●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●           PBeM     猪槌城(いづちじょう)                第七回結果 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●                                     柳井政和 ver 0.01 2000.08.07 ver 0.02 2000.08.21 ver 0.03 2000.08.22 ver 0.04 2000.08.26 ver 0.05 2000.08.27 ver 0.06 2000.08.29 ver 0.07 2000.08.30 ver 0.08 2000.08.31 ver 0.09 2000.09.01 ver 0.10 2000.09.02 ver 0.11 2000.09.03 ver 0.12 2000.09.04 ────────── ver 0.13 2000.09.05 誤植を修正 ver 0.14 2000.09.06 誤植を修正 ver 0.15 2000.09.08 誤植を修正 ver 0.16 2000.09.11 関西弁を修正 第14話の結果です。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■第14話「新月」 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  猪槌の里は闇に包まれている。その闇の中を銀の光が走る。閃光は無彩色の景色を視界 の中に浮かび上がらせる。  遥か遠くでは北の山の起伏が、獣の歯のようにそそり立っている。  近くを見れば、光の中心には鋼鉄の巨人が佇んでいる。巨人の両腕にはそれぞれ筒がつ いている。その筒の先端から激しい銀の光りが覗く。  巨鉄兵は谷の間から黒金の姿を覗かせている。  先程激しく振った雨が辺りを濡らしており、銀の乱反射がまばゆく輝いている。  空は闇に覆われている。その空には巨大な月が浮かんでおり、月の闇の面が猪槌の全天 を覆おうとしている。 「真鉄殿。ななえを吸い込み、敵を狙撃しましょう」  山嵐は巨鉄兵の左腕、竜王砲の吸引口を落石の方に向ける。索気盤の光点が明るさを増 す。真鉄は沈黙を続けている。 「どうしたんです」  山嵐が振り向く。真鉄は、巨鉄兵の頭蓋の穴から空を見上げている。 「今こそ、月の都人と、猪槌の裏切り者火野熊を倒す絶好の機会ですよ」  既に鈍砂山全軍に、植刃のもたらした火野熊裏切りの情報は広まっている。山嵐は真鉄 の視線を追う。天は暗闇に覆われている。 「月だ」  真鉄が呟く。「空には月があるでしょう」と山嵐が苛立たしく言う。 「違う。空を覆うように月が猪槌に迫っている」  山嵐は再び空を見上げる。天には、月の巨大な闇の面が浮かんでいる。真鉄の額に汗が 滲む。月を撃つと宣言したは良いが、いったいどこを撃つというのだ。 「真鉄殿。まずは目の前の敵を片付けてからです」  山嵐は竜王砲始動の制御盤を強く押す。竜王砲が唸りを上げ始める。山嵐は落石に向け、 巨鉄兵の足を進める。落石がわずかに動く。 「吸引してやる」  落石の下には、落盤で地に埋められたななえの姿があるはずだ。落石が音を立てて動き 出す。落石の中から女の姿が現れ始める。山嵐には見覚えがある。かつて真鉄の家で見た ななえの姿である。その姿は淡い銀の光で包まれている。  山嵐は式神を放つ。もしななえが竜王砲の中で覚醒し、暴れ出したらどうなるか分から ない。神の血族を発射した前例はまだない。何が起こっても不思議ではない。 「念には念を入れておかなければ」  山嵐は式神たちを竜王砲の吸い込み口に向かわせる。何かあれば、式神でななえの動き を制するためだ。巨鉄兵が歩を進める。山嵐は、式神が無数に取りついた吸引口を、慎重 にななえに向ける。  山嵐の視界に人影が入る。竜王砲の吸引口の上に、誰かが立っている。確かに先程まで 誰もいなかった。  竜王砲の吸引口に黒い霧が集まり人型を取る。土亘である。霧に姿を変じていた土亘が、 竜王砲の前で再び姿を現す。口からは相変わらず涎を垂らしている。  暗闇の中、銀の光を背にした土亘の姿が動く。目は爛々と輝いている。 「何者だ」  山嵐が声を上げる。真鉄は食い入るように月の闇を見ている。落石の中のななえが、徐 々に引きずられ、岩石の下から姿を顕わにしていく。まぶたが動く。目を覚ましかけてい るようだ。  土亘が身震いをする。土亘の涎の飛沫が巨鉄兵の腕にかかる。巨鉄兵の腕の表面が、音 を立てながら煙を上げる。 「酸か」  山嵐は巨鉄兵の左腕から、土亘を振り払おうと激しく振る。しかし土亘は竜王砲から離 れない。山嵐が巨鉄兵の腕を振れば振るほど、土亘の酸は辺りに撒き散らされ、鋭い腐食 音を上げる。土亘の顔は笑っている。  こんなものか。土亘は思う。所詮人の限度はこんなものだ。どんなに巨大なからくりを 作りその力を誇示しても、人を超えた者にはかなわない。自分のように神通力を備えた者 が懐に入れば、すぐにその脆さが露呈する。 「こんな鉄の塊に頼っているようじゃ駄目だな。俺は力は高めたいが、作り物の力なぞい らん。所詮人の作った力はこの程度のものだ」  土亘が口から噴水のように涎を撒き散らす。土亘の体が萎み始め、その姿を酸へと変じ ていく。 「このままでは竜王砲が破壊されてしまう。式神たちよ奴を倒せ」  山嵐の叫びで無数の式神たちが土亘に襲いかかる。しかし既に液体と化している土亘の 体に取りこまれ、蒸気を上げて消えていく。  土亘の体は酸性の液体になり、竜王砲を溶かし始める。 「禁」  突如鋭い声が土亘に浴びせ掛けられる。谷の上に白装束をまとった紗織の姿がある。紗 織の言葉は土亘の動きを完全に止めることはできず竜王砲の腐食は進む。  猪槌の里は一面の闇である。  地では銀の光を両腕に宿した巨鉄兵が暴れている。天には闇の月がある。天と地の間に は、数騎の鉄騎馬を従えた火野熊がいる。  火野熊の手には焦熱が握られている。火野熊は掛け声と共に鉄馬の腹を蹴る。鉄馬が猛 然と進み始める。部下たちが後に続く。  火野熊が目指すのはただ一つ、巨鉄兵の頭の天蓋である。この頭蓋を叩き割れば全ては 決まる。火野熊たちの鉄騎馬が鋭い錐のように巨鉄兵に向かう。その後方、南の方角から、 二つの銀の矢が鈍砂山に向かい近づいて来ている。 ────────────────────────────────────────  話は前後する。場所は清水である。塩の原の南の果てのことである。  清水の炎の壁の前には鴉問と金梟がいる。二人は明光院を待っている。  数度の闇と閃光が空を覆っただろうか。北天では銀の光線が空を薙いでいる。 「いよいよ始まったようだな。巨鉄兵と月の都人の戦いが」  鴉問が口を開く。鴉問は巨鉄兵の戦闘方法は知らない。しかし、この猪槌の変化が巨鉄 兵の、いや竜王砲の影響であることは容易に想像がつく。 「うむ」  金梟が頷く。金梟は梟の姿のままである。大きな梟の眼に、銀の光が映る。明光院はま だ帰らない。このままここで座していても仕方がない。真鉄たちが敗けるようなことがあ っては計画が狂ってしまう。 「行くか」  鴉問が立ち上がる。背に炎の赤い影を受け、黒い外套が闇の中になびく。金梟は翼を広 げ数度羽ばたく。  その時、北天に巨大な水柱が立ち、空間を引き裂く断裂音が猪槌の里に響く。何事か。 二人には想像がつかない。音の後、炎が消えた。明光院たちの入った穴が、二人の前に姿 を現す。 「行こう」  その穴を一瞥し、金梟が銀の光に身を包む。鴉問も続く。二つの銀の軌跡が北に向かい 放たれる。  何かがおかしい。二人は渡りの最中、悲鳴を上げる。滝に吸い込まれる流木の如く、二 人は北の一点に向かい落ちていく。竜王砲。彼らの渡る先には、その吸引口があった。 ────────────────────────────────────────  金梟は渡りを解き自らの羽で空に制止する。しかし鴉問は渡りを解けない。鳥の姿に変 身できない鴉問は、渡りを解けば浮力を失い墜落してしまう。  金梟の眼下に鈍砂山の谷間が広がる。巨鉄兵がいる。光球がある。そして鉄騎馬たちが いる。鉄騎馬は巨鉄兵に向かい弾丸のように特攻しつつある。その背後から、一つの光弾 と化した鴉問が迫る。銀の光に包まれた鴉問と、鋼の矢のように進む火野熊が併走する。  鴉問が次第に火野熊に近づく。鴉問は銀の光弾のまま鉄馬に迫り火野熊を羽交い締めに する。 「何、急に身動きがとれなくなった」  火野熊が声を上げる。火野熊の目には渡りの光は見えない。また意識を巨鉄兵に集中し ていたために、鴉問の接近を見落とした。 「真鉄殿。敵は我ら巨鉄兵を撃ち抜かんと迫ってきています」  真鉄が空から目を離し、迫り来る鉄馬の群れに視線を移す。 「仕方ない。まずは目の前の敵から倒す」 「了解。幸い先頭の鉄騎馬は渡りの光をたたえています。奴を吸い込み、敵を殲滅します」  鉄騎馬の先頭は火野熊と鴉問である。既に竜王砲に近すぎるために鴉問の渡りは解くこ とができない。山嵐は吸引の出力を上げる。吸引口には土亘が取りついている。しかし、 今竜王砲を撃たなければ巨鉄兵がやられるかもしれない。竜王砲の吸引口と発射口が火野 熊に向けられる。  「撃てるか」山嵐の頭に不安がよぎる。吸引口の土亘は紗織の言霊でその動きを止め、 固体になっている。しかし、土亘と竜王砲の接触面は酸で腐食し解け始めている。撃てば 壊れるかもしれない。山嵐の不安はそれである。 「吸引開始」  その言葉の最中、巨鉄兵の体を駆け上がる小柄な影が一つ。  影は巨鉄兵の腕の上を走る。 「白梅」  山嵐は叫ぶ。白梅は両手で巨大な鉄鍋を持っている。巨鉄兵の操縦室へ敵が攻撃したと きの防ぎになろうと待機していたが、今自分がやるべきことは、あの異形の敵を竜王砲か ら引き剥がすことである。  土亘の口から酸の涎が飛ばされる。その酸弾を鍋で防ぎながら白梅は土亘に向けて駆け る。鉄鍋には幾つもの大穴が開き、すぐに防ぎの用をなさなくなる。 「覚悟」  白梅は鉄鍋を捨て短刀に持ちかえる。そして、土亘の頭蓋目掛けてその切っ先を叩き込 む。土亘の体は紗織の言霊で固められている。悲鳴が上がる。土亘の脳に酸が流れ込む。 固体にされていなければ、如何様にでも姿を変えて逃れることができる。しかし土亘の自 由は言霊で禁じられている。  白梅と土亘が竜王砲より地に落ちる。 「この小娘が」  戦いは宙で続く。死の刹那、自由を取り戻した土亘は体を投網のように広げて、白梅を 溶かそうと迫る。白梅は死を覚悟する。猪槌の里に光が閃く。竜王砲がその力を増し始め る。  白梅の体にひやりとしたものが触れる。酸ではない。腐臭がする。異形の怪物が白梅の 体を掻い抱く。酸の波涛が怪物と白梅を飲み込む。白梅は怪物に抱かれたまま気を失う。 四本の腕を持ち、覆面をつけた怪物は、白梅を地に寝かしそのまま闇の中に消える。  巨鉄兵の周囲に銀の光の帯が無数に走る。火野熊と鴉問は流星のように吸引口に向かう。 落石の中から体を出したななえが呆けた顔で天を見上げる。空には火野熊がいる。そして 黒い外套の男に羽交い締めにされたまま、竜王砲に吸い込まれようとしている。 「駄目」  ななえが叫ぶ。ななえの目に意思の光が宿る。ななえの体が、銀の光と化し竜王砲の吸 引口に向かう。巨大な銀の光がななえの体からほとばしり、竜王砲の吸引口に消えていく。 「装填完了」  山嵐が叫ぶ。 「撃て」  真鉄が吼える。竜王砲から光弾が唸りを上げて発射される。巨大な光に押され、巨鉄兵 の巨体が後方に引き下がる。土亘に傷つけられていた竜王砲にひびが入る。ななえは鉄騎 馬の群れに向け発射される。  火野熊と鴉問はその場で動きを止める。鴉問は自決用の爆薬を取り出し、火野熊もろと も爆散しようとする。 「駄目」  ななえの声が銀の光から漏れる。竜王砲の光弾の起動がわずかながらそれる。光弾は火 野熊を避け、鴉問の体に当たる。鴉問が一瞬で蒸発する。光弾の速度が一瞬鈍る。銀の女 の形が火野熊の傍で一瞬静止する。火野熊の目にななえの姿が映る。 「ななえ」  火野熊は何かを思い出したように手を伸ばす。 「今度こそはその手をつかむ」  火野熊の脳裏にはるか昔の光景が蘇る。しかし再び銀の光がななえの姿を包む。  火野熊の背後の鉄騎馬の群れが瞬時に消える。無数の光球も消滅する。光は城下町まで 軌跡を描き、銀の尖塔をかする。尖塔の周囲に浮ぶ金の糸が消滅し、銀の尖塔に無数の亀 裂が入る。尖塔の窓が光の圧力でことごとく割れる。光はなおも衰えず、南の空に吸い込 まれるように消えていく。  光は月の外縁まで達する。猪槌の里に近づいている月は、その闇の面を空いっぱいに広 げている。月の闇の中に光弾は吸い込まれて消える。 「駄目だ。こんな近距離では、よほどの広角で撃たなければ月全体を捉え入れることなど できない。月が元の距離にあったればこそ、今の出力で月全体を撃つことができたのだ」  真鉄が操縦席の壁を叩く。 「それでは、碁盤の目のように全ての場所を撃てば」  山嵐が口を開く。 「駄目だ。あの竜王砲の損害ではあと一発しか撃てんだろう」  山嵐の言葉を遮るように真鉄が呻く。二人の間に沈黙が訪れる。それでは、このまま月 が猪槌の里を飲み込むのを黙って見ているのか。 「広角に撃てればいいんですね」  山嵐が真鉄に問う。 「そうだ。広角に撃つことができれば、月を一気に打ち抜くことができる」 「じゃあ、出力を上げればいいじゃないですか」  山嵐がこともなげに言う。 「出力を上げるなどと簡単に言うな。竜王砲を撃つときには巨鉄兵の出力は最大限まで高 めているんだ」 「巨鉄兵の外から出力は得られないのですか」  「そんなものは」真鉄の顔に光が差す。「ある。猪槌城に。猪槌城の動力も巨鉄兵と同 じものだ。それも巨鉄兵の何十倍も高い出力を得られるものだ」 「それでは」  山嵐が操縦桿に手をかける。 「うむ。猪槌城まで行き、巨鉄兵と猪槌城を合体させれば、月を一撃の元で葬り去れる。 そうと分かれば行くぞ山嵐」  山嵐は巨鉄兵を歩かせ始める。竜王砲の銀の光が明滅と共に消える。猪槌の里に再び闇 が訪れる。  火野熊は鉄馬の頭を巡らせ帰途につく。鉄馬は南天に向かう。火野熊の心の中に、忘れ ていた幾多の記憶が蘇る。長い過去を、今この時になって思い出そうとは。再び同じ失敗 を犯すとは。闇の中、火野熊の表情は暗い。 ────────────────────────────────────────  谷底。闇の中、白梅は目を覚ます。死んでいない。自分がいる周りの土は酸で溶けてい るのに、白梅だけが無事である。既に異形の怪物はいない。 「どうして生きているの」  白梅にはその理由が分からない。分からないまま辺りを見廻す。酸にやられ、巨鉄兵の 作った落石にやられ、多くの者が死傷している。谷の上には、白髪の女忍者が膝を折って いる。巨鉄兵は南に向け歩き始めている。 「追わなくちゃ」  白梅は南に向かい走り始めた。 ────────────────────────────────────────  鈍砂山の巨鉄兵が戦っていた谷の奥には滝がある。その滝の奥は洞窟になっており、そ の中に豪雪、二重、一重はいる。豪雪が先を歩いている。その後に一重を抱いた二重が続 く。道すがら、豪雪は一重の口より千重の計画について聞かされる。 「兄上の気持ちも分からぬでもない」  豪雪が歩きながら言葉を漏らす。血気盛んな若者の頃にこの話を聞いていれば、豪雪は 反骨を持っていたかもしれない。猪槌の里の住人は、千重にとって一個の呪の道具にしか 過ぎない。しかしその道具が道具として生きねば、道具の主人と共にその存在を抹消され てしまう。 「忍びとは、自らの命を道具と化す生き方。されど」 「自らの生に疑問を持ったか」  一重が赤子の口を開く。豪雪は思考を止める。迷いは命を縮める。猪槌の里を救うこと が自らの生だ。我が命はその道具。  洞窟の外に出る。滝の音が耳にうるさい。滝を抜け、谷に出ると雪組忍者たちが滝を囲 み待っている。 「豪雪様。雪組一同揃っております」  既に仮本陣は火に焼かれている。その後、混乱する雪組をこの場に呼び集めたのは五伏 である。蜻蛉の姿もある。蜻蛉は二重と一重に臣下の礼を取る。 「うむ。今から、我ら一同は猪槌城に向かう」  豪雪が口を開く。行く先は一重に聞いている。そこが決戦の場である。 「二重様」  雪組忍者の中から東雲が飛び出す。東雲は二重の下に駆け寄る。二重は虚ろな目で空を 眺めている。東雲は二重に触れる。しかし何ら反応はない。東雲の顔に落胆の色が浮かぶ。 「二重様」  哀しそうに東雲はうなだれる。その視線の先に、二重の腕に抱かれた赤子の姿が見える。  全てはこの赤子が。東雲の心にわずかな殺意が芽生える。その刹那、東雲の両腕に激痛 が走る。黒い球体が現れ、東雲の両腕を飲み込む。東雲にはその現象が理解できない。両 腕の肘から先が無くなり血が噴出している。 「殺意を抱いたな」  赤子の口から老人の声が響く。千重の声である。 「兄妹そろい我が命を狙うか。血は争えん」  東雲は痛みで声を出せず、二、三歩下がり涙を流す。涙で霞んだ光景には、二重の姿が 映されている。 「ふたえさま」  東雲の口から声が漏れる。霞んだ光景に無数の闇の球体が浮かぶ。闇は東雲の体を飲み 込む。東雲の体は跡形もなく消える。その足元には血の跡だけが残っている。蜻蛉はその 光景から目を背ける。蜻蛉にはどうしようもない。 「豪雪様、その女と赤子はいったい何者で」  五伏は冷たい汗を流しながら豪雪に問う。黒い球体。もしや。長年忍びを続けてきた五 伏は聞き及んでいる。この術を使う者は。 「千重様の娘二重と、新たな猪槌の領主、そして猪槌の神である一重様だ」  五伏の頭にもおぼろげながら事が分かってきた。猪槌の存亡を賭けた最後の一戦が始ま ろうとしている。 「猪槌城」  豪雪は再び行く先を告げる。一行は南に向かい走り出す。 ────────────────────────────────────────  夜。月は新月。江戸の町を覆う火事は広がり続けている。江戸湊の沖合いにある島に、 明光院たちはいる。明光院の背後には巨大な穴が開いている。穴は気脈の穴である。穴に は江戸に流れ込むはずの龍脈の気が、滝のように流れ込んでいる。  明光院の傍らには修羅と鎌井がいる。三人は吉野の帰りを待っている。 「一度は命を預けるとは言ったものの、やはりあんたには付いて行けない」  燃える江戸の町を見ながら鎌井は呟く。 「どうするつもりじゃ」  明光院は問う。 「何の罪も無い江戸の人々が、大火に苦しむのを黙って見ていられない。俺は江戸の町に 行く」 「鎌井」  修羅が刀を抜こうとする。「勝手に行かせてやれ」明光院が修羅を制する。  鎌井が銀の光に包まれる。そして江戸の町に向け飛び立つ。しかし、渡りは解けすぐに 失速する。海に落ちる。 「渡りをおこなうには、異土ほどの気力の密度がなければならない。鎌井は猪槌の里で生 まれ育ったためにそのようなことは知らないだろうがな。わしらが始末せずとも、海で溺 れ死ぬ」  島の海岸に魚が打ち上げられる。魚はみるみる姿を変じて吉野の姿に戻る。吉野は濡れ た裸身のまま、着物や帯を拾いながら明光院のもとに近づく。 「江戸の町に火を放ってきました」  報告しながら吉野は着物を着る。 「行くぞ」  明光院の掛け声の下、明光院、修羅、吉野の三人は猪槌の里に続く穴に向かう。 ────────────────────────────────────────  暗い穴を三人は進む。穴は深く長い。明光院たちはその穴を駆け続けている。三人は無 言のまま進む。  突如明光院が足を止める。  修羅が明光院に向かい短銃の銃口を向ける。明光院が手をかざす。短銃の銃口に砂がつ まる。修羅が引き金を引くと共に短銃が爆発する。修羅がその反動で洞窟の壁に叩き付け られる。  吉野が刀の鯉口を切る。明光院が手をかざしたまま振り向く。振り向くと同時に吉野の 下半身が砂になり崩れる。吉野の刀は虚しく空を斬る。 「歴史というものは繰り返すものかも知れぬな。事成る寸前になると裏切り者が出る。わ し自身そのことは良く知っている。しかし、お前たちが裏切るとはな」  修羅と吉野は既に声も上げられない。 「お前たちは自分たちのことが良く分かっていないようだな」  明光院が洞窟の壁に手を触れる。暗闇の中に真の闇が浮かぶ。その闇は門のような形を 取る。 「それは」  吉野が荒い息を吐きながら顔を上げる。 「五行の土は死を司る。わしは神通力の力で地獄と行き来し、死者の魂をこの地上に連れ 帰ることができる。これは地獄門」 「お前たちは、滝川と同じよ。わしが地獄から連れ帰った有能な死者の魂たちよ」  明光院は柏手を打つ。  「魂が抜ければ」修羅と吉野の体から淡い光が抜け出る。光は渦に飲まれるように門の 中に消える。「砂の人形となる」  修羅と吉野の体が砂の山になる。 「死者の魂は死んだときの姿をしている。だから人形もその当時の姿のままで作らねばな らぬ。そうすれば、寿命をまっとうせずに死んだ者は、普通の人と同じように残りの寿命 をまっとうすることができる。そして人として死ぬことができる。だが、魂を地獄に送り 返された者は、再び地獄で永劫の責め苦を負うことになる」  明光院は憎々しげに砂の人型を蹴り崩す。明光院は押し黙る。所詮最後に頼れるのは己 のみか。  再び地を蹴り明光院は走り始める。明光院が過ぎ去った後、地獄門は薄く影を残して消 えていく。 ────────────────────────────────────────  鈍砂山には再び静寂が訪れる。巨鉄兵が猪槌城に向かい、雪組忍者たちも猪槌城に向か った今、戦闘員の多くが鈍砂山を去ったことになる。  観影は呆然と辺りを見廻す。周囲の木々は燃え落ち、地は灰と雨が交じり合い、そこか しこに焼死体たちが転がっている。闇の中、わずかに残った残り火が辺りの陰影を浮かび 上がらせている。  火の爆ぜる音がする。視界の木が折れ火の粉が舞い上がる。木の中には未だ熱がこもっ ているのだろう。山火事に飲まれる危険は一時的に去ったが、まだ安全という訳にはいか ない。観影は踵を返す。まだ坑道で誰か生きているかもしれない。  観影は坑道の前まで来てその中を覗きこむ。熱気がこもっている。木と同じだ。外で雨 が降ったからといって、坑道の中の火が消えたわけではない。観影は二、三歩踏み込む。 「誰かおらへんか。生きとったら返事しいや」  物音がしないか耳を凝らしながら坑道の中に入る。しかし返事はない。次第に熱くなり、 坑道の奥に赤く燃える炎が見える。 「駄目みたいやわ」  観影は煙にむせぶ。熱気が次第に強くなっている。観影は坑道を出て、再び辺りを見渡 す。巨鉄兵の姿は見えない。山火事のために山の見た目も変わっている。観影は式神を放 つ。程なくタタラの民の集落への道を探し出す。  観影は式神を回収し、そちらに向かう。 ────────────────────────────────────────  「巨鉄兵、猪槌城に向かう」「雪組、蜻蛉、猪槌城に向かう」「月、猪槌の里に迫る」 相次ぐ報告が鈍砂山軍の総本部である真鉄の家にもたらされる。真鉄の家には、雷神の精 鋭や安倍孔明、光がいる。植刃もタタラの民の集落に来て以来、ここに詰めている。蜻蛉 より、指揮はこの総本部の者たちに任されている。  状況は目まぐるしく変わっている。  安倍が口を開く。 「月が近づいていますね。月の闇の面。これまでの話が全て真実だとすれば、あれは怪異 の闇。このままでは猪槌の里の全てが飲み込まれてしまいます」 「真実だとすればですと。今までのことが嘘だと言うのですか」  光が端正な顔を怒気で紅潮させる。 「真理を追究する者は、全てを一度疑って見なければなりません」  安倍は手元の子犬を撫でながら応える。子犬は置物のように眠っている。 「まあまあ、お嬢ちゃん」  なだめようとする植刃の言葉に、光が厳しい視線を向ける。 「我々が決めなければならないことは、これからどうするかということです」  光が言い放つ。植刃はたじたじになる。  蜻蛉殿ぐらい度量が広い方が将には向いている、と植刃は言えない。「あんたはどう思 う」と植刃は安倍に話を振る。 「戦いに赴く者たちを除いて、全ての人々を一旦猪槌の外に連れて行くのが良いと思いま す」 「逃げるのですか」  光が叫ぶ。 「戦いの目的は一つ。猪槌の里の人々を救うことです。玉砕してしまえば元も子もありま せん」 「私は決戦要員以外は山で戦うべきだと考えています。タタラの民の集落を捨てて鈍砂山 の山中に入るのです。敵は怪光と鉄馬を使って我々よりも速く、好きなように軍勢を移動 するという利点があります。その利点を殺すには山に隠れた方が都合が良い。空からこち らの位置が分かりにくくなりますし、馬の速度も落ちます」  光の言葉を聞き、安倍孔明が嘆息をつく。 「しかし、それでは敵が再び山に火をつければ大変なことになります」  光は安倍の言葉を遮り言葉を続ける。 「隠れるのは戦に加わらぬ者だけです。そうすることで集落の守りについていた戦力が浮 きます。そうした戦力をもって城下町を襲撃します。  敵の利点は自在に兵を配置することです。その利点は攻め手に回ったときほど大きな効 果を発揮するものです。こちらが攻め手になり、あちらが受け手になれば、効果は減りま す。それだけ我々が有利になります。  そして攻め手が城下町で敵をひきつけていれば巨鉄兵まで手が回らないでしょう。うま くすれば、清水に向かった明光院様と挟み撃ちの形になるかもしれません」 「希望的観測ですね。それより火の方はどうするのですか。山火事を甘く見てはいけない。 水は火を消しますが、木は火を生み出します。火の素である木は、この鈍砂山にはまだい くらでもありますよ」 「評論など聞きたくはありません。タタラの民は鍛冶の一族だ。雪組忍者よりも火の扱い にはなれているでしょう。山に隠れた人たちでどうにかするしかありませんね。いずれに しろ、こちらは全員、自分にできる範囲でなにかをやってもらわなければ勝てないのです から。城下町襲撃隊の指揮は私が取ります。よろしいでしょうか」 「暴論ですね、光さん。あなたは城下町襲撃の指揮を取ってください。襲撃に加わらぬ者 たちは、私が引率し猪槌の里の外へと誘導します。あなたは戦の指揮を取る。私は清水へ の退却の指揮を取る。異存はないはずです」  光が鋭い目を安倍に向ける。 「ああ、待った待った。それでいいじゃないか。よしそれで行こう。俺はお嬢ちゃんと一 緒に城下町に攻め込む。安倍殿。猪槌の民を全滅させる訳にはいかない。どんな作戦を取 ろうとも退却戦の将が取ることは一つだけだ。一人でも多く逃がしてくれ」  植刃が大きな笑い声を上げる。こういう場を鎮めるには笑いが一番だろう。 「無論承知」  安倍は立ち上がり外へと向かう。 「さあ、俺たちは城下町に攻撃に行こう」  植刃は光の手を引く。  これが最後の戦いになるだろう。植刃は覚悟を決める。  家の扉を開ける。空には闇が続いている。 ────────────────────────────────────────  観影がタタラの民の集落にやって来たときには既に人々が動き始めていた。観影はその 人々の群れを掻き分け蜻蛉や鍬形の姿を探す。 「蜻蛉はん、鍬形はん」  返事はない。親切な雷神の剣士が、既に二人とも発っていることを教えてくれる。 「じゃあ、一緒に行けば蜻蛉はんや鍬形はんの所に」 「いや、止めた方が良いでしょう。今から決戦です。我々は今から死ぬために行くのです」  雷神の青年はにこやかに笑う。 「けど、死んでもうたら」  観影は言う。元も子もないのではと。 「雷神の道場ではいつも言われていました。剣は人のために振れと。今がその時だと思っ ています」  雷神の剣士たちが去る。観影は一人残される。闇の中、再び発火し始めた木々の火が山 のあちこちで揺らめいている。 「猪槌を出よう」  観影は万字賀谷に向かい歩き始めた。 ────────────────────────────────────────  蛇の背をひた走る忍びの影がある。  天は闇で覆われている。蛇の背に霧は出ていないが闇のため辺りの様子は良く見えない。 蝉雨は蛇の背を西に向け駆けている。  雪組の仮本陣で、蝉雨は万字賀谷の岩壁が消えたことを聞いた。「死ぬのはばかばかし い」そのためだけに雪組を裏切り、深雪を裏切り、そして今猪槌の里を抜けようとしてい る。 「どうせこのままでは猪槌の里は滅ぶ」  滅べば深雪も死に、黄金蟲とやらも関係なくなるのではないか。そういう甘い期待が蝉 雨にはある。  いでの鼻に達する。万字賀谷に入り、先に向かう。蝉雨は眼前に女を見つける。女は小 柄で何かを背負っているようだ。女は観影である。  蝉雨は用心深く気配を消しその後ろを走る。どうやら雪組の者ではなさそうだ。  蝉雨は観影の背後をつけたまま万字賀谷を進む。万字賀谷にはいつもの霧は出ていない。 蝉雨は嫌な予感がする。万字賀谷の先も空と同じように暗い。  かなり万字賀谷を進んだが、まだ外に出られないでいる。迷ったか。蝉雨の心に不安が よぎる。  観影が歩を止める。蝉雨も足を止める。何か激しい音が響いてくる。 「何や」  観影が呟く。蝉雨は先を見ようとして前に踏み出す。観影を追い越し先に進む。音は谷 の奥から聞こえているのではない。谷全体が音を発している。 「あんた誰や」  観影が蝉雨に問う。蝉雨は答えない。万字賀谷で迷えば死ぬまで出られない可能性があ る。ここは異土と浮世の接点。繋がりが断たれれば永遠にさ迷うことになる。 「どないしたんや、顔が蒼いで」  蝉雨は雪組で育ったから知っている。万字賀谷が閉じればいつ開くか分からない。まし てや今は猪槌が滅びるやも知れぬ時。蝉雨は渡りで宙に飛び上がる。しかし、周りは見渡 す限りの谷である。  蝉雨は再び元の場所に戻る。 「どないしたん」  観影が不安げに蝉雨に問う。 「万字賀谷が閉じている」  激しい音は依然続いている。「あっ」と二人が声を上げると同時に地面が崩れる。蝉雨 と観影は宙に投げ出される。落下はしない。宙に浮き、谷から遠ざかっていく。蝉雨は上 空を見上げる。月の外縁が見えず崩れ去った足元にも闇が続いている。 「月に飲み込まれている」  蝉雨が声を上げる。  蝉雨と観影、そして万字賀谷の崩れ去った大地が落下もせず、かといって上昇もせず、 ひたすら距離を広げていく。闇の中、何者かが自分を見つめている気がする。観影が声を 上げる。しかし濃密な闇に包まれて声は蝉雨まで届かない。闇、静寂。これはもしや怪異 の中。  猪槌の里が、月の怪異の中で崩壊を始める。その外縁が剥落するかのように月の闇の中 に溶けていく。蝉雨は猪槌の里に戻ろうと渡りをおこなおうとする。しかし、怪異の中に 気脈の流れなどあろうはずがない。無音の中、蝉雨の手は虚しく空を切る。  蝉雨と観影の目に、微かに猪槌の里の姿が映る。  猪槌城。千重の部屋。深雪は一人箱庭の前に座している。猪槌の里の崩壊が始まったか。 目の前の箱庭の外縁が綻びたように崩れ始める。 「月がやってきた。それに猪槌を支える人の意思が減りすぎた」  だから猪槌の里が崩壊を始めている。意思持つ死者を増やし、この事態に備えようとし たが事成らず今に至っている。 「いよいよ猪槌の里の最期が迫ろうとしている」  深雪は一人、箱庭を見続けている。 ────────────────────────────────────────  城下町の地下を花組の向日葵は走る。御所に戻り、花扇に鈴蘭の死を報告するためだ。  地下は闇だ。地上の光も入らない今、その中は完全な闇に等しい。向日葵は龕灯を持ち、 先を照らしながら進む。地下の広い洞窟にも激しい音が聞こえてくる。  何の音かしら。地下にいる向日葵には分からない。猪槌の里の崩壊している音が地下に も響いている。  向日葵は御所の前に辿りつく。御所の前には明かりはなく、門は固く閉ざされている。 何かあったのだろうか。向日葵は訝しがる。花扇には何も聞かされていない。  向日葵は門に手をかける。門には内側から鍵がかかっている。おかしいわ。向日葵は門 を強く押す。だが門は開かない。  向日葵は鍵を開けることができず、門の前で時が過ぎるのを待つ。  向日葵は音だけを聞いている。洞窟全体に激しい音が響いている。その合間に、御所の 中から呻き声が漏れている。一体中で何が起こっているのだろう。向日葵は耳をすます。 ──────────────────────────────────────── 「地上に闇が訪れた」  彩花は頭上の亀裂から地上の様子を伺う。時折銀の閃光が闇の中に閃く。既に彩花の目 の前から、鏡城は消え失せている。 「これは花扇様に知らせねば」  彩花はその場を後にして御所に向かう。  御所の前には向日葵がいる。唖の女か。見たことはあるが交際はない。  彩花は御所の門を見る。門は閉ざされ明かりはついていない。 「中はどうしたの」  彩花の問いに向日葵は首を振る。聞いても無駄か。門には内側から鍵がかかっている。 彩花は器用に門の隙間から短刀を差し入れ、中の鍵を断ち切る。 「どうせ、こんな所まで誰も来ないんだから鍵なんていらないのに」  彩花は御所の奥に入っていく。向日葵は彩花の後ろに続く。わざわざ鍵をかけねばなら ない理由があったんだわ。向日葵は中から聞こえてきた呻き声を思い出す。  先に進むと奥から先ほどの呻き声が聞こえてくる。 「声が聞こえるわね。それも一人や二人じゃないわ」  彩花の声に向日葵も頷く。奥では何が起こっているのだろうか。向日葵が龕灯を先に向 ける。 「花扇様」  彩花が呼ぶ。しかし返事はない。通路の奥よりか細い声が聞こえる。 「こちらに来ては駄目」  花扇の声である。何かあったのだ。彩花と向日葵が駆ける。二人は広間に出る。向日葵 は龕灯を巡らせ「あっ」と叫ぶ。  龕灯の明かりで花扇や花魁たちの姿が照らし出される。その姿は異形のものへと変わり 果てている。 「駄目、あなたたちは逃げなさい。千重が花組にかけた呪があなたたちにも発現するわ」  花扇は必死で声を漏らす。部屋の女たちの下腹部は巨大に膨れ、部屋いっぱいに巨大な 腹が膨れ上がっている。その様はまるで女郎蜘蛛に似、天井まで達した腹の上にかすかに 腕と頭がついている。女たちは口から泡を吹き、呻き声を上げている。唯一正気を保って いるのは花扇だけである。 「逃げなさい」  花扇が苦痛をこらえ声を出す。彩花と向日葵の表情が凍りつく。 「花扇様。いったい」  彩花が口を開く。 「猪槌の里の崩壊が始まりました。月が迫り、そして猪槌の里の人間が少なくなり過ぎた ため、猪槌の里を維持できなくなったのです。千重はこのときに備えて花組を飼育してき ました」  部屋には女たちの苦痛の呻きが谺している。 「人間の数が少なくなれば増やせばいい。簡単な計算よ。土蜘蛛の精は、猪槌の里の危機 のときに無数に増え、花組の女たちの腹の中で繁殖を開始する」  悲鳴と共に一人の女の腹が裂ける。その中から無数の土蜘蛛の子供たちが現れる。土蜘 蛛の子供の体は小さい。人間の頭大の数千の土蜘蛛たちが、蜘蛛の子を散らすように弾け 出る。  続いて二、三の女の腹が裂ける。その度に御所に悲鳴が谺する。万に達する土蜘蛛の幼 虫たちは、口々に「イヅチ、イヅチ」と叫びながら御所から踊り出る。「イヅチ」の呪文 は気が狂わんばかりに広間を覆う。 「早くお逃げなさい。ここは千重が呪をかけた場所。あなたたちも」  花扇の言葉が途中で途切れる。花扇の腹が裂け、無数の土蜘蛛たちが飛び出す。彩花は 一歩退く。向日葵が悲鳴と友にその場に倒れる。向日葵の腹が膨らみはじめる。腹はみる みる大きくなり、広間の入り口よりも大きくなる。 「ひいっ」  彩花は這うように広間から出る。足元では無数の土蜘蛛たちが「イヅチ」を連呼しなが ら駆けている。土蜘蛛の幼虫に足を取られて彩花は倒れる。腹が重い。着物の帯を破り、 腹が膨らみ始める。 「嫌っ」  彩花は涙を流す。腹は膨らみ始め、通路いっぱいに広がる。腹に押しつぶされて彩花の 首の骨が音を立てて折れる。腹はそのまま大きくなり続け、爆ぜて土蜘蛛が溢れ出る。通 路を塞いでいた彩花の体が破れたことを契機に、鉄砲水のように土蜘蛛が御所から飛び出 す。  地下洞窟に「イヅチ」の呪文が響き始める。  再び猪槌城。千重の部屋。深雪は座して箱庭の様子を見ている。 「猪槌の里の崩壊が止まった。千重の呪のせいか。そろそろ来る頃だな」  深雪の表情は落ち着いている。まるで感情が無いようにその面には表情がない。深雪は 立ち上がり、そして鞘から刀を抜いた。 ────────────────────────────────────────  猪槌の里は闇の中にある。天は月で覆われ、辺りは闇に支配されている。  猪槌城はその闇の中心にひっそりと浮かんでいる。猪槌城を取り囲んでいた砂嵐は既に 消えている。その猪槌城の屋根の上に銀狼と白雪はいる。 「白雪様。北へ行きましょう」  白雪は無言で頷く。白雪の顔に表情はない。銀狼は白鷹に姿を変える。白雪は白鷺にな る。二つの白い翼が黒い闇の中に羽ばたく。風は凪である。だが、気脈の奔流が嵐の日の 海のように荒れ狂っている。  白鷹は羽ばたき、上空に舞い上がる。白鷺がその後に続く。遥か上空より見下ろす猪槌 の里は、その稜線を狭めている。地平線が近くになっているのだ。  近くなっているどころではない。万字賀谷は消え、鈍砂山の背後は無くなり、月河の向 こうの景色は闇である。闇の中に、崩れた猪槌の大地が、まるで海に漂う流木のように舞 っている。  全ては闇である。闇の中、何者かに見つめられている気がする。この闇のどこかに巨大 な敵がいる気配がする。ここは。 「怪異の中ね」  白鷺が声を上げる。銀狼は無言で頷く。銀狼と白雪、二人でさ迷った怪異の中に再び猪 槌の里ごと落ち込んでいるのだ。  闇の中、いくつかの光が銀狼の傍を通り過ぎる。その光の一つには水墨画のような山水 の景色が見える。また他の光の中には、多くの人々が月明かりの下、議論を白熱させてい る様子も見える。 「接点」  白雪が声を漏らす。現世と怪異の接点。怪異は無数に現世との接点を持っている。今、 猪槌の里は現世と切り離されて怪異の中に投げ込まれた。このままではいずれ死ぬ。  かつて怪異の中で時を過ごした銀狼には分かる。怪異の中の時は人を狂わせる。  眼下に巨鉄兵の姿が見える。雪組忍軍の姿も見える。猪槌城に向かっている。 「戻ろう。豪雪様の下へ」  白鷹は雪組忍軍の下へ向かう。白鷺も続く。闇の中、白い翼が雪組忍軍の下へ舞い降り る。 ────────────────────────────────────────  北方から城下町へと駆けてゆく一団がある。雪組忍軍である。先頭は豪雪、その後ろに 二重と一重、蜻蛉と続く。一団の中には風幻もいる。生き残りの雪組のことごとくがこの 最後の決戦に向かい駆けている。  猪槌の忍びとは一体何だったのだろう。豪雪の心に疑問がよぎる。猪槌の里の外で忍び 家業をおこない、猪槌の里の中では月組と抗争してきたその歴史。しかし、全てはこのと きのための布石であったのかも知れない。  自分の意思など始めからなかったのであろう。自分の意思に目覚めたとき、それは自ら の境涯を絶望するときかも知れぬ。  雪組は無くなるだろう。月組も無くなった。これまでの猪槌の里はもうない。この戦い が終われば全ては変わる。  天空から二組の白い翼が舞い降りる。白い鷹と白い鷺である。二羽の鳥は姿を変じて人 の姿になる。 「豪雪様。銀狼、只今雪姫様を取り戻して参りました」  豪雪が全軍を止める。銀狼は平伏する。白雪は霧の衣をまとい、その場で豪雪の目を睨 んでいる。 「雪姫よ。よく無事で戻った」  豪雪が白雪に寄り、抱き上げようとする。その手を白雪は振り払う。 「あなたは父ではありません」  白雪は表情を固くし、豪雪を拒む。銀狼は慌てて立ち上がり白雪をなだめようとする。 「いや、お前は俺の娘だ」  豪雪の顔は穏やかである。 「私は先代雪組頭領深雪の娘です。私が何も知らないとでも思っていたのですか。昔より、 薄々気づいていたわ。雪組頭領の血は吹雪を呼ぶ。吹雪の声を聞いていれば分かるわ。あ なたと私の呼ぶ吹雪が、違う種類の吹雪であることなど」  雪組一同は沈黙している。 「いつか捨てられると思っていました。だから一人で生きていかねばと」  白雪は豪雪を睨んでいる。 「雪姫。お前は俺の娘だ。俺と白百合の子だ」 「しかし」  豪雪が怒りで大声を発する。 「親をなめるな。血がどうした、深雪がどうした。お前は俺と白百合が愛し、育てた子だ。 子がどう思おうが、親は死んでも親であることはやめん。親の覚悟を見くびるな」  豪雪は銀狼に顔を向ける。 「報告しろ」 「はい」  銀狼はこれまでの猪槌城の中での出来事をかいつまんで話す。豪雪は話が終わると猪槌 城に視線を移す。 「一重様。猪槌城を奪い返す必要があります」  二重の腕の中にいる一重は無言で頷く。 「皆の者。まずは深雪を葬る」  豪雪が風のように猪槌城に向かう。二重が蜻蛉が、雪組忍軍が城に向かう。白雪は地に 座しうなだれている。 「白雪様」  銀狼は白雪の前に座り、白雪の肩に手をかける。 「憎み、軽蔑することで不安を紛らわせてきた」  白雪が口を開く。既に雪組は去り、この地には二人しかいない。 「自らを気丈に振舞わせることで、哀しみを寂しさを紛らわせてきた」  辺りは闇である。その闇の中、二人の体が淡く白く光っている。 「白雪様」  銀狼はそっと白雪を抱き寄せる。優しく、穏やかに白雪の体を抱く。 「人の心を信じてもいいのね」  白雪の頬を一筋の涙が伝う。  「はい」銀狼は、その先の一言を伝えようとする。喉の奥が熱くなる。銀狼は白雪の体 を強く抱きしめる。そして耳元にささやく。「俺は、白雪様を愛しています。誰が何と言 おうとも」  白雪が目をつむる。涙が白雪の顔より落ち、銀狼の肩にかかる。白い光の群れが銀狼の 体を包む。銀狼の腕の中の白雪の体が消えていく。無数の白い光が火の粉のように舞い上 がる。銀狼を残して、その光は闇の空に舞い上がり消えた。  銀狼は呆然とその光を見つめ続ける。既に巨鉄兵より脱した時より白雪は肉体を持って いなかった。水で作った仮の肉体に宿っていただけだ。銀狼は光が消え行くのを一人見守 る。  光は消えた。  銀狼は自らの胸に手をやる。そこには、氷の鎧があった。 「白雪様」  氷の鎧は、微かに人の脈を宿している。 「行こう猪槌城へ。全てはあの地で決する」  銀狼は白鷹に姿を変え、中空に浮かぶ猪槌城を目指す。 ────────────────────────────────────────  猪槌城の城内では、既に雪組忍軍と死人兵の戦いが始まっている。 「死人共を掃討せよ」  豪雪の指示の下、雪組忍者たちが死人兵を狩っていく。猪槌城には既に有能な死人はい ない。残っているのは月河で新たにかき集めてきた弱兵ばかりである。だが、弱兵と言え ども死人兵。その戦いは拮抗している。 「先を目指さねばならぬ」  二重の腕の中の一重が老人の声を出す。 「深雪殿がいる場所は、きっと千重様の部屋でしょう」  蜻蛉が応える。 「なぜだ」  襲い掛かる死人兵たちを斬り伏せながら豪雪が問う。 「深雪殿の目的は猪槌に新たな呪をもたらすこと。そうでしょう。であれば、猪槌の呪の 映しとも言えるあの箱庭の部屋にいるはず」  箱庭の部屋。豪雪はその部屋の存在を知らぬ。 「それはどこにある」 「私が案内いたします」  蜻蛉が先頭に立つ。 「二重よ、我が体を守れ」  一重の言葉に二重は刀を抜く。死人兵は尽きることなく襲い続けてくる。二重の剣が一 閃し、数体の死人兵を薙ぎ払う。階段を上る。廊下を回る。床には黒い血の泥濘が誰の手 も経ず放置されている。  蜻蛉がその泥濘を器用に飛び越えていく。豪雪、二重がその後を追う。襲いかかる死人 兵たちは豪雪と二重の刀に斬り伏せられていく。  ふすまを開ける。部屋を抜ける。  部屋の中央には大きな箱庭がある。箱庭は畳数畳ほどの大きさがあり、猪槌の里の様子 を精巧にかたどっている。箱庭の中の城下町には残骸が広がっている。北の鈍砂山は焼け 野原となっている。東の月河は人の血で赤く染まっている。南の清水は干上がっている。 箱庭の外縁は崩れ落ち、西の万字賀谷は既にない。 「だいぶ崩れ落ちましたなあ」  箱庭の向こうに白髪の青年が立っている。手には抜き身の刀が握られている。神無月で ある。深雪と豪雪の兄弟の縁を割くことになった因縁の刀である。 「だが止まった。花組の呪が発動したからじゃ」  一重の口が開く。 「千重、月を壊すのではなかったのか。それがどうだ、今猪槌はその月の中にいる」  深雪が嘲り笑う。 「無論承知じゃ。そのために真鉄がおる」  深雪は窓外を見る。北より巨鉄兵が迫りつつある。 「全ては予定通りというわけか」 「端々の違いはあるが大意はな。深雪よ。この城は再び我が物に差し戻す」 「下賜された覚えなどない。お前たちは全て死人となり、我が下で新生猪槌の礎となるの だ」 「兄上が嫌と申すなら、力ずくで貰い受けるのみ。兄上の呪の下にあるこの城を一重様の 下に戻す方法は二つ」  豪雪が前に進む。 「任せたぞ」  一重と二重、蜻蛉は部屋を去り猪槌城の最上階に向かう。巨鉄兵はその場所に来るであ ろう。猪槌城の動力源が光の柱を吹き出す噴出口へ。  豪雪は刀を構える。 「方法とは、兄上が呪を解くか、さもなくば兄上の存在が消えること」 「俺が二度も消されると思うか」  豪雪と深雪が飛び上がる。箱庭の上で二人の刀が火花を上げる。空中で鍔競り合いをし た後、二人は銀の光と化す。部屋の中で数合の剣戟が交わされる。その度、闇に光が舞い 踊る。  猪槌城に、全ての者たちは集まりつつある。その頭上で雷がひるがえる。光は数度続き、 すぐさま「轟」という音が地に落ちる。  部屋の調度を破壊しながら深雪と豪雪の刀は宙を舞う。箱庭に切っ先が触れる度、猪槌 の里の山が割れ、地が裂ける。 「急げ。このままでは猪槌の里は壊れてしまう」  真鉄が山嵐を急かせる。 「これで精一杯です」  山嵐が悲鳴を上げる。空では雷の光が間断無く続いている。  突如雷の光が遮られる。真鉄は天を見上げる。雷の光を背後に、巨大な人型が立ってい る。巨鉄兵より何倍も大きい。天をも突かん高さである。 「あれは何だ」  真鉄が声を上げる。 「味方ではないようです」  山嵐は、拳を振り上げる巨人を見て叫ぶ。巨鉄兵が横に跳ぶ。その直後、巨人の拳が地 面に落ちる。大地が激震と共に鳴動する。巨鉄兵は立ち止まる。 「森に見えます」  山嵐が自信なく呟く。その巨人の表面は枝葉で覆われており、頭には青い光が煌いてい る。 「山嵐さん」  巨鉄兵にようやく追いついた白梅が操縦席に入ってくる。 「こら、ここは危ない」  真鉄が白梅を制そうとする。 「真鉄殿。今の猪槌に安全な場所がありましょうか」  巨鉄兵が再び跳躍する。巨森兵の足が拳が、続けざまに巨鉄兵を襲う。竜王砲はここで は撃てない。撃てば砲身が次の一発には耐えられない。ここは逃げるしかない。巨鉄兵は その身を軽快に動かし、巨森兵の攻撃を逃れていく。 ────────────────────────────────────────  白鷹が猪槌城に飛び込む。銀狼である。銀狼は狼に姿を変じ、死人の軍団をなぎ払って いく。銀狼の牙は氷の牙である。氷は白雪である。銀狼は白雪と一体になり、その氷の牙 で死人の核となっている黄金蟲を氷結させ破壊していく。  目指すは豪雪の場所である。豪雪は深雪と戦うであろう。銀狼と白雪はそう確信してい る。銀狼は豪雪の臭いを辿り階上に向かう。千重の部屋に辿りつく。  部屋には豪雪と深雪はいない。その代わり、壁に大きな穴が開いている。銀狼は箱庭を 横目で見、穴の開いた壁に向かう。 ────────────────────────────────────────  猪槌の里の中央で、猪槌城はその巨体を宙に漂わせている。闇の中、無数の雷光が閃く。 激しい音と共に猪槌城の壁が吹き飛ぶ。その穴から、二つの銀の流星が飛び出す。豪雪と 深雪である。  二人は猪槌城の瓦の上に立ち、再び刀を構える。互いの体には刀創が浮かんでいる。 「腕は衰えていぬようだな」  深雪が口の端を上げる。深雪の傷は、その言葉の間に既に癒えている。神通力の成せる 技である。しかし、豪雪は生身の肉体である。疲労がじわりと背筋に迫る。このままでは 敗ける。豪雪は深雪との距離を保ちつつ瓦の上を歩く。 「下が騒がしいようだな」  豪雪は口を開く。時間を稼げば、死人の群れを抜けて雪組の忍者たちが来るであろう。 圧倒的に力を持つ相手に勝つには、奇策か、もしくは自分の側の力を増すかである。今は まだ勝てない。時を待つしかない。 「猪槌の里が滅びようとしている」  誰に言うともなく豪雪は語る。深雪から視線を逸らし、豪雪は眼下の猪槌の里を一望す る。箱庭の上の剣戟の火花が作った雷が、まだ残照のように瞬いている。豪雪と深雪が生 まれ育った地である。 「この世に永遠などない。いずれ滅びるは定め」  深雪も口を開く。そして視線を足下の大地に移す。まるで盆絵の風景である。既に彼ら が生活していたときの猪槌の里の面影はない。雷が光を発する度、屍の大地がささくれ立 った姿をさらす。  豪雪は深雪の言葉に頷く。 「たとえ兄弟と言えども、その縁は永遠ではないのかもしれない」  二人は口をつぐみ猪槌の里を見下ろす。稲光が二人の輪郭を浮かびあがらせる。ただ二 人だけが猪槌の里の空にいる。 「豪雪様」  沈黙が破られる。壁の大穴に銀の毛並みの狼が現れる。狼は姿を変じ、人の姿になる。 その体には氷の鎧と剣がある。 「ふんっ、銀狼か。その気配、白雪もいるな」  深雪が不快げに言う。神通力を持つ深雪には、銀狼の鎧と剣が白雪の変じた姿であるこ とが分かる。豪雪と二人の神通力使い。少々分が悪い。  城壁に新たな気配が浮かぶ。猪槌城の壁に異形の怪物が現れる。血で薄汚れた覆面に継 ぎ接ぎの体。腕は無理矢理埋め込まれて四本もある。異形の姿である。 「式鬼か」  深雪が眉根を寄せながら微笑む。深雪と豪雪、二人の間の時間が再び動き出す。 「豪雪。遊びは終わりだ」  深雪は神無月を鞘に収める。そして両手を天に掲げる。両腕が巨大な黄金のまさかりに 変わる。 「豪雪様」  銀狼は豪雪の名を呼びながら、その隣に立つ。豪雪には、銀狼の鎧が白雪の変じた姿で あることは分からない。豪雪と銀狼が身構える。 「行け、式鬼。豪雪たちの退路を塞げ」  深雪は叫ぶ。だが、式鬼はその命令が聞こえぬように立ち尽くす。豪雪が訝しむ。 「式鬼ではない」  自我の戻ってきた式鬼の口が開く。長く開けられなかった唇は貼り付き、筋肉は固まり、 微かな雑音しか発しない。 「紅松」  唇は言葉を刻む。風の音が紅松の声をかき消す。 「ちっ」  深雪が紅松に一瞥をくれる。 「行くぞ」  深雪は黄金のまさかりを振り上げ豪雪に向かう。深雪の黄金のまさかりが豪雪を襲う。 豪雪が刀で辛うじてまさかりを逸らせる。刀が折れる。銀狼が氷の剣を深雪に振るう。深 雪が足を軸に、独楽のように高速回転を始める。銀狼の氷の剣が弾き返される。  やはり手には負えない。銀狼が胸中で悲鳴を発する。豪雪と銀狼、白雪の三人がかりで も深雪に勝てるかどうか。  瓦を蹴散らしながら深雪が豪雪に迫る。  豪雪は瓦の上を走る。  深雪は強い。二十年前の戦いでは、仲間たちのおかげで命を拾うことができた。だが今 その仲間たちはいない。それに今度は深雪を消滅させなければ、猪槌城にかかった深雪の 呪を解かねば、一重は猪槌を救えないという切所にある。  銀狼は若い。次代を担う忍びにならねばならぬだろう。俺は既に古い。  豪雪は深雪から距離を取る。深雪が豪雪に迫る。  我が命、ここで果てるときか。豪雪は空を見上げる。闇が広がっている。難しいことで はない。あの日のことを繰り返せば良いだけだ。 「死ね、豪雪」  黄金の独楽と化した深雪が豪雪に襲いかかる。回転が止まる。独楽に紅松が飛び込む。 「豪雪様、雪組に平和を」  紅松の腕という腕は深雪の黄金のまさかりでもがれている。 「どけ、邪魔するな」  深雪が紅松を払いのけようとする。紅松の体から爆薬を持った無数の式神が現れる。 「爆炎微塵隠れ」  深雪もろとも紅松が爆発する。紅松は四散する。その爆煙の中から深雪が出てくる。深 雪の服は吹き飛び肌が顕わになっている。しかし、傷は一つも負っていない。 「どこだ、豪雪」  一瞬の爆発であったが、豪雪が姿を隠すにはそれで十分であった。深雪の体が宙に浮く。 豪雪が深雪を羽交い締めにし銀の光に包まれる。 「銀狼、その氷の剣で我等が体を刺し貫け」 「駄目だ」  銀狼は躊躇する。「刺しなさい」銀狼の心の中から白雪の声が聞こえてくる。氷の鎧が 銀狼の腕を動かす。銀狼は飛び、氷の剣で深雪、豪雪の体を刺し貫く。 「貴様」  深雪が声を上げる。豪雪はそのまま一直線に天空へと向かい飛び立つ。猪槌の里は月に 飲み込まれてしまっている。このまま飛び続け、猪槌の里の呪の圏外に出れば、自力では 進むことも退くこともできなくなる。そこは完全に怪異の中になる。  それすなわち、猪槌の里からの消滅なり。 「豪雪、俺と心中する気か」  深雪は怒声を上げる。全身を金属の針山と化し豪雪の体を刺し貫く。豪雪の口から血の 泡が溢れる。深雪は豪雪を刺し貫いた針を柱のように脹らませる。豪雪の五体が裂ける。 しかし銀の光の速度は衰えない。 「兄上、我ら雪組の頭領の血に、危機が迫れば吹雪が来ることを覚えておりましょう」  首だけになった豪雪が深雪に囁く。深雪と豪雪の回りに吹雪が起こる。そして深雪と豪 雪を刺し貫いていた氷の剣がみるみる大きくなる。氷の剣は、深雪の体と豪雪の肉の欠片 を包んでいく。  深雪に貼りついた豪雪の血と肉が意志を持っているかのように、深雪の体を天空に押し 上げて行く。 「豪雪っ」  その言葉を最後に、深雪は再び怪異の闇の中に落ちる。氷の塊と化した深雪の体は、月 の闇の底に沈んでいく。  銀狼は天空を見上げている。その体にまとっていた氷の鎧が霧散する。銀の尾を引いた 流星は、空の彼方へと消えていった。  鈍砂山。紗織は猪槌城から天空に消え行く銀の流星を見た。光は天空の闇の中に消えて いく。光が消える。紗織は空を見上げる。雪が一片落ちてくる。さらに一片。猪槌の里の 天変地異が雪をも降らせているのだろうか。  何故だか分からないが、紗織の瞳に涙が溢れた。 ────────────────────────────────────────  猪槌の里の中心には現在二つの建造物がある。一つは中空に浮かぶ猪槌城、もう一つは その大地に屹立する銀の尖塔。銀の尖塔は傷ついている。  銀の尖塔の表面には無数のひびが入り、窓はことごとく割れている。火野熊は鉄馬の手 綱を繰り、窓の割れた最上階に入る。窓が割れているのは竜王砲のせいである。いま一つ 言うならば、ななえが撃たれたためである。  最上階では、青い光が揺らめいている。部屋の中央には千幻がいる。その両手の間には 水晶髑髏がある。千幻の白い顔が火野熊に向けられる。 「巨鉄兵を葬っている最中だ」  水晶髑髏は青い光を揺らめかせている。火野熊は北を見やる。頭部に青い光を発する木 製の巨人が巨鉄兵を襲っている。その青い光が水晶髑髏に呼応して揺らめく。 「それも月の都人の兵器か」  火野熊は兜を脱ぎ捨てる。頬には涙の後がある。千幻が答えぬため、火野熊は言葉を続 ける。 「巨鉄兵は猪槌城に向かっている。もし、あの森の巨人が負ければ巨鉄兵は猪槌城に進む」 「他の兵士はどうした」  ようやく千幻が口を開く。 「全て死んだ」 「猪槌の里にかけられた千重の呪が、どうも生まれ変わろうとしている。いや、生まれ変 わったというべきか。婚礼の儀の参加者を殺しても猪槌の里の存在が弱くならなくなって いる。原因は不明だ」  千幻は一重の存在を知らない。無論、火野熊も知るはずはない。 「新たな呪の中心は」 「猪槌城」  火野熊の問いに千幻が答える。猪槌城に新たな呪の中心がある。その呪はこれまでの老 いた呪ではなく、新しく若々しい呪である。その呪が、今しがた猪槌城を完全に支配した。 「原因を探る必要があるな」  火野熊が口を開く。 「排除も必要だろう。千重たちは、おそらく月の都を破壊しようと考えているはずだ。あ の砲の威力なら月の都を滅ぼすことも可能だ。ただこの闇の中、どこにあるかを見つけ出 すことはできないだろうがな」 「見つけるまでには時間がかかると」 「その間に猪槌城の呪の原因を潰すか、巨鉄兵を破壊すればこの戦いは終わりだ」  火野熊は鉄馬の腹を蹴り窓に向かう。 「俺は猪槌城に向かう」 「死ねば不老不死はないぞ」 「今のまま生きていても仕方がないだろう。失って初めてそれが大切だと気づくものもあ る」 「あのななえという女か」 「いや、日常と言うべきか。これからも続くと思っていた世界そのものだ」  火野熊が塔から飛び出す。鉄馬は空を駆け、猪槌城に向かう。千幻は再び巨森兵に視線 を移す。 ────────────────────────────────────────  月河のほとりである。巨森兵が去った後の月河には、呆然とした難民たちが残されてい る。大矢野一郎はその難民たちの中心にいる。 「大丈夫さ。ここは安全だろう」  ときに言葉は事実に反して使われる必要がある。今はそのときであろう。現在、猪槌の 里に安全な場所など存在しない。だが多くの場合、真実を告げられることを人は望んでは いない。  大矢野は動揺する民衆をできるだけ優しくなだめている。難民たちをできるだけ安心さ せる必要がある。狂騒した民衆ほど危険な存在はない。自ら傷つけ合い、正気に戻ったと きに初めて、その罪の恐ろしさにおののく。  大矢野は考える。巨森兵が向かった先が次の戦場になるだろう。それも最大級の。  難民の子供の一人が大矢野の袖を引く。子供たちはその様子を見て争うように大矢野の 袖に群がる。子供たちの中には、この風変わりな男への信頼が生まれつつある。何かにす がらなければ生きるのも恐ろしい日々が続いているからだ。 「おっちゃん」  子供たちの目が大矢野に注がれる。心地良い充足感が大矢野の胸を満たす。その自らの 心を感じ、大矢野は戦慄する。俺は尊敬を得るために猪槌の里での日々を送ってきたのか。 自分が救う人間を選んではいけない。ここで満足してはいけない。戦場ではまだ戦い、傷 ついている人々がいる。 「おめえさん、神様ってのを信じるかい」  大矢野は子供の頭の上に手を置く。子供のぬくもりが、手のひらを通して伝わってくる。 子供は頷く。不安を持ち、信仰により心の安定を求めようとする、ごくごく普通の子供だ。 大矢野は子供に向かって微笑む。 「じゃあ大丈夫だな。おじちゃんはな、ちょっとばかり城下町の方に用事ができたんだ」  泣きそうになる子供に、決して手放さなかった自らのロザリオと聖書を握らせる。子供 が口を開こうとするのを制し、大矢野は人の輪を抜ける。 「おじちゃん」  子供の声が背中に投げかけられる。大矢野は西に向かって駆ける。危険だ。そんなこと は分かっている。いいじゃないか。この命と引き換えに、救える命が一つでもあるのなら ば。 ──────────────────────────────────────── 「曹沙亜様」  銀の尖塔の地下で幹が声を上げる。地下の洞窟には青い光が満ちている。その光の中心 に曹沙亜の姿がある。光は曹沙亜の右目から漏れている。  洞窟の中の闇は濃い。 「曹沙亜様。ちはやの種は全て仕掛け終わりました。後は曹沙亜様がちはやの引き金を引 くだけです」  幹は曹沙亜の体を揺り動かす。しかし、曹沙亜の意識は戻らない。そのうち、読経のよ うな声が洞窟に満ちてくる。 「イヅチ、イヅチ」  洞窟いっぱいにその音声は響き渡る。月組の最後の忍びたちが曹沙亜の周りに集まって くる。洞窟の壁が、天が、地が波立つ。何かが洞窟を覆うばかりに這い回っている。 「曹沙亜様」  闇の中、曹沙亜の意識は沈んでいく。 ────────────────────────────────────────  風がそよぐ。葦の原の青い波が、曹沙亜の心の景色の中に広がる。少年時代。曹沙亜は 月河の葦の原の中でその時を過ごした。  曹沙亜は葦の原の中にいる。  まだ子供に過ぎない曹沙亜の背は低く、その頭の上を青い波が過ぎ去る。葦の海の上に 何があるのかを思い、曹沙亜は空を見上げる。頭上には青い空が広がり、その空の上を白 い雲が流れている。  風が葦の原に音を立てる。葦の奏でる風の音の中、白い雲は音も無く流れていく。  曹沙亜はぼんやりと空を眺める。空は良い。青い空の中、雲はただ流れてさえいれば良 い。「それに比べて」と、曹沙亜は思う。自分はいつも何かにぶつかり、転び、涙を流し ている。  今日も一人落ちこぼれ取り残された。昨日は算盤であり、今日は早駆けであった。一人、 流れに遅れた自分は、同窓の中、人にぶつかり、弾かれ、除け者にされてしまう。  雲は良い。青い空の中、ただ浮かんでさえいればいい。  葦を掻き分ける音が聞こえる。曹沙亜は空から目を移し、音の方を見る。 「こんな所にいたのか、曹沙亜」  葦を荒々しく掻き分け爪牙がやってくる。爪牙ほどの腕なら、音も立てずにやってこれ るはずなのに。 「あっ、曹沙亜。お前今俺のことを考えただろう」 「えっ、何で分かるの」  曹沙亜の声に爪牙が笑い声を上げる。 「分かるも何も、顔にそう書いてあるぞ」  曹沙亜は不思議そうに自分の顔を撫でる。「何でここが分かったの」とは曹沙亜は言わ ない。無言で爪牙の顔を覗きこんでいる。爪牙は仰向けに葦の原の中に寝転がる。曹沙亜 も同じように寝転がる。  風が二人の間を吹きぬけていく。葦の原が、二人のために茫々たる大海のように広がっ ている。今この世には爪牙と曹沙亜しかいない。そんな景色である。 「俺たちは似ているな」  爪牙が口を開く。似ている、曹沙亜は首をひねる。優等生の爪牙と劣等生の曹沙亜。ど こが似ているのだろうか。 「名前にそうって付くところかなあ」  曹沙亜は難しそうに答える。 「俺たちは外れの人だ」  爪牙はこう言う。村や世界に外れがあるように人にも外れがある。それは漢書の輪読が 良くできたり、壁登りができなかったり、水練が良くできたりすることだったりする。人 の群れの中、最も先行している人と、最も殿を務める者は同じように「仲間外れ」である。 「どちらも、人の群れの中では忌み嫌われる」 「そんな、爪牙はみんなに尊敬されているじゃないか」  曹沙亜が抗弁する。爪牙が目を閉じ、全身の力を抜く。草の波に身を任せる。 「一緒さ。妬み、恨み、嘲り、蔑み。外れにいる人は、俺と曹沙亜は似た立場にいる」 「でも、爪牙は誰よりも凄くて、偉くて、そして青い目になるんでしょ」  青い目はその最たる物だ。誰一人、自分を爪牙として見なくなる。 「青い目の爪牙」  自分の一生はその青い目に取って代わられる。 「青い目は、死後も特別な存在として古木の洞の中に安置されるそうだ」  爪牙の声が風に溶けていく。  曹沙亜は空を見上げる。青い空が草の間で澄みきっている。白い雲が、あるがままの姿 で風と共に流れていく。 「青い目が爪牙に取って代わろうとしたら、僕が爪牙の名前を呼ぶよ。爪牙は爪牙なんだ って僕が言ってあげるよ」  曹沙亜は軽く起き上がり、爪牙の顔を見る。爪牙の顔は澄みわたり、静かに目を閉じ続 けている。 ────────────────────────────────────────  城下町に至る山の裾野に稲妻がひるがえる。青と黒の陰影が巨大な二つの人影を映し出 している。 「お光殿。あれはいったいどういうことで」  再び闇。  猪槌の里には雪が振り、雪は程なく雨に変わる。驟雨である。長くは続かぬ激しい雨。 雨に濡れそぼちながら植刃が声を上げる。  この行軍中、光は巨鉄兵の援護をすると言った。しかし、こんな巨大な相手にどう援護 をすると言うのだ。  再び雷が閃く。敵の影が浮かび上がる。巨鉄兵の頭の先が、ようやく敵の巨兵のくるぶ しあたりである。 「お光殿」  植刃が叫ぶ。光は巨森兵の一点を見詰めている。青い光である。「お光殿」堪らず植刃 が声を上げる。こんな所で止まっていれば、あの巨大な敵に踏み潰されてしまう。 「爪牙殿」  光は声を漏らす。雨の中、光の言葉はかき消される。光は猪槌城の先を見やる。銀の尖 塔がある。その銀の尖塔の先端に、青い光が瞬いている。 「敵は、あの塔の頂にあり」  光が大音声を上げる。鈍砂山軍の顔が一斉に塔へと向く。その先端の青い光は、巨兵の 青い光と呼応するかのように瞬いている。 「行くぞ」  光が叫ぶ。一行が矢のように塔に向かう。塔の結界は既に無く、壁には無数の亀裂が走 り、窓という窓は割れている。入り口の扉が見える。扉も割れ、中の廊下が覗いている。  光たちは、追い詰めた獲物を襲う狼のように銀の尖塔に飛び込む。  白子の兵たちが群がってくる。しかし、白子の兵士たちは竜王砲のために傷ついている。 その兵士たちを、光や植刃、雷神の剣士たちの刃が両断する。 ────────────────────────────────────────  洞窟の中の青い光の律動が変わる。光の瞬きが、ある一つの言葉の韻律を作る。幹は曹 沙亜の顔を覗き込む。曹沙亜の口元がわずかに動いている。幹はその唇の動きを辿る。 「そうが、そうが」  唇はうわ言のようにその言葉を繰り返している。青い光の律動はその言葉の韻律である。 青い光が洞窟の中に、爪牙という言葉の音魂を作りだす。  変化が現れ始める。青い光に照らされた土蜘蛛の幼虫たちが、その律動に声をそろえ始 める。 「ソウガ、ソウガ、ソウガ、ソウガ」  曹沙亜の唇に唱和するように、土蜘蛛の幼虫たちは爪牙の名前を呼び始める。 「爪牙、爪牙」  曹沙亜の口が音を発し始める。 「曹沙亜様」  幹が叫ぶ。  洞窟の巨大な声が地上に漏れ、爪牙の名前を呼び求める。巨森兵の動きが止まる。 「真鉄殿。敵の動きが止まりました」 「よし、山嵐。猪槌城に向かうぞ」  巨鉄兵が猪槌城に向かい駆け出す。巨森兵はその場で動きを止めている。青い光が不規 則に明滅している。  銀の尖塔の中を、光たちは駆け上がっていく。集団で行動せず、飛び道具も持っていな い白子の兵たちは存外脆い。雷神の刀が白子の兵たちの活動を止めていく。 「お光殿。俺は塔の中を少しは知っている。俺が先頭に立つ」  植刃は駆け上がる。階段を上り、廊下を折れ、上へ上へと進む。目の前に扉がある。そ の扉の中から声が聞こえる。 「なぜだ。なぜ応えぬ千念よ」  千幻の声である。光たちが階段を上ってくる。 「ここが天辺だ」  植刃は扉を蹴開ける。窓の割れた部屋の中には一人の白子の男が立っている。その両手 の間には水晶髑髏があり、青く瞬いている。 「月の都人の親玉だ。名は千幻と言うらしい」  植刃が白刃を構える。 「下の兵共はどうした。猪槌の者たちをなぜこの部屋に入れる」 「あらかた倒したわ」  植刃が、光が、雷神の剣士たちが部屋に殺到する。塔の頂で、千幻と猪槌の民が相対す る。 「神通力も持たぬお前たちに俺は倒せぬ」  千幻の周りに無数の闇の球が浮かぶ。怪異である。 ──────────────────────────────────────── 「曹沙亜様」  地下洞窟の中で幹が声を上げる。月組残党たちは、土蜘蛛の幼虫たちの「爪牙」の大合 唱に包まれている。  曹沙亜のまぶたが開く。 「早く、ちはやを」  曹沙亜が幹に手を差し出す。幹は曹沙亜の手にちはやを握らせる。幹に支えられ曹沙亜 は立ち上がる。今こそ、月の都人たちの頸木を断つ時だ。  曹沙亜は引き金を引く。轟然と唸りを上げ、木弾が洞窟の天井に吸い込まれていく。岩 盤を割る炸裂音と共に、次々と頭上で爆発が起こる。その度に固く太い根が天井に走り、 銀の尖塔の立つ地面の岩盤を打ち破っていく。 「成功だ」  思わず曹沙亜は叫ぶ。 「曹沙亜様、危ないです」  幹は曹沙亜の体を掴み、銀の光となってその場所を離れる。月組の残党たちも、次々と 地上に脱する。地下から青い光が消える。再び土蜘蛛の幼虫たちが「イヅチ」の言霊を連 呼し始める。 ────────────────────────────────────────  塔の立つべき大地が一瞬の間に失われた。塔が落下を始める。千幻が、植刃が、光が空 中に投げ出される。そしてすぐさま天井に落下する。 「雷神の剣は電光石火」  植刃が天井を蹴り千幻に向かう。 「その水晶髑髏よ」  光が叫ぶ。植刃の刀が水晶髑髏を割り、そのまま千幻の体を貫く。 「貴様」  植刃はそのまま千幻の体を壁に突き立てる。 「窓から逃げるわよ」  幸い窓は割れている。それぞれ窓から飛び立つ。渡りがおこなえる者は、渡りのおこな えない者の手をつかみ、猪槌の里の大地に飛び降りる。千幻は壁にはりつけられているた めに逃れられない。塔が、突如開いた穴に滑り込むようにして落ちていく。  巨大な音と大地の鳴動の後、穴から銀の粉塵が舞い上がる。銀の尖塔は城下町の地下 に落ち、砕け散る。 「おーっ」  雷神の剣士たちの間で歓声が起こる。月の都人の象徴である銀の尖塔を完全に破壊した のだ。涙し、その場で叫び続ける者もいる。天に向かい吼え続ける者もいる。植刃は光を 抱き上げる。部隊の将である光も、涙を流し歓喜している。  雨は霧に変わっている。白い薄い霧の中、曹沙亜たちは城下町を駆ける。城下町のすぐ 北方に、巨大な森の兵士が立ち尽くしている。銀の尖塔が崩れる音が緩やかに納まってい く。それと共に、曹沙亜の右目の青い光が消えていく。巨森兵の頭部で輝く青い光も消え る。  霧の向こうで巨大な人影が小さくなっていく。人影が消える。 「爪牙」  曹沙亜が声を上げながら駆け寄る。霧を掻き分け、曹沙亜は爪牙の下へ駆ける。  霧を抜ける。 「爪牙」  息を切らしながら曹沙亜は呼びかける。 「大丈夫です。五体無事ですよ」  爪牙を抱えるように大矢野が立っている。巨森兵の近くで爪牙を救うべく動向を伺って いたのだ。 「簡単な手当てはおこなっています。無事です。安心してください」  曹沙亜は爪牙に駆け寄る。 「爪牙」  曹沙亜の声に応えて爪牙が目を開ける。青い目は右目だけになっており、左目には生身 の目が現れている。 「曹沙亜、さっきからお前は俺の名前ばかり呼んでいる」  爪牙の左目に涙が浮かぶ。 「爪牙」 「曹沙亜」  二人は手を伸ばす。涙は熱く頬を濡らしている。 ──────────────────────────────────────── 「真鉄殿。猪槌城の真下まで来ました」  山嵐が叫ぶ。猪槌城は巨鉄兵の頭上に浮いている。 「飛び移ってよじ登るしかあるまい」  真鉄が応答する。 「巨鉄兵は猪槌城みたいに飛ばないのですか」  白梅が頭上を見上げながら問う。 「こんな鉄の塊が飛ぶか。飛ばすにはこんな人型は甚だ不適当だ。猪槌城が浮いているの は、いわば呪の力だ。俺の手によるものではない。動力源は俺が作ったが、猪槌城自体は 千重様が作ったものだ」  山嵐は巨鉄兵の踏み板を踏む。巨鉄兵が飛び上がる。巨鉄兵は猪槌城の底の鏡城に取り つく。猪槌城が激しく揺れる。 「よし、このまま登るぞ」  山嵐が器用に巨鉄兵を動かしていく。 ──────────────────────────────────────── 「巨鉄兵が来たな」  一重が二重の腕の中で目を開く。城内の死人兵は深雪の死後、その力を徐々に弱めつつ ある。 「城内はあらかた片付きました」  蜻蛉が一重に告げる。蜻蛉たちは、猪槌城の頂の部屋にいる。窓外の銀の尖塔は崩壊し、 巨森兵も消えている。後は月の都を巨鉄兵で打ち抜けば全てが終わる。そろそろ屋根に移 動して巨鉄兵を待つ頃だ 「一重様。敵を、月の都人を倒したからと言って、月に囚われていることには変わりはあ りません。どうなされるおつもりでしょうか」  蜻蛉が一重に尋ねる。  部屋のふすまが開かれる。雪組の忍者が数人立っている。 「豪雪様が討ち死にいたしました」  蜻蛉が頷く。 「豪雪と深雪の役目は終わった。千幻も月の都に帰った。全てはわしの計画通り」  一重が言葉をつなぐ。一重、二重、蜻蛉の三人が階上を目指す。その背後から一つの人 影が刀を抜き放ち、一重目掛けて襲いかかる。蜻蛉が腰から扇を抜きその刀を受ける。 「背後から斬りかかるとは感心できませんね」  蜻蛉は扇に体重を乗せ、刀を持った男を押し返す。風幻である。一重が視線を風幻に移す。 「雪組の者は、豪雪が死に気が狂れたか」  一重の周囲に闇の球が無数に浮かぶ。闇の球体が風幻の体を次々と飲み込む。床に風幻 の血が撒き散らされる。風幻が消える。雪組の忍者たちはふすまの向こうで足を止める。 「わしの邪魔をするな。そこで控えておれ。行くぞ蜻蛉」  蜻蛉の誘導で再び二重が階段を上り始める。猪槌城の外は風が強い。風が二重の髪を強 く舞い上がらせる。猪槌城の壁を巨鉄兵が登ってきている。蜻蛉はその肥大した体を猪槌 城の屋根の上に乗せる。 「いよいよですね」  蜻蛉が口を開く。今の一重には、全ての過去と未来が見えている。一重は既に神である。 蜻蛉はその神に仕える神官であると言える。そして二重は生贄である。蜻蛉の表情は暗い。 理性がそのことを決めたとは言え、感情の深奥がこれまで育ててきた二重を贄にすること をためらっている。  その心の迷いを振り払わねばならぬだろう。 「一重様。いよいよ二重を竜王砲の弾として使うときがきました」  口に出してそのことを言う。言うことで自らの心を固めてしまえと蜻蛉は思う。父、螳 螂のことを思い出す。蜻蛉が道場を継ぐ日、螳螂は二重を道場に連れて来た。そして蜻蛉 だけに真相を語った。 「あの子は千重様の子供であり千重様の呪の要である。お前に役目を授ける。あの子を生 かしめ、そして死なしめるのだ。時を待ち、万事そのために準備せよ」  情が移り過ぎた。詮無きことよ。分かっていたはずではないか。蜻蛉は巨鉄兵に視線を 移す。一筋の黒い影が矢のように巨鉄兵に向かっている。黒い塊が弾丸のように巨鉄兵の 頭部に当たる。鉄馬に乗った火野熊である。鉄馬の重量が巨鉄兵の頭蓋に当たる。激しい 衝撃と共に巨鉄兵の頭部が歪む。 「どうした、何が起こったのだ」  真鉄が叫ぶ。 「敵です。宙を舞う鉄馬が体当たりをしかけてきました」  白梅が外を覗きながら答える。山嵐が必死に巨鉄兵の態勢を立て直す。こんな高さから 落ちれば、巨鉄兵共々砕け散ってしまう。 「厄介なときに厄介な相手が来た」  真鉄は舌打ちをする。 「まずいことになりましたね一重様。このままでは二重を撃つことができなくなってしま います」  心の中で、どこか安堵している自分がいる。だが、二重を犠牲にせねばならぬだろう。 猪槌の里の全住民の命には替えられない。  蜻蛉は暗い気配を感じる。 「蜻蛉よ。そういうわけだったのか」  背後で声が上がる。蜻蛉は声の主に振りかえる。鍬形がいる。猪槌城の屋根の頂に鍬形 が座している。先ほどからいたのか。気配を消していたか。蜻蛉は舌打ちをする。鍬形の 顔は怒気に覆われている。 「二重が一重を産まねばならぬという話は聞いていたが、二重を竜王砲の弾として使うな どといった話は聞いておらぬぞ」  鍬形が鬼のような形相で立ちあがる。 「螳螂殿は、道場を蜻蛉、お前に継いだときこう俺に言われた。鍬形よ。二重は成長して 後、多大なる危難に会うだろう。そのときお前は二重の力になってやってくれ。それがわ しのせめてもの罪滅ぼしだと」  風が轟々と音を立てている。蜻蛉と鍬形は無言で対面している。蜻蛉は唖然とする。 「父がそのように」思わず叫びたかった。息子には「殺せ」と言っておきながら、その罪 の意識をあがなうために、その弟子には「守れ」と告げただと。  蜻蛉は拳を握り締める。  やはり自分は父に愛されていなかったようだ。蜻蛉はそう思わずにいられない。剣の道 を忌み、人を傷つけることを恐れていた自分に、父はこのような罰を与えた。 「蜻蛉よ。雷神剣士が、己が弟子を見捨てると思うか」  鍬形が刀を抜く。 「それがために猪槌の民全てが死に至ろうともか」  蜻蛉は苦々しい顔で言葉を吐き捨てる。父が憎い。そう思ったとき、この兄弟のように 育った親友が、父のように見えてきた。 「鍬形。邪魔立てはさせん」  蜻蛉は、二重と一重を守るように立ちはだかる。  猪槌城の側面では、火野熊が再び巨鉄兵に襲いかかろうと距離を取っている。巨鉄兵の 両腕は猪槌城をつかんでおり離すことができない。このままでは火野熊の的になるだけだ。 「真鉄殿。このままではやられてしまいます」  山嵐が声を上げる。必死に猪槌城の上によじ登ろうとするが、焦れば焦るほどその動き はぎこちないものになっていく。 「登り切りさえすれば良い。そうすれば両手が使えるようになる」  真鉄が叫ぶ。そうすれば真鉄はすぐに猪槌城に下り、巨鉄兵と猪槌城をつなぐ作業に入 れる。そして山嵐が竜王砲を撃つ。そのために真鉄と山嵐は巨鉄兵にいなければならない。 「山嵐さん。この戦いが終わったら言いたいことがあります」  白梅が巨鉄兵の天蓋から外に出ようとする。 「どこに行くんだ。危ないぞ」  真鉄が風音の中叫ぶ。 「今、ここで仕事のないのは私だけです」 「やめろ白梅。危険だ」  山嵐が声を上げる。焦りが山嵐の手元を狂わせ登ることができない。  「猪槌の里が、そして・・・」白梅は、目に涙をためながら微笑む。「好きですから」 白梅の体が銀の光で包まれる。天蓋の穴から白梅が飛び立つ。空では火野熊が巨鉄兵に向 け駆けている。黒い弾丸に銀の流星が向かう。 「死ぬな白梅」  山嵐は必死で操縦桿を動かす。巨鉄兵の体が、徐々に徐々に猪槌城の頂へと向かう。  鉄騎馬に銀の流星が激突する。 「なっ」  突如火野熊の鉄馬を衝撃が襲う。火野熊の眼前に血まみれになった少女の姿が現れる。 鉄馬の軌道が狂う。火野熊はそのまま猪槌城の壁に激突する。猪槌城の壁に煙が上がり、 大穴が開く。巨鉄兵は猪槌城の頂に辿りつく。  真鉄が巨鉄兵の天蓋を押し開ける。肌を切り裂くような風が操縦席に舞い込む。 「山嵐、猪槌城と巨鉄兵をつないだら合図を送る。そうすれば左腕を足元に向けて吸引を 開始しろ」 「弾はどうするんです」 「大丈夫だ。蜻蛉が用意して待機している」 「分かりました」  真鉄は巨鉄兵の胴を伝い猪槌城の屋根に下りる。屋根では蜻蛉と鍬形が対峙している。 「どうした蜻蛉。機会はあと一度切り。ぐずぐずしている暇はないぞ」  真鉄は怒鳴り、そして巨鉄兵の踵から送電管を引きずり出す。真鉄は送電管の先を肩に 担ぎ、猪槌城の屋根の中央に向かう。猪槌城の屋根の中央に巨大な穴がある。その穴は猪 槌城の動力源に直結している。  真鉄は送電管の先を担いだまま、その穴に下り始める。鍬形がまず動いた。 ────────────────────────────────────────  清水の塩の原を安倍孔明らは駆けている。非戦闘員たちを連れて、清水から猪槌の里を 脱するためである。この短い行軍の間に雪が降り、雨が降った。今は霧が視界を遮ってい る。 「安倍様、このまま進んで無事に猪槌の里から出られるのでしょうか」  老齢の農民が不安そうに聞く。 「大丈夫です」  と言う安倍にもその確証はない。式神を使い、その他の抜け穴がないか探ってみたが、 終ぞ見つけることができなかった。本来はもっと猪槌の里と外の世界の穴は多かったのか もしれない。しかし、この天変地異でその穴も無くなってしまったのだろう。  霧の向こうから人影が近づいてくる。 「止まりなさい」  安倍が一行を止め、相手の動きを観察する。相手はふと動きを止め、安倍たちの方に向 かってくる。次第に姿が明瞭になってくる。 「明光院殿」  安倍は思わず声を上げる。 「うむ。里の中の状況はどうなっている」  明光院が問う。安倍は、城下町を通るときに見てきたあらましを伝える。突如月が下り てきて猪槌の里が闇に包まれたこと、銀の尖塔が崩壊したこと、巨鉄兵が猪槌城に向かっ たこと。 「そうか」  明光院はわずかに喜色を浮かべる。 「お主たちはどうするつもりじゃ」 「清水から里の外に出るつもりです」  安倍が明光院に告げる。明光院が渋い顔をする。江戸の近くに、これだけの猪槌の里の 民が現れてはたまったものではない。江戸に混乱が起こり、猪槌の里の存在が知れ渡り、 幕府が計画している異土消滅計画が暴露してしまう。  明光院は口を開く。 「そうか。気をつけて行くが良い」  明光院の表情は平素に戻る。 「明光院殿は、どうなされるのです」 「わしは真鉄殿と約束をしているからのう。この戦に付き合うつもりじゃよ」  安倍は黙礼し、その場を後にする。再び安倍を先頭にした一行が走り始める。明光院は その場に立ちつづけている。安倍たちの姿がその場から消える。明光院は千里眼を働かせ、 安倍たちの位置を探る。 「残念だが、そこで死んでもらおうか」  明光院は固く拳を握って構える。呼吸を整え拳を地面に打ち下ろす。清水が大鳴動する。 清水の塩の原に大亀裂が入り、その亀裂が安倍たち一行を飲み込む。安倍は急ぎ、渡りで 空に逃れる。安倍に連れられていた一行は全滅した。安倍は振動の収まった地面に下り立 つ。呆然と辺りを見渡す。  明光院は再び猪槌城に向かい走り出す。 ────────────────────────────────────────  猪槌城最上階の屋根。  鍬形が一足跳びに間合いを詰める。蜻蛉は腰から扇を抜き、鍬形の刀の側面を打つ。刀 の軌道が逸れる。鍬形はそのまま蜻蛉を飛び越え着地する。蜻蛉の肩がざくりと裂けてい る。やはり扇ごときで鍬形の刀は防げない。蜻蛉は二重の腰から刀を退き抜く。 「真鉄、急いでくれ」  蜻蛉が声を上げる。そんなに持ち堪えられないぞ。蜻蛉の顔が苦痛で歪む。傷は浅くな い。蜻蛉は刀を構える。血が傷口よりどくどくと流れる。  鍬形が大上段に振りかぶり、蜻蛉に斬りかかる。蜻蛉は刀を頭上に上げ受け止める。が、 金属の擦過音と共に刀が真っ二つに断たれる。蜻蛉は辛うじて首だけ避ける。首の脇に刀 が滑り込む。刀はへその辺りまで達する。  真鉄が屋根に上がってくる。  その姿を横目で見ながら、蜻蛉は鍬形に体重をかける。刃が根元まで蜻蛉の体に入る。 そのまま相撲のように体重を鍬形に移す。二人はもみ合いながら屋根を転がり落ち始める。 「よせ、蜻蛉離せ」  鍬形が刀を離し、蜻蛉の体を蹴る。蜻蛉の体が鞠の様に跳ね、猪槌城の屋根の下、空に 向かって落下する。 「キエィーーイ」  鍬形が叫びを発し、猪槌城の屋根の端に手を伸ばす。指がかかる。寸での所で落下を免 れる。  真鉄が巨鉄兵の足元に駆ける。二重の腕から一重を奪い、頭上に向かって叫ぶ。 「吸引開始」  真鉄は一重を抱え、屋根の上にうずくまる。 「吸引開始」  山嵐が復唱する。巨鉄兵の両腕の先に閃光が煌き出す。その時、巨鉄兵の頭上に異変が 起こる。 「あれは何だ」  山嵐が思わず声を上げる。猪槌城の上空に、巨大な浮遊の大地が現れている。その大き さは猪槌の里の数十倍に及び、その巨体が猪槌の大地に迫ってきている。一重が口を開く。 「あれが月の都だ。千幻め、月の都の体当たりで猪槌の里を打ち砕こうとしている」 「山嵐。出力最大、一撃で月の都を粉砕せよ」 「了解」  叫んだ山嵐の手は震えている。ふと白梅の顔が山嵐の心をよぎる。 「どうした山嵐」  山嵐の手から震えが消える。 「竜王砲、最大出力発射」  竜王砲がけたたましい叫びを上げて閃光を発する。一瞬の内に二重が吸引口に吸い込ま れて消え、発射口から広角に光の嵐が吹き荒れる。猪槌城のあらゆる窓から光線が漏れる。 円錐状に広がった竜王砲の光弾は、月の都全体を飲み込み粉砕する。  光が納まり視界が戻る。 「やったか」  山嵐が上空を見上げる。巨大な岩の塊が山嵐の脇を通り過ぎ、猪槌城に落下する。月の 都の破片が、隕石のように猪槌の里に降り注ぎ始める。巨鉄兵と竜王砲が煙と炎を吹き始 める。山嵐は慌てて巨鉄兵から降り、真鉄の下へ向かう。 「真鉄殿。猪槌城の中に入りましょう」 「うむ、行くぞ」  猪槌の里に無数の隕石が降り注ぎ、里の形を崩して行く。 「光が見えます。それも無数にです」  山嵐が上空を仰ぎ見る。月の怪異の無限の闇の中に、無数の光の球が、景色が浮かんで いる。 「あれは」  真鉄が声を漏らす。その間にも無数の隕石が猪槌の里に降り注ぐ。  「穴だ」一重が言う。「怪異と浮世で生じる無数の連結点があの穴だ。隕石が納まるま で、あの穴に猪槌城を退避させる」一重が命令を発する。猪槌の里が、巨大な意思の下で 旋回する。猪槌の里の外縁が、その動きに耐えきれずに崩落する。  清水の大地が砕ける。明光院のために、亀裂の入っていた地面に隕石が無数に落下する。 そして、猪槌の里の旋回運動。 「あっ」  明光院は突如怪異の闇の中に投げ出される。清水が砕け消滅した。明光院の目に、猪槌 城の姿が、巨鉄兵の姿が見える。その巨鉄兵に隕石が激突し、巨鉄兵は一瞬で鉄くずとな る。 「わしの巨鉄兵が」  清水にいた安倍も、鈍砂山にいた紗織も金梟も月の闇に投げ出される。月河の難民も月 の闇の中に沈む。猪槌の里が、大地の残骸を撒き散らしながら光の球に向かう。  明光院は月の闇の中で舌打ちをする。帰りに時間を食い過ぎたか。邪魔が入りすぎた。 ここまでか。猪槌の里は崩壊するだろう。幕府より受けた密命は果たせたと言える。しか し。  詮無きことか。  明光院は闇の中、自らの手の中に地獄門を作り、闇の中から消え去る。  真鉄たちは猪槌城の天守の中に戻ってくる。 「一重様、どのようにこの危機を切り抜けます」  真鉄が大声を上げる。大地崩壊の音が大きく、大声でなければ声が届かない。 「月と浮世の接点を幾つか抜け、新しい異土を見つける」  真鉄の腕の中、赤子の一重が答える。 「前の異土は」  山嵐が問う。 「もう使えん。完全に月に飲み込まれてしまった」  猪槌の里が、一つの光の球の中に入る。 ────────────────────────────────────────  猪槌城の中にも無数の隕石が落下してきている。 「気をつけるのじゃ。敵の来襲に備えよ。柱が折れれば、手近な板などを使い柱を補強せ よ。猪槌城を崩すな。崩せば我ら雪組も城に飲み込まれて潰れてしまうぞ」  五伏が雪組の忍者たちを叱咤する。既に命令を発する雪組頭領の血はいない。しかし人 の組織は急にはその体制を変えられない。結局最年長の五伏が臨時で指揮を取っている。 老体には堪える。五伏は息を切らす。銀狼も忙しく働いている。その神通力を使い、猪槌 城の損害を修理し続けている。 「五伏様。敵を発見しました」  下忍の報告が入る。五伏は手近な忍者たちを引き連れその場所に向かう。朱具足の男が 刀を抜いている。刀は焦熱である。男は刀を振り上げ、迫る下忍たちを撫で斬りにしてい く。 「どうした。この程度か」  火野熊は叫ぶ。既に勝ちも負けもない。銀の尖塔は崩壊し、月の都は消滅した。何より も、ななえを失ったことが火野熊の心に深い傷跡を残している。 「駄目だ。この男強い。銀狼を呼んで来い」  五伏が叫ぶ。突如、城の周囲が明るくなる。陽の光だ。足元からは合戦の声が響いてく る。何事だ。火野熊は背後の壁の穴から外を覗く。眼下では戦がおこなわれている。戦で 倒れた者が、遥か上空を見上げる。巨大な城が宙に浮かんでいる。戦場には、光が、植刃 が、爪牙が、曹沙亜が立っている。 「これはどういうことだ」  火野熊は狼狽する。 「五伏殿、敵はいずこに」  銀狼が部屋に飛び込んでくる。不意を突かれた火野熊は、銀狼の攻撃で足を滑らせ猪槌 城の外に落下する。 「次の接点に飛ぶ」  一重の言葉と共に猪槌城がその時代から、場所から転移する。光が、植刃が、爪牙が、 曹沙亜が戦場から消える。月と浮世との接点を使い、時空転移を繰り返し、隕石雨を避け るのだ。火野熊はその時代に取り残される。 「死ねっ」  戦場の兵士が火野熊に刀を振り下ろす。火野熊はその兵士を一刀の下に叩き斬る。その 装束から見て、地方豪族の頭領か何かであろう。戦場は人が入り乱れている。若い兵士が 火野熊の下に駆けてくる。 「猪熊様の仇」  火野熊はその兵士も斬り殺す。  猪熊。  火野熊は最初に斬り捨てた兵士の顔を見る。その顔は火野熊と瓜二つであった。新たな 兵士が迫る。火野熊はその兵士を組み伏せ、刀を突きつけ問う。 「今はいつだ」  兵士は必死に命乞いをする。 「年は、月は」 「ひい、分かりませぬ。確か年は天文何年だかで月は長月」  戦国時代である。呆然とする火野熊を押し退け兵士が立ち上がる。その兵士を火野熊は 叩き斬る。馬に乗った指揮官が火野熊の横で声を上げる。 「名は」 「火野熊」 「そうか、お前が猪熊か名は聞いておる」  後で来いと言い残し、その騎馬武者は戦場に消える。  昔に戻った。火野熊は辺りを見廻す。今がもし戦国時代ならば、再び猪槌の里へ行くこ とができる。若返りの薬を奪い、不老の術を得、徳川の時代まで生き、猪槌の里に至れば 再びあのとき、あの瞬間に戻れる。そうすれば、今度こそはななえの手を取り、死なせず に済むだろう。  今度こそ。その言葉の不思議な響きに火野熊は気づかない。火野熊、いやこの時代では まだ猪熊と名乗っている武人は戦場を駆ける。生き長らえるために様々な職業に身をやつ し、再び猪槌の里に至るときは盗賊となっているに違いない。  猪熊は戦場を駆ける。 ────────────────────────────────────────  猪槌の里と猪槌城は無数の時と場所を渡り、月の都の残骸を避けて行く。 「一重様。新たな異土は見つかりましたか」  目まぐるしい転移の中、真鉄は五臓を引き裂かれんばかりの吐き気を催す。 「もう少しじゃ。もう少しでわしが神として君臨する約束の地が見付かる」  天守の最上階には真鉄と一重しかいない。山嵐は階下に白梅を探しに行っている。鉄馬 との激突後、鉄馬もろとも猪槌城の壁に突っ込んだ所までは覚えている。もしや生きてい るのではないか。山嵐は、雪組の忍者たちに城の道を聞きながら、その場所を目指す。  部屋に入る。部屋には五伏や銀狼、雪組の忍者たちがいる。部屋の端には、鉄馬が横た わっている。その鉄馬の横に血まみれの少女が倒れている。山嵐は少女に駆け寄る。  山嵐は恐る恐る白梅の頬に手を触れる。温かい。生きている。しかし、顔面は蒼白だ。 「待て、動かさない方が良い」  銀狼が山嵐を止める。銀狼は白梅に近づき両手をかざす。銀の雪が白梅に降り注ぐ。白 梅の顔に紅がさす。唇が動き、まぶたが開く。 「白梅」  山嵐は白梅の顔を覗きこむ。滑稽なほど慌てている。白梅はまどろみの中で山嵐の顔を 見上げる。  白梅の瞳の中に、山嵐の姿がだんだんとはっきりしてくる。その姿が何とも気の毒で、 白梅は思わず笑みを漏らす。 「白梅、大丈夫か」  白梅は何だか嬉しくて、可笑しくて忍び笑いを漏らす。その瞳には涙が浮かんでいる。 山嵐もその様子を見て笑い声を上げる。安心と、哀しみと、前途への希望、不安が入り混 じり、とめどもなく涙が溢れてくる。山嵐と白梅は抱きしめ合う。抱きしめ合い、愛の言 葉を囁く。  雪組の忍者たちも泣き崩れる。長い戦いが終わったのだ。  月の都人に勝ったのだ。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■第15話「残月」 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  夜更けである。江戸から京に至る東海道の旅行者も、この時分になるとそのほとんどが 宿場の中に身をひそめている。宿場町から離れた場所では人家も無く闇が広がっている。 闇の上には月があり、月明かりだけが山河の光景を照らしている。  中央には道がある。右手は田、左手には山。田の間には川が流れ、山に登る手前には松 の林が並んでいる。  その道を一人の老人が行く。東から西へ、京への旅行者であろうか。明かりも持たず、 だが足取りは確かである。  江戸の大火の日の明け方、流星があったことを知る者は少ない。月から降り注ぐ無数の 流星が一部の者たちに目撃された。あれは月のかけらに違いない。そう言う者たちもいた。  その大火の日、老人は江戸の町に流れ着いた。そのときはまだ若者であった。  火災に合った者たちを救うことに功あり、その後、助けられた者たちの好意により江戸 にて長屋住まいを始める。老人の名は鎌井と言う。浪人である。  珍しい姓である。妻も子供も持たなかったために、その後の歴史では見ることはできな い。  鎌井は江戸に住まい、神隠しや怪奇談を聞くたびに、その現場に赴くことを常とした。 他の者には見えぬ妖怪を見、捕まえることしばしばであったために、多くの者が怪異な話 をこの男に持ちこんできた。  渡りの能力が幸いしたのだろう。気脈の密度の濃い場所には、光をまとった妖怪が発生 しやすい。妖怪たちは銀の光をなびかせ、あまりにも早く動くがために、神出鬼没に見え る。そのような場所では渡りが使えるために、鎌井は難なく妖怪を取り押さえることがで きた。  妖怪の多くは異能の力を持った人間や動物であった。その度に、鎌井は猪槌の里への接 点を探していたのだが、終ぞ見つけることはできなかった。  江戸湊の沖合いの島は、大火の後、消えてなくなっていた。京の近くの万字賀谷は、そ の痕跡すら残っていなかった。猪槌の里は、まるで元々無かったかのようにこの世から消 え去った。  老人の歩く道には鈴虫の声がある。秋である。既に数十回の秋を迎えた。今回の旅は、 京で百鬼夜行が出たという話を聞いたからである。もしや、猪槌の里への道が開いたのか。 老人は半ば諦めながら、はやる気持ちを鎮められないでいる。それがために、夜も歩き続 けている。  老人は歩き続ける。景色に一人、言葉も発さず歩き続ける。  今の世で、誰一人老人の心は分からぬだろう。失った故郷はどこへ行ったのか。老人は 止まる。ふと空を見上げる。  空の闇は高い。  浄闇の景色の中、空には、無常の月が輝いている。  猪槌城 完 弐千年九月参日 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- 今回の結果 ■神通力の獲得 ゲームが進んでいく中で、キャラクターは「怪異」(超常的な不思議な現象)に巻き込ま れることがあります。キャラクターは「怪異」に出会うと、「五行の神通力」を身につけ ることができます。どの五行の神通力を身につけたかはマスターから宣言します。 ■負傷 キャラクターは、マスターより負傷段階を宣言されることがあります。負傷には、重症、 致命傷、能力減退の3種類があります。 土亘:死亡 鴉問:死亡 ななえ:死亡 東雲:死亡 吉野秀華:死亡 修羅:死亡 蝉雨:死亡 観影:死亡 向日葵:死亡 彩花:死亡 紅松:消滅 風幻:死亡 白梅:重傷 安倍孔明:死亡 紗織:行方不明 金梟:死亡 ■アイテムの獲得 キャラクターは、マスターよりアイテムの獲得を宣言されることがあります。アイテムは、 通常の行動の中で使用することができます。