してやるとか。それで うちの瓦版が引き締まるんですわ。鍬形はん、どうかお頼みもうしやす」 「知らん」  ≪鍬形≫は、憮然と答え、そのまま奥へと消えていった。 「あれれ、困ったお人。蜻蛉はんか、二重はんがいるときにくれば良かった」  <観影>は、軽い足取りで次の訪問先に向かった。 ──────────────────────────────────────── 「それでな、真鉄と初めて会ったときは、たがいに遊郭街で遊んでいてな」  ≪蜻蛉≫と<植刃>が連れ立って、城下町を西から東へと歩いていた。二人の足取りは 軽い。それぞれ、遊郭での思い出話などを語り合いながら歩を進めていた。 「蜻蛉さん、ありゃあ、火事じゃないですか」  <植刃>が、南の空を指差した。炎が上がっている。城下町の南は、半漁半商の小家屋 が多い。家屋が密集して林立しているだけに、一度火がつけば、全て燃えてしまうことが 多い。  扇屋が心配だなと≪蜻蛉≫は思った。遊廓街は、城下町の南東にある。火の侵入を防ぐ 結界は張っているが、必ず大丈夫だとは限らない。火勢によっては、火が回ることもある。  「急ごう」≪蜻蛉≫は歩を早めた。≪蜻蛉≫は、小走りに道を進みながら、≪花扇≫と 出会った頃のことを考えていた。 ────────────────────────────────────────  ≪花扇≫に初めて会ったのは、二十年ほど前であった。その頃≪蜻蛉≫はまだ少年。場 所は猪槌城の城内であった。  猪槌城の城主≪千重≫には、話し相手として何人かのお伽衆がいた。お伽衆は、皆有名 無名の知識人であり、千重より禄をもらい生活の庇護を受けていた。  そのお伽衆の中に、≪螳螂≫という武士がいる。武人であり、町中に道場を持っている ほどの腕前だが、文物に非常に明るい。  剛の者を好み、また学者を好む≪千重≫は、≪螳螂≫との親交深く、よく城内に呼び、 共に酒を酌み交わしていた。その席に、≪蜻蛉≫もよく同座した。この少年は聡い。≪千 重≫と≪螳螂≫の話を黙って聞いてはいるが、全て理解している。そのことは≪螳螂≫も 分かっており、この少年を敢えてこの席に毎回連れてきていた。  部屋では、≪千重≫が招きよせた遊廓街の女たちが舞いを踊っている。女たちは、一流 どころのみを呼んでいる。最も繁昌している扇屋の一番≪花扇≫、二番≪滝川≫(たきが わ)らの花魁もその中にいた。≪千重≫は、特にこの女たちの中で≪滝川≫を愛でていた。 「ところで螳螂よ。お前の息子の蜻蛉だが。文物には聡いようだが、武の道はどうなのか。 お前の後を継ぐ者だ。わしも気になる」  若く晴れやかな姿の≪千重≫が、≪滝川≫の酌で酒を飲みながら語り掛ける。≪螳螂≫ は、≪花扇≫の酌を受けながら答える。 「いえ、それが武の道は暗く困っております。道場も、蜻蛉は経営のみに専念させ、師範 代は、鍬形という者に継がせようと思っております。蜻蛉には、剣の才がない」  そのやり取りを、≪蜻蛉≫は無言で聞いている。いつからこういうことになったのか、 しかとは覚えていない。  木刀で、憎くもない相手を叩くのは好きでない。そういう思いが≪蜻蛉≫の剣をなまく らにした。父は、息子の才はないと断じ、以前ほどの愛情を注がなくなっていた。最近で は、父と席を共にするのは、≪千重≫との酒肴のときだけである。それ以外のときは、≪ 鍬形≫と共にいる。  ≪螳螂≫と≪千重≫の享楽の声が一際高くなる。話題は≪鍬形≫の剣の才についてであ った。 「すみません、少し席を外させていただきます」  ≪蜻蛉≫は、厠に立つ振りをして席を立った。厠には行かず、そのまま城の中庭に出た。 ────────────────────────────────────────  庭では、深緑の葉が輝いていた。目にまぶしい。  心地よい光のぬくもりが、≪蜻蛉≫の心の棘を和らげる。≪鍬形≫は嫌いではない。む しろ尊敬している。父のことも尊い父だと思っている。しかし、なぜこんなことになった のであろうか。分からない。  武の道も身につけたい。しかし、できれば人を傷付けずに済む武術がよい。 「申し」  庭に面した廊下から、女の声が聞こえてきた。少年の≪蜻蛉≫は、その声に振り向く。  そこには、先ほどまで父の杯に酒を注いでいた遊女がいた。確か名は≪花扇≫。女は、 微笑を浮かべながらその場にたたずんでいた。  「何か、用でしょうか」≪蜻蛉≫は、沈黙に耐え切れず口を開いた。なお、≪花扇≫は 口を開かない。≪蜻蛉≫は、困り果ててしまった。 「何か、悩みがあるのなら、私が聞いてあげるわよ」  ≪花扇≫は少年に微笑んだ。≪蜻蛉≫は、どう答えてよいものやら戸惑った。そのとき、 庭の茂みが音を立てて動いた。驚いて、≪蜻蛉≫が離れる。  「庭に隠れて待つのもだいぶ疲れた」茂みからは、≪鍬形≫が出てきた。手には二本の 木刀を持っている。「さっき、蜻蛉を殴った奴等を叩きのめしてきた」≪鍬形≫が得意げ に言った。城に忍び込んで大丈夫なのかと≪蜻蛉≫が慌てると、≪螳螂≫の忘れ物を届け に来たと言うと、すんなり通してくれたと答えた。≪鍬形≫が得意そうに鼻をすする。 「鍬形、仕合をしたい」  ≪蜻蛉≫が意を決したように言った。≪鍬形≫は、無言で木刀を一本≪蜻蛉≫に投げた。 「お止めなさい」≪花扇≫が、≪蜻蛉≫の袖を引く。≪蜻蛉≫が木刀を上段に構えた。  ≪鍬形≫が勢い良く地を蹴って踏み込んだ。≪蜻蛉≫の木刀が一撃で折れる。木刀の破 片が飛び散り、≪花扇≫が声を上げる。  ≪鍬形≫は再び距離を取った。すぐさま、≪鍬形≫は、≪蜻蛉≫めがけて飛び込む。雷 神の踏み込みである。  ≪蜻蛉≫が避ければ、≪花扇≫に木刀が当たる。≪蜻蛉≫はその場に踏みとどまり、両 手を交差させ、木刀を受け止めた。≪蜻蛉≫の両腕の骨が、鈍い音を立てて折れた。  「大丈夫か」≪鍬形≫が、驚いて木刀を下げる。「気が済んだ」と≪蜻蛉≫。「泣かな いなんて、男の子ね」≪花扇≫はそういうと、折れた木刀を拾い、着物の袖を裂き、添え 木を当ててくれた。  それから数日、≪螳螂≫が逗留している間、≪花扇≫は≪蜻蛉≫の世話をしてくれた。 彼の腕の代りに、その手で細やかに世話をしてくれた。≪鍬形≫は、済まなさそうに謝っ ていたが、そのうち謝るのにも飽きたのか、町に喧嘩をしに消えていった。  その頃の≪蜻蛉≫は、知識では遊女というものを知っていたが、それがどういうものだ か分からなかった。あれから、約二十年。今は、暇があれば、≪花扇≫のもとに日参して いる。 ────────────────────────────────────────  火は、遊廓街まで達していない。  来る道すがら、十六夜の者たちが、破壊消火をおこなっているのが目に入った。石神油 にも結界を張っている。まあ大丈夫であろう。金がなく、結果を張れない家は、こういう ときに脆い。  ≪蜻蛉≫と≪植刃≫が扇屋に着いたとき、≪花扇≫の姿はなかった。言づてを受けてい ると、新造が代りに挨拶をおこない、「少し用があり、客が来ております、すぐにこちら に向かいます」と伝えた。 「花扇さんは留守みたいですね」 「いや、すぐこちらに来るという話だ。待たせてもらおう」  <植刃>の言葉に≪蜻蛉≫は応じた。その頃、≪花扇≫は扇屋の別室にいた。 ──────────────────────────────────────── 「じゃあ、魅遊。支度はできた?」  ≪花扇≫が、<魅遊>を着飾りながら、楽しそうに言う。  「さあ、行きましょう」≪花扇≫が立ち上がる。<魅遊>が慌ててその後を追う。二人 は、≪蜻蛉≫たちの待つ部屋へと向かった。 ────────────────────────────────────────  酒肴が運ばれてくる。  「今日は真鉄さんといらっしゃるかと思っていたのに」≪花扇≫が、≪蜻蛉≫の杯に酒 を注ぎながら言った。「それは失礼したな」と<植刃>がむくれる。「でも、たくましい お方も素敵」と≪花扇≫は<植刃>を喜ばせる。 「ところで。真鉄さんって、この前は、怪異を拾いに来たの」  ≪花扇≫が、<魅遊>のために、怪異の話を振る。「ああ」≪蜻蛉≫が応じる。「本当 はな、怪異なら千重様の方が手に入れやすい。しかし、千重様に、怪異をくれとは言えん だろう。だから、真鉄さんは清水まで、怪異を拾いに行った」  「千重様は、怪異と関係が深いのですか」<魅遊>が声を発した。  酒の席だと前置きしておきながら、≪蜻蛉≫は答えた。「猪槌で最も怪異に触れたこと があるお方だ。昔、真鉄が言っていたよ。人とは思えんと」  酒を飲み、≪蜻蛉≫と≪植刃≫が酔いつぶれた頃、夜になった。男共は、あられもない 痴態で床に転がっている。「くぅ〜。美代ちゃん、ごめん。花扇さんは格が違うよ」<植 刃>の寝言を残し、≪花扇≫は部屋から消えた。 ──────────────────────────────────────── 「お待たせ」  夜。  忍び装束に身を包んだ≪花扇≫が、扇屋の屋根に立った。傍らには、花魁や、土蜘蛛た ちがはべっている。  城下町の南では、下火になってはいるが、いまだ炎は燃えている。その炎をぼんやりと 見ながら、雪組忍者<氷柱>(つらら)は答えた。 「いや、俺は、少し遅れて行かせてもらう」  「同じ猪槌城が行き先なのに。一緒にいらっしゃればいいのに」≪花扇≫が微笑みかけ る。<氷柱>は黙った。  これまで、上からは、花組の存在すら知らされてなかった。組織というものは、そうい うものである。下忍は、何も知らされずに働かされる。≪滝川≫が≪千重≫の下にいる。 しかし、それが一体どういう意味を持つのか、<氷柱>は思い出せずにいた。  ≪花扇≫たちが、東慶寺へと消えていった。確かに、出世への切り札を探していたはず だ。それを≪滝川≫が盗んだ。下忍から、一気に頭領の座まで駆け上がれるかもしれない 切り札。それが思い出せない。  何かがおかしい。からくり人形は、一つの歯車が欠けても、動きがままならなくなると いう。以前聞いた話だ。何か世の中の歯車が突如一つ消えてしまったような気がする。自 分も突然消えてしまうかもしれない。そんな予感に体を震わせた。  夢から覚めると、自分がいない世界で、全ての日常がこれまで通り繰り返されている。 そんな恐怖が<氷柱>の心を襲った。そう感じたのは自分だけではない。なぜかそう思っ た。何かが近づいている。  額の傷がうずいた。幼き頃、反抗的だった<氷柱>をいさめるために、中忍につけられ た傷だ。  傷の痛みに我を取り戻し、ふと空を見た。淡く光る満月が浮かんでいる。  <氷柱>は、北西にそびえる猪槌城を見やった。微かに城に霧が出始めた。そろそろ良 い頃合いか。<氷柱>は、屋根を蹴り、猪槌城へと向かった。 ────────────────────────────────────────  霧が、猪槌城の視界を遮る。まるで霧は、真綿のように、地面を這い、視界を遮ってい た。その猪槌城の城壁を警護する影一つ。  十六夜の剣士、<鎌井>(かまい)である。二刀の太刀を佩き、霧の中をゆるゆると歩 いている。  暗闇に、獣のような声が聞こえた。霧の中から、複数の影が現れた。小柄な黒装束の者 たちと、剛毛に覆われた両手両足の長い人型の獣たち。<鎌井>は腰の刀を抜き放つ。  「あら、警備の方がいらっしゃったのね」心地よい女の声が聞こえた。小柄の黒装束の 忍びである。<鎌井>は少し戸惑った。その声の主が近づいてくる。 「待て、ここは通さん」  <鎌井>は、刀の峰を相手に向け打ちかかった。黒服の女人の掌がすっと伸びる。刀の 横を撫で、ゆるりと避ける。刀が、堀の中へと弾き飛ばされた。女は、そのまま、逆の手 を<鎌井>の腰にあてがい、右足で<鎌井>の足を払った。  <鎌井>の体が宙に浮く。黒服の女の指が<鎌井>の額に触れようとした。<鎌井>は、 残った刀を、女の額めがけて振った。女が後ろに下がる。黒装束が裂け美しい顔が覗いた。 ≪花扇≫である。  その美貌に、<鎌井>は一瞬見とれた。  「千重様を倒しに行くのか」背中から新たな刀を抜き、気を取り直して<鎌井>は問う た。 「もし、そうなら?」  ≪花扇≫は、恋する乙女のような顔つきで<鎌井>に答えた。  「千重様を倒しに行くのか」<鎌井>は、再度念を押す。 「ええ、争うことになるでしょう」 「ならば、協力したい」  <鎌井>の意外な申し出に、≪花扇≫は一瞬驚く。だが、≪花扇≫は理由は問わない。 「それじゃあ、ここを通してくれるの」  ≪花扇≫は、一歩踏み出そうとする。 「いや、今は千重は猪槌城の奥にいる。しかし、必ず表に出てくる日がある。数日後、千 重は、雪姫という女人と婚礼をおこなうらしい。千重は、そのときには必ず表に出てくる。 そう火野熊さんから聞いた。そのとき殺るのが良いだろう」 「そう」  ≪花扇≫は呟いた。≪滝川≫が戻ってきたと聞いて、本当に生き返ったのだろうかと不 思議に思っていた。幽霊なのかもしれない。その疑念があった。  ≪千重≫が新たな女を妻に迎えるという。新たな肉体を得た≪滝川≫か。ならば、多く の者に存在を認めさせ、その存在が真実となるように、人目にさらすのが呪の理。  多くの者が、呼び戻した死人をひたすら隠し、最後には消え去らせてしまう。  しかし、≪千重≫は違う。自ら呪を完成させるために、盛大な挙式を上げるだろう。確 かに、その時が好機。わざわざ、猪槌城の中で戦う必要もない。 「そなた、名はなんと言う」 「寺羽流、鎌井」 「覚えておきましょう。もし私に会う用があれば、扇屋までいらっしゃい。あなたの名前 を出せば、上がれるようにしておきましょう」  ≪花扇≫たちは、踵を返した。霧の中に女と獣が消える。その姿を<鎌井>は見送った。 ────────────────────────────────────────  同刻限。猪槌城に、一人の雪組忍者が潜入した。<氷柱>である。目指すは≪滝川≫の 姿。猪槌城に侵入して既に一刻。未だその姿を見つけることができない。  どこに行った。焦りが募る。残るは、≪千重≫の居室ぐらいしかない。できれば、あそ こは立ちよりたくない。命あっての物種だ。  <氷柱>は、猪槌城の屋根に出た。月の明かりが煌々と照っている。満月である。淡い 光が、世界を包んでいる。  突如城が揺れた。続け様に揺れた。霧の中に、巨大な人影が見えた気がした。  あれは何だ。<氷柱>は、その者の姿を見定めようとした。その人影は、滑るような速 さで南へと消えていった。  <氷柱>の背後、猪槌城の≪千重≫の居室の辺りでは、糸のように細い光が、無数に空 に向かって伸びていた。 ────────────────────────────────────────  火の見櫓に座り、彼女はそれを観ていた。瓦版屋の<観影>は、遠眼鏡を片手に持ちな がら、風のような速さで進んでいく巨大な人影を見た。 「うわぁ、これはすごい。巨人、猪槌の里に現れる」  これは、瓦版に載せる良い素材が見つかったと、喜びながら、<観影>は、その巨大な 人影の後を追った。 ────────────────────────────────────────  兄の死で、全ての世界が変った。雪組の忍者<白梅>(しらうめ)は、万字賀谷を離れ、 城下町に隠れ潜んでいた。いや、正確には、そうやって、忍びとしての生活を捨てたいと 考えていた。  しかし、時勢がそれを許さない。  白の羽織に短い裾の着物。まだ幼さの残る少女<白梅>は、まだ万字賀谷を抜けてきた ままの格好で町をうろついていた。自然、月組忍軍に狙われる。また、≪明光院≫の一党 にも襲われていた。着替える暇もない。  <白梅>は、荒い息を上げ、短い髪を汗で濡らし、必死にかけた。わらじ以外、履くも のもなく、足元はあらわである。さらけ出しているすねや、ももには、細かな傷がついて いる。まだ子供の肉には、汗が、血が滲んでいる。  道の端に追いつめられた。 「へっへっへ。お嬢ちゃん。大人しく、俺たちの物になりな」  月組の下忍たちが、下卑た笑い声を上げた。男の中には、涎を垂らしながら、<白梅> の、あらわな足元を凝視している者もいる。怖いよ、お兄ちゃん。<白梅>は、その場で 震えた。  突如地が揺れた。続けざまに揺れた。地震かと思った。それにしては、やけに規則的だ。  地震が止んだ。  月組の下忍たちの顔が青ざめ、<白梅>の頭の上あたりを見ている。 「真鉄殿。どうしますか?」 「決まっている。女を助けんでどうする」  <山嵐>は、取っ手を素早く動かした。<白梅>の頭上がいきなり暗くなる。そうかと 思うと、急に、巨大な塊が目の前に落ちてきて、月組の忍者たちが潰された。地面がズシ ンと震える。 「大丈夫か」  頭上から、≪真鉄≫の声が響く。<白梅>は、口をポカンと開けたまま、その巨大な人 型を見上げた。  頭が急に後ろ向きに折れ、中から二人の男の姿が見えた。  「乗りなさい」≪真鉄≫が<白梅>を促す。  「真鉄殿。あれは、どう見ても雪組の忍者ですよ」<山嵐>が口を尖らせて抗議をする。 「いいじゃないか。女に殺されるのなら本望。まあ、できれば床の上がいいのだがな」  <白梅>が上がってきた。 「真鉄殿。女というより、女の子ですよ」 「ふむ。ちと若すぎたようだな」  キョトンとしている<白梅>を乗せ、巨鉄兵の頭部が閉じられた。再び巨鉄兵は、南の 町を進んでいく。 ────────────────────────────────────────  猪槌城、城下町。足袋屋に≪豪雪≫(ごうせつ)は潜んでいる。その足袋屋から、城下 町に散る雪組忍者たちに、指示を送っている。  抜け忍が出ている。また、連絡のつかない忍者たちが出ている。その大半が下忍である。  統率上抹殺する必要があった。秘密裏にその任務を遂行するため、すぐさま討伐隊を組 織させた。  その討伐隊に<蒼竹>(あおだけ)はいる。数刻前、<蒼竹>は<白梅>の置き手紙を 見た。要約すると、「万字賀谷にいるのがつらいので雪組を抜ける」ということだ。  その直後に、この任務への配属が決まった。<白梅>早まるな。<蒼竹>の心に焦りが 去来する。兄が死に、たった一人残された肉親。その肉親と殺し合うことだけは避けたか った。何より、兄の死に際に、妹のことを託されている。裏切りたくはない。  <白梅>が本当に裏切ったのであれば、見つからなければ良い。<蒼竹>は、不安を胸 に、町へと探索に向かった。 ────────────────────────────────────────  巨大な鉄の兵士が城下町の南を行軍する。今なら、忍者をどれだけ殺しても咎められな いだろう。≪真鉄≫は、<山嵐>に指示を出しながら忍者たちを倒していった。  特に不具合はない。これなら、≪千重≫に安心して納品できる。 「そろそろ猪槌城に行こう」  ≪真鉄≫の指示で、<山嵐>は巨鉄兵の向きを変えた。巨鉄兵は、ゆっくりと、踵を返 した。  その場所より、南に下った廃寺から、その姿を見る老人がいた。「なるほど、あれが巨 鉄兵か。確かに大きい」≪明光院≫は忍び笑いをする。あれほどの兵器。なかなかない。 ≪真鉄≫という者、使えるな。欲しい。  その時、廃寺の庭を抜ける人影があった。 ──────────────────────────────────────── 「ははーん、あれが月組の大将みたいね。でも、まあ、かわいい少年」  巨鉄兵を追ってきた<観影>は、偶然その行く先に月組の移動を見てしまった。急いで 隠れて、その移動をやり過ごす。  月組は、廃寺の近くで止まった。城下町で、隠れるには、南のこの辺りが一番良い。道 は入り組み、忍者などでなければ、大人数では動きに不自由する。  ≪爪牙≫は、手の者たちに、手短に下知していた。<観影>が声を聞こうと近づこうと する。すると、どこからともなく手裏剣が飛んできて、慌てて逃げ出す羽目になった。  ≪爪牙≫は指示を次々と出していく。そして、<信光>(のぶみつ)への指示の番にな った。  「月河に戻れ」≪爪牙≫の指示は短いものだった。 「納得できませぬ。まだ戦えます」  <信光>は抗議の声を上げる。「父上が無くなったという報告を聞いているだろう。跡 目の件がある。一旦帰れ。これは命令だ」≪爪牙≫は、決して傷を癒せとは言わない。そ う言えば、<信光>が「まだ戦える」と言うのが目に見えているからだ。 「分かりました。帰ります」  やっとのことで、<信光>が応じた。「月丸の側に早く行ってやれ」<爪牙>はそう言 うと次の者に意識を移した。次々と指示を出す。  <信光>は一人その場を離れた。部下はことごとく死に、戦果もあげられず、父が死に、 故郷に帰る。「戦でお前の力を示すのじゃ。さすれば、人はお前についてくる。氏族の運 命はお前の肩にかかっている。月丸を頼むぞ」父の言葉が重く心にのしかかる。  <信光>は、その場を離れた。 ────────────────────────────────────────  庭の気配が動いた。≪明光院≫は、廃寺の庭に人が入ってきたのを知った。  ≪明光院≫は、庭石に腰を下ろしていた。そのまま、人が入ってくるのを待った。特に 身を隠す必要もない。≪明光院≫のことを知っている者がこの場に来ることはない。この 場で、彼の部下が帰ってくれば、報告を聞くつもりである。  庭に一人迷い込んできた。手負いの忍びのようだ。左腕を布で吊っている。≪明光院≫ は、その場で、この寺の主のように佇んだ。<信光>が、ゆっくりと廃寺を通る。 「人の寺を無言で通るのか」  ≪明光院≫は、この寺の主として声を発した。≪明光院≫の気配が庭石の上に現れる。 <信光>は、驚き振り返った。  庭石の上に老人がいる。先ほどまでは気がつかなかった。寺の主のようだ。<信光>は 非礼を詫びる。≪明光院≫は、「ここを去ね」とゆるやかに言った。<信光>は、立ち去 ろうとして、ふと足を止めた。 「住職、あなたは何者ですか」  寺の主から、ただ者ではない気配を感じる。「何、ただの老人よ」≪明光院≫は苦笑す る。<信光>が近づいてくる。顔の見える距離まで来た。いでの鼻で<信光>の部下を雑 草の様に狩った老人だ。  <信光>は刀を抜く。 「やめておけ。お前の腕では、自殺するようなものだ」  静かに手を振る。去れと暗に言っている。「殺さぬのか」<信光>は、我ながら愚問だ と思った。 「本来、寺というのは聖域でな、人を殺す場所ではない。学問を営み、仏門に帰依する場 所だ。その地を、人馬、刀槍、火勢でもって汚すなど、もっての他だ。昔、そういうこと をした。汚すべきではなかったと今は悔いている。わしは、寺社仏閣の本来の意味を知っ ている。竜脈を御し、霊力をつなぐ神器だ。その力の源を進んで汚すことはしない」  <信光>は、この老人の独白に耳を傾けた。刀の切っ先は、自然と足元に下がっていた。 「かつて、ことごとくその寺を焼いた男がいた。その男は寺の意味を否定しようとした。 しかし、私は古の知識を知った。この世界に無数の竜脈が走り、その力をつなぐように、 無数の異土が眠っていることを。お前も異土で育ったなら、渡りを知っているだろう。あ れは、竜脈の風に乗る技だ。人は、異土で竜に変ず。  寺社仏閣というのは、たいがい、この異土の口に作られる。比叡山しかり、出雲しかり、 日光しかり。多くの寺社には、異土に至る穴がある」  「なぜ、そのようなことを話す」<信光>は、この老人の話す途方もない話に耳を傾け た。 「かつて、寺を焼いた男は、死の間際に異土の存在を知っていると告げた。おかげで、首 を取り損なった。あの男が怪異さえ連れておらなんだら、取り逃がすこともなかっただろ う。  風の噂で聞いた。その男は異土に消え、そして子孫を残した。葬式の嫌いな奴だった。 その者の父が死んだとき、葬式などやっても、生き返りはせぬと憤慨していたそうだ。確 かにそうだ。かつて、あれほど聡い者はいなかった。あの男と争ったことを、私は悔いて いる」  <信光>は、この老人が何を言おうとしているか計り兼ねた。 「私は聡い者が好きだ。強い者も好きだ。お前は、見た所聡い。お前が臨むなら、我が下 へ来い。私の部下は、ほとんどこの口で口説き落とした。私は、お前が知りたいことは何 でも知っている。もし、何か知りたいことがあればいつでも来い」  老人は再び<信光>を追いやるように手を振った。昔話が過ぎたと漏らした。<信光> がその場を去る。  あの男の面影がする女だ。あの者の血も、この地に根を下ろしたということか。≪明光 院≫は再び岩のようにその場で静止した。 ────────────────────────────────────────  月が煌々と照っている。満月である。淡い光が、この地の全てを照らしている。≪真鉄 ≫と<山嵐>は、巨鉄兵に揺られて城下町を進んでいた。月が心に染みる。  「真鉄殿、聞きたいことがあるのですが。」<山嵐>が、月に導かれて口を開いた。 「真鉄殿は怪異、さらには神通力を得るための方法にずいぶん詳しいが、もしかして、真 鉄殿によって神通力を手に入れた者がいるのでしょうか? それとも、真鉄殿。あなたが 神通力を持っているのですか?」  ≪真鉄≫は、満月を見上げる。淡い光が≪真鉄≫の顔を照らす。 「怪異は、人の触れるべき物ではない。怪異は、神通力は、人を狂わせる。知らべれば調 べるほど、人の狂気に触れる」 「神通力を持つとは、一体どのような気分なんでしょうね。まったく新しい世界が開ける のでしょうか。非常に興味があります」 「かつての唐の国の話をしよう。仙人の存在は聞いたことはあるか?」 「仙人と言うと、仙境に住み、年を取らず、仙術が使えるというあの仙人ですか?」 「そうだ。その仙人の話をしよう。元々、唐の国の伝承では、仙人とは、屍解仙をさす言 葉だった」 「屍解仙?」 「そうだ。しかいせんだ。死して後に生き返り仙人となる。それが屍解仙だ。  かつて、これ以外の仙人はなかった。それ以外の仙人が生じるのには時代を経る。ちな みに、仙人が不老不死というのは嘘だ。仙人の多くが、老人の姿で描かれるのはなぜか、 調べたことはあるか? あれは、屍解仙となった後、何も知らずに時を過ごした仙人のな れの果てだ。一般では、あれを仙人と言っている  仙人は、人里離れた、時間が緩やかに過ぎる場所で過ごさなければ年を取り、老いる。 老いを止めるにはどうすれば良いか。一つしかない。それは時を止めることだ。自分も含 めて、自分の周りの時の流れをことごとく遅くしていかなければならない。  仙人の住む地には、枯れるまでに時のかかる樹を植える。河は、腐ることのない水銀を 流す。飯を食わずに、ただひたすらに、時間の流れを遅くする。こうして、百を超える齢 を生きる。  時代は下る。それでは仙人が不便だということで、ある方法が開発された。仙丹だ。そ の薬を飲むと、不老長寿を得られるという仙薬だ。仙丹は、仙人のための奴隷として、時 の流れを遅くした人を作る。仙人はその薬で、自分の世話をし、話し相手となる従者を作 った。  さらに時代が下る。この長寿の仙丹は、高貴の人の欲する物となる。そこで仙人たちは、 その薬を元手に、国を影から支配する方法を考えた。人々は、仙人に飼い慣らされる。か くして、富貴の者は仙丹を服用するようになった。  だが人は死ぬ。仙丹は劇薬だ。その材料は、主に硫黄、水銀。多く服用すれば、瞬時に 死ぬ。多くの者が、欲をかき、仙丹を多く服用して死んだ。死や老いは止められない。そ の恐怖に打ち勝てずに欲を出し、薬を多く飲む。  死は時が流れる限り繰り返される。そこに至って始めて、怪異自身の研究がおこなわれ るようになった。実際には、それ以前からおこなわれていたのだが、このときに特に隆盛 した。結論はこうだ。この世の者でなくなれば良い。怪異の中に住めば良い。それも国ご と丸々怪異の中に入り、怪異の中に国を作ってしまう。  あらゆる時代に存在し、あらゆる時代に存在しない、人ではない人。国ではない国。神 に至ろうという研究が始まる」  ≪真鉄≫は再び満月を見上げた。  「そんな国ごと入る怪異などがあるのですか」<山嵐>の問いに、≪真鉄≫は、あると だけ答えた。満月が、世界を蒼く照らす。二人の沈黙が、城下町の人家の海を進んでいく。 「山嵐よ、仙人の話、何かに似ているとは思わないか?」  ≪真鉄≫が不意に口を開いた。  「今の私には、まだ分かりません」<山嵐>が答える。 「猪槌の里」  苦悩に満ちた顔でそれだけ言うと、≪真鉄≫は再び沈黙した。 ────────────────────────────────────────  外の光が見える。その光は、閉じたり開いたり、まるで月の満ち欠けのようにその場で 動いていた。闇の中、<銀狼>は必死に闇をかいた。かきむしるように無をかいた。徐々 にだが、進んでいる。それだけが彼の希望であった。  轟音が耳に響く。巨大な金属の塊が、互いの体を削り合っているような音だ。巨鉄兵は 霧の猪槌城の城下で止まった。巨鉄兵の動力部がけたたましい音を立てた。回転翼の動き が一瞬ゆるむ。  その時に、一羽の鷹が巨鉄兵の胸を飛び出した。足には、壷を持っている。長い時を超 え、再びこの地に戻ってきた<銀狼>である。巨鉄兵の動力部から必死に抜け出してきた。 体の力は限界を超え、しばらくすると、失速する。  そのとき、壷が割れた。  中から一筋の靄が現れる。その靄は、周りの霧を吸い、一つの姿を成した。白鷺である。 白鷺は、鷹の姿の<銀狼>を掴み、一路南の清水へと向かった。怪異から出、壷の中で死 の世界に身を置いていた≪雪姫≫(ゆきひめ)が変化した姿である。 ────────────────────────────────────────  白く、透明な塩の柱が立ち並ぶ死の世界。清水。かつてそこは、命溢れる生命の泉であ った。  その地に一羽の白鷺が舞い下りる。白鷺は、霞となり、一人の女人の姿を取った。姿は、 昔の≪雪姫≫とは違う。すでに、≪雪姫≫の姿の型魂は、≪千重≫の呪によって奪われて いる。  ≪雪姫≫は、己の母の、若き日の姿を取った。  <銀狼>が姿を変ずる。髪を振り乱し、痩せ気味の男が背を伸ばす。月明かりの中、全 身の毛穴から、湯気を上げる。<銀狼>は、濡れた体を月光に晒した。  「下忍。名は何と申す」≪雪姫≫が月の明かりを背に受け問う。「銀狼」男はそう答え た。 「銀狼よ。我が型魂は奪われた。我が言霊は奪われた。お前は、私を何と呼ぶ。お前が我 に名を与えよ」 「白雪。雪組の正統後継者の名に相応しい名前だと存じます」  正統後継者。その言葉を聞いた時、≪白雪≫(しらゆき)は、眉根を寄せ、口の端をわ ずかに上げた。 「銀狼よ。我が右腕になれ。父があれほど忌み嫌った神通力が、これほど素晴らしい物と は思わなんだ。世界が変る。見える物が変る。世界の全てを意のままにできそうな気がし てくる。銀狼よ、我に従え。世界を我が意のままに作り直す」  「どのような世界に」<銀狼>は、≪白雪≫の望みを解しかね、尋ねた。 「白き世界に。全ての世界を白銀の雪で埋め、世界を、永劫溶けぬ、雪の世界に作り返る」  ≪白雪≫は、憑かれたように高笑いを上げた。 ────────────────────────────────────────  鈍砂山のタタラの民の集落に、地の底から悲鳴が湧き起こる。足元から水が上がってく る。それも、ただの水でない。肌が焼ける水だ。水に触れた所から、皮膚が焼ける。しか し、その傷は、肉には至らず、表皮のみを焼き、痛みだけを悲鳴の主に与える。  暗闇の密室。足元の水に必死に抗う男の名は<土亘>。闇の中に一人。  <土亘>は、刀を抜き、石壁に叩き付けた。石が細かく砕ける。出られる。そう<土亘 >が思った瞬間、石の壁の向こうに鉄の壁が現れた。絶望。  魚に姿を変じ、この水の中で抗おうとする。水がえらを焼き、すぐに断念する。絶望。  <土亘>は、悔いた。死が間近まで迫っている。残るは、頭上にある鉄の扉を打ち破っ て出るのみ。そう考えて既に数刻が立っていた。もう、息ができる隙間はわずかである。  口を金魚のように、ぱくぱくと動かしながら息をする。死を覚悟した。意識が消え始め る。<土亘>は肌を焼く水の中に、体の全てを没した。 ────────────────────────────────────────  密室の水の量が徐々に減っていった。暗い部屋の中で、<土亘>の目が爛々と輝く。  部屋の水が、<土亘>の口の中に勢い良く流れ込んでいる。うわばみの様に水を飲み続 ける。  部屋の水を飲み干した。  ギョロリと目をむく。天井を見上げ、口から水を吐く。天井の鉄の扉が軋んで弾け飛ぶ。  <土亘>は飛んだ。天井の穴を抜け、上の部屋に出る。一刻後、<土亘>は鈍砂山の野 に立っていた。 ──────────────────────────────────────── 「さあ、そこ行く皆の衆。これを聞かなきゃ一生の損ってもんやで」  朝。城下町に、威勢の良い女瓦版売りの声が響いた。<観影>である。 「ここにあるのはただの紙切れやないで。ましてやそこらへんで見れるもんとはものがち ゃう。ほんまこれをみな、今に乗り遅れるでえ。さて、今日の号の見所は」  その瓦版には、今、猪槌城の横に立っている巨鉄兵の昨晩の行動が事細かに書かれてい た。そして、その挿し絵の背後には、真円を描き、淡い光を放つ満月の絵が描かれていた。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- 今回の結果 ■神通力の獲得 ゲームが進んでいく中で、キャラクターは「怪異」(超常的な不思議な現象)に巻き込ま れることがあります。キャラクターは「怪異」に出会うと、「五行の神通力」を身につけ ることができます。どの五行の神通力を身につけたかはマスターから宣言します。 銀狼:水の神通力+1 土亘:神通力系+1 ■能力の成長 ゲームが進んでいく中で、特に成長の認められる行為をおこなったキャラクターは、プレ イヤーがマスターに申請してください。プレイヤーからの申請によって、マスターはキャ ラクター能力の上昇を認めます。 ■負傷 キャラクターは、マスターより負傷段階を宣言されることがあります。負傷には、重症、 致命傷、能力減退の3種類があります。 三畳:重傷より回復 信光:重傷より回復 ■アイテムの獲得 キャラクターは、マスターよりアイテムの獲得を宣言されることがあります。アイテムは、 通常の行動の中で使用することができます。 修羅:鉄砲