PBeM 史表(しひょう)

第1回

柳井政和
ver 0.07 2004.05.11

目次

  一 舟大家

 後史表十年、春。この歴史の呼び方を知る人は、世の中でもまだごくわずかしかいない。今や大陸全土を飲みこもうとしている白大国の国王、白賢龍があらわした歴史書である史表の歴史のつけ方が、史表歴となる。後史表は、その書きはじめの年から、何年たったかをあらわしている。
 十年前、世の中の人々の無知を嘆いた白賢龍によって書きはじめられた、史表という書物は、十年の歴史をへて半ば完成された。白賢龍が書いたのは、彼が書きはじめた十年前からさかのぼること千年の歴史である。この、千年を前史表という。
 そして、その後の歴史、後史表とでもいうべき現在以降の歴史の記述を、白賢龍はある人物に託した。その人物とは、かつて建国時に共に馬を並べた親友、青聡竜である。青聡竜は、白賢龍によって、史表を編纂し、流布する役目を与えられた。そして、名を司表と改めることになる。その彼は今、大陸の東にある海都にむかっている。
 
 海都は、大陸最大の港町である。この街は、大陸を東西に貫く大河である広河が、海に流れこむ河口にあり、川を南に見る位置に存在する。海都は、商人の一族である青族が支配する、商業自治区として発展した。この町の統治は、五大家と呼ばれる商業貴族の家長たちの合議によっておこなわれている。五大家とは、この街の大商家である、米大家、布大家、塩大家、舟大家、金大家のことだ。これらの大家は、それぞれその名前の商品を寡占している。また、それぞれの大家は、その商材によって異なった性格をしている。ここでは、その五大家の中の一つ、舟大家の様子を見てみたい。
 舟大家の商館は、海都の南、広河に面した港のある場所にたてられている。この商館は、三つの建物が併設した形をとっている。
 まずは中央を見てみたい。この場所の建物は、船着場と呼ばれている。この船着場は、三階だての広大な建物だ。一階は港に隣接していて、柱がたち並ぶ船着場となっている。馬車が荷物を山積みにしても余りある高さの天井を供えており、いつも商人とその荷物が、そこかしこで見られる。人は常時多く、注意しないとまっすぐに歩けないような状態だ。舟大家は、造船、船の販売、船員の斡旋以外に、船の貸し出しや運送を、大きな収入源としている。この場所では、中小の商人たちが出入りして、自分が契約した舟が入ってくるたびに、荷を積みこんだり、おろしたりと、忙しくたち働いている。この一階の船着場では、太陽がでているあいだ中、商人たちが休むことはない。
 船着場の二階は、商人たちの商談の場所として開放されている。舟大家と船の利用契約をしている商人は無料で、そうでない商人も少ない手数料で、この場所では商談用の部屋を自由に借りることができる。契約書を結ぶ上で欠かせない証文師や、両替商、倉庫の管理官などの、専門職業のものたちも常駐しており、全ての交渉を、この船着場の二階で完結させることが可能だ。
 三階は、舟大家の各部署や、家長の執務室がある場所である。特に家長の執務室から見る景色のよさは、この部屋を訪れたことがある大商人たちのあいだで有名だ。舟大家の商館を訪れる、全ての舟を睥睨できる位置に、舟大家の家長の執務室はある。この部屋からは、色とりどりの船体や帆の船が、青く輝く海の上を、白い波の線を引きながら航行していくのが見える。その様子はちょうど、青地の布に、白い描線で描いた扇のようだ。何本もの白い航跡が、執務室の真下を中心に、広河の上流へ、そして海へと続いている。
 さらに、その景色のむこう側には、白くかすんだ対岸が浮かんで見える。対岸までの距離がある広河では、その対岸は漠然とした霞みのようになっているのだ。この対岸までのあいだに、無数の船が動き続けている。執務室の窓から見ると、広河を左右に行き来する多くの船が、常時目にはいる。もし子供がこの光景を見れば、いつまでも飽きずに、その窓の外を眺めていることだろう。
 次に、川から見た商館の左手側について言及しよう。ここには巨大な倉庫が併設されており、舟大家と契約している商人は、この倉庫を非常に安い料金で利用することができる。倉庫もある程度以上大きくなければ、建設費用も管理費用も割りにあわない。何より、取り扱う商品が、常時一定量を超えていなければ、倉庫を自前でもっても利益はでないのだ。そういった問題を抱えている中小の商人たちにとって、この舟大家の倉庫の存在は非常に大きい。彼らは、この安価な倉庫を、積極的に活用している。
 この倉庫は、平屋の構造物ではない。多数の商人がもちこむ細かな商品を、効率的に一定の土地に収めるために、四階だてになっている。各階の天井は、船着場の建物のそれよりも高いため、船着場の屋根の二倍ほどの位置に、倉庫の屋根はある。
 倉庫の建物の中を歩いてみよう。すると、この倉庫の中では、常時、馬蹄の音が響いているのが分かるだろう。建物の内側は、馬車で最上階まであがれるようになっているのだ。また、倉庫の中には、一定間隔ごとに、水槽がおかれていることも気づくだろう。これは、倉庫の区画ごとに置かれており、商品が密集しないようにすると共に、万一の場合の防火帯と消火用水をも兼ねているのだ。各水槽の水は、毎日、広河からくみあげられており、商人たちは馬の飲み水としても、この水槽を利用することができる。
 最後に、商館の右手を見てみたい。ここは、舟大家の造船廠の一つとなっている。一つというのは、舟大家の造船施設は海都のなかに合計五つあるからだ。この舟大家の商館にある造船廠は、そのうちの一つである。残り四つのうち三つは、米大家、布大家、塩大家の商館の近くにつくられており、最後の一つは、白大国の軍隊のための造船施設となっている。
 造船廠の後背を見てみよう。そこには、広い土地が確保されており、木材がうずたかく積み上げられている。また、帆を織る家内制手工業の工場も、近くに立ち並んでおり、帆布街を形成している。
 
 時刻は昼すぎ。空は青く、高く、天まで突き抜ける晴天である。まだ風は、南東から吹きつけている時分だ。町には海の潮の香りが混ざった風が吹きつけており、太陽は足下の石畳を光らせている。道の両側にたち並ぶ建物は、様々な潮避けの塗料で彩られ、極彩色の姿を陽の光にきらめかせている。海都の昼は、まばゆいばかりの色彩の洪水なのだ。
 耳を澄ませば、そこかしこで、商人たちが商談をしている声が聞こえる。道で屋台を並べる店の店主や、往来で細工物を売る子供までもが、この町では立派な商人なのだ。往来を歩く人々も商人といえよう。値の交渉をし、よりよい物をより安く手にいれるその行為を、誰もが日々の娯楽のように、楽しんでおこなっている。
 その海都の大通りを、少女が駆け足で進んでいく。少女は、少しばかりの銅銭を握り、舟大家の商館を目指しているのだ。握っているのは、午前中のあいだに、大通りで大道芸をして稼いだお金だ。海都では、能力さえあれば、元手がなくても、いつでもお金を手にいれることができる。この少女は、曲芸団の一員として働いているのだ。ちょっとばかり、ほかの団員より早くおきて、少しばかり多く、今日はお金を稼いだ。そのお金で、舟大家の商館の、船着場の二階にいくつもりだ。
 少女は船着場の一階についた。目の前は、見渡す限り、天井と柱が広がっており、その下には、無数の荷物の山と商人、馬車の姿が見える。商品を船からおろすための荷運びの男たちの掛け声が、そこかしこに響いている。たちどまってぼうっとしていると、瞬く間に人の波に飲みこまれかねない。少女は、その人波をかき分けるように、上にあがる階段の下へとゆく。舟大家の契約商人でない少女は、階段の下にいる守衛に、規定の銅銭を渡す。
 三日に一度はこの場所にきているので、少女の顔は、守衛にも覚えられている。少女が商館に出入りするのはおかしいと思うかもしれない。だが、守衛は、まるで気にしていない様子だ。なぜならば、海都に住む人間なら、少女であれ、少年であれ、立派な商人だからだ。お金さえ払えば、それはれっきとした商業行為なのである。
 少女は階段を軽やかに駆けあがる。駆けあがった先は、商館の二階だ。ここは、一階の簡素で実用的な雰囲気とは打って変わり、派手で豪奢な雰囲気になる。磨きあげられた床に、そこかしこにたち並ぶ観葉植物。金と赤で塗られた柱には、大陸中の動物の姿が象眼されている。壁には、海都の歴史に名だたる画家たちの手によって、華麗な絵が描かれている。豪華という言葉が、これほど似合う場所は、ほかにはないだろう。広い待合室には、立派な椅子が並べられており、受付では、商談用の部屋の予約を、常時受けつけている。その部屋を、人々が声を張り上げながら行き交う。
 階段をあがってきた少女は、受付の前を軽快に走りすぎようとした。
「お嬢ちゃん、青美鶴様は今日はまだおりてきていないぜ」
 受付の髭面の老人が、少女に声をかける。
「よかった。遅くきてしまったかと思って、急いでいたの」
 少女は明るい声でこたえる。そして、受付に引きかえし、机の上に身を乗りだして話をしはじめた。
「今日こそは、青美鶴様にお近づきになりたいの。どうにかして近くまでいけないかしら」
「お嬢ちゃん、それは難しいだろう。まあ、受付の奥に隠れてまっていな。必ずここは通るからさ」
「うん」
 少女は老人に抱きつき、そのまま受付の奥にはいりこむ。老人は少女の抱擁に笑みをこぼす。その少女、青明雀が、受付の老人の横の席に陣どったとき、受付にむかって女性の声がかけられた。
「予約していた青騒蜂だ。部屋の割符をくれ」
 まだ若い女性だが、妙に重い空気をまとっている。目は素早く、あたりの様子をうかがっている。長い髪を頭のうしろで結っているのだが、それは普通の女性がおこなう、男性の気を引くための装飾の意味ではなく、動きやすさを確保するための結び方であった。割符をうけとる手には傷が多く、普通の女性でないことが一見して分かる。
 青騒蜂と名乗った女性は、割符の番号を確認して、待合室の奥へと消えていった。
「何か怖そうな人だったね」
 青明雀が目をぱちくりさせながら、口を老人の耳に近づけて声をだす。
「ああ、あれはきっと荒事師だな」
 老人が声を潜めていう。少女は老人に、荒事師という言葉を聞いたことがないと告げる。
「荒仕事専門の雇われ兵士さ。舟大家も敵が多いからな。有能な荒事師は、いつも求められているのさ。お嬢ちゃんみたいなかわいい娘は、あんな荒事師に関わっちゃいけないよ」
 青明雀は、恐る恐る、その青騒蜂の姿を目で追う。彼女は、部屋の案内人に割符を渡して、商談用の部屋にはいっていった。
 
「何とか、青美鶴様の護衛の仕事をもらえませんかね」
 商談用の部屋のなかで、青騒蜂は目の前に座っている男に頭をさげた。日焼けした、筋骨たくましい壮年の男は、困った顔をする。
「いやなあ、青騒蜂。お前の働きがいいのは、俺も認めている。だが、荒事師を青美鶴様の護衛に推挙するのは難しいのだ。それぐらいお前にも分かるだろう。暗殺などを平気で請け負う人間はな、受けが悪いんだよ。それに、青美鶴様の護衛につきたがっている人間は多い。あの通り、青美鶴様は若いだろう。今とりいれば、今後数十年にわたって、その縁が続く。みんな青美鶴様にお近づきになりたいのだ」
 男は舟大家の中で、荒仕事を統括する部局の一人だ。舟大家の通常の男たちと同様に、数年前までは船の上で生活をしていた。今でも仕事の内容によっては、船を駆って遠出する。青騒蜂も、彼のもとで何度か仕事をこなしているうちに、この部局へとよく出入りするようになったのだ。
「そこを何とか。青美鶴様のもとで仕事をしたとなると、どこに行っても箔がつくんですよ」
「うーん、そういわれてもな。ちょっとまてよ」
 男は懐から一枚の紙をとりだした。そこには表にも裏にもびっしりと文字が書き連ねてある。紙代を節約しているのだろう。机一つを隔てて座っているだけの青騒蜂にも、その文字は小さすぎて読めない。
「これならどうだ。海賊に協力している地方の舟大家があるんだ。そこの家長の家から、あるものを、今この海都にむけて運んでいる。その荷物を船上で極秘にうけとって、青美鶴様に引き渡すという仕事がある。これなら、青美鶴様に直接あうことになるぞ。顔つなぎにもなるだろう」
「それでいいです。青美鶴様にお近づきになれるのなら是非」
「そうか、じゃあすぐたってくれ。船はもう下に用意している」
 男は、乗船許可証と、舟大家の命令書を懐からだして青騒蜂に渡す。
「手まわしがいいですね」
 青騒蜂が不信の目を男にむける。
「いやまあ何。俺も色々と忙しいのだよ。仕事が山積みでな。仕事が複数重なっていたのだ」
「あー、押しつけましたね」
 青騒蜂がたちあがろうとする。その青騒蜂の肩を、腕一本で席に押しとどめて、男は笑顔を浮かべる。
「青美鶴様に直接報告ってのは本当さ。まあ頑張れ。それよりもさあ、前からいっているように、俺の女にならないか。飽きさせないぜ」
 男の手を振り払って青騒蜂はたちあがる。
「失礼させていただきます」
 青騒蜂は不機嫌な顔で部屋をでる。男はその様子を楽しげに眺めている。青騒蜂が部屋をでたあと、男はたちあがった。
「さて、仕事仕事。いつでも仕事は山積みさ」
 男は部屋をでて、案内係に部屋の使用が終わったことを告げた。
 
 まだ、青美鶴は三階からおりてこない。受付の席に潜りこんだ青明雀は、暇そうに老人の横で椅子にしがみついている。老人は、忙しそうに訪れる人々の要望にあわせて、部屋の割符を渡している。
 彼女が暇そうに人々の流れを見ていると、黒い服をつけた女性が受付にやってきた。
「使用人の雇用の件で予約をとっていた、黒艶狐というものです」
 老人は、机の上の黒板に書かれた名前を探す。あった、使用人の面接の予約がはいっている。老人は割符をとりだして女性に渡す。女性は丁寧に会釈をして、割符の番号の部屋にむかった。
「ねえ、今の人、黒っていっていたけど」
 青明雀が老人に問いかける。
「ああ、黒陽会のものだろう。最近、この舟大家の商館にも、黒陽会の人間が何人か出入りしているぞ。まあ、変わった宗教団体らしいが、金払いはいいそうだ」
「ふーん、使用人の口か。どうなの、美人だったけど」
「まあ、素性が確かで、器量がよければ、採用される可能性があるな。でも、上の階の部局で、使用人の欠員がなければ無理だがね。それに、上の階は、重要文書が多いから、確かな保証人なしじゃ使用人にはなれないよ」
「へー」
 その女性の姿を目で追っていると、上の階に続く階段から、人の声が聞こえてきた。青明雀は、期待の眼差しで階段を見つめる。
「お嬢ちゃん、青美鶴様が食事にいくみたいだよ」
 階段の上から、警備のものたちがおりてくる。いずれも、壮年の引き締まった体をした武人たちだ。彼らは、舟大家の家長を守る護衛である。その護衛のあとに続いて、一人の女性がおりてきた。その横には、秘書らしき老齢の男がいて、その女性とやりとりをしている。
 待合室の空気が変わる。足早に歩いていた人々は足をとめ、その女性の姿に視線をそそぐ。女性は、美しい顔を、階下の人々にむけて、笑顔を浮かべた。
「皆様、舟大家のご利用ありがとうございます。これからも、私たち舟大家をご贔屓にして頂ければと思います」
 その女性、青美鶴は、軽く頭をさげた。その場にいる人々は、例外なく深々と頭をさげる。彼らは知っているのだ。彼女の逆鱗に触れれば、たちどころに舟大家の出入りを禁止されてしまう。それは、彼ら舟大家を利用する商人たちにとっては、死を意味している。贔屓にしてもらっているのは、自分たちだ。その場の全員が緊張した。
 青美鶴は、頭をあげて、ふたたび歩きはじめる。腰までのびた、艶やかな青みがかった黒髪。海のように深い青の瞳。目は涼しげな切れ長の目。そして白く美しく小振りな顔。体は細くしなやかで、歩く姿は凛としている。
 彼女が歩くに連れて、簡素な着衣がその動きに緩やかに揺れる。彼女が着ているのは、決して華美な衣ではない。どちらかというと質素な部類にはいるだろう。生地も仕立ても上等ではあったが、衣自体が自己主張するようなものではない。そのような質素な衣を、彼女が着ているのはなぜだろうか。それは、華美な着物をつける必要が、青美鶴にはないからだ。彼女にとっては、衣とは、彼女の美しさの邪魔をしなければ十分なものなのだ。彼女がその場にたっているだけで、光が太陽から溢れでるように、美しさが体の隅々から輝きでる。
 青明雀は、目を輝かせて、青美鶴の一挙手一投足を呆然と眺める。今日も青美鶴様は美しい。その様子を見つめる彼女の目は、恋する乙女の目に似ていた。憧れ。その感情が今の彼女の心中を表す言葉であろう。
 護衛の武人たちは、互いに距離をとりあい、人々が青美鶴に近づけないようにして進む。その輪の中では、青美鶴とその秘書の老人が、小声で囁きあっている。青美鶴の表情は、若干不機嫌なようだ。青明雀はゆっくりと目を閉じる。まわりの喧騒が徐々に消え、青美鶴と秘書の声の音量があがっていく。
「青美鶴様、お食事をする場所は、毎回決まっているのです。今日は金食彩館です。勝手に変えるわけにはいかないのですよ」
「嫌よ。私が食べたいお店に連れていってよ。ああ、毎日毎日、あんな味つけが濃くて油っこい料理。もううんざりよ。お食事する場所って、お父様の時代に決めた店ばかりじゃないの。おかげで、お父様はぶくぶく、ぶくぶく太って。私もあんな体型にさせたいの」
「そんな、わがままいわないでくださいよ」
 警護の武人たちは、顔を青くしながら、余人にこの二人の会話が聞こえないように目を光らせる。舟大家の家長が、延々と食事の不満ばかりいいながら歩いているのは、あまり誉められた話ではない。いい加減どうにかしてくれないかと思いながら、警護の武人たちは表情を険しくして、近づくものたちを追い払う。
「青美鶴様、かわいそう」
 青明雀が声をもらす。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
「ううん、青美鶴様って大変だなあと思って。それよりもおじいちゃん、金食彩館ってどのくらいのお値段がするお店なの」
「さあなあ、金貨で数枚ぐらいはするだろう」
「そっ、そんなに。銅銭じゃはいれないかしら」
「無理じゃよ。あそこは金がないとはいれないお店じゃよ」
 そんな。青明雀はため息をもらす。こうやって、毎日青美鶴様の食事の予定を聞きだしているんだけど、そのお店にはいれたことは一度もなし。そもそも身分が違うのよね。ううん、でも青美鶴様のお力になるって決めたんだもの。がんばって、同じお店にいけるようにお金をためるわよ。
 青美鶴が一階におりていくと、舟大家の商館は、また先ほどのような活気あふれる状態に戻った。人々は足早に歩き、そこかしこで、商売の話や契約書の交換をおこなっていく。
 青明雀は受付の席から飛びあがり、机の上で逆立ちをして、受付の前に着地した。老人がその様子を見ながら笑い声をたてる。
「お嬢ちゃん、身が軽いな」
「えへへ、曲芸団の一員なんだよ。今度もっと凄い技を見せてあげるよ」
 老人に笑顔を振りまいて、青明雀は下におりる階段にむけて歩きだそうとした。振りむいた瞬間、青明雀は女性の胸に飛びこんだ。
「うわ、ごめんなさい」
 慌てて彼女は、ぶつかった相手を仰ぎ見る。先ほど受付にきた黒服の女性だ。その女性、黒艶狐は、柔らかい雰囲気で、顔に軽く笑みを浮かべる。
「大丈夫ですか。舟大家の方でしょうか」
 女性は優しげに微笑む。青明雀は、気まずいつくり笑いを浮かべる。彼女は舟大家と全然関係ないからだ。
「明日から、舟大家で働くことになりました黒艶狐と申します。よろしくお願いします」
 軽く会釈をして、女性は階下に消えていった。その様子を、青明雀と受付の老人は見送る。
「何とも、変わった女性がはいってきたものだな」
 老人が声をもらす。美しい容姿を見たせいか、顔はほころんでいる。
「うーん、ちゃんと保証人がいたのかなあ」
 何だか気持ちが悪い。青明雀はそう思った。青美鶴様の近くに、あんな女をおきたくない。理由は分からないけど、彼女の直感がそう思わせている。
「さて、またお金を稼いで、二階まであがってくるわ」
「お嬢ちゃん、でもそうしたら食事代はたまらないんじゃないのかね」
 青明雀は頭を悩ませる。
「そうなのよね、それが問題なのよね」


  二 大陸周回航路

 かつて大陸には、大陸周回航路と呼ばれる大航路があった。その名の通り、大陸を一周して、荷を運ぶ航路である。この航路は、青族が支配する、大陸の北東に位置する海都と、黒族が支配する、大陸の南西の黒都のあいだをめぐる航路であった。
 過去形で大陸周回航路のことを述べるのにはわけがある。この航路は現在使われていないからだ。三十年ほど前に、この航路は完全に閉じた。理由は、航路の一端であった黒都が滅んだからだ。人間の文明は、思わぬ結果を人間自身に返すことがある。この黒都の滅亡が、そのような結果の一つであろう。
 当時黒都は、文明の頂点にあった。工業と呼んで差し支えがない生産力が絶頂期をむかえ、錬金術と呼ばれる科学が隆盛を極めたのである。金属の合成、変換から、生命の変質、人知を超える機械の製造まで、様々な技術が開発された。黒族が治めるその土地では、拡張に継ぐ拡張で、都市を広げ、工場を建設していった。そして、工業だけでなく、農業も革命を迎えつつあった。人工肥料による、大々的な土地の改良によって、高収穫率の農業が押し進められたのだ。大地の上の木はなぎ払われ、農地へと改造されていった。
 だが、破綻は突如やってきた。ある年、作物が実らなかったのだ。わずかに残っていた森や林の木々も、次々と枯れだした。理由は分からなかった。だが、莫大な富を抱えていた黒都の人々は、有り余る資金で、食料を輸入してその年をしのいだ。今年の飢饉が、来年も続くとは思わなかったのである。だが、次の年も、作物はまったく実らなかった。特に雨が降らなかったわけでもない。いつも通りの気候なのだ。しかし、作物は実らない。
 その時になって、はじめて人々は焦りはじめた。何かが黒族の土地でおこっている。本格的な調査がはじまった。幸い、黒族はその技術力で、原因をすぐに突きとめることができた。理由は土にあった。簡単な実験をおこなってみると、その理由が分かる。川魚のいる水槽に、作物が枯れ果てた地域の土を投げこんでみるとよい。すると魚はすぐに死ぬ。死んだ理由は浸透圧にある。土のなかに、大量の塩がまじっているために、魚は死んだのだ。
 土壌の改良、工業による煙、錬金術による廃液の垂れ流しなどにより、黒族の土地には大量の塩がたまっていたのだ。黒都では連日、識者による会議がおこなわれた。土を全部入れ替えよう、錬金術で塩を中和しよう。様々な案が話しあわれた。彼らは実際にその案を試してみた。だが不思議なことに、作物は実らなかった。なぜならば、土中の微生物が全て死に絶えていたからだ。この土地の植物の多くは、土中の共生細菌の存在なしには、生きられなかったからである。彼らは、植物のそういった仕組みをしらなかった。彼らの関心はそこにはなかったからである。黒族の土地は枯れ果てた。
 黒都が滅んだことにより、大陸周回航路は、その目的を見失った。そのため、次第にこの航路は廃れ、三十年前には完全に途絶えたのだ。この大陸周回航路を再開するので、船員を募集するという布告が、海都の舟大家の商館にだされて一ヶ月がすぎた。規模は、大型船十隻の船団。この布告に集まってきた人の群れは、普段の船員募集とは違う雰囲気であった。老人と若者。この二つの層に、やってきたものが集中したのだ。
 過去に大陸周回航路を経験したことがある老水夫や、その話を子供時代に聞いて育った若手の層が、この募集に多数応募してきた。ある程度自分の商売や仕事が、軌道に乗りはじめた船員や商人たちは、このような冒険行にはあまり参加しない。過去の夢や、まだ見ぬものへの夢を持つものたちが、この募集に強い関心をよせて集まっているのだ。
 
 海都の昼。舟大家の商館船着場の一階では、船員登録の陣幕がつくられている。募集してきた船員たちの、身体能力と伝染病の有無を調べているのだ。過去に何らかの伝染病を経験したり、感染地方を訪れた人々は、ここで乗船が拒否される。長い航海である。途中で病気が蔓延しては、とりかえしがつかないからだ。
 人々の列が、陣幕の前にできている。その列の中に、若い剣士の青勇隼も並んでいる。
 今回の大陸周回航路は、一度途絶えた航路を復活させるというものだ。そのため、船員を多く乗せた、帆と櫂併設の船を用いることになっている。船の側面にたち並んだ櫂で操船する種類の戦船は、その機動力と、船上にいる兵士の数で、戦闘時には圧倒的な力をもつ。大陸の東側と北側は、青族による海賊対策がある程度おこなわれている。だが、それも南の端までくると怪しくなってくる。緑族の海賊がでるのだ。櫂が併設されているのはそのためだ。戦闘がおこることを前提にしているために、青勇隼のように、腕に覚えのあるものも、漕ぎ手兼兵士として多数募集されている。
 大陸周回航路には、北まわりと、南まわりがある。緑族の海賊がでるのならば、南ではなく、北まわりでいけばよいと考えるかもしれない。だが、南まわりで航行した方が利点が多い。南の地は、食料の補充が楽なのだ。この地方は食料がいくらでも手にはいる。それに、北まわりは、白大国が赤族と戦争をはじめようとしているため危険だ。また、戦時なので、白大国の一部となっている海都の船は赤族と交渉できないと思っておいた方がよい。今回は、大陸周回航路といっているが、現実的には、南経由の半周のみを使い、黒族の土地までいって、かえってくることになるだろう。
 列に並んでいる青勇隼の目に、一人の男がとまった。陣幕からでてきたその男は、若者でもなく、年よりでもなく、壮年の男であった。先ほど、この航路に応募してきた人たちは、夢をもった人々だといった。だが、それとは逆に、夢破れたからこそ、この航路に応募してきた人たちもいるのだ。その男、青静鯖は、黙ったまま陣幕をあとにした。乗船許可証をもっていたので、検査には合格したのだろう。
「嫌だねえ、あんな暗い顔をして。これから、三十年振りの大事業をするっていうのに」
 青勇隼は、わざと男に聞こえるような声で騒ぎたてた。青勇隼は夢をもった側の男である。声を投げかけられた男の反応はない。青勇隼の背中が押された。
「おっ、俺の検査の番だな」
 彼は陣幕の中にはいる。もちろん検査は一発合格。俺が落ちるわけがない。陣幕からでてきた青勇隼は、商館をあとにする。
「さて、当分船の上だから、ためたお金で豪遊しておくか」
 腰からぶらさげていた、黄金のはいった袋の中身を確かめながら、青勇隼は高級料理店へとむかった。
 
 舟大家の中央船着場商館の三階。昼過ぎ。この場所には、舟大家の様々な部局が、その部屋を連ねている。人も予算も多い部局もある、逆に頭数もなく貧乏な部局もある。そのなかでも、中の上ぐらいの位置にある部局に、海図製作部がある。この部局では、各地域の灯台の設置状況、寄港地の使用の可否、各地域独自の情報などを集め、月に一度の頻度で海図を更新していく。それは、ただの海上の地図というだけではない、詳細な航路情報となっている。
 海図は、舟大家契約の船長からもたらされる航海記録をもとにして更新される。基本海図は、既に先代家長の青捷狸の時代に完成されている。海図製作部は、その性質上、新聞社のような役割も果たす。緊急の動乱などがあれば、それに応じて、警告情報を発行するからだ。舟大家と契約している船長は、自由にこれらの情報を閲覧することができる。また、最低限のお金を支払えば、その写しをえることも可能だ。その代わり、舟大家と契約している商船の船長は、航海記録の提出が義務づけられている。
 この部局にも、大陸周回航路の話は届いている。雇い主は極秘、目的も極秘のその船団の話は、この部局で辺境部門を担当している、青遠鴎のもとにも聞こえている。辺境部門とは、どこのことを指すのであろうか。この時期の辺境部門は、大陸の南東から南にかけての地域を指す。この地域は、白大国の支配の及ばない地域で、緑族の小さな国や豪族が群雄割拠している。そのため、海賊行為も多く、現在は商業用の海路としては機能していない。
 一度はこの地域の担当を廃止にするという話もでた。だが、先代舟大家の家長であった青捷狸がそのことを許さなかった。いずれ、この地域の海路は、我ら舟大家に莫大な利益をもたらすであろう。彼はそういって、この担当の存続を決めた。青遠鴎はその頃には、まだ舟大家で働くほどの年齢ではなかったが、前担当からその話はよく聞かされていた。
 いずれ、莫大な富をもたらす。そのことを除いても、青遠鴎にとってこの地域への航路は興味のあるものであった。現在主流になっている、河川と大陸東側を中心とした航路では、三角帆の船が中心になっている。それは、短い距離を効率的に進んでいくのに、三角帆の船が有利だからだ。三角帆の船では、風が正面からむかってきていても、斜めに間切りしながら進んでいくことで、安定して航行することができる。
 この帆の構造は、商船だけでなく戦船も同じだ。戦闘を主におこなうための船は、三角の帆に加えて、櫂でもって前進できるようになっている。これらの戦船では、左右の舷側に百足のように櫂を並べてあり、漕ぎ手の力で突進できるようになっているのだ。
 いずれにしても、現在の帆の主流は、三角帆なのだ。
 それに対して、大陸周回航路、つまり辺境地帯を目指す船は四角帆だ。この航路では、季節風と海流を使って進んでいく。そのため、風を大量にはらむことができる、四角帆が圧倒的に有利になる。ただし、これらの四角帆の船は、間切りができない。そのため、むかい風のときは、停船しないといけない。大陸周回航路の末期頃には、その欠点を補うために、三角帆と四角帆を組みあわせた、複数帆柱の船も数隻開発されていたという。
 青遠鴎は、昨日、造船廠にいったときのことを思いだした。今回の大陸周回航路用につくられた十隻の船が進水式をしていた。これは、依頼主からの要望通りにつくられた船らしい。その船は、三角帆と四角帆を組みあわせた、複数帆柱の大型船であった。そして、戦争でもはじめるかのように、その舷側には二人漕ぎの櫂の取りつけ口が並んでいた。
 いったい何人でいくつもりなんだ。はじめ、こんなに強力な船で船団を組むということを聞かされていなかった青遠鴎は、驚愕を隠し切れなかった。こんな船は、普通の人間が発注するような船ではない。いったい、何の目的で、誰が発注したのだろうか。
 青遠鴎は、書類をまとめて上司のもとへとゆく。
「大陸周回航路の件ですが、俺も暇をもらって、参加するわけにはいかんですか」
 上司は日に焼けた初老の男である。海の上にいた期間が長かったのだろうか、今でも鋼のような肉体を維持している。
「阿呆か、青遠鴎。お前の仕事はほかに誰がするんだ」
「いやまあ」
 青遠鴎は言葉を詰まらせる。上司の男は、拳骨を握って、青遠鴎の頭を勢いよく殴った。顔は怒っている。
「遠鴎、お前も青族だろ、もっと要領よくたちまわれ。頭を使え。自分で考えないと駄目だぞ。過去の文献を読んだり、古い奴らの話を聞くだけがお前の仕事ではない。そんな堅い頭だと、許可できんぞ。さあ、考えろ。お前の仕事は何だ」
「辺境地域の海図担当です。あっ」
 青遠鴎は声をあげる。仕事を休んで船に乗りたい、といっているから駄目なのだ。仕事をしにいくといえばよいのだ。青遠鴎は、身を乗りだして上司にまくしたてる。
「辺境地域の最新の海図を、俺の力で全部作成します。そして、緑族の地域の紛争状態、勢力などの調査をおこなってきます。このことは、舟大家に莫大な利益をもたらします。私にこの仕事をさせてください」
 初老の上司は意地悪そうな笑顔を浮かべる。
「莫大な利益だぞ」
 青遠鴎の腰が引ける。
「阿呆か、胸を張れ。お前は青族の、そして舟大家の一員なんだぞ。大海原に乗りだし、莫大な利益をあげてこなくてどうする」
「はい」
 声を張りあげて、青遠鴎は返事をする。莫大な利益は自信がない。だが、辺境地帯はこの目で全て見てきてやる。俺は、大陸周回航路の船で、辺境地帯に乗りこむのだ。


  三 金食彩館

 海都の夜。灯篭の明かりが道を照らすなか、数台の馬車が大通りを進んでいる。青美鶴を乗せた馬車を守るかのように、前後に馬車が連なっている。普段はこんなに警護のものを引きつれているわけではない。だが、この日会う相手のことを考えて、舟大家の有力者たちが厳重な警護をつけさせたのだ。
 夜の闇のなか、青美鶴が見る窓の外を、無数の明かりがすぎ去っていく。路上は、人々の笑い声と、屋台の物売りの声、そして春をひさぐ女たちの声で満たされている。青美鶴は、その声を聞きながらため息をつく。何で私、こんなことをやっているんだろう。窓の外に目を移すと、彼女と同じ年頃の娘たちが、恋人であろうか、若い男と共に海都の夜を謳歌している。それに対して青美鶴は、馬車の狭い一室に押しこめられ、まるで駕籠の中の鳥のようだ。
 馬車がとまった。夜の闇のなか、不気味なほど派手に、金食彩館の表構えが輝いている。この灯火だけで、一日にどれだけのお金がかかるのか分からない。海都のなかでも五本の指にはいる高級料理店、金食彩館には、節約という言葉はない。客をもてなすためには、どれだけのお金を使ってもよいというのが、この店の方針なのだ。そしてこの店は、舟大家の贔屓の店でもある。正確にいうならば、青捷狸の頃の贔屓というべきだろう。青美鶴の口にはこの店の味つけはあわない。だが、舟大家の家長が交渉をするための環境が、この店に全て整っている。そのために、会食の多くはここで催される。
「青美鶴様、ようこそおいでくださいました」
 店の支配人が出迎えてくれる。御者が馬車からおり、扉を開いてくれるのをまって、青美鶴は馬車から顔をだす。既に彼女がおりようとしている場所のまわりには、屈強の武人たちがたち並んで、垣根をつくっている。
「仰々しいわね」
 青美鶴が面倒くさそうに頭をかく。屈強の男のあいだから、秘書がでてきて青美鶴をいさめる。毅然とした態度で臨めというのだろう。青美鶴は仕方がなさそうに目を細めた。確かに、気を抜いてあうわけにはいかない。今日会うのは、いつもの交渉相手ではない。海都の舟大家に対する裏切り者なのだ。
「行くわよ」
 歩きだした青美鶴をとり囲むように、武人たちが歩きはじめる。
 
「どん亀が」
 金食彩館の厨房で、声が響いた。
「もう青美鶴様がいらっしゃったそうだぞ。早くその頭を盛りつけないか」
 どん亀と罵られた大男、緑硬亀は慌てて銀の皿に頭を盛りつけた。たれを塗って、表面のつやをだし、まわりに赤や緑の野菜を盛りつけ、彩りを添えていく。最後に銀の半球状のふたでその皿をおおった。
「早く、それを給仕係に渡せ」
 緑硬亀は額から汗を吹きだしながら、緩慢な動作でその皿を運んでいく。はじめて、舟大家の家長である青美鶴の席にだす料理の味付けを任された。任されたといっても、料理のなかの一種類だけだ。だが、この料理が認められれば、もっと料理を任されるだろう。緑硬亀は期待と不安を伴いながら、その皿を給仕係に渡す。
「おっ、お願いします。青美鶴様が食べてくれたかどうか、おいしそうだったかどうか、教えてください」
 そういいながら、緑硬亀は給仕係に頭をさげる。その緑硬亀の肩を、給仕係は叩いて掌を見せる。緑硬亀は、少ない手持ちのなかから、付け届けを渡した。緑硬亀は、緑族出身でこの街まで流れてきた料理人だ。料理の腕はそれほど悪くないのだが、いかんせん、町での生活に慣れていない。いいようにまわりのものにあしらわれて、少ない給金をむしりとられていく。
「どん亀、早くしろ」
 料理長の言葉が響く。緑硬亀は慌てて給仕係に頭をさげて、その場を離れた。
 
 金食彩館の一階の席で、青勇隼は食事をしている。これから大陸周回航路に乗りこむのだ。長く海都を離れる。こんな豪遊などは当分できないのだ。青勇隼は、海都でしか食べられない料理を、次々に平らげていく。彼が座っている一階の席は、金食彩館の中でも特に料金が安い場所だ。そのため、旅をしてこの地を訪れた人が、一生の思い出ということで、この席で食事を楽しむことも多い。
 青勇隼は、食事を食べながら周囲を見渡す。机についているのは、白族、青族、黄族といった、様々な民族のものたちだ。そのなかで、青勇隼の目がふととまる。赤族の若者だ。珍しい。二人もいる。少し様子を観察してみよう。話し声が、青勇隼のもとまで聞こえてくる。彼ら赤族は、普段平原で生活しているので声が大きい。こんな建物の中なのに、平原で声を呼びかけあっているかのように大声で話している。
「赤善猪兄、しかしこの町で偶然再会するとは」
「俺もびっくりしたぞ、赤空鳶。飲もう、飲もう。今日は飲もう」
 二人は盛りあがって酒を飲んでいる。その様子を見て、青勇隼は心の中で笑う。赤族の二人は、金をほとんどもっていないんじゃないのか。そうだったら、面白いことが起こるのに。それはともかく、あんな勢いでこの店で飲んでいたら、絶対お金がなくなるぞ。
 青勇隼が二人の様子を観察していたら、店の入り口の方から順に、ざわめきが消えはじめた。青勇隼は首をのばして入り口を見る。すると、屈強な武人の集団にとり囲まれた、美しい女性が建物にはいってくるのが見えた。その姿を見て青勇隼は息を呑む。歩くたびに、鈴の音が聞こえてきそうな気がした。まばたくたびに、目から宝石があふれそうな光を放っていた。
 誰だ、この女性は。気づいたとき、青勇隼はたちあがっていた。その視界に、赤善猪と呼ばれた赤族の若者がはいる。赤善猪は酔った足どりで、その女性に近づいていく。
「なあ、姉ちゃん。俺と一緒に食事を食おう」
 青勇隼は素早く飛びだして、その赤族の若者をとり押さえた。奥から金食彩館の用心棒がでてきて、しどろもどろになりながら女性に詫びる。用心棒は、青勇隼にも礼をいって、赤善猪を抱えて建物の外に連れていく。赤空鳶と呼ばれた青年は、慌ててその場を逃げだそうとする。その影を用心棒たちが追う。
「ありがとう」
 女性は青勇隼に軽く会釈をする。青勇隼は、胸が早鳴るのを感じた。
「青勇隼と申します」
「私は青美鶴よ」
 ふたたび軽く会釈をして、そのまま女性は振りむき、階上へと消えた。青勇隼のもとには、金食彩館の支配人が駆けてくる。そして、青美鶴の支払いで、青勇隼の食事代が清算されたことを告げた。
「やばいなあ、世の中には、あんな美人がいるのか」
 青勇隼は、ため息と共に、自分の席に座りこんだ。
 
 金食彩館の四階。この場所は、主に大家の会合などに使われる部屋である。防音もしっかりとしているし、警護の兵も隠すことができる。その部屋に、青美鶴がいる。一人でいるのではない。部屋の各所に警備の武人を隠しているのは当然として、彼女の横には秘書の老人がいる。そして、青美鶴の正面には、壮年の日焼けした青族の男が座っている。その目つきの鋭さ、顔つきからみて、何らかの組織の頭領なのだろう。実際この男は、長焉市の舟大家の家長である。その男の顔が青く染まっている。
「長焉舟大家長、あなたは食べないの」
 机の上には前菜が運ばれてきている。その前菜を、青美鶴は一つずつ食べている。長焉市の舟大家家長は、だされた食事を一つも手につけていない。その額からは脂汗が滲んでいる。
「出来心だったんです」
 ようやく男は口を開いた。長焉市は、広河のはるか南にある、長河の河口にある都市だ。この都市は海都ほど大きくはないが、大陸の都市のなかでは決して小さな都市ではない。その都市の舟大家の家長が、まだ二十歳の娘の前で、顔を青くして謝っている。
「緑輝と通じて、海賊行為を働いたんですって」
 青美鶴の声に男は息を荒げる。
「いえ、本当に、出来心なんです」
 青美鶴は、新しくだされた料理に手をつける。新鮮な魚を揚げて、あんをかけた料理だ。添えられた野菜には、包丁による飾り模様がつけられていて美しい。
「五年前から、帳簿の辻褄があわなくなっているわ。海都の舟大家の帳簿と、そちらの舟大家の裏帳簿の数字が大きく食い違っているの。なぜかしら。六年前にはぴったりあっていたのにね。その食い違う額が、毎年、着実に増えているの。不思議よね」
 皿の中身を平らげた青美鶴は、箸を箸立ての上におく。それを待っていたかのように、秘書が書類をとりだして、男の前に広げた。それは、ここにあるはずのない、長焉市の舟大家の裏帳簿であった。いつのまに、そういう思いと共に、青美鶴の噂を思いだす。この娘は、舟大家の家長に就任した直後、それまで発覚していなかった数々の不正を次々と突きとめていったのだ。青捷狸の頃は緩かった締めつけが、彼女が家長になって、いきなり厳しくなった。
 ここ二十年の海都の舟大家は、白大国の膨張と共に巨大化していった。その伸長期はもうとまる。これからは、その脹らみ切った組織を、持続性のある安定した組織に変えていかなければならない。彼女はそう思っている。
「長焉舟大家長、あなたには子供が三人いましたね」
 男は全身を震わせている。
「ちょっとね、荒事師にお使いを頼んでおいたの」
「荒事師にですか」
「そうよ、長焉市から、あるものを運んできてもらったの。今日ここにもってきているわ。あなたもよく知っているものよ。青騒蜂、でてきなさい」
 青美鶴の言葉に従って、青騒蜂と呼ばれた女の荒事師が、部屋の奥からでてくる。数日前に仕事をうけ、あるものを船上にうけとりにいった人物だ。その殺気をまとった様子から、その女性が人を殺すことを生業としていることが分かる。青美鶴は、微笑みながら青騒蜂に語りかける。
「ねえ、青騒蜂。あなたが運んできたのは何かしら」
「子供の頭を、三つばかり」
 青騒蜂は、緊張した面持ちでこたえる。男の目と口が、驚愕と共に大きく開く。その様子を見て、青美鶴は楽しそうな笑顔を浮かべる。
「その子供の頭を、この金食彩館の料理人に料理してもらったの。あなたと席を共にするこの日に、楽しく食べて頂こうと思って。見て、今から料理が運ばれてくるわ」
 給仕係の男たちが、扉をあけて部屋にはいってくる。彼らは、青美鶴と、長焉市の舟大家家長のあいだに皿をおいた。皿は三つ。そのそれぞれに、銀の半球状のふたがかぶせられている。中をうかがうことはできない。
「あなたのために料理をしてもらったの。きっと美味しいと思うわ。さあ、あなたがふたをとるのよ。そして、全てあなたが平らげるのよ」
 男が震えながら小声で囁く。
「あら、聞こえないわ」
 青美鶴が問い直す。
「すみません、勘弁してください。私が悪かったです。緑輝とは縁を断ちます」
 泣きながら、男は声を絞りだす。その様子を見て、青美鶴は不満げな声をだす。
「私は、ふたをとって、三つの頭を食べなさいといったのよ。あなたは私の命令が聞こえなかったの」
 男はその場で嗚咽をもらすだけで動こうとしない。
「青騒蜂、その男の手をとって、ふたをあけさせなさい。そして、三つの子供の頭を全て食べさせなさい」
 戸惑った顔をしながら、青騒蜂は青美鶴の顔色をうかがう。青美鶴は、男の様子を楽しそうに観察している。青騒蜂は男の横に移動し、彼の手をとる。力の抜けた手をとり、その手に、ふたの取っ手をつかませて、もちあげさせた。男が目を背ける。皿の上には、子豚の頭の丸焼きがあった。男が脱力し、その直後に怒声をあげてたちあがろうとする。
「この小娘が」
 青騒蜂は、男の手を強く握った。すると彼女の手から雷撃がほとばしり、男の全身を貫いた。死傷させるほどの力はない。だが、行動をとめる程度の威力はある。男は椅子の上に尻餅をつく。
「あら、どうしたの。せっかくあなたの屋敷で飼っていた豚を全部殺して、この頭を持ってきたというのに。お気にいりではなかったかしら。あなたの故郷の、長焉市の豚を使った料理でもてなそうという、折角の配慮だったのに」
 青美鶴が残念そうな顔をする。雷撃で気勢を削がれて、椅子に座りこんだ男は、彼女のいった言葉の意味を数瞬後に理解した。厳重な警備を施した、彼の屋敷の中の豚がここにある。はるか遠方の長焉市の舟大家の屋敷も、この青美鶴の一声で、いとも簡単に中を荒らされるのだ。今回は豚の頭だった。だが、次は間違いなく、彼の子供の頭がこの皿の上に乗っているだろう。
 男の唇が、紫になって震える。どうにかしびれも抜け、声が喉からでてくる。
「緑輝との取引は、金輪際おこないません。それから、先ほど口走った言葉をお詫びします」
「あら、小娘という言葉はとり消さなくてもいいわよ。そう思って油断しておいてくれた方が、私は仕事がやりやすいんですもの」
 青美鶴は嬉しそうな顔を男にむける。男はこうべを垂れた。部屋に沈黙が訪れる。少したって、青美鶴はたちあがり、青騒蜂に顔をむけた。
「ねえ、あなた。先ほどの攻撃は、緑族の土地に住んでいるという、雷撃を発するという魚と同じようなものなの」
「私は見たことがないので知りませんが、似たようなものかと思います」
 そう、といって青美鶴は歩きだす。
「その魚、昔食べたとき、案外おいしかったのよ。あなたのお肉もおいしいのかしら」
「えっ」
 思わず声をあげた青騒蜂を残して、青美鶴は秘書と共に部屋をでた。
 
 金食彩館の階段をおりて、青美鶴は建物の一階におりたった。ざわめいていた人々の声が、青美鶴の登場と共に、感嘆のため息と共にとまる。その場の人々に優しい笑顔を振りまきながら、青美鶴は金食彩館の入り口をでた。まわりは屈強の男たちがとり囲んでいる。夜の闇の中、彼女は、馬車に乗りこもうとして道を進む。すると、彼女の背後から声がかけられた。
「おっ、おらの料理、子豚の頭の丸焼きはどうでしたか」
 まのびした男の声だ。金食彩館の裏口から、息を切らせて走ってきた大男がたっている。緑硬亀だ。彼は給仕係に、青美鶴が子豚の頭の丸焼きを食べたかどうか聞こうとした。だが、給仕係は何も教えてくれなかった。給仕係は、青美鶴のいた部屋の雰囲気に呑まれて、口を固くしたのだ。
 緑硬亀は青美鶴の姿を見て、つい見とれてしまう。その隙に、ほかの料理人が飛びだしてきて、緑硬亀をとり押さえる。
「馬鹿野郎、お前、青美鶴様に何をしているんだ」
 次々と料理人が飛びだしてきて、緑硬亀を殴ったり蹴ったりする。緑硬亀は体を丸くして、必死に耐える。支配人も慌ててでてきて、青美鶴に詫びる。
「本日は、重ね重ねご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
 支配人の顔が引きつっている。
「いいわ、気にしないわよ。その料理人を放してあげてください。それよりも、私がきたときは、味つけを薄めにしていただけるかしら。私は船乗りや船上の商人ではないのよ。塩と油が強すぎるわ」
「はっ、仰せのままに」
「それと、そちらの料理人の方にはお詫びするわ。子豚の頭の丸焼きは、口にしなかったの。次はきちんと食べることにするわ」
 支配人は頭を、地につけるほどさげた。その様子を確認せずに、青美鶴は馬車に乗りこむ。馬車は、音をたててすぎ去っていった。
「このどん亀が」
 料理長が緑硬亀の背中を蹴る。
「っつ、これくらいで勘弁してやる」
 そういうと、料理長は足を痛そうにさすりながら厨房に戻っていった。緑硬亀もそのあとを追おうとする。
「まて、お前は首だ」
 支配人が緑硬亀を指さす。支配人の顔を数秒見つめたあと、緑硬亀は驚いた顔を浮かべる。
「そっ、それは許してください」
「でていけ」
 支配人は、その言葉を吐き捨て、金食彩館の中に引きかえした。


  四 海都の黒陽会

 時刻は午前。海都の黒陽会の教会、その扉の前を、小男がほうきで掃いている。その前を、港にむかう多くの人々が通りすぎていく。誰もこの男には目をくれない。その代わりに、目をそらすものならいる。その背の低い男、黒逞蛙の顔は、幼少期の怪我のせいか、醜く歪んでいた。男はその顔を隠そうともせずに、足もとを掃いている。この海都の黒陽会の導師、黒壮猿に、太陽の前で顔を隠す必要はない、太陽のもとでは全ての人が太陽神のもとに分け隔てのない存在なのだ、といわれたからだ。
 男が階段をおりて、その下の道も掃こうとしはじめたときに、真っ黒に塗りこめられた黒陽会の教会の扉が開いた。そして、黒壮猿と、一人の黒服の男が並んででてくる。黒壮猿は、黒い長衣をつけ、禿あがった頭に深いしわをよせている。五十に手が届く年齢だが、その老いを感じさせない足どりで歩いている。もう一人の男は、黒服で、頭から黒い布をすっぽりとかぶり、その顔をまわりのものから隠している。
 黒逞蛙は、この男の存在を知っているが、名前は知らない。最近幹部になった男だ。だが、幹部以上の階級のものにしか名前を知らせておらず、顔も見せてはいない。
「それでは、黒都ゆきの件、頼みましたぞ」
 黒壮猿が、男の手を握りながら念を押す。
「ええ、わざわざ大切な鍵を託して頂いたのです。私の全能力をもって、黒都の城壁をいま一度あけてみせましょう」
 男の言葉に、黒壮猿は満足そうにうなずく。黒服の男は、軽く会釈をすると、教会をたち去った。
「黒壮猿様、今の方は」
「わけあって素性は明かせない方だよ。だが、私たち黒陽会の悲願を果たすためには、なくてはならない仕事をしてくれる人物だ」
 黒逞蛙は、その姿を目で追う。気づくと、黒壮猿が教会のなかにはいろうとしていた。慌てて黒逞蛙は、声をかける。
「広源市ゆきの件、俺もぜひ加えてください。黒壮猿様についていきたいのです」
 黒壮猿は、黒逞蛙の姿を見つめる。そういえば数日前に、この男からそのことを頼まれた。
「太陽神の思し召しのままに。共に、日が沈む方角にむかおうではないか」
 その言葉を聞いて、黒逞蛙は躍りあがって喜ぶ。その様子を笑顔で見たあと、黒壮猿は教会の中に姿を消した。その日、黒逞蛙の機嫌はすこぶるよかった。いつもは身を潜めるように、人の目をうかがっているこの男が、一日中笑顔を振りまいたのである。この日、黒陽会を尋ねてきたものたちは、一様にその黒逞蛙の浮き足だち振りに辟易したことだろう。たまたまこの日、この教会を訪れた赤空鳶もそうであった。


  五 白大国の軍制

 海都について書く筆をおき、そろそろ白大国について語りたいと思う。白大国は現在、大陸最大の王国である。わずか二十年で大陸の大半を席巻したこの国は、白王という不世出の一人格によって築かれた国である。白王はこの国の初代国王だ。多くの建国の王がそうであったように、彼は一介の人物から身をおこし、国を切りとり、その支配地域を広げていった。
 だが、彼が決定的にほかの建国の王と違っていたことがある。それは、多くの建国者が、国をとり、その結果、その支配地域を広げようと考えてきたのに対し、この男だけは、最初から大陸全土を支配するために、国とりをはじめたことである。その視点の高みがどこからきたのかは分からない。それは少年期に過ごした僧房で、数多読んだ歴史書からだろうと、周囲の人々はいっている。真偽は分からないが、彼はわずか二十年で、この大陸の大半を占拠してしまった。
 大陸は、現在四つの地方に色分けすることができる。目の前に、縦四つ、横四つの、合計十六枚の板が並べられているところを想像してもらいたい。上が北、下が南で、右が東、左が西だと思って欲しい。この十六枚の板が大陸の全土だとする。
 すると、右上の縦三枚、横三枚の合計九枚の板が、現在の白大国の領土となる。左上の縦三枚、横一枚の合計三枚の板が、赤族の住む草原。右下の、横三枚、縦一枚の合計三枚の板が、緑族の住む密林。左下の一枚の板が、かつて黒族が王国を築いていた地方、今では砂漠しかない地域となる。
 白大国は大陸の半ば以上を支配している。この白大国の軍隊の特徴になるのは、その移動手段である。白大国の支配地域は、一般に平原と呼ばれており、多くの大河とその支流が全土を流れている。その川を、船団で高速輸送する方法を大陸ではじめてとったのが、白王であった。彼は、建国時の片腕、青聡竜が、海都の舟大家の家長の弟であることに目をつけ、その運輸力を軍事に転用したのだ。
 結果だけ見れば、誰でも思いつきそうなことである。だが、大陸全土を征服するという視点を、最初からもっていた白王だけが、この着想を実際に自分の軍隊に組みこんだ。結果、二十年で大陸の大半を飲みこむだけの快進撃を続けたのだ。彼は、自国が移動手段として船を使うと共に、他国が同じ方法をとることを徹底的に禁止した。これは、海都の舟大家と結んでいる白王であるからこそ、できた方法である。彼は、速度を自分だけのものとして独占した。
 さて、大陸を瞬く間に飲みこんだ、移動手段の面から、白大国のことを語ったが、それ以外の白大国の軍制についても少し触れておこう。
 白大国は、急激に大きくなった国だ。それも、一年、二年で、その版図から、軍隊の規模までもが一変するほどの急成長を遂げた。そのためその組織は、編成の自由度が高いものとなっている。
 この国では、一万人が軍団の単位となる。この軍団には、一人の軍団長がつく。この軍団長は、政治的仕事もおこなう白王直属の司令官だ。この軍団は、平時でも十から二十程度は常時組織されている。戦争の規模によっては、もっと軍団がつくられて、兵士が動員されていく。この、軍団長以上が、白大国の軍事の中枢だ。かつては青聡竜も、この軍団長の一人であった。
 それでは、それ以下の組織の構造はどうなっているのだろうか。一軍団一万人は、千人ずつの十の組織に分けられる。この千人を率いるのは、千人長と呼ばれるものたちだ。この千人長以下は、雑多な組織となる。その組織の構造を、上からではなく、今度は下から見ていくことにしよう。
 軍隊の最小単位は十人である。この十人の中から一人を選出し、十人長とする。この十人長は、戦闘経験が必須となる。新任の兵士は十人長にはなれない。この十人の組織が十組集まって、百人の集団となる。この百人の集団の中の、十人の十人長の中から一人を選び、百人長とする。同じように百人長を十人集め、その中から一人を選び、千人長まで選出する。この千人の集団が、軍団長のもとに十組集まって一軍団となる。
 千人長までは、下から実力で駆けあがることができる。しかし、軍団長になるためには、そこから白王の目にとまらなければならない。白王が必要だと思ったものを、千人長から引き抜くなり、必要な人材を育てるなどして、軍団長とするからだ。
 この千人長以下の集団は、白大国の傘下になった国や、地方の豪族、金持ちが自由に提供することができる。例えば、千人の兵を供出したものがあれば、そのまま千人長になることも可能だ。同じように、地方の仲間で語らって、十人で参加すれば、そのまま彼らのなかで十人長を選べる。白大国の中でそれなりに重く用いられたいものは、千人兵士をだせばよい。そのため、分限者たちは、進んでこの千人単位の兵員を供出している。
 こういった、有力者たちからの提供以外に、徴兵で入ってきた兵士の数も多い。これらの兵士には、白大国から給料がでる。この給料は案外よい。そのため、兵士になるための審査も厳しい。また、自分で武具や馬をもって参加できるものならば、その待遇は優遇される。軍隊内の主な兵種は、軽装歩兵、重装歩兵、騎兵、弓兵になる。持参した武具等がある場合は、その兵種に振りわけられる。武具を持たないものは、しかるべき装備を提供され、適宜足りない部署に振り分けられる。これらの兵種とは別に、工兵専門の軍団もあるが、これは別項に譲るとしよう。
 実際に、これらの軍制の中で、千人の兵を供出して、千人長に収まっている集団がある。これから少し、その集団の姿を追ってみることにしよう。
 
 その日の午後、千人長の一人である白弱鴇は、白都でおこなわれた会議に参加していた。千人長ともなれば、白王の顔を見る機会もある。その日集まった千人長は九人、一軍団を組むのには一人だけ足りない。それぞれの千人長が、一人の百人長を伴って、この場に参加している。副官の役目をもつ人間だ。千人長が倒れた場合に、すぐさまその任務を引き継ぐ役目を負っている。白弱鴇の副官は、白恐蝮という男である。
 供出による千人長ではよくある話だが、この二人の関係は実際は逆である。白恐蝮が能力的には、この千人の組織を軍事的に動かしている。だが、千人の人望を集めているのは、血統をもっている白弱鴇の方である。白恐蝮は、兵士に嫌われているからだ。
 武器を全て外に預けて、部屋で千人長と副官の十八人はまっている。その部屋に、白王がはいってきた。全員が緊張する。白王は、彼らから大きく離れた場所に、床机をおいて座った。飛び道具に対する対策だ。白王は、白髪をうしろでに結んでいる。鋭い灰色の目が、一同の目を見据えた。
 彼ら千人長にとっては、この機会はまたとない出世の機会でもあるのだ。白王は、ときどきこうして、千人長と直接話をすることがある。これは、次代の軍団長に相応しい人物がいるかどうかの、目星をつけるための面接も兼ねている。この場の全員が緊張するのも無理はない。
「ここに集めた千人長に、共通していることが一つある」
 白王が口を開いた。長年に渡る戦乱をくぐってきたために、その顔には深いしわがより、一見して老人のように見えるが、白王はまだ三十代だ。その体の中の覇気は、衰えるような年代ではない。その覇気をそのまま音にしたような声が部屋に響く。気の弱いものがその部屋にいれば、気絶しかねない圧力だ。
 一同が考えはじめる。彼らは、いずれも華々しい戦果を成し遂げた千人長ではない。どちらかというと敗戦が多い。いや、敗戦ばかりの千人長もいる。白王がその様子を見て、ふたたび口を開く。
「お前たちは、負けてばかりの千人長だ」
 白王の声が部屋に響く。その声に、白弱鴇は顔を下にむけて膝を震わせる。彼と同じように、供出ででてきた千人長もいるようだ。白弱鴇同様、顔を青くしているものがいる。その様子を、白恐蝮は冷めた目で見渡す。それが悪いというのならば、白王がわざわざこれらの千人長を呼んでいるわけがない。裏があるだろうに。彼はそう思う。
 周囲を見渡していた白恐蝮は、白王と目があった。その目を見た瞬間、はらわたの底までえぐりだされるような感覚を白恐蝮は覚えた。飲まれるというのは、こういうことだろう。白恐蝮は、自分は腹の座ったふてぶてしい人間だと思っていたが、こんな一瞬で胆を冷やすとは思っていなかった。慌てて視線をそらす。
「お前らがここに呼ばれた理由を教えてやろう」
 白王の声が響く。
「お前たちは逃走が得意だ。確かにお前たちは弱い。だがそれが悪いといっているのではない。お前たちは、正面きっての戦は弱い。だが、不思議と逃げるときの損害が少ない。撤退戦が得意なのだ」
 一同は押し黙る。白王は、この千人長たちに、何をさせる気なのだ。
「お前たちも聞いているように、これから私たちは広源市へとむかう。そして、開喉丘を通り、赤族の住む草原を、私たちの土地とする。そこでお前たちには、負け戦をおこなってもらう」
 一同は唖然とする。白恐蝮が片手をあげる。発言を求めているのだ。白王が彼の発言を許可する。
「負け戦をおこなうのですか」
「そうだ。お前たちが得意な、負け戦をするのだ。お前たちは、開喉丘にいる白緩狢という軍団長の、指揮のもとにはいってもらう。今奴は、開喉丘に千人の兵を連れていき、策をめぐらせている。お前たち以上に負け戦が得意な男だ。よいか、お前たちにやってもらう行動とは」
 白王は、彼ら千人長が率いる軍それぞれに、細かな指示をしはじめた。その言葉を、彼らは沈黙したまま、聞き続けた。


  六 動座

「麗蝶や」
 白都の王宮、その中の庭の椅子に腰かけて、白賢龍は目の前の少女にむかって話しかけた。空には柔らかい陽射しの太陽がのぼっており、足もとには淡い影が落ちている。二人の姿を、横で白大狼が見おろしている。
 少女は、明るい笑顔を浮かべて、白賢龍のもとに歩みよった。
「お父様、西にいくの」
「ああ、そうだよ」
「すぐかえってくるの」
「いや、今回はだいぶかかるだろうな」
 白麗蝶は、寂しそうな顔をする。そして、白賢龍の膝の上によじのぼって座り、軽く彼に抱きついた。
「だいぶかかるんだ」
 白賢龍は、娘の頭を手で撫でてやる。
「大狼よ」
 横に座っている白大狼に対して、白賢龍は語りかける。
「何ですか、伯父さん」
「麗蝶を頼むぞ」
 白大狼はうなずく。
「それでは、たつことにする」
 白賢龍は、白麗蝶の体を両手でもちあげ、床におろす。そして名残惜しそうに、庭をあとにした。
 
 白大国の首都、白都は、大陸の北東の位置にある。その都市の南は、広河が流れている。広河は、大陸の北側で、西の山地から東の海まで、大陸を横断するように流れる川だ。この川の下流に白都はある。白都の位置から、さらに下流にくだり、河口にいたれば、青族が自治をする海都となる。
 この大河のはるか上流にあるのが広源市だ。この広源市は、広河に面した港をもった、地方都市である。
 この広源市のあたりまでは、大型船でも問題なく川をさかのぼることができる。だが、これよりも上流となると、小船に分かれて浅瀬を進まないといけない。そのため、白王は、この広源市を、対赤族攻略の補給の拠点として設定した。赤族の土地は、大陸の西の果て、草原と通称される地域にある。広源市から、辺境地帯を超え、山岳地帯を抜ければ、その草原にいたる。
 この草原は、適度な雨により、柔らかな草でおおわれている。ここでは、赤族たちが、馬を駆り、放牧をして生活している。この地は、白王の支配がおよばない地域なのだ。だが、その大地を農業用に転用すれば、広大な耕地を手にいれることができる。白王は、この地域が是が非でも欲しかった。この土地を落とし、緑族の土地を併呑し、黒族の土地を吸収して、はじめて大陸の征服をかなえることができる。大陸制覇のためには、この赤族の土地を攻略する必要がある。
 この広源市という町では、昨年から要塞化のための拡充工事がおこなわれてきた。その結果、広源市は巨大な要塞都市に変貌していた。白王は船に乗り、この広源市へと移動する。
 その日は、白王が白都を出陣する日であった。
 都では全ての住人が、白王を見送るために、沿道にひしめきあっている。白王も、それらの人々に手を振ってこたえる。白都に住む、あらゆる種類の民族たちが、白王の出陣に声援を送った。きらびやかな軍旗の群れに囲まれて、白王は、御座船へと乗りこむ。
 御座船は、きらびやかな金と銀と丹によって彩られている。白賢龍をあらわす、銀色の龍が、その船の周囲に象眼されている。その船をとり囲むように、大型の戦船が戦列を組んで上流へとむかっていく。風の具合にもよるだろうが、広源市までは、二週間程度はかかるであろう。青い川の水の上に、色とりどりの軍旗をはためかせ、御座船団は西へとむかっていく。
 白都の城壁の一角では、白麗蝶と白大狼が、その様子を眺めている。
「お父様本当にいってしまったの」
 川に見える船の影が、徐々に景色の中に溶けこんでいく。
「ああ、伯父さんは戦にいってしまったよ」
 白大狼は城壁から離れて、白都の王宮に戻ろうとする。だが、白麗蝶はその場を動こうとしない。
「麗蝶。もう春だとはいえ、城壁の上でずっと見ていたら風邪を引きますよ。下におりましょう」
「いや。最後まで見送るんだもの」
 麗蝶は動こうとしない。白く霞む地平線の中に、船は吸いこまれていく。大狼は、麗蝶に風があたらないように、そっとその横にたつ。麗蝶が、寒そうに大狼に身をよせる。遠景の中に船の影が消えた。
「さあ、下におりましょう」
 大狼の声に、麗蝶は無言でうなずいた。


  七 草原

 太陽の陽射しが、澄んだ空気を通して地面に照りつけている。地面に当たった光は、まばゆいばかりの緑を反射させ、その光を周囲に散乱させている。空は地平線にむかって青い景色を広げ、地はその空との境界線にむかって緑の草の海を光らせている。ここは大陸の西、草原と呼称される、一面草の緑におおわれた土地だ。
 その緑の大地に、点景のように影をつくるものが動いている。大きな天幕を基点に馬を走らせて、各所と連絡をとりあっている、赤族の騎兵たちだ。その本陣の天幕の中で、赤栄虎は仰むけに寝そべって、天井を見あげている。しかし、見ているのは天幕の布ではない。頭の中の情景を見ているのだ。彼の頭の中には、もう一つの大陸とでもいうべき、大陸の全図が収まっている。その頭の中の地図を見ながら、白王の動きを予測しているのだ。だが、決定的な点が分からない。白王が、今回とる作戦の内容だ。
「これは、一当てして、その感触を探ってみるしかあるまいか。そして、あの場所を攻めるかどうか、決めないといけない」
 赤栄虎は面倒臭そうな顔をする。少し考えたあと、彼は上半身をおこした。天幕の外に人の気配がしたのだ。
「はいってもよいだろうか」
 その声を聞いて赤栄虎はたちあがる。
「いや、まて、俺がでていく」
 赤栄虎は、天幕の入り口を通り、外に歩みでた。入り口の横には、赤栄虎の二倍の身長がある、赤高象がたっている。見あげるほどの大きさとはこのことである。その赤高象が、赤栄虎に声をかける。
「わしも攻め手に加えて欲しい」
「おいおい、お前だけ歩いていくつもりか」
 苦笑しながら、赤栄虎は赤高象の顔を見あげる。規格外の大きさの男だ。だから乗れる馬がない。そのため攻撃軍に参加することもできない。馬上の行軍が基本の赤族の軍団に、彼のような男は不要なのだ。少なくとも、機動力と正確な位置把握で、敵を翻弄しようと考えている赤栄虎の作戦に、彼のような男は邪魔になる。
「すまんが、今回の作戦では、お前がでる幕はないのだ。悪く思わんでくれよ」
「そうか」
 赤高象が、声をもらす。
「おいおい、気を落とすな。お前の体が役にたつときだってあるさ。何せ天から授かった体だ。きっと何かの役にたつんだろうよ。俺の力と同じように、お前のその体の大きさにも、何か意味があるのさ」
 快活に笑う赤栄虎の顔を見て、赤高象の表情の落胆も和らいだ。
 赤栄虎は、草原の景色に目を移す。緑の海の上を、馬と人の影が矢のように、飛び去り、近づいてくる。この速度が、赤栄虎たちにとっては最大の武器となるだろう。人の数では圧倒的に負けている。決定的な場所に、決定的な戦力を投入するしか、相手を撤退させる方法はないのだ。
 東の景色の中から、人馬がこちらにむけて駆けてくる。
「あれは、誰だ」
「赤凌狛のようです」
 赤高象の方が背が高いので、赤栄虎よりも先に相手の姿を確認できる。その馬上の人物の姿を見て赤栄虎はため息をつく。
「ああ、あの女か」
 赤栄虎は、大陸全土を旅してきた。その中で、軍隊中に女がいた場合の末路は散々見てきている。戦がはじまる前など、軍隊が健全なときはいいのだ。だが、一度戦争がはじまり、緊張が高まると必ず同じ現象にたどりつく。興奮した男たちが、女を犯しだすのだ。
 それは、赤栄虎が見たどの軍隊でもそうだった。そして、戦が負けはじめると女が置かれる立場は完全に決まる。性欲のはけ口だけではなく、死への恐怖から逃れるための、暴力のはけ口になるのだ。女は、死ぬまで犯され、殴られ、切り刻まれていく。さらに軍隊自体が負けてしまえば、今度は勝利者たちの感情のたかぶりに任せて破壊しつくされる。
 まだ、本格的な戦争ははじまっていない。だから赤族の陣営も健全だ。だが、白王が動座して、この地にむかっているという情報は、既に多数の方面から集まっている。戦は近い。
「なあ、赤高象よ。お前、妻を娶る気はないか」
 突然の赤栄虎の言葉に、赤高象は戸惑ってその言葉を聞きなおす。
「いや、戦場を女が走っているのは虫酸が走るのさ」
 昔見た、戦場の光景を思いだしてな。赤栄虎がそういうより前に、彼らの目の前に人馬が駆けこんできた。
「赤栄虎様、それは私への当てつけですか」
 その女、赤凌狛は声を荒げた。馬を飛ばしてきたせいで、息も荒い。
「いった通りさ。女は戦場などにでようとせず、天幕のなかで寝ておけばよいのだ」
 赤栄虎ににらまれ、赤凌狛の馬が申し訳なさそうに頭を垂れ、二、三歩さがる。軍団長の中には、この赤凌狛を擁護しようとするものもいる。彼女は、赤堅虎率いる戦闘で壊滅した部族の生き残りだからだ。そのため、彼女が赤族の軍団に混じって、偵察の任などを請け負おうとするのを助けたりするのだ。
 赤族は、戦闘は経験しているが、戦争は経験していない。赤栄虎は、十年にわたる大陸全土の旅によって、そのことを痛感してきた。彼は十年の旅の中で、何度か戦争に巻きこまれたことがあった。そして、戦場の悲惨さを知った。
「私は、開喉丘の偵察にいってきたのです。その報告をさせてください」
「女の偵察兵など、これからの戦にはいらぬ。女など不要だ」
 傲然といい放つ赤栄虎の姿を見て、赤凌狛は唇を噛む。赤堅虎が族長の頃には、こんなことをいわれたりしなかった。赤堅虎は、誰に対しても分け隔てなく接してくれていた。
「報告します。敵の数は千。開喉丘の上に、柵で囲った簡易の陣地をつくっています。天幕は五十ばかり、柵の内側に広げられています。敵の将らしきものは、頼りなげな雰囲気がする若い男で、いつも背を屈めてゆっくりと歩いています」
「で、どうする気だ。誰か夫となる男でも紹介してやろうか」
 赤栄虎の言葉に、赤凌狛は顔を怒りで赤くする。そしてそのまま馬を駆り、陣幕を離れていく。
「赤栄虎様、もう少し優しくいった方がよかったのでは」
 赤高象が、駆けていく赤凌狛の姿を見て、不安そうにつぶやく。赤栄虎は、その赤高象の姿を見あげて笑みをこぼす。
「さっきの話だけどさ、考えておけよ、妻を娶れという話。喧嘩に女が参加するのはとめやしないが、戦争に女が参加するのはとめないとな」
 赤栄虎は、天幕の中にはいる。夕方に軍団長が集まってくるまでは暇だ。それまでに、あの場所を攻撃する計画の練りこみを進めておこう。まだまだ考えないと、あの作戦は難しそうだからな。
「あーあ、憎まれ役はつらいねえ」
 そういいながら、赤栄虎は天幕に消えた。
 
 草原に夕方が訪れた。天を太陽の光が赤く焦がし、地には濃緑の影が広がっていく。その時刻に、赤族の軍団長たちが集まっていた。その数は数十。各軍団は、数百人の兵士しかもたないものもあれば、数千の兵士をもつものもある。全て合計すると、数万になろう。だが、白大国と違って、食料の備蓄が大量にあるわけではない。実際に使える兵力は一万を割るだろう。この人数で、一軍団一万人が軍事単位の、白大国と戦おうというのだ。まともに戦えば勝ち目はない。
 集まった軍団長たちは、全て天幕の中にはいっている、族長の天幕は、これだけの人数が収容できるほど大きい。彼らの真中には、市表がおかれている。かつて赤族が、作戦会議を開くときに、このような位置関係が分かる、正確な地図などがあったためしは一度もない。彼らはその地図に置かれた石を、それぞれの軍団に見たてて、作戦会議を進めている。
「まずは威力偵察をしながら、数度攻撃を当てて、様子を見よう。最終的な作戦を発動させるかどうかは、そのときの白大国の出方を見て決めたいと思う。これは通常の手では撃退できないと思えば、例の作戦を発動させる。これまで通りの、小競り合いで撃退できる程度の相手だと分かれば、軽く当てて追いかえす」
 赤栄虎は、石を指で動かして、その進軍の様子をみなにさし示す。
「さて、誰がその威力偵察にいくかだが」
 そういった瞬間に、その場の全員が、自分をいかせてくれと、我先に申しでる。
「静まれ、静まれ。全員一度に喋ったら分からんじゃろうが」
 赤栄虎の隣にいた、赤朗羊が声をあげる。
「今回の目的は、敵の出方を計るためのものだ。その見極めができるものはいるか」
 一同は押し黙る。敵をなるべくたくさん倒せといわれれば、全員、自分がもっともうまくやる自信はある。だが、相手の出方を計ることをうまくできる自信はない。
「仕方がない。俺が指揮をする。いいか、数軍団連れていくから、その軍団長はこれからの初戦で、俺の用兵を盗め。連れていくのは、百人程度の軍団の軍団長を五人。それに、赤朗羊、お前もだ」
「むむ、わしもいっていいのですか、赤栄虎様」
「ああ、お前は近くにおいておかないと不便だからな。よいか、今回の戦は七日で引きあげる。残ったものは、各自、俺がいった訓練をしておくように」
 全員が赤栄虎の声に返事をする。
「それじゃあ解散。開喉丘にいくものは、明日の朝、天幕に集まっておくように」
 一同は楽しそうな顔をしている。その様子を見て、赤栄虎が彼らをにらむ。
「お前ら、明日の朝、こっそりとこの天幕の前に、何食わぬ顔で並ぶつもりだろう」
「めっ滅相もございません」
 全員が、先にいわれてしまったとばかり、大慌てで首を振る。この数週間、赤栄虎による訓練を受けてきた彼らは、その成果を試したくてうずうずしているのだ。彼らは、天幕からでたあと、指名された軍団長を口々に羨んだ。


  八 白都の酒場

 白都に今一度視点を移してみよう。白都は、もともとは何もない土地であった。しかし、白賢龍がこの地に都を定め、巨大な白大国の首都に相応しい姿へと成長させていった。その場所は広河の下流沿いにあり、後背には肥沃な穀倉地帯を抱えている。大陸の各地から、この白都には使節が訪れ、地方の都市などは、この都市に連絡員をおくことも多い。そのため、道を歩く人々の姿、服装は、まるで人類の見本市であるかのように多種多様である。
 その人々の多彩さを、手っとり早く見たいと思うのならば、白都の酒場に足を踏みいれればよい。そこでは、大陸中から集まってきた、雑多な人々が身をよせ、酒を飲んでいるからだ。今日もこの場所に、風変わりな人々が訪れている。その中から三人ほど見て、名前と、その旅の様子を書き並べてみる。そうすれば、白都にいる人々が、いかに千差万別であるかが分かるだろう。
 黒華蝦と呼ばれる壮年の黒陽会の信者は、地方からでてきて人探しをしている人物だ。だが、この白都で特定の人間を探すのは非常に難しい。さらに、彼は黒姓を名乗っているが、その姿は赤族のものだ。今から赤族との戦争がはじまろうかという時期、よっぽどの後ろ盾がないと、人探しも困難を極めるだろう。その彼は、この酒場では始終、給仕の娘を口説いている。もしかしたら、人探しは、白都で女を口説くための口実なのかもしれない。
 いま一人は、白軽兎と呼ばれる料理人の卵だ。彼は料理人の多い、海都にむかう予定だと店の主人に告げている。明日には出発するそうだ。
 最後の一人は、赤速鷹と呼ばれる赤族の若者である。彼は赤族と白大国の戦争があると聞きおよび、この日の酒場を最後に、白都をでて、赤族の土地にむかうつもりであるようだ。白都の友人たちと、別離の酒を飲んでいる。
 ほかにも酒場を見渡せば、数日前に白都についたものや、数日後には白都をあとにするものもいるようだ。座っている人々の民族は様々である。その様子を見ながら、店の主人は自分で杯に酒をそそぎ、その酒を飲みながら客に愚痴をこぼす。
「あんたたち、地方からでてきた人たちには、この酒場も人が多いように見えるんでしょうがね、白王様が動座してから随分減ったんですよ。今では、広源市の方が活気があるんじゃないでしょうか。白王様と共に、都も西に移動したようなものですから」
 客にむかってため息をつきながら、杯を一気に飲み干したあと、主人はふたたび仕事に戻る。もうそろそろ閉店の時間だろうか。酒場の主人は、最後の注文をとるようにと、給仕の娘に告げた。


  九 脱走

 白都も、白王の西への動座で随分寂しくなった。まず第一に道を歩いている人の数が減った。次に、王宮の人の数が激減した。さらに、兵士たちの緊張感もなくなった。やはり、白王がいなくなると、この白都は魂が抜けたかのようになるのだろう。
 午前中、王宮の一室で、白大狼は一人古い書物を読んでいる。熱中して書物を読んでいると、彼の背後で部屋の戸が叩かれた。
「誰ですか」
 白大狼は、書物を机の引出しにしまい、戸のむこうに声をかける。
「僕だよ、僕。白好鳩だよ」
 その声の主は、大狼の返事を待たずに、部屋の戸をあけ、陽気に挨拶をした。
 面倒なことが嫌いな白大狼は、この白好鳩という男が好きになれない。若くて快活な印象のこの男は、いつも笑顔を周囲に振りまきながら、自分本意に物事を進めようとする。おかげで、何度面倒に巻きこまれたことか。今度は何を考えたんだいったい。白大狼は無表情のまま、白好鳩に応じる。
「何だ、何か用か」
「いや、白麗蝶と結婚しようと思って」
 いきなり、何をいうんだこの男はと思い、白大狼はめまいを覚える。
「そのためにさ、遠乗りにでも白麗蝶を誘おうと思ったのさ。だから、君がとり次いでくれないか」
 この男はいつもこの調子だ。まともに話をしていたら時間の無駄だ。
「立場上、私が彼女を王宮の外にだしたら、まずいことぐらい分かるだろう」
「むっ、もういい、君なんかとは話しをしない。直接、白麗蝶を誘いにいってくる」
 白好鳩は、勝手に怒って部屋をでていった。何をしにきたんだ、あいつは。白大狼は頭が痛くなった。
 
 白麗蝶は、このところふさぎこんでいる。周囲の人は、父親の白王が、西に遠征にいったせいだと思い、不憫だと思って気を使っている。だが、彼女の本心はだいぶ違っていた。彼女は、ふさぎこんだ振りをしているのだ。
 彼女の部屋では、今日も芸人たちが呼ばれ、曲芸や演奏などをしている。まわりの人間は、白麗蝶がふさぎこんでいるとばかり思っているので、彼女がこのような芸人たちを呼んで、芸を見ることに、何もとがめだてはしない。
 彼女は呼んだ芸人の人となりを観察して、目的の仕事をおこなえる人物を選別していたのだ。駄目だと思ったら変え、よいと思ったら数日観察し、二、三の質問をしてみて、一人の芸人を計画のために選びだしていた。
 白麗蝶が求めていた人材は、以下のような条件の人間だ。旅慣れている。白王や、白大国を恐れていない。人当たりがよい。物事をするのに罪悪感がない。人の頼みを気軽に聞いてしまう。深く物事を考えない。
 彼女が探しているのは、白都を抜けだす手助けをさせるための人物だ。彼女を白都から連れだすということが、どういうことかを深く考えない知性。それに、旅慣れていて、旅の途中で面倒を起こさない、従者としての素質。こういったものが、彼女の手助けをする人物には要求される。多いときには、日に何度か人をとりかえて、ようやく、その条件に合致する人物を白麗蝶は見つけた。
 その人物、白楽猫は、まだ二十歳に年が届かない、小柄な娘である。芸人としての腕はまだまだだが、何よりも、物事を深刻に考えないその性格が、今回の仕事にうってつけだ。白麗蝶は、この人物を計画に使う人物として決定した。
 白楽猫が部屋で芸をするのを、白麗蝶はくつろいで見ている。その部屋の隅では、青巧燕という地理の家庭教師が、おろおろとしてたちつくしている。白王が動座してから、白麗蝶のことをとめられる人物は、白大狼ぐらいしかいなくなっていた。この大人の青巧燕も、本気になった白麗蝶をとりおさえることができない。彼女は、白大狼に剣術、武術、馬術全般を教わっており、その腕は並の大人をはるかに超えている。やはり、白賢龍の血は争えないのかも知れない。
「あの、白麗蝶様、お勉強を」
「黙っていなさい」
「はい」
 青巧燕は、黙るしかない。白楽猫の芸が終わった。白麗蝶は、白楽猫を誉め、手ずから金貨を与えてやる。そして彼女の耳に、自分の口を近づけて、そっと話しかけた。
「明後日の朝、王宮のこの部屋の下まできなさい」
「はい、分かりました」
 その言葉ににっこりと微笑んで、白楽猫は、あまり深く考えずに返事をする。白麗蝶は考える。兵たちに緊張感のない今なら、隙をつきこの部屋の下までたどりつくことはたやすいだろう。そのとき、部屋の戸が叩かれた。
「白麗蝶様、白好鳩というものが来ておりますが、お通ししてもよいですか」
 召使が戸の外から声をかけてきた。
「何用か聞け」
「遠乗りに誘いたいと申しているのですが」
 白麗蝶は、その言葉を聞いて少し考えた。白好鳩という名の男が、王宮に出入りしているのは何度か見たことがある。白大狼に絡んでいた男だ。遠乗りか。都合がいい。
「はいってもらえ」
「はぁ」
 召使が仕方なさそうに戸を開き、白好鳩をいれる。彼は嬉しそうに部屋にはいってきて、白麗蝶に微笑みかける。
「白麗蝶様、遠乗りにいきませんか」
「うむ、では明後日の朝、王宮の門の前でまっていろ」
 白好鳩は嬉しそうに声をあげる。白麗蝶に、絶対明後日の朝だからねと、念をおして部屋をでていく。白麗蝶は、戸が締められて、足音が遠ざかったことを確かめてから、青巧燕の顔を見た。
「聞いたであろう。遠乗りをすることになった。明後日の朝までに、馬を二頭用意しておけ」
「はあ、でも、あの、二頭ですか」
「そうだ。それに、保存のきく食料の用意もしておけ。二人それぞれ、三日分ほどあればよい」
「三日分もですか」
「そうだ。遠乗りの途中で、道に迷ったらどうするつもりだ。私に餓死をしろというのか」
「はっ、はあぁ」
 青巧燕は、不承不承返事をする。
「なお、このことは他言無用にすること。特に、大狼にいうことはならんぞ」
 青巧燕は押し黙った。ああ、逆らうわけにはいかない。困ったことになったぞ
 
 翌々日、白好鳩は笑顔で王宮の門の前で馬を引いてまっていた。まだ朝霧が引いていない白都の中は、視界がほとんど通らない。広河からたちのぼった湿気が、そのまま明け方に霧となって、このあたり一帯にたちこめるのだ。その霧の中、王宮の奥から、馬に乗る二人の人影がでてきた。
 一人は旅装に身を包んだ白麗蝶。もう一人は、今朝方、白麗蝶の従者に勝手に任命されて、そのまま何も考えずに引きうけた白楽猫だ。
「白麗蝶様。そちらの女性は」
 その声に、素早く白楽猫はこたえる。
「あたしは、従者です」
「そうか、従者か。そうなんだ」
 白好鳩は、深く考えずに、白麗蝶と白楽猫を連れて白都の城門にむかう。
「ねえ、白好鳩。私たちのことを、兵士に変に詮索されるのは嫌だから、私たちのことは黙っていてね」
 そういいながら、白麗蝶と白楽猫は長衣についた頭巾を目深にかぶる。
「ああ、もちろんさ」
 予定通り、白麗蝶がきてくれた白好鳩は上機嫌だ。城門の兵士と二、三言喋ったあと、三人は城門を抜けた。
「さあ、白麗蝶様。どこにむかいましょう」
「そうね、広河にむかいましょう」
 三人は、馬を並べて広河にむかう。朝日がのぼり、霧がだんだんと晴れてきた。広河に停泊していた船の姿が見えてくる。小さな船や、大きな船など、様々な船が岸にとまっており、漁師や水夫がその船の上で、出港の準備をしている。白麗蝶は白楽猫の袖を引いた。今朝、手短に打ちあわせをしていた行動を、実行に移すのは、今をおいてほかにない。
 白麗蝶と白楽猫は、馬の腹を蹴って、一気に馬を走らせはじめた。その行為を予想していなかった白好鳩は、二人が馬で駆けだす様子を呆然と見つめている。彼女たち二人は、岸辺につくと馬を捨て、船乗りに何か話しだした。直後、船に乗りこみ、その船は広河のなかに進みはじめる。白麗蝶と白楽猫は、手をたたいて喜びあっている。その船の船長は、大きな宝石を朝日にきらめかせていた。
「よーし、海都にむかえ」
 楽しそうな白麗蝶の声が響いてくる。白好鳩は、その場でたちつくした。
「えーっと、よし。白大狼に相談してみよう」
 白好鳩は、力なく白都に引きかえしていった。
 
「お前ら二人とも馬鹿か」
 白都の王宮に、白大狼の声が響き渡る。白好鳩がかえってきて、白大狼の部屋にはいった直後、その部屋の中で、白大狼は張り裂けんばかりの大声を発した。部屋には、白大狼、白好鳩、青巧燕がいる。
 いつもは飄々とした白大狼が、ここまで激怒することは珍しい。それもそのはずだ。白大国の第一王位継承者が、王宮を逃げだしてしまったのだ。それも、手引きをしたのは、内部の人間二人。白好鳩と、青巧燕なのだ。これで何かがあったら、この二人は、白麗蝶を間接的に殺した、王位継承者殺害犯となるのだ。いや、そうでなくとも、王位継承者の失踪を手引きした人間にはなる。
 白大狼は、白王の言葉を思いだす。麗蝶を頼むぞ。そういった白王の目は、娘に対する愛情で満ちていた。何かあってからでは遅い。白大狼は、最後に姿を見た白好鳩に、一緒にいた娘の容姿と、乗っていった船の特徴、船長が持っていた宝石の様子を聞く。
 これは、白大狼自身が追っていくしかないだろう。白都に残っていた軍団長も、この変事を知って、駆けつけてきた。
「白大狼、聞いたぞ。大変なことになった」
 軍団長の顔も青い。白麗蝶が抜けだすのを、門番が見つけられなかったのは、彼の責任になるからだ。
「ええ、急いで私が追います。船と兵士百人ばかりを貸していただけないでしょうか」
 軍団長は、これほど矢継ぎ早に指示をだす白大狼の姿をはじめて見たので、正直驚いた。
「ああ、分かった」
 すぐに軍団長は、部下を港と兵営に走らせる。
「それから、白王様にも急使をだしてください。おこったことのあらまし、そして、その後の処置を、余すところなく伝えてください」
 伝えておかなければ、白賢龍は激怒するだろう。
「分かった」
「それでは、私は出発します」
 白大狼は部屋をでようとする。その前に足をとめて、軍団長に声をかける。
「その二人は牢にいれておいてください。白王様の指示があるまでは、殺してはなりません」
 軍団長の返事を聞いてから、白大狼は部屋を飛びだした。やれやれ、ああやって処置を決めておかないと、斬首は免れられなかっただろう。いくらあれだけのことをしてしまったからといって、知りあいの首がはねられるのは後味が悪い。
 白大狼は、王宮をでると、馬を飛ばして港にむかう。港には、軍団長の指示で、兵士が百人既に集まっていた。船の手配も済んでいる。
 青巧燕の話では、白麗蝶は海都のことをしきりに調べていたとう。白好鳩も、白麗蝶が海都にむかえと叫んでいた、といっていた。むかった先は海都で間違いないだろう。
「ゆくぞ」
 そういうと、白大狼はすぐに船へと乗りこんだ。


  十 海都帰還

 潮風が鼻を心地よくくすぐる。春の陽射しが心地よい街道の昼さがり。
 白都から海都への道程を、馬でゆるゆると進んでいたせいで、海都が見える場所までたどりつくのに、一週間ほどかかってしまった。だが、ゆっくりと進んだのにはわけがある。史表を読む時間が欲しかったのだ。おかげで、全て史表を読み終え、だいたいどんなものなのかは頭の中にはいった。
 あとは、これを頭の中で整理して、これが何物なのかを理解するという作業が残っている。史表は、一読しただけでは、その全容を把握できない代物だ。一読して使った場合は、その使い方を誤るだろう。本質を理解せずに、うわべだけ模倣する人間がでる。それが青聡竜には怖い。現にこの場に、史表のうわべに驚愕して、青聡竜に感嘆しているものたちが多数いる。そういう人間は危ういだろう。
 青聡竜は、街道の先にある海都を眺める。完全に商業の町だ。城壁で町は囲まれているが、城門はいつも大きくあけ放たれている。広河や海に面した場所は、港を優先してつくっているので、その防衛力はたいしたことがない。水上からの攻撃は、その港に停泊する種々の商船や戦船で対応するという方針なのだろう。
「海都も簡単に落とせるなあ」
 青聡竜は史表を巻きながらつぶやいた。海都についたら、まずは舟大家の商館にいこう。それから、史表殿の造営工事の見積もりをとらないといけない。海風神社にもでむく必要があるだろう。史表殿ができるまでの、仮の史表殿のための場所を、海風神社に借りなければならないからだ。ついたら急に忙しくなる。今のように、馬車の上で日がな揺られているという楽はできそうもない。
「司表様、海都が見えてまいりました。何か指示はございませぬか」
 額にこぶをもった白族の青年が馬車に近よってくる。盗賊との戦闘以来、青聡竜が史表から目を離すと、ひっきりなしに、兵士や僧が話しかけにやってくる。それがあまりにも煩わしかったので、結果的に史表を読むのに没頭せざるをえなかった。
 青聡竜は、馬車の下で彼の姿を注視している青年の名前を思いだそうとする。確か、白激犀だった。
「それじゃあ、白激犀。一足先に、海都の舟大家の商館にいってくれ。守衛がいると思うから、その誰でもよいのでこう伝えてくれ。青聡竜が、あと半刻ほどで戻ると」
「はい、分かりました」
 青年は、駆け足で海都にむかう。こんなに、やる気のある奴らばかりだと、私が疲れてしまいそうだ。
 さて、この史表をどうするか。難儀なものを渡されてしまったものだ。
 
 海都の舟大家、その商館の執務室。その部屋の中で、突然の報告をうけて、青美鶴は奇声をあげた。
「青聡竜の叔父様がかえってくるの。じゃあ、今日は仕事を終わりにして、叔父様とすごすことにするわ。いいでしょう」
 青美鶴の声に、老秘書は首を横に振る。
「仕事は山積みです」
「いつもそうじゃない。どれだけやっても、いつも山積み。終わりました、なんていったこと一度もないでしょう。そんなに決済しないといけない事項があるって、根本的におかしいんじゃないの。そもそも家長が一人でやる仕事じゃないのよ、この量は」
 今までたまりにたまっていた不満が、とうとう爆発した。青美鶴は部屋の角に歩いていって、部屋の隅をむいて座りこむ。
「青美鶴様、お仕事はまだ山積みです」
「いや、青聡竜の叔父様にあうまでは仕事をしない」
 その声は鳴き声に近い。報告を伝えにきた、商館の伝令員もその様子を見てうろたえる。
 老秘書も困り果てる。青美鶴に強く仕事の話をしているが、彼も単なる雇われ秘書なのだ。背後に舟大家の実力者たちがついてくれているとはいえ、青美鶴が一声いえば、罷免させられる存在だ。だが、わがままはいうけど、仕事の分別はついている青美鶴は、そんなことは今まで一言もいったことがない。これだけ感情を爆発させている瞬間でも、彼の仕事に対する苦情は、一切口にしていない。不満をもらしているのは、あくまで家長の仕事についてだけである。
 老秘書の個人的感情としては、この若い家長のわがままを、たまには通してやりたいと思う。だが、仕事でそれはできない。つらいところだ。
 執務室の扉をあけ放ったまま、伝令員がゆき場を失っていると、三階にあるいろいろな部局から、少しずつ人が集まってきた。使用人たちも、手に掃除道具や湯茶道具をもったまま、集まってきている。場はどう見ても、老秘書が若い娘を泣かしているようにしか見えない。
「あの」
 人々の垣根のうしろから、使用人の一人が声をかけた。
「一刻だけとか、青美鶴様に休憩をとってもらってはどうでしょうか。最近、青美鶴様は、ずっと働きづめのようですし」
 声をかけた使用人は、数日前に雇われはじめた、黒艶狐という整った顔立ちの女だ。その提案に、ほかのものたちも同調しはじめる。老秘書にとっても、この提案は渡りに船であった。まったく休みにしてしまったら、舟大家の実力者たちにあわせる顔がない。一刻ぐらいなら、執務に疲れて休憩をとったと、言い訳できなくもないだろう。
「青美鶴様、一刻だけなら、青聡竜様とお会いなさってもよいですよ。ただし、青聡竜様がこの商館にくるまで、できるだけ早く仕事を進めておいてください」
 老秘書が声をかけたのち、全員が青美鶴がどうでるか、固唾を飲んで見守る。少したってから、青美鶴はたちあがり、部屋の隅をじっと見続けたあと、振りむいた。まだ表情は暗いが、どうにかそれで妥協したようだ。
「さあさあ、みんな、それぞれの持ち場に戻って」
 老秘書は、扉のまわりに集まってきた人々を追い払って、扉を閉じた。青美鶴は、もの凄い早さで書類を読んでは、その決済をおこなっている。青美鶴のいつもの仕事が、決して遅いわけではない。だが、最近の決済事項の多さは異常なのだ。
 彼女が家長に就任した頃と、白王が赤族の土地を征服するために本格的に動きはじめた頃は、ちょうど重なっていた。一番の繁忙期に、彼女は舟大家の家長になってしまったのだ。これだけの仕事を、はじめてであるのにも関わらず、判断の失敗なくこなしているのは、奇跡を見ているようだと老秘書は思う。
 異例の若さで、女性であるのにも関わらず、舟大家の実力者が全会一致で、彼女を家長に推した理由が、就任後にようやく彼にも分かった。彼女を失うことは、舟大家にとって、非常に大きな損失だ。体や心を壊さないうちに、何か息抜きを与えてやらないといけないのではないだろうか。老秘書は、目まぐるしい速度で書類に目を通す彼女を、ずっと横で見続けていた。
 
 海都の城門をくぐり、町の大通りを抜け、広河に面した舟大家の商館へと、青聡竜たちはむかっていく。この突然の兵士と僧と馬車の行列に、最初人々は驚いた。だが、その先頭の馬車に乗っている人物が、青聡竜であることを見つけると、すぐに人々はそのまわりに集まってきた。
「青聡竜様、この行列は何なのですか」
「白都にいっていたそうですが、何かあったのですか」
「久しぶりに戦線に復帰されたりするのですか」
 それぞれの人が、思い思いに青聡竜に質問をする。その質問をしている人々の顔は、一様に明るく、楽しそうである。白大国の建国に加わり、海都との共生関係のきっかけとなったこの人物は、この海都の中でも特に人気のある人物なのだ。彼のうしろで列をつくっている兵士や僧たちも、青聡竜と同じようにもみくちゃにされていく。
 いつしか、大通りに数千人の行列ができていた。突如祭りでもはじまったかのように、人々は、久しぶりに海都にかえってきた青聡竜をとり囲んでいく。青聡竜たちの歩みはゆっくりとしたものになり、目の前にある商館まで、なかなかたどりつけない。いつのまにか、行列になった人々に、酒を売りはじめるものまででてくる。大通りは完全に通行の機能を停止してしまった。
 仕方がない。青聡竜はたちあがり、指を舟大家の商館にむける。
「進め」
 大声で叫ぶ。その声を聞いた人々が、徐々に舟大家にむかって歩きはじめる。青聡竜たちの人や馬車の列も、それに押し流されるかのように進みだす。
 舟大家の一階の船着場まできたところで、青聡竜は人々に、今度はとまれと指示をだした。青聡竜は、馬車をおりて、二階にあがる階段へとむかう。彼が階段に足をかけたとき、上の階から慌しく女性が駆けおりてきて、青聡竜にむかって飛びこんだ。その体を、青聡竜は両手でうけとる。女性は、青聡竜の胸に体ごと抱えられる。そして、青聡竜の首に、自分の両手を巻きつけて抱きついた。
 その場に集まっていた人々から歓声があがる。海都の英雄青聡竜が、その両手でうけとめたのは、舟大家の若く美しい家長青美鶴だった。青美鶴は、満面の笑みを浮かべて、青聡竜の腕のなかで再会の挨拶をする。
「青聡竜の叔父様、お帰りなさいませ」
「ちと乱暴な出迎えのようだな。みなも驚いているぞ」
 海都の人々は、楽しそうにその様子を見て囃したてる。彼らは知っているのだ。父親が舟大家の家長として忙しい日々を送っていた青美鶴にとって、青聡竜が育ての親のようなものだということを。
 青聡竜についてきた、百人の兵士や僧たちは、この大歓声と、白昼の抱擁に面食らっている。突然美女がやってきて、その上司に抱きついたのだ。そして、この大歓声。この海都という街が、白都とは、だいぶ赴きの違う町だということが、到着初日で彼らにも分かった。この街は、大陸で最も活気があって、人々の心が広やかな街なのだ。
「どうした、美鶴。少し痩せたんじゃないか」
「そうなの、仕事が忙しくて。でも、叔父様がかえってきたから大丈夫。叔父様にも、私の仕事を手伝ってもらいたいの」
「それは残念ながらできない。今回白都にいって、白王様から仕事を申しつけられたからな。その仕事をしないといけない」
 その言葉を聞いて、青聡竜の腕の中の、青美鶴の顔が暗くなる。
「私より、白王様の方が大切なんだ」
「おいおい、どうした。急にそんなことをいいだして」
 そのとき青聡竜は、階段の上から老秘書が、人目を気にして手招きしていることに気づいた。
「お前たちはそこでまっていろ」
 そう兵士と僧にいい残して、青聡竜は、青美鶴を抱えたまま階段をのぼっていく。老秘書は階段をのぼって三階にあがる。青聡竜もそのあとを追う。そして、舟大家の執務室にはいったところで、老秘書は扉を素早くしめた。
「いったい、美鶴に何があったんだ」
 老秘書は、先ほどの青美鶴の行動と、最近の激務の様子を詳細に語った。青美鶴は、暗い顔で、何かぶつぶついっている。青聡竜は、彼女を長椅子に横たえ、その頭を撫でてやる。少し落ちついたのか、青美鶴は、軽い寝息をたてはじめた。
「しかし、それは働かせすぎだろう」
 青美鶴が完全に寝息をたてはじめたのを確認してから、青聡竜は呆れた顔で、老秘書にそういった。老秘書が小さくなる。
「分かった。私が舟大家の実力者たちと交渉する。毎日、仕事の合間に半刻は、自由時間をつくってやるべきだ。美鶴は食事が好きだから、昼飯どきをあけてやるのが、一番の息抜きになるだろう」
 ちょうど、史表殿の造営地を探すために、舟大家の実力者たちをまわらなくてはならなかったのだ。その前に、仮の史表殿だけは確保しておかないと、下の部下たちが寝る場所がない。仮の史表殿は、海風神社の社殿を借りることにする予定だ。まあ、海風神社なら手紙をだしておいて、あとで赴けばよい。舟大家の実力者たちは、私自身がまわらないとならないだろうが。
 青聡竜は、老秘書に、紙と筆をもたせて手紙を書く。
「さて」
 ゆっくりと、青美鶴がおきないように、青聡竜はたちあがる。そして、一階の船着場へとおりていった。
 
「それじゃあ、海風神社に、仮の史表殿を借りるために、手紙をもっていって欲しいのだが」
 兵士と僧の前で青聡竜が口を開くと、一斉に多数のものたちがその手紙を自分が運ぶと自己主張をはじめる。こんなに、大勢でいっても困るだろう。青聡竜は、海風神社の人のよさそうな、細身の神主の姿を思いだした。
「それじゃあ、一番反応が早かったお前にいってもらおう」
 僧を指さしてから、名前は何だったかと、青聡竜は、頭の中を探す。確か、白柔猩だったはずだ。
「白柔猩、君に頼もう」
「はっ、早速いってきます」
 残りの選にもれたものたちが、本気で悔しがっている。どうやら、白賢龍は、この仕事に、相当やる気のあるものたちばかりを集めたようだな。私にも、働けということか。
「それじゃあ、お前たちはここで待機しておけ。海風神社の社殿の借り受けが決まったら、神社にむかうのだ。私はちょっとまわらないといけない場所ができた」
 そういい残し、青聡竜は、舟大家の実力者たちのもとへとむかった。


  十一 初戦

 大陸の西。白大国の領土の端から、山岳地帯までのあいだは、辺境地帯となっている。その辺境地帯を越えて、山岳地帯を通過すれば、赤族の住む草原にいたる。その辺境地帯と山岳地帯の境界線上に、開喉丘と呼ばれる丘がある。その丘の周囲を見てみよう。丘の北側と南側を通って、西から東にむけて川が流れているのが分かる。だが、この川は、堀としての役目を果たすほど広くも深くもない。
 開喉丘の最大の特徴は、そこから西の草原まで続く山岳地帯の構造にある。山岳地帯は、その連なる山が高い場所もあれば、低い場所もある。この開喉丘から西の草原までの間は、その中でも特に連続する山の高さが低い。そのため、周囲から見ると、まるで、この開喉丘から草原まで、谷のように道が続いているように見える。その数段低い山の通路の入り口にあたるのが、この開喉丘なのだ。開く喉と書くのは、その特徴をよくあらわしている。
 この開喉丘は、白大国が草原に攻めこむのにも都合がよいが、赤族が白大国を攻めるのにも都合がよい。だが、赤族はこれまでわざわざ、平原まで攻めてきたことはない。彼らは自分たちの生活に都合がよい草原を守りたいだけであって、それ以上のことは望んでいなかった。
 現在、開喉丘には、白大国の一軍が陣どって、柵をめぐらせ天幕を張っている。宿営しているのは、千人長を筆頭とする千人団一つ。それに、白緩狢という、白王直属の軍団長一人だ。指示はこの白緩狢がだす。千人長は、その指示のもと動いている。
 白緩狢は、まだ二十代の若さである。だが、決して戦歴が浅いわけではない。既に十年以上、戦場に身をおいている。彼は十代の頃に軍団長に抜擢された。白王の人材好きを、誰もが知っているので、ほかの軍団長たちは、特に何も文句はいわなかった。だが、白大国建国当時からの軍団長たちのあいだでは、彼の評判は悪かった。古株の軍団長は、戦争で勝つことが至上目的であったのに対し、白緩狢は負け戦中心の軍団長だったからだ。
 白王の戦争では、勝つための軍と同じくらい、負けるための軍が重視される。敵を短時間で倒すためには、負けを演出する必要もある。だが、本当に負けてはいけない。損害をほとんどださずに、派手に負けてみせないといけないのだ。彼は、その負け戦が、誰よりも得意であった。
 彼は、白大国の軍議では、いつも末席で暇そうに座っている。彼が大きな顔をしようものなら、他の軍団長の鋭い視線が彼を射抜く。負け戦ばかりのものが、何をいうかと怒鳴られる。だから彼は、必要以上にでしゃばったりはしない。
 白緩狢は、負け戦中心といっても、実力がないわけではない。ほかの軍団長と同じか、それ以上に実力がある。その証拠に、撤退戦で殿軍を任されることも多い。彼は、最小限の損害で、軍隊を落ちのびさせる用兵を、これまで何度もおこなっている。
 その白緩狢が、平服で開喉丘の一角に座っている。彼はいつも弛緩した顔で、気だるそうに背を丸めていることが多い。そのため、平服を着ていると、ただの一兵卒以下の人間にしか見えない。彼は開喉丘から見える山岳地帯の様子を眺めている。空には薄い雲が流れており、開喉丘から続く低い山岳地帯に、まだらの影を落としている。その山の通路のむこうには、草原があるはずだ。だが、草原がある場所の高度は、開喉丘のそれよりも高いために、ここから草原は見えない。
 彼が座っている場所は、白緩狢の見つけた絶好のさぼり場所なのだ。ほかの天幕からは見えないし、真面目に仕事をしている人間はこない。白緩狢は、ぼうっとした顔で、目の前に広がる景色を見ている。ほかにも数人、このさぼり場所を見つけた人間が、同じように座りこんでいる。彼らは、同じ場所で暇を潰している人物が、自分たちの軍団長とは気づいていない。
 そのさぼり場所に、新しい人間がきた。黒醇蠍という、黒族の若者だ。白大国の軍隊には、数多くの民族の人間が参加している。生存地域としてはほぼ壊滅した黒族だが、平原に進出していた黒族も少なからずいる。その人間たちの子孫なのであろう。年はまだ十四歳、少年である。馬が扱え、利発であるので、ときどき伝令などに利用されている。
 白緩狢はその少年の姿をぼうっと眺める。少年が彼の視線に気づいたようだ。挨拶をしてくる。その少年を、白緩狢は手で招いて誘った。
「何ですか」
 少年も、白緩狢が軍団長であることに気づいていない。普段白緩狢は目深に兜をかぶっている。弛緩した顔を見せると、あまり評判がよくないからだ。白緩狢は、胸元から袋をとりだして、その中から飴を拾いあげた。
「おいしいよ」
 その飴を少年にあげる。こんな辺境の地で、こんなお菓子を食べられると思っていなかった黒醇蠍は、素直に喜ぶ。そして、口も軽く、いろいろと話しをはじめた。
「それで僕は思うんですよ、今の布陣って、北だけに何の備えもしていないじゃないですか。北にある山が、峻厳で攻めてくるのには不適ってことは分かるんですけど、赤族って、馬の名手なんでしょう。越えてやってくるかもしれないですよ」
 その少年の言葉を聞きながら、白緩狢は自分も飴を口に運ぶ。その目は、ぼうっと西の彼方を見ている。
「はあ、また面倒なことになってしまいそうだ」
 少年が毒づく。その様子を見て、白緩狢はもう一つ飴を少年に渡した。少年は喜んでその飴を口に放りこむ。
「そろそろかなあ」
 白緩狢はたちあがり、その場所をゆるゆると離れる。彼がその場所を離れたことに、数人が気づいたが、特に誰も気にしなかった。
 
 赤栄虎が率いる五百人強の軍団が、山岳地帯の中を高速で進んでいる。いくつかの偵察兵からはいった情報をもとに、白大国の開喉丘での布陣を検討した結果、北側の峻厳な山から攻めこむことが決まっていた。そのため、開喉丘の北にある山の、さらに北側を馬で疾駆している。
 この位置を移動すれば、開喉丘からは、彼らが移動する様子は見えない。市表がある赤族の軍団は、見渡しがきかない場所でも、わずかな周囲の地形をもとに、自分たちのいる位置を正確に把握することができる。
「とまれ」
 赤栄虎の指示で、全軍が動きをとめた。
「よし、この位置から南に進めば、白大国の開喉丘の陣地までは最短距離だ。敵の目にはいる位置にきたら、全速力で敵の陣地に肉迫して、矢を浴びせかけろ。陣は柵で囲まれているが、その柵は馬で破れる程度のものだ。その柵を馬で蹴倒して、中に攻めいるのだ。そして、俺の声と共に撤退する。よいか、敵を攻めるときは、最短距離を、最高速で攻めろ。そして俺の声で素早く引くのだ。こちらは人数が少ない。戦闘が長引けば長引くほどこちらが不利だ」
 全軍がうなずく。これは、白大国と赤族の模擬戦だな。赤栄虎はそう思った。拠点を構えて、より多い人数でそこを守っている白大国。それを攻める、遊撃を中心として、少ない人数で高速で動く赤族。象徴的な一戦になるだろう。
「赤荒鶏、こい」
 呼ばれて若者が進みでる。
「お前は弓が特に得意だ。指揮官を見つけて射抜け」
「はっ」
「ゆくぞ」
 赤栄虎は馬の腹を蹴る。全軍が、馬蹄を轟かせて山を越える。そして、山の南面にでた。
 開喉丘の北に位置する山が轟然と鳴りはじめた。赤族の軍団が、山を越えて開喉丘にむけて疾駆しはじめたのだ。その突然の出現に驚き、千人長が、白緩狢の陣幕に飛びこんでくる。
「北からだろう」
 鎧兜をつけた白緩狢が、千人長を迎える。
「はい、その数五百」
「指示した通り、兵の荷物はまとめさせているな」
「はい、いつでも逃げられるようにまとめています」
 白緩狢が、背を丸めたままゆっくりと陣幕をでる。兜は目深にかぶっており、その顔の様子はうかがえないようになっている。
「全軍集合」
 金切り声のような奇声が開喉丘に響く。百人団が九つ、陣の中に整列する。一つは偵察のために、西に放っているのだ。白緩狢は背を老人のように曲げたまま、北の山を注視する。
「これからお前たちは、二人一組で行動するのだ。一人は大盾をもち、もう一人は弓矢をもて。これから赤族の軍団を、この陣内に引きこむ。敵の矢は、こちらよりも飛距離が長い。また、馬術も我らより優れ、高速で移動できる。彼らの武器は、距離と移動力だ。それらの武器をこれから無効にする。奴らを、この開喉丘という鳥かごの中にとりこめて、圧殺するのだ。
 敵が近づいたら、少し抵抗したのち、それぞれ柵の外に逃げろ。そのあと、奴らが略奪のために柵の内側にはいるのをまつのだ。逃げだしたあと、縄を引き、地面に転がしている頑丈な馬防柵をおこせ。この馬防柵は、白大国の弓で真中まで届くように、ぐるりと円状に並べられている。二人一組の内、盾をもったものは自分だけではなく、二人分の体を守れ、弓をもったものは動きがとれなくなった赤族に、矢がつきるまで浴びせかけるのだ。
 よいか、分かったな。では、それぞれ持ち場につけ。敵の将を倒した場合は、この場にいる全員に恩賞がでる。全員励め」
 この、弛緩した体から、どうやったらこの大音声がでるのだろう。白緩狢は、鋭い目で兵たちを見渡す。
「ゆけ」
 兵がそれぞれの持ち場に移動する。
「白緩狢様、ここは危険です。敵から丸見えです」
 千人長が白緩狢の手を引いて、陣の奥へとむかわせようとする。そのとき、一本の矢が飛んできて、白緩狢の兜の上についていた羽根飾りを飛ばした。
「危ないです。早く、早く」
 続け様に数本の矢が飛んできて、白緩狢の肩当や、外套を貫く。赤族の弓手、赤荒鶏が放った矢だ。幸い、白緩狢本人にはささっていない。
「赤族ってのは、目がいいね。こちらからじゃ、全然射っている相手が見えないよ」
 白緩狢は、頭を低くしながら、陣の奥へと引きさがった。
 
 馬蹄が轟き、赤族の軍団が開喉丘に飛びこんでくる。柵を蹴倒し、北側からはいってきた赤族の男たちは、矢を放ちながら、逃げる白大国の兵士を襲う。逃げ遅れた人々が、その矢に貫かれ、地面に転がる。その上を馬が土煙をあげて通りすぎる。音の洪水が、人馬を伴って陣の中を、嵐のように吹き荒れる。
「柵をあげい」
 そのとき、猿の咆哮のような奇声が、開喉丘の空に響き渡った。突如、開喉丘の陣内の柵が、もう一つ、内側からたちあがる。陣内に置いてあった頑強な馬防柵が、縄によって、引っ張られてたちあがったのだ。踏み荒らされた北側を除き、突如馬が通過できない、木材を組んだ柵があらわれる。その柵は、あいだが広くあいており、矢が簡単に通るようになっていた。
 突然の周囲の景色の変化に、赤族は驚く。馬をその場でまわして、周囲の様子を探る。北以外の景色が、堅固な柵に遮られている。
「射て」
 空気を切り裂く、甲高い声が響く。開喉丘の周囲から矢が放たれた。赤族の矢と比べて、頼りなく緩やかだ。だが、突き刺されば傷を負うだろう。
「撤退」
 赤栄虎の決断は早かった。北側では、白大国の兵が、この場所にも柵をたてようと動きはじめていた。その兵を矢で射かけながら、赤族の軍団は、北の山へと疾風のように去っていく。
「へー、早いね」
 その様子を見ながら、白緩狢は小さくつぶやく。その彼のもとに、千人長がやってきた。
「敵は撤退をはじめました」
「うん、そうみたいだね」
 白緩狢は、胸元から袋をとりだし、その中の飴を一つ手にとった。その飴を千人長の口に放りこむ。
「今日は終わりだよ。奴らは今日はこないから。みんな陣内に戻って、戻って」
 白緩狢は、ゆるゆると柵にむかう。こんな、何もないような場所に、いきなり陣地を築いたりすることはできない。後背の補給線が確立するまでは、ここの陣営の目的は、ただ一つ、偵察任務の中継点だ。敵からの攻撃は、うまくかわして、被害を少なくして時間を稼がないといけない。
「白王様は、相変わらず人使いが荒いなあ」
 白緩狢は、今度は飴を自分の口の中に放りこんだ。
 
 その日の夕方、百人長が率いる部隊が、開喉丘の白大国の陣内に戻ってきた。白緩狢が放っていた白晴熊という百人長だ。彼は、陣幕の中にはいってきて、千人長と白緩狢に報告をはじめる。白緩狢は既に平服に着替えている。
「白緩狢様、草原の民を追い、彼らが使っている、これの在処を数ヶ所探しだしてきました」
 その大柄の男、白晴熊は背中の袋をひっくり返し、地面に中身を広げた。いくつかの白い石が地面に転がる。白緩狢は、その石に近づき、爪でその表面をひっかく。石の表面が少し削れる。その石の粉を、白緩狢は口に含んだ。
「うん、これだね。白王様が探しておけといったものは。それぞれのあった場所は、ちゃんと覚えている」
「はい、記憶しております」
「これで、白王様との約束の一つは果たした。あと、もう一つ。その袋の中身にあれがはいっていないということは、道すがら、きちんとまいてきたと判断してよいのかな」
「はい、各所に、数粒ずつまいてきました」
「これで白王様との約束の二つめも果たした。安心して白王様に報告ができるよ。ありがとう」
 白緩狢は気だるそうな笑顔を白晴熊にむける。白晴熊は、調べてきた場所へいく方法を、白緩狢に報告したあと、一礼して陣幕を退出した。
「さて」
 ゆっくりとした動作で、白緩狢はたちあがる。
「じゃあ、ちょっと白王様のところまで走ってくる。一週間ぐらいで戻ってくると思うから、千人長、あとは任せたよ」
「はい、お任せを」
 白緩狢は陣幕をでて、厩舎にむかう。背中には、数日分の食料と、寝泊まりするための毛布を背負っている。厩舎についたときに、戦闘前にさぼり場で一緒になった、黒醇蠍にであった。
「ああ、君」
 声をかけられ、黒醇蠍は足をとめる。
「何ですか、飴のお兄さん」
「そこにある馬を借りるよ。あと、これを君にあげよう」
 白緩狢は、懐から飴のはいった袋をとりだして、黒醇蠍に手渡す。
「こんなにもらっていいんですか」
 思わず驚きの声を、黒醇蠍はあげる。
「ああ、また新しいのを手にいれるから」
 そういうと、白緩狢は近くの馬によじのぼり、東にむけて駆けだした。黒醇蠍が気づいたときには、東の出入り口から平原に走りでている。
「あっ、馬泥棒」
 その姿を追って、黒醇蠍は声をあげる。
「問題ない」
 その黒醇蠍のうしろに、千人長がたっていた。まあ、千人長がそういうならば、いいんだろう。
「面倒なことは嫌いだしな」
 そういいながら、黒醇蠍は自分の馬の手いれを再開した。


  十二 土木戦争

 広河の上流に、広源市という地方都市がある。広河の流れの北側にたつその都市は、数年前までは単なる地方都市であった。だが、一年前から大々的な工事がはじまり、数ヶ月前に、一大軍事都市として完成した。
 その都市の形は、半円に近い。南側は川に面しており、そのまま港として、広河の下流から運ばれてくる軍需物資を、揚陸できるようになっている。そして、北と東西は、半円上に、厚く高い石壁に囲まれている。壁の内側は、この規模の都市としては想像以上に広いものだ。その各所には、倉庫が多数連ねられており、さらに都市の中には、工房も多く存在する。武具類の製造、補修だけでなく、白王が戦争に使う、各種土木工事の資材も製造している。
 戦争では、土嚢、馬防柵、天幕、建物の柱など、様々な土木、建築資材が必要になる。白大国では、これらの資材を規格品として、王国内の各所で大量生産している。生産した資材は、船で必要な場所に高速で運ぶ。ただ、戦争の現場近くでも生産拠点をもっていないと、船の遅れなどで致命的な損失を被ることもある。そのため、この広源市にも、工房を用意しているのだ。
 現在、この広源市の南の港に、御座船がとまっている。白王がこの都市にはいっているのだ。広源市の中央には、仮の王宮が築かれており、そのなかでは白王が、様々な報告を聞き、指示をだしながら日々をすごしている。
 夕方近く、白王は執務室で、白緩狢の報告を聞いている。
「というわけで、例のものはまき終わりました。そして、例の場所も探しだしました」
 白王は、白緩狢の目を見つめながら、その報告を聞いている。並のものなら、白王ににらまれただけで、気を失いかけるだろう。だが、白緩狢は、白王の視線に気づかないかのように、話しを続けている。
「というわけです」
 白緩狢の報告が終わった。
「まいたものは、効果がでるまでにはまだ時間がかかるだろう。例の場所を攻略するのは、開喉丘の先、閉腸谷を抜けてからだな」
 その白王の言葉を、黙って白緩狢は聞いている。
「白緩狢よ、次のお前の任務は、輸送部隊の指揮だ。九千人用意している。この数に、開喉丘の千人を加えた一万人が、今回のお前の軍団だ」
「はあ、分かりました」
 軍団長は、その能力と作戦にあわせて指揮する部隊が変わる。千人長までは、血縁、地縁で結ばれた仲間で固まることも多い。だが、軍団長となれば違う。神のように、白王のもとから降臨させられ、絶対的権力をもって、その配下の兵を率いる。彼らは、一般の兵士たちとは違う、一段も二段も高みにいる存在なのだ。
「あと、敵と交戦があったといったな。どうだった、敵の将は」
「以前の報告では、赤堅虎という男が族長だったそうです。ですが最近、赤栄虎という、その息子が族長になったと聞いています。あの日、攻めてきたのは、その赤栄虎という男だったと思われます」
「その理由は」
「北の山から陣営までの最短距離を、最速で攻めてきました。そして、こちらが反撃の態勢を整え、今からすり潰すという瞬間に身を引き、逃げました。あの用兵は、これまでに報告されていた赤族の動きとは違います。今までは、個々の人間が、その力をもって、個々の兵を叩くという戦い方でした。ですが、今回は、全軍が一つの武器であるかのように、槍を突きいれ、その感触を確かめて、すぐに引いた。そういう印象でした。赤栄虎という男、赤族の軍団自体をつくり変えたのかもしれません」
「ふむ。白大国でいうと、どのくらいの地位にいる男だ」
 白緩狢は、少し考える。
「軍団長級であるのは確実かと思います。戦闘ではなく、戦争をする気のようでしたし」
 白王は楽しそうに笑い声をあげる。
「そうか、それは楽しみなことになりそうだ」
 白緩狢は、白王の笑いをじっと見つめ続けた。
 
 七日で戻る。そう告げて赤族の本陣をたってから三日目。
 本陣から開喉丘まで一日、開喉丘での戦闘で一日。帰りに一日かかることを考えれば、今日を含めてあと四日ほど余裕がある。
 赤栄虎は、辺境地帯近くの山岳に兵を隠して、朝食をとっている。朝の陽射しが山にふりそそぎ、兵たちの騒ぎ声が周囲に響いている。
「もう少し探りをいれるか」
 昨晩兵士たちが捕まえた猪の肉を食べ、羊の乳を固めた乾酪を口に運びながら、赤栄虎は声をもらす。彼のまわりには、赤朗羊と、五人の軍団長がいる。
「そうだな、開喉丘から広源市までのあいだを移動している、補給部隊を叩いてみるか。よし、そろそろ出発するぞ」
 彼らは素早く馬に乗りこんだ。腹を蹴り、馬を山間から平原へと突出させる。そのまま平原を走り、平原の中に、敵の輸送部隊がいることを見つけた。長大な馬車の列が大地に線を描いている。
「赤栄虎様、白大国の部隊のようですな」
 赤朗羊が声をあげる。
「よし、弓を構えろ、突撃するぞ」
 
 辺境地帯の平原の中、白弱鴇は千人長として、物資の輸送をしている。輸送しているのは、石や木材である。それらの物資を、馬車に山積みにして、ゆるゆると長い列を二つつくって進んでいる。
 出発する前、密集して敵の攻撃を撃退できるようにした方がよいのではと、白弱鴇の副官白恐蝮は、軍団長白緩狢に噛みついた。だが、その言葉を白緩狢は面倒臭そうに否定した。
「いいんだよ、敵がでたら、捨てて逃げればいいんだから。奴らの突進はとめられないよ」
 軍団長の白緩狢は、退屈そうに背を丸める。物資を捨ててどうするのかと、白恐蝮はさらに語気を荒げたが、そのこたえは素っ気無いものだった。
「じゃあ君は、石や木を、戦利品としてもってかえるかい」
 そういわれて、彼は押し黙る。そうやって、数度のやりとりで白恐蝮はやりこめられ、今は白弱鴇の横で不機嫌なまま、彼と馬を並べている。
「そろそろ機嫌を直しなよ」
 白弱鴇は声をかける。白恐蝮は、彼の方など見ずに、ずっと遠くを見つめている。
「ねえ、恐蝮」
「敵だ」
 副官の白恐蝮が声をあげた。北西の方角に騎馬の軍団が見える。その軍団が、白族の乗馬では考えられない速度で、矢のようにむかってくる。その勢いを見て、白恐蝮は、白緩狢が、とめられないといった意味が理解できた。あれは馬ではない、馬の形をした矢だ。人がとめられるような代物ではない。
 全軍が浮き足だつ。そして、広源市にむけ、どんどんと人が逃げだす。千人長の白弱鴇も、もう逃げはじめている。赤族の軍団が、圧倒的な圧力で彼ら輸送部隊に迫ってきた。白恐蝮は手近な兵をまとめて殿軍を組織する。荷物をその場に置き捨て、急いで赤族から離れる。だが、それよりも赤族の騎馬軍団の方が早い。第一矢が白恐蝮の横にいた兵士の頭蓋を貫いた。ありえない遠さからの射撃だ。駄目だ、平原で戦う相手ではない。総崩れになる兵士のうしろで指揮をしながら、白恐蝮は急いでその場から逃げ去った。
 
 赤栄虎に率いられてきた、赤族の軍団長の一人、赤烈馬は、兵士たちが逃げ去ったあとの場所で、馬をまわしている。周囲に白大国の兵の姿は見えない。
「赤栄虎様、圧倒的勝利ですよ」
 赤朗羊は嬉しそうに声をあげる。その声を、馬上の赤栄虎は、苦い顔で聞いている。
「完全にすかされたな」
 その場に残された馬車には、馬すら残されていなかった。彼らは、馬車の馬の綱を切り、馬をきっちりと回収して逃げだしたのだ。馬車に乗っているのは、石と木材だけ、これでは何も奪うものはない。
「赤栄虎様、こちらで死んだ兵の数はなし、白大国では、十人です」
 赤烈馬が報告をする。これは厳しい戦いを強いられそうだな。赤栄虎は歯を噛み締める。先ほどの開喉丘での戦いもそうだった。自分たちが不利なところでは徹底的に逃げる。そして、相手の利点を殺し、自分たちが有利になったところで、火の吹きでるような攻撃をそそぐ。
「白王ってのは、きっと性格が悪いぜ」
 そう吐き捨てて、赤栄虎は馬の首を山岳地帯にむける。
「七日目までは、まだ数日ある。何度か補給部隊をたたいて敵の動きを探るぞ」
 赤栄虎は、山にむかって馬を走らせた。
 
 それから数日、赤栄虎たちは、広源市の近くにもいき、何度か輸送部隊を攻めた。そのたびに、白大国の部隊は、資材を置き捨てて逃げていく。赤族の本陣からでて六日目、赤栄虎たちにとっては、今回の威力偵察を終える前日である。明日には赤族の本陣に戻る。この最後の日に、平原を見渡して、赤栄虎たちは絶句した。
 いつのまにか、長大な道が平原にできているのだ。置き捨てた資材を使い、馬が乗り越えられない高さの塀が二本、広源市から開喉丘近くまで長くのびているのだ。この工事は、白大国が誇る土木軍団が担当していた。輸送部隊が置き捨てた長大な資材の列は、全て白大国の規格品の建設資材だ。この資材を使い、短時間で広源市から開喉丘までの長大な街道を建設したのだ。正確にいうと、落ちている資材の位置を移動して、整えただけだ。
 赤栄虎たちが、人をめがけて攻撃をしていたのに対し、白大国は、延々と街道建設の布石を打ち続けていたのだ。街道の先頭には、長槍をもった警備部隊がたっている。両側を壁で囲まれているので、赤族の突撃がもう怖くないのだろう。その長槍部隊は自信に満ちあふれてたっている。意図を察知されないように、延々と資材を大地にまき続けてきたのだ。開喉丘の近くまで、資材の列は続いている。
「そうきたか。やはり、あの作戦を発動させるしかなさそうだな」
 そうだ、白王という奴は、こういう奴だった。赤栄虎は、旅の途中で見た、白王の戦争を思いだした。
 赤栄虎が見た戦争はこのようなものであった。川の中州にある城を攻めるために、白王は川の流れを変え、中州の周囲を干上がらせたのだ。さらに、川の底の緩い土を突き崩して、城の地下まで隧道を掘って、攻めいったのだ。
 その様子を、一人の旅行者として、赤栄虎は目撃した。白王は、その場にあるものだけで戦争をしているのではない。勝つための環境がないのなら、周囲の地形さえも一変させて、自分が勝つために必要な状況をつくりだす。
「かえるぞ」
 赤栄虎は軍団長たちに声をかけ、平原の本陣にむけて引きかえした。


  十三 五大家

 海都という、大陸最大の商業都市を支配しているのは、五大家と呼ばれる商業貴族たちである。この海都は、青族が中心に住む街だ。青族は、各地の町で、大家という同業種組合のような商業集団を形成している。そして、その大家がとり扱う商品に応じて、その上に名前が冠される。例えば、とり扱う商品が、麦なら麦大家、酒なら酒大家となるのだ。
 これらの大家の大きさは、全て同じなわけではない。その町で圧倒的な実力をもっている大家もあれば、零細な大家もある。海都の五大家は、この都市の中で、ほかから懸絶した実力をもつ五つの大家である。各都市で、その町を代表する大家がある場合、それらの大家は、三大家や、四大家、五大家などと呼ばれたりするのだ。
 海都では、五つの大家が、圧倒的な実力をもっている。そのそれぞれの大家は、扱っている商品によって、大きく性格が違う。そして、時代の流れのなかで、この大家も役目を終え、交代することもある。この、海都の五大家を、ある料理人の営業活動をもとに見ていきたいと思う。
 
 踊舌亭と呼ばれる、下町の定食屋が海都にはある。この町では、港に近い場所ほど土地の値段が高く、陸側の城壁に近づくにつれ、その値段は安くなる。この踊舌亭があるのは、陸側の城壁に近い場所だ。この店は城壁のすぐそばで、労働者を相手に、日々の食事を提供している。小さな店ではあるが、料理人の腕はよい。大陸の各所を、料理修行の旅にでたことがあるというのが、この店の主人の売りだ。二代目の主人ではあるが、この評判のおかげで、先代よりも店の客は多くなっている。
 この店の主人は、名前を青旨鯨という。青旨鯨は、店の仕事をするかたわら、店の拡大のために、五大家への料理の売りこみを考えた。料理人とはいえ、青族なのだ。稼げる可能性が目の前にあれば、その稼ぎを見逃す青族はいない。今の自分の料理の腕なら、五大家のどこかを得意客にできるのではないか。そう彼は考えたのだ。
 彼は、その考えを実行に移すために、一口で食べられる点心の詰めあわせをつくった。はいっている点心の数は十六個。それぞれ味が違い、量は少ない。おいしいが、もっと食べたいと思えば、店に注文をしなければならない。そういう量に調整してある。その点心の詰めあわせをもって、五大家の各商館を一日ごとにまわることにした。

 一日目、米大家。米大家の商館は、海都の北東の位置にある。この商館は、港と共に、城壁に接してたっているのが特徴だ。商館の周囲には、米だけでなく、各種穀物の倉もたち並んでいる。商館の北側には城壁があるのだが、この城壁の外にも倉がたち並んでいる。その倉を囲むように、城壁が角のようにのびているのだ。この米倉の拡張は、過去に何度かおこなわれており、おかげで、海都の北東には、北に長く、米大家の倉がたち並んでいる。
 米大家の商人たちは、投機的な性格のものが多い。穀物の相場は、年によって、季節によって変わるからだ。米大家の商館では、いつも商人たちが大声を張りあげて、穀物の相場を左右させている。
 青旨鯨が、米大家の商館にはいると、その声の洪水が彼を飲みこんだ。誰かに声をかけて、試食してもらおうとするのだが、それどころではない。全員目を血走らせて、指を折り、数字を叫びながら交渉を続けているのだ。何人かのものに、声をかけたあと、これは無理だと思い、青旨鯨は商館を飛びだした。もみくちゃにされたせいか、点心の詰めあわせはぼろぼろになっていた。
 彼は肩をおとして、一日目の営業活動を終了した。
 
 二日目、布大家。布大家は、米大家の反対の位置にある。海都の南西に布大家の商館はたっている。もともとこの布大家は、広河の水を使い、布を染料で染めて、洗っていた地方工房が原点である。この地方工房が、発達した海都のなかに飲みこまれて、布大家として成立するようになった。
 この布大家が幸運だったことは、この地が大陸の文化の中心地になったことである。海都で流行した布は、大陸中で、高価に取引される。そのため、布大家は安定して成長してきた。こういった経緯があるため、この大家の人々は、総じて楽観的で、人当たりもよい。大きな苦労に直面せずに、大家になった、稀有な例といえる。
 青旨鯨は、午後、昼飯どきの仕事を終えたあと、この布大家の商館にはいっていった。商館というよりは、工房と呼んだほうがいいだろう。商館の一階では、広い部屋のなか、大量の女たちが機を織っている。入り口の外には、端切れ屋や、布地屋、仕立て屋など、中小の無数の店が軒を連ねて、繊維街を形成している。
「無料の点心をおもちしました」
 その声を聞きつけて、機を織っていた女性たちが手を休めて集まってくる。布大家出入りの商人たちも集まってきた。人だかりができて、瞬く間にもってきた点心はなくなる。店はどこなのかと問うものが多かったので、青旨鯨は、板に書いた店の名前と地図をその場のものに配った。みんな喜んでくれた。売りこみは成功だ。彼女たちの口から、店の噂が広がってくれれば、客も増えるだろう。
 この日、青旨鯨は、破顔しながら店に戻った。
 
 三日目、塩大家。この大家は、海都の東側にある。米大家の南側に、塩大家の商館はたっている。もともと、この土地には塩田があったのだが、その塩田は今はない。各地の塩田の塩を専売契約で買いとり、その塩を輸送することで、この大家は利益をあげている。そのやり口は、陰湿なもので、彼らの利益を脅かすものたちには、執拗な攻撃をしかけようとする。この大家の歴史は古い。しかし、現在ではその地位の保守に走っており、この大家に出入りするものも、官僚的な融通の利かない性格の持ち主が多い。
 青旨鯨は、塩大家の古い建物の扉を叩く。中から目つきの鋭い男がでてきて、彼の様子を値踏みするように観察する。
「どなたですか、予約がある方ですか」
 青旨鯨が予約はないというと、扉は締められた。なかなかこの塩大家に出入りすることはできないと、街ではいわれている。彼らは、既得権を維持するために、他者の参入を極端に嫌うのだ。噂の通り、厳しい場所だ。
 仕方がないか。青旨鯨はそのまま引きかえした。
 
 四日目、金大家。この大家は、海都の中央に位置する。どの港からもたどりつきやすい場所となると、この位置になるからだ。最初は、足を運びやすい場所という理由で、この場所に金大家の商館はたてられた。だが、最近ではその商館は、この街の中央省庁のような性格を帯びはじめている。
 金大家の歴史は浅い。金大家はもともと、海都の商業規模が大きくなったときに、当時の大家たちの合議のもとでつくられた大家だ。現金をもち歩かなくてもよいように、そして、取り引きを帳簿上でおこなえるように、金大家という組織はつくられた。
 その後、いくつかの大家が潰れ、新たな大家がおこることにより、金大家も独立した大家として扱われるようになった。彼ら金大家が特に隆盛を極めたのは、大陸周回航路の時代の末期である。遠方との大規模取り引きが多数おこなわれる中、その取り引きを帳簿上で代行する彼らの組織は非常に潤った。取り引きの規模に応じて、彼らのうけとる金額も多かったからだ。このとき、はじめて金大家は五大家として加わった。
 だが、彼らはその後、零落することになる。大陸周回航路が途絶えたからだ。大規模取り引きが減ったために、その隆盛を見こんで拡張していた業務がたちゆかなくなったのだ。大陸周回航路の末期に、五大家の一員になった彼らは、その打撃の直後、五大家から外れた。その当時、海都の運営は米、布、塩、舟の四大家でおこなわれていた。
 金大家に復帰の機会が訪れたのは、共同出資による事業受託の仕事をはじめたことであった。それまで海都では、大規模な事業をおこなうためには、五大家のいずれかを動かさなければ、そのたちあげは無理だと考えられていた。実際、その考えは正しかった。城壁の拡張、港の整備、新しい大家のたちあげ、どの仕事をとっても、五大家の出資なしではおこなえないものだった。
 だが、その五大家から外れたことで、金大家は、共同出資にようる事業受託が可能なのではないかと考えるようになった。大家に属さないような個人や、富豪、商人たちから出資をうけ、特定の事業をおこなう。その事業の審査と、出資者の確保を、金大家は代行することに決めたのだ。
 その最初の事業は、海都の大通りの整備であった。当時、建設計画のないまま拡張を続けていた海都は、その交通さえ困難なほど狭く、入り組んだ町並みになっていた。これは、中小の商人たちにとっては、流通上好ましくなく、その改善が望まれていた。だが、五大家の仕事の中心は、海である。そのため、彼らの出資はうけられず、この大通りの整備という課題は、長く海都でくすぶり続けていた。
 金大家は、その最初の大事業として、この大通りの整備を選んだ。彼らの味方は、四大家ではなく、中小の商人たちであるという姿勢を示すのに、これほど望ましいものはなかったからだ。実際、出資は驚くほど多く獲得できた。
 この最初の事業は、利益をだすことが目的の事業ではなかった。出資といっても、その内実は献金である。だが、金大家の最初の事業としては、人々に強烈な印象を残した。毎日使う大通りを、金大家がつくってくれた。誰もがそう思った。これほどの宣伝はないだろう。
 人々の好感情に支えられ、その後に金大家が募集した、共同出資により利益を獲得する事業の募集には、多数の応募があった。出資者もあとをたたなかった。金大家は、帳簿とお金の保存による手数料をうけとる資産管理の大家から、銀行や証券会社のような資産運用を生業にする大家へと生まれ変わった。そして五大家に復帰した。
 ちょうど、その大通りがつくられたのが二十年前。今では、その多数の事業のおかげで、金大家は、この街の省庁的な性格を帯びた組織になっている。建物も拡張につぐ拡張で、いくつかの建物をまとめて、金大家の商館と呼んでいる。商館街と呼んだ方がよい。街の中央の一角が、金大家の仕事の場となっている。
 青旨鯨は、その金大家の戸をあけて、建物の中にはいる。
「出資のご希望でしょうか、それとも事業のたちあげでしょうか」
 若い清潔そうな男が青旨鯨に近づいてくる。
「いや、無料の点心をもってきたので、食べていただければと思いまして」
「ああ、そうですか。じゃあ人数が多いほうがよいですね。おまちください。数人呼んできますから」
 男は、金大家に勤めている人を数人呼んできた。彼らは点心を食べて、口々にその美味しさを褒め称える。青旨鯨は、店の名前と地図を書いた板を渡した。
「それでは、何か新規の事業をたちあげるさいは、是非とも金大家に声をかけてください」
 金大家の若い商人が、爽やかに喋る。青旨鯨は、頭をさげながら商館をでた。金大家の商館にははじめてはいった。料理人の青旨鯨にとっては、金大家は少し怖い存在でもある。数年前、海都の料理人全てが驚愕した事件がおこったからだ。
 それは、当時海都で最も栄えていた食彩館という料亭が、新規事業に失敗して、その抵当として、金大家に吸収されたことだ。その後、食彩館は、金食彩館と名前を変え、今も当時の通り、営業を続けている。
 下手に金大家と係わりあいたくはない。料理人の青旨鯨の腰が引けるのは、このような理由があるからだ。ともかく、営業は成功だといえる。青旨鯨は、自分の店へと引きかえした。
 
 五日目、舟大家。海都といえば、舟大家。この街の人間全員がそう思っているのではないだろうか。全ての大家に船や船員を提供し、みずからの定期航路も多数もっている。中小の商人は、舟大家と契約して、その航路を利用したり、舟大家の船に商品を預け、利益をあげている。その存在抜きには、海都を語れないのが舟大家なのだ。
 この舟大家は、この二十年ほど、特に華やかだ。大陸を席巻した白大国の建国に、舟大家の先代家長の弟、青聡竜が軍団長として参加した。彼の協力もあり、白大国は瞬く間に巨大化したのだ。また、先代家長青捷狸の抜け目のない働きにより、この白大国との共闘関係で莫大な利益をあげた。噂によれば、その利益は、これまで舟大家が稼いできた金額に匹敵するともいわれている。
 そして数ヶ月前、青捷狸の娘の青美鶴が舟大家の家長に就任した。まだ二十歳の彼女は、父に劣らずその能力を振るい、舟大家の隆盛を維持している。また、彼女の美しさは海都でも特に有名で、多くの男たちが彼女に憧れている。
 青旨鯨は、舟大家の商館の一階で、銅銭を払い、二階へとあがった。三階には、許可をうけた人間しかあがれない。仕方がないので、受付の老人や、部屋の案内人に点心を振舞った。評判は上々だった。地図も配ったので、そのうち数人がきてくれるかもしれない。
 
 青旨鯨は、五日間かけて、五大家をまわった。同じように一括りされて、五大家と呼ばれている各大家だが、その性格には大きな違いがあることがよく分かった。海都の活気の源は、このようにいろいろな性格の組織や人が、多数あり、相互に影響を与えあっているためかもしれない。そのようなことを考えながら、青旨鯨は自分の店に歩いてかえった。


  十四 仮史表殿

 海都。海風神社の社殿を借りて、青聡竜は、司表としての仕事を開始した。最初におこなったことは、僧たちに史表の複製を一部つくらせることであった。原本をそのまま使い続けるわけにはいかないからだ。
 紙や墨、筆の調達は、白秀貂という若者が、是非やらせてくれというので任せた。
 情報収集をおこなう場合の暗号も決めなければならない。その暗号の作成は、白怖鴉という青年が手伝いたいというので手伝わせた。
 兵士たちの調練もおこなわなければならない。だが、この調練は、白厳梟という老兵に任せることにした。白大国建国当時からいる老兵だが、政治感覚はなく、色んな部隊をめぐり、千人長まで務めたが、反りのあわなかったものの策略にかかり、一兵卒に戻り、この司表の仕事にまわされてきたのだ。兵士としての能力や経験には申し分ないので、調練を担当させている。
 僧に史表の写本をつくらせながら、兵士たちに暗号を教えはじめて分かったことがある。随分多種多様な兵士を、白賢龍がよこしたということである。後史表作成のための情報収拾が任務なのである。それなのに、文字が書けないものまでまじっているのには青聡竜は脱力した。ただ、大半のものは、文献を読みこんだことがある、学識のあるものたちであったのが、青聡竜にとっては救いだった。
 最初の写本をつくったあと、青聡竜は、その原本を社殿の本尊の地下深くにある、倉庫に奉納した。扉には鍵をかけて、誰もはいれないようにした。この中であれば、建物が火事になっても大丈夫だ。
 僧たちには、写本をもとに、複製の作成をおこなわせる。それと共に、兵士たちの面接もおこなう。暗号の習得が終わっていれば、希望の土地への赴任を命じるためだ。彼は、一人一人、兵を部屋に呼び、その人となりを見ていった。
 
 年の順というわけでもないのだが、最初に部屋にはいってきたのは、最年長の白厳梟であった。司表の仕事にまわされてはいるが、千人長まで務めた男である。
「白厳梟殿、暗号の習得は終わりましたか」
 互いに白大国の建国時から戦いを共にした仲間でもある。青聡竜は、尊称をつけて、相手の名前を呼んだ。白厳梟は、しわのよった顔を青聡竜にむけ、悲しそうに首を横に振る。
「なあ、青聡竜よ。この若くないわしの、このかちこちの頭に、暗号が覚えられると思うのか」
 予想はしていたが、やはりそうであろう。白厳梟は生粋の武人。白賢龍や青聡竜のように、文武の徒ではないのだ。
「いやまあ、気を落とさずに、白厳梟殿も若くないのですから。これも白賢龍様の、海都で羽根をのばせというお気遣いですよ」
「そうかのう」
 白厳梟は、悲しそうに部屋をあとにした。兵の調練をしているときが、一番あの武人らしい。むいていない仕事なのだ。青聡竜はそう思った。
 
 次にはいってきた若者。これも問題児だ。なぜ、この仕事にまったくむかない人間が、選ばれているのか。青聡竜はため息をつく。まあ、問題児は早く片づけておくに限る。若者の名は、白太犬という。この男は暗号以前の問題だ。字が読めない。
 白太犬は、青聡竜の前に、すまなさそうに座っている。
「まあ、気を落とすな。まずは基礎的な読み書きを練習しろ。気長に練習すればよい。どうせこの仕事は長くなるのだ。今日駄目なら明日、明日駄目なら一ヶ月後、それで駄目なら、一年後。そのときに、役にたつ人間になれ。この仕事は、千年、二千年という長いときの流れを相手にした仕事なのだ」
 青聡竜の言葉に、白太犬は胸を撫でおろす。首になるのではないかと思っていたのだろう。白太犬は、深々と頭をさげて、部屋をでていった。
 
 次にはいってきたのは、白早駝という青年だ。彼はまあ、大丈夫であろう。だが、まだ海都が珍しいようだ。頻繁に海都の各所にいってきては、その報告をしてくる。海都は、私の方が詳しいので、毎回苦笑してしまう。
 まあ、明るく元気な男だ。少々粗忽な感もあるが。
「白早駝よ、どこか希望の任地はあるか」
「海都がよいです」
 即答だ。
「分かった。当分はここで情報を集めなさい」
 白早駝は喜んで返事をした。
 
 この日は、あと二人面接をして終わりだ。この二人は有能な人物だ。暗号の習得も早く、目的意識もある。何より、この仕事のことを理解している。
「黄清蟻です」
 黄族の青年がはいってきた。小柄で童顔の男だ。黄族の若者で、彼ほど勉学に秀でている人間は稀だろう。青聡竜の目から見ても、その有能さは高く評価できる。
「任地の件だが、どこにいきたい」
 少し間をおいて、黄清蟻はこたえる。
「広源市に、誰かが常駐する必要があると思います」
「お前の希望は広源市というわけか」
「はい、その重要な場所の司表の目に、私は適任かと思います」
「よし、それでは明日準備をして、明後日にはたつがよい。必要な資金は、金庫番にもらえ」
「分かりました。広源市は私にお任せください」
 黄清蟻は深く頭を垂れ、部屋を退出した。
 
 いれ替わりに、この日最後の面接の人間、白頼豹が部屋にはいってくる。均整のとれた体つきの白族の男である。
「どこにいきたい」
「私は開喉丘にいきたいです」
「前線だぞ」
「だからこそです。白大国の仲間が戦っている土地にいかず、なぜ後方でじっとしていられましょうか」
「おいおい、やる気があるのは分かるが、戦争に加わって倒れたら報告はできないぞ。開喉丘にいってもいい。だが、戦いには参加するな」
 青聡竜の言葉に、白頼豹は押し黙る。確かに、戦闘に参加すれば、記録も何もできなくなる。
「それでいいなら、開喉丘にむかえ」
「分かりました」
「じゃあ、途中までは黄清蟻と同じ道程だ。広源市までは一緒にいけ」
「はっ」
 ようやく今日の面接が終わった。この面接を百人分、合計二十回。白賢龍め、そんなに私を働かせたかったか。青聡竜は、部屋で一人のびをした。
 このあと、僧たちからの質問もうけつけないといけない。解釈の疑問点や、内容の疑問点を話させ、それにこたえていく。そのやりとりを通して、史表への理解を深めていっている。
「そういえば、白涼鴻が聞きたいことがあるといっていたな」
 青聡竜は、一人の僧の顔を思いだす。男には珍しい、涼しげな細い線の印象をもった人物だ。美男子といえる。兵士の経験をへて、僧になったという変わった男だ。
「しかしまあ、色んな人間を集めたものだ」
 青聡竜はたちあがり、部屋をあとにした。


  十五 海都到着

「海都だ」
 少女は、その景色を見て船上で大声をあげた。まだ十歳に満たない白族の少女が、船の舳先によじのぼって、東北東の方角を見ている。太陽は半ばまであがりかけており、船に陽光をふりそそいでいる。その明るい景色の中、船の進行方向の左手前方に、海都の巨大な姿が見えた。その海都を中心に、無数の船が行き交っている。そして、船の前方にあるのは、はるか遠くまで続く大海原だ。その青い水面が、波の揺らめきを通して、まばゆくきらめいている。
 その光景を見て、少女は目を大きく開いてことさらに輝かせた。少女は舳先の上にたち、嬉しそうに手を振りまわしている。
「麗蝶様、落ちますよ」
 背後では白楽猫が、言葉とは裏腹に、楽しそうにその様子を見ている。
「お嬢ちゃんがた、あと少しで海都までつくよ」
 青族の船長が、声を投げかける。
「海都だ、海都だ」
 その少女、白麗蝶は、舳先の上で跳びあがって喜んでいる。こんな不安定な場所で、跳びあがってはしゃぐなど、人並み外れた平衡感覚だ。船長は感心する。
 船は、舵を切り、舟大家の港へとむかっていく。
 
 船長が、航海記録と、積み荷、乗船者の記録を舟大家の係のものに渡すあいだに、白麗蝶と、白楽猫は、挨拶をしてその場をあとにした。白麗蝶は、船着場を見渡して声をあげる。
「おおぉ、白楽猫、見るのだ。色んな荷物が山積みになっているぞ。走れ」
 白麗蝶は、まるで獲物を見つけた犬のように、荷物が山積みになっている場所にむけて走っていく。白楽猫が追いつくと、もう既に違う荷物の方に走りだしている。白楽猫は慌ててそのあとを追う。何度かその追いかけっこをしたあと、白麗蝶は足をとめた。白楽猫は、息を荒げている。
 白麗蝶はその場所の前で、目を輝かせている。
「きたれ、夢を追うものたちよ。大陸周回航路が、今再開される。万里の波涛を越え、大陸各地をめぐり、その果てまでむかうのだ。舟大家は、大海原に踏みだす、船員を募集している」
 大声で白麗蝶はその張り紙を読みあげる。
「白楽猫、これだ。これに応募するぞ」
「分かりました」
 二人は、大陸周回航路の船員を審査する、陣幕の前の列に並ぶ。明日には船は出港するらしい。そのため、もうほとんど列はない。すぐに、二人は陣幕の中にはいった。老齢の審査員が、はいってきた二人を見て驚く。十歳に満たない少女と、十代後半の少女だったからだ。
「お嬢ちゃんたちも、大陸周回航路の船員希望なのかい」
「そうだ。今からでも乗りこむぞ」
 白麗蝶が目を輝かせて、老審査員の顔を覗きこむ。
「いや、お嬢ちゃんは、さすがに駄目だよ」
「なぜだ」
「女の子は駄目だよ。あと、年齢も若すぎるよ」
「ああ、もっと早く、男に生まれていればよかったのに」
 白麗蝶は、頭を抱えて悔しがる。
「ごめんな、お嬢ちゃん。はい次の方」
 白麗蝶と白楽猫は陣幕から追いだされてしまった。仕方なく、二人はその場から歩きはじめる。
「追いだされてしまいましたね」
 白楽猫は、笑いながら白麗蝶に声をかける。その白楽猫の手を、白麗蝶は引っ張る。耳を貸せということらしい。彼女は耳を、少女に近づけた。
「かくなる上は、密航だ。よし、情報を集めるぞ」
 白麗蝶は、白楽猫の手を引きながら走りはじめた。
 
 明日の朝に出港という日の夕方。
 舟大家の港の一角には、船員たちが集まっている。一隻あたり、三百人。十隻で三千人。一度に全員は乗れないので、時期をずらして人々は乗りこんでいるのだ。
 夕暮れのなか、次々に人々が乗船していく。青静鯖や、青勇隼、青遠鴎の姿も見える。彼らは全員同じ船に乗ることになったようだ。
 そのほかの船にも続々と人々が乗りこんでいる。旗艦にも一人の男が上船しようとしている。司表の部下の一人で青凛鮫という男だ。司表に提案して、この歴史的復興ともいうべき、大陸周回航路の記録をとることを志願したのだ。船上のために、暗号の手紙を送ることはできないかもしれない。だが、その目と耳で、この旅の果てに何があるかを見届けるつもりだといった。
 青凛鮫は、桟橋を歩き、はしごをのぼり、船の甲板にあがる。人々が、続々とそのあとに続く。
 
 白麗蝶が海都に上陸した日の夜、白大狼が乗った船が海都についた。舟大家の港に強制的に乗りつけ、そのまま船着場に兵士百人を連れて上陸する。広河から見たときには、既に舟大家の三階の明かりは消えていた。白大狼は、兵士たちを、舟大家の家長が住む居館にむかわせる。また、ほかの兵士に青聡竜を探させる。
 彼がこの海都で知っている人間といえば、青聡竜しかいない。また、この都市で人探しをするためには、舟大家の家長の協力がいるだろう。
 彼はそれと共に、兵士たちに、人物の素性を明かさないようにして、白麗蝶を探すように命じた。
 半刻後、青美鶴と、青聡竜が青い顔をして船着場にやってきた。まだ春とはいえ、夜は肌寒い。青美鶴は外套を羽織っている。二人は、兵士に概略を聞いてきたのだ。白大狼は、連絡用に、数人の兵士を一階に待機させておいてから歩きはじめた。
 三人は、舟大家の商館の三階にある、家長の執務室にはいる。広河に面した、家長の執務室に明かりが灯る。
「というわけで、白麗蝶様が、王宮を逃げだして、海都に船でむかってしまったのです」
 青聡竜は、重い顔をしてその話しを聞いている。青美鶴は、目を白黒させながら、その顛末を聞きいっている。白大狼は、詳細を語り終えた。
「話がもれれば厄介だ。海都のものではない人員を使って、探索させたほうがよいだろう。幸い、私のもとには今、百五十人ほどの直接指揮ができる人員がいる」
「司表の仕事用に、用意された人員ですか」
 白大狼の言葉に、青聡竜はうなずく。
「彼らなら、秘密は守れるものたちばかりだ。この探索にはうってつけだろう」
「そうね」
 青美鶴はうなずく。
「私は、入船記録を洗いだして、白麗蝶様らしき人物が、この数日中に上陸していないか確認させるわ。でも、舟大家以外の港におりていたら分からないわね。米大家、布大家、塩大家の家長も訪問して、港を調査してもらうようにしないと。海都で白麗蝶様が死んだりすれば、白大国との関係は最悪になるわ。あとは舟大家の口が堅いものたちを動員して、街中で捜索をさせないと」
 三人の表情は暗い。もし白麗蝶が死ねば、西の赤族との戦争どころではなくなる。白王の攻撃の矛先が、この海都にむかうだろう。
「舟大家家長殿。明日、朝一番に船を借りたいのですが」
 白大狼は、青美鶴にむかって口を開く。
「経過を全て、時間をおかずに伯父さんに知らせておいた方がよいと思いますので。それしか、伯父さんの怒りを和らげる方法はないでしょう」
 それしかない。青聡竜も同じことを考えている。連絡もなしに、ことを進めて、白麗蝶がかえらなかったら、白賢龍は、この白麗蝶の失踪に、海都が絡んでいると考えてもおかしくない。それぐらい順調に、白麗蝶は白都を逃げだして、船に乗って消えてしまったのだ。
「よし、それぞれ動いて、連絡をとりあうことにしよう」
 青聡竜の言葉に、白大狼と青美鶴がうなずく。三人はそれぞれの仕事をするために、執務室をあとにした。


  十六 船団出港

 東の水平線のむこうに、かすかな光がひらめく。その光は大きくなり、やがて海の少し上から、赤い陽の光がのぼってくる。暗闇におおわれた空は、光に掃き清められるように、東から西に消えていく。代わりに、空には、清浄な青に彩られた朝の空が広がっていく。
 海都の港にもその光がさしこんでくる。朝の陽に照らされて、海上に霧が緩やかにたちのぼる。
 大陸周回航路にむかう、十隻の大型船にも太陽の光が照りつけた。
 朝には、この船団を率いる依頼者がやってきて、旗艦に乗りこむことになっている。司表配下の青凛鮫は、早めに目を覚まして、その様子を観察するつもりでまっていた。彼は、朝日を浴びながら、船の舷側に身をよせて桟橋を観察する。
 見ていると、桟橋に、緩やかな黒服を着て、頭から黒い布をすっぽりとかぶった人物があらわれた。その格好のせいで、その人物は顔も体も見えない。男だろうか、女ということはあるまい。そう思っていると、その人物ははしごをのぼりはじめた。手馴れた調子ではしごをのぼり、甲板に足をおろす。依頼主は、そのまま中央の屋形の中に姿を消した。
「どういう人物なんだ」
 青凛鮫は、思わず声をこぼした。
 
 夜が完全に明けたあと、十隻の大陸周回航路用の大型船が港をたった。このまま沖あいにでて、季節風をとらえて南にむかうのだ。季節風に乗れば、南に高速でいくことができる。冬から春にかけて、大陸の東側では、北北東から南南西にむけて季節風が吹く。夏から秋にかけてはむきが逆になる。この季節なら、南にむかう四角帆の船は、三角帆では追えない速度をだせる。海都の船は、今はほとんど三角帆だ。三角帆と四角帆の両方を備えている、あの大型船は、季節風を四角帆でとらえ、どの船よりも早く南にむかうであろう。
 出港の光景を、船着場で青美鶴は、舟大家の配下たちと共に見送っている。莫大な料金を払い、大型船の発注から、船乗りの雇用まで、全てまとめて現金で払った上客だ。舟大家の家長みずから、その出港を見送らないわけにはいかない。
 彼女の目には隈が浮かんでいる。結局、徹夜だったのだ。本当は、白麗蝶のことで、出港どころではない。昨晩、配下に探索をさせるかたわら、港をもっている各大家をまわり、港の下船記録を調べるように話をつけてきた。どの大家の家長も、このことが海都の存亡に関わる事態だということを、瞬時に理解してくれた。この日、どの大家も仕事どころではないだろう。舟大家でも、多くの人々が入港記録を調べている。
 青聡竜と、白大狼も、それぞれの部下を率いて海都中を調べているだろう。青美鶴はため息をついた。先ほど、白王むけの報告書を携えた船も出港した。念のために、三艘の船に分けて、それぞれ西にむかわせた。
 大陸周回航路の船が遠ざかっていく。
「戻るわよ、書類の確認、および、目撃者の捜索を続行するわ」
 青美鶴は、部下を引き連れて上の階へ続く階段にむかった。
 
 夕方になって、白麗蝶の入港記録と、目撃情報が見つかった。入港場所は、舟大家の船着場。目撃情報は、大陸周回航路の審査をする天幕と、その荷物の周辺だ。それ以降、目撃情報は一切ない。状況を総合すると、大陸周回航路の船に密航したとしか考えられない。この情報は、全ての大家と、青聡竜と白大狼にも伝えた。
 舟大家の執務室で、青美鶴は、声を震わせながらため息をつく。椅子に座り、机にむかっている青美鶴の顔は蒼白になっている。最悪の結果ではないが、極めて最悪に近い結果だ。あの船団は、季節風に乗って、はるか南にむけて今朝出港してしまったのだ。夕日の一部が、部屋にかすかにもれこんできている。南むきのこの部屋は、だいぶ暗くなっていた。
 執務室の扉が開いて、各大家の家長と、青聡竜と白大狼がはいってきた。全員の顔は一様に暗い。各大家の家長たちも、船については詳しい。あの大型船を追えるほどの船が、今の海都にはないことを知っているのだ。沖あいにでて、季節風をとらえて一気に南にむかうように設計されている船は、今の海都にはないのだ。
「急いで追わなければなりません」
 椅子からたちあがろうとして、青美鶴はよろめき机に手をつく。青聡竜は、急ぎ青美鶴のもとに駆けより、その体を支える。
「追える船ならありますよ」
 集まった大家の家長の中から、一人の男が歩みでた。細身の体で目の細い若い男だ。彼は、青新蛇という名の金大家の家長だ。彼の表情は、一人だけ暗く沈んでいない。その代わりに、能面のように、無表情になっている。
「船があるですって」
 青美鶴が、青新蛇に顔をむける。
「ええ、私たち金大家のお客様の中に、海都に博物館をつくりたいという方がいましてね。その展示品の目録のなかに、大陸周回航路の頃の船もあるのですよ」
「でも、三十年前の船など使えないわよ」
「復刻品ですよ。大きさは、一まわり以上小さいですが、実用には耐えられるでしょう」
「でも、そんな船をつくったという話を、私は聞いていないわよ」
 海都の船の全ては、舟大家を通してつくられる。だから、舟大家の家長である、青美鶴の耳に、その話が聞こえていないのはおかしい。
「まだ駆けだしの、小規模な船大工に、仕事を発注したのですよ。私たちは、小さい取り引き先にも、積極的に仕事をまわしていますから」
「その船は、今すぐ使えるの」
「使えますよ。今日は間近で話を聞きましたからね。すぐに手配をしますよ。船の指揮は誰がとるのですか」
「俺がとる」
 白大狼が声をあげる。青新蛇は、白大狼の姿を、舐めまわすように丁寧に見た。
「よいでしょう。私は人を見る目があります。あなたには、この仕事を任せる価値があるでしょう。一刻ほどで船を使えるようにします。それまでに、こちらでも、船員の手配、船長の手配を済ませておいてください」
「分かったわ」
「では、時間を無駄にできませんので」
 青新蛇は、その場を足早に去った。青美鶴は、そのうしろ姿を見送ったあと、素早く船長の手配と船員の確保を部下に告げていく。大陸周回航路で用意した予備人員がまだいるはずだ。
「時間は一刻といっていたな。白大狼、ついてこい」
 青聡竜は、白大狼を呼び、執務室を飛びだす。各大家の家長たちも、船着場で待機しておくといい、執務室をあとにした。執務室には、青美鶴だけが残された。
 今日は間近で話を聞きましたからね。青新蛇の言葉が、青美鶴の頭をよぎる。昨晩、港の入港記録を調べるように、米大家、布大家、塩大家をまわったときに、金大家をまわらなかったことを、あの男は怒っているのだ。金大家は、五大家の中で唯一、港をもっていない。だからまわらなかったのだ。その時間を、ほかのことに使いたかった。伝令は走らせたが、直接いかなかった。そのことが、彼の自尊心を傷つけたのだろう。
 面倒なことに、ならなければいいのだが。また、心配の種が増えた。青美鶴は、大きくため息をつく。
 
 青聡竜は、白大狼を伴って海風神社へとやってきた。そのまま社殿にはいる。僧たちが、まだ史表を書き写す作業をおこなっている。その前にきて、青聡竜は一人の僧を捕まえる。その僧、白涼鴻は、青聡竜の緊迫した顔に驚く。
「史表の写本を、一揃えもってこい」
 その威圧感に気圧されて、白涼鴻は仲間と共に社殿の中を走る。写本作業は、社殿の各室でおこなっている。この部屋に全巻あるわけではない。すぐに、史表一揃えが用意される。
「白大狼、お前にこの史表を授ける」
 僧たちが一様に仰天する。その僧たちの驚きを無視して、青聡竜は言葉を続ける。
「白麗蝶様を追うあいだに、全て頭の中に叩きこめ。白麗蝶様がむかった先は、我々の記憶から、既に失われつつある大陸周回航路だ。お前と共にいくものたちの誰もが、その先で何が起こるか予想もできないだろう。だが、この史表のなかには、それら大陸周回航路の記述もあれば、途中で通過する、緑族の地の記述もある。この知識がお前と、白麗蝶様と、そしてこの海都を救うだろう」
 青聡竜は、史表の巻物の一つを手にとり、白大狼に手渡した。その巻物を、白大狼は神妙な顔つきでうけとる。
「分かりました。必ず、白麗蝶様を無事連れ戻します」
 すぐに、青聡竜は箱と油紙を用意させた。史表を海の水から守るためだ。そして、その箱を馬車に積んで、白大狼と共に舟大家の商館へと急いで戻る。
 
 ちょうど一刻がすぎたとき、舟大家の商館の船着場に、大陸周回航路用の大型船があらわれた。その船の上には、青新蛇の姿がある。船を港によせ、青新蛇は下船する。
 その場には、青美鶴、青聡竜、白大狼、各大家の家長、白大狼の百人の兵士、そして今回緊急に招集された、船長と船乗りが待機している。
 青新蛇は、彼らの前までやってきて口を開く。
「この船を譲りうける代金は、私たち金大家が払いました。必要な食料なども全て積みこんでいます。この代金も、全て金大家が負担しました」
 金大家が、この難局を乗り切ったのだと、いわんばかりの口調である。
「ありがとう、青新蛇殿」
 青美鶴は、苦々しげに礼をいう。先に宣言したということは、金額の負担をどうするかなど、話しあいに応じる気もないのだろう。
「急いで乗れ」
 その場の大家間の争いには無関係の、青聡竜と白大狼は、青新蛇と青美鶴の会話を無視して出港準備を進める。青新蛇の部下たちは船をおり、代わりに舟大家の船長と、船乗り、そして白大狼が連れてきた兵士たちが乗りこむ。史表の箱も船に積みこまれ、白大狼自身も上船する。
 陽が沈みかけていた。本来なら、こんな夕暮れの出港はありえない。だが、緊急を要する今回は例外だった。船乗りたちの声と共に、船は沖へとむかう。季節風を捕まえて、一気に南へとむかうためだ。夕日が消え、夜が海都の上に広がった。
 各大家の家長たちは、それぞれ自分たちの大家の商館へと戻っていった。青新蛇も金大家にかえっていく。船着場には、青美鶴と、青聡竜、そして、舟大家のものたちだけが残された。慌しい二日間が終わった。
 
 洋上、昼。
 大陸周回航路を、大型船十隻による船団が、南を目指して進んでいる。
 その船の内の一隻。旗艦ではない船の甲板上で、青遠鴎は、海図を見ながら船長と話しをしている。舟大家の海図製作部にいた彼は、特にこの船の船長に請われて、船長の補佐をおこなうことになっていたのだ。彼は船長と共にこの航路の話をしている。船長は、五十代ぐらいの老齢の海の男である。まだ十代の頃、何度か大陸周回航路の船乗りを経験したことがあるのを見こまれて、この船の船長に任命されていた。
「しかしまあ、乗っていたとはいえ、なにぶん、三十年以上も前の話だからなあ」
 海図を見ながら、船長は頭をかく。多分、ほかの船でも同じような光景が繰り広げられているのだろう。甲板上では、兵員たちが暇そうに遊びに興じている。大陸周回航路が健全な状態だったならば、兵士を満載して南を目指す必要もなかったであろう。だが現在、緑族の土地は、群雄割拠の状態になっており、海賊が多数出没する。大量の兵員。そして、その兵員たちが漕ぐための櫂。複合形式のこの船の形は、こういった現実問題に対応したものなのである。
 大陸周回航路の末期ぐらいから、緑族の土地は荒れはじめた。連なる位置にあった黒族の強大な国が突如消滅したからだ。緑族の土地も、連鎖するように大国が滅亡して、小さな国が多数生まれた。
 青遠鴎が船長と話しをしていると、彼らの前を、十歳に満たない少女と、十代後半の少女が歩いて通った。
「見ろ、白楽猫。見渡す限りの海だ。こんな珍しい光景は、はじめて見たぞ」
「白麗蝶様、私もですよ」
 何だ。この、船上に似つかわしくない、二人の姿は。
「船長、あれは」
「ああ、密航者だ」
「密航者って、放っておいていいんですか」
「捕まえようとしたさ。数人がかりでな。だが、どの一人も、あの小さな女の子に勝てんかったんだ」
「はぁ」
 青遠鴎は、信じられないという顔をする。
「洒落にならんぞ、あんなに強い少女は見たことがないな。きっと、名のある拳法家か、その娘に違いない。勝てんものは仕方がないので、上船を許可した」
 少女は、甲板上を、陸地の上と同じ調子で歩いていく。
「おぉ、青勇隼よ。痛みは引いたか」
 白麗蝶は、不機嫌そうな顔の青年に声をかける。昨晩、自信満々で白麗蝶に挑んだ青勇隼は、散々に甲板上を転がされたのだ。
「まだ痛いですよ。白麗蝶様」
 様づけで呼べと、負けたあと強要されたのだ。白麗蝶は、船の舳先にむかって駆けだす。
「よーし、船よ、どんどん進むのだ」
 白麗蝶は快活に叫んだ。


  十七 金満家

 広源市の港に船がついたのは、午後もだいぶたってからである。黒陽会の導師、黒壮猿は、数十人の部下たちと共に、この地へとおりたった。海都の黒陽会は、幹部の一人を昇格させて、導師にして仕事を引き継がせた。黒壮猿たちは、この一年で急速に拡張された広源市で、布教活動をおこないつつ、白王への接近を図る予定である。
 黒壮猿を先頭にして、黒衣の一行が街中にはいっていく。場所の目星は事前につけてある。彼らは、人だけでなく、様々な荷物も大量にもってきている。それらの荷物を馬車に引かせながら、彼らは旧市街へとむかう。広源市には、旧市街と新市街がある。新市街は、全て軍事用の用地であるので、彼らがいっても、その土地を購入することはできない。だが、旧市街であれば、それは普通の人々が生活している場所なので、交渉次第でいくらでも買うことができる。
「黒逞蛙よ、お前は、交渉事が得意だったな」
 黒壮猿は、いつもの通り、顔に笑顔を浮かべたまま、列の半ばにいた小男の名を呼んだ。呼ばれた男が慌てて先頭まで駆けてくる。
「はっ、はい。交渉事は俺に任せてください」
 醜悪な容姿の黒逞蛙は、目を輝かせて黒壮猿の顔を見あげる。黒壮猿はその顔を見て思った。この容姿であるならば、人々の目に印象を深く刻みつけることができるであろう。
「よいか、この広源市の旧市街で、最も大きな建物は、市庁舎だ。だが、その市庁舎は今は機能していない。白王がこの都市にきて以降、政治機能は全て、白王の住む王宮に移されたからだ。今、この市庁舎は誰も使っておらず、わずかな警備のものが残されているだけだ。そこにいって、市庁舎買いとりの交渉をするのだ。その場の責任者に、こう掛けあえ。この市庁舎を、正規の価格の十倍の金額で買いとろうと」
 黒逞蛙は慌てる。黒陽会が金を大量にもっているのは知っている。だが、市庁舎などを、今日この町にきた自分などに売ってくれるだろうか。駄目だ、無理に違いない。慌てる黒逞蛙を尻目に、黒壮猿はもう一人の名前を呼ぶ。
「黒暗獅よ」
「はっ」
 伏目がちの長身の青年があらわれる。手には、太陽の形の紋章をとりつけた杖を持っている。
「黒逞蛙についていき、喧嘩になったら、双方怪我を負わないように場を収めるのだ」
「分かりました」
「それならば、ゆけ」
 たじろぐ黒逞蛙を連れて、黒暗獅は、旧市街で最も高い建造物である、市庁舎へとむかった。
 
 予想通り、市庁舎を管理する責任者が、黒逞蛙に対して暴力を振るった。その暴力を、黒暗獅がその棒術でとめる。並の兵士ならば、この黒暗獅が杖を使って振るう棒術には敵わない。
 場が緊張した状態になり、多くの人がその場に集まってきた頃になって、黒壮猿たち一行がようやく現場に到着した。彼ら、黒い衣服の集団に、人々は驚いて道をあける。
「これは、これは、どうしましたか」
 黒壮猿は、顔に満面の笑顔を貼りつけたまま、市庁舎の警備責任者に問う。責任者は、醜悪な顔の男と棒術を使う男を見て、この一行と同じ衣服をつけていることに気がつく。
「お前たち、仲間か。この市庁舎を十倍の値で買いとるだと、ふざけたことをいいやがって」
 集まっている人々の緊張が高まる。ひとだかりは、さらに増えている。その人の数を横目で確認しながら、黒壮猿は口を開く。
「いえいえ、冗談ではございませぬ。こちらの荷物をご覧ください」
 黒壮猿は、馬車に積まれた荷物の一つを指さし、布のおおいをとり除かせる。その布の下からは、馬車にうずたかく積まれた、黄金の山がでてきた。その場にいた全員が声をあげ、目の色を変える。警備責任者は、思わずその場に腰を抜かす。
「これでもご冗談といわれますか。私たちは、この市庁舎を、十倍の値段で買いとりたいのです」
 圧倒された警備責任者は、上司に確認してくるといって、その場を急いで離れた。黒壮猿は市庁舎の前まで進み、黒逞蛙の手をとり、優しくたちあがらせる。その顔には、いつもの通り、笑顔を浮かべている。
「よく、交渉をやってくれたね」
 ねぎらいの言葉を投げかけてから、黒壮猿は人々に振りかえった。人々は、この男が何をいうのか、期待の眼差しで見つめている。黒壮猿は、今度はもう一つの馬車を指さした。黒陽会の信者が、その布のおおいをとる。再び黄金の山があらわれた。人々は狂気の目で、その黄金の山を見ている。
「私たちは、黒陽会の信者です」
 そこで区切って、黒壮猿は指で天をさす。
「私たちは、あの太陽を、唯一の神として崇めているのです。みなさん、私たちは、いつでも信者を募集しています。黒陽会は、あなた方の幸福な人生を保証します」
 今度は指を、黄金の山にむける。
「そして、あそこの馬車の黄金の一山は、新たに私たちが、この町に引っ越してきた挨拶の品なのです。皆様、あの馬車の上の黄金は、好きなだけ、手づかみでお持ちください。さあ、広源市の皆様。私たちがこの街にきたことを、祝福してください」
 その言葉が終わる頃には、往来にあった馬車や荷物は黒壮猿が指差した馬車だけになっていた。残りの馬車や荷物は全て、黒陽会の信者たちが、市庁舎のなかに運びこんでしまっている。人々は、絶叫をあげながら黄金の山に殺到する。
「皆様、黒陽会をよろしくお願いします」
 人々の歓声の中、黒壮猿は高らかに叫んだ。
 
 結局、市庁舎は黒陽会の建物になった。この市庁舎の持ち主だった、この街の大地主が、十倍の値段で手を打ったのだ。いや、実際は二十倍の値段だろう。大地主は、この土地の正規の価格より二倍高い金額を、通常の取り引き金額だと黒壮猿たちに告げたからだ。
 この話は、新市街でも人々の噂になり、広源市にやってきた黒陽会の存在を、強烈に人々に印象づけた。信者も増えている。黄金を手にいれた人々が、その黄金を人々に見せびらかしたからだ。その黄金の恩恵に、自分たちもあずかれるのではないか。人々はそう思ったのだ。
 この話は、白王の耳にも届いた。白王は、その話を興味深げに聞き、最後にこう告げた。
「そうか。また何かあれば、伝えて欲しい」
 報告者は、うなずき、白王への進言を終えた。


  十八 白王の戦争

 司表の配下である黄清蟻と白頼豹が、広源市の港におりたった。白頼豹は、近隣の話を集めながら、西の開喉丘にむかうという。黄清蟻は、このままこの広源市で、人々に会って話を聞く予定だ。二人は別れを惜しみ、それぞれの仕事にとりかかる。
 広源市に、司表の兵士がきているという話は、白王の耳にもはいった。そのため、黄清蟻は、数日後、白王に呼びだされた。黄清蟻は、白王に一度だけあったことがある。それは、司表の兵士の選抜のときだ。面談をうけさせられたのだ。あのときの緊張を、今でも彼は忘れていない。その射抜くような目で見られたとき、まるで龍ににらまれたかのように、黄清蟻は膝が震えてしまったのを、今でも覚えている。
 黄清蟻は、身体検査をうけたあと、白王のいる部屋へとはいった。白王と黄清蟻のあいだには、数人の兵士が、武器を抜き身でもったままたっている。その兵士のむこうで、白王が椅子に座している。黄清蟻にとっては、兵士よりも、白王その人の存在の方が怖い。
「お前のことは覚えておるぞ。司表配下の兵士のことを、司表の目と呼称していたものだな」
 白王の声が部屋の空気を切り裂く。
「はい、そうです」
 汗を流しながら黄清蟻はこたえる。
「目だけでは駄目だ。耳となり、口となり、みずから考える頭となれ」
 黄清蟻は、白王の声に頭を垂れる。
「それでは白王様、質問をしてよろしいでしょうか」
「問え、そして記せ」
 白王の声が空気を震わす。
「白王様、今度の敵は赤族です。その敵のことを、白王様自身はどのように見ておられるのでしょうか」
「赤族の軍は、族長と呼ばれる男が率いている。今は、赤栄虎という若い人物らしい。いい指揮官だな。まっすぐ敵を見据えて、全力をもって戦おうとしているようだ。そのために、敵の実力を計ることもする。地道な訓練もする。そして、赤族という個で戦う民族を、軍団で戦う民族へと変貌させつつあるわ」
「では、白王様も、手を焼くということでしょうか」
 黄清蟻の言葉に、白王は燃える眼差しを黄清蟻にむける。熱風が吹きだしてくるほどの眼圧が黄清蟻の頬を震わせる。
「お前も赤栄虎と同じだ。この戦争の本質を見誤っている」
「この戦争の本質とは、何なのですか。白大国と赤族の戦い、白王様と赤栄虎の戦いではないのですか」
「違う。赤族が、赤栄虎が戦っているのは、白王という人物でもなければ、白大国という国でもない」
「では何なのですか」
 白王は、今度は目を氷の刃のように研ぎ澄ます。
「文明という怪物なのだよ。文明という、ときの流れと戦っているのだよ」
 黄清蟻は、静かに声を紡ぎだす白王の姿から、目が離せなかった。いや、動くことさえできないでいる。白王の言葉の真意は、黄清蟻には分からない。このこたえの先にあるものが、何なのか、黄清蟻には、そのことを聞くだけの考察がまだできていない。
 黄清蟻は、ほかの疑問を思いつき、そちらに話題をそらそうとした。この白王の眼差しから逃れたいのだ。
「白王様、赤族は強いと聞いています。それはなぜでしょうか。やはり馬でしょうか。赤族の馬術は、白大国のそれをはるかに陵駕していると聞きます」
 白王の眼光が和らぐ。
「赤族が強いのは、馬のせいではない。奴らが強いのは、あの草原の地で、自給自足で生きているからだ」
「自給自足だからですか」
「そうだ。だから、今度の戦いでは、彼らが生活する上で欠かすことのできない、二つのあるものを奪う」
「それは、いったい何ですか」
「塩と草だ」
「塩と草ですか」
「ああ、今回の戦では、昔からの軍団長たちに、新たな土地をあげたいと思ってな。彼らには、塩湖や、岩塩窟を占領させる。それぞれ、自力で守り抜けば、その土地は、彼らのものだ。この話を、軍団長たちは嬉々として喜んだよ。古いものたちは、そこを封土として、引退してもらう。それに見あう利益を、それぞれの塩湖や岩塩窟、そしてその周辺の広大な土地はもたらしてくれる。彼らは塩から、莫大な利益をあげることができるだろう。そして赤族は、白大国との取り引きをはじめないといけなくなるだろう」
 黄清蟻には、この話の意味がよく分からない。
「では草とは」
「赤族の住む、草原の大地は、柔らかい草でおおわれている。その草を食み、奴らの馬はのびのびと生育している。そして、彼らが連れている羊も、その柔らかい草を食べ、赤族たちの食料を提供しているのだ」
「草は、赤族の生活、文化そのものですね」
「そうだ。その柔らかい草を、硬い草でおきかえる」
「と申しますと」
「白大国では、農管吏たちに、大陸中の植物を研究させているのは知っているか」
「はい、私の故郷でも、白大国の農管吏の方がきてくれたおかげで、飢饉もなくなり、みな平和に暮しております」
「そのものたちに命じて、馬や羊が食べ難く、生育が早く、そして草原の地で大繁殖を遂げることができる植物を探させたのだ」
「その草の種を、前衛の軍団長、白緩狢の部下にまいてこさせたのだ。今はまだ春。だが、もう少したてば草原の雨季がはじまる。そのとき、その植物は繁茂しはじめるだろう。今年は、実験的に数種類の種をまいた。その中で、特に効果がある種があれば、来年にはその種を大々的にまく」
「それをまけばどうなるのでしょうか」
「赤族は飢える。そして、白族の農業をとりいれなければ、生活できなくなるのだ」
 黄清蟻には、白王の話が半分ほども飲みこめない。戦争でどう敵を破るかという話を聞くつもりだったのが、これが戦争かという、塩と草の話をされたのだ。何かはぐらかされたような気がする。
「もう質問はないのか」
 白王の問いに、黄清蟻は、今はまだないとこたえた。そうかと応じ、白王は部屋をでた。
 部屋をでた白賢龍のもとに、急使がやってくる。白都に残した軍団長からの手紙と、海都からだされた、白大狼からの手紙だ。その手紙を読んで、白賢龍は目に涙を浮かべる。
「おお、麗蝶よ」
 白賢龍は、涙を流しながら肩を落とし、自室へと引きあげた。
 
 開喉丘にむかう途中、白頼豹は近隣の村々によって、人々の情報を聞き集めた。白大国と赤族の戦いについて、広源市の近隣の村々では、どう思っているか知りたいと思ったからだ。
 白頼豹は、一人の農民を呼びとめて話を聞く。その農民は、名を黄慎牛といった。
「いやあ、正直よくわからないですよ。白王様は、田や畑を広げてくださるんだろう。戦争で、赤族が攻めこんできたりしなければ、いいんじゃないかなあ」
 だいたい誰に聞いても、同じような返事がかえってくる。特に、赤族がこの地を攻めてきたという過去があるわけでもない。彼らにとっては、遠い、山岳地帯のむこうの話にすぎないのだ。
「いったい、白王様は、どこまで攻めていこうとしておられるのだ」
 白頼豹は、西の空を仰ぎ見た。辺境地帯が広がり、山岳地帯が景色を遮り、そのむこうには赤族の住む平原が存在している。この空の下、全ての土地を白大国のものとするつもりなのだろうか。
「邪魔をしたな」
 黄族の農民にそう告げ、白頼豹はふたたび馬上の人となった。


  十九 赤栄虎の戦争

「やはり、あの作戦を発動させるしかないか」
 満天下の星空を見あげ、赤栄虎はつぶやいた。草原が広がる台地のもと、光は星しかない。その星が、天から雨のように、大地にふりそそいでいる。
 赤栄虎は、七日間の威力偵察を終え、赤族の本陣に戻ってきていた。その偵察行の前、軍団長たちに一つの作戦を語っていた。そのときの光景を、赤栄虎は星の海を見ながら思い浮かべる。
「いいか。白大国が、この地を攻めたくないと思わせることが俺たちの目的だ。その観点にたつと、俺たちがとれる選択肢は、現実的には四つしかない」
 居並ぶ軍団長たちを前に、赤栄虎は市表を指さしてこう告げる。
「一つめ、白王を倒す」
 軍団長たちは、口々に自分こそが白王を倒すと大声をあげる。
「二つめ、大会戦で、決定的打撃を白大国の軍団に与える」
 またしても軍団長たちは、口々に自分こそが先陣を任されたいと騒ぎたてる。
「三つめ、補給基地としての広源市を叩く」
 軍団長たちの声は小さくなる。彼らは、草原や平原での戦いに自信はあるが、城攻めなどは得意ではないからだ。それにこの広源市が、この一年で、徹底的に白王の命令で改造されたことを知っている。そんな場所に攻めていけば、人数の面で劣っている赤族が、勝てるわけがない。
 場が最終的に静まりかえったことを確認して、赤栄虎は口を開いた。
「四つめ、補給基地ではなく、白大国の補給機能を破壊する」
 その場の、赤栄虎以外の男たち全員が首をひねる。彼らは、赤栄虎と同じ視点にたって、ものを考えることができない。
「赤栄虎様、もったいぶらずに教えてくださいよ」
 赤朗羊が声をあげる。その声をうけ、赤栄虎は一つの小石を、地図の東側においた。
「海都を攻撃する。それが第四の選択肢、そして、俺がとろうとしている作戦だ。敵を通常の戦いで負かすことができないと判断したときに、この作戦を採用する」
 全員は腰を抜かす。海都というと、大陸の東の端。今、彼らがいるのは、大陸の西側だ。
「そんな遠くまで、どうやってたどりつくのですか」
「赤朗羊よ、俺たちには市表がある。白大国も、その土地全てに人がいるわけではない。この市表があれば、人がいない場所だけを正確に通り、海都までいくことができる」
 赤栄虎の言葉に、全員が目を丸くしてその地図を覗きこむ。この場にいる、赤栄虎以外の誰もが、市表を使って、こんな遠方を一気に攻めるなどとは予想だにしなかったのである。
「遠いですな、大丈夫ですかいな」
 赤朗羊は不安そうな声を、赤栄虎に投げかける。
「安心しろ、女房と離れても寂しくはないぞ。海都は、大陸一美女が多い街だ。女房がいないと、寂しがる暇もないぞ」
 その場にいる全員が大笑いする。赤朗羊は、ばつが悪そうに頭をかき、最後には一緒になって笑いだす。笑い声が一通り収まったあとで、赤栄虎は居住まいを改める。
「もし、海都に長駆攻めいることになれば、この赤族の草原で、残った軍団を率い、身をていしてこの地を守る人物が必要になります。その役を、おやじ、いや、前族長である赤堅虎様にお願いできないでしょうか」
 天幕の片隅に、相談役として座っている赤堅虎に、一同の視線が集まる。
「わしは、自分の余生を、残りの仕事をするために使おうと決めていた。息子よ。それが、私の余生を使っておこなう仕事、そう思ってよいのだな」
 赤栄虎は、父に頭をさげる。
「この赤堅虎、赤族の最後の盾として、粉骨砕身、戦い抜こう」
 本陣の天幕の中に、前族長の赤堅虎をたたえる声が響く。
 赤栄虎は目をつぶり、目を開いた。記憶は心の底に戻り、目の前には星空が戻ってくる。
「赤栄虎様、こんな夜更けに何の用ですか」
 赤栄虎の目の前の星空が、巨体に遮られる。赤栄虎の二倍の身長をもつ、赤高象である。彼が赤栄虎の顔を見おろしている。
「お前は、わしも攻め手に加えて欲しいと、数日前にいったな」
「はい」
「しかし、攻め手には加えられんと俺はいった。その言葉に変更はない」
 赤高象は、黙って赤栄虎の姿を見おろしている。
「だがな、お前がやるべき仕事が見つかった。お前に任せたいことがある」
「何でしょう」
 目を輝かせて、赤高象は赤栄虎に問う。
「男と男の頼みだ。聞いてくれるか」
 赤栄虎の言葉に、赤高象はうなずく。
「おやじは、今回の戦で死ぬ気だ。だがな、俺は十年間も大陸中を旅していたんだ。おやじと別れたときは、まだ十歳だった。その後、十年間。俺は、おやじとのこの長い十年間の溝を、まだ埋めていない。願わくば、全ての戦が終わったあと、おやじと語りあいたいのだよ。
 赤高象よ、お前なら、おやじを死地から救いだし、戦の終わりまで導けると思う。頼む。おやじの命を守ってくれ」
 この言葉は、赤栄虎の本音であろう。十歳の少年が、親と別れ、単身大陸全土をめぐる旅にでたのだ。送りだした父親を恨みもしただろう。そして、大陸中を見聞して、成長したことにより、はじめて父親に語りかけたくなった言葉もあることだろう。
 だが、赤栄虎が海都を攻め、赤堅虎が赤族の草原を守ったならば、二人は二度と生きて会えないかもしれないのだ。まだ、語りあいたいはずだ。だが彼は、赤族の全住人を背負う、族長の立場なのだ。
「赤栄虎様、私が、赤堅虎様のお命を、お守りいたします」
 赤高象は、身を固くして赤栄虎にこたえる。
 赤栄虎は拳を握り締め、軽く赤高象の腹を殴った。音が闇夜に響く。そして赤栄虎は、そのまま赤高象に背をむけて歩きだした。一言も発さず、振りかえろうともせずに、赤栄虎は天幕の中に姿を消す。
 赤高象は、先ほどまで、赤栄虎が見あげていた星空を見あげた。満天に星が輝いている。彼は、赤栄虎に殴られた場所に手をあてた。その場所が熱を帯びているような気がする。
「わしが赤堅虎様を守るのだ」
 赤栄虎の思いは、赤高象の心を熱く打った。


  二十 緑輝

 大陸の南東の端には、象の鼻と呼ばれる海路の難所がある。象の牙のように大陸から突きでた岬と併走して、象の鼻のようにのびた浅瀬があるのだ。この浅瀬は長く、象の牙よりもはるか沖あいまでのびており、海が干潮時でも、その姿は波の下にあり見えない。だが、船の底をあらい、座礁させるのだ。
 この象の鼻の周辺を支配しているのが、緑輝と呼ばれている、緑族の兄妹である。彼らは、自分たちの組織のことを、緑輝王朝と自称している。確かに、この兄と妹を中心とした一団が整えている体制は、国家に近い。だが、その実情は、海賊一味とでもいった方が妥当であろう。地方勢力とでもいうべき彼らではあるが、夢は大きく、緑族の地の統一を望んでいる。また、そのためには何をしても構わないと信じている。
 緑輝の兄妹は、緑輝宮と呼ばれている、象の鼻が見える丘の上の宮殿に住んでいる。最近、二、三の周辺国を滅ぼしたために、羽振りがよく、調子づいてもいる。この兄妹は、兄の名を緑輝蝗といい、妹の名を緑輝蛍という。兄は絶世の美男子であり、妹は超絶の美女である。人々は、彼ら二人の美しさをたたえ、彼らを緑輝と呼んでいた。
 二人は宮殿の高台で、はるか南に広がる海を眺めている。兄は海にむかって胸を張り、たっている。妹は長椅子に気だるく寝そべり、やはり海に視線をむけている。
「なあ、緑輝蛍よ。俺たちには足りないものがあると思わないか」
「そうね、お兄さまの頭かしら」
「そうだ輝蛍よ。お前は賢い。俺たちには、国がある、兵もある、船もある。だが優秀な将軍がいないのだ。いや、もし本当に優秀な人間がいるのならば、そのものを王につけてやってもよい。そして、緑族の地が統一されれば、そのものに死んでもらって、その国を俺がもらえばよい」
「お兄さまは馬鹿ね。そんな頭のよい人間だったら、お兄さまに殺されずに、うまくやるわよ」
「ああ、そうかもしれない。輝蛍よ、お前の頭のよさには舌をまく」
「でも、そんな頭のよい人間がいれば、面白いかもね。私は、お兄さまより、そちらの殿方に心をよせるかもしれないわ」
「輝蛍よ、お前を世の中で最も愛しているのは、この兄、輝蝗なのだよ」
「そうね、私もお兄さまを愛しているわ」
 高台で話をしていると、輝蝗の手下が階下からあがってきた。
「親分、裏切り者を捕まえましたぜ。青族の密偵に通じていたそうです」
「馬鹿もの、親分ではなく、国王と呼べといっているではないか」
 輝蝗に怒鳴られて、手下はもう一度はじめから、今度は国王という呼び名で報告しなおす。
「ふむ、全て吐いたのだな」
「吐きました」
「じゃあ、殺せ。もう用はない」
「分かりました」
 手下は階段の下におりていく。
「お兄さま、殺すように命じたの」
「ああ、輝蛍。やはり物事は厳しくあたらないといけないからな」
 階下から悲鳴が聞こえてくる。
「この部屋に運んでこさせてから殺せばよかったのに」
「しまった、折角の見世物を見損なってしまった」
「だからお兄さまは馬鹿だというのよ」
「しかし、穏やかな午後だ」
「そうね、何もおこらないし」
 二人は暇そうに象の鼻を船が通らないかと、海を眺め続けた。


第1回 了


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