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2004年09月12日 02:01:28
10代の頃に戻れるのなら、やっておかないといけないと思うことは「凄いものを見る」ことです。田舎にいたせいか、「凄いもの」というのを、ついぞ見ることなく10代を過ごしました。ここで指す「凄いもの」とは、天才の技や、時代の最先端の人の仕事です。これらは、ブラウン管や媒体を通したものではなく、肌身で感じるように、作っている現場や、それに近い位置で、直接それを見るということです。
人間の価値基準は、人生のそれまでに見たものの範囲で決まってしまいます。多感な10代や子供時代を、「凄いもの」を見ずに過ごすということは、井の中の蛙で過ごすということです。私は10代に「凄いもの」を見ませんでした。そのため10代を無為に過ごしました。
「凄いもの」を見て、自分を鍛える必要があると感じ始めたのは、社会人になってからです。自分の現状が許せず、世間が認める仕事をしている人と、自分とでは、何が違うのかを、社会に出てようやく考えさせられました。社会人になり、自分の現在の位置を知ってしまって以降、どうやって世間と戦うかということを常に考えて過ごすようになりました。
そのことを考え始めて、ようやく自我というものが生まれたような気がします。10代は自我を持たずに過ごしたのだと思います。「凄いもの」を見たとき、反応は人それぞれでしょう。それらのもの見るたびに、私は自分の現状を知って、その「凄いもの」との距離の遠さと、距離に気付いていなかった自分に悔し涙を流しそうになります。
ここ数年、本来10代の頃にやっておくべきだった「自分の能力の強化」を行なっています。そんなことは、本来10代の頃にやっておかなければなりません。現在私は10年以上の遅れを必死に取り戻そうとしています。そして、その遅れに気付いていなかった自分に腹を立てることしばしばです。
このような憤りは、私が地方から都会に出てきたこととも関係します。
「都会に出なければ」というのは、地方出身者特有の欲求かもしれません。もともと都会にいた人は、その気持ちが分からないと思います。田舎では見られなかった「凄いもの」を、都会では見ることができます。田舎では気付かなかったことを知るために、そしてそれを知らなかったために失った時間を取り戻すために、人は都会を目指します。少なくとも私はそうでした。
「凄いもの」を若い頃に見ずに過ごした人は、無為に過ごした時間を埋めるために、他人の数倍の努力をする必要があります。早く、戦える場所まで行けるだけの能力を作らなければなりません。日々、自分をどう育てるかに苦心しています。