●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●           PBeM     資料                城 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●                                     柳井政和 ver 0.01 1999.12.26 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■城の作り方 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  城を作るには、領国内のもっとも堅固な土地を選び、地勢、地形を勘案し、城地を定め る。これを地取りという。次に地勢、地形にあうように城の曲輪(くるわ)の置き方など の配置を決める。これを縄張りという。そして実際の築城にはいる。堀を掘り、石垣等を 築く普請をし、天守、御殿、櫓、城門等の建築を行う作事をして城は完成する。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■櫓(やぐら) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  櫓は矢を並べておいて戦争時にそれを射るための建物のことで、古くは「矢倉」「矢蔵」 などと書いた。櫓には大きく分けて「隅櫓」(すみやぐら)と「多聞櫓」(たもんやぐら) の二種類がある。  隅櫓は、曲輪の石塁の隅に上げられる櫓。一層、二重がほとんどであった。江戸城の富 士見櫓は隅櫓である。富士見櫓は、明暦の大火で江戸城の天守が焼失して後、天守の代用 とされた。  多聞櫓は、塁上に長屋作りの建物を構えたものをいう。単層のものがほとんど。松永久 秀が多聞山城に毘沙門天を祭るための建物を建てたのが始まり。江戸城の富士見多聞は多 聞櫓である。通常は倉庫となるだけのものである。天守群を連結するために作られる多聞 櫓もあり、この場合「渡櫓」とも呼ばれる。  また、城の構成物は複合的に存在するものも多い。城門の両側の石垣の上に渡櫓を乗せ、 石垣の間に扉を設置したものを櫓門という。この形態は桝形の二の門を形成する。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■城門 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  城の出入口にある城門は、敵の攻撃が集中するため、様々な工夫が凝らされた。用途に よって、大手門、搦手門(からめてもん)、不開門、不浄門、水門、太鼓門、鉄門、食違 門、潜門と呼ばれた。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■桝形(ますがた) ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  桝形は城の大手門を形成する重要な要素であり、城で最も防御を要する虎口に作られた。  甲州流兵学によると「五八の桝形」が良いとされた。これは騎馬武者なら30騎、徒歩武 者なら240人を収容できる広さである。慶長以後の城では、これよりはるかに大きい枡形 も作られた。  枡形には二つの役目がある。第一に敵の直進進行を防止する役割を担った。ここで立ち 往生させ、周りから弓矢、鉄砲等で集中攻撃を加えた。  第二に出撃、もしくは帰城時に兵士を待機させる「武者溜り」の機能がある。まず、外 門を閉じ内門を開いて城兵を枡形に入れ。そして内門を閉じて外門を開き出撃する。帰城 するときはその逆を行う。これは出撃時には隊形を整え、帰城時には不審者のチェックと いった機能を果たした。  形式は、外門を入って右へ折れて内門へ入る形態が最も多い。江戸城の大手門、外桜田 門、桔梗門、清水門、田安門は右折れの桝形である。 =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=--------- ■ ■■■天主台 ■ =---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------=---------  天守閣は城の一部であり、「天守」とは「殿主を守る建築」という意味である。殿主と は城の中心になる建物群のことで、その中の最も中心となる建物の上に望楼を置いた。物 見の目的で作られたものだが、次第に城を象徴する建物となっていった。この「殿守」が 「天守」と変化した。  平安時代、中国の町全体を囲む城壁を参考に、平城京、平安京といった都城が作られた。 しかし、日本では、山、川、谷が多いため完全な都城制がとれず、守るのに便利な山の上 に城を作るようになった。戦国時代を通じて、そうした城が大勢を占めた。そして江戸時 代になり、合戦をおこなうための城が不要になるにつれ、平野部に城が作られるようにな り、権力の象徴として天守閣が大きく華美になっていった。