● 本のお話 ●

● 2007.05.04 日本文学史 (小西甚一)

日本文学史
小西甚一

 2004年に、松尾芭蕉の「おくのほそ道」を読んだ私は、俳句というものに興味を持った。

 そして、適度なページ数で、上手く俳句について解説している本はないだろうかと思い、本屋の棚を物色していて一冊の本に出会った。

 小西甚一の「俳句の世界」である。

 2006年の5月にこの本を読み、その文学や芸術に対する視点に非常に心を動かされた私は、氏の他の本も読んでみたいという欲求に駆られた。

 そして購入したのが、「日本文学史」という242ページの薄い本である。

 2006年の8月に読んだこの本は、私の期待を裏切らない良書であった。



 小西甚一の視点はこうである。

 人間は、永遠への憧れを持つ。そして、それを目指すアプローチは二つある。それは、「完成」と「無限」である。

 「完成」とは、精緻に練り上げられた究極の一点を目指すものであり、「無限」とは、留まるところを知らぬ変転を指向するものだ。

 この全く違うアプローチを、小西甚一は「雅」と「俗」という言葉で説明する。そして、この二つの視点でもって、文学史を整理していく。

 少し抽象的になり過ぎているので、具体的な例を書く。



 「雅」とは、ピラミッドの石を積み上げて行く作業に似たものだ。

 多くの人たちが、互いの約束事を熟知して、その約束事の上に、精緻で、余人の入り込めない、芸術世界を作り出す。それが「雅」の芸術である。

 その代表例は「和歌」だ。

 先人の残した歌を下敷きにし、その上に新しい表現を被せることで、次の芸術を生み出す。

 それは、絢爛豪華な芸術ではあるが、多くの約束事を知った人間にしか入り込むことのできない、非常に閉ざされた芸術世界である。



 それでは、「俗」はどうだろうか? 「俗」は、探検家が新しい発見を探し求める様子に似たものだ。

 これまでにない新しい物を求め、表現や主題を開拓していく。「俗」の芸術は、外へ外へと広がろうとする運動である。

 その代表例が「俳諧」であると小西甚一は言う。

 今までにない新しい表現、新しい視点、新しい主題を開拓していく。そして、既成の概念を壊していく。そうやって進んでいくのが「俗」の芸術世界である。

 この「俗」は、メインカルチャーに対する、カウンターカルチャーとでも言うべきものである。



 このように、小西甚一は、文学の方向性を「雅」と「俗」に切り分ける。

 いや、文学について語るだけでなく、氏は、この「雅」と「俗」の視点で、芸術全般を語っていく。

 この本は、「文学史」という名前を借りた、「芸術全般」に対する「歴史の推移を語る本」である。



 小西甚一は、芸術を「雅」と「俗」で切り分ける。

 しかし実際は、このどちらかだけに偏った芸術はいびつなものとなる。

 既存の世界の完成度を高める場合でも、何らか新しい表現は必要だし、新しい世界を求める場合でも、それを理解するために、過去の作品は知らなければならない。

 「雅」と「俗」の傾向は、どちらに偏っているかだけであり、そのどちらもが芸術には必要になってくる。

 そして、「雅」と「俗」の両方を兼ね備えた、高度な芸術を目指すこともできる。



 そういった「雅」と「俗」の、どちらにも共通していることがある。

 それは、「芸術を理解するためには、過去の芸術を知っていなければならない」ということだ。

 「完成」を目指す「雅」の芸術を理解するためには、「これまでどういった作品が作られてきたのか」を知っていなければならない。

 また、「無限」を目指す「俗」の芸術を理解するためには、「これまでとどう違うのか」を分かる必要があり、やはり、「これまでどういった作品が作られてきたのか」を知っていなければならない。

 つまり、芸術を真に享受するためには、過去の作品について、学ぶ必要があるというわけだ。

 こういった考え方を下敷きにして、小西甚一は、文学史を「雅」と「俗」のせめぎあいとして語っていく。

 その中で、個人的に大きく興味を持ったのは、近代以降、そういった芸術のあり方が大きく変わったということだ。



 近代よりも前は、芸術は一部の人間だけが享受するものだった。

 なぜならば、過去の作品について学ぶことができる人間が限られていたからだ。

 その当時、芸術を享受できる人間は、その芸術を実際に実践している人々だった。それは、実作を通して学ぶことが、最も確実な学習方法だったからだ。

 そのために、芸術を行う者は、師の下に付き、過去の作品を知り、実作をし、師に評価してもらうことにより、その芸術に対する理解を深めていった。



 そういった状況は、近代以降変わる。

 近代以降、芸術は万人が享受するものとなった。

 この背景には、市民革命による民衆の意識の向上や、国民全体の教育水準の上昇、芸術を大衆に届けるための技術の進歩などがある。

 こういった背景により、近代より前、作り手と受け手が同一だった世界は終わり、作り手と受け手は大きく分かれてしまう。

 受け手は、「雅」も「俗」も分からないまま、芸術を享受することになる。

 そして、そのことにより、これまでになかった仕事が生まれる。「批評」である。



 近代以降の、新しい芸術の形によって生まれた「批評」は、作り手と受け手の断絶を埋めるための知識や視点を提供するものだ。

 それは単なる「感想」ではなく、受け手が持っていない観賞のための知識を補うためのものである。

 良い、悪いの結論ではなく、「なぜそう考えるのか?」という、考え方の根拠を示すものだ。

 また、この「批評」は、その分野の芸術に対する知識を押し広げ、関連作品に視点を誘導するものでもある。

 このように、「批評」には、作品に対する本人の評価以前に、啓蒙の要素が必要となる。

 以降、少し「批評」について書く。



 「批評」を行うためには、前提として、その分野の膨大な知識を持っていなければならない。

 そして、実作の経験がある、もしくは実作者との交流を持ち、彼らが何を考えているのかを知っていなければならない。

 また、もし、実作の経験や交流がないならば、最低限、インタビュー記事などは積極的に読んでいる必要がある。

 そうでなければ、作り手と受け手の断絶を埋めることはできないからだ。

 そして、そういった知識の背景がないものは、「批評」ではなく「感想」に過ぎない。

 本書は、文学の歴史を通して、そういった「批評」というものの意味についても目を開かせてくれる。



 以降、さらに個人的な余談を書く。

 「感想」と「批評」は違うということは、私は以前から言っているのだが、その考えをこの本は補強してくれた。

 私はここ数年、映画の「感想」を書き続けている。

 しかし、それは「感想」であり、「批評」ではない。

 将来的に「批評」が書けるようになりたいとは思っているが、現時点では「感想」に過ぎない。

 なぜならば、まだ映画について、頭の中で地図ができるほどの本数を見ていないからだ。

 つまり、ある作品を見た時に、その作品が、映画史の中で、どういった位置付けにあるのか、私はまだ明確に言うことができない。

 それはつまり、私にはまだ「批評」ができないことを意味している。



 時々、私の映画の感想を、批評と取り違えて「そんな批評を書くな!」と苦情を言ってくる人がいる。

 しかし、最初から「感想」だと書いており、「批評」ではないことは明言している。

 そういったことを言ってくる人は、二重の意味で間違っている。

 そもそも私は「批評」を書いていない。そして、「それが批評だと思っている」のならば、「批評」というものを理解していない。

 世の中の多くの人は、「感想」と「批評」の違いを考えていない。

 「感想」と「批評」の違いについて考えたい人は、「日本文学史」を一読してもらいたい。

 242ページしかない薄い本なので、一日で読み終わることができるだろう。

 また、それだけでなく、本書は芸術や文化に対して、様々な示唆を与えてくれる。読んで損はない一冊である。

2007.05.04 柳井政和


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