● 本のお話 ● |
● 2006.08.28(月)01 入江亜季「群青学舎」1巻、「コダマの谷」 8月31日発売先週末に、入江亜季の「群青学舎」1巻、「コダマの谷」が届きました。 「群青学舎」は、作者が「ビーム」で連載デビューしたあとの最初の単行本。「コダマの谷」は、それ以前の旧作をまとめた単行本です。 流れとしては、森薫が「エマ」の連載時に、「シャーリー」を出したのと同じものだと思います。編集部が「押している」ということが、この販売戦略から見えてきます。 入江亜季「群青学舎」1巻、「コダマの谷」 以下に、単行本各話の初出年月日とタイトルをリストにしておきます。
というわけで、週末に何度か読んだので感想を書こうと思います。以下、口調を変えます。 ● デジャブこの週末は、オール・ナイトのイベントや、友人主催の飲み会があり時間がなかったため、届いたマンガを持ち歩き、空いた時間を見つけて本を読み進めた。 最初に手に取ったのは「群青学舎」。品川駅構内のカフェで読書開始。 クロワッサンを食べ、アイスコーヒーを飲んだあと、ページをめくり、最初に感じたのは微かなデジャブ。「マンガに対する感想」を抱く前に、絵を見た瞬間に「どこかで嗅いだことのある匂いや空気」を感じた。 「これはいったいどこで体験した感覚だっただろうか?」 そう思いながらページをくっていく。 第一話の「異界の窓」を読んだときには、それが何であるのか分からなかった。第二話の「とりこの姫」を読んだときに、高校時代にいろいろと読んだ少女マンガだろうかと思った。 「いや、しかし違う」 何か近い記憶を持っているのだが、それはその頃に読んだ少女マンガとは明らかに違う。 入江亜季という作者が指向しているのは「物語」ではない。 そこには、少女マンガには必ずあるはずの「物語」がない。 先ほど「匂い」や「空気」と書いた言葉が直感的に正しい気がする。いったいそれは何か? 第四話の「花と騎士」を読んだときに、これは少女マンガではないと確信する。それと同時に、先ほど引っ掛かった「高校時代にいろいろと読んだ」という言葉が心のなかで広がっていく。 その問いの答えは、第六話の「森へ」を読んだときに出た。 「すっ」と、頭の上から「ラポート」という言葉が下りてきた。 「ああ」と思い、疑問は氷解する。 「この匂い、空気は、ファンロード別冊の「イラスト・ラボ・スペシャル」で嗅いだ物だ」と理解できた。 ● イラスト・ラボ・スペシャル「イラスト・ラボ・スペシャル」という本の存在について知っている人は少数派だと思う。 しかし、マンガの知識をある程度以上持っている人ならば、「ファンロード」という雑誌の存在は知っているはずだ。 「ファンロード」はマンガ・アニメ系の投稿誌だ。多数のイラストが紙面のいたるところに載っている。この雑誌で人気を博し、プロデビューして現在活躍しているマンガ家は多い。 「イラスト・ラボ・スペシャル」は、この「ファンロード」の人気絵師たちの絵を集めて発売した画集である。B5版サイズで、一ページ一枚。絵を描く上での情報も載っているが、主に絵を観賞するという側面が強い。 どのような絵が載っているのか? これが少し変わっている。 絵が上手いのは当然なのだが、一種独特の「匂い」や「空気」を持った絵が並んでいる。 「匂い」や「空気」とは何か? それは、絵から情感を感じ取らせる類いのものである。 絵を「物語のための記号」として受け取らせるのではなく、絵を通して「胸から空へと吹き抜ける風を感じさせる」。そういった絵が連続して楽しめる。それが「イラスト・ラボ・スペシャル」の最大の魅力だった。 このシリーズは好評を博したのか、順調に巻数を重ねていき、発売されるたびに私は購入していた。惜しむらくは神戸での引っ越し時に処分してしまったことだ。持ち続けていたならば、一年に一度くらいは目を通していただろう。 「絵に記号以上の何かを求める」 これは、実は読み手側にある一定以上の観賞眼を要求する。読み手が積極的に作品に対して心を傾け、読み取ろうとしなければ読み取れない作品になる。しかし、それが読み取れる人間にとっては、それは心地良い快楽になる。 入江亜季のマンガを読んだときに感じた「匂い」や「空気」というものは、その類いのものだった。 そしてその思いは、二冊目の「コダマの谷」の巻末まで読み終わったときに「間違いない」という結論に至る。 「『フクちゃん旅また旅』は、雑草社『ぱふ』2002年6月号~2004年4月号」 『ぱふ』とは、マニア向けマンガ情報誌だ。この初出情報を見て、入江亜季のマンガを覆っているトーンと、歩んできた道程に、「メジャーではなくマイナーを指向してしまう作者の性向」を感じた。 ● メジャーとマイナー多くの場合、作品はメジャー指向とマイナー指向に分けられる。 これは、メジャーがよく、マイナーが悪いということではない。どちらにも価値がある。また、完全にメジャー、完全にマイナーというものはなく、それは程度の問題だ。 入江亜季のマンガを一読して思ったのは、この作者はマイナー指向であり、現時点でマイナーで輝くことはあっても、メジャーで輝くことはないということだ。 私が使う「メジャーとマイナー」という概念を掴んでもらうために、週末に友人と議論した「アートとデザイン」の話を少ししたいと思う。 ● アートとデザイン金曜の夜。横浜のクリエイターが集まる交流会のオール・ナイト・イベントに私は参加した。そのときに友人から声を掛けられた。 彼は、私が書いている映画の感想をいつも読んでいるらしく、「柳井さんの批評は面白い」と言った。 そこで私はすかさず、「あれは、批評ではなく感想だ。批評と感想は厳然と違うものだ」と答え、批評とはどういう条件を備えていなければならないかを、産業としての立場、そして文芸史の立場から返答した。 そういった経緯から話題は「芸術」に移行した。 相手が「横浜トリエンナーレ」という芸術祭に積極的に関わっていたこともあり、現代アートの問題について語り合ったのち、ふと彼が「アートとデザインの関係について、最近こういった話をした」と話題を振ってきた。 「アートとはストレスを掛けることで、デザインとはストレスを減らすこと」 私はその話を受けて、「その“ストレス”は逆方向に向かって打ち消し合うベクトルではなく、同じ方向を向いた相補的なものであるはずだ」と答えた。 抽象的な概念は、具体的な視覚モデルに変換しなければならない。そうすることで、議論は共通認識の上に活性化させることができる。 私はすぐにその概念を一つの視覚モデルとして提示した。 「アートとはマリアナ海溝であり、デザインとは潜水艦である」 マリアナ海溝とは「見たことのない世界」の象徴であり、潜水艦とは「そこに人を運ぶ技術」の象徴だ。 アートとデザインがこの二つの要素だけで語れないことは承知の上で、二つの言葉に限定的な定義を与えることで議論を進めやすくした。 アートは、普段見たことがなかったり、気付かなかったりした世界を提示し、相手にそのことについて考えさせたり、そのことで相手の心を揺さぶることである。 デザインは、そこに至るための障害を克服し、人の心をそこまで送り届ける技術的な手段である。 そして、深海の、より深い世界(アート)を見せるためには、より高い技術(デザイン)が必要になる。 剥き出しの深海に人を放り込もうとすれば、圧力で死ぬ(拒絶反応を起こす)。それ以前に、そもそも人は、そんなところに行こうとはしない。 話はこのような視点を軸に、様々に派生していった。 ● メジャーとマイナー その2話をメジャーとマイナーに戻す。 メジャー指向とは、「潜水艦付きでマリアナ海溝を提供すること」である。 マイナー指向とは、「マリアナ海溝を直接見せようとすること」である。 これは旅行に例えると分かりやすい。メジャー指向とは「ツアー旅行」で、マイナー指向とは「個人旅行」だ。 どちらがよいということはない。しかし、ターゲットは大きく異なってくる。 マンガにおいてメジャーに必要な技術は、結論だけ言えば「物語およびそれに付随する技術」である。絵に関するものではない。 そのため、「絵の技術」を「物語の技術」より上に置いている作家は、本質的にマイナー指向となる。 それは、「絵を通した世界」を見せているのであって、「その世界に至るための道」を切り開いていないからだ。 そこに自力でたどりつける人だけが、「作者の見せたい世界」を観賞することができ、それ以外の人は脱落する。 見ることができた人は、その作者の強烈なファンになるかもしれないが、その数は少ない。 「マイナーで輝く」というのは、そういった成功の仕方になる。 世の中には、こういったマイナーな作品を鑑賞できる層が一定数いる。 先ほどの「マリアナ海溝と潜水艦」の話で言うならば、「マイナーな読み手」とは「自力で潜水艦を建造する人たち」のことだ。 これは、特殊な人間たちだ。 入江亜季という作家は、「絵を通した世界」を見せようとしている。物語に対する興味よりも、絵に対する興味が明らかに勝っている。 ● 入江亜季の絵に対する興味入江亜季のマンガを読んで感じたのは、この作者の興味のベクトルは、現時点で「画力の劇的向上」という磁力に引きずられているということだ。 二冊の単行本を読んで、ここ数年で画力が凄まじいペースで成長したことが分かった。 「絵で何かが表現できる」 その喜びが、彼女の歩んできたマンガ人生とあいまって、絵に対する過剰な力配分になっているのではないかと感じた。 「今、絵を描ける自分が嬉しい」 私には、絵からそういった感情が伝わってくるように思えた。 ● 宮崎駿の書く台詞絵に自信を持つ人は、絵で物事を説明しようとする。 だが、マンガは絵ではない。 絵で説明できることを絵で説明するのでは不充分だ。絵を読み解くには訓練が必要だからだ。 描く対象が具体的な物ならば絵で説明すればよいだろう。だが、対象が抽象的なものならば、絵で説明しても、多くの人は理解しようともしない。 最近、私は「風の谷のナウシカ」のDVDを買って見た。DVDには、庵野秀明と片山一良によるオーディオ・コメンタリーが入っていた。オーディオ・コメンタリーとは、映画の副音声として、監督や解説者の説明が入っているものだ。 そこで興味深い話があった。 庵野秀明いわく。「宮さんは、あんなに絵が上手く、凄い絵を描けるのに台詞で説明するんだよな。画面を見れば“凄い立派な王蟲”だと分かるのに、ナウシカに『凄い王蟲』と喋らせる。自分の絵を信用していない。そこが宮さんの凄みだ。絵は記号にしか過ぎないと分かっている」 そういった主旨のことを言いながら感心していた。 マンガとアニメは違う。しかし、メジャーな作品に必要なのは、こういった細かな技術だ。 そして、こういった「物語の技術」の積み重ねが物語の厚みや深さを増す。 入江亜季のマンガを読みながら、ページ数に対する物語の密度が足りないと感じた理由は、そういう点に興味が行っていないためだと感じた。 ● メジャーからマイナーへの移行マンガ家が絵に偏重し過ぎることは危険を伴う。 過去に、そういう偏向を来たして、マンガの面白さを失った作家は何人もいた。 そのなかで、私がリアルタイムで体験した代表的な存在を二人上げるとすると、寺沢武一と木城ゆきとだ。 寺沢武一はCGに意識が行き過ぎたせいで、マンガという総合芸術のバランスを崩壊させてしまった。木城ゆきとは「銃夢」を終えたあと、「水中騎士」で物語を手放した(現在はマンガに戻って来たようだが)。 マンガ家が絵に偏重し過ぎると、「絵で何かが語れる」と考えてしまう。 しかし、マンガは「絵だけで語るものではない」。少なくとも、絵に偏重したアプローチを使った瞬間に、読み手の読解力を要求する。 それはメジャーな舞台で選択すべき手法ではなく、マイナーな舞台で選ぶべき手法だ。 ● マイナーがメジャーに化ける瞬間逆に、マイナーがメジャーに変わるところを見るときもある。 最近(といっても、だいぶ前だが)、その節目を見たのは荒川弘の「鋼の錬金術師」である。このマンガは、連載中に、作者がマイナーからメジャーに化ける瞬間が明確に見えたという点で、珍しい作品だった。 単行本二巻、錬金術で子供を動物と融合させる話で、この作者はマイナーからメジャーに化けた。 この話以降、「鋼の錬金術師」は絵のマンガではなく、物語のマンガとなる。 ● マッチング話はまた少し飛ぶ。 週末に友人主催の飲み会で、マンガ家とゲーム・ディレクターと席をともにした。そのときに話題に出したのが「マッチング」という話だ。 「世の中の多くの作品は、本来受容すべき相手に届いていない」 それは「笑いの濃さ」という話を引き合いに出すと分かる。「笑いは、少数にしか理解できないものほど、濃くて面白い」 世の中には、メジャーの手法では人を楽しませることが難しいジャンルがある。 それは、「現在の科学力では宇宙にツアー旅行に行けない」ことや、「ジャングルの秘境に修学旅行に行くのが難しい」ことと同じだ。 これらの旅行は少数の人々しか楽しめない。しかし、興味のある人たちにとっては確実に面白い。 作品にもそういったものがある。 これは興味の方向性だけではない。 理解力や、精神年齢によっても左右される。特定の年齢のときだけに共感できる作品や、一定層だけに受ける作品というものがある。 マンガを「雑誌というパッケージ」で読者に届けるという行為は、雑多な読者に評価を受けなければならないという宿命をマンガに背負わせる。それは、その雑誌が総合誌の色合いを帯びれば帯びるほど強くなる。 このことは、「雑誌という形態」が、そこに掲載されるマンガにメジャー指向を求めるということを意味する。 メジャーとマイナーには本来上下はない。しかし、雑誌という舞台で作品を発表する場合、メジャーの方がマイナーよりも価値が上になる。 同人誌流通の成長と、インターネットによるネットビジネスの拡大により、「メジャーであること」が作品を頒布する条件ではなくなってきた。 ビジネスの世界は現在、「その人にとって必要なものをダイレクトに届ける」という方向に進化している。 マッチング・ビジネスの時代だ。 商品のマッチングで成功している会社の例としてはAmazonがある。この会社では、本を買えば買うほど、その人が好む本の傾向を分析して、おすすめの商品を紹介してくる。 また、人のマッチングで成功している会社もある。転職情報サイトや、出会い系サイトは、人を対象としてマッチング・ビジネスを行なっている。 情報の流通速度と、処理能力の向上により、世界は大規模なマッチングを行なえる時代になってきた。そのために、マンガも「雑誌」という縛りから脱却して、読者が望むものを受容できる時代になりつつある。 とはいえ、マンガの世界ではまだ当分(十年単位で)「雑誌優位」「メジャー重視」の時代が続くと思われる。 ● 入江亜季のマンガについていろいろと寄り道をしながら話を書いてきたが、入江亜季のマンガを読んだときに思ったのは、「絵が上手いがために、作者の現在の立ち位置が鮮明に浮きあがって見える」ということだ。 それは、メジャーを指向するのならば、問題になるだろう方向性だ。 物語の不在とまでは言わないが、作品が絵に偏り過ぎている。また、一言で語れるような売りにも乏しい。 逆に、私が嗅ぎ取ったような「匂い」や「空気」に、久しく飢えている人には触れてみる価値がある作品になっている。 今年の春先に、小説家の友人にあったとき、こういう話を聞いた。 「文学は表現そのもので、エンターテインメントは構造だ」 その視点で言うならば、入江亜季のマンガは文学である。絵という「表現」を指向しているからだ。 ● まとめ二冊の単行本を読了して、もう一つ感じたことがある。その成長の速さだ。 定規を使い、七十度の角度で直線を引いたように進歩のあとを見せている。 連載を行なっている「ビーム」という雑誌はメジャー誌ではない。そのため、「マイナーのなかで輝く」タイプの作品が多くなる傾向がある。雑誌の発行部数と作品の方向性は如実にリンクする。 さらに、雑誌内でも、メジャー指向の作品、マイナー指向の作品という棲み分けが存在する。 今後この作者が、「進歩のベクトル」をマイナーに向け続けるのか、メジャーに転換するのか興味がある。 可能なら、「匂い」や「空気」を持ったままメジャーになるという離れ業を実現して欲しいものだ。 ● 参考リンク「群青学舎」1巻(amazon) 「コダマの谷」(amazon) |