PBeM 史表(しひょう)

第2回

柳井政和
ver 0.09 2004.08.17

目次

  一 遠征出発

 草原。
 濃い青が視界の上半分を覆い、淡い緑がその下を満たすように広がっている。太陽は中天に昇り、白い雲の塊が羊の群れのように蒼天を移動している。時刻は空の雲がまぶしく輝く頃。その時分には、雲と同じように、地の人馬の表情も一様に明るい。高所にある白い群れが、まばらに青い野を歩いているのに対し、低所にある赤と茶の毛並みは、これから雨が降るかのように、ひとところに集まり気焔を発している。
 赤族の軍団がいる。
 その人馬の群れの中央に、赤い髪をたてがみのように風になびかせている青年の姿があった。馬上である。風は強い。広大な草原を一気呵成に吹きぬける強い風が、鉈で割られた木の幹のように、青年の不動の立ち姿に割られて切り裂かれる。この青年を軸として、大陸の西端を覆う草原が、二つに断ち割られているかのように見えた。
 青年は、人々の中央で弓と矢を取りだす。
 彼は左手で弓を、右手で矢を持っている。両足は馬の腹を締めつけており、土に根が絡むかのように、人馬一体となっている。人々は固唾を飲む。青年が弓に矢をつがえ、頭上に矢の先端をむけたとき風が止んだ。
 矢が放たれた。
 矢は上空へとむかい、青い空気のなかに吸いこまれて消えた。青年は、右手で盾を取りあげ頭上に掲げる。盾は厚い。その盾を貫くかのように、天空から一本の矢が舞い降り、盾の中央に刺さった。歓声が沸く。大地に雷鳴のように声が響きわたる。青年は、天の気を操る司祭のように、それらの声を自らの威厳でもって鎮めた。
「天は我々に意を示された。我々に敵を射抜く矢を与え、そして勝利を手に入れろと語った」
 頭上に掲げていた盾を、青年はゆっくりと下ろす。
 陽の光を遮っていた盾が下げられたおかげで、青年の顔が衆目に顕わになる。男は涼しげな目を見開き、馬をその場で回した。その場に集まった全員の顔を見る。人の数が千、馬の数が二千。赤族の族長赤栄虎が、海都攻めに用意した人馬の数である。
 青年は思いを巡らす。考えているのは遠征のことだ。
 有効兵力が一万に満たない赤族としては、それほど多くの兵員をこの奇襲に裂くわけにはいかなかった。それに数が多過ぎると、敵に気取られる可能性が増す。人数が増えれば、兵糧や武器、運ばなければならない物資の量も増える。行軍速度も遅くなる。
 海都を攻めるのには、人数が多いほうがよい。だが、兵数を増やせば、白大国に露見する恐れも大きくなる。諸条件を考慮した結果が、この数であった。
 兵一人に対して馬二頭。一頭は騎乗用、一頭は荷運び用である。一頭の負担を軽くして、速度を上げる。
 赤族の馬は、赤族の男と同じように戦士であった。自らの為すべきことを知り、彼らとともにこの大走破を成し遂げるであろう。
「ここに集まったのは、いずれも劣らぬ赤族の精鋭たちだ。後の世まで語り継がれるであろう、赤族の勇者たちだ」
 弓と盾を持った青年赤栄虎は雄叫びを上げる。人々が沸き立つ。その声が収まるまで待ち、赤栄虎は言葉を続けた。
「これから、我々は長駆、敵の補給基地を叩く。最終目的地は、それぞれの軍団長に伝えた通りだ。軍団長でない者には、その場所は伏せてある。これは、情報の漏洩を防ぐためである。各兵士は、自分が属する軍団長の指示に従え。よいか、この作戦のことを、他人に漏らしてはならぬぞ。漏らした者は、厳罰に処され、名誉を失うことになるであろう。今からおこなう作戦は、どれだけ秘密を守れるかにその成否がかかっている。一人も脱落者をださず、目的地までたどりつくことを期待している」
 赤栄虎は声を止めた。
 既に出発の準備は整っている。後は進軍の号令を発するだけだ。赤栄虎は目をつむり市表に描かれた大陸の様子を思い浮かべた。白大国の北側には、人々の住まない山岳地帯が点々と続いている。その山並みを飛び石のようにして渡ることで、大陸の東まで通りぬけなければならない。人の目に触れぬ場所を正確に選び、白大国の中をすり抜けていくのだ。
 難事業に違いない。
 この難しい作戦を遂行できる人材だけを、集めに集めて千人。この千人が、赤族最強の千人であることは、疑い様もなかった。赤栄虎は、微かに笑みを浮かべる。思い出したからだ。この千人を選ぶときに多くの赤族の者たちが、この最強の軍団に入りたいと赤栄虎の天幕を訪れてきたことを。
 その一人一人を追い返すのは予想以上に難しかった。赤族の兵士の士気は高い。誰もがやる気で溢れていた。だが、個々の能力には優劣がある。途中からは、赤高象を天幕の入り口に立たせ、来る人々を追い返させた。他人の二倍もある巨体で追い返されれば、たいていの者は帰らざるをえない。ある日には、赤凌狛も来て一悶着があったと、赤高象が疲れた顔で言っていた。
 ゆっくりと赤栄虎は目を開ける。
 再び青と緑の光景が、まぶたのなかに飛びこんでくる。草原の奥に、点景のように一人の人影があった。この作戦の出発地を知っている、青年の父、赤堅虎である。見送りに来たのだろう。赤栄虎は、大きく息を吸いこみ、天地を震わした。
「進軍開始」
 馬は北にむけ走りだした。
 大地を這って移動するこの軍団は、青い野を過ぎさる白い雲ほど、その速度は早くなかった。しかし、この赤い集団は、大陸の東の端までたどりつき、確実にその地に赤い雨を降らせるだろう。
 空を舞う雲を動かすのは風であった。緑の野を進む人馬を動かすのは、青年の発する声であった。
 赤栄虎の声に導かれ、赤族の精鋭たちが進み始めた。


  二 広源市

 午後、昼食が終わり、いくばくかの時間が過ぎた頃。
 広源市の王宮の廊下を、白緩狢は進んでいく。普段は平服を着ている白緩狢も、王宮ではきちんとした服を着ざるをえない。借りてきた衣装のように、ぎこちなく礼服を着て、白緩狢は廊下を歩いていく。何人かの軍団長とすれ違いながら、白緩狢は謁見室までたどりついた。すれ違ったときの軍団長たちの目は、みな一様に冷たかった。
 白緩狢が草原への道を切り開くまで、本格的な侵攻は始まらない。広源市に集まっている軍団長たちは、眼前に獲物を置かれ、お預けを食らっている肉食獣のように不満を募らせていた。その憤懣が、白緩狢への冷たい視線につながっている。
「誰がやっても、これ以上は早くならないよな」
 白緩狢は、周りに人が誰もいないことを確認して、独り言をつぶやいた。
 開喉丘から、閉腸谷までの距離はかなりある。馬で一日以上はかかる距離だ。とはいえ、それほど広い土地とは言い難い。そのため、二人以上の軍団長を配して、命令系統を二分するのは、あまり得策ではない。
 それに白王は、この閉腸谷に砦を作るまでは、戦の下準備だと考えている。白王の考えでは、まだ本格的な戦は始まっていない。そのことは他の軍団長たちも分かっている。そのため、白緩狢だけが小戦闘を繰り返しているこの現状に、表立って不満を漏らしてはいなかった。
 本格的な侵攻は、閉腸谷に砦を完成させてから始まる。
 ただ、閉腸谷の砦を完成させるまでのあいだに、白緩狢が赤族の軍団を壊滅させるような事態になれば話は別だ。今回の戦の勝利は、白緩狢一人の手によって成し遂げられた、そう主張することもできるだろう。だがそうなれば、他の軍団長全員を敵に回すことになってしまう。
「白王様も、人使いが荒いよなあ」
 白緩狢は、ため息をつきながら、謁見室の扉を叩いた。

 白王が軍団長たちと謁見をする部屋には先約があった。年は四十前後、顔や腕は日に焼けて黒く、全身に無数の傷が刻まれている。白緩狢と同じ礼服を着ている。古参の軍団長白惨蟹だ。彼の頭頂部は既に禿げあがっており、頭の横と後ろで長く伸びた白い髪は、背後で乱暴に縛られていた。白緩狢とは別の意味で礼服が似合わない男である。
 白惨蟹は白緩狢の姿を認めると、不快そうに立ちあがった。
「それでは白王様、私は戦の準備がありますので失礼いたします」
 あてつけであろう。白緩狢がおこなっているのは戦ではない。そう言いたげな視線を白緩狢にぶつけ、白惨蟹は部屋を退出した。白緩狢は、先ほどまで白惨蟹が座っていた椅子に腰を下ろす。普通こういう場合、椅子に座るのを一瞬ためらうものである。だが、白緩狢は一向に気にすることもなく席につく。彼が古参の軍団長たちに嫌われている理由の一つでもある。白惨蟹は、古参の軍団長のなかでも、もっとも人数の多い閥を作っている男だ。得ている領土も広い。戦功の多さの証しである。白緩狢のように、多くを望まず、得ている土地は故郷の周辺ぐらいという男とは対極をなす男だ。
「白惨蟹様がいらっしゃったようですが」
 白緩狢は珍しく、古参の軍団長に遠慮するような口ぶりの声を出した。こういう台詞は、当人のいる場で言わないと効果がない。白緩狢は、慣れないことはできないなと、心のなかで舌打ちをした。
「どうだ、白緩狢。閉腸谷に砦は作れるか」
「作れます」
 言葉を惜しむように白緩狢は答えた。開喉丘の砦はもう既にできている。あとはこの砦を基点として、閉腸谷を押さえればよい。白緩狢と白王のあいだには地図が置かれてあった。その地図には、閉腸谷、開喉丘、広源市、その周辺の地形が簡単に描かれてある。
「何日かかるか」
「一月もあれば」
 白王は頷いた。その表情が暗いことに、白緩狢は気付く。数日前に、金を掴ませている王宮の女官から、白王の娘の白麗蝶が家出をしたという報告を受けた。それから何人かを使って情報を集めさせたところ、白大狼が白麗蝶を追っているという報告を得た。白麗蝶は海都にいき、そこから大型船に乗って南へとむかったらしい。白緩狢はその報告を聞いて、さすが白王様の娘、家出の規模も雄大だと感心した。親はたまったものではないだろうが。白王の表情に陰りがあるのはそのせいだろう。
「白王様、白麗蝶様の件ですが」
 白緩狢は、この男らしくなく、軍事に無関係な話題を口にした。白王は少し驚いたかのように、白緩狢の顔を見た。
「お前の耳にも入っていたか。先ほどの白惨蟹も、その件できていた。あの男は白麗蝶を探すために私兵を放ったと言っていた。だがまあ、追いつくことはできないだろう。白麗蝶が乗ったのは、古い時代の大陸周回航路用の船を復活させたものだ。この季節、南回りの大陸周回航路船は、季節風に乗り、足が速いからな」
「大陸周回航路ですか、かつて海都と黒都を結ぶ航路があったと聞いております。その航路が復活していたのですか。その船に白麗蝶様が乗っているとなれば、航海の無事を祈らなければなりませんね」
「ああ、だがその心配はないだろう。それよりも、うまく大狼が追いつき、麗蝶を連れ戻せるか、そちらの方が心配だ。大狼は海に関しては素人だからな」
 白王はそこでこの話題については打ち切った。あとは細かな軍の侵攻や追加予算の申請等、事務的な話しをしてから白緩狢は謁見室を退出した。退出したときには、陽は傾き始めていた。

 その日の夜。広源市にある白緩狢の館に十人の男たちが集まっていた。白緩狢の下に配された、千人長とその副官たちである。全ての千人長とその副官を招くと二十人になる。その人数に足りないのは、開喉丘の砦に半分の千人長を残してきているからだ。
 館は官給のものである。その館には、軍団長が住むのに相応しいようにと、客を招いて宴を開くための部屋が用意されていた。その部屋に、十人の男たちは通されている。白緩狢がこの部屋を使うのは今日が初めてであった。白緩狢があまり他の貴人を招いたりしないということもあるだろう。だがそれよりも、広源市についてからのほとんどの時間を、開喉丘で過ごしていたことの方が大きい。この館に留まった日数は、数えるほどしかない。
 千人長白弱鴇と、その副官の白恐蝮もこの席にいた。二人は物珍しそうに部屋の様子を眺めている。その部屋が立派だからではない。あまりにも殺風景だからだ。白弱鴇は、出身地に帰れば、少ないとはいえ封土を持つ地方貴族である。館となればそれなりの飾りつけをすることを知っている。白弱鴇は書画を好む。このような部屋であれば、飾りたい絵や書の一つや二つは浮かんでくる。
 彼らの前に出された食事は、それなりに豪華なものであった。だが、皿はやはり素っ気無いものであった。相手が千人長だからそうしているのではない。そもそも貨殖や虚飾に興味がない人なのであろう。そう白弱鴇は理解した。白恐蝮と気が合いそうだな。出された食事を食べながら、白弱鴇はそう思った。
 千人長や副官の多くは、軍団長の館に招かれたことで落ちつきをなくしていた。彼らは、軍議で酒が入る軍団長は過去に経験したことがある。だが自分の館に招いて、酒肴とともに歓待してくれる軍団長はいなかった。軍団長と千人長のあいだでは、普通はその身分に天と地ほどの開きがあるものなのだ。

 白緩狢は、宴席の上座で、食事を食べながら書類に目を通している。各千人長に書き出させた補充が必要な資材の一覧を眺めているのだ。宴席でそのようなものを見るのは、礼儀に適っていない。白緩狢はすべての書類に目を通したあと、各千人長に疑問点を聞いていった。変わった酒宴だ、その場のものたちは一様にそう思った。
 それもそのはずである。白緩狢自身は酒宴を開いているつもりはなかった。広源市にいるあいだは、前線に出ている期間に溜まった業務を片付けなくてはならない。そのために、時間は寸暇を惜しむほど足りない。前線で暇そうにしているのと同じようにしているわけにはいかないのだ。
「各部隊について、要望や提案があれば言ってくれ」
 全員の食事が一息ついたところで、白緩狢はみなの顔を見渡した。白恐蝮が立ちあがり、発言の許可を求めた。白緩狢が頷く。白恐蝮は開喉丘と閉腸谷のあいだに、赤族を誘いこみ、戦列を分断して敵を各個に叩く作戦を提案した。基本的な作戦ではあるが、試してみる価値はあるだろう。何よりも、上からではなく、下からこういう作戦が出てくるのは士気の上からよいことだ。
「囮は、白弱鴇、君の部隊から出すことになるけど」
 白緩狢は、窺うような目で白弱鴇を見る。急に話題を振られて、白弱鴇はあたふたとたじろいだ。
「囮の指揮は私がします。白弱鴇様は赤族を攻撃する部隊を動かしてください」
 すぐに白恐蝮が助け舟を出した。
 一通りの発言も終わり、食事も酒も尽きてきたところでその日は散会となった。各人には、土産として飴が一袋ずつ渡された。
「作戦の提案が通ってよかったね恐蝮」
 夜道を歩きながら白弱鴇は語りかけた。白恐蝮は、自分の作戦を採用してもらったことで鼻息が荒い。
「若様、一人でも多くの赤族を倒して、戦果を白緩狢殿に認めてもらいましょう」
 恐蝮は戦が好きだな。白弱鴇は、故郷で書画に囲まれて暮らしていた日々を思い出した。家を守るために、白大国に兵を供出する大切さは白弱鴇も分かっている。しかし、自分自身は役に立っていないなあといつも思う。仕事はほとんど白恐蝮がおこなっている。白弱鴇は、その報告を聞いているだけである。
 それにしても、戦時の白恐蝮は生き生きとしている。白弱鴇にとっての書画が、白恐蝮にとっては戦なのであろう。白緩狢にとっての戦も、そういうものなのであろうか。白弱鴇は、ふと歩いていた道を振り返った。白緩狢の館が見える。その一角には、まだ明かりがついていた。
「どうしたんですか若様。お忘れ物ですか」
 白恐蝮が少し酔った赤い顔で、走って館に戻ろうとした。その腕を白弱鴇が引きとめる。
「いや、何でもないよ」
 館の明かりは、まだ当分消える気配はない。白弱鴇は再び兵舎にむかって歩き始めた。


  三 開喉丘

 白緩狢が白王との打ち合わせを終えて数日後、開喉丘に白緩狢の軍団は集結していた。今や広源市から開喉丘までは通路ができており、安全に兵の移動、物資の輸送ができる。開喉丘の砦も突貫工事で完成していた。だが、この急造の砦に一万人すべては収容できなかった。規模が小さすぎたからだ。そのため、砦の周りには赤族の馬を防ぐための二重の柵が設けられていた。この柵を城壁に置きかえる工事を今はおこなっている。工事の責任者は、開喉丘に最初に派遣された千人長である。
「工事は順調なようだね」
 城壁の工事現場に、間の抜けた声が響く。平服を着た白緩狢は、千人長に近づき、周囲を見回しながら問いかけた。まだ午前中のために、現場の陽射しはそれほど強くない。
「ええ、開喉丘は完全に我々の支配下ですから。しかし報告した通り、閉腸谷のほうは厄介なことになっています」
 千人長とともに、白緩狢は西の方角を見る。しかし、彼らの視力では、山岳地帯の西の端にある閉腸谷までは見通すことができない。閉腸谷は、山岳地帯を抜けて、草原に出る出口に当たる場所だ。この場所に無防備に兵を置くことは自殺行為といってよかった。閉腸谷は、草原のいずれの場所からも近づくことができる。このことは、赤族の騎馬兵が自由にこの地を攻撃できることを意味していた。その攻撃を防ぐ手段はない。閉腸谷は、完全に赤族の勢力下にあるといってよかった。
 その閉腸谷に、赤族の天幕が張られたのは数日前だ。数は多くない。人数にして、三百人程度である。逆に赤族全員がこの場所に陣を構えてくれていればどんなに楽だったことか。白緩狢はそう思った。草原ではなく、谷に入れば、赤族の機動力は大幅に削がれる。そうすれば、戦いも楽になる。だが、赤族は自らの利点を殺す策は取らなかった。白大国が閉腸谷を占拠できないように三百人の兵を置きはしたが、残りの兵たちは少し離れた草原のなかに未だ留まっている。
 厄介なことに、目がよく、弓の飛距離も長く、射撃も正確な赤族なら、三百人もいれば谷への進軍を邪魔する有効な盾になる。それにもし、閉腸谷を攻めれば、すぐに背後の陣から兵がやってきて反撃を加えてくるだろう。それも、機動力を活かせる草原にいたままの状態で。それに加え、山岳部の間道を赤族が熟知しているのは、先ほどの襲撃で実証されている。力押ししようものなら、山間部を伝い、背後や周囲から挟撃を受ける心配もあった。
「面倒だね」
 白緩狢はつぶやいた。
「どういたしましょう、白緩狢様」
「白弱鴇が率いる部隊が、閉腸谷の兵をおびき出して叩きたいと言ってきている。彼らの活動に赤族の注意を引きつけておいて、そのあいだに閉腸谷に投石機を設置する」
「えっ、しかし、閉腸谷には赤族がいるのですが」
「谷の下にだろ。私が投石機を設置したいのは谷の上だ。もちろん、谷の上にも赤族の兵士はいる。しかし、平地で赤族と戦うことを考えれば、遥かに組みしやすい。谷の上は障害物が多くて視界が通らないからね。草原から援護射撃をされる心配もない。それに、高所を攻め落とせば、視界と射程の問題も幾分解決する」
 千人長はしばし考えた。
「谷の上ということは、徒歩でいくことになりますか」
「いや、騎兵も欲しい。馬の得意な者を二百、弓の巧者を三百。この合計五百の人数を二組作り、北と南からそれぞれ谷の上を攻める。
 開喉丘の城壁建設に千人。開喉丘の守備に千人。広源市からの物資の輸送に三千人。閉腸谷への牽制に千人。南北の谷の上の奇襲に千人。投石機および石材の輸送設置に千人。予備兵二千人。これで我が軍の人数はいっぱいだね」
 白緩狢は、指折り人数を数えた。投石機の設置が終了すれば、その後は閉腸谷への牽制に使っていた千人と、予備兵二千人の、合計三千人で閉腸谷を占領することになるだろう。設置した投石機の周囲は、なるべく早く要塞化する必要がある。それと同時に、閉腸谷の下にも砦を築く。
「それじゃあそういうことで、馬と弓の得意なものをかき集めておいてくれ。南側の五百人は君が指揮しろ。北側の五百人は、私が直接指揮をする」
 前回の赤族は北側の山を縫って攻めてきた。北側のほうが危険度は高い。
「では早速、各千人長に話しをして、兵を集めて参ります」
 千人長は、工事をおこなっている部下にいくつか指示を出したあと、開喉丘の砦にむかって駆けだした。兵士の編成が終わるまで、しばし時間がかかるだろう。白緩狢は暇を潰すために、既に完成している城壁の下にむけて歩き始めた。

 白緩狢は城壁の日陰のなかに腰を下ろした。背を石造りの壁にもたれかけさせる。懐から飴の入った袋を取りだし、飴を一つ口のなかに放りこむ。周囲を見渡すと、同じように涼みにきている兵士たちの姿がちらほらと見えた。
「あれ、飴のお兄さんじゃないですか」
 まだ幼さの残る黒髪の少年が、白緩狢の横に腰を下ろした。こういう場所に集まる人間の顔ぶれというのはだいたい決まっている。少年は、以前飴を袋ごと与えた黒醇蠍であった。まだ子供なのだろう、早口で軍の不満をまくしたてている。
「しかしみんな、馬に乗るのが下手だよなあ。僕に一部隊任せてくれれば、もっと効率よく、偵察や伝令をやってみせるのに」
 白緩狢は、飴を舌の上で転がしながら、その言葉を聞いている。
「一部隊率いるためには、戦果を挙げて、周囲の信頼を得ないとね。白大国の十人長から千人長までは、各兵士の投票で決めるようになっているから」
 黒醇蠍は頬を膨らます。
「そんなことを言っても、僕みたいな若さで、十人長や百人長、ましてや千人長に投票されるなんて、ありえないでしょう。あーあ、もっと歳が上だったらな」
「君の歳は」
「十四です」
 しばし考えるようにして、白緩狢は空を見上げた。
「私は、その歳で百人長をやっていた人を知っているよ」
「どうせ、貴族出身なんでしょう」
「いや、農民の出らしいね。貧しい農家の長男だったそうだよ」
「へー、そういう人でも、僕と同じ歳で百人長になれたんだ」
 黒醇蠍は驚きの声を上げた。
「そうだね、そのためには、こんなところで不平を言っているだけでは駄目だよ。戦果を挙げ、周りの人々を自分が助けるぐらいの気でいないと」
 白緩狢は、飴をもう一つ取りだし、口に放りこんだ。
「おい、黒醇蠍」
 砦のほうから、一人の百人長が駆けてきた。黒醇蠍は慌てて立ちあがる。
「お前、馬も弓も得意だったな。選抜隊に参加しろ」
「えっ、選抜隊って何ですか」
「重要な任務らしい。この任務で成果をあげれば、軍団内でも一目置かれる存在になる。そうすれば、すぐに周りから十人長に支持されるようになるだろう」
「そんなに大きな任務なのですか」
「ああ、その分危険も伴うそうだがな。参加するか」
 黒醇蠍は、足もとに座っている白緩狢の顔を見た。白緩狢は、口のなかで飴を転がしながら、黒醇蠍を見上げている。
「参加します」
 ようやく、出世につながる活躍の場がきた。この任務をこなして、十人長になる足掛かりを作るんだ。黒醇蠍は、百人長にむかって駆けだした。百人長は、白緩狢の姿に気付き、頭を下げた。
「どうしたんですか」
 黒醇蠍は、百人長に問いかけた。
「馬鹿、あそこにいるのは、軍団長の白緩狢様じゃないか」
「えっ」
 慌てて振りかえると、白緩狢は地べたに仰向けに寝転んでいた。百人長や千人長よりも若いので、てっきり普通の兵士かと思っていた。じゃあ、僕と同じ歳で百人長をやっていたというのはもしかして。
「ぐずぐずするな、早くこい」
 百人長に呼ばれ、黒醇蠍は慌てて駆けだした。


  四 閉腸谷

 開喉丘と閉腸谷のあいだの低地部に名をつけるのならば、通胸路とするのが相応しいだろう。事実、これまで白大国の書物に名が出てきていなかったこの地域の名は、兵士や指揮官たちの報告書の数々に、通胸路、通腹道、通胃場などと記されるようになっていた。この辺境の地に、かつて名はなかった。だが、この地が歴史上重要な一地点になるに及び、にわかに名がついた。ここではこの地帯の名を、通胸路ということで統一したい。
 その通胸路を見下ろせる北側の山のなかでも、一際高い山の中腹に、一人の男が座っている。小脇には竹で編んだ荷物入れを置いてある。周囲の草は刈りとってあり、眼下を一望の下に見下ろせるようにしている。彼の左手側には開喉丘、右手側には閉腸谷が見える。男は右手に筆を持っていた。左手には紙を持っている。その紙に、眼下の風景を描きこんでいる。
 時刻は正午過ぎ。陽射しは強いが、頭上の木々が柔らかな影を作ってくれているおかげで暑くはない。男はその影のなかで筆を動かし続ける。描かれている絵は、決して芸術的な絵ではない。建物の図面を引くかのように、精密な絵である。男の背後で、木に手綱をつないでいた馬が一声鳴いた。男は思い出したように、木々の葉の隙間から天を仰ぐ。食事を取らずに作業に没頭していたようだ。馬の声に続いて、男の腹も鳴った。
「そろそろ食事にするか」
 男は紙を丸めて筆とともに荷物入れの中に収めた。代わりに竹の水筒を取りだす。空だ。そういえば、飲み尽くしていた。乾飯を食べるためにも、水を汲んでこなければならない。男は馬の手綱を解き、その背にまたがった。そのとき、風に乗せて人々の声が聞こえてきた。男は慌てて手綱を木に結び直し、元の場所へと戻った。
 男の名は白頼豹。司表配下の兵の一人である。彼は、この戦場の地勢を調べ、詳細に記録していたのだ。もちろん戦闘が始まれば、その様子も克明に記録する予定である。白頼豹は目を細めて眼下をにらむ。閉腸谷の近くまで迫っていた三百人ばかりの白大国の兵が、盾を掲げて閉腸谷に近づきつつあった。閉腸谷に陣取っていた赤族の兵士たちがにわかに動きだす。その動きにあわせて、閉腸谷近くの草原に陣取っていた赤族の兵士たちも、天幕から出てきて陣形を整え始める。
 白頼豹は素早く筆を走らせた。書きつける文字は通常の文字ではない。司表と取り決めた暗号の文字である。眼下で、豆粒のような白大国の兵が一人ひっくり返った。赤族の放つ矢に射抜かれたのであろう。戦闘が始まった。

 閉腸谷は、谷というだけあって、その周囲を切り立った崖で囲まれている。赤族はこの崖の上と下に兵を配してあった。赤族は白大国と違って、その居住地の草原に建築資材となる森を持たない。そのため閉腸谷の陣営には、周囲の木から伐採してきた木で作った簡易の柵が置かれているだけである。
 その簡素な陣に三百人の赤族の兵が寝泊まりしている。もっと多くの兵を配していたほうがよいだろうと思うかもしれない。しかし、機動力を重視した赤族の兵士たちは、その利点を活かすためにある程度の広さを必要とした。この狭い谷に千人など詰めこんだりしたならば、たちどころに動きが鈍くなり、白大国の兵士の餌食となってしまう。
 閉腸谷にむかう三百人の兵士の指揮は、白大国の百人長白恐蝮が取っている。この白恐蝮の三百人も、赤族の三百人と同じ理由で決められた人数であった。彼らの任務は、囮として赤族の兵士たちを誘いだす役目である。そのため、素早い撤退が要求される。これ以上の人数では迅速な撤退ができない。もちろん兵士たちはみな馬上である。だが、指揮官の白恐蝮だけは四頭立ての馬車に乗っている。彼の馬の腕は、移動には困らないという程度であったからだ。とてもではないが、彼には赤族と馬の競争をするほどの馬術の腕はない。馬車には専用の御者がついていた。
 昼の強い陽射しのなか、大きな盾を構えて、三百人の兵士が閉腸谷にむかって前進する。近づき過ぎると、逃げるより前に全滅させられてしまう。一歩一歩慎重に進んでいると、白恐蝮の横で兵士の一人が額を貫かれて倒れた。白恐蝮の予想以上の距離から矢が飛んできていた。
「撤退」
 白恐蝮が大声を上げる。兵士たちは、何度も練習した手はずのとおり、素早く馬の首を巡らせる。その合間にも、数人の兵士が、矢に貫かれて倒れていく。白大国の兵士が勢いよく駆けだした。
 赤族の軍団の先頭を駆けているのは、赤熱鷲と呼ばれる戦士であった。閉腸谷の柵の入り口を抜け、矢を放ちながら馬を進ませる。一人、二人、三人と続けざまに兵士を射抜いたところで、背後から赤敏鵜という馬の巧者に追い越された。赤敏鵜はまだ少年の域を出てはいない男だが、馬の扱いは群を抜いている。
「斬って斬って斬りまくるぜ。かかってこい、腰抜けめ」
 剣を抜いた赤敏鵜は、赤熱鷲を追い越して進んでいく。閉腸谷から次々に赤族の兵士たちが駆け出していく。その動きと連動するように、閉腸谷周辺の草原に陣取っていた騎兵が動きだした。閉腸谷から出ていった兵士と同数の兵士が、閉腸谷に駆けこんでいく。閉腸谷には、再び三百人の兵士が入陣した。
 白恐蝮は、額から汗を流しながら馬を急がせる。あれほど開いていた距離が、一瞬で詰められていた。兵士の二割が既に矢を受け落馬していた。これほどの戦闘力があるとは。理解していたつもりだが、吹きだす汗が止まらない。白弱鴇と打ち合わせをしていた場所までたどりつけるかどうか不安になりながら、何本も飛んでくる矢を大きな盾で防ぐ。馬車は他の騎馬に対して速度が遅い、いつのまにか最後尾になっていた。白恐蝮の眼前に、一頭の赤族の馬が、矢のように駆けてくる。馬の上にいるのは、赤族の少年だ。その少年、赤敏鵜が剣を振りかぶった。白恐蝮は素早く剣を抜く。
 赤敏鵜の剣が、白恐蝮にむかって振り下ろされた。少年の腕のどこに、これほどの膂力があるのか。白恐蝮の剣が一瞬で弾き飛ばされた。二撃目を大盾で防ぐ。そのためにおろそかになった足もとに、矢が飛来した。右脛に激痛が走り、矢が刺さったことを知る。白恐蝮は馬車の上に倒れこんだ。そのおかげで、赤敏鵜の三撃目は空振りに終わった。
 あと、もう少しで白弱鴇と打ち合わせをしていた場所にたどりつく。四撃目は、寝転がったまま大盾で防いだ。盾と馬車のあいだから後方を見ると、他の赤族も間近まで迫ってきている。白恐蝮が乗っている馬車の御者は、頭を低くして必死に馬を走らせている。赤敏鵜は馬を進ませ、御者の腕を貫いた。御者がたまらず転げ落ち、馬車の速度が鈍る。馬車が止まった。赤族の軍団が、白恐蝮の乗っている馬車の横を駆けぬける。既にこの馬車の上の男は赤敏鵜によってとどめを刺されようとしている。それよりも他の兵士たちに矢を浴びせかけるほうが重要だ。
「こいつら、羊より鈍いぜ」
 馬蹄の轟音のなか、赤敏鵜は白恐蝮にむかって剣を振り上げた。
「うっ」
 赤敏鵜は脇腹に痛みを覚えた。脇腹に手をやると、矢が突き刺さっている。白弱鴇率いる伏兵が動きだしたのだ。通胸路の両脇の茂みのなかから、七百人の兵士が矢の先を赤族の騎兵たちにむける。
「待ち伏せだ」
 赤熱鷲の声が上がった。赤族の騎馬兵たちは、矢の雨を避けながら撤退を始める。白恐蝮は、足を引きずりながら、馬車の下に身を隠した。足が火で焼いたように痛む。声を出そうにも、痛みで声が出ない。白恐蝮は、馬車の下から周囲の様子を伺った。先ほどまで彼の命を狙っていた少年が、体に何本もの矢を受けて倒れていた。一瞬遅ければ、倒れていたのは自分だっただろう。
 赤族の兵士の声が遠退いていった。白恐蝮は、痛みを堪えて時を待った。兵士たちの興奮が冷めやまぬ間に慌てて出てゆけば、誤って矢を射られるかもしれない。馬車の周囲に、白族の兵たちの声が聞こえてきた。
「恐蝮、赤族は閉腸谷に撤退したよ」
 兵士たちは馬車を押し退け、白恐蝮を救出する。千人長の白弱鴇が、彼の姿を見下ろしている。
「若様、彼我の損害は」
「まだ正確には分かっていないけど、こちらの被害は百人程度。赤族の被害は五十人程度。赤族の兵士一人で、白大国の兵士十人と戦えると言われているから、そういう意味では善戦したと思うよ」
 こちらの被害のほうが圧倒的に多い。白恐蝮は唇を噛んだ。これだけ完璧に待ち伏せを成功させたのに、敵を五十人しか倒せなかった。白恐蝮は立ちあがろうとした。しかし、右脛の痛みに負けて倒れこんだ。
「くそっ」
 自らの足を責めるように、白恐蝮は右足を叩いた。白恐蝮の表情が暗く沈む。

 閉腸谷周辺の攻防を記し終えたあと、白頼豹は筆を紙から離した。まだ日は傾き始めていないが、日中の熱気はだいぶ冷めてきている。そういえばまだ飯を食べていなかった。白頼豹は紙と筆をしまい、水筒を取りだす。馬の手綱を木の枝から解いたとき、西の茂みで音が聞こえた。
 白頼豹は身を沈め、その場から遠ざかろうとする。だが、背後の茂みに触れてしまい、葉を揺らしてしまった。茂みのなかから、二人の赤族の兵士が現れた。手には、弓矢を持っている。
「白大国の兵だ」
 赤族の兵士は大声を上げながら、矢をつがえ白頼豹にむける。しまった。この距離では、剣しか持たない白頼豹に勝ち目はない。それも相手は二人だ。死を覚悟したときに、一本の矢が飛んできて赤族の兵士の頭に突き刺さった。音を立てて兵士が倒れる。残った一人が、茂みのなかに身を投じて逃げようとする。しかし、それよりも早く次の矢が放たれて兵士の背中を射抜く。
 草を刈り取ったちょっとした広場に、数名の騎馬兵が乗りこんできた。
「このあたりから見下ろせば通胸路を見渡せるから、誰かいると思ったんですよ」
 馬上で弓をもった黒髪の少年黒醇蠍が、背後の立派な鎧兜の指揮官にむかって声を発した。その指揮官白緩狢は、馬の首を回して白頼豹を見下ろす。
「何者だ。ここで何をしていた」
 黒醇蠍は弓に矢をつがえ、その先端を白頼豹にむける。このような場所に、何も目的を持たない人がいるわけはない。密偵か、もしくはそれに類する者か。
「私は白頼豹というものです。白王様に任命されました、司表配下の兵士の一人です」
 白頼豹は、兵士に選ばれたときの任命書を懐から取りだした。白緩狢は首を回し、黒醇蠍にその紙を取ってくるように命じる。白頼豹は少年に任命書を手渡した。白緩狢はしばしその任命書を読んだあと、白頼豹の姿を見た。司表の一件は、白緩狢の耳にも届いていた。そして、その任務の内容も把握していた。しかし、作戦地域でこのように自由に動かれたのでは始末が悪い。
「馬があるようだな、馬は得意か」
「はい、赤族にも劣らぬと自負しております」
「では、私に付いてこい。作戦地域で勝手に動く白族のものがいれば、都合が悪いことぐらい分かるだろう。これよりのちは、我が軍に従属し、記録を残すことを命じる」
 記録は最終的に白王の目に触れることになるだろう。そうであるのならば、白緩狢にしてみれば、自分にとって都合のよい情報だけをこの兵士に与えておいたほうが有利だ。任命書は本物だった。例え偽物であったにせよ、この男をこの場で放逐するわけにはいかない。
「先ほど赤族の兵士が大声をあげたな、急いでこの場を離れるぞ。すぐに赤族の兵士がやってくる」
 白頼豹は荷物を背負い、馬にまたがった。そのとき、腹が物欲しげに鳴った。朝から食事を取っていないことを、今更ながらに思い出した。その腹の音が聞こえたのか、白緩狢は懐から一つ飴玉を取りだして白頼豹に放った。
「休憩を取るまではまだ時間がある。その飴で、当座の飢えを凌げ」
 白緩狢は部下たちを先行させて、再び進軍を開始した。

 赤族の本陣は、閉腸谷の間近に移動していた。閉腸谷のなかに大軍は置けないが、随時兵士の出し入れは必要である。それに、白大国の兵士が、山岳を超え、閉腸谷を取り囲むように布陣する可能性もある。この場所に本陣を置いたのは、そのような敵兵の動きを牽制する狙いもあった。
 本陣のなかでも一際大きな天幕のなかに、族長代理の赤堅虎はいる。代理とはいっても、彼は前族長である。兵たちの士気に変わりはない。赤堅虎は、閉腸谷周辺の市表の写しに目を落としていた。果たして敵はどう出てくるか。閉腸谷の下も上も、赤族の兵士で固めてある。それに、山岳の要所々々は兵士に巡回させている。そう簡単には、突破されないはずだ。
 だが懸念もある。閉腸谷を要塞化させるために、慣れない土木作業もおこなわせているのだが、この進捗は思わしくない。白大国のように、砦を築くための技術も経験もないのだ。木を切り倒してきて、柵のように並べるのが精一杯だ。白大国が開喉丘に築いているような、石造りの堅牢な砦などを作ることはできないだろう。
 恒久の要塞化を伴わない接敵地点の占拠は、所詮時間稼ぎにしか過ぎない。赤堅虎の役目は、白大国の意識をこの戦場に釘付けにし、かつ赤族を守ることにある。さて、何日引き伸ばせることやら。赤堅虎は、市表の写しを丸めて懐にしまった。
 赤熱鷲が荒々しく天幕のなかに入ってきた。背や肩に、何本もの矢を受けている。しかし、その傷を意に介さないかのように、赤熱鷲は天幕のなかで大声を上げた。
「しくじりました。罠にかけられ、うまく誘い出されて、兵を五十人も失ってしまいました」
「ふむ。で、何人倒した」
「百人ばかりでしょうかな」
「罠にかかったくせに、敵の損害のほうが大きいようだな」
「罠でなければ、敵を千人でも射抜いておりますよ」
「で、敵は何人ほど攻めてきたのだ」
「三百人ぐらいです」
「三百人しか攻めてこなかったのに、千人も倒すのか」
「むっ、言われてみればそうですな。何、開喉丘まで攻め入って、敵を射抜いてきておりますわ」
 赤熱鷲は笑い声を上げた。二人はともに天幕の外に出た。眼前には山岳地帯が広がっている。この山脈は、白族や黄族の住む平原と、赤族の住む草原とを隔てる干渉地帯となっていた。だがその役目も、そろそろ終わりになるのかもしれない。
 天幕から出てきた赤堅虎の姿を認めて、彼の護衛に志願した兵たちが周囲に付き随う。常人の二倍の身長を誇る赤高象の姿が見える。女戦士の赤凌狛の姿も見える。いずれも、通常の軍団からはみ出したあぶれ者であるといえる。十数人ばかりが赤堅虎に続く。
 赤堅虎は東の空を仰いだ。果たして赤栄虎は無事に海都までたどりつけるだろうか。赤堅虎は、無言で息子のことを思った。

 明け方。山間部には、幽玄を思わせる霧が立ちこめていた。閉腸谷の崖の上に陣取っていた赤族の兵士たちは、若干の歩哨を残して寝静まっている。その霧のなかを、藁の靴を履き、足音を消した歩兵の一団が進んでいく。この時間帯こそが、赤族の兵士の視界と白大国の兵士の視界とがともに無になる瞬間であった。
 歩兵たちが通る道は、人の肩幅二つ分ほどしかない山の崖際の道である。過去にこの地で地すべりがあったのだろう、切り立った崖は地層を露出させていた。その地層の土の硬さの違いが、この細道を作っている。足を踏み外せば即死である。兵士たちのあとには、騎兵たちもこの崖の道を通る。馬の脚にも、人の足同様、藁の靴が履かされており、その足音を消している。馬の口には網状にした藁で作った袋が被せてあった。白大国の兵士たちは黙々と進んでいく。
 通胸路の北側、白緩狢が率いる五百の兵が、無言のうちに閉腸谷に侵入した。予定通りならば、南側でも同じように赤族の占拠している場所に、白大国の兵が侵入しているはずだ。赤族の兵士たちの注意は、昨日の白弱鴇たちの戦闘で通胸路に集まっている。またとない攻撃の機会だった。
 白大国の弓兵たちは霧のなか、それぞれ手の届く範囲に散開した。大きな声を出すのは避けたい。白緩狢は、霧が晴れ始める日の出の瞬間を待ち、もっとも近い兵士の背中を叩いた。その兵士の弓から矢が放たれる。その音を聞いて、その左右の兵士たちが次々と矢を放つ。水面に落とした水滴が、その周囲に波紋を広げるように、矢のさざなみが崖の上に静かに広がった。矢は霧のなかに吸いこまれていき、そのむこうからは人々の悲鳴が沸き起こった。そのとき日が昇った。陽光が霧を裂き、山岳地帯に視界が戻り始める。弓兵隊は、続け様に矢を放った。赤族の兵士たちも弓を構え始める。
「騎馬隊突撃」
 日光が霧をなぎ払った瞬間、白緩狢は大声を上げた。甲高い声が、谷間に響く。二百の騎馬隊が、剣先をきらめかせて赤族の野営地に突撃する。元より敵を攻撃する目的で突撃をさせてはいない。相手を混乱状態にさせればよいだけだ。このような崖の上で突撃などできるわけはない。だが、そう思って休んでいる赤族の兵士たちにとっては、この掛け声と、馬蹄の轟きは恐怖以外の何物でもなかっただろう。恐慌状態に陥った赤族の兵士の多くが崖から落下して死亡した。白大国の騎馬兵たちは、敵を深追いせずに引き返す。彼らが戻ってきたところで、再び矢の雨が降り注いだ。
 騎馬隊の突撃に参加した黒醇蠍は、弓兵の後方に引き返してきていた。緊張のため、既に息が上がっている。馬の巧者を集めていたのは知っていたが、こんなきわどい馬の乗りこなしを要求されるとは思っていなかった。自称馬の巧者たちのなかには、馬を御しきれずに崖を飛び越えていった者もいた。
「騎馬隊、隊列を整えろ。再度突撃するぞ」
 白緩狢の鋭い声が響いた。南側の崖でも、同じような戦闘が始まっていた。黒醇蠍は手綱を引き、馬のむきを変えた。
 霧が完全に引いたあと、閉腸谷の上には、五百ずつの白大国の兵士が陣取っていた。当然のように谷の下に矢の雨が降り注ぐ。白緩狢は、合図の取り決めをしていた銅鑼を鳴らさせた。通胸路に銅鑼の音がこだまする。鬨の声とともに、東から兵士たちが駆けてきた。矢が降り注ぎ混乱した兵士たち目掛けて、白大国の兵が殺到した。決死の突撃兵である。氾濫する川の流れのように、その兵士らは通胸路を駆けていった。そのなかには、草原の偵察に赴いたことがある百人長白晴熊の姿もあった。
 彼らは狭い通路を一気に駆け、混乱の極みに至った閉腸谷の赤族たちを蹴散らした。すぐさま、草原から無数の騎馬兵たちが矢のように閉腸谷めがけて駆けてくる。赤族の馬上の兵士が放った矢が、白晴熊の部下たちの体を貫いていく。谷の上の両岸から、白緩狢率いる兵たちが矢を放っているのだが、この高所にあっても赤族の兵士たちの矢の飛距離には敵わない。
「撤退」
 せめて敵の矢の範囲外まで出なければ、いい的なだけだ。白晴熊は部下を引き連れ通胸路を引き返した。そのあいだにも、次々と兵士の数が失われていく。突如矢の攻撃が止まった。崖の上の白大国の兵の射程内に赤族の兵士が入ったのだ。今度は白大国が、赤族に矢を浴びせかける番だった。だが、そのときしわがれた大声が草原に響いた。赤堅虎の声である。赤堅虎の役目は、悪戯に兵を減らすことではない。赤栄虎が戻ってくるまでのあいだ、草原を防衛することが役目なのだ。赤族の兵士たちは草原に引き返す。
 閉腸谷の周囲は、明け方に相応しい静寂に包まれた。

 それから数日の様子を、白頼豹は克明に記録した。白頼豹は紙に筆を走らせる。
 閉腸谷の下には、白大国の兵も赤族の兵も入れなかった。その均衡を破ったのは、崖の上への投石機の設置であった。白大国の軍事の優れている点は、多くの建築資材や攻城兵器などを、規格品として用意していることであった。投石機もその例外ではなく、分解して狭い道であろうと輸送できるようになっていた。
 崖の上への赤族の攻撃は、白大国の占拠以降も続いてはいたが、平地を攻めるときほどの攻撃力は持っていなかった。
 閉腸谷の崖の上、左右両翼に十ずつの投石機が並んだのは、白緩狢が崖の上を攻めてから五日後のことであった。その投石機から発射される石弾の射程が、赤族の弓の射程を上回ったのだ。狙いの正確さ、連射能力は低いものの、射程で赤族を凌駕したという精神的効果が大きかった。散発的な抵抗は続いたものの、閉腸谷は白大国の占領する場所となった。
 白緩狢が白王と約束していた一ヶ月後には閉腸谷の砦は完成していた。南北の崖をつなぎ、その崖の左右に十台ずつの投石機が備わった強力な要塞ができあがった。閉腸谷近くの赤族の陣営は、その頃には完全に引き払われていた。草原という地の利を活かした戦術に切りかえる予定なのであろう。
 近く、白惨蟹以下の軍団長がこの閉腸谷の砦まで進軍してくるそうだ。その数は十万人。十軍団分の兵員だ。開喉丘から閉腸谷までを、一つの巨大な砦として運用する予定だそうだ。
 そこまで紙に書き、白頼豹は筆を止めた。
 白頼豹は顔を上げる。
 その身は閉腸谷に渡された城壁の上にある。眼前には、草原に没する陽の姿がある。草原は大海原のように広がり、太陽は水平線に沈んでいくように見えた。これほどの広い土地を、どうやって攻略するというのだ。白頼豹は、ふと不安を覚えた。


  五 緑輝宮

 蒼海を臨む宮殿の最上階で、絶世の美男子と超絶の美女が海を眺めている。陽は彼らを祝福するかのように大地に降り注いでおり、彼らの背後にある二人の国の土地は、豊かな水と年中輝く陽射しによって緑に覆われていた。
 彼らが住む宮殿は緑輝宮という。宮殿は、緑輝蝗と緑輝蛍の兄妹が、その配下たちに作らせたものである。兄の緑輝蝗は、胸を張って海を眺めている。最上階のその部屋は海側に壁がなく、どこまでも広がる大海原が眺望できるようになっていた。妹の緑輝蛍は、長椅子の上に気だるそうに横になっている。彼女も海を見つめている。
 緑輝蝗が、大海原を見ながら声を上げた。
「このように天気がいいと、一つ戦争でもしたくなるな」
 緑輝蛍が、面倒臭そうにその言葉に答える。
「あら、お兄さま。都合がいいことに、長焉市に報復をおこなうんじゃなかったかしら。裏切り者には死を、それが緑輝王朝の方針だったはずでしょう。折角だから、軍団を率いて攻めてしまえばいいんじゃないの」
「輝蛍よ、お前は頭がいい。そうだな、よし、今度は長焉市を攻めることにしよう」
「ちょうど都合がいいことに、今日は国中の部族の長たちが、私たちの機嫌を伺いに集まってきているわよ。その者たちに命じて、兵を出させればいいわ」
「さすがだ輝蛍よ。これで攻撃先も、兵士も揃った。また、戦争を楽しめるというものだ。さて、それでは、部族の長たちに攻撃の命令を与えにいこう。さあ、輝蛍よ。ともに手を取り合い、彼らの待つ謁見室までゆこうではないか」
 少し間を置いてから、大儀そうに緑輝蛍は長椅子から身を起こした。たおやかな肢体の上を、宝石のように輝く髪が伝わり落ちていく。緑輝蝗は緑輝蛍にむかって手をさし伸ばした。その手を取り、緑輝蛍が立ちあがる。二人は手をつないだまま、階下へと続く階段にむかって歩きだした。

 謁見室には、緑輝によって占領された数十の部族の長たちが集まっていた。老いもいれば若きもいる。男も女もそのなかにはいた。彼らは恭順を誓わされはしていたが、一定の税と兵員の供出以外は、特に高圧的な支配を受けることもなかった。いや、彼らは進んでこの緑輝兄妹のために協力を申し出た。特に見返りを求めてのことではない。二人の圧倒的な神々しさに打たれ、彼ら諸部族の長は心酔しきっていたのだ。
 部屋に集った部族の長たちのなかには、猛獣使い、猛虫使いの一族の長たちもいた。彼らは、この緑輝の王国の重要な戦力の一端を担っていた。彼らは、今か今かと緑輝兄妹の登場を待ちわびている。
 謁見室は、劇場のようになっていた。部族の長たちは観客席に相当する場所に陣取っており、その正面には舞台となる空間が作られていた。その舞台の袖から光が溢れてくる。その場にいる全員が感激の声を漏らす。袖から現れた後光をまとった二人の人物は、彼らが崇拝してやまない緑輝兄妹であったからだ。
 緑輝蝗と緑輝蛍は、手をつないだまま舞台の中央で立ち止まった。各々の部族の長たちが感激で涙を流す。観客席のなかから、歳若い少女が進みでてきた。名を緑純鮎という、象使いの部族の若い長である。その頬は紅潮しており、目には感激の涙をたたえている。
「緑輝蝗様、これまで以上の忠誠を誓います」
 緑純鮎は張り裂けんばかりの声を上げた。
「それは、とっても嬉しいことだね」
 緑輝蝗は片手で緑純鮎を抱き寄せてやり、その唇に自分の唇を重ねてやった。緑純鮎の四肢から力が抜け、その場にへたりこむ。目には恍惚を浮かべている。他の部族の長たちも、我先にと舞台の上に駆けあがり、緑輝兄妹に拝謁した。そのそれぞれを抱きしめ、兄妹は優しい言葉を投げかけてやった。一通りの挨拶が終わったあと、緑輝蝗は大声をあげた。
「戦争をする、攻撃場所は長焉市だ」
 部族の長たちがどよめいた。緑輝兄妹に奉仕する絶好の機会がやってきたのだ。すぐさま緑輝兄妹の前に進み出る青年の姿があった。緑珍鼠という、豹使いの少数部族の者だ。
「ぜひ、その戦に参加させてください」
 他の者たちも、我先にと参加を申しでる。その様子を、緑輝蝗は満足そうに見ている。
「全員連れていく、と言いたいところだが船の問題もある。少し多いようだな。輝蛍よ、どうすればよいかな」
「あら、簡単じゃない。邪魔な人数は殺してしまえばよいのよ」
「さすがだ輝蛍、お前は頭がよい」
 その声と同時に、部族の長たちは武器を手に取り、お互いに戦いを始めた。元々反目しあっていた部族も少なくない。緑輝兄妹の許可が下りれば、すぐにでも殺し合いを始める理由はある。
 たちまち数人の首が飛び、舞台が血にまみれた。まだ歳若い緑純鮎の顔に大量の血が降り注ぐ。少女は目を見開いて青い顔になり、座ったまま全身を震わせた。
「よし、それまで」
 緑輝蝗の声で、殺戮は終了した。死んだのは五人。これで船の数も足りるだろう。残った面々を緑輝蝗が満足そうに見渡していると、舞台の袖から緑輝蛍に小声で囁くものがあった。
「緑輝蛍様、船の数は足りていますよ」
 緑輝蛍は少し首を傾げて、袖から声をかけてきた手下に小声を返した。
「お兄さまったら、また勘違いね。本当に馬鹿なんだから」
 そのやり取りに気付かぬまま、緑輝蝗は片手を振り上げ大声を発した。
「我々の手で、長焉市に死を」
 その場の全員が沸き立った。
「緑輝蝗様に勝利を。緑輝蛍様に勝利を」
 緑純鮎も青い顔のまま絶叫した。緑輝兄妹は、その様子を満足そうに眺めていた。


  六 大陸周回航路

 大陸の東の洋上を、季節風を帆に受けて十隻の船団が疾走している。その船団は、古の大陸周回航路を復活させるために海都を出発した船たちである。天気快晴、視界良好、順風満帆、波も穏やかだで航海は順調そのものであった。つまるところ船に乗りこんだ人々の多くは暇であった。船上の人員の多くは、甲板の上で春の陽射しと海の風を受けてくつろいでいる。
 その船の一つの甲板に、人だかりができていた。その人だかりの中心では、青年と幼い少女がにらみ合いをしている。青年の右手には、長剣ほどの長さの木の棒があり、左手には短剣ほどの長さの木の棒がある。対して少女は、両手で少し短めの木の棒を構えている。
「白麗蝶様に三枚」
「俺は十枚いくぞ」
「今度こそ青勇隼に一枚」
「おいおい、一枚かよ、じゃあ俺は白麗蝶様に二十枚」
 周囲の人々が口々に賭けの銅銭を樽のなかに投げこむ。既にこの幼い少女は船員たちから一目置かれていて、様付けで呼ばれていた。
「よかったな青勇隼。合計十枚もお前に賭けられているぞ」
 白麗蝶が、意地悪そうに微笑む。樽の前には白楽猫が陣取っている。周囲の男たちが好き放題に発した声のすべてを白麗蝶は記憶しており、順番に繰り返して白楽猫に伝えていく。とてもではないが、一度に覚え切れる量ではない。白楽猫は目を回して、その場に座りこむ。
「白麗蝶様、無理ですよそんなにいっぺんに」
「仕様がないのう」
 白麗蝶は、白楽猫のほうにむきなおる。
「隙あり」
 青勇隼は長いほうの棒を白麗蝶にむけて振り下ろした。白麗蝶は、二歩進んでその棒をかわす。青勇隼は続け様に踏みこみ、短い棒で突く。今度は白麗蝶は一歩右に動き、素早く左手で木の棒を後ろにむけて振り上げた。木の棒の先端が青勇隼の鼻の先にあたり、鼻血が吹き出す。白麗蝶は振りかえり、笑いを噛み締めて声を出す。
「すまんな、後ろにいるとは思わなかった。まさか青勇隼ともあろうものが、女を背後から襲うとは」
「そうだ、そうだ」
 周囲の野次馬たちが、青勇隼を非難する声を上げる。青勇隼はその場で両手を挙げて、目をむいて怒鳴った。
「えーい、どうしろって言うんだよ。前から攻めても、横から攻めても、後ろから攻めても全部かわされてしまう。うおー、一かすりもしねえ」
「いやー、今日も白麗蝶様の勝ちだったな」
「しかしこれじゃあ賭けも成立しねえ」
「本当だ、本当だ」
 甲板上で絶叫している青勇隼を放っておいて、船員たちは白楽猫から銅銭を受け取って散らばっていく。
「しかし、本当にお主は弱いのう」
 白麗蝶が呆れた顔で青勇隼を見上げる。
「俺が弱いんじゃなくて、白麗蝶様が強過ぎるの」
「ふむ、剣の道は一日にしてならずだ。よし、そろそろ暇になってきたことだし。青勇隼、お主を私の弟子にしてやろう」
「今度はどんな遊びなんですか」
 白楽猫が、楽しそうに白麗蝶に問いかける。
「うむ、楽猫よ。青勇隼一週間強化計画だ。たった七日で、みるみる強くなる地獄の特訓という奴だ」
「それは面白そうですね」
 白楽猫は、鼻血を出している青勇隼に、きれいに洗った手拭いを差し出す。
「ふふふ、お嬢さん。一週間後に見違えるほどたくましくなった俺に、びっくりしないで下さいよ」
 青勇隼は、手拭いを受け取りながら、白楽猫の手を握り締めた。
「馬鹿もん」
 痛烈な一撃が青勇隼の頭を襲う。
「人の従者に勝手に手を出すでない。他の船員にも言っておる通り、私の従者に手を出せば、手足の五、六本は覚悟しておけよ。さあ、立て。地獄の七日間特訓はもう始まっておるぞ。まずは、逆立ちしながら、甲板の上を十周だ」
「そんな無茶な」
 青勇隼の声を受け、白麗蝶は揺れる甲板上で逆立ちをした。そして、普通に歩くように青勇隼の周りを回り始める。この少女にとっては、揺れる船の上でのこの程度の運動は簡単な部類に入るのだろう。青勇隼は仕方なく、何度もひっくり返りながら甲板の上を、逆立ちで歩き始めた。

「いやー、楽しそうですね」
 日は既に沈んでいた。天には宝石を散りばめたように星空が広がっている。まだ夜になると冷たい海の風を受けながら、青遠鴎は船長にむけて語りかけた。
 昼は白麗蝶と青勇隼の剣の試合が催され、夜になれば白楽猫が数々の芸を披露する。船員たちはそれらの出し物を楽しそうに見ている。今は白楽猫の興行の時間だ。白楽猫の芸も幅が広い。歌唱、楽器、物語と、日によって異なった芸を見せ、船員たちを喜ばせている。今日は横笛を吹いている。普通、長い航海になると、船員たちの不満が募るものだが、この船だけはそういうこととは無縁でいられそうだ。白楽猫に手を出そうとする者もいない。白麗蝶が厳しく目を光らせているからだ。いつのまにか白麗蝶に付き随う兵士たちも出て来ており、彼女の身の回りの世話を焼いている。人徳と言うのか、自然と人が彼女の周りに集まっているようだ。
 青遠鴎は、船長以下の船の中核人員たちに、長焉市以南の情勢の説明をしていた。大陸南東に位置する象の鼻と呼ばれる航路の難所辺りを中心に、最近緑輝という海賊団が勢力を広げている。その緑輝と長焉市の舟大家の家長が、最近まで取り引きをおこなっており、その取り引きがつい最近、青美鶴の命令で取り止めになった。そのために、象の鼻周辺を通過するときには特に警戒が必要である。そういったことを、青遠鴎は船長たちに伝えていく。
「まあ、なるようになるじゃろう」
 それが船長の結論であった。十分準備と警戒はおこなっておく。だが、最終的に何が起こるかは、神のみぞ知ることだ。船に乗る者たちは、どこかそういった達観している部分があった。海に出れば、人ができることの範囲がいかに小さいのかを思い知らされる。大波、大風、嵐、凪、すべてが人間の力では覆せない自然現象だ。そういう厳しい自然のなかで人生の大半を送れば、大概のことには動じない心になるのだろう。
 青遠鴎は、再び甲板の上を見た。白楽猫の笛の演奏が終わったようだ。集まっていた船員たちから拍手が沸き起こる。少し離れたところでは、白麗蝶が青勇隼を追い回していた。まだ青勇隼の稽古が続いているのだろうか。白麗蝶、白楽猫、青勇隼を知らない者は、今ではこの船の上にはいない。いわば、彼女たちを中心に船が動いているようなものだ。変な船に乗り合わせたものだ。
「しかしなあ、青勇隼はあれで体が持つのだろうか」
 夜まで追い回されている青勇隼を見て、少しだけ青遠鴎は心配になった。

 旗艦船上、同日同時刻。
 夜の闇のなかを、船は水をかき分けて穏やかに進んでいる。この旗艦の甲板上には特別に立派なしつらえの屋形が作られていた。その屋形のなかには、この大陸周回航路の船団の建造を依頼した本人が、黒い覆面をつけたまま住んでいる。
 その屋形の周囲を歩きながら、司表配下の青凛鮫は、どこか中を窺える場所はないものかと壁を探っていた。もう出港してから五日経っている。そのあいだ何度か屋形のなかに住む依頼主の姿を見かけたが、ついに声すら聞くことができなかった。一体、何者なのだろうか。青凛鮫が何度か屋形を回ったとき、屋形の扉が開いた。なかからは、上機嫌な船長が出てくる。酒が入っているらしい。なかで飲んでいたのだろうか。
「うん、君は青凛鮫だったな。こんな時間に何をしている」
 船長は特に叱るでもない口調で、青凛鮫に問いかけてきた。
「いえ、眠れなくて」
 あらかじめ用意していた答えを、青凛鮫は返した。
「屋形のなかの方と話しをされていたのですか」
 船長は何かを言いかけて、慌てて口をつぐんだ。急に酔いが冷めたのか真顔になる。
「いや、お前には関係のないことだ。それよりも早く寝ろ。わしももう寝る」
 そういうと、船長は屋形を離れていった。青凛鮫は、船長の振りをして、屋形の扉の前に近づいていく。扉を叩き、船長の口調を真似て、忘れ物をしたことを告げる。黒覆面の声が聞けるかもしれないと思ったのだが返事はない。しばらく待ってみたがついに声はなかった。なかの明かりは点いている。まだ寝ているというわけではないだろう。しばらくしてから、部屋の明かりが消えた。どうやら、完全に無視されてしまったようだ。ここまで徹底して情報を漏らさない配慮をしているとは思ってもいなかった。なかの人物は、いったいどういう素性の者なのだろうか。
 青凛鮫は、諦めて甲板の下の寝床へとむかった。

 白麗蝶たちが乗る大陸周回航路船から遅れること半日。一回り小さな船に乗りこんだ白大狼たちは、先行する船を追い、南方にむけ帆走していた。視界の先に船の姿は見えず、船員の腕を信じてただひたすら待つしかない日々が続いていた。最初の二日ぐらいは洋上で追いつけるかもしれないという淡い期待も持ったが、今ではその望みを捨てている。途中で寄港する予定の長焉市で追いつくしかないだろう。白大狼は、三日目からは船室にこもり、史表の写しを読み始めていた。船上では、船員でなければ時間は腐るほどある。その時間をすべて、白大狼は史表の読書のために充てた。
 船室の戸が叩かれる音がした。白都の王宮の自室にいたときと同様に、白大狼は机の引き出しのなかに史表を仕舞った。彼は、自分が読んでいる書物を他人に詮索されるのを好まない。読んでいる書物によって、その人物を量られるのを避けるためだ。
「白愛鹿です」
「どうぞ」
 青年の兵士が入ってきた。白大狼はこの人物を知っている。白麗蝶の出奔の手引きをした白好鳩の弟だ。古来より次男以降の男児は、兵にでもなるか己の才覚で新たな家を興すかぐらいしか、自らの人生を切り開く道はない。この白愛鹿も、その例に漏れず、兵士として白都の警備隊に加わっていた。
「このたびは兄がとんでもないことをしてしまい、申し訳ございませんでした。せめてこの汚名を少しでも雪げるように、この私、一身を投げ打って尽力いたします」
 顔が青い。今回の件は、家名断絶の可能性もある不祥事だといえる。まだ胆の据わっていない年齢のこの男が、不安で身を震わせるのは仕方がないことであろう。
「まずは、白麗蝶様を無事連れ戻すことだ。今はそれ以外を考えるな」
 青年の顔はなおも暗い。緊張のためか、唇が震えている。
「そのことだけを言いにきたわけではないようだな」
 白大狼は白愛鹿を促がす。
「はい、長焉市についたら、大陸周回航路船に白麗蝶様を探しにゆかれると思います。その際、一足先に私を派遣していただけないでしょうか。白麗蝶様は、白大狼様の顔を見たら、怖れて逃げ出すかもしれません。見知らぬ顔であれば、それほど警戒されないかもしれませんから」
 真剣な白愛鹿の顔を見ながら、白大狼は優しく微笑んだ。
「考えておくよ」
 白愛鹿は、一礼して船室を退出した。白大狼はため息をつく。考えておく、そうは言ったものの、実際には白大狼がいかざるをえないだろう。あの察しのよい白麗蝶なら、兵士を一人見ただけですべてを了解して逃げだしてしまうかもしれない。そのとき、白麗蝶を追える人間は、白大狼ぐらいしかいない。
「まいったな」
 白大狼は頭をかいた。再び扉を叩く音が聞こえた。
「はい、誰です」
「白恭雁と申します」
 今日は来客が多い。これでは、ゆっくりと史表を読む暇がない。白大狼はもう一度ため息をついた。


  七 大陸横断

 前後左右を取り囲むのは山である。隊列を組み疾走する馬の背には、赤きたてがみの勇者たちがいる。人の目に触れない山間を、風のような速度で進んで行く一団がある。白大国の北方には、飛び石のように低い連山が続いている。その山のなかに身を潜めるようにして進んでいるのは、赤族の遠征部隊である。
 ところどころ山が切れる場所では細心の注意が必要だ。人がいない場所を選んで進んでいるとはいえ、平野では何者に出会うかもしれないからだ。そのような場所では、進むのは夜間である。月明かりの下、無言の騎馬が幽鬼のように進んでいく。幸いまだ何者もこの一団の姿を捉えたものはいない。幸いというのは、目撃者にとっての言葉であろう。千のたてがみから覗く二千の目は、白大国に住む何者よりも遠くを見、その動きを見逃すことはないからだ。もし、赤い疾風の動きに気付く者がいれば、たちどころに矢がその命の火を吹き消すだろう。矢で射抜かれた者は、その矢がどこから飛来したかも判別できないまま死をむかえるに違いない。
 彼ら赤族の精鋭たちの周囲で、山の起伏に富んだ景色が風のように過ぎていく。十五日目。市表を見れば、半分の旅程をこなしたことが分かる。細い山道を駆け、入り組んだ谷の底を抜け、足もとの不安定な沼地も抜けた。市表と赤族の人馬の能力は、それらの障害を、一つ一つ確実に乗り越えていった。
「止まれ、休憩を取るぞ。馬に草を食べさせろ」
 一団の先頭を進んでいた赤栄虎が全軍を止めた。そこは、盆地の草原になっていた。このように、馬が食べられる草が茂っているところをその道程に組み入れることで、遠征の荷物は大幅に減らしてあった。赤栄虎は大陸をくまなく歩き回り、このような草の生えている土地を余すことなく頭のなかに入れていた。兵士たちも馬を下り、周囲に生息している兎や鹿などの動物を矢でしとめる。すぐにその場で解体し、即席のかまどをつくり表面を焼き固める。解体前に抜いた血は、貴重な栄養源として、兵士たちのあいだで回し飲みされる。糧食は持ってきているが、節約するに越したことはない。
 兵士たちが手際よく作業を進めるなか、赤栄虎は十人の軍団長を呼び集めた。一人百人ずつ兵を率いるように人数を分けてある。本来の赤族の軍団の区分とは違う、今回の遠征のための編成だ。赤栄虎は十人の軍団長を見渡した。彼の腹心と言える赤朗羊、弓の名手の赤荒鶏、冷静沈着な赤烈馬、その他いずれも劣らぬ赤族の精鋭たちだ。
「お前たちにいい物を見せてやる。馬に乗れ」
 十一人は、再び騎乗した。赤栄虎は、手近の兵にすぐ戻ることを告げ、馬の腹を蹴った。行く先は南、山の峰である。十騎が付き随う。景色は彼らの周囲で流れるように過ぎ、目の前の峰に至ったとき、景色が急に開けた。眼下には、白大国の田畑が地を埋め尽くすように広がっていた。大地にひびのように入った川の細流が、田畑を潤している。その光景が、見渡す限り地平線の彼方まで続いている。田畑の切れ目には家がある。赤族の移動可能な住居ではなく、岩のように不動の住居である。
「これが白大国だ」
 彼らの目の前に広がる大地には、一片の草原もなく、すべての土地に人の手が入っているように見えた。
「白王は、俺たちの住む草原を、このような景色に変えたがっている」
 赤栄虎の言葉を耳で聞きながら、赤族の軍団長たちはその景色を苦い顔で見つめている。この景色ほど、赤族と白大国の考え方の違いを表わしているものはなかったからだ。
「白王というのは、これほどの大地を得ているのに、何が不足なんじゃろうな。大陸中の大地を私有する。そんな大それたことを、なぜ考えているのじゃろう」
 赤朗羊が声をこぼした。他の軍団長たちも頷く。彼らはその耕された大地を見続けた。空の雲が動き、大地に落とす影が形を変えながら流れてゆく。
「分からないでもないがな」
 何が、ということは言わず、赤栄虎がつぶやいた。
「戻るぞ」
 赤栄虎は馬のむきを変え、坂道を駆け下りた。十人の軍団長がそのあとに続く。行程は残り半分。海都襲撃の瞬間は近づきつつあった。

 一ヶ月。大陸横断に費やした日数である。人目につかない場所を選び、駆けに駆けて大陸の東端に達した。疲労を癒すこともなく、赤族の千人は、現在海都近くの山のなかに身を潜めている。彼らの目は、すでに殺気だっている。
 その赤族の集結地から、十一騎の騎馬武者が離れていった。海都が見える山の峰まで偵察にいくためだ。赤栄虎と軍団長たちは、山の峰を越え、眼下に海都を見渡せる位置まで移動した。彼らの目に、海都の眺望が広がった。
 彼らのいる山から海都までは平坦な田畑が広がっている。これらの田畑は、海都に新鮮な食料を供給するための農地である。その平地の先に海都の姿が見える。東と南は海と川に接し、船でなければ攻略不可能であった。北と西は石壁が連なっており、騎馬で越えることはできなくなっている。その天然と人工の障害に囲まれた海都を見て、彼ら軍団長たちは驚きの声を上げた。だが彼らが驚いたのは、街の守りに対してではなかった。その都市の巨大さと行き交う人々の多さに驚いたのである。海や川には無数の船が浮かび、都市の外門に続く道には、大勢の人々が徒歩で、馬で、馬車を引いて移動し続けている。その規模の大きさは、彼ら軍団長たちの想像を遥かに超えていた。
「さて、どう海都を攻めるかだが」
 そう言って赤栄虎は、軍団長たちが目を丸くしているのに気付いた。
「おいおい、何を呆けているんだ」
「いや、赤栄虎様。こんなに大きな都市を、どうやって攻め落とすというのですか」
 赤朗羊が、尻込みしたかのように声をあげる。
「外から落とすのは無理だな」
 こともなげに、赤栄虎が答える。
「ええぇ」
 赤朗羊が驚きの声を上げる。
「じゃあ、こんな遠くまで、わしらは何をしにやってきたんじゃ」
 力なく赤朗羊はうな垂れる。
「外からは無理だと言っただけだ。何も正直に正面から攻める必要はない。中から攻めればいいだけだ。街のなかに何人かが入り、夜に城壁の門を開く。五十人も街に入れば門の一つぐらい開けられるだろう」
「しかしどうやって入るのですか」
「この街はな、商売の街なのさ。赤族であろうが、その他の民族であろうが、商人なら引っ切りなしに出入りしている。それに、旅の者も多数出入りしている。武装せずに、旅装で気軽に入れば、一人二人は見咎められない場所なのさ。だから、武器を持たず、馬にも乗らず、旅行者の振りをして、ばらばらの門から日をずらして一人ずつ入れば、止められることもない」
「しかし、武器も馬もなければ石壁の門を開くことはできますまい」
「馬と武器は俺が持っていく」
 赤栄虎はそう言うと、懐から剃刀を取りだした。その剃刀を頭に当て、真っ赤なたてがみのような髪を剃り落とし始める。一ヶ月の行軍で伸びきった髭も落とした。
「あわわ、赤栄虎様」
 赤朗羊をはじめとする軍団長たちが慌てふためく。赤族の者たちにとって、その立派な赤い髪は、赤族の象徴ともいうべきものであったからだ。
「ふー、すっきりした。これで、まっとうな赤族の男には見えなくなっただろう。赤族の出自を嫌って草原を飛びだしてきた、そんな男にしか見えんな。いいか、今日から数日間、俺は海都を訪れる薪商人となる。五人ほど、俺の下僕となり荷運びをおこなう人間が必要だ。残り四十五人、頭のいいやつを選び、ばらばらに海都に侵入させる。集結場所は地図を書いて指示する。その五十人で西の門の一つを開き、残りの人数を一気に侵入させる。
 先行部隊の侵入は明日から、五日後には全部隊の侵入を決行する。先行部隊以外は五日の休息期間がある。疲れを癒すには十分だろう。すぐに先行部隊を選抜し、偽装工作を始めるぞ」
「偽装工作ですか」
 怪訝な顔で、赤朗羊が問いかける。
「ああ、弓矢をそのまま持ちこむわけにはいかないだろう。薪のなかにくるんで、隠してしまわないとな。幸いなことに、海都は大都市だ。薪の使用量も半端じゃない。薪を運び入れる商人も多い。馬の背に薪を満載して、海都に堂々と入ることができるだろう」
「途中で止められたりはせぬのですか」
「大丈夫だ」
 赤栄虎は、懐から重そうな小袋を取りだした。なかには金貨銀貨が入っている。
「いざという場合には、この袋の中身を使えばいい。それよりも心配なのは、海都に侵入する五十人の選抜だな。何せ赤族の者は世事に疎いからなあ」
「うーん」
 十人の軍団長たちは腕組みをして考えこんでしまった。彼らもこんな大都市は訪れたことがなかったからだ。

 最終的に侵入する人員は、海都ほどの大都市ではないにしろ、過去に広源市などの地方都市を訪れたことがある者たちに決められた。いきなり海都に行って騒ぎを起こすような者は、今回の作戦の役には立たない。また、海都内部から門を一つ占拠する必要があるので、弓の巧者たちも加えられた。その弓の一隊は、赤荒鶏が率いることになった。
 翌日早朝。五十人の赤族の兵士らは、近くの川で体を洗い、赤族の戦闘装束から旅人の衣装に着替えて赤栄虎の前に整列した。海都の地図も頭のなかに叩きこませた。泊まる宿も、五十人それぞれ別の宿を指定した。赤栄虎にとって海都は、ほんの一年前に訪れた街だ。奥まった場所にある建物まで含め、すべての建物が頭のなかに入っている。
「くれぐれも騒動を起こすなよ。あと、決行の日である四日後までは、互いに顔を合わせても見知らぬ他人の振りをすること。一人の赤族の者を見かけても単なる偶然だと思うだろうが、二人の赤族の者が歩いていれば興味を引く。宿に入ったら、出歩くことなく決行日を待て」
 侵入部隊の者たちは無言で頷いた。赤荒鶏は、自慢の長髪をしぶしぶ丸め、赤栄虎の下僕として街に侵入することにした。普段持ちなれている弓も矢も持っていないのは落ちつかない。衣装の着こなしも、どことなくぎこちない。肌に密着した赤族の服と違い、東方風の薄手のひらひらとした服は、始めて着る赤族の者には居心地が悪いものだった。
 それとは対照的に、赤栄虎はどこから見ても海都馴染みの商人という雰囲気に早変わりしていた。彼は最初からこうやって侵入するつもりだったのであろう。必要な人数分の東方風の衣装は、草原を出発する時点で用意されていた。
「さて、まずは俺が侵入する。あとは、今日の午前中に北から五人、西から五人、それぞれ別の門をくぐって海都のなかに入れ。午後に同様に十人。明日も午前、午後と同様にすれば、明後日の午前中には予定していた人数がすべて海都に入ることになる。いいか、くれぐれもいざこざは起こすんじゃないぞ。よし、出発だ」
 赤栄虎は軽やかな足取りで、薪を背に積み込んだ五十頭の馬を引いて山のなかを出発した。赤栄虎が先行するのには理由がある。この一年で、海都の様子がどれだけ変わっているかをその目で確認する必要があったからだ。海都は人や建物の流動の激しい街だ。一年前の情報を元に動けば、思わぬしくじりをするかもしれない。この重要な偵察任務を任せられる人材は赤族のなかにはいない。彼自身がおこなう必要がある。赤栄虎は、こういうときに、赤族の人材の層の薄さを痛感せざるをえない。
 薪商人に扮した赤栄虎たちは、山の峰を越え、海岸線にむけて下り始めた。


  八 史表殿

 大陸の東の端、海都の一角で史表殿造営の工事が進行していた。場所は海都の南西の位置、白大国の造船廠兼兵舎がある場所の横だ。この一帯は、新規に造船廠を建設したために、城壁の拡張もおこなわれており、土地にまだ余裕があった。何より、この一帯は白大国が軍事用地として利用しているために民間の建物はない。その空いている土地の一部を使い史表殿を建設したいという申請は、すぐに許可が下りた。その造営中の史表殿の視察に青聡竜はきている。青聡竜の姿を認め、大工の棟梁が駆けてきた。
「青聡竜様、史表殿の造営は、半ばまで進んでおります。完成までは今しばらくお待ち下さい」
 この建物が完成すれば、早々に移ってくる必要があるだろう。海風神社の社殿では、情報収集には少し不便だからだ。海都の南東の角に立つ灯台に起源を持つ海風神社は、その社殿も海都の南東にあった。白大国の兵舎からも遠いし、舟大家の商館からも少し離れている。理想を言うならば、兵舎と商館のあいだの位置が望ましい。その点、この造営中の史表殿ならば都合がよい。兵舎側に寄り過ぎてはいるが、兵舎と商館のあいだと言える場所に、史表殿は建設されている。
「ああ、期待しているよ」
 青聡竜はそう言い、建設中の史表殿をあとにした。

 青聡竜が海風神社の社殿に戻ると、入れ替わりに史表の写本僧の一人である白涼鴻が奥から現れた。街に出かけるようだ。
「司表様、それでは外出してまいります」
「ああ、あまり遊びすぎるなよ。明日の朝ぐらいまでには戻ってこい」
 白涼鴻は、にこやかにお辞儀をして、街中へとむかった。司表の仕事が始まり、ほとんどの兵が大陸中に散り、仕事は軌道に乗りだしていた。あとは、暗号を覚えきらない面々と、数人の兵士が残っているだけだ。開始時の慌しい期間を過ぎたこともあり、少しずつ、僧たちにも休日の許可を出し始めていた。
「あっ、司表様。お願いがあります」
 社殿に入るやいなや、白太犬が青聡竜の前に転がりこんできた。まだ暗号を覚えられない面々の一人だ。いや、彼の場合は、そもそも文字の学習が水準まで達していない。
「何だい、白太犬。文字の習得は終わったか」
 青聡竜は声をかけてやる。
「いっいえ、まだです。でも、文字は覚えていませんが、雑用でも何でもいいので俺を司表様の役に立つように使ってください」
 立ち止まり、青聡竜はため息をつく。
「よいか白太犬。お前は私の私兵ではない。白王様の命により、白王様に与えられた仕事をするのがお前の役目だ。まずは文字を習得しろ、そうして始めて仕事ができる。与えられた仕事を棄て、勝手に私の雑用をしたいなどということは、今後言うな。それはお前の仕事ではないし、そう命じることも私の仕事ではない。分かったな」
「はっ、はい」
 白太犬は、しょんぼりとうな垂れた。
「司表様、黄清蟻からの手紙が届いております。早速解読しましたので、打ち合わせをおこないたいのですが」
 社殿の奥から、青聡竜の声を聞きつけた白怖鴉が出てきた。兵というよりは、官吏や学者にむいている男であろう。実務処理に優れているので、各地に散らばった兵との連絡係として重宝している。そのような使い方をしているうちに、いつのまにか青聡竜の秘書のような役回りに納まっていた。
「報告内容はどうなっている」
「ええ、黄清蟻が白王様と謁見したらしく、そのときの会話の内容が詳しく書かれています」
「そうか、それは重要だな。後史表にも記載する必要があるだろう」
 二人は言葉を交わしながら社殿の奥へとむかっていった。

 その翌日の午前中、青聡竜は、長焉市へと旅立つ兵士、白激犀を舟大家の港まで送りにいった。海都から長焉市までは、船を乗り継いで一ヶ月から二ヶ月ほどかかるであろうか。長旅である。先に大陸周回航路船に乗った青凛鮫が、長焉市に寄る予定にはなっている。しかし、青凛鮫は長焉市には留まらず、そのまま黒都にむけて船に乗り続ける。長焉市に常駐するものが、一人くらいいたほうがよいだろう。
「それでは青聡竜様、いってまいります」
「ああ、お前の報告を待っているぞ」
「もちろんですとも。誰よりも大量の報告を送ってみせます」
「いやまあ、量もいいが質も気をつけてくれ」
「もちろんですとも」
 白激犀は名残惜しそうに船へと乗りこんだ。
 船が南へとむかって去っていく。船は広河の半ばで南東にむきを変え、どんどん小さくなっていった。いつしか景色のなかに、船の姿は消えた。


  九 赤栄虎侵入

 海都の周囲を囲む外壁には、北に十ヶ所、西に八ヶ所の通行可能な門がある。これらの門を通る外部からの商人や旅行者は途切れることを知らず、そのなかでも北の一ヶ所、西の一ヶ所は特にその通行量が他に比べて多くなっている。門自体も大きい。この大門と呼ばれる二つの門は、そのまま海都の大通りに接続している。海都の表玄関が東から南にかけて広がる数々の港であるとするならば、これらの外壁の門は裏玄関といえる。近隣の農家からの生鮮食料品や、薪、家畜などが、これらの門を通して連日海都に運び込まれてくるからだ。
 これら海都の十八の門は日が昇るとともに開かれ、日が暮れるとともに閉まる。そのため、閉門の時刻をうっかり過ぎて、街の外に取り残される者も少なくない。そういった人々を目当てに、粗末な宿屋や売春宿が門の外側には群がっている。防衛上や治安上の問題があるために、何度もこの壁の外の非合法な宿に対する禁止令が出ているのだが、一向にこれらの建物がなくなる気配はない。少ない元手で商売を始めようとする者には、このような場所での水商売は、手頃な仕事だからであろう。
 ともかく、海都の門の周辺は、海都の内部とはまた違う、活気溢れる地域となっていた。その門周辺に立ち並ぶ建物を縫うようにして、商人の姿をした赤栄虎と薪を背負った五十頭の馬、そして五人の従者たちが進んでいく。薪を掠め取ろうとする子供たちを追い払いながら、赤栄虎は西の大門の前まできた。
 門衛は白大国の兵士である。外壁や門の警備に千人、造船廠に千人。合計二千人の兵士が、この海都に駐屯している。五大家の商人兼業の私兵の合計が二千人程度であることを考えれば、海都は白大国の被占領下にあるといってもよいだろう。専業兵士と兼業兵士では戦闘力が大きく違う。しかし、この白大国の兵士二千人のほとんどが、海都出身者で占められているという事実もある。その意味では、海都は自治を許されているともいえる。緩やかな統治。白大国では、この国に協力的な都市に対しては、このように半自治といえる状態を認めることが少なくなかった。だが、海都はそのなかでも特殊な位置にあるといえる都市であった。海都は、白大国建国直後、最初に同盟を結んだ都市国家であったからだ。
 赤栄虎は、門衛に挨拶をして海都に入る。五十頭の馬たちもそのあとに付き随う。門を通り過ぎると、壁の外の板造りの貧相な建物とは打って変わり、堅牢な石材の建物が左右に広がる。赤栄虎以外の赤族の兵士たちは、目を丸くして周囲を仰ぎ見た。赤栄虎はぼうっとしている配下の五人の頭を次々と叩いて回る。
「おいおい、あんまり珍しげに周りを見ていると、人目を引くぞ」
 赤荒鶏たち五人は慌てて姿勢を正す。
「衰虎様、これからどちらにむかうのですか」
 あらかじめ決めていた名前で、赤荒鶏は赤栄虎のことを呼ぶ。
「舟大家だよ。五日もこの薪を持ってうろうろしているわけにはいかないだろう。舟大家には併設して巨大な倉庫がある。舟大家出入りの商人ならば、誰でもその倉庫を安い料金で利用することができるのさ」
「えっ、でも衰虎様。舟大家出入りの商人なんて、このなかにはいませんよ」
 赤栄虎は、懐から一枚の契約書を取りだした。それは、赤衰虎と舟大家の契約書であった。
「あのなあ、荒鶏よ。俺が十年も大陸各地を旅しているあいだ、路銀はどうしていたと思っているんだ。金は天から降ってくるわけじゃあないんだぜ。金がなければ、自分で稼ぐしかあるまい。海都だけではないぞ、各地の大手の大家との契約書もある」
 舟大家との契約書を仕舞いながら赤栄虎は説明する。なるほど、商人の格好が板についているわけだ。いろいろと海都についての話をしているうちに、一行は舟大家の四階建ての倉庫の前まできた。借りる広さと階と期間を決め、所定の金額を支払い、倉庫のなかに入っていく。借りた区画は最上階の四階の窓際の五区画、期間は五日。馬から荷物を下ろしたあと、赤栄虎は他の者たちを呼んだ。窓から外がよく見える。海都のなかでも四階建ての建物は多くはない。それにこの倉庫は各階の天井が特に高いために、実際は六階建て相当の高さがある。
「よく、この窓からの景色を覚えておけよ。あそこに石壁が見えるだろう。あの大門の上の兵士までの距離を測ってみな。余人ならいざ知らず、お前の腕なら届くはずだ。決行前日。お前たちはこの倉庫のなかに潜み、外に集まった仲間たちに、窓から紐で弓と矢を下ろす。そしてお前自身は、ここから街壁にとりついている兵士たちを射抜くんだ。俺たちはその隙に、門衛を倒して大門を開く。俺たちが門に取りついたら、街壁の外にむかって火矢を放て。それが外の赤族の兵士たちに対する合図となる」
 赤荒鶏は頷いた。彼でなければできない仕事だ。
「さてと」
 赤栄虎は、馬とともに歩き始めた。
「どっ、どこに行かれるのですか、赤栄虎様」
「このまま五日間も、ここで待っているわけにもいかんだろう。幸い海都には馬大家がある。馬を預けてから、宿を決めるとしよう」
 赤荒鶏たちは、赤栄虎のあとを追った。

「そうだな、たまには青美鶴と昼飯にでもいくとするか」
 白激犀を港から送りだしたあと、青聡竜は舟大家の商館の二階に続く階段へとむかった。守衛が青聡竜に挨拶をする。二言三言会話をしてから階上へとむかう。二階に上がると、商談の間では、まだ午前中の取り引きが続いていた。青聡竜は受付の老人にむけて挨拶をする。
「おお、こりゃあ青聡竜様。いや、今は司表様と呼んだほうがいいかな」
 老人は立ちあがり、青聡竜と握手を交わす。その老人の横に、見慣れぬ少女がちょこんと座っている。
「うん、この娘は」
「ああ、最近よく遊びにきている曲芸団の娘じゃよ」
「じいさんの知り合いかい」
「いや、聡竜様。青美鶴様に憧れているらしくてのう。ずっと追いかけているいるそうじゃ」
「おいおい、そりゃあ警備上まずいだろう。仮にもこの娘が暗殺者や密偵だったらどうするつもりだ」
「うーむ、言われてみるとそうじゃのう」
 老人は腕を組んで考えこみ始めた。突然雲行きが怪しくなってきたために、その少女青明雀は慌てて口を開く。
「いえ、そんな暗殺者とか密偵とか、そんなこと絶対ないです。きっとそういうのは、ああいった怪しい人がやるに違いありません」
 青明雀はあたふたと立ちあがり、商談の間に上がってきた男を指差した。その男は大柄で太っていて、大きな箱を持ち、辺りをきょろきょろとせわしげに窺っている。彼は受付の前まで歩いてきた。
「あの、これを青美鶴様に食べてもらおうと思って。きっと、青美鶴様は、この料理を食べてくれるはずだ」
「ねっ、ねっ、怪しいでしょう」
 訴えるように青明雀は、その大男を指差した。青聡竜と受付の老人は顔を見合わせる。
「はい、君もお嬢ちゃんも、ちょっと奥の部屋に一緒にきてくれないかな。少し事情を聞かせてもらうことにするよ」
 青明雀と、箱を持った大男緑硬亀は、青聡竜に首根っこを捕まれて、奥の部屋へと連れていかれた。

 昼飯時になった。海都の舟大家の商館の階段を、走って青美鶴が下りてくる。その後を、追うようにして老秘書が付き随う。青美鶴は、商談の間にいる人々への挨拶を早々に済ませて、受付の老人の前まで駆け寄った。
「ねえ、青聡竜の叔父様が来ているんですって。どこなの」
「ああ、奥の守衛待機室にいますよ」
「守衛待機室、なぜそんなところにいらっしゃるの」
「いやあ、いろいろとありましてね」
 青美鶴は、受付の老人に礼を言い、守衛待機室の扉を開けた。部屋のなかでは青聡竜が守衛たちとともに椅子に座っており、同じく座っている太った大男とかわいい少女と一緒にお菓子を食べていた。
「青聡竜の叔父様、一体、どうなっているんですか」
「いやあ、毒でも入っているかと思ったのだが、どうも入っていないようだな」
「どういうことです」
 事態をよく把握できていない青美鶴に、青聡竜は手短に事の経緯を説明した。太った大男は、金食彩館の料理人緑硬亀。最近首になりかけたが、青美鶴のおかげで首がつながったそうだ。そのお礼にと、お菓子や料理を作って持ってきたのだという。
「金食彩館の料理人なら、素性も明らかだから大丈夫だろう。先ほど問い合わせに人を走らせたが、確かにその名の、その風体の料理人がいると返答があった」
 青美鶴は、そういえばそんなこともあったわね、と頭を巡らせた。自分に粗相を働いた男を首にしたと金食彩館の支配人から挨拶があったので、そういうことはしないでいいわと返事をしていたのだ。その一件だろうか。
 緑硬亀は、箱のなかから子豚の頭の丸焼きを取りだした。部屋にいい臭いが充満する。
「ああ、あのときの、どん亀さん」
「そう、そのどん亀です。青美鶴様に味を見て頂こうと思いまして。できれば感想などを頂ければ」
 青美鶴は、切り分けられた皮の部分を箸で口に入れた。確かめるように小さな顎を動かす。
「味の濃さはこんなものだけど、塩気はもう少し抑えるようにしたほうがいいわね。あと、香味野菜で味付けをしているのはいいんだけど、少し苦味が強いように思えるわ。あとは、獣や魚を出す場合には、付け合せとして野菜類を豊富に配するようにして欲しいわね。この子豚の丸焼きは少し辛めの味付けなので、添える野菜としては甘味を多く含んだ野菜がいいわ。主役の料理だけでは駄目で、それを引き立てる脇役がしっかりしていなければ料理の価値はぐっと下がるわ。まあ及第点ね。こんなところでいいのかしら」
 味を確かめながら、青美鶴は緑硬亀に振りかえった。子豚の頭の丸焼きに再び箸を伸ばそうとしたときには、守衛たちが既に平らげてしまっていた。
「あなたたち、いつの間に」
「いえ、青美鶴様。普段食べられぬものをご馳走頂きありがとうございました」
 守衛たちは、満足そうに腹を叩きながら部屋を出ていく。
「勝手に全部食べないでくださいよ」
 緑硬亀が半べそをかきながら守衛たちのあとを追って部屋から出ていく。たった一口しか食べてもらえなかったのだ。思わず追っていき、文句の一つも言いたくなるだろう。
「で、そちらのお嬢ちゃんはどういう方なのです」
 食事を奪われたせいで機嫌の悪くなった青美鶴が、不審の目で青聡竜に問う。
「うーん、これがなかなか説明し辛いんだがな。名は青明雀で、曲芸団の一員だそうだ」
 青聡竜が難しそうな顔で腕を組む。その横で青明雀が立ちあがり、自分の胸の前で両手を組み、大声で叫んだ。
「青美鶴様、大好きです」
 青美鶴は驚いて箸を床に落とす。
「いや、急に愛の告白をされても」
 顔を青くしながら、青美鶴は助けを青聡竜に求めるように視線を泳がす。
「えっ、あっ、すみません。青美鶴様、ずっと、ずっと憧れていました。一緒に食事にいかせてください」
 青明雀が真剣な眼差しで青美鶴に訴える。
「美鶴よ、お前の人気もたいしたものだな。こんな娘さんにまで愛の告白をされるとは」
「青聡竜の叔父様、からかわないでください」
 青美鶴は、箸を取り落としたままの格好で青聡竜の目をにらむ。
「まあ、一度ぐらい食事に連れていったらどうだ。私もちょうど、お前を食事に誘おうと思っていたところだし。今日は三人で食事にいくことにしよう」
「えー、折角青聡竜の叔父様と二人っきりでお食事だと思っていたのに」
「あのー、お邪魔ですか」
「いいわよ、いいわよ。連れていってあげるわよ」
「きゃー、やったー」
 青明雀はその場で飛びあがった。青美鶴はまだ箸を取り落としたままの姿勢を続けている。
「ああ、折角の、青聡竜の叔父様との二人っきりのお食事が」
 青美鶴は目にうっすらと涙を浮かべた。

 海都の道を縫うように馬車が走っている。時刻は昼。多くの人々が昼食を求めて街中を大移動している時間帯である。
「で、今日はどこにいくんだい」
 進行方向に対して後ろをむいた青聡竜は、目の前にいる青美鶴に問いかけた。馬車のなかには、青聡竜、青美鶴、青明雀の三人が乗っている。青明雀の席は青美鶴の隣だ。馬車に乗っている顔ぶれの凄まじさに、今更ながら青明雀は緊張して萎縮してしまっている。この海都を代表する二人とともに、馬車に乗っているなんて、これが緊張せずにはいられようか。青明雀は、石のように黙りこくっている。
「最近評判のお店だそうよ。ついこのあいだ、金食彩館の近くに屋台も出していたんだけど、なかなかおいしかったわ。踊舌亭という、下町の定食屋よ」
「なるほどね、どうりで壁の近くまで馬車がむかっているわけだ。だが、下町の定食屋だと、この時間は混んでいないか」
「いいんです。待っているあいだ、青聡竜の叔父様と談笑をしていればいいんですから」
 青美鶴は、まだ青明雀がついてきたことを怒っているようだ。青明雀は身を小さくした。馬車が止まった。どうやら、店の前までついたようだ。青聡竜は馬車から下り、二人の女性が馬車を下りるのに手を貸した。
 三人は連れ立って踊舌亭の表扉を開けた。彼らが定食屋に足を踏み入れた瞬間、定食屋が急にざわめいた。青聡竜と青美鶴は、この海都に住む者なら、誰でも知っている存在だ。その二人が連れ立って、この店に入ってきた。いや、もう一人付いてきているのだが、人々の視界には、この二人しか入っていない。青明雀は、改めて大それた人たちと一緒に行動していることを自覚した。
「さっさっ、青美鶴様も、青聡竜様も、こちらの席に」
 客たちが勝手に席を立ち、机を一つ彼らのために空ける。給仕が慌てて奥の厨房にむかって走っていった。厨房に飛びこんだ給仕は、店の主人にむかって叫んだ。
「青旨鯨さん、大変だよ。青美鶴様と、青聡竜様が店にやってきた」
 ここ数ヶ月、五大家の人々や、高級商人たちが出入りする店の近くで宣伝活動をおこなってきたが、こんな大物がやってきたことは一度だってなかった。これは、すぐさま挨拶にいかねばならない。
 給仕の報せを聞いて、厨房にいたほかの者たちも驚きの声を上げる。ちょうど先週雇った料理人の白軽兎や、たまたま食材を納入しにきていた食材卸の女店長青喧鶯も目を丸くして驚いた。
「白軽兎、ちょっと厨房を任すぞ」
「はっ、はい」
 青旨鯨は客席に慌てて飛びだした。
「さて、ここは何が美味しいんだ」
「とりあえず、このお店の一番のお薦めでいいんじゃないかしら」
 青聡竜と青美鶴の会話を、青明雀は目を白黒させながらかしこまって聞いている。三人の座る席に、店の主人の青旨鯨がやってきた。
「これはこれは、青聡竜様に青美鶴様。今日はどのようなものをお召し上がりになりますでしょうか」
「それじゃあ、主人。お薦めの定食を三人前」
「それですと、踊舌定食三人前ということで」
「ああ、頼む」
 主人は大きな声で、踊舌定三人前と厨房にむかって叫んだ。青旨鯨は、急いで厨房に戻ろうとする。そのとき、再び表扉が開いた。青旨鯨は、扉から入ってきた男の顔を見て、目を丸くした。その顔は、彼が料理修行のために大陸中を周っていた頃に出会った男の顔であった。頭の毛は丸く刈ってあったが、その顔は忘れようもない。あの、彼に魅せられた数週間の旅の経験は、青旨鯨の人生を大きく変えたからだ。
「よう、久しぶりだな青旨鯨。繁盛しているようじゃないか。はるばる遠方から友が料理を食べにきた」
 青聡竜や青美鶴のときと違って、扉の前に立っている人物には誰も一瞥をくれない。青旨鯨は息を飲んだ。そして、彼が何のためにこの店にやってきたのかを理解した。
「いらっしゃいませ、ようこそ踊舌亭へ。奥に特別の部屋が用意してあります」
 青旨鯨は、先ほどまでとは打って変わって冷静な顔つきになり、その坊主頭の男と奥の仕切りのある部屋へとむかった。そのことに興味を持った客席の人間はいなかった。いや、一人だけそわそわと辺りを見渡していた少女が、その一連のやり取りを目撃していた。
 何だろう、あの男の人は。
 その男性は、深く広やかな人格を備えたような相貌をしていた。そして目は、熱く燃える炎のような印象を青明雀に与えた。奥の部屋で何か話しをしているようだ。青明雀は、そっと目を閉じて耳に意識を集中した。
「久しぶりだ。本当に久しぶりだ。再び君に会えるとは、今日は何という幸福な日なのだろうか」
「ああ、俺も君のことは忘れていなかったさ青旨鯨」
「君がこの海都にきているということは、この海都に赤い雨が降るということだろうか」
「ああ、赤い雲がきたからな。雨は降るだろう。君に、手配を頼みたいものがある。料理人の君になら、すぐ手に入るものだ」
「分かった。今日、店が引けたら詳しく話しを聞かせてもらうよ」
「よし、俺はそのあいだに、海都の様子を見て回ることにしよう」
「食事ぐらいは食べていってくれるよな」
「ああ、君がどれだけ料理の腕を上げたか、お手並み拝見といこうじゃないか」
 会話はそこで途切れた。どういう話なのだろうか。赤い雲、雨は降るだろう、意味がさっぱり分からない。彼女は、その会話を何度か反芻した。
「青明雀、青明雀」
 気付くと青聡竜が肩を揺すっていた。青明雀は慌てて目を開く。
「どうしたの」
 青美鶴も、心配そうに青明雀の顔を覗きこんでいる。
「いっいえ、何でもありません」
 青明雀は、慌てて明るく笑った。楽しい食事の時間が始まった。


  十 赤い雨

 海都深夜。朝日が東の空に差し掛かるのにはまだかなり早い時間帯。この時刻になると、夜も眠らない海都の街も、その多くの人々が寝息を立てている。
 沈黙の街のなか、舟大家の倉庫内を巡回していた守衛が無言のまま倒れた。首の根元には一本の矢が刺さっている。すぐさま物陰から人が四人ほど現れ、守衛が持っていた提灯の明かりを消す。彼らは死体を倉庫の物陰まで運んで隠した。四人の人影は、矢を放った人物の下へと駆けていく。
「赤荒鶏様、片付けてきました」
 小声でやり取りをおこなう。四人は肩に縄をかついでいる。その縄の先に弓や矢を結わえつけ、倉庫の最上階の窓から下にむけて、次々と荷を下ろしていく。倉庫の周囲の守衛も沈黙していた。倉庫の壁近くには、数十人の人影があった。武器を受け取った人影は、闇のなかに散じていく。去ったあとには、微かな馬のいななきが残された。彼らは次の集結地へむかっていく。
 最後の一人が武器を受け取った。禿頭のその男は大きく手を振り、最上階の窓の赤荒鶏に合図を送った。赤荒鶏は頷き、遥か遠くに離れた街壁にむけて弓の狙いをつけた。街壁の上に豆粒のような人影が見える。届かぬ距離ではない。だが、赤荒鶏の腕をもってしても難しい遠さである。赤荒鶏は精神を集中させる。脅威的な集中力で、闇のなかの風の流れを読む。矢が赤荒鶏の手から放たれた。矢はまるで翼が生えたかのように滞空し、街壁の上にいる兵士の頭に刺さった。立て続けに数本の矢を放つ。西の大門付近の街壁にいた兵士たちの姿が消えた。
 大門付近に待機していた赤栄虎たちが動きだした。大門を警備していた兵士たちの喉や胸を矢が貫いていく。兵士たちは声も発することができずに路上に転がる。赤栄虎たちは大門の閂を外した。門はまだ開けない。開ければ海都に住む者たちが異変に気付くからだ。
 舟大家の倉庫の窓から、赤栄虎たちが西の大門を占拠したことを確認した赤荒鶏は、油を染みこませた布を巻いた矢を街壁の外にむけた。周囲の兵が布に火を灯す。橙に輝く矢が、街壁の外に消えた。これで海都の間近まできているはずの赤族の兵士たちに、襲撃の合図が伝わったはずだ。

 海都で最初に起きた異変は、西の大門の外の貧民街で火の手が上がったことだった。赤荒鶏の放った矢が、火事を起こしたのだ。火事の火が街壁のなかからも見えるようになる頃には、西の大門は開け放たれていた。街の住人は、消火の人員が出るために開けたのだろうと考え、野次馬として集まってきていた。だが、よくよく考えれば、夜中に街壁の外で火事が起こったからといって門を開け放つ兵士はいない。外からの襲撃者があれば、門を通って絶好の機会とばかりに侵入してくるからだ。海都の住人たちは、長い平和のために、自らの住む場所が戦場になるなどと、考えなくなってしまっていたのだ。
 白大国の兵士の初動は遅れていた。いや、初動を遅らされたというほうが、実情に即しているだろう。西の大門を開け放ったあと、赤栄虎たちは時間を無駄にしなかった。最小の人数を門に残し、残りは壁の上にのぼり、街壁の上の兵士たちを次々と狙撃していったのだ。街壁の外の火勢が強くなってきたとき、今度は海都の南西にある白大国の造船廠付きの兵舎でも火の手が上がった。赤荒鶏が、数十本の火矢を放ち、ようやく火がついたのだ。火矢に使う布や油は、赤栄虎が青旨鯨経由で調達していたので豊富にあった。赤荒鶏は、次は白大国の造船廠に狙いを定めた。そのとき、倉庫の下で声が響いた。
「いたぞ、賊はあそこだ」
 白大国の兵士たちが動きだしていた。百人ばかりが倉庫に突入する。
「そろそろ脱出しないといけないな」
 赤荒鶏は、かたわらに置いていた油の入った樽を倒した。油が周囲に広がる。赤荒鶏たちは、その油に火を放ち、倉庫のなかを移動し始めた。
 西の大門にも、数百の白大国の兵士たちが集まっていた。門に近づこうとした兵士の頭蓋が矢で貫かれたときに初めて、大門の上の街壁の上に数十の弓兵が取りついていることを白大国の兵士たちは知った。
 すぐに千人長の指示で、矢防ぎの大盾を持った兵士たちが街壁の他の門の階段から駆け上がる。弓を持った敵兵に、下から攻める愚は犯さない。
 海都からは、開け放たれた大門を通して、壁の外の町が燃えあがっているのが見える。その火が爆ぜる音に混じって、馬蹄の響きが聞こえてきた。大門の近くで指揮をしていた千人長の顔が蒼白になる。燃え盛る炎のむこうに見えるのは、十や二十の夜盗の群れではなかった。千に近い軍勢がこの大門を目指して駆けてきているのだ。

 西の大門近くで上がった火は、海都の各所からも見えるようになっていた。その火は南東の端にある海風神社の社殿からも見えていた。青聡竜は異変を知らされ、すでに寝巻きから平服に着替えていた。社殿の入り口から、街壁のむこうの火が見える。ほかの者たちも既に起きだしている。
「火事のようじゃな」
 既に老齢の域に入り始めている白厳梟が、青聡竜の横でつぶやく。
「西の大門か。あそこからは、舟大家の商館の前まで大通りが続いている。もし夜盗が仕掛けた火事であったら、舟大家の商館を襲う心配もあるな。青美鶴も商館にむかっているはずだ。私もいったほうがよさそうだ」
 青聡竜は、遠くを見やりながら声を出す。
「おっ、戦闘になるかもしれんのう青聡竜よ」
 人生のほとんどを戦場で過ごしてきた白厳梟は、嬉しそうに声を上げる。
「そうですね、白厳梟殿。念のために槍と盾も持っていきましょう」
 青聡竜と白厳梟は、ともに槍と盾を持ち馬に乗りこむ。その横に司表の兵の一人である白早駝が駆けてくる。
「私も連絡要員としてお供に」
「すぐに馬に乗ってついてこい」
「はっ」
 三人は闇夜を西にむけて駆け、舟大家の商館にむかった。

 舟大家の商館の三階に明かりが灯った。火事の報を聞いた青美鶴が、情報の確認と指示を出すために、いち早く商館に入ったのだ。老秘書や、舟大家の者たちも続々と商館に入ってくる。
「正確な情報をちょうだい」
 青美鶴は、家長の執務室で苛立たしげに報告を待つ。次々と男たちが報告を持って飛びこんでくる。西の大門が開け放たれたこと、その門の上の街壁が、賊に占領されたこと、舟大家の倉庫に賊が侵入したらしいことなどが、報告されていく。
「何をぼさっとしているの。兵員をかき集めるのよ。他の五大家にも連絡を送り、兵員を集結させるようにしなさい。門を開け放って、そこを占拠しているってことは、その人数より多い本体がいるってことでしょう。門の上には何人ぐらいいるの」
「五十人ぐらいという話です」
「じゃあ、十倍の五百人はいると思わないといけないわ。総動員体制を取るのよ。白大国の兵は何をしているの」
 遅い。すべてが後手に回っている。青美鶴は肌寒そうに肩掛けのなかで身をすくめた。そのとき、舟大家の倉庫で火の手が上がった。

 赤烈馬の周囲を、燃えあがる木造の建物が過ぎていく。夜の風を突っ切り走ってきた赤烈馬の周囲が急に熱くなる。彼の後続には多くの赤族の兵士が続いている。火で囲まれた道を突き抜けながら、彼らは身の内の戦士の血がたかぶるのを感じた。
「うおおおおぉっ」
 普段無口な彼が雄叫びを上げる。それに続くように、赤族の吼え声が夜のしじまを破った。門を抜ける。門の前に集まっていた兵士や野次馬たちを馬蹄で踏み潰して大通りに飛びこんでいく。何事が起こったか分からない者たちが、ぼろ布のように何度も石畳の上で跳ね、肉片へと化していく。
 赤い疾風が海都に飛びこむ。赤烈馬の率いる一軍団百人が、白大国の造船廠にむけて別れていく。赤烈馬たちは続けざまに矢を放ちながら、造船廠にむかい駆ける。白大国の兵たちは、完全に虚を突かれて矢の餌食になっていく。
「火矢を放て」
 既に白大国の兵舎は炎上を始めている。その火を拾い、造船廠にむけて火矢を放っていく。この造船廠だけではない。すべての造船廠と港を破壊して、海都の補給機能を破壊するのがこの作戦の骨子だ。造船廠に火がついたのを確認して、赤烈馬は声を上げた。
「船にも火矢を射かけろ」
 各々の造船廠や港に、それぞれの軍団長たちがむかっていく。西の大門からの距離と同じ順に、海都の南と東に火の手が上がる。
 西の大門の上では、赤朗羊が街壁の上に駆けあがっていく。
「赤栄虎様、ここはわしに任せて、街のなかの指揮をお願いします。赤栄虎様が、もっともこの街に詳しいですからのう」
「よし、任せた」
 赤栄虎は、大門の脇にある階段を駆けおりた。

 青聡竜と白厳梟、白早駝は、赤族の兵と何度か遭遇しながら西へとむかっていた。既に十人ばかりを、三人で斬り伏せている。地の利は三人にある。彼らは脇道に身を隠しながら、巧みに赤族の兵士たちを避け、最小限の戦いだけをして舟大家の商館にむかっていた。そのとき、海都の南から順に造船廠や港などで火の手が上がった。
「まずいな、このままでは」
 二十年前に金大家が作った大通りが、海都の防衛力を弱体化させていた。街を突き切る大通りは、商都としては相応しいものであったが、街を城として考えたとき、これほど防御に不利なものはなかった。敵が壁を突破すれば、街の奥まで立ちどころに兵を侵入させることができる。青聡竜は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「白早駝よ、海風神社の社殿に戻り、海風神社の船で史表の写本を僧たちとともに海上に運び出せ。本史表殿への引越しの準備も進めていた矢先だ。荷物を運びだすのはたやすいはずだ」
「分かりました」
 白早駝は、馬首をめぐらせ、東に続く細道を駆けだした。数町ばかり進んだところで、路地のむこうから矢が飛んできて白早駝の馬を射抜いた。白早駝は宙に投げ出されて地面に落下する。侵入者たちの怒声が聞こえて、敵が集まってくるのが分かる。白早駝は立ちあがり駆け出した。敵兵が驚きの目でその様子を見る。白早駝は、馬ほどの速さで路地を駆け出したのだ。すぐに道を折れ、侵入者たちの視界から逃れる。
 毎日海都を歩き回っていたので、白早駝は裏道に詳しかった。追っ手を振り切ったことを確認してから、白早駝は再び東の海風神社へとむかって走りだした。

 舟大家の商館の一階には、百人ばかりの赤族の兵士が陣取っていた。海都の中心とも言える舟大家の商館に、彼らは火矢を放ちながら、階上に攻撃をかけようとしている。商館の二階には、舟大家の兵士たちが既に集まっており、必死の防戦をおこなっていた。このような堅牢な建物のなかにいる相手には矢はなかなか通じない。放った火矢もすぐに消火されてしまう。侵入を果たそうにも細い階段しか入り口がなく、そのために、赤族の兵士たちは完全に攻めあぐねていた。
「どうした、舟大家の商館は落ちぬか」
 大門の占拠を赤朗羊に任せた赤栄虎がやってきた。
「赤栄虎様、こりゃあ、相当攻めにくいですぞ」
 入り口は狭い、確かに攻めやすい場所ではない。
「各階段の下に三人ずつ残し、あとは港に停泊している船に火矢を射ろ。大きな船から燃やすんだ」
 指示を受け、兵士たちが動きだす。赤栄虎は馬のむきを変えた。次の襲撃場所に移動して、指示を出さなければならない。赤族はこのような都市を攻めるのに慣れていない。指示の出せる指揮官もいない。細かな指示を、逐次彼が与えていかなければならなかった。
 赤栄虎が、東にむけて駆けだそうとしたとき、彼目掛けて槍が飛んできた。その槍を、赤栄虎は体を大きく逸らして避ける。
「ちぃ、外してしもうたわい」
 白厳梟は悔しそうに顔をしかめた。路上には、ようやくたどりついた青聡竜と白厳梟が立っていた。既に馬は両名とも失っている。盾で自らの体に飛来する矢を防げても、馬に飛んでくる矢まではすべて防ぐことができなかった。彼らの盾には、無数の矢が突き刺さっている。
「どうやら、商館は陥ちてはいなかったようだな」
 青聡竜は槍と盾を構える。その横で白厳梟は腰から剣を抜いた。
「がっはっはっ。どこからでかかってこい。頭を使うことは弱くても、力なら負けはせんぞ」
 白厳梟は楽しげに声を上げる。暗号を習得できなかった鬱憤を、ここで晴らそうとしているのだ。赤栄虎は矢を弓につがえ白厳梟にむけた。白厳梟は盾を赤栄虎にむける。赤栄虎の放った矢は、白厳梟の盾を貫きその腕に刺さった。
「ぬぉおお。何という強弓じゃ」
 赤栄虎はさらに二本目の矢をつがえる。
「白厳梟殿、あの階段にむけて駆けますぞ」
 青聡竜は手に持った槍を、素早く赤栄虎の乗っている馬にむけて放った。赤栄虎自身に飛んでくる槍は体を逸らせて避ければいい、しかし馬にむけて放たれた槍は、体を逸らせるだけではかわせない。
「ちっ」
 舌を鳴らしながら赤栄虎は足に力を入れ、馬に槍を避けさせた。その隙に青聡竜と白厳梟は、階段の下にいた赤族の兵を切り伏せ、階上へと駆けあがる。二階にいた兵士たちが二人を迎えいれる。
「状況はどうなっている」
 商館にいた兵士に問いかけながら、青聡竜は三階へとむかう。矢で覆われた盾は捨てた。白厳梟は二階の防衛兵に加わる。青聡竜は手短な状況確認をしながら、三階の家長の執務室へとむかった。執務室の扉は開け放たれている。青美鶴が矢継ぎ早に兵士たちに指示を出しているが、舟大家の商館が外部と孤立させられてしまっている現状では、その指示も街の各所に届ける手立てがない。
「青美鶴、海都は燃え尽きる。舟大家の兵も含めて脱出しろ。兵士たちに、すべての住人を街の外に出すように誘導させるんだ。商館からの脱出は私が指揮する」
「海都が燃え尽きるですって」
「そうだ。火の勢いが強過ぎる。今の時刻はまだいい。だが、夜が明けると風が海から陸にむかって吹き始める。そうすれば、炎は海都をなぎ払うように広がっていく。史表にも、このような火事の場合の火の燃え広がり方が書かれてあった」
 青美鶴は青い顔で息を飲んだ。そうなれば最悪の事態だ。
「青聡竜の叔父様、敵は……」
「ああ、赤族だ」
 そのとき階下で、火だ、という声が響いた。火矢の火は消しとめていた。だが、隣で炎上を始めた倉庫と造船廠の火までは人手では防げなかったのだ。防衛の舟大家の兵たちが浮き足立つ。
「突破された」
 続けて声が上がった。いくつかの港を周った赤栄虎は、舟大家の商館に戻ってきていた。そして、めぼしい船に火矢を放ち終えた兵士たちをまとめあげ突撃してきたのだ。海都の象徴である舟大家の商館を落とせば、海都が赤族の手によって討ち滅ぼされたことを、人々の心の内に深く刻みこむことができる。
「続け」
 馬上の赤栄虎が叫ぶ。赤族の兵士たちは、赤栄虎に続き、階段を馬で駆け上がっていく。舟大家の商館の二階に、馬ごと赤族の兵が乗り入れてきた。火が移ったことで動転していた兵たちは、あっけなく道を譲る。勝負はあった。雪崩を打つように、人々は南の海側の窓にむけ殺到する。窓を破り、人々は海へと身を投げる。
「ぬおぉぉ、わしはまだ戦えるぞ」
 白厳梟は人の波に押し流されて窓から海中に落下する。幸いなことに、重い鎧もつけていなかったので溺れることはない。
「ぷはぁ」
 海面から頭だけを出して、白厳梟は舟大家の商館を見上げる。その左右が、倉庫と造船廠に挟まれて炎上し始めていた。
 二階の殺戮は配下の兵士たちに任せたまま、赤栄虎は三階へと階段を上っていく。商人として舟大家に出入りしていたこともある赤栄虎には、この建物の三階に、舟大家の家長の執務室があることは聞き知っている。馬がいななく。三階への階段を駆けのぼり終えた。赤栄虎の眼前には通路が広がっている。その先に、扉の開いた家長の執務室があった。
「そこか」
 赤栄虎は馬のむきを両足で変える。視線の先には、先ほどの武人と女性の姿があった。
「青美鶴、窓から飛び降りろ」
 青聡竜は叫びながら剣を抜いた。青美鶴はその場で凍りついている。家長になって数ヶ月、青美鶴はこれまで数々の戦闘の指示を出してきた。しかし、その目の前に敵兵が迫ってきたことは一度もなかった。赤栄虎は弓を放つ。その矢を青聡竜が剣で叩き落とす。
「早く飛び降りろ」
 青美鶴は、おぼつかない足取りで窓にむかう。駄目だ、動転している。青聡竜は、矢を剣で弾きながら青美鶴を抱え上げた。
「逃がすか」
 赤栄虎が馬ごと廊下を駆けて執務室にむかう。距離が近づくにつれ、剣で矢を落とすのが難しくなっていく。だが、青聡竜は巧みに片手で剣を操る。赤栄虎は、その手さばきに感心した。
「貴様、名は何と言う」
 赤栄虎は、名のある武人であろうと思い、赤族の一騎打ちの慣例に従い名を問うた。
「司表」
 青聡竜はその問いに答えた。その瞬間、赤栄虎の弓の手が止まった。
「シヒョウ」
 思わずその言葉を叫ぶ。その名は、赤栄虎自らが表わした精密地図につけた名前であった。
「海都のシヒョウか」
「いや、白大国の、白王の司表だ」
「白大国に、白王の配下に、シヒョウという男がいるのか」
 驚きを隠せずに、赤栄虎は声を発した。弓の手が完全に止まっている。機会はこの時しかない。青聡竜は、青美鶴を抱えたまま窓に突進した。窓に体当たりして、窓ごと空中に飛びだす。赤栄虎が慌てて弓を構える。その赤栄虎目掛けて、青聡竜の握っていた剣が飛んできた。慌てて身をよじり、赤栄虎はその剣をかわす。再び弓を構えたときには、青聡竜の姿は赤栄虎の視界から消えていた。

 重く鈍い音とともに、青聡竜と青美鶴の体は、暗黒の海の底へと沈んでいく。目の前には闇しかない。耳に聞こえる音もない。体は自由を持たず、ただ時がゆっくりと流れていく。上下も定かではなく、すべての思考が霞のようにぼやけている。
 青美鶴は体の隅々を冷たい水が覆っていることに気付いた。その感覚が、自分が水中に没しているためだと分かるまでにしばしの時間がかかった。誰かの腕に抱かれている。なぜその場にいて、その腕が誰のものなのかも分からなかった。急に体が引っ張られた。後ろにむかって引かれている。その方向が、海面だということが分かるまで、長い時間がかかった。
「大丈夫か、青美鶴」
「うおー、驚いたわい。青聡竜も、青美鶴も落ちてきたんじゃからのう」
 周囲の声が耳に入り、ようやく意識の焦点が合った。青美鶴は、舟大家の家長の顔を取り戻し、明るい方角に顔をむけた。海都が炎上している。慣れ親しんだ舟大家の商館も燃えている。幼き日に初めて商館に足を踏み入れ、父親から海都を守れと言われた日のことを思い出した。彼女の目の前で、彼女の故郷が、彼女の守るべき街が燃え落ちようとしている。声が出なかった。変わりに嗚咽が漏れた。顔を伏せようと思い、水を思わず飲みこんでしまい、その場でむせた。目の前の景色が滲んだ。水のせいではない、彼女の目から、涙が溢れ出てきたからだ。彼女は燃え盛る街から目を逸らそうとする。だが、その火の明かりは強く、顔を逸らすぐらいでは、その光から逃がれることはできなかった。
「青聡竜様」
 声が沖から響いてきた。海風神社から脱出した司表配下のなかから、数人が船に乗って青聡竜を探しにきたのだ。白早駝、白柔猩、白秀貂、白太犬の姿が見える。
「青美鶴を頼む」
 白早駝が水中に飛びこみ、青美鶴を船へと引き上げる。
「青聡竜様は」
 白太犬が叫ぶ。
「剣を貸せ」
 青聡竜は白太犬から剣を受け取り、海都にむかって泳ぎだした。
「青聡竜様、海都は燃えています」
「引き返してください」
 白柔猩と白秀貂が叫ぶ。
「まだ、街の人々が逃げていない。脱出を誘導する人間が一人でも多く必要だ」
 青聡竜が言葉を発する。街の人々を一人でも多く守らないといけない、彼の言葉を聞き、青美鶴は反射的に立ちあがった。
「私もいきます。船を港につけて」
 青美鶴は叫んだ。だが港は燃えている。どこに船をつけろというのか。
「港以外で燃えていない場所を探して上陸しろ。私は先に海都にむかう」
 青聡竜は勢いよく泳ぎだした。東の空が、微かに明るくなってきた。

 海都は混乱していた。海都を指導する五大家のうち四大家までが、赤族の急襲で商館を破壊されていた。唯一直接の被害を受けなかったのは、港を持っていなかった金大家だけである。金大家の家人たちは、混乱する街の人々を北側の大門に誘導していく。まだほかに、敵が壁の外に潜んでいるかもしれない。金大家は私兵を北側の大門に配して、人々を護衛させながら外へと導いていた。
 混乱しているといっても、海都のなかが一様に混乱しているわけではなかった。
 火が回っているのは、主に港の周辺だけである。海都は広い。港から遠い場所に住む人々は、火が自分たちのところまで届くとは思っていなかった。混乱はしていたが、荷物をまとめて逃げるだけの余裕はあった。彼らは、押し合いながら北の大門にむかっていった。
 だが港に近い場所では混乱の度合いは大きかった。人々は家財を放りだし逃げ惑っていた。場所によっては人々の自主的な消火活動もおこなわれていた。だが赤族の兵たちは、その努力を嘲笑うかのように、各所に火をつけている。
「海都にくるなり、大火事かよ」
 数週間前に海都に女漁りにきた黒華蝦も、帆布街で桶を持って必死に消火活動に当たっていた。既に壮年を過ぎ、老齢の域に差し掛かり始めている黒華蝦だが、なぜか女にはすこぶるもてる。この街にきて数日で、お目当ての海都美女を何人も獲得することができた。しかし、海都が急に炎上するとは予想外だった。彼は女たちとともに、汗だくになりながら桶の水を運んで消火活動を続けていた。すると、少し離れた場所の岸辺に船がつき、一人の美女が上陸してきた。
「おおっ、あの美女とお近づきにならねば」
 黒華蝦が持ち場を離れようとしたら、後ろに立っていた女に桶で頭を叩かれた。海都の女は美人でいいが、気が強いところだけはいただけない。黒華蝦はしぶしぶ消火活動を再開した。

 五大家の家長が、金大家の商館に集結した。炎上していない五大家の商館はここしかなかったからである。いつもは青美鶴に食ってかかる青新蛇も、さすがにそのような態度に出る気力はない。大家間の利害関係のような瑣末なことで時間を無駄にはできない。状況は逼迫している。
 青新蛇以外は、いずれの大家の家長も灰と煙で汚れている。
「青新蛇殿、すべての門を急いで解放する必要があります」
 青美鶴が、切迫した顔で青新蛇の目を見る。
「しかし、それでは海都の守りがなきに等しくなる」
 青新蛇は鋭い視線を青美鶴にむける。
「日が明ける。風が洋上から陸にむけて吹く」
 その青美鶴の言葉で、海都の五大家の家長たちはすべてを察した。彼らは貴族であり商人であると同時に、船乗りでもあった。風の動きが何をもたらすかについての想像力はたくましい。彼らはすぐに決断した。海都の全門を開放し、人々を強制的に退去させる指示を出した。

 太陽が大地を熱く照らし始めた。陽の光が、大地と水面を熱し始める。しかし、陸と海とでは、温度の上がり方が違う。水よりも、土のほうが早く温度が上昇するからだ。朝の一定の時間、この陸と海の気温の差が拮抗して朝凪が起こる。しかし、時間が経てば陸のほうが熱くなる。その結果、陸では上昇気流が発生する。そして、その気流に吸いこまれるように、海から陸にむけて海風が吹く。
 この日は海風が吹き始めるのがいつもより早かった。海都の大火災が上昇気流を生んで、海から風が吹き始めたからだ。火災が発生した当初、誰もが海都全体を火が覆うとは思っていなかった。だが火は、海都を飲みこむように北西にむけて燃え広がっていった。五大家の私兵や、白大国の兵の生き残りたちの誘導の甲斐あって、多くの人々が海都から脱出することができた。昼も過ぎた頃、海都からの人々の脱出が終わった。海都は完全に炎に包まれていた。
 海都を取り囲むように、数十万の人々が呆然としていた。大陸の西から嵐のようにやってきた赤族の兵士が、海都を焼き尽くしてしまったのだ。
 多くのものが住居や店を失った。
 海都で食材の卸をおこなっていた青喧鶯は、夫と露店の野菜売りから始めてようやく手に入れた店が焼けていくのを、ただ呆然と見守るしかなかった。
 黒艶狐は、海都の黒陽会の教会が燃えるのに対して何もできなかった。青旨鯨の踊舌亭も焼け落ちた。緑硬亀の務めていた金食彩館も炎上した。黒華蝦が転がりこんでいた帆布街の女の家も灰燼に帰した。
 海都は炎に満たされた。

「赤族の兵が消えた」
 五大家の家長、白大国の二人の千人長たちが集っている場所に、青聡竜が飛びこんできた。一同は驚いて辺りを見渡した。海都を破壊していた赤族の兵士が一人もいない。どこに消えたというのだ。海都の大混乱のなかに混じって引き上げたというのか。
「千人長、白都に急使だ。もう間に合わないかもしれないが、赤族が休息をとる可能性もある。赤族は、白大国の馬の三倍の距離を一日で走破できるという。ここから白都まで、馬を飛ばして三日。赤族なら一日の距離だ」
 青聡竜が叫ぶ。千人長が慌てて急使を数頭仕立てて白都にむけて放つ。その場に立つ誰もが灰燼にまみれ薄汚れている。
 白都は現在、軍団長以下一万人がいるとはいえ、基本的に重要拠点ではなくなっている。白大国の主要な政治機能は、ほぼすべて広源市に移っている。白大国の象徴的な存在という以外は、さほど重要な拠点ではない。白麗蝶が白都を離れていたのは、不幸中の幸いかもしれない。青聡竜はそう思った。
 しかし、赤族はどうやって白大国の只中を突っ切って大陸を横断したというのだ。青聡竜は、赤族が大陸横断を決行するために必要な諸条件を考え始めた。

 海都から白都を結ぶ街道を、猛然と走り進む騎馬武者の一団がある。食料の補充は米大家を襲ったときにおこなった。矢は、そもそも各自馬一頭分ほど持ってきている。これまで山道を走り、難渋していた馬たちは、足もとの均された街道の上を嬉々として駆けていく。
「赤栄虎様、白都攻めの先陣を私に」
 赤烈馬が、馬の速度を上げ赤栄虎に近づいてきた。
「よし、赤烈馬よお前が先鋒を務めよ。だが、門を閉ざされればすぐに引き上げろ。白都は、海都と違って白王が作った堅牢な城砦都市だ。海都ほど脆くはない」
「赤栄虎様は、白都も訪れているのですか」
「当然だ。それに、白都の周辺には、ほかに叩くべき場所もある。城壁の外に、点々と白大国の重要な施設が広がっているのだ。白都に攻め入れられないのならば、それらの施設を叩けばよい」
「分かりました。白都への攻撃に関しては、赤族の戦闘力を見せつければ十分と」
「そうだ。白大国の奴らに、赤族が国内のどこを攻めるか分からないという不安を与えてやるのだ。戦争は痛みを相手に感じさせなければならない。自らの住む場所が戦場になる。自らの家族が殺される。その痛みを、恐怖を、相手に与えてやる必要がある。補給機能とともに、奴らの精神を挫くのだ。白大国と赤族の戦争は、赤族の地だけでおこなわれるのではない。白大国のなかでも等しくおこなわれるのだと、敵に思い知らさなければならない」
 赤烈馬は頷いた。既に白都までの道のりの半分は走破した。白都には夕刻にはつくだろう。


  十一 白淡鯉

 白都から少し離れた場所に、農管園と呼ばれる農管吏のための、農業研究施設がある。植物園と呼んだほうが相応しいだろうか。広い敷地のなかは、いくつもの漆喰で固めた壁で区切ってあり、その天井は、木の格子状の枠と硝子とで覆われている。壁の区切りは植物の種の自然交配を防ぐため、天井の硝子は採光のための処置である。農管園の一区画ずつは広く、各区画では大陸の各地の環境を再現している。この農管園の各区画を周れば、白都の近隣にいながら、大陸を周遊することも可能だ。
 その農管園の一区画に、椅子の上に腰掛けている女性がいる。三十代前半だろうか。女性は物憂げに植物を見ている。その区画では、花が咲き乱れていた。彼女はこの区画が好きだ。年の半分はこの区画で過ごしている。彼女はこの区画を春の間と呼んでいた。農管園は、基本的に研究施設であるが、この区画だけは研究目的の場所ではない。彼女の夫が、彼女のために作った場所であった。この春の間では、年中花が咲き乱れている。
 彼女の名は白淡鯉という。夫の名は白賢龍、娘の名前は白麗蝶である。
 白淡鯉は、一旦春の間に入ると、彼女自身がこの区画を出るまで、世の中の動きをその耳に聞かせようとはしない。彼女は、白賢龍が赤族と戦いを始めたことも知らない。ましてや、白麗蝶が白都を飛びだしたことも知らない。彼女は、椅子の横に置かれた小机に静かに手を伸ばした。机の上の茶椀を右手で持ち、口もとに運ぶ。農管園で採れた茶葉を使ったお茶だ。白淡鯉は、唇のあいだから静かに息を吐く。彼女の目と眉は優しげな曲線を作った。だが、口の端は悲しみを滲ませて微かに歪んでいる。
 あの人は、私を見ていない。
 そう思い始めたのはいつの頃だっただろうか。白賢龍は、不思議な人であった。戦に明け暮れるのと同じほど、多くの書を漁った。数々の国を滅ぼすのと同じぐらい、各地の書物を収集した。閨では、彼女に語りかける言葉より、書に語りかける言葉のほうが多かった。白賢龍の表の顔だけを知っている人間は、彼を武の人だと思うだろう。だが、彼の本質は文の人であった。白賢龍は、彼女を求める以上に書物を求めた。
 あの人は、私を見ていない。白淡鯉は、再び茶碗を口へと運ぶ。
 その思いが強くなったのは、白賢龍が史表を書き始めてからだ。何度あの書物を火にくべてやろうと思ったことか。一度だけ、その素振りをしたことがある。そのときの白賢龍の顔を忘れられない。怨念。一代しか生きられない人間が、それほどの顔をできるのか。そう思い、恐怖した。
 白賢龍が史表を書き始めてからのち、白麗蝶を身ごもった。遅い受胎であった。当然だ。女より書のほうが好きな男なのだ。子の数は少なくなるだろう。
 子供ができれば、白賢龍の目は自分をむくかもしれない。淡い期待があった。だが、白賢龍は何者かに取り憑かれたかのように史表に没頭した。余人のいる場所では、王として、父として振舞った。しかし、彼女と二人だけのときは、白賢龍は史表という仕事に没頭した。
 彼女は白賢龍に願いでて、農管園のなかに、自分のための春の間を作ってもらった。彼女が彼に何かをねだったのはその一度きりだった。白賢龍は快く応じてくれ、彼女のために、花に満たされた区画を作ってくれた。
 彼が見ているのは自分ではない。そのことを確信したのは、白賢龍が前史表を書き上げたときだった。彼はこういったのだ。
「白淡鯉よ、前史表がようやくできた。今や私には、この後史表に書かれるであろう文字の数々が見える。私は見たのだ。書を通して見た未来を」
 彼が見ているのは、私ではなく書を通して見た未来だった。
「そう、よかったわね」
 彼女は、彼女がこれまで浮かべた笑顔のなかで、もっとも美しい笑顔を白賢龍にむけて浮かべた。それ以降浮かべるであろうすべての笑顔を、その一瞬に凝縮した。その日以降、彼女はこの春の間にこもっている。春の間の中には小屋もある。すべての生活がここで足りる。食事は召使がもってきてくれる。何もかも満たされている。夜は星を見て、朝は日の出に映える花を愛で、昼は最上の料理を食べる。すべてが満たされている。ただ一つだけないのは、白賢龍の心だった。
 朽ちていこう。
 そう思った。大陸全土を征服し、大地を田畑に変え、膨大な生産力をもって、白賢龍が、何をしようとしているのかは知らない。だが、彼が大陸の征服に心血を注ぐのならば、私はその大陸の一部になりたい。
 大地に帰りたい。
 白淡鯉は再び喉に茶を通した。植物が水分を吸い上げるように、彼女はその唇をお茶でゆっくりと湿らせた。


  十二 錬金

 広源市は城砦都市である。この街に入る者は、街に入るというよりは城に入る、そういう印象を受けることであろう。戦時中である。広源市は前線にもっとも近い補給拠点だ。その軍事上の重要度から、この城砦都市は、常時厳しい警備下にある。港や城壁に設えられた門では、厳重な警備と検問がおこなわれている。街のなかでも多くの兵士が巡回し、要所々々では物々しい警戒態勢が布かれている。
 その兵士たちのあいだを塗って、仮の王宮へとむかう小柄な黄族の青年の姿がある。司表配下の黄清蟻である。二度目の白王への謁見が許されたのだ。王宮の入り口で、武器を渡し、本人かどうかも調べられる。一度すべての衣服を脱ぎ、何も隠し持っていないことを確認されてから、謁見室に通された。
 黄清蟻は一礼する。白王は、前回の謁見のときとは違い、気が乗らないのか、言葉数が少ない。
「白王様、僭越ながらお願いがございます」
「何だ、話せ」
 白王の視線が黄清蟻にむけられる。口から紡ぎだされる言葉の数は少ないが、その目から溢れる威圧感は前回と変わっていなかった。
「私に、軍団長の方々などに直接会い、様々なお話を聞くことができる権限を与えては頂けないでしょうか。また、市井の情報を集めるのに有利な取り計らいをしていただければと思います」
 白王は、品定めするように黄清蟻の目を見ている。黄清蟻は、気圧されそうになる自分の心を必死に奮い起こして、その場に留まった。今の広源市の厳重な警備では、思うように各所で話しを聞いて回るわけにもいかない。あるいは密偵であろうかと疑われ、投獄される危険性もある。
「よかろう。史表のための情報収集が必要であろうからな」
「ありがとうございます。あと、もう一点。これは白王様のご意見をお伺いしたいのですが」
「何だ」
 再び白王の刃のような視線が黄清蟻に注がれる。
「一月ほど前、旧市街で黒陽会と名乗る宗教団体が、市庁舎を買い取り、黄金をばらまくという一件がありました。この黒陽会、旧市街を中心に信者を増やしていると聞いております。調べてみましたところ、彼らがこの広源市に現れたのは、この市庁舎買い取り事件の当日。わざわざこの時期に、派手な演出を伴って前線近くの一大軍事拠点へ登場してきたこと。明白に何らかの意図があってのことと思われます。
 黒陽会という組織。私は浅学なため、その実態を掴めていない状態ではありますが、彼らの行為が果たして、後史表に必要な重要な出来事の一つにつながるのかどうか。
 このことについて私は、つながるのではないか、そう考えております。であれば、白王様が彼らのことをご存知であるのか否か。そして、どう思われているのかをお伺いできればと思った次第であります」
「黒陽の教えが書かれた経典を、私はかつて読んだことがある」
 白王は答えた。
「では、彼らのことを、どのようにお考えで」
「愚昧だな」
「と、申しますと」
「彼の言葉は、一割ほども黒陽会の者たちには届いておらぬわ」
 どういう意味であろうか。黄清蟻が一瞬考えこんだとき、白王は立ちあがった。時間だといことであろう。黄清蟻はお辞儀をし、今日の謁見の機会を与えてくれたことを、白王に謝した。

 広源市の旧市街、そのなかにある旧市庁舎の内部は大きく模様替えされていた。地上階は一般信者のための礼拝堂に、地階は上級信者のための秘密の工房になっていた。海都から黒壮猿に付いてきた者たちは、一般信者の激増に伴い、等しく上級信者へと昇格していた。
 黒逞蛙も彼らとともに上級信者へと昇格していた。しかし、上級信者の多くが新規の一般信者たちの指導に当たっていたのに対し、醜く矮小な黒逞蛙はもっぱら裏方の作業に従事させられていた。
「黒逞蛙よ、お前の錬金の腕を試してはみないか」
 旧市庁舎の地下に秘密の工房ができた日、黒逞蛙は黒壮猿に呼ばれてそう言われた。
「はっ、はい。もちろんです」
 暗く狭い地下の一室で、黒逞蛙はどもりながら答えた。机を挟んで、黒逞蛙と黒壮猿はむかいあって立っている。机の端では、燭台に乗った蝋燭が火を揺らめかしている。黒壮猿は、黒逞蛙の返事に満足そうに微笑む。そして、手元にあった一冊の錬金術の本を差しだした。黒逞蛙は、その本と黒壮猿の顔を見比べながら、恐る恐るその本の表紙に触れた。空華、と表紙には題字が書いてある。
 その表紙の上に、黒壮猿は一つの石の欠片を置いた。
「覗いてみなさい」
 黒逞蛙は、黒壮猿の顔を確認して、石を手に持ち覗いてみた。その石のなかには、一人の男の姿が見えた、まるで、石を通してその場にその人物がそのままいるようであった。
「これはいったい何ですか」
 初めて見る物だ。これも錬金の手によるものなのだろうか。
「この石とこの本を使い、その人物そっくりの像を作るのだ。くれぐれも、この石と本を、この地下の工房から持ちだすでないぞ」
 黒壮猿の顔が、一瞬蝋燭の火の加減か不気味に揺らめいた。
「えっ、あっ、はい。もちろんです」
 黒逞蛙は、慌てて手に持っていた石を本の上に戻す。それから黒逞蛙はおずおずと言葉を続けた。
「いっ、いつまでに仕上げればよいでしょうか」
「一ヶ月。なるべく早いほうがよい」
「分かりました」
 それから、瞬く間に一ヶ月が過ぎ去った。

 黄清蟻は、何度か黒陽会の教会を訪れていた。彼らの派手な動き、出所不明の資金、目的、気になることはいくつもあった。彼らを調べる明確な根拠があるわけではない。だから、そう足しげくこの場に通っているわけではない。だが彼は、黒陽会の者たちが、何か大きく歴史に絡んでくるのではないか、そんな予感を持っているのだ。
「また、いらしているようですね」
 黄清蟻の横に、この教会の導師である黒壮猿が立っていた。何度かきているうちに、顔を覚えられたのだろう。黄清蟻は黒陽会に入信していない。そのような男が、この教会に何度もきているということは珍しいことであった。
「ええ、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「では、歩きながらお話をいたしましょうか」
 二人は連れ立って旧市庁舎の入り口を出た。市庁舎の周りには、広大ではないがそれなりの広さの庭がある、散策するのには都合がよい。二人は晩春の陽射しを受けながら、とぼとぼとその庭を歩いた。
「黒陽の教えとは、どのような教えなのでしょうか」
 黄清蟻の歩調に合わせて黒壮猿は歩いている。黒壮猿の顔の深いしわが動き、笑顔を作りだす。
「黒陽とは、太陽と対になっている言葉です」
「太陽ですか」
「そう。黒陽は、太陽を唯一の神として信ずる教えです」
「太陽会ではなく、黒陽会なのはなぜです」
「人は弱い生き物です。人々の目のある場所、陽の光が降り注ぐ場所では誠実に生きよう、人のために生きようと思うものです。しかし、人の目のない場所、陽の光が降り注がぬ暗闇では、その心は悪しき道に引かれ、過ちを犯そうとしてしまいます。
 黒陽会では、太陽が沈んでいる時間帯、そして人々の心が邪悪な心に染まるようなときに、唯一神である太陽神の代理人として人々の心を救うこと、正しい道へと呼び戻すことを、神への奉仕であると位置付けて実践しております。太陽の照らぬ場所、黒陽、を照らす神の代理人。それが私たちの目指すべきところ。だから、黒陽会なのです」
 二人は庭をゆっくりと歩いていく。
「世の中は、どうなるべきだと思っていますか」
「もう少し、人々が黒陽の教えに耳を傾けてくれればいい、そう思っています。世の中で迷って道を踏み外す人は、いつの世でも跡を絶ちません。そのような人々が、黒陽の教えを知り、少しでも救われれば。自分たちのために手を差し伸べてくれる人がいることを知ってくれれば。いつもそう思っています。誰に対しても、黒陽会は手を差し伸べるのです」
「誰に対してもですか」
「そう、誰に対してもです」
 黄清蟻は少し間を置き、市庁舎を買い取るなどよほど有力な信者が多いのでしょうね、と問いかけてみた。
「幸いにも、私たちが人々に手を差し伸べるように、私たちに対して手を差し伸べてくださる方もいるのです」
「立派な人なのですね」
「ええ、素晴らしく立派な人でした」
 それからいくつかの話しをして、黄清蟻は黒壮猿と別れた。黄清蟻は、その日の会話の内容を手紙に詳しく記した。

「白王様、住民のなかで、白王様に供物を捧げたいという者たちがおりまして」
 白賢龍が朝食を取りながら予定の確認をしていると、側近の一人がそのように口を開いた。
「何者たちだ」
「はい、黒陽会と名乗っております。正式な申請に則っているものでして、多額の献金も同時に申請しております」
「金額は」
「献金は黄金現物。時価に直すと十万金に相当する金額です」
「会わねばならぬだろうな。それほどの金額を出す者を、顔も見ずに追い返せば、他の者たちがいらぬ勘繰りをするだろう。一月以内に、予定が空いている時間帯はあるか」
「はい、一番近い日であれば、三日後に」
「ではそのように伝えておけ」

 三日後、午後、日が傾き始めた頃。黒陽会の導師黒壮猿と、彼の配下の者が四名、仮の宮殿の謁見室へとやってきた。彼らは武器を持っていないかどうか念入りに探られ、供物にも武器が隠されていないことを徹底的に調べられた。既に、白大国に対する多額の献金は受け渡されていた。白王に謁見を賜る資格はある。
 黒壮猿の随員のなかに、黒逞蛙の姿もある。彼が、空華の錬金の書で作った像が、白王への供物に使われると黒壮猿から聞かされたのは、三日前のことであった。そのような大それたものを自分が作っているとは知らなかった黒逞蛙は、この三日間、畏れ多さに眠れぬ夜を過ごした。また、供物を捧げる黒壮猿の随員になっていることは今日知った。黒逞蛙の顔の色は土気色になっていた。
 彼ら一行は、布の覆いの被せられた人の背ほどの高さの供物とともに、謁見室に入った。白王と、彼らのあいだの距離は遠い。また、その間には、数人の屈強な兵士が直立不動で立っていた。黒壮猿たちは、部屋に入るなり頭を下げて移動した。畏れ多い白王の顔を、許可なく仰ぎ見ようとはしなかった。
 彼らが部屋の中央、白王の正面で拝跪したときに、白王の横の文官から、面を上げるようにと声がかかった。黒壮猿たちは顔を上げ、白王の姿を仰ぎ見た。その瞬間、黒逞蛙は声を失い、膝が震えるのを感じた。幸い黒陽会の長衣のおかげで、その様子は周囲に気取られていない。黒逞蛙の目が、部屋を泳ぐ。
「白王様、お目にかかれて光栄です」
 黒壮猿が、しわの寄った顔に笑顔をたたえ、白王にお辞儀をする。白王は、黒壮猿の挨拶に、型通り応える。
「ところで白王様、本日は白王様に、捧げたい物があって持って参りました。その供物はこの布のなかにあります。白王様のご許可を頂き、この布のなかのものを披露させてもらえればと思います」
「中身は何だ」
「空華と申します」
 黒壮猿は、覆いの布を取り払った。そこには、白賢龍と寸分違わぬ、まるで生きているような人形があった。その人形は、まるで生命を宿しているかのように、白賢龍と視線を合わせる。
「これなるは白王様の写し身でございます。これより百日後、赤族との戦いで、白王様は命を落とすことになるでしょう。その日、白王様は宮殿の奥深くに隠れ、代わりにこの人形を人前に晒して軍を指揮させるのです。そうすれば、災いはこの人形が一身に受け、白王様の代わりにこの人形は死をむかえるでしょう」
「私が、赤族との戦いで、命を落とすというのか」
 白王は、烈火のごとく怒りの言葉を吐いた。部屋を声が震わせ、黒壮猿以外の黒陽会の者たちは、その場に座りこみ、頭を手で覆ってその怒りの声を避けようとした。
「落とします。無残に殺されることになるでしょう。しかし、この写し身を使えば白王様の代わりに、この人形が死をむかえるのです」
 黒壮猿は、高らかに声を上げた。白王の目から、怒りの光が炎のように吹きだす。そのとき、人形が微かに動いた。いや、動いたように見えたのかもしれない。人形の目が、指が、白王の目の光に気圧されるかのようにわずかに動いた。足が少し後退した。顔には恐怖の汗を浮かべている。
 白王が暴風のように白髪をなびかせ剣を抜き、彼の写し身に迫る。
「そは生きたヒトガタか。偽りの予言をおこない、汝、我が身を滅し、かようなヒトガタに白王の名を簒奪させようとするか」
 白王の声が鋭く空気を引き裂き、雷鳴のように部屋中に轟き渡る。白王の死とともに、白王そっくりの写し身を白王として振舞わせる。生きた人形であれば、それが可能だ。
 黒壮猿の前まできた白王は、鬼神の形相を浮かべ剣を振り下ろす。その様子を見上げながら、黒逞蛙はひぃと、小さく叫んだ。振り下ろした剣は、黒壮猿の肩の黒衣をかすめ、白王の写し身を袈裟に斬り落とした。部屋が沈黙する。誰一人動かないなか、斜めに切り落とされた写し身の上半身が、音を立てて床に落ちた。黒壮猿の全身が、吹き出た汗でびしょ濡れになっている。
 写し身の切り口が人々の目に入る。その断面は、蝋でできていた。人の似姿ではあるが、それが動く道理はなかった。その場にいた者たちは、確かにその蝋でできた人形が動くのを見た気がした。しかし、蝋でできた人形は、ただ死んだように床に横たわっていた。
 予言であろうか、虚言であろうか。切り捨てられた人形のように、今起こったすべてのことが偽りのような印象を人々は受けた。生きた人形ではない。ただの人形だ。白王は剣を鞘にしまい、火と大きな鉄の鍋を持ってこさせた。このような不気味なものを、他人の手に委ねて処分させるのは、さすがに白王も気味が悪かったのだろう。鍋のなかに人形の死体を入れ、火をかけた。蝋でできた人形は、火を上げ、そして燃え尽きた。
「百と一日、そなたたちの口を封じる」
 白王は、禁言百一日と書かれた紐のついた木の札を持ってこさせ、黒壮猿とその随員たちの首からかけさせた。
「これから百一日、人前で言葉を発することを禁ず。もし声を発していることを見つけた際は、その木の札の代わりに死を賜ることになるであろう」
 木の札を持ってきた罪状官が、声高にその刑の内容を説明した。禁言の刑は、白王に対して悪意を持って虚言、空言をなした者に対する刑罰だ。百日後に白王が死ぬ。黒壮猿に悪意があったか否かは定かではない。だが、一国の王の死を予言することは、国家を揺るがす暴言である。寛大と言ってよいだろう。白王は、人の意見を法で縛ることを好まない。それは、彼が膨大な書物を読み漁っていることと関係しているのかもしれない。

 黒壮猿たちは、罪人として一端、宮殿から獄舎へと移された。そこで彼らは先の禁言百一日に加えて、一月の蟄居を命じられた。彼らは発言を許されない立場だ。粛々とその刑の宣告を受けた。黒壮猿たちは牢のあいだを縫って、獄舎の入り口へとむかう。
 途中、牢のなかの様子が見えた。赤族の者たちの姿が多い。敵国の最前線の城砦都市である広源市に、不敵にも侵入しようとした者たちであろう。赤族は、どこか気楽なところがある。この街がただの街ではなく、白大国の城の一つだということが分かっていなかったのだろう。
 牢の中からも、外からと同じように黒衣の者たちの姿を認めた者たちがいた。赤族の青年の赤空鳶、赤速鷹らであった。彼らは広源市に侵入しようとして、変装してこの街に近づいたのだ。だが、厳戒体制の広源市に侵入することは難しい。すぐに彼らは囚われ、牢に入れられてしまった。変装していたために、白大国に対して敵意を持って侵入していることは明白であった。それぞれ首から、死十日後と書かれた木の札を下げている。字の読めない赤速鷹は事態をまだ把握していないらしい。だが、字の読める赤空鳶は、必死に身の誠実を訴えている。牢にはほかにも多くの赤族の者たちの姿があった。彼らは、情報を引き出すための拷問ののち、死に至るのであろう。
 黒壮猿たちは、粛々と黒陽会の教会に引き上げた。


  十三 長焉市上陸

 白大国の海岸線の事実上の南端といってよい長焉市に、大陸周回航路の船団が入港したのは、海都を経ってから二週間後のことであった。何度か時化に襲われもしたが、一隻も船を失うことなく、まずまずの航海であったといえる。
 長焉市は、長河の根元にある海港都市である。規模は海都よりも遥かに小さい。だが、大陸の都市としては決して小さな都市ではない。
 海都の出身者がこの街を訪れたとき、この街と海都の違いで最初に気付くのはその外観であろう。海都では、海からその都市を見たとき、人々は色とりどりに塗られた屋根のきらびやかさに圧倒される。長焉市を訪れた者が、最初にこの街について驚くのは、街の半分の面積を占める、その色鮮やかな緑の木々に対してである。
 この都市は気候帯でいうのならば亜熱帯地方に属する。この街では、肉厚の巨大な葉を持つ植物たちが、そこかしこに繁茂している。海都と違い、建物が密集しているということもない。広々とした建物のあいだには庭や街路が広がり、その空間に植物たちが伸びやかに葉を広げている。植物と建物がモザイクのように広がった街、それが長焉市である。
 時刻は午前中。長焉市の港についた大陸周回航路の船団には、すぐに長焉市の人々が好奇の眼差しで集まってきた。若い者たちはこの見慣れぬ船に驚き、老いた者たちはかつての記憶を蘇らせ、驚嘆の声を上げてみせたりした。
 船は錨を下ろし、船体は桟橋に突き出た杭に縄をかけて流されないように固定された。板橋が船と桟橋の間にかけられ、すぐに船と陸のあいだを行き来できるようになった。
「長焉市だ」
 真っ先に板橋に飛び移った白麗蝶が、大声を上げて跳び上がる。
「長焉市ですね」
 その後ろを従者の白楽猫が続く。
「ふっ、この航海で、俺は一回りたくましくなってしまったぜ」
 たくましくなったというよりは、傷だらけになったというほうが相応しい青勇隼が、南国の風に髪をなびかせ、軽やかに板橋を下りる。
「白麗蝶さん、あまり遠くに離れないでくださいよ。今から長焉市の舟大家の家長のところに、いろいろと話を聞きにいきますので、一緒についてきてくださいね」
 白麗蝶を放っておいたら何が起こるか分からない。舟大家の海図制作部の青遠鴎は、彼女の注意を引こうと言葉を続ける。
「まだまだこの先には、獰猛な海賊、奥深き密林、滅びを迎えた幻の都黒都など、世にも珍しいものが山の様にあります。でも、もしここで迷子になって置いてけぼりを食らったら、それらの珍事奇物には二度とお目にかかれないのですよ」
 密航者に乗り遅れないようにと言うのも、おかしな話である。彼女はいつの間にか船の一員となっていた。
「おうおう、青遠鴎は見てきたように物を言うのう」
 白麗蝶は、弟子の青勇隼の頭の上によじ登り周囲を見渡す。
「青勇隼、あっちの建物を見よ、作りが立派だ。きっと舟大家の家長の屋敷に違いない」
「白麗蝶様、俺の高さからは見えませんよ」
「方角は合っています。昔きたときは、その方角の場所に、舟大家家長の屋敷がありました」
「それ見ろ、青勇隼。それ、走るのだ」
「ええ、頭から下りてくださいよ」
「何を言っておる。これも修行の内だ」
「何の修行ですか」
「むむ、首の力を鍛える修行だ。さあ、弟子よ走れ」
 よたよたと青勇隼が走りだす。そのあとを、白楽猫と青遠鴎はゆっくりと追っていった。

 長焉市の舟大家家長の屋敷では、海都より戻った家長が自室にこもって執務をしていた。屋敷の警備は物々しい。緑輝と手を切る。そう海都の舟大家の家長と約束をしたとはいえ、それですべてが解決したわけではなかった。緑輝が黙って引き下がる理由もなく、家長の身は危険にさらされていた。そのような理由の下、海都の舟大家からも、長焉市の舟大家の家長を護衛するために、十数名の荒事師が派遣されていた。長焉市の舟大家自身にも、十分過ぎるほどの護衛の兵はいる。この十数名の役目は、半ば護衛、半ば密偵という役目であった。
 屋敷は広い。長焉市の他の建物同様、平屋建てのその建物は、日の光をより多く反射させるために、真っ白にその表面を塗られていた。窓は大きく風通しがよく、天井から足もとまで、外の景色が見通せるようになっていた。その窓には、壁と同じように白く塗った簾がかかっている。
 細めの床板を並べ、足もとの風通しがよくなっている部屋で、長焉市の舟大家の家長青吝鮑は、積み重ねた書類の決済をしていた。海都にいって、戻ってくるまでに二月以上もかかった。決済しなければならない事項も山積みになっている。隣室には、海都から派遣された荒事師たちが控えている。青吝鮑は書類から目を離し、目の間をさすった。
「青吝鮑様、海都から大型船団がやってきたそうです。その船から数人、船員たちが舟大家を尋ねてきております」
 家令が扉を開けて、用件を伝えた。
「大型船団。聞いてないな。どの種の船で何隻だ」
「それが、大陸周回航路用の半武装船で十隻」
「海都の舟大家から派遣されているのか」
「いえ、そういうわけではないようです。補給のための上陸とのことでした」
「ふむ」
 時期が時期だ。その者たちの話を聞き、目的などを確かめておいたほうがよいだろう。
「その者たちはまだ屋敷にいるか」
「はい、お会いになるかと思い、待たせております」
「よし、いく」
 青吝鮑は立ちあがり、家令に続き部屋を出た。隣室には荒事師たちが待機している。金食彩館で彼に電撃を食らわせた青騒蜂という女もいる。青吝鮑は、渋い顔をしてその部屋を通り過ぎようとした。
「どちらにいかれるのですか」
 青騒蜂が立ちあがり問うた。
「来客室だ」
「私もついていきます」
 青吝鮑は忌々しげに鼻を鳴らした。青吝鮑は部屋を抜け、来客室へとむかった。

「海都舟大家海図制作部局辺境部門担当の青遠鴎と申します」
 席に座り、青遠鴎は頭を下げた。彼の後ろでは、白麗蝶とその従者、弟子が壁にかけられた名産品を物珍しげに見て回っている。
「長焉市舟大家家長青吝鮑だ。今回はどのような用件でこの長焉市に」
「ええ、古き日の大陸周回航路を復活させたいという依頼主の方がおりまして、このように船団を連ねてこの港に立ち寄ったのです」
「君の肩書きを聞く限りでは、海都の舟大家が依頼主ということなのか」
「いえ、あくまで出資者は別にいて、海都の舟大家は船を作り、船員を集めただけです。私は、職務上、南海にいくこの船にぜひとも同乗せねばと思い、単身この船に乗りこんできたというわけです」
「なるほど、では依頼主はどちらの方なのだ。大陸周回航路用の半武装船十隻。並の分限者では手が出ない代物のはずだ」
「それが、海都の舟大家と依頼主の約定で、口外できないことになっておりまして」
「ふむ、それは奇態な。普通であれば、それほどの船団を仕立てれば、名を上げるために、自らの存在を誇示するものだが」
「はあ」
 青遠鴎は、すまなさそうに頭をかく。話そうにも、そもそも彼自身も依頼主の素性については知らない。二人が話していると、召使が香草入りの冷茶を人数分運んできた。その冷茶を口に運びながら青吝鮑は尋ねる。
「では、君の質問を聞こうか。職務上、君は私に南海の情勢について聞きたい。そういうことだと思うが」
「そうです」
 勢いよく青遠鴎は応じる。
「よかろう。青美鶴殿には、海都と長焉市のよりよい関係を築いていただきたいからな。海都の舟大家からきた客人には、できるだけの協力をすることを約束しよう」
「では早速質問をいたします。ここ数年、象の鼻近くで海難事故が多く、その事故の多くに緑輝が関係していると言われています。この件について、教えて頂きたいことがございます。緑輝とはどのようなもので、象の鼻では何が起こっているのか。ちょうどこの周辺は、大陸周回航路の航路上に当たります。ぜひとも教えて頂きたいと思います」
「緑輝か」
 青吝鮑は、自嘲とも後悔とも取れる表情をした。
「あれは麻薬だな」
「麻薬、ですか」
「ああ、何か引きこまれるところがある。緑輝の兵たちの顔を見たことがあるか」
「いえ」
「恍惚の笑顔を浮かべて死んでいく。緑輝は、緑輝蝗という兄と、緑輝蛍という妹の二人の国だ。彼らに一度でも会った者は、魔物に魅入られるかのように、彼らの虜となる」
「青吝鮑殿は会われたのですか」
「会ったよ。今では目が覚めたがね。象の鼻の根元には、緑輝宮と呼ばれる緑輝たちの宮殿がある。そこの近くを通る場合は、注意したほうがいい。彼らは、占領した部族の戦士たちを編成して、独自の軍団を作りあげている。密林に住む猛獣や、かつて黒都から散逸した巨大な虫たちを操る独特の軍団だよ。あまり敵には回したくないな。人相手ならともかく、獣や虫なんかと戦うのはご免だからな」
「そうですか。それは確かに相手にしたくないですね。象の鼻を大きく迂回してゆく航路を考えたほうがよさそうですね」
「俺もそう思うよ。近づかないに越したことはない。だが不思議なことに、みんなあの象の鼻に突っこんでいくのさ。生き残った兵士たちに聞いたところ、気付いたら象の鼻に座礁していたなどと言っていやがった。何かやばい物でも住んでいるんじゃないか、あの海域は」
 青吝鮑は、一気に冷茶を飲み干した。緑輝の話をしているうちに、自然と喉が乾いたからだ。青遠鴎と青吝鮑のあいだに、しばしの沈黙が訪れる。いや、青遠鴎の後ろでは、三人組みが何か話をしている。
「青勇隼、それだ、それを引っ張ってみよ」
「えー、白麗蝶様、勝手に触っちゃまずいですよ」
「よいよい、私が許す。引っ張ってみよ」
 その直後、派手な音がして、高いか安いかよく分からない壷が床に落ちて割れた。三人がばつの悪そうな顔をして、青吝鮑の顔を覗きこむ。青吝鮑の顔が青い。
「はっ、白麗蝶さん、何をやっているんですか。でっ、では、私はこれで失礼させて頂きます」
 青遠鴎が慌てて立ちあがる。急いで白麗蝶たちを部屋から押し出して、自分も部屋を退出する。青吝鮑は、割れた壷ではなく、四人が出て行った扉をしばし眺めていた。
「白麗蝶、まさかな」
 こんなところに白王の娘がいるわけがない。だが、年の頃は確かに似ている。
 青吝鮑は、一瞬頭に浮かんだ考えを頭から振り払った。彼の耳には、まだ白麗蝶の出奔の一件は届いていない。彼自身、知識として白王の娘の名前と年を聞き知っているに過ぎない。彼は立ちあがり、来客室をあとにした。


  十四 緑輝襲撃

 緑輝宮から長焉市にむけて、小型の戦船と大型の輸送船が進んでいる。彼ら緑族がその顔に複雑な紋様の化粧をするのと同じように、それらの船には独特の紋様が描かれている。それぞれの船の紋様が、勝利、殺戮、奮戦などの意味を持つ紋様なのだが、緑族の者以外にはその紋様の意味は読みとれない。その紋様は、密林をうねる蔦類に、無数の葉が生えたような形状をしている。ときに渦を巻き、ときに翼のように裾を広げ、荒れ狂う波のようにのたうつこともある。それらの紋様を身に帯びた船と人が、北にある長焉市にむかって移動している。
 緑輝兄妹は、それらの船団の旗艦の上にいる。紋様が洋上に樹海を広げているように見える景色のなか、彼ら二人がいる場所だけは神聖な空き地のように蔦の紋様は姿を消している。彼らは化粧をしていない。化粧をする必要がないからだ。
 緑族の化粧は、もともと目や口、耳といった体の開口部に、虫が侵入しないように始められた。植物の樹皮と鉱物を、ともにすり鉢のなかですり潰し、虫除けの薬液を作る。その薬液を目や口、耳や陰部などの回りに塗ったのが、そもそもの緑族の化粧の起源であった。この原始的な化粧は時とともに精緻化して、記号言語のような独特の化粧の様式へと発達した。緑族はその化粧によって、求婚を表わしたり、戦いを示したり、自らの意思表示をおこなっている。
 緑輝の二人には、不思議と虫は襲いかからない。獣も人も、彼らの前ではひざまずくように、虫も彼らを襲うのを遠慮するのだろう。そのため彼らは化粧をする必要がなかった。化粧による意思表示も彼らには無用だった。彼らは思ったことをすぐ口にし、彼らが口にしたことは、周囲の人々の手ですぐ現実化されるからだ。
 蔦の野に下り立った神人のように、彼らは船団の中央の旗艦で、これからむかう長焉市の方角を眺めている。
「輝蛍よ、長焉市を滅ぼす気で出発したのはいいが、案外遠いものだなあ。もう一週間以上も船に揺られているのに、まだたどりつかない」
「あら、お兄さま。長焉市の場所を把握していなかったの。でも、お兄さまにしては感心ね。ちゃんと日数を数えていたなんて」
「ほかにやることがないからなあ」
「あともう少しよ。明日には上陸するわ。長焉市の近くに停泊させて、陸上から攻めていきましょう」
「直接海から攻めるのではないのか」
「馬鹿ねえ、お兄さまは。長焉市は、青族の街でも大きな街よ。海軍力は侮れないわ。むこうのほうが操船が上手いもの。でも、陸上での戦いなら、猛獣、猛虫で私たちのほうが戦い慣れているわ」
「さすがだ輝蛍よ。お前は頭がいい」
「お兄さまが、馬鹿なだけよ」
 緑輝蛍は軽くあくびをした。緑輝蝗は笑顔を浮かべ、待ち遠しそうに北の空を見た。

 長焉市から船で一時間ほど離れた砂浜に、次々と船が乗り上げていく。船からは兵が下り、猛獣たちは砂を踏み、猛虫使いの持ってきた檻や箱は陸揚げされていく。既に付近を航行していた船から、長焉市に急報は入っているだろう。だが、そんなことはお構いなしに、緑輝の軍団は上陸し、襲撃の準備を進めていく。砂浜には象の姿もあり、こんな巨大な動物も連れてきたのかと驚かされる。
 緑輝蝗と緑輝蛍は、砂浜の上で伸びをしている。あとはのんびりと軍に付いていき、長焉市が破壊される様を楽しめばいいだけだ。先行している偵察の人員と連動して、勝手に襲撃は開始されるだろう。
「緑輝蝗様、先陣の名誉はぜひ、俺に与えてください」
 いち早く襲撃準備を終えた緑小蚤という小男が、緑輝兄妹の前で平伏する。彼の背後には荷台のついた馬車があり、その荷台の上に、人の胴ほどの高さの箱が百個ほど積まれている。その箱の上には白い布がかけられており、箱に当たる陽射しを防いであった。
「俺が街を混乱させて、長焉市の初動を遅らせます」
 緑輝蛍は緑輝蝗の耳に唇を寄せ、二言三言、言葉を告げる。その言葉を聞いて少し考えたあと、緑輝蝗は口を開いた。
「緑純鮎が偵察から戻っていないが、まあいいだろう。よし先陣はお前だ」
「はっ、ありがたき幸せ」
 さらに深く彼は平伏する。その緑小蚤の前まで緑輝蛍が歩いてきて、そっとその顔を起こしてやる。緑小蚤は、目の前の緑輝蛍の姿を見る。緑輝蛍は、その腕と胸で優しく緑小蚤の顔を包んでやり、彼の武運を祈ってくれた。先陣の名誉を賜ったのだ。緑輝蛍の甘い芳しい体臭が、緑小蚤の鋭い鼻に広がっていく。
 緑小蚤は、跳び上がるようにその小さな体を馬車の上に乗せ、馬に鞭を入れて走りだした。砂浜を超え、土の上を走り出したところで馬車の速度が上がった。景色が流れ、風が緑小蚤の顔を叩き始める。馬車で飛ばせば一時間もかかるまい。緑小蚤は馬に鞭を入れる。車輪は音量を上げ、馬車は小刻みに揺れる。
 手柄を上げ、緑輝兄妹を喜ばせるのだ。馬に入れる鞭もつい強くなる。風のなか、緑小蚤は緑輝兄妹に初めて会った日のことを思い出していた。
 彼の生まれた部族は、虐げられた部族であった。大きな部族の奴隷というべき立場の部族であり、力仕事に供するための猛虫を育て管理する卑賤な身分であった。
 彼は、自分が生まれて死ぬであろうその部族が嫌いだった。何故俺は、このような部族に生まれてきたのだろうかと出自を呪いもした。成人式をむかえた日、俺はこの部族で一生を終えるのかと思い、激しく運命を恨んだ。彼は自分の部族のなかで生まれ、育ち、老いる、それ以外の人生を想像することもできなかった。
 だが、運命は突然変わった。
 成人式の翌日、密林のなかで少年と少女の姿を見たその日、彼は何かが変わったことを確信した。それは小川で冷やしている彼の猛虫の繭の様子を確認しにいったときだった。彼を支配する部族の男たちが、彼をからかいながら石を投げてきたのだ。彼は、いつもの習慣通り、その礫を甘んじて受けていた。
「なぜ、君は石を受けているんだい」
 その子供の声に、緑小蚤は振りかえった。小川の先には、美しい少年と可愛らしい少女が、手をつないで立っていた。緑小蚤はその二人の子供の姿を見て呆然とした。彼らの背後には、光がきらめいていたからだ。神々しい後光を背負い、少年と少女は、ゆっくりとした足取りで緑小蚤に近づいてきた。
 大きな部族の男たちの石を投げる手は、いつの間にか止まっていた。緑小蚤は少年らの足もとを見て息を飲んだ。彼らが歩くに連れ、その周りの木や草が、蕾を付け、花を咲かせていくのだ。大地に祝福されたような子らは、緑小蚤の前まできて足を止めた。その場にいる人間は、誰も動くことができなかった。少女の蕾のような唇が綻んだ。
「あなたは、あの者たちよりも強いのに、なぜ石に打たれているの」
 少女の声に緑小蚤は戸惑った。今までそんなことを考えたこともなかったからだ。
「その繭をそっと持ちあげ、彼らに投げつけるだけで、君は自分の力を知ることができる」
 少年の喉から、夢のような音色が流れた。緑小蚤は、小川から繭の一つを引きあげ、大きな部族の男たちにむけて投げつけた。繭が破れ、中から出てきた猛虫が男たちの命を奪った。猛虫は密林のなかに消えていった。
「ほらね」
 少年と少女は嬉しそうに見つめ合い微笑んだ。
「あなた方は一体」
 緑小蚤はいつの間にか子供たちの前にひざまずいていた。
「緑輝」
 二人は仲よくそう答えた。少年と少女は仲睦まじく手をつないでいる。彼らはそれぞれの空いた手を、緑小蚤にむけて伸ばしてきた。
「さあ、あの大きな部族を滅ぼしにいこう。僕たちは、君があの大きな部族を滅ぼすところを見たいんだ」
 少年が期待の眼差しで緑小蚤の目を見る。少女も興奮を抑え切れない眼で緑小蚤を見つめている。
「分かりました。あなた方のために、俺はあの部族を滅ぼします」
 それから瞬く間に月日は過ぎた。緑輝兄妹は美しく成長し、彼らの周りには緑小蚤と同じように彼らに仕えている者たちが多数いることも知った。彼らには負けられない。日に日に増えていく緑輝の部下たちを見て、彼は強く思った。いつの間にか緑輝の配下は増え、緑輝兄妹は国を名乗るようになった。だが彼らは変わらない。あの日、緑小蚤の前に現れたときと同じように光を放っている。
 俺様が、もっとも緑輝兄妹のことを思っているのだ。
 緑小蚤は、馬車の馬に鞭を入れた。長焉市が見えてきた。

 長焉市の舟大家の家長青吝鮑の下に急報が入ったのは、ちょうど昼の食事を始める頃であった。人々は各自の家に戻り、家族とともに食事の準備を進めていた。青吝鮑も家長の屋敷で妻や子供たちとともに、食事の準備を進めている。
「緑輝です」
 最初に飛びこんできた船乗りの言葉はその一言であった。
「馬鹿やろう、それじゃ、何のことだか分からねえよ」
 青吝鮑は船乗りの頭を菜箸で叩く。
「緑輝が軍団を率いて南の浜辺に上陸してきました」
「はぁあ」
 にわかには信じがたい報告を受けて、青吝鮑は疑問の声を上げる。いくら緑輝でも、軍団を率いて攻め上ってくることはしないだろう。ここは白大国の領土なのだ。
「何か変なものでも食ったのか」
 青吝鮑は、菜箸を息子に手渡して船乗りのほうへとむかう。
「本当です。複数の目撃情報があります。緑輝が、猛獣、猛虫の軍団を率いて、この長焉市を攻めにやってきたのです」
 まさか。青吝鮑は驚愕した。何らかの報復はあるだろうと思ってはいたが、軍団を率いてやってくることまでは想像していなかった。奴ら白大国に戦争を吹っかける気か。青吝鮑は船乗りとともに厨房を出た。
 廊下で芋を食べていた青騒蜂が、青吝鮑とすれ違う。
「どこにいかれます」
「白大国の兵舎だ。千人長とともに、防戦の指揮を取る。緑輝が軍団を率いて攻めてきた」
 青騒蜂は息を飲んだ。彼女が予想していた緑輝の報復は、暗殺者や武装集団という規模の相手であった。軍団が攻めてくるというのは想定になかった。
「お供します」
「邪魔だ」
「護衛ですので」
 暗に海都の舟大家から派遣された荒事師であることをちらつかせる。勝手に付いてこい、その返事を待たずに、青騒蜂は青吝鮑のあとを追った。

 最初の戦闘は、長焉市の外門に飛びこんできた馬車が横倒しになったところから始まった。長焉市から南に続く石壁の門の前で、その馬車は速度を上げ過ぎたのか、大きな音を立てて横むきに倒れた。馬車の荷台に積んであった箱は地面に散乱し、ことごとく粉々に砕け散り中身を顕わにしていた。馬車から投げだされたのであろう背の低い男は、道に転がっている。
「どうした事故か」
「馬車が横転したらしい」
「おい、大丈夫かあんた」
 街と近隣の農村を行き来する農民や、門の守衛が心配そうに声をかける。その場の人々の多くは倒れた男に視線を注ぎ、それよりは少ない人数の人々が散乱した積み荷の周りに集まりつつあった。
 男はむくりと起き上がった。無事だったのか、よかった、そんな声で路上の人々は沸きかえる。男は無言のまま、御者台から落ちた袋を探り、そのなかから何かを取りだした。それは、薄い皮膜のようなものだった。人々の視線がその袋から取りだされた見慣れぬ物体に集まる。
 その様子を見ていない小人数は、散乱した積み荷が何かを確かめ始めていた。何か丸い物体のようだ。肥え太った人の胴ぐらいの大きさの丸い物体だ。その表面が割れ、中から細い枝のような物が飛びだしている。
「何だ」
 その様子を見ていた農家の老人が、もっとよく見ようとして、その丸い物体に近づいた。
 先ほどまで倒れていた男は、薄い皮膜を取りだすと、頭からすっぽりかぶった。その奇妙な行動に、人々は首を傾げる。
 散乱した積み荷を農家の老人は覗く。丸い物体が次々に割れ、中から何かが飛びだしてきた。馬車が横倒しになったときの激しい震動で、丸い物体のなかの生物は、目覚める時がきたことを知ったのだ。その丸い繭を引き裂き、大きな虫が跳ねあがった。荷物に近づいていた農家の老人に、繭の中にいた生物が飛びつく。
 その虫は老人の体に取りつき、口吻を胸に突き刺した。その虫の白い半透明の体が、すぐさま赤黒く染まっていく。それに応じて老人の体から血の気が失せていった。老人は倒れた。虫はその体から離れ、五つほどの卵を産み落とす。無精卵だ。
 倒れていた男は皮膜を着終える。
 今回は、雌だけを連れてきていた。この生物は雌のほうがよく血を吸う。繭から出てきたばかりの彼女らは、まだ雄との交尾をおこなっていない汚れを知らない処女たちだ。この虫、蚤の交尾は、雄が雌の腹に合口のような生殖器を突き刺すことでおこなわれる。彼女らの腹には、そのような刺し傷は一切ない。美しい素肌をしている。
 路上に百匹の巨大蚤が現れた。普通の蚤よりも体が大きいせいか、自分の体長の五倍ほどまでしか跳ね回ることができない。しかし、これだけの高さを跳べば、人の身長と同じ高さほどにはなる。
 馬車に乗っていた男は、この巨大蚤の幼虫が脱皮したときの皮を縫い合わせて作った外套を頭から被っている。彼に近づいてくる蚤は、その外套の表面に触れたり、臭いを嗅ぐことで、それが獲物ではないことを認識する。
 その男緑小蚤は素早く動き、跳ね回る蚤たちの体を、同じく幼虫の皮でできた手袋で触り、そのむきを長焉市へとむけていく。
「わっはっはっ、俺様の猛蚤軍団が長焉市へ一番乗りだ、手前ら覚悟しやがれ」
 彼が操る巨大な蚤たちが、跳ね回りながら長焉市の城門へとむかっていく。衛兵が短い声をあげて逃げだす。だがその場で転び、背中から蚤の口吻を突き刺される。すぐに血の気が失せ、動かなくなる。緑小蚤が着ている幼虫の皮の外套は、蚤の姿に微妙に似せてあった。この猛蚤の軍団を連れていなければ、滑稽な姿にしか見えない。だが、この惨劇のなかでは、悪魔の軍団を率いる魔王のように見えた。
 人々は、恐慌状態になりながら長焉市のなかにむかって逃げだした。

「何だか南のほうが騒がしいのう」
 白麗蝶たち一行は、長焉市で昼飯を食べる場所を探すために歩き回っていた。近隣の農家からの野菜、南国の果実、海の魚に川の魚、この長焉市は、海都に劣らぬ食通の街である。どの店からもよい匂いが漂ってきて、すべての店の料理を平らげたい衝動に駆られる。
「どこにしましょう白麗蝶様」
 笑顔を浮かべながら白楽猫が店を覗きこんでいる。それに釣られて白麗蝶も、店に視線を移す。
「決めた。この電々魚の丸唐揚げ定食にするぞ。さあ、食べるぞ、食べるぞ」
 飛びこんでいく白麗蝶のあとを追って、白楽猫、青勇隼は店に入る。先ほどまで一緒にいた青遠鴎は、停泊している船に早々と帰ってしまっていた。すぐに料理が運ばれてきて、各人は空腹を満たし始める。食事を食べながら、青勇隼が蘊蓄を語りだす。
「知っていますか、白麗蝶様。この電々魚は、沼に生息していて、名前のように電撃を発するんですよ」
「青勇隼は自分で取ってきたように魚の自慢をするのう。しかしこの電撃を発する魚はたいそう美味だ」
 三人が食事をしていると、表通りから人々の悲鳴が聞こえてきた。
「喧嘩だ」
 白麗蝶はそう叫び、急いで食事を口に放りこんでから、店の外に飛びだした。白楽猫と青勇隼も慌ててあとを追う。店から出ると、人々は一目散に北にむけて走っていた。その流れに逆らって、白麗蝶、白楽猫、青勇隼は南にむけて走る。人の流れが切れた。
「むむ、喧嘩ではないのか」
 白麗蝶が不満げな顔で辺りを見渡す。その三人の眼前に、赤黒く染まった巨大な蚤が、どすんどすんと跳ねてむかってきた。
「青勇隼、修行の成果を示すのだ」
「はっ」
 青勇隼は抜剣して巨大な蚤を串刺しにする。しかし、蚤はその程度では死なず。もそもそと動いて剣を持つ青勇隼に迫ろうとする。
「何じゃこりゃあ」
 驚いて青勇隼は剣を取り落とす。巨大蚤は、青勇隼の剣が突き刺さったまま、青勇隼目掛けて跳ねてくる。青勇隼の背後から前方にむけて、何かが高速で動いた。その瞬間、蚤が真っ二つに割れて、吹き出した血が青勇隼にまともにかかった。
「うぎゃあああ」
 血まみれになった青勇隼が、大声を上げる。
「だらしないのう、自分が切られたわけでもないのに。早く剣を拾え」
 白麗蝶が、青勇隼の真後ろで剣を抜いて立っている。どうやって、この位置から青勇隼の前にいる巨大虫を斬ったのだ。青勇隼は慌てて剣を拾う。気付くと三人は蚤に取り囲まれていた。白楽猫を真中にして守り、白麗蝶と青勇隼が剣を構える。
「弟子よ、背後は任せたぞ」
「えー、そんな師匠、困るなあ」
 青勇隼のぞんざいな返事をよそに、白麗蝶は蚤相手に適当な剣の構えを披露する。
「さあ、どこからでもかかってこい」
 蚤はその言葉のとおり、四方八方から飛びかかってきた。

 緑輝が上陸した砂浜から長焉市にむけて、人、獣、虫が入り乱れた軍団が足早に進んでいく。緑輝蝗と緑輝蛍は、馬車の上で揺られている。長焉市が大きく見えてきたとき、街から二人の乗っている馬車にむけて、一人の少女が駆けてきた。象使いの一族の、まだ幼い族長の緑純鮎だ。
 少女は、ぱたぱたと走ってきて馬車によじ登り、緑輝兄妹に涙目で訴え始めた。
「緑輝蝗様、私が先行して長焉市に偵察にいくって言ったじゃないですか。そうしたら緑小蚤がやってきて猛蚤をまき始めるし」
「あら、お兄さま。女の子を泣かすなんて罪作りね」
「おおよしよし、落ちつきなさい」
 緑輝蝗は緑純鮎を優しく抱きしめてやる。緑純鮎の涙は止まったが、別の意味で落ちつかなくなった。
「さて、いよいよ長焉市が近づいてきた。緑純鮎、君の出番だよ。例の合体兵器を試すときがきた」
「あら、お兄さま。合体兵器とは何なの。初めて聞いたわよ」
「猛獣と猛虫が合体して攻撃する新兵器さ」
「お兄様の新兵器は外れが多いから、大丈夫かしら」
「さあ、緑純鮎。派手にやるのだ」
「はい」
 泣き止んだ緑純鮎は、緑輝の乗った馬車から飛び降り、一族の者たちが率いている象部隊の位置まで駆けた。象の数は二十頭。そのなかでも特に派手な化粧を施された象の上に乗っていた一族の男が、族長の緑純鮎を象の上に引き上げる。
 彼女が乗った象の背中には、大きな構造物が設置されていた。彼女は象部隊に指示をだし、速度を上げさせる。そのあとを、箱を無数に積んだ馬車が追いかける。
「この距離でよさそうね」
 象部隊は、長焉市に対して横に一直線に並んだ。その後ろに荷物を積んだ馬車が並ぶ。長焉市からは、武装した重装歩兵が盾を構え、陣形を作り距離を詰めてくる。その背後には、長焉市を守る千人長の姿が見える。さらに後背には、青吝鮑率いる舟大家の弓部隊が進軍している。青吝鮑の周囲にいる護衛のなかには、海都の舟大家から派遣されている護衛の姿も見える。
「装填」
 緑純鮎の声とともに、馬車から一つの箱が開けられ、一抱えもあるような、巨大な黒い丸い砲丸が取りだされた。その砲丸を、象部隊の背中に設置された構造物の一箇所に設置する。
 すべての象で装填が完了した。
「発射」
 緑純鮎の声とともに、象の背中に設置された投石機から、黒光りする砲丸が投げとばされた。その砲丸は、重装歩兵の戦列やその近くに落下して、数人を押し潰した。だが、長焉市守備の白大国の重装歩兵は、陣形を乱すことなく前進を続ける。
「あれ、おかしいな」
 その様子を見ていた緑純鮎が首をひねる。緑輝蝗の話だと、すぐに動きだすはずだったのだが。少し経つと、重装歩兵の戦列が崩れだした。兵士たちが凄まじい勢いで四方に駆けていく。陣形が解けたそのなかからは、巨大な団子虫が飛びだしてきた。団子虫は兵士の足を払って転ばせ、その硬い脚で兵士たちの柔らかい皮膚を貫き走り回る。
「次弾装填用意」
 緑純鮎が声を上げる。三投目で兵士たちの戦列は完全に崩れた。ばらばらに逃げ回る兵士たちは、長焉市にむかって駆けだした。
「前進」
 兵士たちの動きを確認してから、緑純鮎は指示を出す。投石機ならぬ、投虫機を搭載した象軍団は、今度は長焉市に直接猛虫を投げこむために前進を開始した。
「おお、成功したぞ」
「お兄さまの考えた兵器にしては上出来ですわ」
 緑輝たち本隊も長焉市の入り口までたどりついた。既に入り口に門の周りには、長焉市の者は誰もいない。馬車を下りて、彼らは悠然と街のなかに入る。各部族を単位とした部隊が、それぞれ長焉市の市民を虐殺するために街に繰り出していく。一方的な殺戮が始まった。

 その頃、港でも小戦闘が始まっていた。長焉市の北側、長河の付け根部分に設けられた港では、船に乗り、沖に逃げようする市民たちが、互いに押し合い、混乱状態を作っていた。その混乱する人々を緑族の戦士たちが虐殺していく。
 大陸周回航路の船団近くでも、戦闘は発生している。船乗りや兵士たちが弓を取り、緑族の戦士を射抜こうとするのだが、この密集状態では長焉市の市民に当たる可能性のほうが高く、有効な反撃には至っていない。
 船の上で、他の兵士と同じように弓を構えていた青静鯖が舌打ちをする。
「駄目だ。狙いが付けられない」
 そのとき港の一角で、象の鳴き声が響いた。青静鯖がそちらに視線を移す。投石機を背中に搭載した象が、人々を踏み潰しながら港に入ってこようとしている。投石機の攻撃を食らえば、船が沈みかねない。青静鯖は象の乗り手に狙いをつけて矢を射る。乗り手が落下し、制御を失った象が人々を蹴散らしながら港を走り始める。その象は港の端で足を滑らせて水中に落ちた。激しい水柱が上がり、港の船が激しく揺れる。青静鯖は弓を取り落としそうになる。
 今度は五頭、投石機を背負った象が、港に侵入してきた。船の揺れは収まっていない。これでは狙いをつけられない。
 旗艦では、屋形に船長が飛びこみ、大声を上げている。
「やばいです。一旦沖合いに出て、戦闘から逃れなければ、俺たちの船もやられちまいかねません」
 そのとき、旗艦の隣の船に砲丸が命中した。甲板をぶち破り、船室に砲丸は落下する。その直後、その船の兵士たちは我先にと長河へ飛びこみ始めた。甲板をぶち破り、巨大な団子虫が姿を見せた。団子虫は体を伸ばして立ちあがり、その多脚を誇らしげに動かす。
「全船出港させろ」
 屋形のなかの黒覆面の人物が、野太い声で叫んだ。小声で話していては、この人々の絶叫のなかで指示は伝わらない。その声は、旗艦で防戦をしていた青凛鮫の耳にも届いた。黒覆面の人物、男であったか。青凛鮫は、船に上がってこようとする緑族の戦士を脚で蹴って船の下に叩き落しながら思った。
「全船出港」
 旗艦の船長が叫ぶ。彼に付き随う航海士も、手旗で指示を各船に伝える。錨を上げ、繋留している太綱を杭から外す。船の側面についている櫂を使い、大陸周回航路船九隻は港を離れた。一隻だけ残されている船は、先ほど猛虫の投擲を食らった船だ。この船は乗り手たちがすべて逃げ出してしまっているために動かない。
 人々は長河に飛びこみ、緑族の攻撃を逃れようとする。そこに緑族の兵士たちは矢を射かけていく。次々に長河に死体が浮かんでいく。
 長焉市の街中では、白大国や長焉市の兵士と、緑族の軍団たちのおいかけっこが始まっていた。長焉市の舟大家の家長。それが今回の一番の獲物だ。彼を倒した者は、緑輝から大いなる祝福を授かることができるだろう。緑族の兵士たちは、血眼になり、その獲物を探し回る。
 青騒蜂は、ほかの荒事師や青吝鮑の私兵とともに、青吝鮑を護衛しながら長焉市の街中を駆けている。海都と違い、この街は裏路地などないに等しい。建物のあいだは広い間隔が空いており見通しがよい。追うほうには有利だが、護衛しながら逃げる者には圧倒的に不利な場所だ。
 獣の獰猛な声がした。直後に荒事師や兵士たちの悲鳴が上がった。後ろにいた兵士から順に、その獣の爪で牙で、肉が骨ごと引き裂かれていく。青騒蜂は、青吝鮑の横にいたおかげで、その突然の襲撃から難を逃れた。青騒蜂は、青吝鮑とともに全力で走りながら背後を振りむく。豹だ。黒豹に馬乗りになった緑族の戦士が、人豹一体となって、順々に兵士を葬りながら迫ってくる。青騒蜂は総毛立つ。豹と戦って勝つ自信などない。
「長焉市舟大家家長を討ちとるは緑珍鼠なり」
 乗り手自身も豹のようにしなやかな体を持つ小柄な男が名乗りを上げる。捕まった。ぼろ切れのように青吝鮑の体が引き裂かれる。豹の上の男は手につけた鉤爪で青吝鮑の首を落とし、そのまますぐに青騒蜂を追う。黒豹もその上の男も目が血走り、完全に興奮状態になっている。
 駄目だ殺される。青騒蜂は振りむき、左腕を大きく突きだした。素早い豹の動きを見切ることはできない、ならば。歯を食いしばり全身に精神を集中させる。急に突きだされた腕を、豹が素早く爪でなぎ払おうとする。青騒蜂の髪が逆立ったのと、黒豹の爪が振り下ろされたのは同時だった。
「ギャア」
 黒豹と乗り手の男が同時に悲鳴を上げる。電撃がその全身を貫いたのだ。と同時に青騒蜂の左肘から先が削りとられた。乗り手の男は素早く立ちあがる。だが、全力の電撃を直接受けた黒豹はまだ立ちあがれない。青騒蜂は痛みを必死に堪えながらその場を逃げだす。
「ちっ」
 黒豹の乗り手、緑珍鼠は青吝鮑の首を拾いなおした。黒豹は、先ほどの電撃でたかぶりが冷めたのか、緑珍鼠の手に頬擦りをしている。
「おい、この首は食っちゃ駄目だ」
 青吝鮑の首に噛みつこうとしていた黒豹が、残念そうに鳴き声を立てる。そして、仕方なさそうに、先ほど爪で削りとった女の腕を食べ始めた。黒豹はその腕を牙で引き裂き、美味しそうに喉に入れていく。量が少なかったのか、ねだるような声を緑珍鼠に発する。
「何だ食い足りないのか。肉はほかにもたくさん転がっている。食事にするか」
 長焉市の舟大家家長の首も取った。まだ戦は終わっていないようだが、食事を始めても罰は当たらないだろう。緑珍鼠は、黒豹とともに食事を取ることにした。

 緑輝兄妹は仲よく手をつなぎ、破壊の光景を楽しみながら長焉市の町並みを歩いている。道には引き裂かれた死体が転がり、家や店はその入り口や窓を徹底的に破壊されている。長焉市の市民はどれだけこの街を逃げだせたであろうか。直接緑輝の手勢で殺された者以外にも、逃げだす人々の混乱で死んだ人の数も相当数に上っていた。水に飛びこみ、あとから飛びこんできた人に上に乗られ、浮かびあがれなかった者もいる。転び、起き上がろうとして、人々の足に踏まれてそのまま立ちあがれなかった老人や子供もいる。その光景を、満足そうに緑輝兄妹は眺めながら街を北にむけて歩いている。
「緑輝蝗様、とんでもない奴らがいます」
 二人が歩いていると、前方から泣き顔の緑小蚤が駆けてきた。
「奴ら、俺様が今回の長焉市攻めに持ってきた猛蚤を、全部ぶった切りやがったんです」
「へー、それは面白いな。見にいこうか輝蛍」
「そうね、ちょっと興味があるわ」
 緑輝兄妹は、緑小蚤に導かれながら街の一角にむかった。そこには、血まみれの剣を持った幼い少女白麗蝶と、やはり血まみれの長剣と短剣を左右の手に持った青勇隼の姿があった。白楽猫は、近くの茂みから頭だけを出して、がたがたと震えている。白麗蝶の衣服には返り血はついていないが、青勇隼は全身血まみれになっていた。
「青勇隼が十匹で、私が九十匹。しめて百匹斬り達成」
 白麗蝶が剣を振り回して喜んでいる。その様子を見ながら、青勇隼は荒く息を吐いている。もう大丈夫そうだと思い、白楽猫が茂みから出ようとすると、白麗蝶が再び剣を構えた。
 その構えた先から、輝くように美しい男と女が歩いてきた。その前に先導するように小男が歩いているのだが、三人の目はその二人の姿に釘付けになる。二人の周囲の空気は光を帯びて瞬いていた。彼らの姿が現れた直後、穏やかな涼風が吹いたように、その場の血生臭さは影を潜めた。
「あら、これだけの猛虫を、たった三人で葬ったの」
「いえ、あのちびっこい餓鬼と、あの小憎らしい野郎の二人でです。まあ、ほとんどはあの餓鬼にやられたんですが」
「それは素晴らしい。少女よ、君はなんて強いんだ」
 まるで社交の場で歓談をしているような気楽な雰囲気で、緑輝蝗と緑輝蛍は親しげに言葉を発する。
 ぐにゃり。
 白麗蝶、青勇隼、白楽猫は、自我を構成する何か重要な柱が捻じ曲がったような感覚を覚えた。
「近づいて見てみると、この小さな女の子はたいそう可愛いらしいわね。絶対将来美人になるわよ」
「おお、それはよいことだ。輝蛍の人を見る目は確かだからな」
 緑輝兄妹は、白麗蝶たちにむけて、歩を進めてくる。
「おっ、お前たち何者だ」
 青勇隼が叫ぶ。三人のなかでもっとも年を取り、人生の経験を得ている青勇隼は、この感覚を知っていた。青勇隼はかつて冒険をともにした仲間から、一度だけこの感覚を味わわせてもらったことがある。だが、歴史に名を残す人物になりたいと思っていた彼は、一度きりでその感覚を味わうのを止めた。
 緑輝兄妹が近づいてくる。やばい逃げなければ。その味を知らない白麗蝶と白楽猫は、ぼうっとしたまま、迫り来る男女の姿を見つめている。
 どろり。
 頭のなかで何かが溶けた。三人の目の前で、緑輝兄妹が歩いている石畳から植物の芽が吹き出し、たちまち花が咲いた。
「おおう」
 白麗蝶が驚きの声を上げる。違う、青勇隼はそう叫びたかった。だが、唇がいうことを聞かない。あれは麻薬だな。長焉市の舟大家家長の屋敷で聞いた、青吝鮑の言葉が青勇隼の頭のなかで響く。
 ……。
 意識が緩やかに沈んでいく。駄目だ、意識を失ってしまう。
「さあ、私たちと一緒にゆきましょう」
 緑輝蝗と緑輝蛍は、白麗蝶、青勇隼、白楽猫を次々と抱き寄せていく。
 ふつり。
 意識が消えた。
「お美しい方、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
 青勇隼は美しい女性に目がない。緑輝蛍にむけて笑顔で名を尋ねた。
「私の名前は緑輝蛍よ。隣にいるのは兄の緑輝蝗。みんな、よろしくね」
「ええ、もちろんですとも」
 目を輝かせながら青勇隼は返事をした。和やかな雰囲気で三人は緑輝と言葉を交わす。緑輝の二人は、新たに仲間となった三人を連れて港へとむかった。

 港は完全に緑族に占拠されていた。長焉市の市民の多くは船に乗り、長河に脱出していた。投石機の届かない場所まで離れて、船の多くは長焉市の様子を窺っている。青遠鴎は、船長とともに長焉市へと目を凝らしていた。青遠鴎の隣の船長は、遠眼鏡で港の様子を観察している。
「おい、青遠鴎。これで港を見てみろ」
 青遠鴎は、手渡された遠眼鏡で港を覗きこんでみた。緑族の軍団は、二人の美しい男女を中心にしてこちらを見ている。その二人の男女が緑輝兄妹であろうか。その横に、見慣れた顔が三つある。
「ええっ。白麗蝶、青勇隼、白楽猫」
 もう一度よく見る。確かにそうだ、その三人だ。
「分からん」
 船長が渋い顔をする。青遠鴎は、緑輝兄妹と三人の姿を見比べてみる。一体何があったんだ。遠眼鏡を覗いていると、緑輝兄妹が、つないでいる両手を天高くにむけて掲げた。何をする気だ。少し経つと、川面に浮いている船のあちこちで悲鳴が上がった。
「怪物だ、怪物が出た」
 船乗りたちが、長焉市の対岸のほうをむいて叫んでいる。青遠鴎は振りむいた。海のなかに、巨大な化け物が出現していた。船の帆よりも高い巨大な芋虫だ。その芋虫が、威嚇するかのように、徐々に長河に浮かぶ船たちに近づいてくる。慌てて長焉市にむかい、数艘の船が漕ぎだした。怪物から逃げるように必死に船を進めた者たちは、緑輝の軍団の矢の射程に入った。無数の矢が飛来して、すぐに針鼠のようになる。
「まずい」
 旗艦でもその様子は見えていた。さすがにこれだけの戦闘が起こったのだ、黒覆面の依頼主も屋形から出てきて、長焉市の様子を観察していた。その黒覆面の男が声を発した。
 同船している青凛鮫は、その黒覆面の近くで様子を見守る。黒覆面は、船縁の手すりを強くつかみ、全身に力をこめる。青凛鮫は成り行きをじっと待つ。
「怪物が消えたぞ」
 船乗りたちから声が上がった。と同時に、黒覆面が脱力したかのように、膝を落とした。少し息を整え、黒覆面は手すりにつかまって身を起こす。船長が飛んできて、黒覆面に肩を貸し、屋形へと連れていく。黒覆面は、船長に何か囁いているようだ。屋形の入り口の扉が閉じた。
 港では、緑輝の二人が苦い顔をしていた。
「興が冷めた。帰るぞ」
 緑輝蝗が緑輝蛍の手を引いて、南にむかって歩き始める。緑輝の軍団の者たちは、今日の戦勝を喜び沸き立っている。そのなかで、緑輝蝗と緑輝蛍の二人だけが不機嫌な様子であった。彼らは、白麗蝶たちを連れたまま、上陸した砂浜へと消えていった。


  十五 大狼到着

 その日の夕方には、長焉市から緑輝の姿は完全に消えていた。まるで、つい先ほどまで街で彼らが暴れ回っていたのが嘘のように、街中は静寂の場所となっていた。死体、破壊、それだけが、緑輝がきたことを思い出させる痕跡であった。
 恐る恐る、船の上に逃げていた人々は港へと戻っていった。大陸周回航路の船団も、補給の途中であったことと、その船の一つが損傷を受けていたこともあり、港へと引きかえした。街に再び人の声が響き始める。
 陽が西の地平線に差し掛かり、東の空が紫紺に染まりかかった頃、北々東の方角から一隻の船がやってきた。小振りの大陸周回航路用の船である。
 薄暗い景色のなか、船は港に入った。甲板から港の様子を見た人々は呆然と港の光景を眺めた。いや、港に入る前から既に呆然としていた。港の周辺には、数え切れないほどの死体が浮かんでいたからだ。薄暮のなか、川面から、浮き草のように無数の手足が突きでていた。
 何か重大な異変が起こった。船に乗っている者たちにも、そのことは十分理解できた。物々しい雰囲気で、船から白大国の兵士たちが下りてくる。兵士は港にいる人々に事情を聞く。
 長焉市の千人長は。行方不明だ。
 舟大家の家長は。死んだらしい。
 何が起こったのだ。緑輝が攻めてきたのだ。
 景色が暗闇に落ちこんでいくなか、兵士と港にいる人々とのやり取りはおこなわれた。町のいくつかの場所で、灯火がつけられ始めた。夜の闇のなか、小さな明かりが瞬き始める。
 白大狼は船を下りた。そして、大陸周回航路の旗艦を兵士に確認させ、その船へとむかった。街と同じように船にも明かりが点けられていた。波に揺れる光のなか、船長といくつか言葉を交わし、白大狼は屋形へと姿を消した。船長も彼とともに屋形に入った。
 外から話の様子は伺えない。途中で船長が屋形を飛びだし、航海士を走らせて各船の船長を呼び集めさせた。航海士からの話を聞いて、青遠鴎の乗っている船の船長は顔面を蒼白にして旗艦へと駆けた。屋形のなかでの話は長く続いた。空では星が瞬き、ゆっくりと空の上を通り過ぎていった。
 東の空が白んできた頃、ようやく白大狼は屋形の扉から出てきた。旗艦を下り、自らが乗ってきた船へとむかう。白大狼が船に戻ると、兵士たちは、旗艦での話の内容とこれからの指示を聞かせてくれと言った。
「白麗蝶が、この長焉市を破壊した緑輝という海賊一味にさらわれた。これから緑輝の根城である緑輝宮と呼ばれる宮殿に攻め入り、白麗蝶を救いだす」
 そのとき朝日が長焉市の姿を照らしだした。兵士たちは長焉市の惨状を、ようやく陽の光の下で見ることができた。
 海賊一味。白大狼が使った言葉の語感からはかけ離れた破壊の光景が、目の前には広がっていた。兵士たちは目を見開き、その光景を見つめる。
「もう一度繰り返す。これから緑輝の根城である緑輝宮に攻め入り、白麗蝶を救いだす」
 白大狼は、兵士たちにそう告げた。


  十六 援兵

 山を超えて草原に至る道は閉腸谷を超える以外にもいくつかある。ただ、それらの道は軍団が通るには細かったり、山の起伏が激しくて通過が難しかったりする。通りやすい場所を選び、複雑につないで独自の通過路を見つけ出す、そんなことは、市表のような精密な地図がなければ困難なことである。そうでなくとも、山は人に対して厳しい。何の準備や知識もなしに山脈を越えようとすれば、山で迷い、命を落とすことは必定である。
 多少面倒でも、人が通り、確実に踏みしめられた道だけを通ってゆく。そうすれば最終的には山を越えて草原に出ることができる。そのような道を、黒陽会の黒い長衣を着た男が杖をつきながら進んでいく。その男の目の前に、行き倒れて横たわっている赤族の男の姿があった。確かな了見を持たず、気のままに進み、途中で水を切らしてしまったのだろうか。赤族の男の横では馬が死んでいた。赤族にとっては、友を失ったに等しいことであろうに。黒衣の男はそう思った。
 黒陽会の男は、その師から山の越え方を教わっていた。水は十分にある。赤族の男の息がまだあることを確認して、その口もとを少しだけ水で湿らせた。火を起こし、白湯を作る。熱過ぎないように冷ましてから、少しずつ男にぬるま湯を取らせた。男の意識が回復する。馬は死んだ。そう告げた。男は、自責の念で慟哭した。
 赤族の族長に届けなければならないものがある。黒衣の男はそう告げた。赤い髪の男は、命の礼に案内すると言った。この季節に、近くに移動してくる一族があるという。彼らの下までゆけば、赤族の軍営の場所を知ることができると言った。黒衣の男は頷き、ともにその場を去った。
 山を越え、草原に至る。二人は草原のなかを進み、半日ほどで人々が天幕を張っている場所にたどりついた。赤い髪の男が、仲間たちに事情を話す。その日は命を救ってくれた友のために歓待があった。新たな馬を手に入れ、二人は連れ立って赤族の本陣へとむかった。黒衣の男は馬をよくせず、荷物を載せて引くことしかできなかった。赤い髪の男は後ろに座るように黒衣の男に勧めた。二人は相乗りして草原を進んでいった。

 赤族の本陣には、日を空けず様々な者たちが来着していた。族長代理の赤堅虎は、その者たちのほとんどすべてに参陣の許可を与えていた。やってきた者の多くは、大陸の各地に散らばっていた赤族の者たちである。これまで戦に加わろうとしなかった草原の集落の者たちもいる。故郷が消えようとしている。その危機意識が、彼らに参戦の決意をさせていた。赤族以外の者も、少数ながらやってくる者たちのなかにいた。白大国の支配を快く思わないもの、白王に滅ぼされた国の王やその末裔、それらの者たちは、一括りにまとめられて、外馬兵と呼ばれた。赤族の機動力を活かした戦陣には加われない兵、というほどの意味である。
 閉腸谷は取られた。しかし、その土地は元々赤族の住む土地であったわけではない。赤族の意識のなかでは、負けたという意識はない。白大国の王、白賢龍が、閉腸谷に砦を作るまでが戦の下準備と考えていたことと、これは等しいだろう。
 本陣の天幕の入り口が開き、二人の男が族長代理に来着の挨拶をするために入ってきた。
 一人は赤族の男赤善猪、もう一人は黒陽会の信者黒暗獅である。赤善猪は遥か海都からはせ参じ、道に迷い、どうにか山岳地帯までたどりつき、水を切らして行き倒れた。そのことを来陣早々周りの者に話したところ、行き倒れの赤善猪、という不名誉な通り名を与えられてしまった。
 黒暗獅は、伏目がちの長身の青年であった。彼は赤堅虎に一礼し、発言の許可を求めた。
「よい。話すべきことを話せ」
 床机に座した赤堅虎は、自らの赤い髭を撫でながら、黒陽会の男に発言の許可を与えた。横には、護衛役として巨体の赤高象が膝をついている。黒暗獅は、まずはその許可に対し礼を述べ、そのあと語り始めた。
「黒陽会の我が師は、こう話しました。東で生まれた塵界を支配する王が没するとき、西の草原より境界を超える王が現れるであろう。その名シヒョウに刻まれ、とこしえにその名を残すであろう」
「シヒョウとな」
 驚くようにして、赤堅虎は立ちあがる。シヒョウとは、彼の息子赤栄虎が作った赤族極秘の地図のことか。だが、シヒョウに名を刻むとは、どういうことであろうか。あまりの大きな反応に黒暗獅は戸惑いを覚える。
「そなたが申した、シヒョウとは何を指す」
 赤堅虎は、目を大きく見開いて黒暗獅に問う。
「いえ、私には分かりかねます。俺は言葉を伝えにきただけなので」
 最後のほうの言葉は尻すぼみに小さくなった。これほどまでに赤族の前族長が反応するシヒョウとは、何のことなのであろうか。黒暗獅はその言葉の意味を知らない。
「あと、もう一つ。黒陽会から、赤族の王への贈り物がございます」
 黒暗獅は懐から、金糸を織りこんだ袱紗を取りだし、赤堅虎に献上した。赤堅虎は、袱紗を受け取り、中の物を見る。それは薄く輝く矢であった。その矢は羽根のように軽くたおやかで、巌のように重く力強く、鋼のように硬く鋭くて、草のように柔らかくしなやかであった。この世のものならざる不思議な矢。赤堅虎には、そう思えた。
「矢の名は、紫雲と申します」
 赤堅虎は、矢を何度も手のなかで持ちかえた。この矢であれば、常の数倍の距離を飛ばすことができるかもしれない。そう思った。
「黒陽会の我が師は、こう話しました。白き王は、紫雲の飛来によって命を落とすであろうと」
「黒陽会とは、どういった存在なのだ」
 紫雲を恐る恐る袱紗に包み直しながら赤堅虎は問うた。
「赤き王が立つとき、ともに大地に根付くことを願っている者。そうご記憶頂ければと思います」
「よかろう。記憶は語り継がれ、我が息子も同じ言葉を知るであろう」
 黒暗獅は深く辞儀をして、天幕をあとにした。


  十七 萌芽

 赤族の住む草原に雨季が近づきつつある。その前触れであろうか、その日、その地域には二日ばかりまとまった雨が降った。それはこの時期にしては珍しいことであった。
 雨は草原のなかに細流を作り、仮初めの川となる。起伏の少ないこの土地では、川は川のまま地を走り、その多くは湖にも池にもならず、次の乾季に蒸発する。赤族も溜め池などは作らない。遊牧の民である彼らは、ひとところに縛られるのを好まないからだ。
 その日の雨は、地の草を濡らし、その下の地面を湿らせた。水は大地のどの程度の深さまで染みこんだか。だが、その植物の種には、水の深さは問題ではなかった。その種は、地上に横たわっていた。
 その植物は弱小種であった。密林。それが本来の彼の住処であった。密林は弱肉強食の世界である。それは獣の世界だけではなく、植物の世界でもそうであった。いち早く高所まで伸び、陽の光を得る者、他の植物の幹をよじ登りその養分を吸う者、大地に広く葉を伸ばし、少ない太陽光線を無駄なく得ようとする者、獣や虫の腐肉を食らい、その養分をすする者。それぞれの植物が生き抜くための武器を持ち、激しい戦いを繰り広げていた。
 その植物は自らの体が他の者たちよりも劣っていることを熟知していた。丈は低い、他の植物から養分を得ることもできない、葉は長細く、捕食の機能も持っていなかった。彼は、弱者である己を生き長らえさせるために、知恵を振り絞った。敵に勝てないその身ならば、せめて敵に負けないよう策を巡らそうと。彼は、密林の弱肉強食の戦いのなかで生き抜く術を考え続け、時とともに自らの姿を変化させていった。
 草食獣よ去ね。彼がそう叫ぶと、彼の弱々しい細長い葉には鋭い刃が鋸のように宿った。我が子を食い尽くせるものなら食い尽くしてみろ。彼が呪言を吐くと、彼の子は無数に大地に飛び散るようになった。
 だが、暗く狭い地でしか生きられない彼の子らは、彼の周りで多く死に至った。彼は願った。我が子に空を飛ぶ羽根を。意は天に通じたか、彼の子は今や羽根を持った。彼の子供たちは微かな風に乗り、いくらか遠くまでたどりつくことができるようになった。だが密林のなかでは強風は吹かなかった。
 彼は辛抱強く厳しい生活に耐えた。その子供は暗闇のなか、光明を求めて臥したまま多く死んだ。彼は怨嗟の声を漏らした。長き眠りに耐えられる硬き鎧を。数百代に渡る戦いののち、彼の子供は、闇と乾きから身を守る硬き鎧を獲得した。
 彼の息子は育った。水を得て、他の植物が一瞬見せる隙を突き、陽の光を浴びて芽を延ばした。茎は伸びる、根は大地を懸命に掘る、葉は密林のなかで地歩を得、彼の孫が誕生するかと思われた。だが、陽は閉ざされた。彼の子は枯れた。密林の植物たちは、そう多くの隙を見せてはくれなかった。敵も戦いのなかで、日々進化していた。
 誰よりも早き成長を。絶望の淵で彼はつぶやいた。その望みを叶えるのには時間がかかった。数千代の齢を重ね、彼は一日で成長し、子孫を残す体を得た。だが、彼の身分は未だに密林のなかでは卑賤であった。高貴なる植物たちが彼の頭上では繁茂していた。

 彼は気付くと人の手のなかにあった。幾人かの人の手を経て、彼の前に現れたのは白髪の威厳を持った二足の動物であった。その雄は彼に名を与えた。キョシュンソウ。彼の遠縁の仲間の体を引き裂いて作った紙という物体に、鋸瞬草という文字がしたためられた。彼はほかの名前の者たちとともに、彼の名付け親、白王が草原と呼ぶ土地へと遣わされた。ここがお前の領土だ。王となれ。彼は人の王がそう唱えたのを感じた。
 他の者たちを仰ぎ見るしかなかった自分が王になる。
 彼はその言葉を疑った。周りには、同じ言葉を投げかけられたであろう敵たちがいた。彼の周囲には先住民たちがいた。この場所の王になれというのか白王よ。
 雨が降った。
 彼は密林でそうしていたのと同じように、必死で根を張り、立ちあがり、葉を広げた。気付くと草原の草たちは、彼より少しばかり背が低かった。彼は、その鋸状の葉を、他の草たちを押し退けるように力強く開いた。我が子よ生きよ。種をまいた。密林では千の子をまき、千の子を死なす彼であったが、その地では、子らは死ぬことはなかった。数多の天敵たちが、この地にはいなかった。
 二代。
 二日の雨で彼が齢を重ねた回数である。新たな王の手勢は少ない。植物の世界においては、軍団というほどの数にも達していない。雨が止み、鋸瞬草の群生は枯れた。だが種は堅固な鎧を身にまとい、地に伏して敵を討つ時を待っている。草原の草たちは、まだ侵略者が攻めてきたことを知らない。


第2回 了


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