●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●           PBeM     資料                遊廓 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●                                     柳井政和 ver 0.01 1999.12.26  吉原遊廓を参考に資料をまとめています。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■花魁(おいらん) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  新造や禿(かむろ)が、自分の姉女郎を「おいらんの姉様」と呼び習わしたのが「おい らん」になった。やがて吉原の遊女一般を「おいらん」と呼ぶようになる。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■太夫(たゆう) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  太夫といわれるのは大見世の中で、一番美貌で詩歌音曲、書道、花道、香道、囲碁、茶 道を厳しく仕込まれた遊女のこと。また、特にその中の一芸に秀でていなければならなか った。太夫のことを、見世ではお職(おしょく)と言った。太夫は、もともとは芸能人の 称号で後に最上位の遊女を指すようになった。  その学識、遊芸のほどは、諸大名の奥向き、公家の子女をもしのいだ。吉原遊女独特の 意気地と張りは、そうした高い教養をもつ自信から生まれた。  太夫は、夕刻に遊女達が顔見せに見せにならぶとき、奥正面の上座に座る。また、太夫 には客を振る権利が存在した。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■禿(かむろ) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  禿は7、8歳頃、遊女屋に奉公に出された少女。年季は7、8年。花魁に従い、身のま わりの雑用をしながら、廓内の週間や諸芸を習った。  禿や新造を育て、教養を身に付けさせるのも、花魁の大切な仕事の一つであった。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■振袖新造(ふりそでしんぞう) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  禿(かむろ)が13、14歳になると姉女郎のはからいにより新造となる。この時期より衣 服・髪型を大人びたものとし、姉女郎のもとで接客法を見習いはじめる。  新造という呼び名は、遊女を新しい船に見立てたもの。ふだんは赤味勝ちの振袖を着て いたので、振袖新造と呼ばれた。振袖新造は花魁のようにお歯黒をせず白歯だった。  姉女郎の客が重なったときの代役は、振袖新造の重要なつとめ。ただし性交は許されな い。遊女として独立する見込みが立ったとき、楼主が姉女郎とはかって遊女として格づけ される。これを突き出しといった。突き出しの年はだいたい17、18歳。  また上級遊女としての将来性が見込まれる禿は、楼主のもとで行儀・芸事の英才教育を 受けた。これを引込禿という。この遊女養成システムにより、吉原は江戸庶民の「あこが れ」であり続けた。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■大門(おおもん) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  大門は吉原唯一の出入り口。板ぶき屋根に、木地のままの柱の冠木門(かぶきもん、門 柱の上部に横木をわたした門)で意外に質素であった。  大門は夜明けとともに開けられ、夜四つ(午後10時)には閉められた。その後は潜り門 より出入りする。門限を厳しくしてあったのは、幕政初期の大阪浪人に対する警護の名残 である。  大門から廓内へは駕籠のままは入れない。そのため、遊客は大門に向かって右側にあっ た釣瓶そば屋「増田屋」の前で乗り物をおりた。  大門を入った左手には面番所がある。ここには、町奉行所の隠密廻り同心二人と手下の 岡っ引がつねにおり、不審者を見張っていた。その向かい、大門右手には四郎兵衛会所が あり、そこでは番人が遊女の逃亡を監視した。  遊女が大門を出るためには抱え主から許可をもらい、通行を認めた切手を所持する必要 があった。一般の女もまた茶屋の発行する切手がなければ大門をくぐることはできなかっ た。しかし、男たちの通行は自由であった。