● 本のお話 ●

● 2006.08.13 おくのほそ道 (松尾 芭蕉(著) 久富 哲雄 (翻訳))

おくのほそ道
松尾 芭蕉(著) 久富 哲雄 (翻訳)

 私は詩的人間ではない。

 小学生の頃に百人一首の全解説を読んだときも、中学高校で和歌や短歌、俳句を学んだときも、詩の世界に酔うということはついぞなかった。

 その私が、唯一よいと思った詩がある。芭蕉の俳句だ。

 子供時代のその経験は、長く私の心のなかでくすぶっていた。そこで2004年に「おくのほそ道」(松尾 芭蕉(著) 久富 哲雄 (翻訳) 講談社学術文庫)を買って読んだ。

 この本は良書だった。

 古典の文庫は、往々にして注釈を小さい文字で詰め込んでおり読みづらい。

 しかしこの本は注釈の文字が大きく、構成が分かりやすく、レイアウトにも配慮した編集が行なわれており非常に読みやすかった。

 読んでみて分かったことがある。芭蕉の俳句は、一流の腕を持つカメラマンが撮った写真のような印象を持つ。それは、景色を鋭敏な感覚で切り取り圧縮したようなイメージだ。

 芭蕉の俳句は、読んだあと、封じ込めていた情景が一気に膨らむように目の前に広がる。

 そして、「これしかない」と思えるぶれのなさで眼前に景色が固定される。

 この感覚は、名画を見たときの体験に似ている。詩を愛さず、絵を愛す私が芭蕉の俳句にだけ心引かれた理由が分かった気がした。



 「おくのほそ道」の本文は肩透かしを食らったように短い。

 解説や注釈を除けば、それはうすっぺらな冊子程度である。

 書いてある言葉もそれほど現代から離れていない。解説など読まなくとも、ある程度は意味が分かる。

 私は本文を読み、語釈や解説などに目を通し、再度本文を確認しながら全編読み進めた。

 その結果分かったことがいくつかある。

 「おくのほそ道」は紀行文の形を借りた文学であること。そして、この作品にはドラマがあること。最後に、松尾芭蕉という人物が重度の文学マニアだったことである。



 「おくのほそ道」は、芭蕉がたどった旅程をそのまま書いた文章ではない。

 「この日に、ここを訪れれば、最も文学的効果が高い」と芭蕉が考える日に合わせて日程が変えられたり、前後が入れ替えられている。

 この作品は、「歌枕の旅とは、こうあるべきだ」という芭蕉の理想を体現した内容になっている。

 芭蕉が書きたかったのは記録ではなく文学だ。

 事実を越えた、観念の上での事実がこの作品上にはある。



 ドラマについても触れよう。本作は大きく分けて二つの部分から構成される。

 第一部が太平洋側、第二部が日本海側だ。

 前半、芭蕉は歌枕の旅に情熱を燃やしている。彼の目に映るものは、全て日の光の下で輝いていると言ってよい。

 明るいイメージが全体を覆う前半は、太平洋の印象を強く感じさせられる。

 対して後半は全体的に暗い色彩に支配される。

 病気になった曽良と一旦別れての一人での旅路。夜のシーンが多いのも、この日本海側の特徴ではないかと思う。

 そして物語は曽良との再会で締め括られる。

 「おくのほそ道」は単純な旅の記録ではない。出会いや別れなどのドラマが内包されている。



 最後に、芭蕉の文学マニアさについて書いておく。

 本書を読んで、何よりも驚いたのはその注釈だ。

 ありとあらゆる場所で、過去の文学を本歌取りした表現が使われている。

 当時の文学というものが、基本的には過去の作品に根ざした表現を使うものであったとはいえ、そのマニアックさには酩酊感を覚える。

 そして芭蕉という人が、過去の作品の深い研究から、自身の文学を練り上げていったことが分かる。

 彼の俳句が決して独り善がりなものではなく、深い経験と研究、高度なバランス感覚の上から成り立っているのだということが、私にも感じられた。



 本書を読み終わったあと、俳諧・俳句というものに興味を覚えた。そして少し歴史を調べてみようと思った。

 なぜ歴史なのかは理由がある。

 正岡子規について知りたいからだ。司馬遼太郎の傑作「坂の上の雲」の主人公の一人である正岡子規。俳句や短歌に革命を起こしたと言われる彼だが、その俳句を読んでも私は何の感動も覚えなかった。

 なぜ感動しなかったのか。そして、なぜ彼は重要人物なのか。

 そして、俳諧・俳句の歴史の上で、私が感動した芭蕉の位置付けはどうなっているのか。

 今一度、歴史という視点で、その謎に迫ってみたい。そういった欲求が私のなかでくすぶり始めた。

 そしてこの欲求を満たすために、私は2006年の5月に「俳句の世界」(小西 甚一)を読むことになった。

2006.08.13 柳井政和


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