PBeM 史表(しひょう)
第3回
柳井政和
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▽
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目次
一 双龍庵
二 海都の青捷狸
三 白都襲撃
四 農管園
五 訃報
六 軍団再編
七 黒老珊
八 海都復興
九 再戦
十 海都の黒陽会
十一 広源市の死表
十二 夜襲
十三 反撃
十四 雨季の始まり
十五 山脈
十六 象の鼻
十七 緑輝宮の決戦
十八 浮都
一 双龍庵
二十年。
白大国ができてからの年月である。
その二十年前に時を戻し、我々はしばしこの国の原風景を見なければならない。白大国は、白賢龍という一個人の人格に根ざした国家である。たった一人の男が、己が目的を果たすために大陸に及ぶ国を作った。常人には途方もない偉業に見えるこの仕事を、彼が始めた理由は何だったのか。白王と呼ばれる人物の若き姿を追うことで、この原因が見えてくる。
歴史をさかのぼろう。まずは二十数年前に視点を移す。
時は青葉が眩しい初夏。場所は広河沿い、学僧たちの住む街。無数の学舎塔や僧房が立ち並ぶこの地の端に、一軒の小屋がある。双龍庵。この場所に白大国の原点がある。
「さあ、今日は賢龍と、聡竜を驚かせてやるんだから」
真新しく鮮やかな衣に身を包み、年若く美しく女性が石畳の上を進む。少女の足取りは軽い。彼女の動きに合わせ、極彩色の衣装は風に戯れるようになびく。
学僧市と呼ばれるこの僧院街は、大陸中の秀才たちが集まる場所である。石造りの学舎塔や、木造の僧房が立ち並び、その間を無数の小径が走る。中央は石畳の大路が貫き、多くの人々が学問のことを話しながら行き交っている。
少女はその大路を駆ける。彼女がその道を過ぎると、誰もが動きを止めて、うやうやしく一礼する。娘はこの街の貴人である。彼女は全ての人に笑顔を返す。その晴れやかな顔を見た人は、誰もが微笑みを浮かべる。
少女の名は白淡鯉という。この地を治める学僧長の孫娘、白賢龍と青聡竜の住む僧房の僧房長の娘である。少女は石道を過ぎ、林の間道を抜け、街の外れの小屋の前で足を止める。周囲は木々の緑で煌いている。その中央に、白い漆喰で壁を塗られた平屋がある。少女は草を踏み、窓に近づき耳を澄ます。白賢龍と青聡竜の声が聞こえる。やっぱりいた。彼女の顔は明るく輝く。何を話しているのだろう、そう思い、しばし耳を傾ける。
「賢龍、お前が軍をこう動かすのなら、守備兵をここで待機させる」
「なるほどな、そう来るか聡竜。だが、この川を渡り、兵をここまで一気に動かせばどうだ」
「おいおい、賢龍、お前は船なんて持っていないだろう。最初の取り決めにない軍需品を運用するのは反則だ」
「くそっ、それじゃあ、俺が勝てないじゃないか」
「これで今日の勝敗は、十勝九敗で、俺のほうが一勝多くなったな」
「聡竜、すぐに次の勝負をしよう。俺が勝ち越すまでやるぞ」
白淡鯉は、そっと顔を上げて窓から中を覗きこむ。白く質素な衣を着た目付きの鋭い若者と、青く豪奢な着物をまとった逞しい青年の姿が目に入る。彼女の父の管理する僧房で、最も学識の深い二人である。天才の呼び声の高い両名を称え、世間は彼らを双龍と呼ぶ。
少女は二人を見比べる。まだ十代になったばかりの彼女よりも、数歳年上の男たちである。仕送りも乏しく、いつも無染の白衣を身に着けている青年は、名を白賢龍という。もう一人の青衣の男は青聡竜という。海都の舟大家の御曹司で、豊富な資金を持ち、毎日異なる美しい服で身を飾っている。
出自も嗜好も違うこの二人の男は不思議と仲がよい。彼らはいつも一緒にいて、様々な議論を戦わせている。今日は、紙に書いた地図の上で、国盗りの方策を練っているようだ。変わった二人だが、彼らといれば、次から次に面白いことが起こる。二人とも、白淡鯉のお気に入りの男たちだ。
「賢龍、残念ね。今日はここで終わり、あなたの負けよ」
彼女は窓から顔だけを覗かせ、声を出す。白賢龍と青聡竜が窓に視線をむけ、それぞれ反応する。
「ちっ、淡鯉が来やがった。あっちに行っていろ。まだ勝負はこれからだ」
「おいおい賢龍、それはないだろう。やあ、淡鯉。勝負は終わったよ。今日は嬉しそうだね。何かいいことでもあったのかい」
少女は白賢龍の悪口を言いながら、窓から入り口に移動して、また顔だけ突きだす。
「賢龍は、いつもそう。これでも私は学僧長の孫娘、あなたたちの住む僧房の僧房長の娘なのよ。少しはうやまってくれてもいいんじゃなくって。それに対して青聡竜、あなたはちゃんと女心が分かっているわ。そう、いいことがあったのよ」
白淡鯉は体を戸の裏に隠したまま白賢龍に舌を突きだす。
「淡鯉よ、えらいのはお前ではなく、お前の親父さんや祖父さんだ。お前は、ちっともえらくはない。それに女心を語るには随分若過ぎる」
「賢龍なんか大嫌い」
わざと拗ねてみせる。でも、彼女は白賢龍も青聡竜も大好きだ。彼女の生まれ育った立場を気にせず、こんなに気安く話しかけてくれる男は他にはいないからだ。彼ら二人は、そのような無礼が許されるほど将来を嘱望されている。
「俺に負けたからって、八つ当たりするなよ賢龍。それより淡鯉、さっきから顔だけ出しているってことは、新しい服でも着ているんじゃないか」
「まあ聡竜。さすがあなたは賢龍とは違うわね。そう、今日新しい服が、海都の布大家から届いたの」
彼女はそう言いながら、戸の開いた入り口の真中にちょこんと立った。眩しい緑を背にして、鮮やかな朱色の衣が映える。ほうっ。服には関心の薄い白賢龍も思わず声を漏らす。
「よく似合っているよ淡鯉」
「いや、馬子にも衣装とはよく言ったものだ」
「賢龍の馬鹿。服なんか見せなければよかった。ねえ聡竜」
青聡竜が、白賢龍に蹴りを入れる。
「どうせ聡竜、お前が買ってやったのだろう。服代ぐらい、自分で稼いで買え。それができないなら、俺のようにいつも無染の衣を着ていればよいのだ。甘やかすのはよくないぞ」
「いいじゃない」
「そんなに怒るなよ賢龍。俺は淡鯉が喜ぶなら、いくらでも服を買ってやるぞ」
少女と友人の連合軍に旗色の悪くなった白賢龍は憤りながら席を立つ。
「それよりも、淡鯉よ。頼んでおいた例の書庫の件、入れそうか。あの書庫には、いくつかの経典の真筆の原本がある。俺はあの書庫に入らねばならぬ」
「あら、先ほど私にお祖父様やお父様の威光を借りるなと言った癖に、あなたはその私の立場を利用するつもり。虫がいいんじゃなくって」
「ぐむむむっ、悪かった謝る。白淡鯉様、どうかこの卑小な私めの願いを叶えて下され」
「あら、白賢龍。そこまで言うのなら、少し聞いてあげようかしら」
「賢龍。お前は自分の目的のためなら、何でもするんだな」
「当然だ。白淡鯉様。美しい服の似合う白淡鯉様。後生です、お願いいたします」
「うふふ、いいわ。賢龍の頼みを聞いてあげる。今晩、例の書庫の鍵を、お祖父様の部屋から持ちだすことにするわ」
「ありがとうございます」
白賢龍は、拝むような仕草で彼女に膝をつく。その態度の豹変に、青聡竜は半ば呆れる。
「しかしまあ、そんなに原本にこだわらなくてもよいだろうに」
写本であれば、この学僧市なら簡単に閲覧できる。
「真筆の原本でなければならぬのだ。聡竜、お前には大事なことではないかもしれないが、俺には重要なことなのだ。よし、数日篭もらねばならぬな。食料を用意して、毛布も準備して」
「その前に、せっかく新しい服が届いたんだから、三人で市にお買い物に行きましょうよ。この服で二人と街を歩きたいの」
「そんな暇はない」
「書庫の鍵」
「ぐぬぬ」
「諦めろよ賢龍。お前はいつも見苦しい。淡鯉を喜ばすのがそんなに嫌なのか」
「俺には一刻も無駄にする時間などないのだ。書物が俺を呼んでいる」
白淡鯉は部屋に入ってきて、白賢龍と青聡竜の手を握る。
「さあ、行きましょう」
「賢龍、行くぞ」
「ぐぬぬ、我が身の不幸は金無きことか。権力には逆らえん」
白賢龍は、白淡鯉に手を引かれて白塗りの小屋を出た。
翌日早朝。学僧市はまだ目覚めていない。
朝霧の中、白賢龍はいつもの質素な出で立ちで書庫の前に立っている。背には麻袋を下げており、周囲を見渡して人を待っている。袋の中には竹筒に詰めた水や、蒸して固めた穀類が入っているのだろう。霧の中、鮮やかな衣をまとった少女が駆けてきた。白淡鯉だ。
「ごめんね、賢龍。少し遅くなっちゃった」
「遅い、それに何だその目立つ服は。書庫に忍びこむのにその格好はないだろう」
「あら、私は鍵を渡しにきただけよ。それにお気に入りの服なんだから、いいじゃない」
「昨日と違う服だな」
「見ていないようで、見ているのね」
「それも聡竜に買って貰ったのか」
「そうよ。聡竜って優しいわ」
「あいつめ、甘やかし過ぎはいかんと、いつも言っているのに。それよりも鍵だ鍵。俺は数日書庫に篭もる。その間の誤魔化しは聡竜がやってくれる手筈になっている。くれぐれも口を滑らすんじゃないぞ」
「もう、いつもそうやって口うるさく言うんだから。賢龍なんか、私がいないと何もできない癖に」
白淡鯉は拗ねてみせる。実際、仕送りもままならぬ白賢龍に様々な便宜を図っているのは彼女であった。白淡鯉は白賢龍が頭角を現わす前から、金銭、物資だけでなく、書庫の閲覧などで、何度となく彼の手助けをしている。
「しっ、誰か来る」
白賢龍が、何も見えない霧のむこうを凝視する。僧兵の巡回だ。警備の予定も考慮に入れて待ち合わせ時間を決めていたのだが、白淡鯉の遅刻のせいで予定が狂ってしまった。書庫に入る前に、入り口周辺でうろうろしているのは見られたくない。
「隠れるぞ」
「痛い、引っ張らないでよ賢龍」
少女の声で、僧兵が気付きやって来た。間が悪い。こんな時刻に、立ち入り禁止の書庫の前で、学僧長の孫娘と逢引していると思われたら、どんな仕打ちを受けるか分からない。
「ほう、白賢龍と白淡鯉お嬢さんじゃないか」
しまった、見られたか。白賢龍の目が殺気を帯びる。僧兵は槍を手に持ち近づいて来る。
「おいおい、そんな目で睨むなよ。双龍の白いほうと、この街の支配者一族の娘とはな。なかなか豪華な取り合わせじゃないか」
面白そうに僧兵は笑う。
「貴様、このことを誰かに告げる気か」
僧兵は値踏みをするように二人の様子を見る。
「いやよそう。それじゃあ、俺の得にはならないからな。その代わり、俺はお前に恩を売る。俺は一介の僧兵で人生を終える男ではない。もし、お前が何か事業を始める際には、俺を直属の部下として召抱えろ。それがこの場を見逃す条件だ」
「いいだろう。しかし、事業など何もせぬかもしれぬぞ」
「いや、白賢龍、お前の噂は聞いている。よく青聡竜と、国政をどうするか、軍事をどうするかといった議論をしているそうじゃないか。お前はそのうち国を興す。俺はその国で一軍を率いる男になる」
男は真面目な顔でそう言ったあと、面倒臭そうに欠伸をする。
「まあ先ほどの言葉は、見逃す奴全員に言っている台詞だがな。本気で国でも興す気になったら、俺を好待遇でむかえてくれ」
この男、どこまで本気なのか。いかつい顔をした男は、面白そうな顔で白賢龍を見ている。
「分かった、約束しよう。そのときのために聞いておく。お前の名は何と言う」
「俺の名は白惨蟹だ。他の僧兵たちが立ち寄らぬよう、この近くを見張っておいてやろう。どうせ目的があってこの場所に来ているのだろう。さあ行け」
僧兵はその場に仁王立ちになり周囲を警戒し始めた。白賢龍は白惨蟹に礼を言い、白淡鯉から鍵を受け取り、扉を開けて書庫に入る。白淡鯉は白惨蟹に頭を下げ、急いで自室へと引き返した。
夜。
蝋燭で足元を照らしながら、書庫に忍びこむ人影がある。薄手の衣服をまとった白淡鯉だ。彼女は書庫の中を猫のような足取りで進んでいく。
書庫の奥では灯火が揺らいでいる。その明かりを頼りに、文字を追っている男がいる。青年はいまだ十代に過ぎない。だが表情は、老齢の賢者のように深い含蓄をたたえている。書物を読み進めている男性は白賢龍である。
白淡鯉は床に蝋燭を置き、白賢龍の横にちょこんと座る。明かりのための油を差し入れに来たのだ。白賢龍の資力では、夜を徹して本を読むほどの油は買えない。そのため、白淡鯉が家の油を分け与えている。
「賢龍、油を持ってきてあげたわよ」
「ああ」
「聡竜も来るって」
「ああ」
巻物状の書物を繰りながら、青年は生返事を繰り返す。少女がぷくっと頬を膨らます。男は文字を吸いこむような勢いで巻物を読んでいる。白淡鯉は、白賢龍の手元を照らしている灯火に顔を近づけ、一気に吹き消した。光源が白淡鯉の持ってきた蝋燭だけになる。
「うわっ、何をする。本が読めないではないか」
白賢龍が抗議の声を上げる。白淡鯉は、首をすくめながら上目遣いで彼のことを見る。
「賢龍、挨拶がまだよ。油を持ってきてあげたんだから、お礼を言わなきゃ駄目よ」
本の世界に潜っていた若者は、仕方がなさそうに少女のいる世界に戻ってくる。
「ああ淡鯉、いつも助かるよ」
「私も聡竜も、あなたのことが好きなのよ。だからいろいろと世話を焼くの。あなたはもっと感謝すべきよ」
「ふむ」
白賢龍は、明かりをふたたび点けようとして、白淡鯉の蝋燭に手を伸ばす。その手を少女の柔らかい指先が止める。
「ねえ賢龍。どうしていつも真筆の原本ばかりを追っているの。経典でも軍学書でも経世の書でも、過去の王の書簡でもそう。あなたの要求はいつもそうよね。青聡竜も不思議がっているわ」
「ふむ」
その言葉を無視して火を手に入れようとする白賢龍の腕を、白淡鯉の手が強く握る。わけを話すまで、貰い火をさせてはくれそうもない。
「仕方がない。よいか淡鯉、このことは他言無用だぞ。聞いても秘密にするのだ」
「分かったわ。約束するわ」
青年と秘密を共有できる。その秘め事は、少女の心を興奮させた。彼女は期待の眼差しで年上の男の顔を見る。
「淡鯉よ、お前は書物をどう読む」
「文字を見て、何が書かれているかを読んでいくわ」
娘は燭台を持って若者の隣に身を寄せる。わずかな光しかない部屋で、二人は小声で囁きあう。
「常の人ならそうだろう」
「あら、常の人ですって。あなたは違うの賢龍」
なんだか馬鹿にされたような気がして、白淡鯉は少し怒ったような表情で男の顔を見つめる。書物から目を離した白賢龍の顔は、年相応の顔付きになっている。
「俺は違う」
「どう違うの」
「昔からそうだった。俺は書物を読むときに、書かれた文字を通して、その文字を書いた人間の姿を見ていた」
白賢龍は、考えこむように目を細める。
「書いた人間の姿って、どういう意味なの」
「通常、人は書物を読むとき、その文字の意味を記号として読み取る。だが文字は一字一字全て違う。同じ文字は一つとてない。俺は、その文字の差異を読む。そしてそこから、その書き手がそのとき何を思い、何を考えていたのかを読み取ることができる」
「それができると、一体どうなるの」
「一流の書物を書く人間は、彼らの人生を傾けて著作を行なう。そうやって書かれた文字の数々は、書き手の人生そのものを反映している。俺は、真筆の書物を読むことで、彼らの考え、生き様、人生そのものを、我が身の内に取りこむことができる」
「ふーん」
少女はよく分からないという表情をする。
「それって、簡単に言うと、どういうことなの」
「文字を読めば、その文字を書いた人が、何を考えているか分かるということだ」
なるほどという顔をしながら、少女は考えを巡らす。
「手紙なんかでも分かるの」
「分かる。嘘を吐いているか否か、真の意図はどこにあるのか、そういったことを、一見して俺は読み解くことができる」
「へー、面白いわね。それって、恋文でも分かったりするの」
占いを楽しむ女の子のような軽い気持ちで、白淡鯉は白賢龍に尋ねる。面白い能力だ。彼女は新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせる。
「分かる。ただの文字ではその思考の痕跡を読み取るのは困難だが、その人物の思いの丈が詰まった文字であれば、その人物の心の内を、ありありと読み取ることができる」
「凄いのね。それじゃあ……」
少女は男の腕を抱きしめながら考える。
「私、賢龍に恋文を書くわ。大好きって思いをこめて書けばいいのね」
白淡鯉は、きらきらと輝く目で白賢龍の顔を見つめる。
「ふむ、それなら考えを読み取ることは簡単だ」
まるで白淡鯉自身には興味がないように、彼はそう答える。いつもそうだ。白賢龍はどこか違う世界を見ている。目の前に彼女がいるのに、全く見えていないように、何かを考えている。
「賢龍、私をちゃんと見て話しなさい」
白淡鯉は彼の顔を両手で持ち、自分にむける。暗い書庫の奥底、光は蝋燭の小さな火だけである。その暗闇の中に浮かぶ白賢龍の顔は、神々しい威厳を湛えている。顔は普通の若者の物だが、その目は夜の大空のように、澄んだ闇で満たされている。その闇の底で、星空のように無数の光彩が煌いていた。この光は、彼が今まで読みとってきた人々の心なのだろうか。
「賢龍……」
灯光に浮かぶ顔をそっと自分に引き寄せ、その唇を重ねる。白賢龍は、書を持ったままの手で、彼女の背中を抱き寄せた。蝋燭の火の動きだけが、緩やかに時の流れを示す。しばらく経ち、二人が唇を離した頃に足音が聞こえてきた。青聡竜だ。彼女は今度は青族の若者を迎え入れるために蝋燭を持ち、立ち上がる。
「聡竜が来たわ」
「こら、火種を持っていくな」
素早く立ち上がる白淡鯉を捕まえようとした白賢龍の腕が空を切る。
「ようっ、賢龍。水と穀物ばかりじゃ、いずれくたばるぞ。料理を持ってきてやった」
「それは有り難い」
白賢龍は、歯をむいて笑みを浮かべる。すぐにその場に料理が広げられ、書庫の中で青年二人と少女の食事が始まった。
食事もあらかた食べ終わった頃に、青聡竜は立ちあがった。
「俺はそろそろ帰る。賢龍が読書を終えるには、まだまだ日数がかかりそうだな」
「ああ、ここの重要な本を全て読むのには数日かかる」
「青聡竜が帰るなら、私も一緒に帰るわ」
白淡鯉は、この年頃の少女特有の気安さで、今度は青聡竜の腕にしがみついた。青聡竜は快活に笑いながら少女を抱えて肩に乗せてやる。書に溺れて日々を過ごす白賢龍と違い、青聡竜は身体の鍛錬にも余念がない。
文武両道。
その能力の高さにおいては、彼は白賢龍を遥かに凌駕していた。しかし彼には、白賢龍のように、周囲の人間をも巻きこみ焼き焦がすほどの情熱はない。
青聡竜は高い能力と満たされた環境を持ち人生の開始点に立った。そういった者特有の欲の少なさが、青聡竜の人格を特徴付けていた。対して卑賤の家に生まれ、何を手に入れるのにも全能力を傾けてきた白賢龍は、狂おしいほどに物事に熱中し、目標にむかって突き進んでいく。
二人は書庫を出た。星座が空を覆っている。青聡竜は白淡鯉を屋敷の裏口まで送り届けたあと、夜の道を進んでいく。辺りは灯かりがなくとも歩けるほど月の光が明るい。青聡竜は足を止めて空を見上げた。吸いこまれるような星の海だ。夜天の光景は、白賢龍の澄んだ目によく似ている。
白淡鯉は白賢龍に恋文を出すらしい。書庫で唇も重ねていた。青聡竜は大きなため息を漏らす。分かってはいた。自分は青族。この学僧市では部外者だ。だから白淡鯉と結ばれることはないだろう。引き際は今かもしれない。白賢龍なら不足はない。
まだ多感な年頃の青聡竜は目から涙をこぼす。この男は、年相応の感受性を備えている。幼少の頃から、老成した表情を浮かべていた白賢龍とは違う。
彼はふたたび歩きだした。青聡竜は白賢龍が羨ましかった。あの燃えるような情熱がどこから来るのか知りたいと思った。生まれた時から多くを持ちすぎていた青聡竜は無欲過ぎた。彼はその能力相応の欲を持っていなかった。その空虚な心を満たすことが、白賢龍といれば可能になる。そう思い、彼の歩む道についていこうとしている。
白賢龍は、青聡竜に比肩する学識に加え、溢れるほどの情熱を持っている。他人の心に火を点けずにはいられない、灼熱の太陽のような存在だ。青聡竜は、白賢龍の心に宿る炎に憧れていた。
白賢龍も青聡竜を必要としていた。白賢龍の頭脳、実行力を求めて、昔から多くの者が彼の周りに集まった。彼はそれらの者たちが抱える状況に耳を貸し、そして利を食らわせてきた。人々は感謝し感激する。しかしその多くは上辺だけだ。心の中ではこの貧しい青年を蔑み、利用しやすい奴だと笑っていた。だが青聡竜は違う。無私の友情で彼に接してくれる。それは、白淡鯉もそうだった。白賢龍は、この二人にだけは心を許していた。
青聡竜は夜道を歩く。
祝福してやろう。
無欲なこの男はそう考えた。彼の親友と、彼の愛する少女、その二人が幸せに結ばれることに何のためらいがあるというのだ。青族である彼が、白族である彼女を求めれば、彼女を不幸にする。この大陸では、異民族間の結婚は禁忌とされている。生まれた子は、嫡流として認められず、家の相続も許されない。
身を引くべきだ。そして、白賢龍と白淡鯉のために尽力しよう。彼は静かに僧房への帰路をたどった。
闇の書庫で、貪るように書を読み続ける男がいる。わずかな灯し火に照らされ、彼の目の中では文字が生き物のように踊っている。筆で描かれた文字は跳ね回り、蠢き、男の眼前に書き手の姿を再現する。
今読んでいるのは軍学書である。百年前、軍事の天才と呼ばれた男が書いた本だ。その軍学者が、文机の上で白賢龍の姿を認め振りむいた。いや、違うようだ。文字を連ねている途中で閃いたのだ。軍学者は思考を巡らす。物事の深淵を見つめる目で、事の本質を見抜こうとする。思索は結実したようだ。筆に墨を含ませ、次の文字を墨書する。
白賢龍の眼にはその様が、まるで現実のように見えている。軍学書の前は経世の書を読んでいた。そこでは、白髪を振り乱した老人が治世を嘆き、筆を紙に叩きつけていた。白賢龍はその様子を、その場に居あわせたように眺めた。
幼少の頃から、文字の先に誰かがいるのは感じていた。だが初めは、筆の先だけしか見えなかった。物心ついた頃には、文字を書く人の姿が目に映るようになった。この学僧市に来てからは、その書が著された部屋の様子まで観察できるようになった。今では、その本が書かれた時代、土地までもが見渡せる。彼は、手に持っている書を読み終えた。
彼の頭の中には、歴史の大伽藍ができつつある。一巻の書が柱となり、一冊の本が梁となり、歴史の骨組みが、無数の文字によって組みあがっていく。見たこともない土地、生まれてすらいない時代を自由に旅行できるほどに、彼の脳内の世界は確かな現実感を持っていた。大陸の歴史を自由に巻き戻し、進め直すようにして、彼は幾度となく過去を通覧した。
骨組みだけの歴史は、彼の成長とともに堅牢さを増した。この骨組みに想像力が肉を付けたのだ。想像力は、伽藍の壁となり、調度となり、歴史の骨組みの隙間を埋めていく。今や彼は、歴史という建造物の諸室を、自由に巡覧できるまでになっていた。
彼は、その想像の大伽藍の階段を上っていく。屋上にたどりついた。壮麗な歴史という建築物が、彼の足元に広がっている。いくつかまだ満たされていない部屋もある。だが、彼が書を読み、その書き手の懊悩を通して歴史の細部を観察すれば、確固たる歴史感が築かれ、空室は消えていく。
いや、既にその仕事は半ば終わりつつあった。今は次の段階へと興味が移っている。
白賢龍は、自分が立つ場所から空を見上げた。そこには、まだ細く折れそうな木材ではあるが、未来という名の建物が築かれつつある。まだ、登ることもできないほど弱々しい骨組みだ。だが、この建物に階段が、いや、梯子さえ付けば、彼はこの雲の上の世界にむけて、足を踏みだすつもりだ。その先に何があるのかは分からない。だが彼は、その高みに至りたいと望んでいる。
誰も理解できない望みかもしれない。しかし、男の欲望とは本来そういうものなのだ。他人には分からない、歪んだ願望を胸に抱いている。百年先、千年先の未来とは、どういうものなのか。彼はその世界を見てみたかった。
白賢龍は次の書に手を伸ばす。
千年の過去を眺望することで、千年の未来を遠望する。彼はその仕事にのめりこむ。
二 海都の青捷狸
それから数年後。学問の街に衝撃の事件が起きた。
王が代わった隣国が、宣戦を布告してきたのだ。
会議室。学僧市を束ねる学僧長の前に、僧房長、学舎長たちが列席している。長机に座った人々の顔は、いずれも重く暗い。この数十年、学問の一大中心地であるこの都市国家に、宣戦を布告する者などいなかった。この地には数多くの王国の、若き俊才たちが送りこまれる。そのため、それらの国家の協定により、この場所は中立を保っていた。新たに王になった男は、この文脈に沿わぬ男だった。彼らを人質とすることで、他国への侵略を有利に進めようと考えたのだ。すぐに、周辺国の軍団がこの街に送りこまれてくるだろう。防衛は可能だ。だが、この学問の都は戦場となり、破壊される。
沈痛な表情の人々の中に、二人だけ異質な人間が混じっている。若過ぎる。三十代以上の列席者の中で、彼らだけが十代後半である。二人の英才は、数ヶ月前に学舎塔を任されるようになった白賢龍と青聡竜だ。この男たちだけは狼狽していない。いや、好機が来たと思っている。彼らがここ数ヶ月策を練っていた仮想敵国が、いよいよ動きだしたのだ。待ち望んでいた国盗りの機会がやってきた。
「一ヶ月あれば、敵国を落とせる」
出し抜けに、兵も資金も持たない、学識だけの白衣の男がそう言った。人々は訝しがる。学僧長の孫娘といつも一緒にいるこの男を、人々は快く思っていない。権力者に取り入る成り上がり者。多くの者が、彼のことをそう見ていた。
「白賢龍の言葉は本当です。彼なら落とせる。私もそのために尽力します」
富豪の家の出の男がそう言うことで、あるいは本気かと、この国の実力者たちは考えた。同じく白淡鯉とともにいることの多い男だが、青聡竜は人々に一目置かれていた。彼の言葉の背景には、海都の舟大家がついているからだ。
「どうやって落とす」
学僧長が白賢龍に問う。
「手品師は、手品の種は明かさんものだ」
白賢龍が倣岸に答える。その言葉に、周囲の人々は反感を抱く。
「おい白賢龍、貴様、学僧長殿にその言い草は何だ。白淡鯉様に気に入られているからといって、いい気になるな」
僧房長の一人が怒鳴りつける。
「白賢龍よ、そこまで言うのなら、お前の手で落としてみせろ。だが私たちはお前に手は一切貸さん。貴様はこの学僧市とは関係のない個人として動け。私たちは周辺国と協力して、この街の防衛を固める」
壮年の学舎長が冷然と言い放つ。
「よかろう、あとで吠え面をかくな。一ヶ月後を見ているがいい」
白賢龍は笑いながら会議室をあとにする。その背を追うようにして青聡竜も部屋を出た。
「おい、賢龍。いくらなんでもあれは言い過ぎだろう」
石畳の大通りを歩きながら、青聡竜は白賢龍に声をかける。
「わざとだ。ああでも言っておかないと、国を落としたあと、いろいろと口出しされるからな。奴らは俺が単独で実力を示すまでは、俺のことを自分の手足の延長ぐらいにしか思わないだろう。そういう奴らには、否定不可能な事実を突きつけて服従させるしかない」
青聡竜はため息を吐く。何もあそこまでは言わなくともよいではないか。それに、単独とは言っても、青聡竜の縁故は頼るのだ。このあと、海都の舟大家に兵と船を借りるための交渉に行く予定だ。だがこの調子では、無事に借りられるかどうか分からない。それ以前に、青聡竜の兄であり、舟大家の家長でもある青捷狸を怒らせかねない。徒手空拳、唯一青聡竜の血縁だけがこの作戦の頼りとは無謀過ぎる。
広河沿いの港に着いた。すぐに船に乗りこむかと青聡竜は思っていたが、白賢龍は何かを待っているようだ。
「船には乗らないのか」
「まだだ」
青聡竜の言葉に白賢龍はそう答える。しばらく待つと、港に続く道の一つから、武装した一団がやってきた。数は百人ばかり。軍団というには少な過ぎるが、私兵としては多過ぎる。
「白賢龍、待たせたな。お前が国を落とすというから、この数日、募兵に奔走しっぱなしだったぜ」
一団を率いてきた男が白賢龍に語りかけた。
「思った以上に集まったな」
「彼は何者だ、賢龍」
青聡竜はこの男と白賢龍の関係を知らない。
「こいつは僧兵長の白惨蟹だ。一軍の指揮を任す約束になっている」
「ああ、そういうことだ。青聡竜殿、よろしく頼むぜ」
白惨蟹は握手を求める。
「この兵はいったいどういった素性の者たちなのだ」
握手に応じながら青聡竜は尋ねる。白惨蟹が連れてきた者たちは、僧兵の武具を身に付けてはいたが、どう見ても兵士には見えない体つきの者のほうが多い。お世辞にも強兵とは言えないだろう。その青聡竜の思いに気付いたのか、白惨蟹が兵について語りだす。
「見た目は貧弱かもしれないが、士気は高いぜ。こいつらは全員、白賢龍に恩のある者たちだ」
それらの人々は、かつて白賢龍が様々な方策を授けた市井の人たちであった。彼らは、白賢龍のおかげで命を助けられたり、一家を救われたりしている。白賢龍が無償で助力した人々が、今度は白賢龍を助けるために、この場に集まってきていた。白惨蟹は、白賢龍に挙兵を知らされ、白賢龍のために命を投げだせる者たちを探し集めてきたのだ。
「白賢龍殿、今度は私たちがあなたのために戦う番です」
「身命を投げ打ってお仕えいたします」
人々は口々にそう告げる。その様子を、白惨蟹は満足そうに見渡す。
「白賢龍よ、彼らの軍資金は、彼ら自身から出ている。心置きなく同道させればいい。青聡竜よ、今から海都に行くのだろう。幾らなんでも、二人で交渉に行くのは無茶だ。二人だけで海都に交渉に行けば侮られるぞ。俺たち全員が部下として従っていることを示せば信頼は増す。交渉も有利に進められるだろう。それに白賢龍。幾らなんでもいつもの白衣ではまずかろう」
白惨蟹は、人々の後ろに合図を送る。兵たちの人だかりが割れ、その先から白淡鯉が行李を持って現れた。
「白賢龍、お前は黙っておけと言ったが、俺の独断で白淡鯉お嬢さんにも今回の一件を伝えた。案の定、白淡鯉お嬢さんは、こういう時が来ることを考えて、お前さんのために衣装を用意していた」
白淡鯉は白賢龍の元に歩み寄り、行李を渡す。
「いつかこんな日が来ると思っていたわ。これは私が縫った服よ。賢龍、無事に帰ってきてね」
「大丈夫だ。一ヶ月で攻め落とす。白淡鯉よ、この地に無事戻ってくることを約束しよう」
白賢龍はいつもと変わらぬ調子で答える。行李を渡した白淡鯉は白賢龍に抱きついた。兵たちは、その様子を見て感動の涙を流す。そして、この二人のために、命を投げ打って戦おうと決意した。
だが二人だけ、そのような感傷に浸っていない者がいる。白惨蟹と青聡竜だ。白惨蟹は、計算高い顔で周囲を見渡し、この場を演出した自分の手腕に酔っている。その様子を見て、青聡竜は苦い顔をする。白惨蟹、この男は注意しなければならない。欲が強過ぎる。その欲は白賢龍のような純粋で真っ直ぐな欲ではない。捻じ曲がり、毒気を撒き散らす欲だ。
「白賢龍、行こう。海都に着くのは早いほうがいい」
「そうだな」
白賢龍は、白淡鯉から体を離し、船上の人になった。白淡鯉の見送る中、一行は、海都へとむかう。
海都。
この強大な商業都市国家を支配するのは、五大家と呼ばれる商業貴族たちである。舟大家は、この五大家の中で最大の勢力を誇る。
この舟大家の家長に数年前に就任した、青捷狸という若い男について、少し語らなければならない。この男は青聡竜の兄に当たる。彼の人生は、波乱万丈と呼ぶに相応しい。青捷狸は、舟大家の家長の家に、長男として生を受けた。
青捷狸という男が生まれた当時、舟大家は権力闘争の真っ只中であった。彼の父は舟大家の家長だったが、母は海風神社の巫女であった。妾である。その腹に、世継ぎとしての長子が生まれてしまった。権力闘争の巻き添えになることを恐れた父は、周囲の者にもその事実を告げず、母を市井に下らせ、私生児として青捷狸を育てさせた。その後、正妻の腹に生まれた青聡竜も、命の危険から遠ざけるために、生まれた直後に相続権を停止され、学僧市に預けられた。
青捷狸が十歳の頃、この権力闘争は終わった。今なら青捷狸を迎え入れても安全だと判断した父は、息子とその母を迎えに市井の妾宅へとむかった。だがその場には十歳の息子はいなかった。母だけがいた。息子はどこだね、そう穏やかに問いかける舟大家の家長に、元巫女の女性はこう告げた。
「青捷狸は将来あなたの仕事を継ぐでしょう。しかしそのためには、世間を広く見聞し、人を見抜く目を養わなければなりません。息子は、六歳の誕生日とともに、商船に預けました。今は十歳ですが、既に船長となり、海を縦横無尽に駆け回っています。二十歳の誕生日を迎えるとき、息子は修行を終え、あなたの前に現れます。そのとき、あなたは引退を決意するでしょう」
元巫女らしく、彼女の口振りは神託を受けたかのようだった。
「分かった、十年待とう」
そう言い、青捷狸の父は舟大家の商館へと引き上げた。
十年経った。この時の流れの間に、青捷狸の母である妾も、青聡竜の母である正妻も死んだ。他にも多くの人々が死に、時代は大きく変わった。
舟大家の商館に一人の男が現れた。青族特有の青黒い髪と、海のように青い目、そして船乗り特有の褐色の肌を持ち、背は中ぐらいで鋼のような筋肉を供えている男だ。その男は、商館二階の商談の間の受付にこう告げた。
「舟大家の、新しい家長が、古い家長に会いに来た」
受付は訝しがったが、家長に来訪者があることを、伝令を通じて伝えた。三階から降りてきた家長は、その男が海風神社の巫女に生ませた子供だとすぐに分かった。その、海のような目こそがその証であった。二十年振りにあった息子に感激の色を隠せない家長に対し、青捷狸はこう告げた。
「権力闘争は終わっていない。あなたは騙されている。真の悪人は、姿を見せずに裏から全てを操ろうとする。俺を家長の執務室に案内しろ」
息子の言葉に驚きながら、父親は執務室にむかった。親子は連れ立ち、港を見渡せる部屋へと入る。重厚な机が部屋の中央にある、防音の効いた部屋だ。
「証拠を見せる」
青捷狸は腰の剣を抜き、何もない壁に突き立てた。悲鳴とともに鮮血が舞った。壁の一部が姿を変え、間者が床に倒れた。幻覚を使う異能者だ。その力を使い、政敵は家長の動向を監視していたのだ。父親は驚いた。
「一人ではない」
二十歳の青年は、眉間に剣をあてがい目を見開く。部屋に無数の悲鳴がこだました。異能の間者は一人ではなかった。複数の勢力から送りこまれた者たちが、目となり耳となり、この部屋に巣食っていた。青捷狸は海で鍛えたその肉体を操り、次々にその者たちを剣の餌食にしていく。この男の特殊な能力は、母の血を受け継いだものだ。海風神社の巫女の血、海の魔物から人々を守る能力が、この男にも備わっていた。彼が念じれば、異能の術者たちは、たちどころにその力を萎縮させられる。
「全て殺してしまっては、情報を聞き出せないのではないか」
父親は息子にそう尋ねた。
「既に目星は付けてある。今からその者たちの許に乗りこみ粛清する。古い家長よ、兵を用意しろ」
まるで部下に対するような口調で、息子は父親に命じた。母親の予言、そしてこの執務室での殺戮、そして裏切り者がいるという言葉。有無を言わさぬ青捷狸の声に、彼は討伐隊を急ぎ集めた。
仕事は早かった。妾の息子が家長を継ぐことに反対しそうな舟大家の有力者たちは、ことごとく反逆者として処罰された。青捷狸が家長を継ぐことに反対する者は消えた。そして先代は引退し、青捷狸が舟大家の家長に収まった。
一部の荒事師たちの間では、舟大家の家長の執務室にいた間者を雇ったのは、青捷狸自身ではないかという噂が立った。しかし、その数ヶ月後、風聞を囁いた者はなぜかいなくなった。
それから数年、新家長になった青捷狸は、その任を過不足なく遂行している。特に目立った成功も失敗もなく、彼が家長であることが当然と誰もが思う、穏やかな仕事振りを続けている。青聡竜に対しても、よき兄として振る舞い、彼が学僧市で使う金を送るのを惜しまなかった。
その青捷狸の執務室に、商館一階の港から、青聡竜の来訪を伝える一報が入った。
「家長殿、学僧市より、青聡竜様とそのご友人がいらしています。青聡竜様は、ご友人とともに、家長殿に会いたいと申しております」
伝令官の言葉を聞き、青捷狸は首を捻る。青聡竜が、突如連絡もなくやって来ることは今まで一度もなかったからだ。
「二人だけか」
「いえ、百人の僧兵を連れての来訪です」
青捷狸はしばし考える。その友人とは白族の青年白賢龍だろう。青聡竜の親友として、何度も会話の中に登場している。今回の来訪は青聡竜の意思ではないはずだ。接した時間が短いとはいえ、弟の性格は把握している。青聡竜は、豊富な知識を持っているとはいえまだ若造だ。良家の子息の域を出ていない。無理を通して会おうとする考え方ができる人物ではない。
ならば、今回の訪問の企画者は白賢龍という男に違いない。この男は、貧しい身から今の地位まで這いあがって来た傑物だと聞く。油断はならない。彼は青聡竜と縁の深い人物だ。今後のために、一度この眼で見ておく必要がある。
「通せ、ただし青聡竜とその友人の二人だけだ。連れてきた百人の兵は、十人ずつに分け、それぞれ別の番所で待つようにさせろ」
伝令官が一礼して部屋を出ていく。さて、どうしたものか。青捷狸は執務室の椅子で、二人の訪れを待った。
二人の男が部屋に入ってきた。一人は青族の偉丈夫青聡竜、もう一人は銀糸を縫いこんだ白衣をまとった目付きの鋭い白族の青年白賢龍だ。
「兄上、突然お伺いして申し訳ございません。今日は至急の用があり、以前話した親友の白賢龍とともに、この場所を訪れました」
青捷狸は椅子に深々と座って白賢龍を睨んでいる。ここ数年、海に出ることもほとんどなくなった青捷狸の体は、見難くたるみ始めていた。だが、その肉体の緩みと反比例するように、彼の眼力は鋭くなっている。白賢龍と青捷狸の視線が部屋で火花を散らす。青捷狸の眼には微かな殺気が浮かんでいる。
「聡竜よ。以前手紙で書き送ったが、妻が妊娠をしていてな。そろそろ産まれる時機のため、妻は部屋に閉じこもりきりで暇な毎日を過ごしている。お前が会いにいけば、さぞかし喜ぶだろう。今から、少しだけ、会いに行ってはくれまいか」
青捷狸は、この数年で妻を娶り、子造りに励んできた。子を作ることこそが、彼の地位を磐石にすることだったからだ。そしてこの年ようやく子供を授かった。妾腹だった彼も、今や舟大家の家長として相応しい男になりつつある。だがそれも、青聡竜の欲が少ないからだ。彼は現在、家長の座を易々と守ることができている。だが、いつかこの弟を担ぐ輩が現れるかもしれない。
もしやこの白賢龍という男、その手の者か。青捷狸はそう思い、この男を見極める必要があると感じていた。
「聡竜。二人だけで話し合うことを青捷狸殿はお望みのようだ。席を外してくれ」
白賢龍が、青捷狸の意図を青聡竜に告げる。
「しかし、俺が間に入らなければ、話は進まないのではないか」
「白賢龍という男の言う通りだ。二人だけで話すべきことがある。お前は妻に会いにいけ」
二人の只ならぬ気配を感じ不安を抱えつつも青聡竜は部屋を退出した。防音の効いた、厚手の扉が閉められる。しばしの沈黙ののち、青捷狸が先に口を開いた。
「白賢龍とやら、どのような異能で我が弟をたぶらかしている。俺にはお前の力は何も効かぬぞ。俺は生まれて以来、どのようなまやかしも効かぬ神の加護を受けている」
青捷狸は太った体を椅子から持ち上げ、腰の剣を引き抜いた。その足取りは猫のようにしなやかで、その体重を感じさせない。手練れだ。青捷狸は死線をくぐって来た者特有の殺気を放つ。白賢龍は驚きもせずに立っている。
「舟大家は商売をする場所と聞き及んでいる。兵と船を借りたい。兵の数は二百、船の数は二十人乗りの船を十五艘」
顔色一つ変えない白賢龍に、剣を構えた青捷狸が近づいていく。
「商売だと。青聡竜に話は聞いているぞ、お前は後ろ盾を持たぬ身。金など持っておるまい」
「取り引きの内容は金とは限らぬだろう。青捷狸、俺はお前に二つの利を食らわせてやる。一つめの利は、我が国との同盟だ。これから一ヶ月後、俺は新たな国を興す。その国との最初の同盟国として海都を選ぶ。そして経済的利益を優先的に海都が得られるように配慮してやろう」
「馬鹿か、まだできてもいない国との同盟や、経済的優遇を持ちだしてどうする。話にもならん」
「二つめの利は、青聡竜の拘束だ」
青捷狸の動きが一瞬止まる。
「俺には手に取るように、お前の考えが分かる。お前にとって青聡竜は悩みの種のはずだ。正妻の子供でないお前にとって、青聡竜は邪魔者以外の何者でもないはずだ。だからといって、彼が死んだり、害になるようなことがあれば、お前の仕業でないかと疑われる。それに青聡竜は欲が少ない。欲が深ければ失墜させるのも簡単だが、そのような罠を張ればすぐにお前の仕業だとばれる。どうだ、違うか」
白賢龍は青聡竜から、青捷狸が書いた妻の妊娠の手紙を見せられていた。もちろんその手紙から、白賢龍は青捷狸の考えを読み取っている。青捷狸は表情を変えずに白賢龍に近づいていく。
「分かっていないようだな、ここは舟大家の家長の執務室。ここで起こったことは、外部には一切漏れない。それに俺はお前の持っている異能を封じこめることができる。そうすれば貴様は、地獄の苦しみを味わうことになるだろう。我が力を受け、精神を崩壊させた者や肉体を滅ぼした者は過去に数知れない。お前もそうなりたいのか白賢龍よ。お前は取り引きできる立場にはないのだ。さあ、お前の真の目的を語れ。我が弟に近づき、俺に取り引きを持ちかけ、最終的に何を狙う。世間を広く見てきた俺には分かる。お前が、ただ二百の兵と、十五艘の船を借りに来ただけでの人物ではないということは。言え、お前は何をしようとしている」
「大陸征服」
その言葉に、青捷狸は大声で笑いだした。彼には、相手が嘘をついているかどうかぐらいは分かる。この男、本気でこんな荒唐無稽なことを考えているのか。剣を持つ手を緩めぬまま、青捷狸は白賢龍に問う。
「何のために、そんな壮大な戯言を言う」
白賢龍も、次第に分かり始めている。この舟大家の家長の前では、あらゆる嘘もまやかしも効力を持たないことを。白賢龍が文字から人物を読み取れるように、この男はあらゆる偽りを見ぬき、相手の異能を否定する力を持っている。
「よかろう、語ってやる。しかし聞けばあとには戻れぬぞ。真実を見通すお前ならなおさらだ。この事業に巻きこまれる」
「ふん、話せ。俺を驚かせるような理由であれば、兵二百、船十五艘ぐらい貸してやる」
「よかろう」
白賢龍という男、何を考えているのだ。彼の言葉を青捷狸は待つ。世界中を旅し胆力を鍛えてきた青捷狸は、よほどのことがなければ驚かない。その彼を驚愕させるほどの理由があるか否か。白賢龍は、毅然とした態度で、自らの能力を通して見た、未来のことを語り始めた。
白賢龍は、その心の内に、歴史の大伽藍を持っている。様々な書物を通して見た歴史の破片を組み上げ、不足を想像力で補い、もう一つの大陸とでも言うべき心象世界を作り上げている。白賢龍の目は、ときに現実を離れ、その歴史の世界を飛翔する。構築した世界は過去だけではない。今では未来の領域にも梯子や階段が伸びている。まだ、足場だけの危うい世界である。だが彼は、歴史の暴かれていない時代に踏み入り、その世界を何度も縦覧していた。
千年。
過去の千年を知り尽くした白賢龍は、未来の千年にもたどりつくことができた。そして、この世界の人間がまだ見ぬ光景をまざまざと見て、現在の世界に戻ってきた。千年先、人々は金属の乗り物を操り、超越的な動力源を手に入れ、物質を変化させ、生物のあり様をも変える能力を持っていた。天空を超え、夜の闇に浮かぶ星々にさえも迫る移動力を手に入れ、人類の活動範囲は海にも空にも及んでいた。
白賢龍の身は大陸の学僧市の一室にありながら、その心は千年後の街路を歩き、様々な文明を見、千年で移り変わる民族、国家の盛衰も目の当たりにした。彼の精神は歴史の中を飛び回った。だがそれは、薄く靄のかかった光景であった。彼は未来の鮮明な光景を見たいがために、書物を読み続けた。次第に明瞭になる未来世界。それに対して自分が住む現在の世界。本を読めば読むほど、彼の未来への思いは募っていった。
それは、未来を見てしまった者の懊悩か、それとも未来人が過去に流された場合の望郷か。
千年という未来は彼には遠過ぎた。だが、彼の性格は絶望に打ちひしがれるようにはできていなかった。ならばどうすればよいか。そのことを必死に考え、ありとあらゆる書物を吸収しながら一つの結論に至った。
白賢龍は、彼が見た世界、彼が為そうとしていることを語る。
「俺自身が千年後に行けないのならば、千年後の未来を俺に引き寄せればよい。俺は歴史の歯車の回転を早め、千年という歴史の流れを、俺の生涯の間に経過させてしまうことにした。そのためには、この大陸全土の人民、資源を傾けるほどの莫大な投資が必要だ。それをてこに、加速度的に歴史の回転を早めなければならない。だから大陸征服を成し遂げる必要がある」
狂人か。白賢龍の語った壮大な妄想に、青捷狸は全身の毛を逆立たせる。これまで数多くの人々に接してきた彼だが、このような思考をする人間には出会ったことがない。狂っていると一笑に付したい。だが、狂人として片付けられないだけの知識と知恵を、この白族の男は備えている。秀才集まる学僧市で、十代にして学舎長になるのは天才と言ってよい。
「そのような妄言、信じられぬな。まるで千年後を見てきたかのようにお前は語る。人間は未来を知ることはできない。それとも、人間が未来を見ることができるという証拠でもあるのか」
もし本当なら、この白賢龍という男は、千年の高みから現在を見ていることになる。だが、現実主義の青捷狸は、この男の言葉を証拠もなしに受け入れることはできない。
「証拠はある。かつて、俺と同じく千年後の世界を見てきた人物がいた」
「誰だ、その虚言癖の徒は」
白賢龍の喉元に剣を突きつけて青捷狸は叫ぶ。
「その男の名は黒円虹。黒陽会という宗教の教祖であり、黒都に高度な文明をもたらした人物だ。黒族たちは、黒円虹が見てきた未来の技術を元に、大陸南西の地で栄華を極めた。黒都の者たちは、それらの技術の原理は理解していなかった。しかし、仕組みは分からずとも道具は使える。黒都の住人たちは、黒円虹の見てきた通りに、超常の道具を作り使用した。黒都の突如の繁栄は歴史の線をたどっても説明がつかない。なぜならば、黒都の文明は、黒円虹という人物の登場で発生した突然変異の文明だからだ」
青捷狸は沈黙する。砂漠化し閉ざされた黒族の地については、彼も多大な興味を持ち、研究していた。なぜあれだけの文明があの地に登場したのか、そしてその技術は一体どうやって発達したのか。そのことを彼は、一介の商人として大陸を回っていた頃から調べていた。その調査は今も続けている。彼が舟大家の家長になったとき、廃止になりかけていた辺境部門の海図製作を続行させたのもそのためだ。
余人ならば一笑に付すだろう白賢龍の言葉は、青捷狸には半ば嘘かと思いつつも、完全には否定できない説得力があった。この大陸には異能の者は少なくない。その中には、いるのかもしれない。その能力を通して、将来を予見できてしまう人間が。
「千年後を現在に引き寄せる、そのような妄想が実現するとでも思っているのか」
剣を持ったままの青捷狸の全身が、汗で濡れていく。
「黒族は何も理解していないがために失敗した。彼らは自らの居住地にこだわり、狭い地域を無理矢理改造して文明を高めた。その反動は狭い土地に集中し、彼の地は滅んだ。俺は同じ失敗はしない。大陸全土を統一し、この大陸全てに負荷を分散させながら歴史を進ませる」
「もし仮にお前の言う通りに事が進んだとしよう。だが、お前が生きている内に事業を終えることは無理だろう。あまりにも話が壮大過ぎる」
「できる。閉ざされた黒都を解放し、彼らが残した文明の続きから始めればよい。物事を動かすときには共通の法則がある。最初の一押しに最も力が必要になる。この困難を黒都解放で一気に行なう。そのための受け皿になる大陸国家も用意しておく。
予想される障害も予め排除する。千年の時の間には、赤族の地、緑族の地に、大陸を覆うほどの文明を築く一族が現れる。その者たちも予め倒し、我が歴史を阻む者が現れないようにする」
青捷狸は白賢龍の目を覗きこむ。その眼の中には無数の光が瞬いている。この中に、千年の歴史が潜んでいるというのか。
「十年。この期間あれば、俺は強国を築くことができる。それからさらに十年あれば、俺の興した国は大陸の半ばを支配するだろう。それから先は、大陸全土を統一しつつ、黒都の文明を我が手に入れ、歴史を加速させ始める。大陸の半ばほどの広さがあれば、歴史の圧力にもある程度耐えることができる。狭き土地で急激に文明を高めれば、黒都の二の舞になり、自滅の道を歩むことになる。負荷の分散こそが、我が事業には必要なのだ」
目眩がする。青捷狸はそう思った。この男は本物であろうか。試してみたい。波涛を掻き分けて海を渡っていた頃の冒険心が、彼の心に湧きおこる。
「白賢龍よ、お前が見てきた千年後には何がある。それほどまでにしてお前が求める千年後の世界とは、どのような世界なのだ」
「人々は幸福に満たされ、世は平和を謳歌している」
嘘だ。千年で変わらなかった人の本性が、さらに千年で変わるはずがない。だが、この男が本当に未来を見てきた男であるのなら、利用しない手はない。
「いいだろう。兵と船を貸そう。お前の言葉が真実かどうか証明して見せよ。ただし、条件がある。黒都の開放は俺にやらせろ。俺はかつて大陸周回航路が生きていた頃、黒都を見てきた男だ。そして黒都が滅んだ今、あの地がどれだけ危険な地帯になったかも知っている。今やあの地へ行くのは簡単ではない。多くの条件を満たしていなければならない。
お前の言う目的を達するためには、黒都に精通し、文明の価値の分かる人物が、大量の兵士を連れて、あの地へ乗りこむ必要がある。お前が千年後を見ることを望むように、俺は黒都開放を望んでいる。千年後を引き寄せるお前の事業に協力しよう。だが、俺の仕事の邪魔はさせん。黒都に行くのは俺の役目だ」
「よかろう、黒都開放はお前に任せることを約束しよう」
「ふんっ、既に王のように振舞うか。大きな口を叩く前に、まずは国を落としてみせろ。本物かどうか、見極めてやる」
未来の世界を欲する男と、過去の王国を求める男とが手を組んだ。青捷狸は執務室の扉を開け放つ。すぐに執事を呼び、兵と船を用意するようにと告げる。そのとき、階段を青聡竜が駆けあがってきた。
「兄上、子供が産まれましたぞ」
「子は無事か」
「無事です」
「そうか、でかした」
青捷狸は、青聡竜と白賢龍の二人が来てから始めて笑顔を見せた。後継者は生まれた。これで彼の地位も磐石になった。
「青聡竜よ、兄として弟に請う。我が子に相応しい名を付けて欲しい」
さらに地位を磐石にするために、青捷狸は弟に語りかけた。青聡竜が青捷狸の子供の名付け親となれば、弟は兄の子供の後見人となる。青捷狸の血筋が嫡流として、今後の舟大家の柱となるのだ。
「女児とのことでしたから、美鶴というのはどうでしょう」
「よし、執事よ筆と墨を持て。青聡竜、お前の署名で命名を世間に公表したい。一筆、我が娘の名前を書いて欲しい」
「分かりました、兄上」
白賢龍は、青捷狸の政治が終わるのを待ち、青聡竜とともに海都を発った。
一ヶ月後、学僧市を攻めようとしていた隣国は落ちた。白賢龍と青聡竜が練りに練っていた、河川上での軍団輸送の戦術が威力を発揮した。川の細流が大地を走っているその土地で、彼らは神出鬼没の活躍をした。
その後、白賢龍を王に戴いた小国は白大国と国名を定め、瞬く間に周囲を併呑した。白大国は学僧市にも降伏を求めた。白賢龍に辛く当たっていた僧房長や学舎長たちは、戦場での白賢龍の復讐を恐れ、学僧長に降伏を提案した。彼らを助けてくれる周辺国は、既にどこもなかった。
白賢龍は約束通り学僧市に戻ってきた。そして、白淡鯉を迎えにいった。出発したときの彼は白賢龍という一個人であったが、帰ってきたときの彼は王となっていた。白王、自らそう名乗るようになった男は白淡鯉に求婚した。恋愛感情からではない、政治的配慮からだ。
学び育った学僧市を自らの手で潰したという悪評を避けるために、これはあくまで合併なのだと世間に訴えるために、白王は学僧長の孫娘を妻にする必要があった。白賢龍が、恩を受けたこの国を滅ぼしたとなれば、今後の支配や諸国の征服に影響が出るからだ。
政治的判断としての求婚であったが、白淡鯉は白賢龍の愛情だと思いその提案を受けた。学僧市の有力者の中には難色を示す者もいたが、彼女の祖父である学僧長はこの結婚を歓迎した。
数週間後、祝いの品々を持って、海都の代表者として青捷狸が白大国を訪れた。同盟の調印のためである。そして、婚礼のための様々な道具や衣装を献上した。過去のどの王族も見たことがないような、きらびやかな衣装を前にして、白淡鯉は素直に喜んだ。青聡竜たちの見守る前で、白賢龍と青捷狸は固い握手を交わし同盟を結んだ。
白大国と海都の同盟は周囲の国々を震撼させた。我先にと同盟を希望する小国が白大国を訪れた。新興国だと嘲笑う大国も多かった中で、先見の明がある国王たちは、こぞってこの国との同盟を求めてきた。
彼ら諸国の王や代表者の列席する中、白賢龍と白淡鯉の婚礼の儀は執り行われた。海都の舟大家の全面的支援の下に行なわれたこの結婚式は、どの国をも凌ぐ盛大なものとなり、新時代の幕開けを列席した諸国に感じさせた。
白大国は、それから二十年。大陸を席巻することになる。
三 白都襲撃
時を現在に戻す。
白都から東に伸びる街道に土煙が舞っているのを白都の人々が見たのは、海都襲撃の日の夕方だった。その日、朝より海都方面で大火災の煙が立ち、白都の住人は不安を抱えて一日を過ごした。白都防衛の任に当たる軍団長は、東方に確認のための乗馬兵を十騎、快速船を二艘放ち、連絡を待った。だが、十騎の乗馬兵は仕事をまっとうできなかった。敵が何者かを知る前に、遠方より飛来した矢に貫かれて命を落としたからだ。
火災が海都ならば、西方の戦線に影響が出るかもしれない。
軍団長は白都の街壁に立ち、東の空を見て報告を待った。彼の許には、まだ赤族襲撃の報は届いていない。そのためこの異常事態に気付くだけの情報を彼は持たず、正確な判断をできないでいた。
黄昏の闇が東天を染める頃、その闇の下を這うように空気の濁りが見え始めた。あるいは夜盗でも出たのか。大陸は広い。白都とはいえ、白大国の軍の網を縫い、そのような者たちが現れることもある。
街壁からは、再度接近者を確かめるために十騎が放たれた。
赤族の襲撃者たちは森から出る前に馬の脚を止めた。彼らは森の木々に姿を隠す。その場所から、百騎が飛びだした。赤烈馬率いる一軍団である。白大国の十騎が、波に飲みこまれるように地に倒れた。九百人は森に潜み、様子を窺っている。
赤烈馬の一団に気付き、白都の守備兵は急ぎ門を閉じた。既に夕方だったので、門を閉じる準備を始めていた折である。そのため、門が閉まるまでの時間は通常よりも短かった。赤族の兵たちの前に、扉が固く立ちはだかる。
「ちっ」
流石に海都に引き続き一気に侵入というわけには行かないか。そう思う赤烈馬たち目掛けて、街壁の上から矢が降り注いできた。彼らから少し離れた門が開き、三百騎が出撃してきた。まだ、赤烈馬たちの素性は白都には知られていない。全体の兵数も把握されていない。
「戻るぞ」
赤烈馬の号令とともに、彼らは三倍の守備兵を引き連れ森へとむかった。夕日を背にして馬が街道を駆ける。赤烈馬は、敵を引き離し過ぎないように、部下たちに馬の脚を緩めるように伝えた。もう少し守備兵が飛びだしてくるかと思ったが、必要以上の兵を街壁の外には出してこなかった。白都守備の軍団長は、百の兵に対して三百の兵を出してきた。通常ならば、確実に仕留められる数である。
赤烈馬は馬上背後を振り返る。三倍ならば確実に勝てるという読みか。だが、その理屈でいくのならば、こちらも三倍の伏兵が控えている。赤烈馬の一団が森に飛びこむとともに、森から九百の騎兵が踊りでた。追ってきた白族の軍団が止まる。罠だ。気付いたときには遅かった。一瞬の内に隊は消滅した。
白都の街壁の上に軍団長は立ち、東の景色を注視している。
「どうなっている」
苛立たしげに部下に状況を問う。百人の襲撃兵を迎撃するために三百の兵を放った。しかし、暗がりの下、街道沿いに追った兵を伏撃している一団がいる。高い組織力を持った一団だ。ただの夜盗ではない。それも尋常になく個々の兵士の能力が高い。詳細は一切見えないが、それでも豆粒のような人馬の動きから、そのことは窺える。
「軍団長殿、敵兵を一人捕らえました」
千人長が街壁の階段を駆け上がってきた。
「あの軍団、どういった素性の者たちだ」
「赤族です」
「まさか。実際に見て確かめる。今どこにいる」
「門近くで籠に閉じこめております」
本当か嘘か確かめねば何とも言えない。軍団長は千人長とともに階段を下り、門の近くの小さな籠を見た。確かに赤族の男だ。その男は目ざとく軍団長を見つけ、籠の中から話しかけようとする。だが、その無礼さを戒めるために、傍らの兵士から槍の柄で脇腹を打たれた。男が悶絶する。
「軍団長様、下賎の者です」
千人長が告げる。
「市民の目の届かぬ獄舎に運び、早急に拷問にかけ、将の名と軍の規模を吐かせろ」
「はっ」
苦痛でうめいている赤族の兵士を乗せた籠が運ばれていく。軍団長はふたたび階段を駆け上がる。横には千人長が従う。
「赤族というのは本当のようだな。奴らは天空を駆ける馬でも持っているというのか。どうやって西の地からこの場所に現れたというのだ。戒厳令だ。市街を囲む門を全て閉じよ。それから敵情を調べる密偵を放ち、白王様への伝令も出発させろ。正確な情報を得るまでは、亀のように身を潜め、手出しをするな。判断の材料なしに、この白都の中にある地の利を捨てれば敵の思う壷だ。白都の街壁の中にさえいれば、一万の兵は十万ほどの力を持つ」
千人長は頷き、それぞれの命令を部下に伝えて彼らを走らせた。
「誘いには乗ってこぬか」
馬上の赤栄虎は西の巨大な都市を見てそうこぼす。かつて学僧市という学究都市があったこの白都の地は、白王の手により、徹底した軍事都市として作り直されていた。目の前に見える街を囲む石壁の中には、学僧市時代の学舎塔なども幾つか残されている。だが、その都市のほとんどは、白王の命令で一から作り直されていた。
王宮や市街だけでなく、港や倉庫、兵舎なども全て壁の内側に作られ、例え周囲を数十万の兵が取り囲んだとしても、数年は持ち堪えることができる設計になっている。食料の備蓄量も凄まじい。
さすがに、その都市を捨てて攻めてくるほど愚かな者を、白都の軍団長として残してはいないか。最初の三百の損害のあと、白都守備軍は無駄に兵を投入してくることはなかった。
既に夜である。天は闇が覆っている。
「赤栄虎様、火矢でも射ちこみますか」
赤荒鶏が弓を示す。
「いや、白都は海都と違い、建物一軒一軒が白王の定めた建築基準を満たすように作られている。火災に対する対策も海都とは比べ物にならない。時間の無駄だ。それよりも、当初の予定通り、周辺の重要施設を落としていく。多大な損害が白都から見えるようにするのだ」
赤栄虎の言葉に、赤朗羊が馬を寄せてくる。
「ということは、派手に炎上させるのですな」
「そうだ。そのためには、よく燃える場所を襲うのがいい。ここから北にむかったところに、農管園と呼ばれる白大国の研究施設がある。まずはそこから攻めよう」
遠征軍の軍団長が続々と赤栄虎の周囲に集まってくる。
「研究施設ですか」
今度は赤烈馬が口を開く。
「そうだ。農管園では、大陸中の植物を集めて育てているそうだ。そこに火をかければ、勢いよく燃え盛る。白都の者たちの心胆を寒からしめるのに丁度よい場所だ」
十人の軍団長は頷く。
「行くぞ」
赤栄虎は馬の腹を蹴った。赤族の悍馬が大地を荒々しく進む。赤栄虎を先頭にして、一団は闇を縫って北へとむかった。
四 農管園
花々に囲まれ、硝子の天井を見上げながら、白大国の皇后白淡鯉はゆっくりと息をしている。寝ているわけではない。目は開き、頭は覚醒している。寝椅子に横たわり、頭上の星々を眺めている。
空は晴れ渡っている。澄んだ光輝の世界が彼女の視界に広がっている。天上から見下ろした地上は、この星空のように見えるのかもしれない。瞬く光源の一つ一つが、人の放つ光であるならば、きっと同じように目に映るはずだ。人の歴史が見えるという白賢龍は、この広大な大陸を、このような視点で見下ろしているのだろうか。
白淡鯉は深く息を吐く。
「それも、私にはどうでもいいこと」
部屋の中は、まだ昼の温もりが残っている。白賢龍の心に、せめてこれだけの温もりがあればよかったのに。彼女はそう思い、一筋の涙をこぼした。
農管園。
この研究施設では、昼夜を問わず、植物の研究が続けられている。白大国の政策の一つである占領地の農業支援を実現するために、それぞれの土地で最も有効な作物を探す実験が、それぞれ壁で仕切られた部屋の中で行なわれている。
その部屋の一つ、灯火が煌々と照らす室内で、白髭の老人が書類に所見を記入している。今日の実験結果に対する彼なりの考察だ。
この施設には、彼のような研究者が大勢いる。彼らは大陸中から集められた俊才たちだ。その中でも、彼は最高齢になるだろう。五十一歳。老人と呼ばれるようになって、既に十年近くになる。男の名は、白穏蝉といった。
白穏蝉は書類を眺める。研究成果も溜まってきた。そろそろ白王に報告に行かなければならないだろう。そのための馬車を数日前に手配したのだが、馬と御者を待たせたまま日数を費やしてしまった。報告する内容が多過ぎて、持っていく書類の選定に時間がかかっているのだ。
「明日には出発せねばならんのう」
若い青年の御者に申し訳ないと心中で詫びながら、書類を板の間にしまい、紐を巻いて綴じた。この施設を離れるとなると、春の間にいる白淡鯉のことが気になる。老人は、部屋の一隅を見つめる。その方角には、この国の皇后が住んでいる。
かつて白穏蝉は、学僧市で医学を教えていた。学舎長になれるほど出世はしなかったが、学究都市の有名人は人並みに見知っていた。火を吹くような情熱を持て余していた白賢龍、海都の舟大家の御曹司青聡竜、学僧長の孫娘白淡鯉。あの当時、あの場所で、彼ら三人のことを知らぬ者などいなかった。
白賢龍は白大国の王として我が道を進んでいる。青聡竜は海都で悠々自適の生活を送っているそうだ。彼らが幸福かどうかは知らないが、少なくとも不幸ではないだろう。
白淡鯉も恋した相手と結婚し、幸せな日々を送っていると思っていた。だが、この農管園に来た彼女は春の間に篭もり、日夜人生を儚んでいるという。医術の心得がある彼が診察をしたいと申し出ても、白淡鯉は人を近づかせない。春の間には一通り生活できる道具が揃っている。食事などを入り口に置かせるだけで、彼女は人前に姿を現すことはなかった。
「出発する前に一度、白淡鯉様にお目通り願えるか尋ねてみよう」
白穏蝉は書類を持って立ち上がった。夜勤の研究者たちと挨拶を交わして、農管園の外周にある自室へとむかった。
「見えてきたぞ、あれが農管園だ」
大地を吹きぬける疾風のように、人馬の一団が夜気を切って進む。赤栄虎の声に、先頭集団が種火から火矢に光点を移した。赤栄虎の周囲に集まっていた軍団長たちは、それぞれ自分の配下に合図を送る。馬上の弓兵たちは、一斉に前方斜め上にむけて矢を構えた。
農管園の周囲を警護していた雑兵の目に、高速で移動する光の群れが映る。
「おい、あの明かりは何だ」
「確認しに行くか」
動きだした兵士たちの体が壁に叩きつけられる。投網のように広がった矢が、豪雨のように彼らの全身に降り注いだのだ。天井の厚手の硝子の多くは傷を負ったものの矢を逸らした。だが、そのうちの薄い何枚かが派手な音を立てて割れ、研究者たちに襲撃者の存在を告げた。
「火だ、消し止めろ」
いくつか飛びこんできた矢の中に火矢も混じっていた。その火を懸命に男たちは叩き消す。第二波が飛んできた。硬く鋭い矢が硝子を砕き、夜の植物の上に灯火の光彩を撒き散らす。
「敵襲だ」
農管園で声が上がった。
赤栄虎は、突撃部隊と周囲を固める部隊とを素早く分ける。建物内に、全員は侵入できない。百人潜入させればよいだろう。中にいるのはほとんど研究者たちだ。この数で十分だ。
「赤荒鶏、俺についてこい。赤朗羊、お前は周囲に逃げだす者たちに傷を負わせろ」
「殺すのでなく、傷を負わせるのですか」
赤朗羊は、大声で赤栄虎に聞きなおす。
「そうだ。傷を負わせれば、奴らは白都にむかって逃げだす。そうすれば白都の守備兵はどうすると思う」
「門を開けて怪我人を市街に引き入れますかのう。もしくは外に留めておくか」
赤栄虎は頷く。
「前者なら、怪我人に兵士を紛れこませて突破口を開けるかもしれん。後者なら、白都の住人の不満を募らせ、白都の兵も封殺できる。次々と白都周囲の諸施設を落とし、あの都市の石壁を怪我人で取り囲ませるのだ」
「分かりました。ならば、足を狙うよりは腕を狙ったほうがよいですな」
赤朗羊が部下たちに指示を出し、農管園を囲むように騎兵を展開させる。
「赤烈馬よ」
「はっ」
「お前は予定していた次の施設へとむかえ。場所は頭に叩きこんでいるな」
「もちろんです」
「よし、一箇所二軍団ずつ。夜襲ならこの人数で各々落とせる。怪我を負わせて、白都に追いたてればそれでよい。落としたら、すぐに次の場所にむかえ。一晩で、落とせるだけ落とす。夜が明けたとき、白都の西の街道沿いの森で落ち合おう。さあ、散れ」
赤烈馬は頷き、部下を率いて西に馬首を巡らせる。そこには周囲の村落へと続く道が伸びている。
「突入するぞ」
百人の突撃隊を率いた赤栄虎が叫ぶ。赤栄虎は農管園の建物の入り口で、馬を後ろ足で立ちあがらせた。人馬一体の体重をかけ、扉に前足を叩きつける。激しい音とともに扉が吹き飛んだ。その赤栄虎の後ろから無数の矢が放たれ、入り口近くで待ち構えていた兵士たちを射ぬく。
「突入しろ」
馬を操るには天井が低過ぎる。赤族の男たちは、馬から降り、矢を放ちながら建物に侵入した。
農管園のいくつかの場所から火の手が上がる。内部に侵入した赤栄虎たちは十人ずつの小集団に分かれて廊下を進んでいく。居住者の大多数が研究者のこの場所では、その圧力だけで十分だった。一人あたりの戦闘力がまるで違う。抵抗は次々と打ち破られていく。
建物から炙りだされた人々は、今度は赤朗羊が指揮する射手の矢を浴びる。殺されはしない。だが、体の各所を貫かれる。緩い包囲を抜けだした怪我人たちは、叫び声を上げながら夜の闇へと駆けていく。
赤栄虎は剣を抜いて廊下を歩く。抵抗らしきものはない。外で待っていてもよかったが、彼は白王が作ったこの施設に興味があった。いくつかの部屋を確かめる。大陸全土を歩き回った彼には、この農管園の価値が分かった。自分が白王でも、このような建物を作らせていただろう。そう思いながら進んでいく。
「赤栄虎様、お耳に入れたいことが」
どう判断すればよいか分からない。そのような顔で、赤荒鶏が彼の元に駆けてきた。
「どうした赤荒鶏。問題でも生じたか」
「一ヶ所、頑なに抵抗を見せている場所がありまして。白大国の者たちの会話を聞く限り、その奥に、白大国の皇后白淡鯉という者がいると」
「まことか」
赤栄虎は声を上げる。それが真実ならば、願ってもない捕虜になるだろう。
「殺すな、生かして捕らえろ。俺も行く」
「分かりました、こちらです」
赤荒鶏に先導させ、赤栄虎は農管園の廊下を走った。
「どうしたのかしら、外が騒がしいようね」
寝椅子に横になっていた白淡鯉は半身を起こす。頭上を蓋う硝子の天井からは、橙の光がわずかに覗いている。火事でもあったのかしら。そう彼女は思った。
春の間の扉の外では、数十人の腕に覚えのある者たちが、必死の防戦を試みていた。彼らは机を横に倒して矢防ぎにして、赤族の侵攻を食い止めている。老いた白穏蝉の姿もその場にあった。彼は若い頃、剣術を習ったことがある。昔、南方の薬草を求めて旅したときには、この剣術が彼の命を救った。
赤族の攻撃の手が止まる。この隙に春の間に入り、白淡鯉に脱出を促がさねば。
そう思い立ちあがった白穏蝉の視界の先に、赤族であろうか、二人の禿頭の男の姿が見えた。これは今までの兵士たちとは格が違う。白穏蝉は戦慄する。
「赤栄虎様、一人立ちあがり、奥に行こうとしておりますが」
「よし、赤荒鶏。腕を貫き、動きを止めよ」
「はっ」
次の瞬間、放たれた矢は白穏蝉の右腕を突き抜け、奥の扉に深々と突き刺さった。白髭の研究者が悲鳴を上げる。矢は半分以上扉にめりこんでいる。扉を抜けた矢の先端が見えたのだろう、奥から女性の悲鳴が短く上がった。
「白淡鯉という白王の后は、あの奥にいるようだな。赤荒鶏、机の陰に潜んでいる奴らを始末しろ」
赤荒鶏は頷き、続け様に弦を弾く。矢はいずれも、机を紙のように貫通し、そのむこうの人員たちを壁に縫いつけた。赤荒鶏の弓の腕は、既に余人の及ばぬ域に達している。赤族の兵士を付き従えて、赤栄虎と赤荒鶏は春の間へと進んでいく。
「待て、ここは通さぬぞ」
床に転がった白穏蝉が、赤栄虎の足に左手を伸ばす。その指の先が転がった。赤栄虎の抜き身の剣が一閃したのだ。悲鳴を上げる白族の老人を残し、赤族は扉を押し開け、部屋に足を踏み入れた。
周囲の火災はまだこの部屋に及んでいなかったが、その明かりは天井の硝子を通して柔らかく室内に広がっていた。その淡い光の中、いろとりどりの花が咲き乱れている。赤族の男たちは息を飲む。これほど濃密な花の香りのする場所に、これまで踏みこんだことがないからだ。
その花園の中央に、一人の女性が座っている。若くはないが、理知的で美しく悲しげな表情の女性である。その女性は恐れることもなく、赤族の男たちの姿を見た。
「お前が白淡鯉か」
赤栄虎の声が響く。豪奢な寝巻きに身を包んだ女性は少しだけ目を細めた。赤栄虎と赤荒鶏は、その貴人に対して歩を進める。他の者たちは、入り口を固めるためにその場で足を止めた。
「あなたは誰。人の名を問うときは、自らの名をまず名乗るものよ」
穏やかだが、よく通る声が赤栄虎たちの許へと伝わってくる。ややためらったのち、赤栄虎は名を告げた。
「我が名は赤栄虎。赤族の族長である」
「赤族、西方の草原の民ね。その族長が、なぜこの場所にいるの」
白王と赤族の戦争の件を知らぬ白淡鯉は、不思議そうに尋ねる。赤栄虎は調子を崩す。
「お前が白淡鯉か」
赤栄虎はもう一度問う。
「そうよ。あなた、とても殺気立っているわ」
白淡鯉は天井を見上げる。火の光が赤々と硝子を染めている。この農管園に火を放ったのは、この者たちなのだろう。
「赤栄虎とやら、あなたは私を殺しに来たのね」
死を望んでいた彼女はそう告げる。
「違う、捕虜として連れていく」
赤栄虎は婦人の腕をつかむ。
「随分身勝手なのね、まるで白賢龍みたい」
「白賢龍、白王のことか」
苛立たしげにそう問い返す。この女性の受け答えの鈍さはどういうことなのだろう。心ここにあらずというか、まるで自分の人生に関心がないように振る舞っている。赤栄虎は、強引に白淡鯉の腕を引く。彼女の体は寝椅子から離れ、その頭は赤栄虎の胸に飛びこむ。皇后は、赤栄虎の胸の中でそっと顔を上げた。赤栄虎の見下ろす顔が目に入る。
「あなた、白賢龍に似ているわ」
意外な言葉が口から漏れた。
「俺の顔が白王に似ているというのか」
白賢龍に会ったことのない赤栄虎は、驚きの表情を浮かべる。奇妙な方向に話しがむかうのを、赤荒鶏は口を挟めず見守っている。
「顔ではなくってよ。目が似ているの」
「目が」
「そう、目が似ているわ。まるで、シヒョウを書いているときの白賢龍みたい」
「シヒョウだと」
赤栄虎は思わず大声を上げる。今朝に引き続き、またこの名前が出てきた。
「シヒョウを書いているとは、どういう意味だ」
今朝の青族の武人は、その名は人物名だと告げた。この女性は、それを書くべきものだと言っている。赤族の族長の腕に力が入り、白大国の皇后の顔が苦痛で歪む。
「赤栄虎様」
このままでは、女性の腕を折りかねない。赤荒鶏が迷いながらそのことを告げる。赤栄虎は白淡鯉を解放し、彼女は寝椅子にふたたび体を横たえた。赤栄虎は、剣の切っ先を白淡鯉にむけ、彼女を威圧する。
「話せ、白王と、シヒョウの関係を」
農管園の火は徐々に広がっている。春の間に立つ彼らを照らす明かりは徐々に強くなり、影は濃さを増している。白淡鯉は赤族の刃を怖れる様子もなく、悲しげな目で若き族長を見上げる。
「いいわ、話しましょう。白賢龍はこの世界を俯瞰する視点を持っているの。それはまるで、神が天空から地上を見下ろすような視点。彼の頭の中には、この大陸が詰まっており、この世をあまねく見渡すことができるの。彼はその視点を他人に見せ、衆人をその高みで動かすために、シヒョウを書いたの」
赤荒鶏は、赤栄虎の剣の先が震えるのを見た。そのような視点を持ち、シヒョウという物を著した男を赤荒鶏は知っている。他でもない、赤族の族長赤栄虎だ。
「そんな視点を持った男がたどる道は、いつの時代も一緒。その世界全てを自分の手で動かせないか。その世界の先にあるものは何なのか。そのことを考え、追い求めるの」
白淡鯉は悲しげな顔をする。
「違う、そんなことは考えない」
赤栄虎は反論する。だが、彼は考えたことがあった。白大国を見下ろす山の峰に立ったとき、自分が白王の立場なら、同じく白大国という国を興しただろうと考えた。
「違わないわ。男はみんなそう。自らの頭に思い描いた世界に溺れ、その世界が現実の世界と同じだと錯覚してしまう。あなただってそんな男の一人なのでしょう」
「違う、俺は赤族の族長、赤栄虎だ。そんな世界は夢想しない」
男は否定の言葉を強く叫ぶ。赤荒鶏は怪訝な顔で赤栄虎の顔を見つめる。彼の主の言葉と、この貴婦人の言葉は微妙にずれている。まるで赤栄虎は、心の内の誰かと話しているように声を吐きだしている。
「同じよ。男はみんな一緒。心の内にあるシヒョウを見つめ、その先にある世界を求めてしまう」
「違う」
赤栄虎は叫び、剣を突き刺した。白淡鯉の顔から、ほんのわずかだけずれ、剣先が寝椅子の背を貫く。赤栄虎の顔は苦悶に歪んでいる。族長としての彼に期待されているのは、白大国の撃退と赤族の平和だ。しかし、大陸全土を経巡り、その頭の中に市表を構築した彼の胸の内には、いつしか大陸制覇の大望が芽を出し始めていた。それは、彼に課せられた仕事ではない。そのようなことに赤族を狩り立てれば、彼は一族を己が欲望のために引きずり回すことになる。いや、彼の能力を持ってすればそれもできるかもしれない。今回の大陸横断の遠征は、その密かな願望の現れだ。
「白賢龍もそうだった、自分の野望のために、周りの者たちを翻弄し、その情熱の炎で周囲の人間を焼き焦がす」
白淡鯉の目は、赤栄虎の剣でも揺らぐことがない。生を捨てた女の眼差しが、赤族の市表の書き手の心を抉る。
「さあ、私を殺してちょうだい。私は疲れたの。白賢龍の真っ直ぐ未来を見据える目には、私という存在が映っていないことが分かったの」
赤栄虎は彼女の目を怖れた。この目は、将来彼に対して赤族の民たちがむける視線かもしれない。彼は何度も頭の中で大陸を睥睨し、白王と戦を交えた。そして白王という人物に密かな興味を覚え、その人生を超える仕事をしてみたいと考えた。その心の内が、この女性には見透かされているのではないか。
「あなたは私を殺すためにここに来たのよ。さあ、殺しなさい」
殺せ、赤族を紅蓮の炎に叩き落とせ。彼には彼女の言葉がそう聞こえた。大粒の汗が額に滲む。
「赤栄虎様、赤栄虎様」
彼の肩を揺さぶり、赤荒鶏が大声を上げる。
「火が迫っています」
赤栄虎は我に返った。汗は緊張のためだけではなかった。部屋の温度が上昇しているのだ。
「この建物を出るぞ」
「赤栄虎様、この女性はどうするのです」
捕虜にする、そう言っていた女性に見むきもせずに、赤栄虎は戸にむけ歩きだす。
「捨てておけ」
「しかし」
「女よ、勝手に逃げろ。俺はここを去る。赤荒鶏走れ、建物が崩れるぞ」
小さくそう告げ、赤栄虎は走りだす。その背を追い、赤荒鶏も歩調を早める。赤族の一団は、農管園の入り口へむけ駆けていく。
「白淡鯉様」
赤荒鶏に矢を射られ、赤栄虎に指先を落とされた白穏蝉が廊下で起きあがる。そのとき、春の間に火が閃いた。部屋に入ろうとする彼の前で、天井の硝子が落下してきた。身を引き、その直撃を避ける。外気が強く吹きこみ、一気に部屋に火の手が上がる。その部屋の中央で、白淡鯉は座したまま空を見上げている。既に死んでいるのか。
「白淡鯉様」
白髭の老人は大声を上げる。その彼の目の前で、次々と肉厚の硝子が落下し、激しい音を立てる。駄目だ、助けられない。彼は、痛む両腕を肩からぶら下げ、出口にむけて歩きだす。このことを、せめて白王様にお伝えせねば。火の粉の舞う廊下を、白穏蝉は進んでいく。農管園から、潮が引くように、赤族の兵士たちの姿が消えていった。
焼け落ちる農管園から白髭の老人が転がるようにして出てきた。
「大丈夫ですか、白穏蝉様」
若者の声がかけられる。老人が待たせてあった馬車の御者だ。赤族の襲撃と同時に逃げだし、近くの村にいた白族の兵士数人を連れて戻ってきたのだ。白穏蝉の右腕には矢の傷があり、左手の三本の指の先は落とされている。
「広源市へ、急ぎむかってくれ。白王様にお伝えせねばならぬことがある」
「しかし」
御者が受けていた仕事は白都の港までの移動だった。青年は広源市まで行ったことはない。
「絶対に伝えなければならぬことだ」
傷と火による熱で、うわ言のように白穏蝉はその言葉を繰り返す。御者はこの老人を気の毒に思った。居合わせた兵士たちも、この傷ついた男の姿に同情した。
「私の友人に船乗りの男がいます。その者に船を出してもらい、広源市へむかいましょう」
兵士の一人がそう言った。一同は顔を合わせて頷き、この不幸な老人を遥か西の都市へと運ぶことに決めた。
暁光が東の空に広がったとき、白都の住人は、この都市を囲む半円状に、火災の煙が幾筋も立ち昇っていることを知った。
白都守備の兵士たちがこの火に気付いたのは、住人たちよりも少し早い。夜、城壁から、いくつもの場所で明かりと煙が見えたからだ。
しかし、この被害の規模は一体。
白都防衛の軍団長は、高楼の上からその様子を眺めた。たった一晩でこれだけの被害を与えるとは、敵はどれほどの数なのだ。そして、何よりも彼の心を凍りつかせたのは、農管園が火を上げていることであった。あの場所には白淡鯉がいる。だが元々農管園は彼女を守るために作られたのではない。重要施設として兵が警備しているとはいえ、白都ほどの防衛力はない。
軍団長は自分の首が落ちる様を想像して、口元を歪めた。
「軍団長、密偵が戻りました」
高楼に駆けあがってきた千人長は、白都の周囲の光景を見て呆然とする。川以外の三方から、人々が白都にむけて行進をしているのだ。目を凝らしてよく見ると、いずれも怪我を負っており、治療を要する者たちだ。
「軍団長、彼らを白都に収容しなければ」
「俺だってそうしたいさ。だが、この無数の怪我人の中に、敵が紛れこんでいないと、なぜ言える」
卑屈な笑みを浮かべながら軍団長は高楼の柵に腰掛ける。やられた。軍団長の顔が苦々しげになる。難民が城壁に取り付けば、不用意に門を開くこともできなくなる。
「密偵の報告を告げよ。敵の首謀者、規模、どうなっている」
「はい。敵の首謀者は分かりませぬが、数は千程度とのことです」
軍団長は柵の上で笑い声を上げる。
「たった千で、一晩でこれだけのことを赤族は行なうというのか。奴らは化け物か。くくく、あの捕らえた赤族の男が言っていた、将は赤族の族長赤栄虎という言葉も、あながち嘘ではないかも知れんな。敵の総大将でも来なければ、この被害との釣り合いは取れぬ。それに、俺の立つ瀬もない。奴ら次は何をする気だ。だが、この白都は死んでも明け渡さぬぞ」
千人長は身の内が震えるのを感じた。白大国の軍団長たちは、これだから恐い。例え自分の先の運命が死刑と分かっても、仕事を全身全霊をかけて全うしようとする。
「何をしている。すぐに白王様に急使を送れ。これまでの経過を包み隠さず報告するのだ」
軍団長の怒鳴り声に、千人長は急ぎ階段を下りた。
白都が微かに霞んで見える、西の街道沿いの森に赤族の遠征部隊は集結していた。街道からはこの場所は見えない。それに、赤族の脅威的な移動力を白日の下で見ていない白族の斥候たちは、この距離まで探索の手を伸ばすことを容易に考えつかないだろう。交代で見張りを立て、兵士たちに睡眠と休息を取らせる。
天の陽が昼の位置を指す頃。赤栄虎と軍団長たちは市表を囲んでの会議を始めた。既にこの十人の軍団長たちは、市表という地図の使い方を把握している。手元になくとも、作戦地域程度の内容は記憶してしまい、夜でもまるで道案内を連れているかのように白大国の地を駆け回ることができる。
「白都の兵士は、門を開けませんな」
白都の偵察から帰ってきた赤朗羊が残念そうに報告する。百人ほどの伏兵を潜ませていたが、開門する気配がなかったので指揮官の赤朗羊だけ引き返してきたのだ。
「まあ、ある程度は予想がついていたがな。奴らが白都で亀のように身を潜めるのなら、その間に、広河をさかのぼりながら都市を一つずつ陥落させていけばよい。白都の守備兵一万を釘付けにしたと考えれば、それほど悪くない成果だ。それよりも、今までの経過をおやじに伝えておかなければならないだろう」
海都襲撃、白都襲撃の報と、彼ら遠征部隊の無事を伝えれば、草原の赤族の士気は否応なく高まる。だが彼らがいる場所は、まだ大陸の東方だ。ふたたび大陸を横断して赤堅虎の許までたどりつける人物となると限られる。
「その役目、私めにお任せください」
赤荒鶏が赤栄虎の前に進みでた。この男なら、単騎、困難な任務を成し遂げることができるだろう。
「よし、赤荒鶏。お前こそがこの至難の仕事に相応しい。一晩休息を十分に取り、市表を記憶し、西にむけて旅立つのだ」
「はっ」
赤荒鶏は一礼したのち、他の軍団長たちと固い握手を交わした。
五 訃報
広源市の白王の許に、白都の軍団長からの第一報が伝わった。現実の襲撃からの時差は七日。通常二週間はかかる道程を半分の時間で移動したことになる。届いた急使は船である。早馬は、途中赤族の見張りに気付かれ、ことごとく命を落としていた。昼夜を問わず帆を張り、漕ぎ手を途中の港で換えつつ櫂を漕ぎ、報告書は届けられた。
すぐに軍団長たちが召集された。円卓の部屋に、白王と十三人の軍団長が着席する。現在広源市に詰めている白大国の首脳たちだ。その中には、白緩狢や白惨蟹、広源市防衛担当の軍団長らも列席している。
「既にお前たちには、急使の報を伝えてある。第二報以降が、海都の五大家や千人長からも入った。事実を総合するならば、赤族の別働隊が、大陸を東にぬけ、東岸から順に、広河沿いの都市を攻めていることになる」
報告の時間のずれは一週間ほどある。既に事態はもっと進展しているはずだ。机を囲む軍団長たちが、にわかには信じられないという顔をする。彼らの能力を持ってしても、そのような奇襲は為し難い。
「白王様、にわかには信じられませぬな」
同意を求める声で、白惨蟹が言葉を口にする。白王もその声に応じた。
「私もそうだ。だが事実、海都は灰燼に帰したという。白大国の周囲の施設も焼き討ちにあったそうだ」
冷厳と告げる白賢龍の胸中には、白淡鯉の身の上の不安が渦巻いている。だが、まだその生死の報は入っていない。
十三人がざわめく。どうやって海都を落とすほどの人数を率い、大陸を横断したと言うのだ。赤族は、彼らが知らない魔術でも使うのか。白緩狢は背を丸めながら周囲を窺う。その奇襲軍の指揮官は、開喉丘を攻めてきた赤栄虎という男だろうか。単騎ではなく、軍団で大陸を横断するには、強い指導力が必要になる。個人主義の赤族の軍を、一つの武器のようにまとめあげたあの男なら、あるいはその事業も可能かもしれない。だが、街道を使わずに迷わず東に抜ける方法が分からない。
「この別働隊、早めに叩いておかなければ、草原の戦いにも響くことになる」
白王が不愉快そうに言う。
白緩狢は考える。これは、あるいは好機なのかもしれない。このまま閉腸谷の守備軍として防衛に専念すれば、軍功を上げることはできない。白惨蟹に自分は好まれていないからだ。ならば、いっそここで赤族別働隊の討伐に志願したほうが得策か。
「白王様」
諸侯に先んじて白緩狢が発言を求める。
「白緩狢、差し出がましいぞ」
白惨蟹が白緩狢を睨む。序列を無視しての発言を白惨蟹は好まない。普段は末席で黙っていることの多い白緩狢の突然の発言は、彼の不興を買った。
「構わん、白緩狢。申せ」
白賢龍の返答に、白惨蟹は顔をしかめる。
「白王様、ぜひ、私めを別働隊の討伐軍にご指名ください」
白緩狢はそう告げる。白惨蟹と子飼いの九人の軍団長が率いる十万の軍は、既に草原への進軍が決まっている。また、広源市を守備する一万の軍も動けない。白緩狢も、開喉丘から閉腸谷にかけての砦を守護する任がある。順当に行くならば、広源市で待機している予備兵一万を動かすことになる。新たに兵を集結させないのならば、この方法が一番容易だからだ。
「白緩狢よ、この白大国には、お前以外にもまだまだ軍団長はいる。貴様が持ち場を離れなければならない理由はないだろう」
不快そうに白惨蟹が叫ぶ。
「白王様、敵の別働隊を率いているのは、恐らく赤族の若き族長赤栄虎です。この者と手を合わせたことがある軍団長は私だけです。私は、この男の戦闘の機微を知っています。他の者では、遅れを取ることもあるでしょう」
「白緩狢、御前だぞ、黙れ」
「よい。白緩狢よ、お前に討伐の将を任ずる」
「はっ」
「白王様、このような腰抜けにそのような役」
白惨蟹が立ちあがったとき、会議室の戸を叩く音がした。伝令官だ。
「白王様、至急の用です。農管園を脱した白穏蝉という年老いた研究者が、白王様に面会を求めています」
全員の視線が閉じた扉に集まる。この場の者は全員、白淡鯉が農管園で起居していることを知っている。その農管園の研究者が、至急の用で現れたとなると、白淡鯉の安否に違いない。
「通せ」
白王の言葉で扉が開けられる。部屋に、ぼろをまとった老人が入ってきた。頬は削げ、目元は落ち窪み、顔には死相が浮かんでいる。矢で貫かれた右腕は、船上で満足な治療を得られなかったために膿んでいる。左手の指の先は腐り始めていた。皮肉なことに、医師でもあるこの男は、報告の時間を優先する余り、自らの治療を後回しにしていた。
「白穏蝉か」
その余りにも変わり果てた見知った男の姿に、白賢龍は思わず息を呑む。
「報告したき儀が」
「申せ」
「既に他の方面からも報告が届いているでしょうが、過日、白都周辺を赤族の一団が襲い、農管園も攻め落とされました。我らは必死の防戦を試みましたが、敵は我らを討ち滅ぼし、研究施設を炎上させました。敵の首謀者は赤栄虎という手練れの者。この者は春の間に侵入し、白淡鯉様に剣を突き立てました」
その場の全員が声を上げる。実際は赤栄虎は白淡鯉を刺していない。だが、背後から見ていた白穏蝉には、そうとしか見えなかった。赤族の若き族長が、白大国の皇后を無残にも刺し貫いたと思ったのだ。事実は違うが結果は同じだ。赤栄虎の進軍が、白淡鯉の命を奪った。
白王が立ちあがる。その顔には生気がまったくなく、怒りで肩を震わしている。頭が垂れ下がる。顔を下にむけたまま、細切れの言葉を呟く。
「殺せ」
微かな声が口から発せられた。軍団長たちは、白賢龍の体から立ち昇る、怒気の奔流を見た。白王の顔が上がり、目から光が発せられる。その眼光の風圧を受け、一同は皮膚を震わせる。
「赤栄虎を殺せ。白緩狢、何をしている。さっさと発たぬか。貴様には、白都の兵も含めて四人の軍団長を従わせてやる。合計五万の兵で、赤族の兵をすり潰すのだ」
白緩狢は立ち上がり、すぐに部屋を辞した。白王は、伝説の龍のような形相で、その場の全員を睨む。気の弱い者であれば、この姿を見ただけで心臓を止めるだろう。だが、歴戦の豪傑である軍団長たちは、その白王の気を真っ向から受けとめた。部屋の中でただ一人、傷つき瀕死の状態にあった白穏蝉だけは倒れてそのまま息を引き取った。伝えねばならぬことを伝え終え、緊張を解いていたため、白王の殺気に耐えられなかったのだ。
「白緩狢の軍とは別に、海都には土木軍団一万を編成して送れ。補給基地は迅速に復旧しなければならない」
白賢龍は矢継ぎ早に指示を出していく。
会議は終わった。他の軍団長たちも席を立つ。白惨蟹は、忌々しげに顔を歪める。白淡鯉の死の報告の時期が、余りにも白緩狢に有利に働いてしまった。白穏蝉の死体に唾を吐きかけたい衝動を押さえながら、彼も部屋を出る。
「白王様、白穏蝉の死体はいかがなさいましょうか」
扉の脇で控えていた伝令官がおずおずと問う。
「手厚く葬ってやれ」
白賢龍は、そう言い残して部屋を出た。
仮の王宮の廊下を足早に過ぎながら白惨蟹は頭を巡らす。白淡鯉の死は予定外だったが、それならそれで、やりようはある。そろそろ白大国の大陸制覇も終章に入りつつある。果実は熟している、収穫はそろそろだ。白王を廃し、白王の薫陶から遠くにある白賢龍の血縁者を次期王に据える。白淡鯉を傀儡にして白大国を操ることも考えていたが、彼女が死んだのなら他の方法に変えればよいだけだ。
そろそろ葬っておく必要があるな。
白惨蟹は、白麗蝶と白大狼の顔を思い浮かべた。家出をして、その旅先での死なら、誰も疑わずに証拠も残らない。白麗蝶は、白賢龍の性格と血を濃く受け継いでいる。そしてあの、何を考えているのか分からない白大狼。密かに飼っていた暗殺部隊を放つときが来たか。白惨蟹は、口の端を持ち上げた。
六 軍団再編
赤族の大陸横断の報により、にわかに白大国の前線は慌しくなった。白緩狢による討伐軍が編成されることになったからである。彼の軍団は、相次ぐ赤族との戦いにより数が大きく減っていた。また、草原を作戦地とするために情報を集めさせていた部隊も抱えている。その部隊を白惨蟹の部隊に組み入れ直すなど、軍団の構成を大きく変更する必要があった。
草原の塩を調査し、草の種を蒔いた百人長の白晴熊は、白惨蟹の旗下に再編された。白惨蟹が、彼の得た情報を求めたからである。ただでさえ摩擦が大きくなっている白惨蟹の機嫌を取るために、白緩狢はすぐに白晴熊を白惨蟹の許にむかわせた。
白弱鴇率いる部隊は、兵員の補充のために彼自身が奔走した。いつも頼りにしていた白恐蝮が、怪我で動けなかったからである。広源市に送られてくる補充兵から、強そうな人員を集めたつもりだが、彼の眼力では兵の資質を見ぬくことはできない。
白緩狢の軍では、欠けた人員を補うために、新たに千人長が選出されるなど、大きな人事の異動があった。この恩恵を受けた者も多く、先の閉腸谷の崖を奇襲した選抜兵の多くが十人長に選ばれた。彼らの活躍は兵士たちの間でも知れ渡っており、兵たちは自分たちの長として彼らを推した。
軍団出発の前日、軍団長に対するお目見えのために、新十人長が一列に並ばされた。その中に、まだ子供の臭いが抜けきっていない少年の姿がある。年は十四。名は黒醇蠍。雑多な民族が集まっている白大国の軍でも珍しい、生粋の黒族だ。少年は幼さの残る顔を緊張で硬くしている。
「私がこの軍の軍団長、白緩狢だ」
立ち並ぶ十人長の前で白緩狢が大きな声を上げる。この場にいる十人長たちは、いずれもこの辺境の地での白緩狢の戦いを見てきた者たちである。この若い軍団長に対して、すでに憧れに近い感情を抱き始めている。
「弱兵と呼ばれて集められたこの軍団も、この地での戦いを経るにつれ、強兵へと生まれ変わった」
事実そうであった。逃げ上手と呼ばれていた頃の臆病さは影を潜めている。
「君たち強兵の力を白王様が求めている。東に奇襲をかけた赤族の別働隊を叩け、そして戦功を挙げよと申された。これから船で東上する。尽力せよ」
新十人長たちの就任式は終わった。白緩狢は閉腸谷の石壁の影に移動する。彼の横には白頼豹が付き従っている。草原を見る予定だった彼は、白惨蟹の軍に移動することを決めた。そのため、白緩狢がこの地を離れるまでの間、少しでもこの軍団長から情報を得ようとして、そのあとを追っている。
二人がいる日陰に、先ほどお目見えを終えた黒醇蠍がやってきた。白緩狢は、石壁を背にして座り、飴を舐めている。少年がやってきたのを認め、手を軽く振る。
「十人長になりました」
「うん、知っているよ」
黒醇蠍の挨拶に短い言葉で応じる。黒族の若者の顔は、昇進の期待と興奮で輝いている。
「おおっ、黒醇蠍殿ではないか。十人長への就任、おめでたいことですな」
先の奇襲の際、山岳地帯で命を救われた白頼豹が、黒醇蠍の出世を喜ぶ。
「白頼豹さんは、これからどうされるのですか」
「ああ、白惨蟹殿の陣営に移動する予定だ。既に挨拶は済ませてある。しかし、あの方は白緩狢殿と好対照ですな」
「うん、私もそう思うよ」
白緩狢は空を見上げた。澄んだ青空が広がっている。ここのところ考えるのは、いつも赤栄虎のことだ。あの男、軍団長並と思ったが、その先に何かを見ているのかもしれない。どうやって、大陸横断という着想を得て、実行に移したのか。もしその作戦が無謀の策ではなく、根拠があったとするのならば、軍団長の視点よりは一段上だ。
「軍団長、何を考えているんですか」
黒醇蠍の声を聞き、白緩狢は懐から飴の入った袋を取りだした。
「お祝いだ、飴をあげよう」
白緩狢は黒醇蠍にむかって飴を一つ手渡した。
「あと、白頼豹。白惨蟹殿の陣営では、目を光らせておいたほうがいいよ」
「何かあるんですか」
「何もなければいいんだけど。もし何かあったら、青聡竜殿のところだけでなく、私の許にも手紙を出してくれないか」
「理由は分かりませんが、そういたしましょう」
「頼んだよ」
少し空を眺めたのち、白緩狢は立ち上がった。
「さあ、東にむかおう。あまりゆっくりしていると、白王様が怒り出しかねない。黒醇蠍、お前も持ち場に戻れ」
白緩狢は幕舎へとむかった。
広源市を黄族の男性が歩いている。年は三十代半ば、一兵卒である。農民の出であろう、日焼けした肌と、少しのんびりとした表情が、その出自を窺わせる。男は広源市の近くで農業を営んでいた。そのためこの街を見知っていたが、軍事都市に様変わりしてから中に入るのは初めてだった。
「ふわぁ、えらいことになったものだ。これがあの広源市か」
都市の規模自体が数倍になっている。男が知っているのとは完全に違う街だ。
黄族の兵の名は黄慎牛という。先週までは農民だった。今は広源市での募兵に応じて兵士になっている。振り分け先は、白惨蟹という軍団長の部隊らしい。明日から出頭しろと言われた。彼にとっては軍団長などは雲の上の存在だ。その名を聞いても誰が誰だか分からない。いや、しかし、凄いところに来てしまった。そのことばかりに感心している。
彼の横を一人の男が通った。黄族の青年だ。黄慎牛と違い、肌は白く、顔は理知的だ。きっと偉い人物に違いない。
「同じ黄族でも、頭のよさそうな奴もいるんだな」
さすが、都会だ。そんな黄族もいる。黄慎牛はあらゆることに驚嘆しながら、その都市を練り歩いた。
黄慎牛とすれ違った男、司表の配下黄清蟻は、仮の王宮へとむけて進む。司表の暗号文書で、海都が落ちたことを聞き知った彼は、予約しておいた白王との面会は取り消しになると思っていた。しかし中止の連絡はなく、予定通り拝謁することになった。
いつもの通り、武器を全て解除して謁見室へとむかう。今日聞きたいことは、黒陽会による白王の死の予言についてである。白王と黒陽会の一件は、どこから漏れたのか市中に流布していた。白王周辺がそのことを喧伝する理由はないので、黒陽会から話しは広がったのだろう。白王は、黒陽会のことをどう思っているのか。
「白王様、黄清蟻でございます」
謁見室で来訪を告げる。白王は部屋の奥で椅子にもたれかかり座っている。いつもの押し寄せるような覇気がない。その代わりに、白王の周囲が暗く沈みこみ歪んでいるように見える。
「何用だ」
刃のような声が放たれる。
「白王様。先日、黒陽会の者たちが、白王様に対して奇妙な死の予言をしたと伝え聞いております。その真偽と、そのことに対する白王様のご意見をお聞かせ願いたいと、本日は考えております」
白王は、膝の上で指を組んだ。少し考えるように虚空を見つめている。
「予言というのは、警告であって真実ではない。未来は変えることができるからだ。人間の意思は強い。人は、自分たちの進む先を切り開いていく能力がある。だから予言とは、可能性の一つであって、決して確定事項ではない。人は未来に対して力を持っている。だが、過去に対しては無力だ。既に起こったことを変えることはできない」
白王は、気が重そうに息を吐く。
「黒陽会の者たちは、その始祖の考えを何も分かってはいない。垣間見た未来に一喜一憂し、雑事を行なわせるために彼はその宗教を興したわけではない。それが分からぬから黒族は、かつて黒都で栄華を誇りながらも衰退し、黒陽会も、卑小な田舎宗教に堕してしまったのだ。
予言などというものは、それこそ愚かなものだ。歴史は人の胸先三寸で組み変わる。予言は成就せぬだろう」
黄清蟻は白賢龍の顔を見た。遠目に、死相が浮かんでいるように見える。大丈夫だろうか。黄清蟻は不安を抱く。
「今日は気分が優れない。もう切り上げることにするぞ」
白王は、弱々しく部屋を出た。
七 黒老珊
波の音が聞こえ、潮の臭いが鼻を満たす。空には満天の星が輝き、月は天下をあまねく照らす。老人は流木で作られた家屋の屋根に寝そべり、天上を見上げている。傍らには酒がある。この地に実る果実で作られた発酵酒だ。多くを望まなければ、この地では何でも手に入る。老人の背は緩やかに揺れている。それは、この家屋が海の上に立っているからだ。
老人は酒杯を傾け、姿を見たこともない女性に対して涙を流した。
「白淡鯉か、名しか知らぬが、美人であっただろうのう」
老人は、その見ず知らずの女を悼むために酒を飲んでいる。
「黒老珊じーじー、魚が焼けたよ」
屋根の下から幼い子供の声が響いてきた。
「わしは今日は天を仰ぎながら酒を飲む気分なのじゃ、魚を上に持ってきなさい」
老人は孫の声にそう答える。黒髪、黒目の子供たちがわらわらと屋上に上がってくる。男の子も女の子も、褐色の肌で力強く屋根を駆け回る。
「じーじーが屋上で食べるなら、私も上で食べる」
「酒、酒、じーじー、俺にも酒をくれ」
「あんたはまだ早いでしょう」
「かーちゃーん、今日はじーじーと一緒に食事するから」
哀悼の涙で顔を湿らせていた老人が顔を掻く。雰囲気も何もあったものではない。
「お前たち、少々黙れ。男は静かに酒を飲むときがあるのじゃよ」
「姉ちゃん、女だから関係ないだろ、下に行けよ」
「あんたこそ、煩いから下に行きなさいよ」
孫たちのけたたましい声に老人はため息を吐く。海で生まれ、海で育ったこの子たちは、声も大きいし、よく動き回る。彼が若い頃に過ごしていた黒都では、子供というのはきちんとした制服に身を包み、学問などをしていたものだ。時代が変われば人も変わる。世の中の変転は著しい。
黒老珊と呼ばれた老人は顔を上げ、周囲を見渡した。この場所は海に囲まれている。
この土地は、ごく限られた人々に、浮都と呼ばれていた。海に漂う島である。好きで彷徨っているわけではない。黒都が滅んだから、海流に乗って漂流しているのだ。かつては自力で動けたのだが、燃料を黒都から供給できなくなり、この島は浮くだけしか能がなくなってしまった。
かつて浮都は、黒都を防衛するための秘密兵器の一つだった。軍艦。そう呼ばれていたこの島は、遥か洋上にあり、黒都有事の際に海からその都市を防衛する任を帯びていた。黒老珊は当時、艦長と呼ばれていた。
黒都の富と技術を守るために、黒族たちは様々な機械兵器、生物兵器を用意した。この浮都も、かつてはそういう類いの物だった。今では、当時の船員やその子孫、流れついてきた人々が住まう、船上都市と化している。かつて船の責任者だった黒老珊は、今では長老と呼ばれ、この地を治めている。
「ねえ、老珊じーじー、何か悲しいことでもあったの」
彼の孫の中でも、最も若い少年が、老人の腹に覆い被さりながら聞いてきた。
「ああ、美人が死ぬことは、いつでも悲しいことだ」
「じゃあ、ばーばーが死んだときも悲しかったの」
「あれは悪妻じゃったからのう。せいせいした」
次に若い孫が、さらにその上に乗ってきた。子供二人分の体重は少し苦しい。
「それって、シヒョウに書いてあったの」
「そうだ。死は確定したようじゃ」
「ふーん、じゃあ僕も、しんみりとお酒を飲むよ」
少年が老人の酒杯に口をつける。
「僕も」
「私も」
子供たちが次々と黒老珊の上に折り重なる。
「ぶはっ、死ぬ、死ぬ」
「うわっ、じーじーが危篤だ」
「死んじゃうの、じゃあ、お酒がたくさん飲めるね」
「でも、じーじーは美人じゃないよ」
「それじゃあ、死んでも意味がない」
「かーちゃーん、じーじーが泡吹いているよ」
階下から、子供たちの母親が駆け上ってくる。
「こら、あんたら、お父さんの上からどきなさい。あんたたちの体重で死にそうなんだよ」
子供たちは毬のようにはね回り、屋根を転げ落ちていく。雨樋に手をかけぶら下がる者、近くの椰子に飛びつく者、よその家に飛びこむ者と、それぞれ思い思いの方法でその場から逃げる。
黒老珊はどうにか息を吹き返した。
「ぷはー、死ぬかと思ったわい。まだわしは死んだらいけんのじゃ。待ち人がおるからのう」
老人は生きかえった祝賀のために、再度杯に酒を注いだ。水面に星明かりが映る。その星を飲み干すように、黒老珊は酒をあおった。
八 海都復興
火が完全に鎮火したのち、人々は石壁の内部に入り、日々の生活を再開した。だが、都市機能の麻痺したこの場所では食事にも事欠きかねない。家財を持ち出すことができなかった者の多くは、周辺の農村に一時避難することにした。それらの村落には、海都の五大家から炊き出しのための費用が多めに出されたため、各村は進んでこれらの難民を迎えいれた。
海都に居残った者たちは天幕を張って暮らしている。その多くは街の北側の住人で、火の回りが遅く、首尾よく家財を持ち出せた者たちだ。彼らは連日港に行っては、我先にと生活物資を購入した。運よく海都を離れていた商人たちは、突然の特需に当初色めき立った。しかし五大家の連名で、物の値段の上限を取り決める緊急布告が発せられたので、今は最初の狂騒は収まっている。
舟大家の人員の多くは、港の再整備のために奔走している。焼けた船を片付けなければ、港はまともに機能しない。廃船を沖合いに運んでは沈めるという作業が連日続いている。
城壁の各門の扉も早急に新造しなければならない。巨大な門扉は数日で作れる物ではない。その製造を近くの都市に発注するのは、金大家が行なった。
五大家の家長たちは毎日集まり各大家に指示を飛ばしつつ、海都復興のための激論を戦わせている。
議論をしているのは主に、舟大家の青美鶴と、金大家の青新蛇である。米、塩大家は商売が再開されれば、街の復興は後回しでよいと思っているので大きな口出しはしない。彼らが商う商品は日々の糧である。街の人々を飢えさせないために、一日も早い商売正常化を彼らは目指していた。布大家の家長は、当分何もできないために沈みこんでいる。彼らの商品が大きく売れるのは、街の復興が成ったあとである。彼らは、わずかに運びだせた服や布地を、無償で市民に提供している。
海運を基礎とし、最大の大家として防衛、政治の領域を担当する舟大家と、都市計画と、金融、経済を自らの仕事と自負する金大家が、新しい海都のあり方について、相譲らぬ主張を続けている。
とはいえ、復興が止まっているわけではない。双方の合意が為されている部分については、矢継ぎ早に指示が飛び、目まぐるしく復興は進んでいる。二人の見解が相違している部分は、白大国の土木技術の導入という部分にあった。
「いち早い復興と堅牢な都市設計こそが、二次、三次の赤族の襲撃や、その他の夜盗などの襲撃を防ぐのに有効よ。だから、白大国の力を大きく利用すべきだわ。白大国の持つ軍事力、労役のための人的資源、高い土木技術を利用するの。そのために、白大国との関係を保っているのだから」
青美鶴の主張はこのようなものである。対して青新蛇はこう言う。
「復興は、青族を中心とした、海都の人々の手によって行なわなければならない。我々は白大国に深く関わり過ぎた。現時点で白大国の力を借りれば、この先、海都の独立性は完全に崩れる。復興に時間がかかり、堅牢性で劣り、街の危険性が増大したとしても、将来を見据えれば、白大国と距離を置くべきだ」
この対立の解決が見えないまま、復興は青新蛇の主張する方向に進みつつある。議論が解決を見ずとも、白大国とは無関係に海都の民による復興はできるからだ。建築家や、都市計画に参画する有識者、土木の知識を持つ技術者たちが既に多数働き始めている。
だがそれでは以前と同じ都市になってしまう。 青美鶴は復興速度よりも、このことのほうを真に危惧している。都市の開発技術は、白大国の登場によって数世代先に進んでしまった。広源市という地方都市を、たった一年で白都に劣らぬ軍事都市に改造できる技術が、この王国の標準となっている。
彼女は舟大家の家長になる前に、白都もその目で見ている。都市としての機能性、防衛力、設計思想、全ての面において先進的な街だった。白大国以前と以後、いや、白賢龍以前と以後では、都市技術の世代が大きく違う。そこには発想の飛躍や、概念の断絶が無数に見られる。上下水道の完備、ごみの集積処理施設、連絡、移動のための乗合馬車の駅。各建築物は、防衛、防災のために、建物ごとの距離や材質などが規定で細かく定められている。まるで人々が夢想する未来都市、そのような機構や工夫が、人々にそれと気付かせることなく、平然と都市機能に組みいれられている。
時代は変わりつつあるのだ。今この機会に白大国の都市技術を導入しておかなければ、五年後、十年後に、海都は二流都市に没落してしまうだろう。この大破壊は、そう考えると好機と見なすことができる。
だが、青新蛇の語る言葉も真実であった。ここで白大国の力を借りれば、海都は存続するかもしれないが、白大国の一都市以上の存在ではなくなるだろう。
青美鶴も青新蛇も、互いの主張の根拠を理解していないわけではない。いや、理解しているからこそ、海都の舵をどちらに切るか、議論を重ねていた。
この日も陽が傾いてきた。議論は平行線をたどり、なかなか良案は見つからない。
「それじゃあ、青美鶴殿、青新蛇殿、我々は一旦引き上げますので」
二人ほど若く、活力に溢れていない三人の家長たちは、夕日の時刻にはそれぞれの大家に引き返した。残った二人は茶を運ばせ、しばし休憩を取る。
「青新蛇殿、あなたは海都を衰退させる気ですか」
「青美鶴殿、あなたこそ海都を白大国の一都市に貶める気ですか」
部屋には険悪な空気が漂う。青美鶴は顔をしかめる。議論が長引けば長引くほど、結果的に青新蛇の主張するやり方で復興が進むことになる。青新蛇の思う壺になっている。彼女は、自分の経験の浅さを痛感する。相手のほうが上手だ。
今更白王に使者を送り、土木軍団を送ってもらうように頼んでも遅い。各地で工事が始まりつつある。軍団が着く頃には、旧態然とした復興がある程度進んでしまっているだろう。その人々の苦労を破壊して再整備するとなると、街の人々の復興の気運は挫けるかもしれない。都市の整備に力を入れてきた金大家のほうが、建築の分野では、舟大家より経験も技術も豊富なのだ。このままでは埒があかない。
「青新蛇殿、今日は私も引き上げます」
「そうですか、では馬車を手配いたしましょう」
「いえ、結構です。馬車はありますので」
青美鶴は、海都の中心の金大家の商館跡を出て、街の南東にある海風神社へとむかった。
海風神社も赤族の攻撃の被害に遭っていた。だが、建設中だった史表殿とは違い、とりあえずの生活ができる程度には建物の原型を保っている。さすがに装飾品は全部燃えてしまったが、社殿自体は石を繰りぬいて作ってあるために類焼を免れている。その海風神社で、青聡竜たちは起居している。
「すみません、またお世話になります」
「いえいえ、青聡竜様なら、いつでもこの社殿をお使い頂いて結構ですよ」
人のよさそうな細身の神主が、青聡竜の言葉に応える。
「例の史表も無事に火を免れましたよ」
「それはよかった」
二人は並んで廊下を歩く。
「司表様、青美鶴様がいらしています」
廊下のむこうから声がかけられた。
「分かった、今行くと伝えてくれ」
「それでは、青美鶴様にも、よろしくお伝え下さい」
神主は一礼して、社殿の奥へと消えた。青聡竜は玄関近くの部屋を空けるように告げ、その部屋へとむかった。
既に夜。蝋燭の明かりの下、部屋には青美鶴と青聡竜の二人がいる。
「青聡竜の叔父様。青新蛇殿の言うことも分かります。でも、白都と比したとき、海都のむかうべき未来は自ずと見えてくるはずです」
「ふむ、確かに白賢龍の指示の下、白大国の都市技術はこれまでとは大きく変わっている。数世代懸絶してしまったと言ってよいだろう。だが、青新蛇の言うことももっともだ。このままでは、海都は、白大国の一地方都市と化してしまうだろう」
「私もそのことを危惧してはいます。しかし」
「一番よいのは、海都の技術者たちが、白大国の技術を持つことだが、あまりにも突然のことだったので、その準備もできていない。そのことが今回の対立の原因だろう」
「ええ、事前に技術を移入していれば問題ありませんでした。しかし、今この時期に白大国に協力を頼めば、弱い立場での交渉になります。青新蛇殿の主張もそこにあります」
「経験者を在野から雇え。白大国の都市造営に関わった者を探して、青新蛇の指揮している都市設計部局に組み入れろ。その妥協案なら、双方の歩み寄りは可能だろう」
「ええ、それなら妥協案にはなります。しかし、技術者を揃えるのにも時間がかかります」
「一度に揃える必要はない。随時加えてゆけばよい。青新蛇にもそのことを予め了承させろ。幸い私の下に、都市建設に参与したことがある兵士が一人いる。今回の海都復興にぜひ過去の経験を生かしたい、そのために史表の仕事を辞したいと申してきた。まずはその男を青新蛇の許に走らせ、打ち合わせをさせるとよいだろう。名は白柔猩と言う。
白都建設の頃は、若過ぎてそれほど重要な仕事に関わっていなかったそうだが、白都の要点くらいは説明できるだろう。その話を考慮に入れた上で、青新蛇の部下たちが復興を進めればよい。だが、本格的な都市設計となると専門家が必要だな。何人か当てがある。すぐに紹介状を書こう」
「よろしくお願いします」
とりあえず一つ目処が立ったことに安堵したのか、青美鶴は深くため息を吐いた。
「だいぶ疲れているようだな」
「ええ、仕事が山積しておりますので」
青美鶴の表情は暗い。
「たまには、美味しい食事でも取って、きちんと休むようにしろ。倒れては元も子もない」
「こんなときにお父様がいてくれれば」
「うむ、そうだな。しかし兄上は、忙しいときを狙ったように、お前を家長にして隠遁してしまったな」
「私が二十歳になったら世間を離れて隠棲すると、昔から言ってましたので」
「今はお前が家長だ。後ろむきな考えはよくないぞ。気を張っていればこそ、体も維持できる。今、気を抜けば、一気に病に臥すことになりかねない」
「そうですね。青聡竜の叔父様とお話ができて、少し元気が出ました。あの、叔父様。お願いがあるんです」
青美鶴は、俯き加減に少し恥ずかしそうな顔をする。
「何だ美鶴。遠慮はいらんぞ」
「昔みたいに、抱きかかえてくださらないでしょうか」
恥らうように顔を赤らめながら青美鶴は喋る。
「それぐらいでお前の元気が出るのなら、お安いご用だ」
青聡竜は、逞しい腕で軽々と彼女の体を持ち上げた。青美鶴は少し驚きの声を上げながら、顔に無邪気な笑みを浮かべた。
「青聡竜の叔父様は、やっぱり力持ちですね」
「当然だ。これでも武人なのだからな」
嬉しそうに微笑みながら、青美鶴は青聡竜の顔に両腕で抱きついた。胸と顔を彼の頭に寄せ、少女の頃のように、その鍛え上げられた体躯に身を任せる。少し、そうやって時を過ごし、彼女は華やかな表情で顔を上げた。
「青聡竜の叔父様、ありがとうございます。元気をたっぷりと頂きました」
「まだまだ、お前も子供だな」
青聡竜は笑いながら青美鶴の足を床に下ろした。
「まあ、子供は舟大家の家長にはなれませんよ」
青美鶴は少し怒ったような顔で反論する。
「それでは、私は舟大家の商館跡に戻ります。夜分遅く失礼しました」
「うむ、海風神社の神主が、よろしく伝えてくれと言っていたぞ」
「分かりました。また改めて祖母の墓参りにもこなければいけませんね」
軽く礼をして、明るい顔で青美鶴は社殿をあとにした。
「さて、白都周辺の偵察に放った者たちの報告を待たねばならぬか」
薄暗い廊下を歩きながら、彼は農管園にいる白淡鯉のことを案じた。皇后の死の報は、海都には伝わってきていない。周辺諸都市の動揺を食い止めるために、情報が白都で留め置かれているからだ。無事でいてくれ。彼は、自ら身を引いた女性の生存を願った。
昼、白都の近く、林の中。白族の大男が、周囲を警戒しながら走っている。
馬で農管園にむかった者たちが引き返す姿は一度も見ていない。彼らは不幸にも赤族の歩哨に見つかったのだろう。念のために放たれた、馬に乗れないこの青年だけが、一人道を進んでいる。海都と白都を往復する人影はない。赤族の襲撃で、それぞれの都市の間の交通は、船上に限られてしまっているからだ。
「白都って、一人で行くと時間がかかるんだな」
青年は木々の根に足を取られながらそう呟く。一人だから時間がかかっているのではない。何度も道を間違えているから到着が遅れているのだ。大男は木に登り、周囲の景色を確かめる。遠目にようやく白都の様子が見えてきた。そろそろ北に折れる頃だ。白太犬は木から下り、北にむけてふたたび走りだした。
その日は野営し、翌日農管園に着いた。よくぞたどりつけたと、自分で自分を誉めてやりたかった。林から顔を出すと、何人かの黄族の農民がうろついている。焼け落ちたこの施設から、何か金目の物を奪えないかと思い、やってきたのだろう。
「ひっ、白大国の兵士だ」
農民たちは我先にと逃げだす。
「待て待て」
逃げれば追う。まるで犬のように、司表配下のこの男は農民たちを追い、その内の何人かを捕まえた。
「ひー、兵士様、お許しを」
「ここで何があった。白淡鯉様はどうなった」
剣を突きつけて問う。
「赤族の兵士たちが焼き、白淡鯉様も殺されたという噂を聞きました」
「噂の真偽はどうなのだ」
「ひぃ、農管園から無事出てきた白穏蝉という老人が、白淡鯉様が赤族の族長に殺害されたことを白王様に伝えねばならない、と言っていたそうです。わしらはそれ以上のことは知りません」
白太犬は黄族の男たちを解放する。そして全焼した建物の様子を見た。この中にいたのならば、生きてはいないだろう。そう結論付けた。
遠方から見た海都の姿は、石の壁だけを見れば以前と変わらないように見えた。しかし、鮮やかな色彩の屋根は姿を消し、大きな門も焼け落ちていた。近づくにつれ、以前とは街の様子が様変わりしていることが窺えた。
白太犬は、門衛に身分証を見せ、街の中へと入っていく。彼は復興作業の続く海都を横断する。
途中、右手に建設途中の舟大家の商館も目に入った。市街はある程度の区割りが見えるものの、各人が勝手に元の場所に自分の家屋敷を建築しているため、ちぐはぐな街ができつつある。元々、各々が競うように、家や店を建てていた町なのだ。青美鶴と青新蛇の意図とは関係なく、街全体で行政を無視した建設工事が始まっていた。取り締まろうにも、数が多過ぎる。それに、下々の者は、都市計画よりも当座の雨露をしのぐ屋根のほうが大事であった。
「凄いことになっているな」
雨後の竹の子のように、建物が大地に林立し始めている。海都の商人たちは、下手に金を持っているから始末が悪かった。支配者たちに頼ることなく、自ら復興を進めている。その場所に行政官が来ては、建設中の建物を壊して道にしたりする。無茶苦茶だ。各所で建築と破壊の追い駆けっこが行なわれている。
白太犬はその様子を見ながら海風神社へと走る。
「青聡竜様、白太犬只今戻りました」
社殿の奥から、彼の上司が走ってくる。
「よくぞ戻ってきた。他の者はどうした」
「馬で先行した者とは、すれ違いませんでした。恐らく、赤族の手にかかったものと思われます」
「そうか。農管園、白淡鯉はどうだった」
「農管園は全焼。白淡鯉様は、赤族の族長に殺害されたと、白穏蝉という老人が語っていたそうです」
青聡竜の顔が凍りつく。赤族の族長とは、舟大家の商館で戦ったあの男か。あの男が白淡鯉を殺したのか。白淡鯉が死んだ。嘘だと思いたい。だが、白穏蝉という学僧市出身の研究者の名前が出たことが、情報の信憑性を増していた。単なる噂ではなく、事実なのだろう。
「誰の口から聞いた」
「農管園の周囲にいた、黄族の農民たちからです。白穏蝉という老人は、白王様にそのことを伝えるために、白大国の兵たちとともに船上の人になったそうです」
怒りを露にした顔で、青聡竜は石の壁を叩いた。なぜあのとき、あの赤族の男を仕留めておかなかったのだ。そして、なぜすぐに白都に赤族の一団を追わなかったのだ。後悔しても遅い。だが、悔やんでも悔やみ切れない。
青聡竜は白賢龍にも怒りの矛先をむける。なぜお前は白淡鯉を死に追いやるようなことをしたのだ。お前ほどの男なら、この結末を読めただろうに。青聡竜は、白賢龍と白淡鯉の結婚式の前日のことを思い出す。青聡竜は白賢龍に詰め寄り、彼が白淡鯉を幸せにすることを誓わせたのだ。白賢龍はそのことを約束した。だからこそ彼は、建国の十年後、思い残すこともなく白大国から身を引いたのだ。
白太犬は、余りにも感情的な青聡竜に驚く。普段の冷静な青聡竜の姿はそこにはなかった。青聡竜は二度、三度と石壁を殴り、拳に血を滲ませる。
「賢龍は約束を破った」
青聡竜の口から、いつもの白王様という言葉ではなく、賢龍という友への呼びかけが出た。
「賢龍は俺との約束を守らなかった」
小さな声が白太犬の耳に伝わってくる。人のよいこの青年は、どう反応すればよいのか分からなかった。
「俺も約束を破るぞ、賢龍よ」
その言葉は小さ過ぎて白太犬には聞こえなかった。青聡竜は落ちつきを取り戻したのか、石壁を叩くのを止めた。
「白怖鴉を呼べ」
彼は秘書を担当させている男の名を叫んだ。飛ぶように白族の青年が駆けてくる。
「白厳梟に持たせて回っている赤族の将の似顔絵を、千枚書き写して市中に撒け。それと、私はこれより海都を発つ。その間の各地の司表の兵との連絡を、お前に一任する」
白怖鴉は驚く。
「司表様は何処に」
「赤族を追う。最早この地に留まり、座して歴史を見守るときではない。我が目で歴史を追い、裁断する」
「はっ、この白怖鴉。司表様の名代を成し遂げるよう、一命を賭して尽力いたします」
青聡竜は、かつての武具を引きだすために社殿の奥へとむかう。
白賢龍が誓約を破った今、彼との司表の約束に何の意味があろうか。歴史を傍観する立場ではなく、歴史に鉄槌を下す立場になる必要がある。少なくとも、白淡鯉の仇は討たねばならない。青聡竜は、かつて大陸を駆け回っていた頃の剣を腰に差す。彼はふたたび、歴史の表舞台に立つことを決めた。
九 再戦
白緩狢の率いる一万の軍が、広河の半ばにある広央市に上陸したのは閉腸谷を出発して二週間後のことだった。移動に先行して、白都の軍団長や、広河沿いを守備する諸部隊長への急使は既に派遣してある。
この二週間、赤族の遠征軍は、姿を巧妙に晦ませながら、広河沿いの諸都市に圧力をかけ続けた。防備の堅い都市は威圧だけを加え、付近の村落を焼き討ちする。弱い都市は猛烈な打撃を与える。また、時折白都周辺に出没しては、白都守備軍をその地に釘付けさせることも忘れなかった。彼らは、白大国の兵以上にこの土地を熟知していた。
「まいりましたね」
広央市に上陸した白緩狢は報告書に目を通しながら呟いた。相手の正確な場所が分からない。だが、彼の顔は言葉ほど深刻ではない。赤族の軍団は、行動は早いが数はそれほど多くない。報告を総合すれば、その数は千程度。多く見積もっても二千はいかない。五万対千。五十人で一人を倒せばよい。問題は、どうやって五十対一の戦いに持ちこむかだ。相手の場所が特定できなければ、兵を撒くしかなく、そうすれば各個撃破される危険性が高い。逆にこちらが敵を分散させて、数を削ぎ落としていけるなら勝利はたやすい。敵は補充の利かぬ千人しかいない。
白緩狢は椅子に座り、机の上の広河の地図を見ながら考える。図上には無数の支流が走っている。ここは、白大国お得意の船を使った戦がよいだろう。白緩狢はすぐに千人長を呼び、必要な船の手配を命じた。
「白緩狢様」
広央市の市長が本陣にやってきた。白緩狢は市長を部屋に通す。
「どうしたんです」
白緩狢は茶をすすりながら応じる。
「実は海都から、司表の部下と申す者が、赤族の軍団の警告に来ております。東から各都市を巡って、警戒を怠らないようにと、触れ回っているとのことです」
この地までは、まだ赤族の兵士は出没していない。司表の部下は、船で一都市ずつ訪れて予め危険を知らせているのだろう。司表の部下といえば、通胸路の山岳で出会った白頼豹のことを思い出す。海都の情報が直接聞けるかもしれない。会っておくべきだろう。
「呼んでください。名は何と言います」
「白秀貂と言うそうです」
それから一時間ほど、白緩狢は白秀貂から直に海都襲撃の詳報を聞いた。
「なるほど、彼らは自らの庭のように海都の道を走っていたんだね」
「ええ、西の果てにいる赤族が、どのようにして海都の様子を知っていたかは定かではありません。ですが、事実、そういう動きをしていました」
「まるで、詳細な地図でも持っているかのようだね」
白緩狢は、船上で考えていたことを口にした。可能性はいくつもあるが、白大国でも持っていない高精度の地図があれば、あるいは兵士の目に触れずに大陸を横断することも可能かもしれない。続けて白緩狢は言う。
「でも、もしそうだとしたら、赤族は白大国の奥にまで足を踏み入れるべきではなかったね。白大国の軍事は、地形を変えることも厭わない。今回の戦では地図を書き替えよう」
「地図を書き替えるのですか」
「うん、その様子を見ていくかね」
白頼豹が白惨蟹の許に行ってしまったために、白緩狢の活躍を白王に印象的に伝える観察者がいなくなった。この白秀貂という若者を、自陣営に置いておくのは損ではない。
「この作戦を見ることは、史表作成にとっても有益なことだと思うよ。諸都市への連絡は私から既に行なっている。安心したまえ」
軍団長直々の誘いを断る手はない。
「分かりました。ぜひ」
白緩狢は満足そうに白秀貂の手を取った。
広央市に来た日より、千人長の白弱鴇は、無数の台船を手配させられた。他の軍団長の下でも、同じような指示が出されているのだろう。だが、海都を欠いての船数の確保は非常に困難であった。
それとは別に、赤族の潜伏先を探るために大量の兵士が放たれた。今までの十人、百人単位の捜索とは違う。白緩狢の下には五万の兵がいる。千人単位の探索隊が組織された。さすがにこの数の部隊を気軽に攻めることはできない。白大国の軍と違って、赤族の軍は兵員の補充ができないからだ。そのため、次第に彼らの活動範囲は狭められていった。
「そろそろ草原に戻る頃かもしれないな」
平原での目的はほぼ達したと言える。赤栄虎は、配下の軍団長たちにそう告げた。
「帰るとなると、この戦場も名残惜しいのう」
既にこの地での戦闘が常態になりつつある赤朗羊が笑い声を上げる。その場の全員がその声に釣られて笑った。
「最後に一都市攻めて、そこに注意を引きつけたのち、引き上げることにしよう」
赤栄虎は、地図の一点を指差した。微川市という、木の柵で囲まれているだけの小規模な街だ。駐屯している軍の規模は小さく、白大国の警備の穴場といえる。彼らは翌朝その場所を攻めることに決めた。だが、その場所こそが、白緩狢がわざと警備を少なく配し、赤族遠征軍を誘いこむために用意した予定戦場だった。
微川市付近の森に馬を潜め、十人長の少年黒醇蠍は野営をしている。辺りは朝靄が立ちこめており、木々の間に配された百人単位の伏兵の姿を隠している。伏兵は、微川市を囲む東西で息を潜めている。
この布陣、開喉丘で、初めて赤栄虎率いる軍が攻めてきたときの作戦に似ているな。
黒醇蠍は作戦を百人長から聞かされたときに閃くものがあった。開喉丘の戦いのとき、弱兵を囮に陣深くまで誘いこみ、逃げる兵を追わせて柵で取り囲んだ。今回の作戦も基本は同じだ。微川市を囮にして伏兵で挟撃する。だが今回は規模が違う。仕掛けが大掛かりだ。
黒醇蠍に課せられた用兵は危険を伴う。だが、指揮官としての実力も評価される任務だ。黒醇蠍はこの数ヶ月で、白緩狢の作戦に必要な兵の種類が分かってきた。彼は馬と弓の巧者が揃う部隊にわざと入った。自然、軍功を上げやすい前線に配備される。
「軍団長の話では、今日明日には攻めてくると言っていたけど、敵は来るかな」
視界の通らない景色を見ながら、黒族の少年は呟く。
「十人長、敵兵がやってきたそうです」
「分かった、全員騎乗しろ」
黒醇蠍は部下たちに命じる。すぐに、微川市の方角から鬨の声が聞こえ始める。
「全速前進」
十人長以下、馬が加速しだす。他の十人長の馬もすぐに出撃した。微川市の左右から合計千人の騎乗兵が微川市へと迫る。
「赤栄虎様、東西から騎馬兵がやってきます」
赤朗羊が鋭く叫ぶ。
「両方向に射撃。相手の動きを牽制しながら引き上げるぞ」
伝令が命令を伝えながら駆けていく。赤族の騎兵たちは濃密な靄にむかい矢を射掛けた。敵が叫び声を上げて退く。予想以上に脆い。この戦いを最後に草原に帰ることを聞き知っていた一部の兵士たちが調子に乗った。敵の逃走に引かれるように馬を東西に走らせる。彼らはこの遠征で、白大国の軍を侮りだしていた。その油断が、ある違いを見落とさせた。
「おい、お前たち止まれ。川の手前で引き返せ」
命令違反の兵たちを赤栄虎が呼びとめる。だが彼らは敵兵を追い、靄の中へと駆けていく。おかしいぞ、赤栄虎は異変に気付く。地図では川が流れている場所を、赤族の人馬が敵を追い、駆けぬけていったのだ。
朝靄が晴れた。
大地には無数の細い川が流れている。その川を架橋するように、無数の台船が浮かべられていた。その台船の船倉には水が流入し、水没しつつある。台船の上甲板には、川の端と端を繋ぐ板が渡され、全面に土と草が盛ってあった。船が沈み、赤族の兵士たちは各自孤立させられた。赤栄虎のいる地面に立っている兵の数はおよそ七百。残り三百の兵は川のむこうだ。
「かかれ」
南から、白緩狢の金切り声が響く。逃げていた騎兵が反転して、孤立した赤族の軍団に突撃を開始した。その背後から、無数の白大国の重装歩兵が姿を現す。騎兵の突撃で敵の密集を乱し、雲霞のように押し寄せる歩兵で止めを刺す。一方的な殺戮が始まる。
「退け」
赤栄虎が叫ぶ。その声を掻き消すように、南にも兵の声が上がる。河上に浮いて待機していた白緩狢率いる兵一万が、我先にと上陸しだしたのだ。使える兵と船は総動員した。これで、倒せなければ運が悪いとしか言い様がない。
包囲戦が開始された。北側を塞ぐように、一万の兵が順次移動する。
「突破するぞ、陣形を楔型に組め」
赤族の騎兵が陣形を組む。それぞれ無数の矢を放ち、敵の囲みをこじ開ける。前面が薄くなった。そこに荒馬をぶつける。悲鳴と血飛沫を上げながら、無理矢理正面を突破する。今の突撃で百、背後からの追撃で百、残りは五百に減った。
「赤栄虎様、しんがりは私に」
赤烈馬が叫ぶ。
「よし、任せた」
赤栄虎の声を受け、百名が馬首を巡らせる。
「突撃」
赤烈馬の部隊が矢を連射しながら猛然と白大国の軍に襲いかかる。敵が逃げ腰になる。相手の陣形を崩し、ふたたび逃走に入る。
「追え追え、一兵たりとも逃すな」
あの数になっても、錐のような貫徹力は健在か。白緩狢は驚嘆する。あの赤栄虎という男とは相性が悪いのか。そう思い、顔を少し歪める。取り逃すわけにはいかない。地獄の果てまでも追わねばならぬだろう。
孤立した兵を圧殺した黒醇蠍も北にむかう。
「進め、敵を皆殺しにしろ」
北の山間部にむかい、潮のように人が流れていく。追撃戦が始まった。
赤栄虎の周囲には、三百の兵しかいない。彼らは山を越え、進路を西に取る。ぽつぽつと赤族の騎馬が山を越えて合流してくる。この分だと、最終的に生き残ったのは四百から五百か。赤烈馬も合流した。
数は半分に減った。だが赤族の兵たちに落胆の色はない。元々小人数で強大な大国を相手に戦っているのだ。損害は覚悟の上である。それよりも、千の兵で五万の大軍を翻弄してやったという意識のほうが強い。
「しかし、凄い数でしたな」
赤朗羊が馬の上で笑いながら言う。
「あれだけ人を揃え、策を練って、千の兵を仕留められなかったのだから、さぞかし悔しがっていることだろう」
赤栄虎が応じる。
「しかし、殿軍はしんどかったですな」
矢を受け傷を負い、血まみれになった赤烈馬が他人事のように言う。全員が赤烈馬の奮闘を称える。
「そろそろ、おやじの元に戻らねば、寂しがっているだろう」
「大丈夫ですわい、十年も息子を旅に出すおやじ殿ですからのう」
赤栄虎と赤朗羊が軽口を叩く。その声を聞いた、他の兵たちは笑い声を上げる。場が和み、兵士らはそれぞれ今日殺した白大国の兵の数を馬上で自慢しあう。
「追え、敵兵を逃がすな」
四万の歩兵が追撃兵として彼らを追う。それとは別に、一万の騎兵を中心に編成された一軍が、街道を使い、赤族の先に回りこもうとしていた。
十 海都の黒陽会
海都の黒陽会。
その跡地へとむかう初老に差しかかった男がいる。髪は赤い。赤族である。赤族の海都襲撃後、この地に住む赤族の男たちは迫害を受けている。住む所を追われ、路地裏で撲殺された者も少なくない。この男は、その名前のお陰で辛うじてその難を逃れている。黒華蝦。赤族を捨てた黒陽会の信者である。彼は信心深くはないが、その立場の便利さはよく知っている。
この男は女の扱いに長けている。海都にいれば、食いっぱぐれることもないだろうと高を括っていたが、事情が大きく変わってきた。彼のような情夫を抱える余裕のある女性を見つけることは、海都炎上以降難しくなったからだ。こういうとき信者という立場は便利だ。少なくとも食い繋げる。そう思い、女受けのよさしか取り柄のないこの男は、黒陽会の教会へとむかった。
跡地に着いた。焼け落ちた建物の四囲には杭が打たれ、黒陽会の土地が奪われないようにその範囲を定めてある。その縄張りの内側には、大小の天幕が広げられ、信者たちが野宿をしている。黒壮猿が資金のほとんどを広源市に持ち去ったため、急遽教会を再建するだけの金子が彼らにはない。仕方がなく彼らは、焼け残った備品の中から換金できそうな物を売って日銭を稼いでいる。
「うーん、ここも時化ているな」
働かなくても食えそうなだけましかと思い、諦める。優雅な暮らしにはほど遠い。黒華蝦は教会の焼け跡に踏みこみ、幾つかの天幕を覗いた。さて、どの女を誑しこむか。
「誰です、あなたは勝手に人の敷地に入ってきて」
その赤族の男の背後から、激しい女性の声が響いてきた。舟大家の商館が焼け落ちたために、召使の仕事を失った黒艶狐だ。彼女は舌鋒鋭く黒華蝦に苦情を申し立てる。
この女にするか。黒華蝦は黒艶狐に近づき、いきなり抱きしめ唇を奪った。優しい目で彼女を見つめる。黒艶狐の四肢から力が抜け、表情が蕩けた。落ちた。女はこれだから便利だ。黒華蝦は会心の笑みを浮かべる。
「名は何と言う」
「黒艶狐です」
「あんたの起居している天幕に案内してくれ。そこで寝起きすることにしよう」
「はい、ご案内いたします」
恥らうように、青い目の若い女性が頷く。黒華蝦は彼女の天幕に潜りこみ、取り敢えずその日はその女を抱いた。
翌日。
周囲の女性と打ち解け、男性陣には不興を買いながら、黒華蝦は黒陽会の教会跡地をぶらぶらと歩き回る。鍬を年増の女に借りてきた。適当に辺りを掘って、高く売れそうな物を探すつもりだ。
「金目の物、金目の物、おっ」
鍬の先が予想以上に深く地面に入った。空洞だ。誰も見ていないことを確認して、黒華蝦は土を軽くどけてみた。日の光の下に階段が見える。やった、これは何かあるぞ。彼は掘り起こした場所にもう一度土をかけ、急いで天幕を手配した。穴が他人から見えないように天幕を張って隠し、その中で土を掘る。
「これは、俺専用の宝物庫だぜ」
すぐに地下への道は開いた。松明を手に入れ地下へとむかう。不気味だ。一信者である黒華蝦は教会の地下室の存在を知らない。石段を踏み、冷え冷えとした階段を下りていく。扉があった。扉には鍵がかけられている。壊すか。持ってきた鍬を錠前に振りおろす。しかし、錬金でできた器物なのか歯が立たない。
「ならば横を掘るまでよ」
赤髪の男は扉の脇の壁を掘り始めた。わずかずつだが、鍬を当てれば壁は削れていく。これだけ厳重な場所だ。さぞかしお宝がたくさん出てくることだろう。黒華蝦は、一心不乱に鍬を振り続けた。
人一人が通れる穴を掘るのに夜までかかってしまった。途中で松明を追加したり、腹を満たしたり、婦人の天幕に転がりこんだりしながら、どうにか穴を開けることができた。
「さて、何が出るかな」
黒華蝦は、灯火を先に壁のむこうに放り、体をくねらせて奥へと入る。そこは錬金の工房だった。話には聞いたことがあるが、実際に見るのは始めてだ。壁には無数の書物が並んでおり、そこかしこに置かれた机の上には金属や硝子製の器具がある。
「まあ、これらも金になるだろう」
そう呟きながら奥へとむかう。さらに階段が地下へと続いている。彼は先へと進む。最深部に着いた。周囲は剥きだしの土が覆っており、その奥にさらに部屋がある。
「よくまあこんなに掘ったな」
壁を掘るだけでも疲労困憊した黒華蝦はそうこぼす。入り口を抜けると、部屋の壁に巨大な石板が立てかけられていた。黒曜石のような黒い表面に、無数のひび割れが走っている。この部屋にはその石板しかない。
「俺には価値は分からないが、重要な物なのだろうな」
近づいて、その表面に触れてみる。無数のひびに見えた物は、石板に刻まれた文字だ。人名や数字が無数に刻まれている。だがその意味するところまでは、この男には分からない。
「誰か、物の価値の分かる人物に、こいつを売りつけるのがよさそうだな。俺一人の力では、運びだすこともできないし」
海都なら、五大家のいずれかに売るのがよいだろう。順当に考えるなら、舟大家か金大家か。黒華蝦は周囲を見渡し、ふたたび地上へと引き返した。
海都自立の気運が高まっている。
白大国という強大な統一王朝ができようとしているこのときに、復興に湧く海都では、自主独立の気概が育ちつつある。青新蛇がその勢いを盛り上げている感がある。これまでは青捷狸という古狸が青新蛇に睨みを効かせていたが、若い青美鶴にはまだそれほどの重みがない。彼女の能力は父親に比肩すると言われているがまだ老練ではなく、その若さゆえに青新蛇に押し切られている。
青新蛇だけでなく、金大家自体の動きも活発だ。
海都復興基金。
この愛国心や国粋主義を煽る名前の基金を利用するために、人々が金大家に列を為している。この基金は災害復興のための金融商品である。投資も融資もできる。だが金利は異常に低い。五年で一割。海都の商人たちの実力を持ってすれば、この程度の利率は金利の内に入らない。これでは投資する側にまるで旨味がない。だが融資を求める者だけでなく、投資を行なおうとする者も等しく金大家の前に並んでいる。
なぜか。それは海都復興基金に、ある仕掛けが付いているからだ。この基金から融資を受けた者は、その基金で作った店、家、船などの目立つ場所に、投資者の名前を返済日まで掲示しなければならない。名は個人名でなくともよい。店名、組織名でも構わない。要は広告付きの借金である。
金大家はこの仕掛けで人々の名誉欲を煽り、多額の資金を集め分配した。このことが、自分たちこそが海都という都市国家の担い手なのだと、市民一人一人に自覚させる要因の一つとなっている。このような世論の盛りあがりは、海都の自立を主張する論客たちを多数生み出すことにもなった。海都の焼け野原の各地には演台が作られ、論客が辻々で街頭演説を行なっている。
その演台のそばを、青新蛇が護衛をつけて通りすぎる。わざと馬車を使わずに、他の市民と同じように路上を歩くことで人気取りを行なっている。街行く人々に手を振り応えながら彼は進む。人通りの少ない一角に差しかかったとき、青新蛇は笑みをこぼした。
「どうなされました、青新蛇様」
付き人が問う。
「いえ、柄にもないことまでして努力をしているなと思い、自分のことが少し可笑しくなったのです」
「柄にもないことですか」
「ええ、私は本来実務家ですからね。政治家ではありません。その私が、こうやって人々を煽り、人気を得ようと動いている」
周囲には人の姿はなく、青新蛇の一行しか道を歩いていない。
「青新蛇様は、海都の五大家の家長の一人です。政治家でしょう」
「そうです。五大家の家長という意味では政治家です。海都には五つの大家があり、合議によって政治を行なっています。けれども、海都の行く末を真剣に考えているのは、金大家と舟大家だけです。それ以外は、保身の徒にしか過ぎません。彼らは、海都の存続が己が利益になるから動いているのです。海都に命を捧げる気などないのです」
「青新蛇様は、海都に命を捧げるつもりなのですか」
「余人はどう思っているか知りませんが、私はそのつもりです。白大国はいずれ滅びるでしょう。あの強烈な白王が死んだとき、一度国は覆ります。そのときに、海都がただの一都市に過ぎなければ、運命に翻弄されるだけでしょう。そのときまで、都市国家としての命脈を保っている必要があります。私は海都の生まれではありません。その私に、この街は分け隔てることなく、今の仕事を与えてくれました。私は海都という街を愛しているのですよ。だからこそ、この都市の繁栄を願わずにはいられない。舟大家は白大国に寄り過ぎています。舟大家のやり方では、いずれ海都は骨抜きにされるでしょう。舟大家の家長の代が替わってよかった。青美鶴殿は組みしやすい。青捷狸は化け物でした。引退してくれて本当によかった」
また、人通りの多い区画に入りつつある。青新蛇は口を閉じた。この男は、街頭で声を荒げている者たちの、何倍も大きな声で自らの主張を語りたいのだろう。だが、彼の政治的立場の重さが、そのような軽挙を許さない。
「海都は滅びません。人々が新たな海都を作るのです」
青新蛇は、周囲の者たちに対してそう語った。
青聡竜が海都を発ったという報が、青美鶴の許にもたらされた。舟大家の商館跡には幾つかの天幕が作られている。その一つが青美鶴の執務に割り当てられている。
「青聡竜の叔父様が海都を離れたですって。一体なぜ」
報告をもたらした老秘書にむかい、青美鶴は家長の天幕の中で声を上げた。
「はあ、詳しいことは聞き及んでいないのですが」
しどろもどろになりながら秘書は答える。舟大家の女家長は、顔を青く染めている。青美鶴の師であり、叔父であり、憧れの対象だった青聡竜が、彼女に何も告げずにこの地を去った。白王に呼びだされて白都にむかったときでさえ、彼女にしばしの別れを告げにきたのだ。その彼が、何も言わずに彼女の前から消えた。
なぜ。自分に何か落ち度があったのか。彼を怒らせることでもしたのか。彼に見捨てられるようなことをしでかしたのか。青美鶴の頭は、その理由を目まぐるしく探す。だが原因は分からない。
「叔父様、なぜ」
青美鶴は足をもつれさせ、その場にくずおれる。額に汗が滲む。張り詰めていた緊張の糸が、一気に切れかかる。
「だっ、大丈夫ですか、青美鶴様」
老秘書は慌てて家長の体を支えようとする。青聡竜に捨てられた。その思いが、彼女の心を閉ざし始める。青美鶴の目からは生気が失せ、四肢からは力が抜け、体は胎児のように丸くなろうとする。青聡竜は彼女の心の支えだった。
青美鶴は、舟大家の家長の跡取として、幼少の頃から青捷狸に英才教育を施された。歴史、地理、経済、文学、ありとあらゆる分野の教育を、無数の教師の手によって叩きこまれた。彼女の零歳から十歳は、徹底した管理の下で進んでいった。十歳までの彼女はまったく笑わない少女だった。いつも底冷えする目で周囲を見て、近づく者を畏怖させる子供だった。聞けば全てを理解し、読めば自ずとその道に通ずる。神童と呼ぶに相応しい娘だったが、その心は氷のように冷えきっていた。
彼女の心を溶かしたのが青聡竜だった。白大国が建国されて十年後、白王に隠居を告げ、海都に帰ってきた青聡竜に、青捷狸は青美鶴の家庭教師をするように命じた。兄の言葉でもあり、家長の命令でもある。青聡竜は、自ら名を与えた少女の、教育全般を取り仕切ることになった。学僧市で学問の頂点まで上り詰め、長じては白賢龍とともに白大国を育て上げた男だ。これ以上の人物を師に仰ぐことは難しい。青捷狸は青聡竜に娘の面倒の全てを任せた。
青美鶴は、青聡竜が来てからようやく、自分が笑ってもよいことを知った。これまで厳重だった護衛の数も減らされた。数十の兵より、青聡竜一人のほうが腕が立つからだ。何より青聡竜が、そのような窮屈な環境を好まなかった。人にはそれぞれ、自分にあったやり方がある。そのことを理解していた青捷狸は、青聡竜に一任した以上はその方針に口出ししなかった。
笑うようになっただけでなく、彼女は表情も変わった。青く幽鬼のようだった少女の頬には薔薇色の赤みが差し、底冷えする目には温かく穏やかな光が宿るようになった。青美鶴は、少女から女性へと成長する間、青聡竜とむきあい、彼の背中を見て育った。青美鶴が青聡竜に思慕の情を抱くのも当然だろう。
その青聡竜が、自分を捨てた。
彼女の心の中で何かが壊れた。激務の中、唯一の心の支えが消えてしまった。海都を守るという言葉が、急に白々しく思えてきた。私は何をしているのだろう。そんな疑問が心の内に潮が満ちるように広がっていく。青美鶴は秘書から避けるように床を這い、部屋の隅で丸くなる。
「失礼します」
伝令が天幕への入室を求める。秘書は慌てて入り口にむかい、外で対応する。
「何だ」
「海風神社に行き、留守を預かっている白怖鴉殿に、青聡竜様の出立の理由を聞いてまいりました」
「してその理由は」
「白都に、白淡鯉様の安否を確認しに行くというのが、理由だそうです」
これは表むきの理由だ。白淡鯉崩御の話はまだ海都に届いていない。青聡竜は、史表の仕事で得た情報を秘匿するために、白怖鴉にそう答えるように言い残していた。
この天幕の外でのやり取りは、青美鶴の耳にも届いた。舟大家の商館の執務室のような防音設備はこの天幕にはない。秘書と伝令は、そのことを失念して話し合っている。
女性の許に行ったのだ。白大国の皇后の名前であるということまでは、呆然としている彼女は気付かない。単なる女性の名前として、その名前は伝わってきた。青聡竜は、私のことなどどうでもよく、心に決めた女性がいるのだ。彼女は涙を流す。
彼女の考えは、半ば正しく半ば間違っていた。白淡鯉の仇を取るために青聡竜は海都を離れた。だが、彼は青美鶴を見捨てて出て行ったのではなかった。
青美鶴は、天幕の隅で石のように身を固める。
「何ですと。青美鶴殿が今日は出席できないとは、どういうことです」
定例の五大家家長の会議に、舟大家の家長が欠席する。そのことを聞かされた青新蛇は不満を露わにした。
「理由は何ですか」
既に四大家の家長は集まっている。理由もなしに休まれたのでは仕事が止まる。青新蛇は舟大家の老秘書を問いただす。しかし、どうも要領を得ない。他の米、塩、布大家の家長たちも、興味深げに詰問する青新蛇と舟大家の老秘書を見ている。
「えー、少し、体調が優れませんで」
青新蛇は老秘書を睨む。他の三大家と話し合うことよりも、舟大家と相談して決めなければならないことのほうが多いのだ。少々体調が悪くても、来てもらわねば困る。
「この場に来れないほど、体調が悪いのですか。それでしたら私から訪問しましょう」
「いや、そういうわけでは。えー、いえ、今日は誰とも会えない状態でして」
老秘書は必死に言葉を探す。青新蛇は、その憐れな老人を睨む。
「それではまったく分かりません。直接行って確かめます」
金大家の商館跡の天幕から青新蛇は飛びでる。そのあとを舟大家の秘書が追う。青新蛇は馬車に行き先を告げ、すぐに乗りこんだ。慌てて老秘書が馬車に乗りこみ、事情を説明する。馬車の上なら、余人に聞かれることもない。
「何、青聡竜殿が海都を発ったことに衝撃を受け、塞ぎこんでしまっただと」
青新蛇は珍しく声を荒げる。舟大家の家長ともあろう者が何たる様だ。青新蛇はこめかみに青筋を立てる。所詮女だ。いや、若過ぎるのがいけないのだ。二十歳の小娘に勤まる要職ではない。あの抜け目のない青捷狸が、なぜ彼女のような脆い女性を後継者に就けたのだ。彼は怒りで顔を赤く染める。
馬車が舟大家の家長の天幕に着いた。青新蛇は荒々しく幕内に入る。部屋の隅では青美鶴がうずくまっている。彼女の表情は虚ろだ。全てがどうでもよい。そのような表情で涙を流している。
「この腑抜けめが」
青新蛇は平手で青美鶴の頬を力いっぱい叩いた。
「家長の仕事が勤まらぬのなら、その仕事辞めてしまえ」
吐き捨てるように大声を上げる。舟大家の家長は、海都を守るに足る人物でなければならない。そうでなければ、害悪以外の何物でもない。青美鶴は、わっと大きく泣きだした。気まずい雰囲気が流れる。青新蛇の心の中の、海都に対する情熱が彼女を打ち据えさせた。だが、何と後味の悪いことか。女性に手を上げてしまったことを青新蛇は後悔する。怒りも完全に冷めてしまった。老秘書が、どうすればよいのか分からず、天幕の中でうろうろしている。
「すみません」
青新蛇は誰ともなくそう言う。
「私は金大家の商館に戻ります。舟大家の家長に休養が必要だということは分かりました。今日はもう寝たほうがよいでしょう」
自らの行為を恥じながら、青新蛇は小声でそう呟き天幕を出た。太陽の光が、彼を非難するように降り注いでいる。金大家に戻った。四大家の家長で案件を処理していく。反対者はいない。青新蛇は、次々と目の前に出される決済事項を事務的に解決していく。心が重い。
「家長の皆様、舟大家の家長が到着しました」
金大家の家令が言伝を持ってきた。何か不安がっている様子だ。
「どうしました、青美鶴殿がいらっしゃったのですか」
あれほど塞ぎこんでいたのに、もう来たというのか。青新蛇は、何か腑に落ちないものを感じながらそう応じた。それよりも、この家令は何を恐がっているのだ。
「あっ、青美鶴様がいらっしゃいました」
家令は、舟大家の女家長の来訪を告げ、一目散にその場を逃げだした。入れ替わりに青美鶴が部屋に入ってくる。その目は冷徹に輝いており、表情は鉄の鋳型でも嵌めたように強張っている。顔は青白く、立ち居振る舞いは女王のように威厳を備えている。青新蛇と目が合う。その目には、魂を食われそうな、底冷えする光がたたえられていた。
他の大家の家長たちも、その目を見て驚く。彼らは、その目と同じ眼光を放つ人物を見知っていたからだ。この恐ろしい目で、人のよさそうな笑顔を始終浮かべている人物が、かつてこの会議の席にいた。舟大家の家長を父に持ち、海風神社の巫女の異能の血を引く男、舟大家前家長青捷狸だ。
「私が目を通す必要のある案件はどれですか」
いつもと同じ台詞なのに、その口調はまるで別人のようだ。布大家の家長は、まるで目上の者に接するかのように、書類を持って二十歳の娘の許まで走りよる。その書類を見ながら、青美鶴は適切な処置を書きだしていく。
誰だこいつは。
青新蛇は、背筋が凍りつくのを感じた。青美鶴の表情は、青聡竜に育てられた十歳以後のものではなく、青捷狸に鍛えられた十歳以前のものになっていた。童女の頃の彼女は、今のような眼光を発しながら、青捷狸の館の中で過ごしていた。
彼らの前で、彼女は凄まじい勢いで仕事をこなしていく。いつもの半分の時間もかからず、今日の仕事が終わった。
「さあ、青新蛇殿。海都の将来について話し合いましょう」
米、塩、布大家の家長たちは、逃げるように部屋から出ていく。部屋には、青美鶴と青新蛇だけが残された。金大家の家長は、脂汗を額に浮かべる。
「いいでしょう。何度でも、お互いが納得するまで話し合いましょう」
剣先を突きつけられたまま話すようなものだ。青新蛇は自分の精神力が削り取られていくのを感じた。豹変した青美鶴を前に、青新蛇はその日の議論を始める。議論は夜まで続いた。青新蛇は疲労で吐きそうになった。
翌日の朝、五大家の家長たちの許に、海都に白大国の土木軍団一万がむかっているという情報がもたらされた。
十一 広源市の死表
黒壮猿が、市庁舎を黒陽会の教会として購入してから既に数ヶ月が経つ。
教会の地上部では、多くの信者が礼拝を行ない、教団経営は順調に行っていた。最初はこの宗教に現金獲得を求めて入信してきた者たちも、次第に教義に感化され、自らの金を黒陽会に捧げたりしている。その信者たちが、黒壮猿と白王の一件を市中に広く伝えたため、この事件は多くの人々が知るところとなった。
あるいは白王が死ぬのではないか。白王が死んだあとのことを想像だにしていなかった人々は、それが遠い将来のことではなく、起こり得る未来だと気付き驚いた。そして、そのとき自分たちがどうするのかを本気で考えた。王国は継承者に引き継がれるのか、簒奪が行なわれるのか、新たな王国が生まれるのか、国は千々に分かれるのか。その思案は人々の心に不安を抱かせ、その不確かな現世を充填するために、新たな信者を黒陽会に走らせた。白大国は新興国である。磐石な王国と呼ぶにはまだ年数が足らず、絶対神聖なものとも人々は思っていなかった。
白王の死後の世界はどうなるのか。それが、目下の広源市旧市街の人々の関心事である。
この問題に答えを出し、人々を導こうとしている人物がいる。白王に禁言百一日の刑を食らった黒陽会の導師黒壮猿である。彼はその答えを導きだすために、教会地下で、ある作業を始めようとしている。死表と呼ばれる石板を建造するのだ。この、黒陽会の至宝とも呼べる錬金の秘法を行なうために、十数人の錬金術師が選ばれた。いずれもこれまで教会内で錬金術の腕を振るってきた経験豊かな者たちである。矮小な黒逞蛙もその一人として選出された。
集められた作業者の前に、黒壮猿は一つの石の欠片を置く。黒逞蛙はかつてその石を見たことがある。空華を作るときに覗き見た石だ。
「今から黒陽会の至宝、死表を作る」
一同がざわめきを上げる。この場にいるのは、いずれも上級信者や幹部たちである。上級信者以上ともなれば当然この名前を聞いたことがある。海都の教会の地下に、この秘宝があることも聞き及んでいる。唯一、上級信者に成り立ての黒逞蛙だけが、その存在をよく知らない。おずおずと手を上げ、黒壮猿に質問をする。
「あの、死表とは、一体何なのでしょうか」
周囲の厳しい目にさらされて、黒逞蛙は申し訳なさそうに首を竦める。
「死表とは、未来に起こるであろうことを知るための手掛かりである」
「未来ですか」
「そう。我ら黒陽会の教祖は、未来を見通す力を持っていたという。その教祖が見た世界を知る術が、死表という石なのだ」
「それでは、以前覗いた白王様のお姿は」
「そう、死表を通して見た世界の一つだ。死表は、大きさによって、得られる情報の量が変わる。小さい死表であれば、単一の情報しか得ることができない。しかし、巨大な死表ともなれば、必要な時機にしかるべき事柄を告げる予言の書となるのだ。死表は、黒陽の聖数に則った整数倍の大きさで作る必要がある。この小片が、その一単位となる大きさなのだ」
そういえば、以前見た錬金の書に、死表の二文字は載っていた。
「あの、海都にも死表があったのですか」
「そうだ。海都の教会にも死表はあった。死表は、単一の質問の回答だけを延々とその表面にひびのような文字で刻んでいく。大きければ大きいほど、より多く、答えを返してくれる。表面が全て文字で覆われれば、その死表は役目を終える。そして錬金術師が覗きこめば、その詳細を映像として見ることができる。海都の死表は、歴史上の偉人が死ぬ時を、その表面に刻み続けていた。私が白王の死の予言を行なったのも、その死表のお告げをかつて読んだことがあるからだ」
黒逞蛙は腰を抜かしそうになる。そんな不可思議な物がこの世の中にあるのか。
「これから皆には、この最小単位の死表を参考にして、それぞれ死表を作ってもらう。死表の数は多ければ多いほどいい。それだけ多くの質問ができることになるからだ。海都には一つの死表しかなかった。この地ではより多く死表を作り、死表の力を海都以上に引きだす予定だ。他に何か質問は」
一同は既に全てを知っているように黙りこくっている。黒逞蛙には、まだ分からないことだらけだ。
「あの、どうやって作るのでしょう」
黒壮猿は一冊の本を取りだした。死表製造と書かれた本である。
「さあ、皆の者、死表の製造に取りかかるのだ。見事成功した者は、上級信者は幹部に、幹部は導師の資格を授けてやろう」
黒逞蛙は身の内が震えるのを感じた。願ってもいない昇進だ。だが、成功した者は、と断るぐらいだから、失敗する可能性も高く、危険も伴うのだろう。
「さあ、仕事にかかれ。期間は一ヶ月だ」
黒逞蛙は最初の一週間を、死表製造の読みこみと、関連知識の勉強に費やした。次の一週間は材料の入手に、残りの二週間は死表の製造に充てる予定だ。
錬金術の書を読み、死表の製造方法を読むにつれ、黒逞蛙はこの奇妙な物体が何なのか朧気ながら分かってきた。ある種の受信機なのだろう。その大きさに規定があるのは、特定の波長を受け取るために、波長の製数倍の大きさを取る必要があるからだ。
波長。この言葉と概念は、最近錬金術の書を人に隠れて読んでいるときに知った。どこかから発せられる波動を死表は受け、聞かれた質問の回答をその表面に刻む。誰かが質問に答えているのだろう。それは超自然の存在ではない。人の文字を書くのだから人間だ。この大陸のどこかにいる何者かが、黒陽会の問いに答えを返しているのだ。
一体どういった人物が交信相手なのか。黒逞蛙は、黒陽会の信者の問いに答えるのに相応しい存在をたどっていき、最終的に一人の名前を思い浮かべる。黒円虹。黒陽会の創始者であり、黒都を無類の繁栄に導いた男である。百年以上前に活躍した人物のはずだ。さすがにもう生きてはいないだろう。黒逞蛙はその思案をそこで打ち切った。
一ヶ月後。まだ禁言百一日の刑は続いている。黒壮猿は黒陽会の教会地下の工房で、錬金術師たちの成果を確認した。製造半ばで崩れてしまった死表、規格を満たさず作動しない死表、そもそも形を成していない死表。無数の失敗した死表が、墓石の群れのように、作業場に並んでいる。その中で三つ、美しい光沢をした、黄金比の石板が見える。大きさはまちまちである。製作者それぞれの錬金術の腕により、目指した完成品の寸法が違う。
その三つの死表の中に、黒逞蛙の作った物もあった。最も小さな石板である。それほど自分の腕に自身のない彼は、ともかく仕上げることを最優先して、始めから小さい物しか考えずに作業を進めた。それが功を奏した。大人が片手で抱えられるほどの小振りな石板が、彼の作品だった。
「三つ。まずは成功と見てよいだろう」
黒壮猿は、数十の失敗作を嘆くより、三つの成功作を湛えた。二人の幹部が導師の階級に昇進することを告げられた。彼らはいずれ、広源市の信者の中から特に敬虔な者を率い、新たな都市へ布教しにいくことになる。また、黒逞蛙も幹部へと位階を上げた。
「みっ、身に余る光栄です」
他の上級信者たちの羨望の眼差しを浴びながら、黒逞蛙は深く頭を下げた。
「それでは、今から二つの質問を行なう」
黒壮猿の宣言に、その場の全員が身を硬くする。三つの死表の二つを今から使う。残る死表は一つになる。
黒壮猿は歌うように口から音を鳴らし、ある音階を刻み始める。丁寧に音を調整して、探るように声の響きを変えていく。死表が共鳴する。起動し始めたのだ。
徐々に声を落とし、黒壮猿は完全に声を止める。しかし三つの黒い石板はなおも音を発し続けている。次第にその音は倍音成分を重ねながら音階を高くしていく。ついには人の耳には聞こえないまでに高くなった。その滑らかな表面が、超高速の振動のために虹色に光を反射する。まるで生きているかのように、その光彩は縞を描き全体を包みこむ。
黒壮猿は、三つの石板の内、真中の大きさの物の前に立った。
「我は問う。師よ答え給え。この大陸を統べる王とは誰か」
死表の表面に浮かぶ斑紋が様々に姿を変え、部屋全体が小刻みの振動を起こす。その表面から光が失せ、石板は沈黙した。しばしの時間が経ったあと、石の表面に亀裂が走る。その亀裂は筆で文字を書くように、三つの文字を刻んでいく。
白賢龍。
と同時に、その場にいる錬金術師たちは、白王の姿を死表を通して見た。全員が声を上げる。黒逞蛙は一ヶ月前の恐怖を思い出し、思わず頭を覆う。
黒壮猿は、食い入るようにその文字を見ている。まだ何か変化が起こるというのだろうか。石の表面に刻み目が入り、さらに新たな文字が生じる。
赤栄虎。
その名が現れた。白賢龍が倒れたのち、赤栄虎が大陸を統べる王となる。その託宣が彼らの前に示された。彼らを統べる導師は満足そうな笑みを浮かべる。予想通りだ。やはり赤栄虎が次の王だ。彼らの目には、見目麗しい赤族の王の姿が浮かんでいる。
黒壮猿は歩を移す。そして、黒逞蛙が作った小さい死表の前に立った。二つの死表はまだ七色に輝いている。
「我は問う。師よ答え給え。我らが、新しい王に会うのに、最も望ましい場所はどこか」
石板に無数のひび割れが走る。道順だ。広源市から、質問した場所への道筋が、箇条書きで記されていく。石の破片が飛び散り、鋭い音が鳴り、ひびが縦横無尽に広がっていく。その不可思議な様を、黒陽会の錬金術師たちは見つめる。石板のむこうに、景色が広がる。刻まれた答えの場所が見えているのだ。この場所に、赤栄虎が現れるのだろう。
黒壮猿は小さい死表を取り上げ、周囲に対して示す。
「さあいよいよ、我ら黒陽会が大陸を覆う宗教として飛躍するときがくるのだ。これまでのように人目を欺き、細々と錬金の技術を伝える、小さな宗教として過ごす必要はなくなる。ときに人知を凌ぐ業は、権力者の弾圧を招く。我らはそのことを恐れ、必要以上に我らの知識を外部に漏らすような行動を控えてきた。だがこれからは違う。時の権力者の後押しを受け、遺憾なく力を発揮し、一気に大陸を制覇するのだ」
喝采が湧き、黒壮猿はさらに熱弁を振るう。
「さあ、この地を目指そう。我らの新たな時代の幕開けだ。まだ、世の人々は知らない。この男が、白賢龍亡き後、大陸を覆う王となることを」
石板を左腕で持ったまま、黒壮猿は歩きだす。そのあとを、黒陽会の錬金術師たちが続く。広源市を出るときがきた。死表の予言を元にした彼らの大陸制覇計画がいよいよ始まる。伝説に残る演出を施し、彼らに有利な歴史を作る必要がある。未来を知る彼らこそ、その仕事に相応しい。最も巨大な死表を部屋に残したまま、彼らは地下工房をあとにした。
十二 夜襲
草原での本格的な戦いが始まった。白惨蟹の軍団が、草原に人馬、荷駄を侵入させてきたからだ。
白惨蟹たちの最初の目標は、塩湖や岩塩窟など各重要拠点に砦を築くことである。これらの工事は一つずつ順番に行なう。兵を分散すれば、赤族に各個撃破を許してしまうからだ。十万の軍の警備の下で、砦建設は順次進められる。
閉腸谷を発った十軍団の内、九軍団が最初の塩湖へとむかう。残り一万は千ずつに分かれ、別の任務を帯び、先行して草原にむかっている。この九万人の荘重な軍の行進は、城がそのまま草原を移動しているように見えた。見えるだけではない、この軍団は城壁はないものの、平城に近い機能を備えている。
軍の周囲には馬防柵をすぐに展開できる荷馬車が走り、その一層内側には巨大な弩を無数に搭載した馬牽きの戦車が用意され、四隅には移動式の望楼車があり周辺を警戒している。歩兵は巨大な盾と、長大な槍を持っており、騎馬兵の中には、矢を通さぬ板金鎧を人馬ともに着こんだ重騎兵の姿も見える。
九軍団は、縦三つ、横三つ、の正方形の布陣で進んでいる。ただし、これは上空から見た場合の見え方だ。起伏の乏しい草原の地では、巨大な壁が動いているようにしか見えない。広闊な場所でしかできない軍の移動方法だ。
その陣容を、遠方を見渡せる赤族の目で見ている男が三人いる。
「こいつを昼に攻めるのは無謀だよな」
その場にいる三人の中で、最も身分が高いと見える男が、白大国軍の威容に呆れ、声を漏らす。
「そうですな。外馬兵の遊撃の時機を探るための偵察でしたが、これだけ厳重な軍だと、どうしたものかと考えてしまいますな」
「夜襲しかありますまい」
従っていた二人が言葉を続ける。
「そうだな、夜陰に乗じ、できるだけ近づき、外馬兵で攻撃をしかける。迎撃に出てきた兵を、赤族の兵で叩きながら、外馬兵は逃げる。外馬兵が逃げ終わったら、赤族も離脱する。それしかなさそうだな。
草原とて、まっ平らなわけではない。わずかな起伏がある。昼なら影響がなくとも、夜なら兵の進退に活かすこともできる。決定的な効果はないが、そうやって敵の戦力を削いでいくしかないだろう」
二人を率いている男が、敵軍を見ながらそう告げる。二人は頷く。白大国の軍が、夜間火を点け周囲を警戒していることは確認済みである。その光を目印にすれば、攻撃を仕掛けるのも難しくない。
「しかし、赤眩雉様。その服はどうにかならんのですか」
付き添いの一人が、上司であろう人物に対して不平を漏らす。赤族らしからぬ、派手な衣装を着こんでいるからだ。
「どうだ、これなら立派に見えるだろう」
どこで求めてきたのか、この男は平原の諸侯が着こんでいるような意匠を凝らした衣をまとっている。
「赤族には、赤族の流儀があるのですぞ」
赤眩雉を諭すように、馬上の部下が諫言する。
「お前たちは分かっていないな。白族や黄族というものは、服装で相手の格を図る。中身などは二の次だ。だから、外馬兵への連絡係に任命された俺が、こういった服を着ておけば、奴らのために高い地位の官吏を派遣したように見えるだろう。そうすれば彼らは満足し、奮起して働くというものだ。お前たちは人の心の機微というものを分かっていない」
胸を張りながら赤眩雉は主張する。だが、二人は知っている。赤眩雉は外馬兵が来る遥か以前から、このような服を一人着ていた。それを、我が意を得たりとばかりに、後付けの理由を述べている。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
「いつものことですから」
呆れ顔で一人が呟き、もう一人が同調した。
「おいこら、なんだ、その馬鹿にしたような顔は」
赤眩雉はしかめっ面をする。二人は議論するのも馬鹿らしいと無視を決めこむ。
風が吹いた。草がそよいで揺れる。
「むっ、髪が乱れたか」
洒落男は懐から袋を取りだし、植物の種から搾り取った油を指先につけて髪に塗りつける。その髪は冠のように見事にまとめられている。
「さあ、我らを待つ外馬兵たちの許へ行こうではないか。夜襲は明日の晩から開始だ。敵に、四方どこから攻められるか分からない恐怖を味わわせてやろうぜ」
二人は頷く。三騎はむきを変え、その場をゆっくりと立ち去った。
赤堅虎の天幕の周辺では、無数の兵士たちが戦の準備を進めている。赤族の兵士だけではない。外馬兵の姿も見える。その外馬兵の部隊の一つに、黒陽会の使者である黒暗獅も属している。白大国の地にいれば、赤族側から見た戦争の様子を知る術はない。彼の師の黒壮猿は、黒陽会はいずれ赤族と手を結ぶだろうと言った。ならば、この陣で武器を振るい、ことの成り行きを見届ける役目を負う者が必要なはずだ。
黒暗獅には、兵を指揮する才能はない。しかしその棒術は一般の兵士の実力を遥かに凌いでいる。自然、達人として一目置かれるようになり、今では外馬兵の部隊の一つで部隊長の護衛を任されている。その部隊長の元に、一人の赤族の使者がやってきた。王侯のように派手な服装の男である。
「部隊長殿、襲撃は明日の晩より開始します。あなた方の部隊には、敵を強襲する最も大事な仕事をお願いしたいと思います」
「おう、任せておけ。我らが全力、白大国の軍団にぶつけてくれるわ」
扱いやすい。赤眩雉は心の中で笑う。部隊長は、かつて白賢龍に滅ぼされた国の王だ。このような支配者崩れがこの外馬兵には無数にいる。そして、彼らは概しておだてに乗りやすい。
襲撃の報に興奮する男たちの中で、一人冷ややかに周囲を観察している男がいる。何者だ。黒い質素な衣服に身を包み、棒を持ち背を伸ばしている長身の男だ。その男の持つ棒の先端に、赤眩雉の目が止まった。棒は長さからすれば長めの杖という感じであるが、その先に太陽の象眼が施された金属の塊が付いている。今回の旅に出る前、黒暗獅が黒壮猿からもらった黒陽会の紋章である。
光物に目がない彼の目は、その細工と男の姿を見比べる。黒服の男の身なりで持てるような代物ではない。この男も貴族崩れなのか。だが、そのような気品を持ち合わせていない。見たところは武人のようだ。少し心に留めておこう、彼はそう思った。
赤眩雉はうやうやしく部隊長にお辞儀をして、その場を立ち去る。回らなければならない部隊は多い。一ヶ所で時間を使い過ぎるわけにもいかない。彼は馬の脚を早め、次の場所へとむかった。
赤堅虎の天幕に、赤族の武将が荒々しく入ってくる。通胸路で白緩狢軍の伏兵の反撃に遭った赤熱鷲である。
「赤堅虎様、兵たちの噂を聞きましたぞ」
「どうした、何かあったのか」
周囲に護衛を従えた老将が、床机の上から返事をする。
「何やら凄い矢を貰ったそうじゃないですか。その矢を俺に下さらぬか。白王の野郎を仕留めてやりますぞ」
「そんなに簡単に白王の許までは、たどりつけぬだろう」
「問題ございません。帰ってこないつもりで敵に切りこめば、何とかなるでしょう」
「だが、計画されている作戦は夜襲だぞ。夜だと、白王がどこにいるかも分からんだろう」
「ぐぬぬ」
勢いで赤堅虎の許まで来たものの、あまり複雑なことまで考えていなかった赤熱鷲は頭を抱える。突撃していき、敵の軍団のど真ん中まで行けば白王がいると思っていたのだ。だが、夜なら確かに相手の姿が見えないかもしれない。赤熱鷲は答えに窮する。
「あの、明日の昼に一度、敵の攻撃能力を計るために、攻めてみるというのはいかがでしょうか」
同じく天幕に献策をしにきていた、赤爽鷺という青年が口を開く。
「それだ。赤堅虎様、明日、わしに例の何とかという矢を射たせてください。何、見事命中させてみせます」
戦好きのこの男は、必死に懇願する。彼らは白王が草原の軍団の中にはいないことを知らない。これだけ巨大な軍なら、当然白大国の王が率いている。そう思って話をしている。赤栄虎のいない赤族の軍は、どうしても情報を軽視した行き当たりばったりの作戦を採用してしまう。
「ふむ、まあ、それで白王が死ねば拾い物だな。よかろう。紫雲を一本、お前に授けよう」
「ははっ、必ずや白王を貫いて見せましょう」
赤熱鷲は一礼し、陣幕をあとにした。
翌日早朝。赤熱鷲以下百名が九万の軍に挑むために出発した。天は晴れ渡っており、一行は軽口を叩き合いながら進んでいく。行楽にでもむかう気軽さで、百人は白大国の九万の兵にむかっていく。目標は、軍中央にいるはずの白王である。紫雲という矢は通常の矢の三倍の飛距離はあるだろうと赤堅虎は言っていた。ならば、近くまで寄り、軍の外周から矢を放ち、逃げだせばよい。百人はそのための護衛の軍といえる。そのついでに敵の詳細も偵察してくればよい。
「よし、行くぞ」
赤熱鷲は馬を駆けさせた。
馬上の白惨蟹に赤族来襲が告げられる。彼は行軍のために軽装の鎧と外套を付け、軍の中央を進んでいる。鎧の表面には白銀の細工が施されており、軽装とはいえその存在感を周囲に示している。
「数は」
「百人です」
「奴らは馬鹿か」
白惨蟹は吐き捨てる。
「十分に引きつけ、弓と盾だけで対処しろ。百人を撃退するために、我が軍の戦闘能力を悟らせるのは割りに合わん」
伝令が左手の軍団にむかって駆けていく。白惨蟹はその方角を睨む。胡麻粒ほどの一団が、巨大な城にむかってはしゃいでいる。そのようにしか見えない光景だ。
「ふんっ、貴様らごとき眼中にはないのだ」
彼が相手にしているのは白賢龍であり、彼が目指しているのは白王亡きあとの白大国の簒奪だ。赤族退治などは、その片手間に過ぎない。左を見ながら馬を進める。百人が一万の方陣にむかって突撃を開始した。左翼の軍から、無数の矢が放たれる。その矢を丸盾で弾きながら、赤族の兵士たちは一丸となって突っこんでくる。自滅する気か。白惨蟹は、冷めた目でその様子を見つめる。
そのとき、何かが赤族の集団の中で煌いた。何だ。光の尾を引きながら、何かが宙に浮きあがる。その光は、まるで自力で飛翔しているように空を舞い、白惨蟹へとむかってきた。まさか、この距離で届くというのか。彼は戦慄する。馬を巡らせて逃げる暇もない。慌てて彼は両腕で頭部を覆いながら、馬上から飛びのこうとした。左腕に激痛が走る。鎧と腕を貫き、顔に刺さる寸前で矢が止まる。
「白惨蟹様、大丈夫ですか」
周囲に兵が集まってくる。彼らは矢が飛んでくる様子を目撃していなかったため、白惨蟹がただ落馬したとばかり思っている。白惨蟹は腕を押さえて立ちあがる。
「どうなされました」
「いや、何でもない」
彼は、矢の刺さった腕を外套で隠しながらそう答える。外套の内側で矢を引き抜き、懐にしまう。そしてすぐにまた馬の背へと上る。
「赤族の兵たちはどうした」
「はっ、逃げだし始めました」
何をしに来たのだと何人かが笑う。白惨蟹は、手拭いを取りだし、外套の下で左腕の傷を縛る。あまりにも鋭い矢であったため、血はほとんど流れていない。
「追撃は必要ないと伝えよ」
指示を出しながら白惨蟹は思案顔になった。敵の行動を見るに、この矢を放つために近づいてきたと思える。この距離を易々と狙えるという報告は今まで一切なかった。このことは、白大国の、少なくとも白王の知識にはない。使える。白惨蟹は馬上一人、笑みをこぼした。
夜。白惨蟹は天幕内の寝台に横たわり、懐から矢を取りだす。灯火の暗い光の中、矢は薄く輝いている。初めて見る材質だ。この矢であれば、あの距離を飛ぶのも頷ける。暗殺に最適の矢だ。
しかし。
白惨蟹は考える。一本しか放たなかったということは、数が少ないのだろう。赤族がこのような矢を作る技術があるという報告は入っていない。彼らが持っていても数本というところだろう。もしかしたら、この矢しか持たないのかもしれない。いや、そうならもっと慎重に使うはずだ。
昼にこの矢を見た配下には、厳重に緘口を命じてある。子飼いの部下たちだ、話は外に漏れることはない。白王の耳にもこの矢の存在は伝わらない。赤族がこの矢を使い白王が死ねば、誰も白惨蟹を非難する者はいないだろう。不可抗力だ。防ぎようがない攻撃だ。
そろそろ俺が立つべきときが回ってきたか。白惨蟹はほくそえむ。この草原での戦いの間に、白賢龍の命を奪うことを考えていたが、白惨蟹に嫌疑がかからないように白王を殺す手段をまだ見つけられずにいた。白賢龍は普通の戦闘で殺すことはまず不可能だ。接近戦でも無類の強さを誇る。毒殺も難しい。生半可な暗殺者よりも、白賢龍のほうが毒物薬物の知識がある。
遠距離からの狙撃、それしかない。それは考えていた。だが、その警備の責任を自分に問われては困る、そこで手詰まりになっていた。できれば、誰もが納得のいく理由で白王を葬りたい。
この矢で、警備の網の外から白王が狙撃されれば、それは予定の範囲外となる。
「見渡しの利く草原で、白王に兵たちへの激励をしてもらわねばならぬな」
雨季が明けた頃がよいだろう。雨季で下がった士気を上げるためと言えば衆人が納得する。草原に最初に築いた砦に白王を招き、兵への激励をしてもらう。その情報を、赤族に予め漏らしておく。これ自体は漏れる可能性のある情報だ。わざわざ漏らさなくても、警備を厳重にすれば、察しのよい者なら気付く程度のことだ。
白惨蟹は笑みを浮かべる。
失敗しても白惨蟹には無関係、成功すれば新たな王を立てる。白麗蝶、白大狼のいない今、反対派を握りつぶすのも容易だ。よし、その筋書きでゆこう。
「白惨蟹様、夜襲です」
天幕に千人長が飛びこんでくる。白惨蟹は光る矢をふたたび隠す。
「敵の数は」
「不明です。少なくとも五千。一万には達していないと思います。歩兵中心の部隊です」
「歩兵だと」
赤族の軍団であれば、騎兵が中心になるはずだ。自軍の周囲には夜間、馬防柵を巡らせている。だが歩兵であれば、機を見て引き倒し、よじ登り攻め入ってくるだろう。
「ちっ」
白惨蟹は寝台から飛び降りる。夜は装甲を解除しているので重騎兵も使えない。近づいてきた兵士を一掃するために用意していた重騎兵が使えないのは痛い。弩戦車も、赤族の主力を叩くまではその射程距離を悟らせたくない。となると、歩兵で対処することになる。
「敵は歩兵なのだな」
「はい」
「各軍団に重装歩兵を二千ずつ組織させ、馬防柵の周囲に打って出させろ。また、支援のための弓兵を千、その支援に当たらせろ。馬防柵の内側は城内と同じだ。柵の内周には夜の警備兵千人がいる。この千人は動かさず、それ以外の兵で先述の数を至急用意し、対処せよ」
千人長は頷き天幕外にむかって駆ける。白惨蟹は服を着替えながら考える。赤族の地に、様々な亡国の残党などが流れこんでいると報告を受けていた。そいつらか。所詮雑軍。すぐに捻り潰してやる。白惨蟹は天幕の外へとむかった。
「赤堅虎様、戦いが始まったようです」
「うむ、白王は仕留められなかったからな。この夜襲で兵を減らして有利に持っていきたいところだ」
赤族の兵たちは、草原のわずかな起伏に身を潜めて動向を見守っている。外馬兵は意外に活躍し、馬防柵を引き倒しながら、柵から出てきた兵たちと激戦を繰り広げている。もう少し立てば彼らは退き、代わりに赤族の騎馬兵が雪崩のように攻めこむ手筈になっている。一瞬にして戦う敵の種類が入れ替われば、敵は戸惑うはずだ。赤堅虎たちは息を潜め、その瞬間を待っている。
「戦え、戦え」
外馬兵の部隊長が叫ぶ。黒暗獅はその部隊長の周囲で棒を素早く振るう。先端についた黒陽会の紋章が血で赤く染まっている。その鉄より硬い金属塊は、盾を割り、鎧を貫き、敵の命を奪っていく。
「黒暗獅、そこだ、そこの兵も殺れ。さすれば馬防柵の内側まで入れるぞ」
一瞬の内に数人の顎が割れ、額が砕け、喉が潰される。黒暗獅の参加している部隊が柵を引き倒し白大国の軍陣に侵入する。意外に脆い、全員がそう思い足を踏みこんだ瞬間、無数の矢が飛んできた。支援のための弓兵が到着したのだ。
「退け、退け」
部隊長が声を上げる。全員が慌てて踵を返し、草原の闇にむかって我先にと散じる。歩兵と弓兵がそのあとを追う。あちこちで外馬兵の部隊が崩れ、個々の兵が離脱していく。その離脱兵を追撃している白大国の兵の体に無数の矢が刺さった。馬蹄が轟く。赤族の騎馬軍団が追撃兵目掛けて襲ってきた。白大国の兵から見れば、闇から突如、騎兵が現れたように見える。対して赤族の兵からは、明かりを背後に影絵のように兵士の姿が浮き上がっている。
たちまち悲鳴とともに屍が作られる。白大国の兵たちは、必死に柵の内側へと引きかえす。逃げ遅れた者たちが次々と赤族の餌食になっていく。あらかたの兵が帰陣したのち、騎兵は闇へと戻った。
朝になった。
「昨夜の損害は、歩兵三千、弓兵五百。敵兵の死者の数は三百」
「我が軍の被害は思ったより多いな」
機嫌が悪そうに白惨蟹は言う。
「歩兵撃退用の軽騎兵部隊を組織しておけ。それと夜の見張りの弓兵の数を増員しておけ。昨晩と同じ攻め方が通じないことを思い知らせてやる」
それから数日、赤族の夜襲は続いた。火矢を使っての焼き討ちも試みられたが、赤族は二日目以降、決定的な戦果を挙げることはできなかった。
白惨蟹の兵十万の内、一万だけは別の動きをしている。千ずつの部隊に分かれ、塩湖や岩塩窟などの周囲に種蒔きをしているのだ。各部隊には、元白晴熊の部隊の部下たちが、道案内人として同行している。白晴熊自身も、白惨蟹が最初にむかっている、最大の塩湖の周囲に派遣されている。
塩湖の周囲といっても、湖の間近にはそもそも植物は生えていない。塩分濃度が高すぎるために、まともに植物が育たないからだ。わずかに塩耐性を持つ草本類や苔類だけが所々に顔を覗かせている。この不毛地帯の外周を取り囲む草原に、鋸瞬草の種を蒔いている。最初の実験の結果、この草が最も勢力を広げていることが確認されたからだ。
雨季が終わり、植物が入れ替われば、これらの土地の周囲は馬が食べられない草で覆われる。このことが何を意味するのか、そのことを理解している人間は、実作業を担当させられている者たちの中にはいない。
遊牧の民は羊や馬を連れて移動し、生活している。彼らは塩湖にむかうとき、家族全員でむかうことはない。なぜならば、塩湖に近づき過ぎれば、羊や馬に草を食べさせることができないからだ。そのため、塩湖に近づく場合は、集団の中から数人が選ばれ、塩取りにむかうことになる。
その塩湖に白大国の砦が築かれればどうなるか。赤族の者が小人数でその地にむかうことは不可能になる。そうすると、塩を得るたびに軍団を組み、攻めこまねばならなくなる。草原の民は小規模な集団が各地に散らばることにより、遊牧という生活を成り立たせている。あまり近づき過ぎると、草原を家畜が食い尽くしてしまうからだ。その離散の前提が危うくなり、密集を強要されるようになる。
鋸瞬草が生育すれば、塩を入手するまでの距離は長くなり、赤族の危険は増す。さらに、塩を得るときには、塩を取りにいく兵士だけでなく、帰りを待つ女子供を守るための兵士も必要になる。塩を入手するたびに二つの軍団を編成しなければならなくなるのだ。赤族の行動、生活は著しい制限を強いられることになるだろう。彼らの出没地も想定しやすくなる。
鋸瞬草で草原全土を置き換えるには時間がかかる。しかし、重点的に種を蒔くことで効果を発揮する場所は存在する。それが塩湖や岩塩窟の周りなのだ。
軍隊というものは、通過経路さえ限定してしまえば比較的容易に損害を与えることができる。海軍のことを考えれば分かりやすい。大海で戦う海軍が、相手の位置をなかなか把握できず、決戦の機会を逃すというのはよくある。しかし、港を中心とした移動線上であれば、待ち伏せ、奇襲などの戦術も展開しやすくなる。
塩の産出地を押さえ、その周囲への赤族の侵入を困難にすることで、白王は草原で海軍の戦い方を適用できるようにするつもりなのだ。塩湖、岩塩窟を草原の寄港地と見なすことで、赤族の自由を奪い、戦い方の基盤を変える。水軍、水運を駆使して白大国を巨大化させた王ならではの思考法だ。敵の補給地を叩く。補給地が固定的でない相手なら、補給しなければならない資源を無理矢理作らせる。この白王の考え方を理解している赤族は一人もいない。白大国でも理解しているのは、軍団長以上の人間ぐらいであろう。
「しかし、軍隊というのは、農民と同じことをやるんだな」
農民出身の白大国の歩兵黄慎牛は、種を蒔きながら呟いた。広源市に行き軍隊に入り、播種部隊に配属された彼は、農村で行なっていた作業と同じことをしている。村を飛びだせば世の中が変わるかと思ったのだが、どうやらどこに行ってもやることは同じらしい。
左手に抱えた籠に右手を入れ、一掴みの種を周囲に投げる。種はきれいに孤を描き、周囲に満遍なく広がる。我ながら上手いと思う。だが、思い描いていた軍隊とは、いささか違う気もする。
「はああぁ」
やる気のないため息を吐きながら、黄慎牛はふたたび籠の種を握った。
十三 反撃
赤族の本営でも、ようやく白惨蟹たちがむかっている場所がどこなのか分かってきた。草原最大の塩湖である華塩湖と呼ばれる土地である。塩が結晶化している様子が花畑のように美しいため、この名で呼ばれている。
この地は、多くの赤族の遊牧民が、年に一度は訪れる場所である。そのため祖先を祭る祠堂をこの地に設けている一族も少なくない。この場所に敵軍が侵入すれば、多数の者が動揺するだろう。
「できれば、華塩湖以前に有効な打撃を与えたいものだな」
そう赤堅虎が言うのも、赤族の心情を考えれば当然といえる。少なくとも、何もせずに奪わせるわけにはいかない。
「いよいよ決戦ですか」
だが、周囲の者たちがそう言ったのは、軽率であると非難せざるをえない。打撃を与えるのと決戦をするのでは話が大きく違う。
連日の夜襲で白惨蟹の軍が有効な反撃をしていないといっても、敵は八万を越す大軍団だ。彼らは敵を侮り過ぎている。
夜襲では、馬防柵のために有効な打撃を与えることができない。打撃を与えるには、殻から身を出し、移動している最中を狙うしかない。つまり昼日中、白日の下に身を晒して戦う必要があるのだ。
「敵の側面や背面から攻撃し、敵を誘いだし、一気に叩いてしまいましょう」
赤爽鷺という最近本営に入った軍師志願の若者が案を述べる。発言は勇ましいが、策はまだ拙い。白惨蟹の軍は、最初の夜襲では誘いだされてしまったが、それ以降は誘導には一切乗っていない。昼の攻撃で都合よく動いてくれる保証はない。
「挟撃などどうでしょう」
他の者からも意見が出る。だが挟撃とは、相手との接触面が限定できるときに始めて威力を発揮する戦術だ。自在に軍を運用できる場所で、数倍の兵を持つ敵に対して適用できる作戦ではない。赤堅虎の帷幕には、策を弄することに長けた者は残念ながらいない。
最終的には、四囲から圧力をかけ、自軍を撤退させながら敵を離散させ、反転して叩くという作戦に決まった。彼らは白惨蟹が用意した兵器を全て知っているわけではない。白惨蟹はまだ手の内を全て見せていない。赤族たちは、これまでの夜襲の経験を元に、敵の戦力を推測するしかなかった。決行は三日後、そう決まり、各軍団へと指令が伝えられた。
外馬兵への伝達のために、美服の赤眩雉の許にも作戦概要が伝わってきた。昼間の決戦、と聞いて彼は首を傾げる。夜襲で気をよくした赤堅虎の周囲が、そのことを決めたのだろうか。
「どうしたんですか赤眩雉様。決戦ですか、腕が鳴りますな」
彼の部下が興奮しながらそう告げる。
「おいおい、これだから田舎者は嫌なんだよ。白大国ってのは、擦れっ枯らしの軍団長ばかりが兵を率いている国だぜ。そんな馬鹿正直な作戦に引っ掛かるわけがないだろう」
「でも、初日の夜襲は大成功したじゃないですか」
「あの程度の損害、白大国は痛くないはずだ。だって、奴らはいくらでも兵の補充が利くのだからな。それに二日目以降、ほとんど夜襲は効果を上げていないじゃないか」
「大丈夫、勝てます、勝てます」
彼の部下二人は大笑いする。
これはやばい、赤族の者たちの多くは勝てると思いこんでいる。赤眩雉は冷や汗を掻く。これはいつでも撤退できるようにしながら戦わねばならないな。いくらなんでも敵を侮り過ぎだ。
「ああ、こんなときにこそ、赤栄虎様がいてくれないと困るんだがな」
赤眩雉は、赤族の若い族長の姿を思い浮かべた。彼ならば、白大国と騙し合いをしても引けを取らないだろう。文明を渇望し、王侯の衣装を真似る赤眩雉にとっては、諸国を放浪して見聞を広め、一国の王にも引けを取らない経験と知識を身に付けている赤栄虎は憧れの存在だ。彼は大陸遠征部隊に志願したのだが、残念ながらその選に漏れた。理由は、隠密行なのに目立ちすぎる、だった。
「白王が倒れ、赤栄虎様が白大国を乗っとってくれれば、俺も本当の貴族の衣装を着れるのになあ」
「あはは、赤眩雉様。あなたは服のために国を盗る気ですか。それに、赤栄虎様が白大国の王になりたがるかどうかも分かりませんぞ」
「そうだよなあ。俺たちは草原に閉じこもって生活する一族だからな」
洒落者は大きく息を吐く。
「外馬兵に、作戦を伝えに行くか」
赤眩雉は馬に足を入れ、外馬兵の部隊へと駆けだした。
三日後。
白惨蟹率いる九万弱の兵の周囲に、赤族の軍団が現れた。既に赤栄虎が決めた軍制は乱れ、赤族の騎馬兵と外馬兵が互い違いに円環を作って大軍を取り囲んでいる。
「ようやく全軍で来やがったか」
周囲を見渡しながら、白惨蟹は会心の笑みを浮かべる。相手を騙まし討ちする作戦や兵器は、一つの戦争で一回しか効果はない。白惨蟹はそう考え、新しい戦には新奇な作戦、最新の兵器を必ず一つ以上導入するようにしている。彼は自領にそのための研究機関や兵器工房を持っている。
「戦場は実験場、俺の戦は毎回進化する」
夜襲が連夜続く草原の天幕の中で、白惨蟹は司表の部下白頼豹にそう告げた。その実験が今から始まろうとしている。
赤族の陣営では、赤堅虎の号令を全員が固唾を呑んで待っている。久しぶりの赤族らしい戦闘である。全員がこの戦いを早く始めたがっている。
「全軍突撃」
草原に声が響き渡り、包囲の輪が縮み始める。
「よく引きつけるのだ。馬防柵は開けたままでいい。馬防柵を積んだ荷馬車の陰に弩戦車を隠し、敵の接近を待つのだ。奴らは我らの武器の射程を知らない。そこが奴らの浅はかなところだ」
赤族の陣営にいた者たちのほとんどがこの戦闘に参加している。族長代理の赤堅虎も馬上駆けている。その周囲には自らの足で走っている赤高象や、女戦士の赤凌狛の姿もある。紫雲を白惨蟹に放った赤熱鷲、伝令兵の赤眩雉、外馬兵の黒暗獅、行き倒れの赤善猪も白大国の軍団へとむかっている。大音声が周囲を満たす。
矢が宙を飛び交いだす。赤族の矢は届きだすが、白大国の矢はまだ達し始めていない。一方的な射撃をしながら赤族の軍団は進んでいく。赤族の馬と外馬兵の足では速度が違う。そのため二重の輪が形成されながら、その輪が縮まっていく。
「何だろうあれは」
遠くまで見通せる赤凌狛が、最初に白大国の陣営の変化に気付いた。柵を積載した馬車の後ろから、鉄で鎧われた亀のような物体が出てきたのだ。側面には何本もの弓の弦らしき物が突出しており、前面には幾つもの穴が開いている。穴は赤族の者たちへむけられている。だが、彼女の知識では、それが何であるのかまでは想像がつかない。
騎馬の速度は騎乗者の体重に比例する。女性で身が軽い赤凌狛の馬は、他の馬に比して幾分突出している。詳細が見えた。鉄の覆いの下には無数の弩が隠されている。
「止まれ」
赤凌狛は馬を立ちあがらせ後ろにむかって叫んだ。
その瞬間、鉄の甲羅の隙間から矢が発射された。普通の何倍も速い矢だ。矢は通常は山形の軌道を描き、斜め上から降り注ぐ。だがこの矢は、ほぼ水平に彼らの視界に飛びこんできた。赤凌狛の腕と足と腹に矢が刺さる。前面を駆けていた騎馬兵たちから順に、矢を浴びた兵士たちが落馬する。
頭上から飛来する矢なら一兵が避ければ地面に刺さる。それに、赤族の兵士たちなら、その程度の速度の矢は盾で受けかわしてしまう。しかし、この矢は防ぐには速過ぎる。それに、ほぼ水平に飛んでくる高速の矢は、一人がかわしてもその後続の兵を射抜いてしまう。無数の兵の命が一瞬で奪われた。
赤凌狛は全身に矢を受け地面に転がる。
「退け」
これは罠だ。身をもってそのことを知った彼女は叫ぶ。矢の被害を受けなかった者たちが、急ぎ馬首を反転させる。無人の馬が、無数に戦場を駆け回る。弩戦車は不気味に沈黙している。第二矢を準備するために、巨大な梃子と車輪で弩の弦を引いているのだ。
「やべえ、退却だ」
何か隠していると思っていた赤眩雉がすぐさまむきを変える。こんなこともあろうかと、馬をゆっくり走らせていたのが幸いだった。馬で視界を奪われていた外馬兵たちは、予定よりも早い赤族の撤退に驚き立ち止まる。彼らの中にいる黒陽会の武人黒暗獅も、何が起こったか分からず周囲を見渡した。
先ほどより射角を若干上げ、次の矢が射出された。包囲が広がったせいで、初回ほどの被害は出ないが、また無数の人馬が悲鳴を上げる。赤族たちの過ぎ去ったあとに、外馬兵たちにも敵軍の様子が見えてきた。死体の山が築かれている。
「俺たちも逃げるぞ」
黒暗獅が属している部隊の隊長が大声を出す。
「おい、あれは何だ」
兵士の一人が声を上げた。白大国の陣地の周囲に、鋼鉄の鎧を着こんだ重装騎兵が構えている。その騎兵が、重々しく周囲にむかって駆けだす。通常の重騎兵なら、列を成して敵兵に突進してくるものだ。だがこの騎兵は、二騎ずつ等間隔を保ちながら周囲へと駆けていく。何をする気だ。
自分たちに直接突っこんでこない騎兵を、地面に転がった兵士たちはやり過ごそうとする。その赤族の兵たちの胴や首が血を吹き上げた。外馬兵たちは、その様子に目を凝らす。重装騎兵のいない場所で出血した男たちは、何かに引きずられるようにして地を転がり、すぐにその場で倒れて動かなくなった。一体何が起こっているのだ。全員が呆然と見守る。
「鎖だ、鋼刃の付いた鎖を騎兵の間に張って駆けてきている」
目敏い者がその手品の種を見抜いた。仕掛けが分かったことでようやく、人々は重騎兵の間に渡されている刃鎖に注目した。彼らの顔が引きつる。赤族の兵士たちと違い、徒歩の彼らはこの鎖の移動よりも足が遅い。いずれ追いつかれる。悲鳴を上げながら足を動かしだす。その背後で、第三矢の装填が始まる。
黒暗獅も駆ける。刃が背後から迫ってくる。ちらりと背後を振りかえる。鎖は一本ではない。胴の辺りと膝の辺りと二本渡してある。その鎖が馬の動きに合わせて複雑に揺れながら迫ってくる。寝転がってもかわせるとは限らない。現にそれを試みた者たちが切り裂かれている。
黒暗獅は覚悟を決める。足を止め、逆走し始める。鎖が来た。彼は跳躍し、鎖を遥かに飛び越え、地に着地する。その頭上を無数の矢が飛んでいく。最初に逃げだした赤族に照準を合わせての斉射だ。その矢を仰ぎ見ながら黒暗獅は一息吐く。
「やれやれ、参ったな」
走り疲れた彼は、その場に座って休もうとする。そのとき、白大国の陣営から鬨の声が湧き起こった。今度は歩兵と軽騎兵が出てきた。生き残った周囲の兵に止めを刺すためだ。ここで休憩するわけにはいかない。呼吸を整えながら、黒暗獅はふたたび走り始めた。
攻撃は包囲の内側からだけではない。外側からもやって来た。
外から仕掛けてきた兵は、外周を全て囲んでいるわけではない。しかし、数千人の兵士がどこからともなく現れ、軍の体を成していない赤族の兵を各所で狩り始めた。この兵士たちは、塩湖に種蒔きに行っていた部隊である。
これは完全に偶然の出来事といえる。白惨蟹が最初の塩湖に着くまでに、播種部隊は白惨蟹の許に帰陣する予定だった。そのために移動していた部隊がこの戦いを発見し、強行軍で駆けつけてきたのだ。数は三千。一万全てがこの戦場に居合わせたわけではない。これは、それぞれの移動距離が違うために、到着の日時が相違していたからだ。
この予定外の三千の兵の登場は、算を乱して逃げ惑っている赤族にとっては効果的過ぎた。敵に外周からも囲まれている。一部の兵に、そう錯覚させたのだ。彼らは立ち止まってしまった。赤族の長所である機動力がなくなった。そのような現象が、逃避軍の何箇所かで起こった。一割程度の数が恐慌に陥り萎縮する。
この一割の軍の中に、赤堅虎とその周囲の者たちもいた。もともと、華塩湖への進行を邪魔する目的で白惨蟹の軍へ攻撃を仕掛けたのだ。白大国の軍の進行方向に、赤族を率いる赤堅虎がいるのは当然といえる。
この赤堅虎の軍を外側から襲った千人は、華塩湖に種蒔きに行っていた部隊だ。つまり赤堅虎たちは二つの軍に挟まれてしまったことになる。この華塩湖からの部隊には、かつて白緩狢の下にいた百人長の白晴熊が所属している。
「弓隊構えろ」
白晴熊は叫ぶ。長く草原で偵察の任を行なってきた彼だ。赤族の衣装による身分の序列は分かる。その彼の目に赤堅虎の姿が映った。あの老将は相当の身分の者だ。彼は部下たちを四段に並べ、敵との距離を詰めさせる。千人長の指示を仰ぐ暇はない、すぐに射たなければ赤族の機動力だ、すぐに逃げられてしまう。白晴熊の百人が突出する。
千人長も白晴熊の意図に気付き、すぐに兵にあとを追わせる。白晴熊の部隊を先頭に、赤堅虎ただ一人を目指して千人が殺到する。赤族の兵士の多くは族長の危機を察知するほど戦況を見渡せておらず、これ幸いとその場を離れていく。ただ一人、赤高象だけが憤怒の表情で赤堅虎をかばうように間に立ちはだかった。
「赤堅虎様、お逃げ下さい」
一声叫び、馬の尻を叩く。赤堅虎の馬がいななき走りだす。
「赤堅虎だと、あれこそは敵の前族長だ」
赤族の人物名に詳しい白晴熊の言葉に、白大国の兵士たちは勇躍する。兜首だ。討ちとれば恩賞にありつける。彼らは矢を放ちながら馬を追う。その前に巨大な人体が立ち塞がり、矢をその身でことごとく受けとめる。
「ここは通さん」
常人の二倍の体躯を誇る赤高象が、全身矢を受けた体で、巨岩のように両腕を広げる。
「ええい、追え」
白晴熊は部下を駆りたてる。赤高象の横を通過しようとした兵士が、彼の太い腕で蝿のように叩き潰された。恩賞に目が眩んでいた兵士たちが、恐怖で足を止める。
「何をしておる、竦むな」
大喝し、白晴熊は剣を抜き、単騎巨人へとむかう。赤高象の巨腕が打ち下ろされ、白晴熊は馬上から地面に叩き落とされた。
「お前ら、追わぬか」
白晴熊の言葉も空しく、彼らの部下は、巨躯の赤族と、彼らの上司との戦いを静観している。この巨人は彼らの手に負える相手ではない。
赤高象が足を上げ、白晴熊を一気に踏み潰そうとする。白晴熊は剣を捨て、両手でその足を受けとめる。白晴熊の背が地面に半ばめり込む。赤高象は周囲を威圧し、千人の動きを止める。
もう、赤堅虎は戦場を離脱しただろうか。矢を受け、血を失っている赤高象の意識が一瞬遠のく。その瞬間、彼の足が跳ね上げられた。白晴熊が全身の力を振り絞り、赤高象の足を押し返したのだ。先ほど捨てた剣を拾い、赤高象の軸足を切断する。赤高象が膝を付く。白晴熊は血にまみれた剣を、今度は赤高象の胸に突きたてた。剣先は背中まで通る。
「追え」
白晴熊は叫ぶ。しかし千人の兵は、動きを止めてもなお、鬼の形相をして彼らを睨む巨人を恐れ、一歩も足を踏みだせないでいる。
「追え」
今度は擦れるような声で白晴熊は命令した。先ほど戦闘のせいで、息が続かない。喘ぐように息を吸い、白晴熊は赤高象の背後へと回った。既に赤堅虎の姿はない。完全に取り逃した。
「勿体無い。あの首級を挙げていれば」
まず間違いなく千人長になれていただろう。彼は脱力し、その場に座りこむ。
「白晴熊、まだ仕事は終わりではないぞ」
誰もが恐れて近づかない赤高象の死体を越えて、千人長が白晴熊の元までやってきた。
「赤族の一部は、華塩湖にむかった。あの地に逃げこまれてうろうろされては、白惨蟹様の仕事に差し支えが出る。露払いをしておかねばならぬだろう。お前は彼の地の地形に詳しい。奴らが隠れそうな場所が分かるだろう。案内せよ」
「はっ、任せてください」
力なくそう答える。華塩湖は草原としては珍しく起伏を持った複雑な地形をしている。逃げこむには最適な場所だ。他の千人長にも伝令が走り、三千の兵が華塩湖にむかう。その先頭を、白晴熊の百人が進んでいく。先頭の白晴熊の表情は優れない。あの忌々しい大男さえいなければ。だが、終わったことは仕方がない。
最終的に戦が終決したのは、その日の夕方だった。赤族側の被害は、死者赤族四千人、外馬兵三千人。残った兵士の数は、赤族七千、外馬兵一万二千。赤族の合計数がこの戦役開始時より増えているのは、各地からの増員があったためである。
白惨蟹の部隊の被害は、死者わずか五百人。残兵は九万五千五百。最初の夜襲で三千五百、その後の連夜の襲撃で、五百を失っているのでこの数字となる。
赤族と白大国の被害者の数は、最初の夜襲のときと比べ完全に入れ替わった。被害の規模は、今回の赤族のほうが多い。白大国の総数が多いことを考えれば、傷は赤族のほうが深い。白惨蟹の部隊は、勝利に湧きながら華塩湖へとむかった。
十四 雨季の始まり
草原を赤く染める夕日を受けながら、散り散りになった赤族の兵たちは本陣へとむかっている。草原での場所を知る術を持たない外馬兵たちは、赤族の兵士を見つければ声をかけ、その後ろに従って列を成していく。彼ら敗兵の寂しげな影が草原に幾筋も伸びている。
赤族初の大敗である。全員の気持ちは暗く沈んでいる。彼らの心を重くしているのは、自軍の損害が大きかったことではない。敵にかすり傷程度の被害しか与えられなかったことである。赤族の兵士は、自分たちの傷は我慢できても、相手に手傷を負わせられなかったことは耐えられない。彼らは自尊心を著しく傷つけられた。
「はあぁ」
行き倒れの赤善猪と呼ばれるこの男も酷く肩を落としている。最初の夜襲では相手を翻弄したのに、今度の戦いでは一方的に負けてしまった。とぼとぼと進んでいると、馬が足を止めた。
「お腹でも減ったか」
自分の空腹は幾らでも耐えられるが、馬の空腹まではどうしようもない。また行き倒れるのは嫌なので、仕方なく赤善猪は馬の背から降りた。
「さあ、草を食いな。俺は少し待っているから」
赤善猪は馬が草を食むのを待つ。だが、馬は困った顔をして、一向に食事をしようとしない。
「どうしたんだ」
腹が減っているはずなのに。そう思い、視線を草に移す。夕日に照らされた草の葉が、鋸型の影を描いている。こんな植物が草原に生えていたかな。そう思い、赤善猪はその葉に手を伸ばす。硬い。鋸状の葉は、手の平の皮膚を切り裂くほどには鋭くないが、口に入れて食べると怪我をしそうなほどには硬い。
「何だ。この草は」
赤善猪は、草を引っこ抜く。それほど深く根を張っているようではなく、簡単に地面から引き剥がせた。
「うーん」
彼の知っている草ではないことだけは確かだ。
「赤堅虎様なら御存知かもしれない。取り敢えず持ち帰り、聞いてみよう」
疲れた表情を浮かべる馬の尻を叩き、無理矢理歩かせながら、彼は食べられる草が生えている場所を探してその場を離れた。
赤族の本陣には憮然とした顔が並んでいる。帰陣できた赤族の兵士は三分の二程度しかいない。完敗である。例え兵士が死んでも、それ以上の損害を敵に与え続けてきた彼らにとって、この敗北の意味は大きい。それも、これまで失った兵士と規模が違う。戦っている敵の大きさを、初めてまざまざと見せつけられた。
「赤高象も赤凌狛もいなくなったのう」
赤堅虎は嘆息する。彼の護衛を行なっていた者たちの多くが命を落とした。特に赤高象は、千人の兵を一人で食いとめるという偉業を成し遂げ息絶えた。
「赤高象は歌になり、赤族の者たちに語り継がれるだろう」
陣幕内の各々が賛同の意を示す。既に日は傾いて久しい。天幕を照らす緋色が、彼らの気をさらに暗くする。このままでは、全員意気消沈したままだ。族長として、皆を奮い立たせる必要がある。そうは思うが、赤堅虎自身の気持ちも重い。そのため、なかなかその仕事をできないでいる。
「赤堅虎様、赤荒鶏殿が面会を求めております」
天幕の外から警備兵が声をかけてきた。赤荒鶏とは、弓の赤荒鶏か。彼は赤栄虎とともに、大陸横断の長征にむかったはずだ。その彼がなぜ。全員が顔を見合わせる。
「通せ」
赤堅虎は謁見の許しを与える。毬栗頭の男が幕内に入ってくる。皆が目を丸くする。髪を切ったのか。
「赤荒鶏、只今戻って参りました」
髪型は変わっているが、確かに弓の名手の赤荒鶏である。
「どうした、その頭は」
一同の疑問を代表して、赤堅虎が問う。
「いろいろありまして」
赤荒鶏は苦笑いする。暗い表情の人々の中、彼の顔だけは明るく笑っている。
「これまでの戦果を報告します。赤栄虎様率いる遠征軍は、長駆大陸の東端まで達し、敵の一大補給基地である海都を完全に破壊、そして白都周辺の重要施設を全壊。その後、各都市を落としながら、この草原にむかっている最中です」
歓声が湧き起こる。海都といえば数十万の市民が住む都市、白都といえば白大国の首都だ。落ちこみ沈んでいた彼らの心を熱狂させるのに足る報告である。
「でかした」
赤堅虎は歓声を上げる。最もこの報告が必要なときに、この男は草原に戻ってきた。彼は赤荒鶏に強運を見た。この男、赤族に幸運をもたらす運命を持っているのかもしれない。
「すぐに、全軍にこの吉報を伝えよ。今宵は戦勝を記念しての大宴会だ」
今日の敗戦を補って余りある戦勝の報がもたらされたのだ。赤族の誇りを取り戻した赤堅虎たちの表情はふたたび明るくなる。
「そうだ、赤荒鶏。お前は弓の名手だったな。此度の長征でさらに腕を上げたか」
上機嫌で赤堅虎は赤荒鶏を手招きする。
「はい。多くの経験を積み、格段に腕を上げたものと自負しております」
「よし、そなたに紫雲という矢を授ける。お前の腕なら、白王を射ぬけるかもしれん」
赤堅虎は紫の袱紗に包まれた、薄く輝く二本の矢を赤荒鶏に授ける。夕暮れの光の中、その矢は息づくように光を発している。赤荒鶏はその矢を持ち、驚嘆の声を上げる。これは尋常の矢ではない。
「これは一体」
「黒陽会の使いという者が、赤栄虎に献上しにきたものだ。その者たちは、この矢が白王の命を奪うと予言した。そして、白王亡き後、赤栄虎が境界を越える王となると語った」
赤荒鶏は目を丸くしてその言葉を聞く。炎上する農管園で、白大国の皇后白淡鯉は、白賢龍と赤栄虎は同じものを目指す人物だと言った。境界を越える王になるとは、赤族の地と白大国とを統べる王になるということか。
白王を倒せば、赤栄虎が偉大な王になる。我らの族長ならば、その役に相応しい。自らの考えに赤荒鶏は打ち震える。
「赤堅虎様、二つのことをお願いしてもよろしいでしょうか」
「何だ、赤荒鶏」
赤堅虎は上機嫌だ。
「一つはこの紫雲の射程を確かめるために試射をする許可を頂くこと、もう一つは白王の居場所の情報を正確に掴むことです」
飛距離が通常の三倍はあるだろう紫雲を、常人の数倍の距離を射ぬく赤荒鶏が思いっきり放てば、矢を草原の中で失ってしまう。二本の内、一本を使ってしまってもよいかという問いである。今一つは、赤族が敵の情報を得ることに執心していないことへの危惧から出ている言葉だ。最初の一本は、赤荒鶏の心配通り、まったく関係のない白惨蟹にむけて放たれている。
赤栄虎との遠征を経験した彼は、既に草原で生活していた頃の彼ではない。赤栄虎の市表を駆使した戦い方を間近で見て、情報を予め知ることの大切さを学んだ。
「うむ分かった。お前が望むように取り計らおう」
「では、今より試射をしたいと思います」
「よし皆の者、赤荒鶏がどれほど腕を上げたか見るために、天幕の外に出ようではないか」
談笑を交わしながら軍団長や護衛の兵たちが外へ出る。既に日は地平線に接しつつある。その太陽にむけ、赤荒鶏は弓を引き絞る。一陣の風が背中から吹いた。追い風に乗せて、赤荒鶏は指を離す。紫雲は緩やかに風に乗った。光の尾を引きながら、鳥のように大空に舞う。周囲から驚きの声が上がる。これは矢の飛び方ではない。矢は自ら意思を持っているかのように風に身を任せ、どこまでも遠くへ飛んでいく。矢は赤族の視力の外に出て、そのまま夕日の中に消えていった。
全員がその光景に沈黙する。赤荒鶏は、自らの指先に残る感覚に戦慄した。倒せる。この矢があれば、相手が何者であろうとも倒せる自信がある。白大国の王、赤族の敵、白王を自らの弓で討ちとることができる。
「赤堅虎様、今私の脳裏に、白王を矢で貫く様が見えました」
「うむ、お前は赤族にもう一度吉報をもたらせてくれるだろう」
彼らは落日を白王に重ね、その沈みゆく様をしばらく眺め続けた。
雨季が近づきつつある。
その雨季に備えて、黄族の一兵卒である黄慎牛は鍬を振るっている。
「軍隊の仕事は、種蒔きに土掘りに、何ら農民と変わりがないな」
人生とはそういうものだろうか。生きる場所を移したからといって、劇的にやることが変わるわけではないようだ。黄慎牛は、華塩湖から少し離れた場所に設けられた白惨蟹の陣の周囲に、溜め池兼掘となる穴を掘っている。その内側では、既に組み立て式の住宅が立ち並んでいる。砦はすぐに完成するだろう。
この地を守護する砦を築けばすぐに雨季だ。雨季は二ヶ月ほど続くという。その期間は軍の移動はない。二ヶ月間十万の兵を養うだけの兵舎は、ちょっとした街以上の規模になっている。いずれ閉腸谷と華塩湖の間にも街道が通るという。そうすれば、この地は完全に白大国の物になる。
生き急ぐように膨張を続けている白大国がやることは何でも忙しげだ。農村出身の黄慎牛にとっては、日々変化を続ける駐屯地の姿を見ているだけで目が回りそうだ。休憩の時間がきた。他の兵士たちとも仲よくなった彼は、雑談に興じる。
「黄慎牛、明日の天気はどうなんだ」
「明日は昼前は晴れだな、その後は夕方まで雨が降る。雨は日が没する前には止み、曇り空が続いたあと、夜半には雲は晴れる」
「いやあ、黄慎牛の天気予報は便利だなあ。まだ一度も外れたことがねえ」
最近は彼の気象予測を聞きに来る者の数も増えてきた。最初は同じ十人長下の仲間だけであったが、この頃は千人長も聞きに来ている。軍団長が彼の声に耳を傾けるようになる日も近いかもしれない。農村出身の黄慎牛は、村ではいつもこうして天気を皆に告げて喜ばれていた。どこに行ってもやることは変わらない。村を出る必要はなかったかもしれないな、彼は周囲の仲間とともに笑いながらそう思った。
黄慎牛が告げた通り、翌日の午後は雨が降った。大地の上で、草の王が目を覚ます。
外殻を割り、根を張り、芽を伸ばし、彼は脅威的な速度で成長を遂げていく。草原の各地でこの植物の営みが行なわれている。夜には無数の種を作り、鋸瞬草は子を周囲に羽ばたかせるだろう。
その鋸瞬草の群生の中で、ただ一つだけ特殊な群れがいる。
一日草のこの植物の代替わりは早い。このことは、この草に与える周囲の環境の影響が、他の植物に比して大きいことを意味している。
周囲の環境とは、どのようなものを指すのだろうか。風、温度、土、湿度、日光、様々な要素が植物に影響を与える。土一つを見ても、粒の大きさ、土壌酸性度、養分の多寡など条件は枚挙に暇がない。
特殊な群れとは、その生息地が特殊な環境にある一群ということだ。
その鋸瞬草の群生の中心には、普通ではあり得ない物が存在している。それは何か。自然物ではない物だ。人工物。それも、通常の人工物ではない。錬金の手によって作られた造形物だ。その形は細長く、先端は尖り、逆側の先端には羽根がつき、溝が刻まれている。三本の紫雲の内の一本が、鋸瞬草の集団の只中に突き立っている。赤荒鶏が試射した矢だ。
鋸瞬草は、この超常の存在に葉を触れさせる。そして、根を絡ませ、今まで知らなかった素材があることを知り息を呑む。この材質の特性を身に付ければ、これからの戦いが有利になる。しかし、一代でそのことを成し遂げるのは難しい。彼らがその身を変化させるのには、数代の世代交代を必要とする。
本格的な雨季が始まった。人々は雨を防ぎ、時間を潰していることだろう。この時期、人々は戦をしない。だが植物たちは、この時期激戦を繰り広げる。
草原の侵略者は、猛然と領土を広げて他の住人を駆逐している。ただ一群、戦争に興味を持たず、ひたすら研究を続ける者たちがいる。紫雲を解析しようとしているのだ。戦争では毎回、新奇な作戦、最新の兵器を投入しなければならない。彼を蒔くように命じた、白惨蟹という軍団長はそう言っていた。
彼らは、その作業に没頭する。戦は他の者に任せておけばよい。彼らの仕事は、次の世代の鋸瞬草を生みだすことにある。
十五 山脈
白王が閉腸谷に入り、白惨蟹が華塩湖を占領し、広源市に新たな軍団二万が集結した頃、平原つまり白大国の領土の南西の端を、地味な服装の一団が通過した。
数は百。全て馬上である。目立たぬ格好をしているものの、彼らは皆一様に武装している。それだけでない。旅の装備を持ち、保存の糧食を備えている。彼らが目指すのは黒都である。正確に言うならば、黒都に来るはずの白麗蝶を殺害し、その証拠を残さぬようにすることだ。命令者は白惨蟹、白大国の軍団長だ。
暗殺者。世間の人々は、彼らのような役目を負った者たちを、恐れ蔑みそう呼んでいる。
彼らは今まさに平原の終端に達し、黒都のある砂漠地帯に行くために、峻烈な山脈を登り始めようとしている。この山脈の砂漠側は、難攻不落の領域と呼ばれている。黒都が栄えていた時代、その富みと技術を守るために、黒族の住む領域の周辺には、様々な生物兵器、機械兵器が配されたという。この山の連なりでは、その兵器の一つがまだ稼動している。強力な兵器だと伝えられている。過去に白大国の兵がこの地に送りこまれたことがあったが、その結果は世間に宣伝されなかった。全滅。誰一人として平原に生還しなかった。
「これより先は徒歩で進む」
隊長の言葉で、全員が馬を降りた。暗殺団に属す白冷螂という青年も、地面に足をつける。足音はしない。無音で地を進む技をこの男は持っている。山の険しさは、馬での侵入を阻む。ここでは己の二足だけが移動手段になる。
山に入った。空気は薄い。その厳しい環境を百人の列が踏み進んでいく。山の峰を越えたところで、眼下に砂漠が広がった。感動はない。あまりにも殺風景だからだ。緑がまばらに見えた平原側の地面に対し、砂漠側の山肌は岩と石しかない。これが滅んだ地か。その虚しさだけが、百人の胸中を過ぎていく。
「行こう」
先は長い。そしてこの峰を越えれば、いよいよ何かが待っている土地になる。全員緊張して足を踏みだす。ある程度の情報は伝えられているが、皆半信半疑だ。この地には岩竜虫という生物が住むという。隊長を先頭に、一行は山を下り始めた。
下山三日目。何も起こらないまま、彼らは山道を進んでいる。そのことが、暗殺隊の緊張を次第に緩め始める。人間は、差し迫った危機がなければ、長期間に渡り緊張を維持することは難しい。彼らは職業柄意思の制御は心得ている。平原であれば、一ヶ月でもその警戒心に隙を見せることはなかっただろう。
だが、環境の悪さは人の神経を磨耗させる。希薄な空気、変わらぬ景色、肉体の酷使。このままずっと何も起こらないのではないか。警戒心は徐々に緩んでいく。
休憩の時間が来た。日は中天。食事の時間だ。乾燥させた食料を、唾液でほぐしながら胃に少しずつ落としていく。水は必要以上に取らない。行軍中も、少しずつ飲んでいるからだ。幸いなことに、この山脈には所々泉を見つけられる。砂漠の近くではあるが、まだ完全に乾ききった土地ではない。
隊員の一人が立ちあがる。
「どうした」
その男の背に、隊長が声をかける。
「その岩の裏で、便を垂れてきます」
申し訳なさそうに頭を掻く。隊長は顔をしかめながら手で行けと告げる。隊長の近くに座っていた白冷螂も、嫌な気分になる。ちょうど干し肉を食べていた。干し肉は乾燥した大便に少なからず似ている。
顎を動かしているうちに、白冷螂の口の中の肉も柔らかくなってきた。こうなると保存食もまともな食事に思えてくる。濃厚な味を楽しみながら彼は何度も肉を噛み締める。全員が無言で口を動かしている。白冷螂はどこを見るともなく、用を足しにいった兵士の隠れている岩を見つめる。
「あっ」
白冷螂は驚き、口から肉を落とした。岩が浮かびあがったからだ。その岩の下には、人間の胴周り以上もある、六本の茶色い柱が付いている。用便をしている男の姿が見えた。柱の一つが折れ曲がって高く上がり、その兵士に振り下ろされた。大地が地震のように一瞬揺れ、男の姿が柱の下で爆ぜた。血が周囲に勢いよく飛び、白冷螂の頬にもかかる。
岩がむきを変える。巨大な岩にしか見えない外骨格の体を、神殿の柱のように太い六本の足が支えている。頭部には、角と触覚、小柄な複眼を持った異形の顔が付いている。背の高さは人の五倍ほどだろうか、足の長さだけでも人の二倍はある。岩に擬態した巨大な虫だ。そいつが突如人を襲い始めた。
「岩竜虫だ。音を立てるな、狙われるぞ」
隊長が叫ぶ。その隊長の胸から上がいきなり姿を消した。岩竜虫が隊長の声に反応したのだ。
白冷螂の体に影が被る。見上げると、彼の頭上をまたぎ、もう一匹の岩竜虫が姿を見せていた。この場から逃げなければ。慌てて周囲を見渡すと、十を超える岩竜虫が集まっている。最初の岩竜虫の数倍の大きさのものもいる。
白王が、この地を越えて兵を送ることを一度で止めたわけだ。白冷螂は、足音を立てないように、そろそろと移動する。恐怖に耐え切れなくなった者が声を上げ、そのたびに周囲の者もまとめて踏み潰される。
数年、数十年とうずくまり、侵入者を待っているこの奇怪な生物は、目がほとんど退化しており、地面の振動や周囲の音を頼りに餌の場所を探している。
暗殺者たちは、互いに距離を取って下へとむかいだす。誰かの絶叫の巻き添えになりたくないからだ。数は二十人ばかり減っただろうか。だが、この地に潜んでる物の正体は分かった。音を立てずに全員が下っていく。その一人が足の先で小石を弾き、音を立ててしまう。我先にと岩竜虫が集まってきて、たちどころに男を挽き肉に変える。
岩竜虫は動きを止める。また誰かが音を立てるのを待っているのだ。全員が恐怖する。このまま、一切の音を立てずに、山を下りきらねばならないのだ。また悲鳴が上がる。誰かが音を立ててしまったのだ。先ほどまでと打って変わり、彼らは必死に緊張を保ちながら、砂漠地帯へとむかう。
七日後、下山を遂げ、ようやく岩竜虫の住処を脱した。生きて山を越えられた人数は十人。残りは全て、黒都を守る最初の兵器の餌食となった。
十六 象の鼻
長焉市が緑輝による襲撃を受けた日の翌日。
九隻の大陸周回航路船と、それより一回り小さい一隻は、慌しく出船の用意を進めている。大陸周回航路船の内の一隻は、巨大団子虫の攻撃で破壊されたために船渠で修理を受けている。
緑輝が長焉市を発ってから時間が経てば経つほど、連れ去られた白麗蝶の生命の危険は増す。それに、可能であれば海上で捕捉できるほうがよい。元々今回の十隻の船は、海上で戦う前提で作られている。不慣れな密林で戦闘をするよりは、船上での戦いのほうが、彼らにとっては有利だ。
出港の準備をしているのは、大陸周回航路船だけではない。大陸周回航路船が急ぎ出港準備を進めているのを見れば、目敏い者はその意図を読むことができる。長焉市の住人からも、緑輝討伐に参加することを希望する者たちが出てきた。もともと南方の気の荒い男たちだ。やられればやり返す。その単純な考えで参加を決めた者も多い。また、海都からの船団の能力を高く評価し、便乗して緑輝の宝を奪おうとしている船乗りや商人もいる。いずれも手持ちの船に武器と兵士を満載して、出港準備を進めている。
少し事情が複雑な者たちもいる。海都から派遣された荒事師たちだ。青吝鮑が死に、長焉市の守備兵も死に、彼らをことごとく殺した緑輝も去り、怒りをぶつける対象を失った青吝鮑の未亡人の矛先が、彼らへとむけられたからだ。安全の保障のためにと派遣されたのに、青吝鮑を守りきれず命を落とさせた。せめて敵討ちぐらいはするのが筋だと主張され、荒事師たちは戦場に無理矢理送りこまれることになった。
先の戦いで生き残った荒事師は数人しかいなかった。多勢に囲まれ強要されれば断ることもできない。強引に契約書に署名させられた。違約すれば、死をもって償うという一文が書きこまれている。念のいったことに契約書は三通作成され、一通は海都の舟大家宛てに、荒事師たちの宣誓書として送られることになった。
隻腕の電撃使い青騒蜂も、契約を結ばされ、戦場に送りこまれることになった。だが、彼女の顔は、他の荒事師たちほど落胆していない。腕の借りを返さねばならないと思っていたからだ。取り敢えず、戦場までの船は確保した。あとはあの豹に乗った男を探して、左腕の仇を取るだけだ。
街の様子は慌しい。密林に行くことを決めた者たちは、大陸周回航路船の出発は明朝だろうと推測して、その出港時刻に間に合わせるように準備を進めている。彼ら長焉市の船乗りたちの推測は概ね正しかった。出港予定時刻は明日払暁。そのため、甲板の上の男たちも、忙しく立ち回っている。
「お願いします。俺も船長たちの会議に参加させてください」
旗艦にむかう船長の背後で、男が必死に頭を下げる。
「うーん、だがな」
船長は困ったように顎に手をあてる。頼んでいるのは、海図製作部の辺境部門担当青遠鴎である。
「俺は、長焉市舟大家家長の青吝鮑殿から緑輝のことを直接聞いています。それにあの地方は俺が長年海図を調べていた地域です。絶対役に立ちます」
彼はまだ、白麗蝶が白大国の第一王位継承者であることを知らない。大陸周回航路の首脳部の政治的判断から、現在この情報は箝口令が布かれている。船長は考える。船員の中では、青遠鴎が最後に白麗蝶と一緒にいた。
「秘密を漏らさぬと誓えるか」
船長自身も、白麗蝶の身分を知らされたのは昨晩から今朝にかけてのことだ。長焉市の住民にこの情報が漏れれば、どんな誤解を招くかもしれない。本来は、秘密を知っている者の数は少ないほうがよい。
「秘密は当然守ります」
青遠鴎は毅然と答える。
「よし、では付いてこい。船主様に許可を頂ければ入室できる」
「はい」
彼は船長に従い、旗艦へとむかった。
旗艦の船主の部屋の作戦会議の末席に、青遠鴎は席を与えられた。最初彼の同席を拒絶していた黒覆面の船主だが、青遠鴎が海図製作部の辺境部門担当であると聞いて、その臨席を許可した。
部屋の壁には無数の海図が貼られ、棚には多くの書籍が積み上げられている。青遠鴎は机の端でその様子を見ながら興奮を隠し切れなかった。舟大家でも貴重品の数十年前の海図が、無造作に並んでいるからだ。それらは、舟大家で収蔵されている物ではなく、市井の船乗りたちが個人的に書いた物を丹念に集め、整理した物のようだ。欲しい。自分が会議にやってきた本来の目的を忘れて、彼はそれらの地図を食い入るように見る。
室内にいるのは十四人である。大小の大陸周回航路船の船長十一人に、黒覆面、白大狼、そして青遠鴎である。議長は白大狼が行なっている。
「青遠鴎、君が白麗蝶を近場で見た最後の人物なのだね」
「ええ、白麗蝶は、白楽猫という女芸人の従者と、青勇隼という剣術の弟子と、私とともに長焉市舟大家家長の青吝鮑殿の邸宅に行き、その帰りに私だけ別れ、船に戻ってきました」
発言する青遠鴎の脇腹を、彼の上司にあたる船長が小突く。
「青遠鴎よ。ここでは、白麗蝶様と呼べ」
「えっ、白麗蝶様」
単なる密航者という知識しかない青遠鴎が不思議そうな顔をする。
「青遠鴎、君にも告げておこう」
若い議長が話を切りだす。
「麗蝶は、白王様の娘、そして白大国の第一王位継承者だ。私は彼女の従兄弟にあたり、白麗蝶の守役を仰せつかっている。私が乗ってきた船にいる兵は、彼女のことを見知っている。彼らには、周囲にこの情報を漏らさないようにと命じてある。君もこの事実を他人に知らせないように気をつけてくれ。
今回の作戦は、表向きは長焉市を襲った緑輝への報復戦だ。そのため、長焉市に停泊している船は、任意にこの戦闘に参加するだろう。だが真の目的は、白麗蝶を無事救いだすことにある。そのことを忘れないで欲しい。
表の理由にしろ、裏の理由にしろ、本来この大陸周回航路船はこの戦いに参加する理由はない。だが、船主殿のご好意により、この九隻が白麗蝶救出作戦に加わってくれることになった」
青遠鴎は目を丸くする。あの、やんちゃな女児が、この国のお姫様だったというのか。お姫様とはもっとおしとやかなものだと思っていたのだが、どうも違っていたらしい。そういえば周囲の人間に、やたらと白麗蝶様と呼べと命令していた。普段からそう呼ばれている身分だったとは。
「それでは作戦の概要を説明する。大陸周回航路船九隻には、緑輝宮から見える洋上で海戦を行なっていただく。そこに敵の耳目を集めている間に、我々白大国の兵を中心とした部隊が別の場所から上陸し、緑輝宮へと潜入する。まずはここまでで質問等はないか」
白大狼は一同を見回す。全員、概要に関しては依存はない。最も危険な緑輝宮潜入は白大狼が指揮することになる。
「では詳細に入ろう。まずは海戦の打ち合わせからだ。その後、上陸部隊の作戦を練る」
青遠鴎が発言を求め、青吝鮑から聞いた緑輝の話と、海図製作部の辺境部門で得た情報を述べる。
「というわけで、重要になるのは、海戦では海に長く突きでた、象の鼻と呼ばれる浅瀬。そして上陸戦では、人心を麻薬のように魅了する緑輝兄妹の異能だと思われます」
緑輝宮侵入のために、海上の意識を釘付けするには、どうしても象の鼻周辺に船を寄せざるを得ない。また、緑輝宮に緑輝の二人がいれば、白麗蝶奪還にむかった者も、その虜になりかねない。
最善なのは緑輝兄妹が海上に大きく出てきてくれることだ。そうすれば浅瀬に近づかずに、海上で多いに敵を誘導することができる。だが、青遠鴎の言説によれば、多くの船がこの象の鼻に吸い寄せられるように座礁しているという。この地に船をおびき寄せる策を緑輝一味が持っていると考えたほうが妥当だろう。だが、その策が何であるのかまでの情報はない。
黒覆面が白大狼を呼び、耳打ちする。しばらく白大狼は考えたのち、黒覆面に返答する。
「その作戦なら、猛虫さえ封じれば戦いようがあるかもしれませんね」
さらに思案する。
「一つ、猛虫を封じるもので思い当たるものがあります。軍船に積んであるあれを利用すれば、猛虫の息の根を止めることができます」
黒覆面は頷く。白大狼はその作戦の詳細を説明した。
「あとは、緑輝の能力にどう捕まらないかだ」
海戦に参加するか、観戦に興じてくれているのが一番望ましい。しかし、そう都合よく動いてくれるとは限らない。全員が押し黙る。
「うまくいくかどうかまでは分からないが、史表に書かれていたことを試してみる価値はありそうだ」
白大狼が呟く。青遠鴎は、シヒョウとは何だろうかと考える。
「船長、今から私が言う物を人数分用意して欲しい」
打ち合わせは細部まで詰められ、昼過ぎに散会した。船主の部屋の扉が開き、船長たちが出てくる。その様子を甲板で観察している男がいる。司表の部下の青凛鮫だ。出てきた人員を確認し、昨日見た顔ぶれに加え、一人見慣れぬ船乗りがいることに気付いた。何者だ。
青凛鮫は荷物を運ぶ振りをしながら、その男にわざとぶつかった。
「すみません。大丈夫ですか」
「ええ大丈夫です。御心配なく」
「自分は青凛鮫と申します。あなたは」
「青遠鴎です」
「会議に参加とは、ご身分の高い方なのでしょうか」
「いえ、違いますよ。たまたま私だけが目撃した件があったのです。それで、その報告をしていただけです」
「そうでしたか。中には、あの黒覆面の船主殿がいらっしゃいましたか」
「ええ。白大狼殿と、旗艦の船長に耳打ちするだけで、それ以外の人には一切喋っていませんでしたね」
物腰の低い青凛鮫に釣られ、青遠鴎は必要以上に軽口になる。
「おーい、青遠鴎戻るぞ」
港から船長の声が響いてきた。
「それでは私はこれで」
青遠鴎も板橋を渡り旗艦をあとにする。青凛鮫はふたたび屋形を注視する。旗艦の船長だけでなく、白大狼にも正体は漏らしているようだ。青凛鮫は白都から派遣されてきた軍人なので、白大狼のことも聞き及んでいる。白大国の王族だ。黒覆面の輪郭が、また少し浮かびあがってきたような気がする。
「一体どういう人物で、何のためにこのような船団を組織しているのか」
青凛鮫は一人呟いた。
その頃、大陸の南東の海上で、一つの変化が起きていた。
強烈な陽射しで熱せられた海水が蒸気を立ち昇らせ、その上昇気流が惑星の自転による力で捻じられ、雲が渦を巻き始めた。熱帯性高気圧である。
この自然現象は、通過地域に激しい災禍の爪痕を残す。そのため、地方地方で畏怖の念をこめた名前で呼ばれることが多い。この風雷を伴う大嵐は、この地域では大渦風と呼称されている。今、海上で、新たな大渦風が誕生した。この季節の常として、西にむかい、大陸を抉るようにして北上する経路を取るはずだ。風が速まるにつれ、海が上下し始める。遂に水面は暴風に巻きこまれ、空と海の境界が曖昧になった。
海中を泳いでいた魚が吹き上げられた。魚の眼下にはどす黒い海面が見える。すぐにその水面も見えないほど高く、彼の体は舞い上がった。勢いを増しながら若い大渦風は西へと進みだす。まだ大陸までの距離は遠い。だが、引き寄せられるように、嵐は海を渡り始めた。
十日後、緑輝と襲撃軍の追跡劇は、何度かの小戦闘を交えながら緑輝が先に自陣にたどりつくという形で決着がついた。大陸周回航路船は夜間航行能力を持つ。敵を追い越し、待ち伏せできれば最善だっただろう。しかし、他の長焉市の船は夜は投錨せざるをえず、かつ地の利を活かした緑輝の哨戒船が、夜陰に乗じて猛虫を大陸周回航路船に投げこむという事件が何度かあった。各個撃破される危険度が大き過ぎるために、夜は敵の目の及ばない入り江で難を避けて過ごした。結果、緑輝が一足先に航海を終えることになった。
「おお、懐かしの我が緑輝宮」
緑輝蝗が宮殿に入るやいなや、大仰にそう叫ぶ。
「そうね、お兄さま。二十日も空けたのは久しぶりね」
船上の生活にだいぶ飽きていたのだろう。緑輝蛍は美しい肢体を伸ばしながら気怠そうに応じる。
「おおう、ここが緑輝宮か」
捕らわれの身である白麗蝶が、いつもの調子で物珍しげに建物の様子を見渡す。石造りの建物なのだが、その壁の内側には配管が施されており、宮殿表面をいつも水が濡らすように設計されている。そのため内部は密林地帯にあるとは思えないほどに温度が低く、過ごしやすい。
「これはどうなっておるのだ」
壁をよじ登り、水冷の仕掛けを探ろうとする白麗蝶を、緑輝蛍がそっと引き寄せる。この何にでも興味を持つ少女は、帰りの船ですっかり緑輝蛍のお気に入りになった。自分とは正反対の活動的な性向、驚くほど高い戦闘力、よくよく見ると整った気品のある顔立ち。緑輝蛍には、白麗蝶がとても素敵なお人形に見えた。
「麗蝶ちゃん。お姉さんと一緒に最上階に行きましょうね。お洋服を選んであげて、お化粧をしてあげるわ」
「麗蝶よ、俺も緑輝秘蔵のお宝を見せてあげよう」
「あら、お兄さまは、長焉市から追ってきた敵の相手をするのよ。本来、戦は男の仕事でしょう」
「むむ、輝蛍よ。そんなものは部下に任せて、みんなで一緒に我々の部屋から海戦の様子を眺めようではないか」
「仕方ないわね。お兄さまったら、怠け者の役立たずなんだから」
「はははっ、輝蛍には敵わないなあ」
緑輝蝗は、宮殿の中を進みながら快活に笑う。
「あの、俺たちはどうすればいいんでしょうか」
白麗蝶に従っている青勇隼と白楽猫が問う。緑輝兄妹のお気に入りになった白麗蝶と違い、彼らの立場は微妙だ。何をすればよいのか戸惑ってしまう。
「そうね、連れてきたけど別にいらなかったかもしれないわね」
「だったら死刑だ。首から血が噴きでる様は、いつ見ても楽しいからな」
二人の顔が青くなる。
「わっ、私は芸ができます。きっとみんなを楽しませることができます」
「おっ、俺は剣が使えます。きっとお役に立てます」
「あらそうなの」
「輝蝗、輝蛍よ。この者たちは私の従者に弟子だ。勝手に殺すでない」
「あはは、麗蝶がそう言うのなら仕方がないなあ。じゃあお前たちも付いてこい」
一行が廊下を進んでいると、背後から男が駆けてきて緑輝に指示を仰いだ。
「緑輝蝗様。敵船が象の鼻に迫りつつあります。迎撃準備は整っております。いつものあれをよろしくお願いします」
「よし、輝蛍よ。一仕事してから、戦争を楽しむことにしよう。さあ、早く最上階に行くぞ」
緑輝蝗は、緑輝蛍の手を引き、階段を上っていく。その二人を追うように、白麗蝶、青勇隼、白楽猫は続く。
「白麗蝶様、何が始まるんでしょうね」
青勇隼が歩きながら白麗蝶に耳打ちする。
「うむ、さっぱり分からん。だがどうやら、戦争が始まるのだけは確かなようだな」
「恐いですね」
白楽猫が震えながら白麗蝶に身を寄せる。
「大丈夫だろう。お父様も四六時中戦争をしているが、別に恐がったりしていなかったからのう」
「しかし、緑輝蛍様は美人だよなあ。どうにかして気に入られたいなあ」
青勇隼は一人鼻の下を伸ばす。
五人は階段を上りきり、海にむかって壁が取り払われた部屋に出た。緑輝の居室である。眼前には大海原が広がり、左手に象の牙と呼ばれる岬が、そして正面には象の鼻と通称される浅瀬が長く洋上へと続いている。象の牙の陰には無数の戦船が、象の鼻の根本には迎撃軍が集結している。象の牙を越えた先には、巨大な大陸周回航路船や、長焉市の大小の船が白波を上げながら緑輝宮へと近づきつつある。
緑輝兄妹は海側の部屋の端に立ち、握り合った手を高々と掲げた。迫りくる船に変化が現れる。船の多くが速度を上げ始めた。そして、象の鼻に乗り上げる進路を取り始める。
「さあ、楽しい戦の始まりだ」
緑輝蝗は陽光にむかいそう叫んだ。
甲板で前方の象の牙を見ていた青遠鴎は、船の進路が急に変わったのを感じた。強烈な磁力でもあるかのように、その地へとむかいたくなる衝動が全員の精神を蝕んでいる。その力に引かれ操舵手が象の鼻に進路を取っているのだが、誰もそのことには気付かない。
青遠鴎は旗艦での会議を思い出す。理由は不明だが全ての船が象の鼻に突っこんでしまう。原因も対策も分からないのならば、象の鼻に乗り上げる前提で作戦を立てるしかない。そう考えた船長たちは、青遠鴎に象の鼻の特徴を確認しながら、いくつかの対策を立てた。その一つが、この場所への出現時刻である。
今はちょうど干潮時にあたる。象の鼻は長大な浅瀬ではあるが岩礁ではない。海流の関係上、砂が長く堆積してできた砂州である。そのため座礁しても船腹を傷つけることはない。ならば、干潮時に砂上へ乗り上げ、満潮時に離脱することもできる。彼らはそのことができる時間を選び、この場にやってきた。逆に満潮時に座礁すれば、干潮時はさらに水位が低くなるために脱出は困難になる。
さらに、干潮時であるならば、象の鼻の高所は人の脛あたりまでしか深さがない。つまり、徒歩で上陸することが可能になるのだ。猛獣、猛虫の対策は用意してある。緑輝の軍で恐いのは、緑輝兄妹を除けば、猛獣、猛虫の軍団だけだ。緑輝兄妹は通常、緑輝宮にいて、海上を眺めているという。敵が人間の兵だけならば遅れを取ることはない。あとはどれだけ作戦がうまくいくかだ。
青遠鴎は船上に残る係になった。だが、この係にも仕事が割り当てられている。青遠鴎は水桶を持ち、敵の出現を待っている。
彼らの船が象の牙を通過し、象の鼻への景色が開けた。その瞬間、青遠鴎は我が目を疑った。
「何だあれは」
他の船乗りたちも、海の一点を指差して叫び始める。海上を象の群れが走っているのだ。投石機を背負った象の一団が、軽やかに水上を駆けている。青遠鴎は象の足元を睨む。
「そうか、そういうことか」
青遠鴎は叫び、兵士たちに解説を始める。
「あの象たちの足元を見ろ。奴らは、象の鼻の上を移動している。つまり、浅瀬の上を走っているのだ」
全員が青遠鴎の言葉に驚く。
象が立ち止まり整列してむきを変えた。
「最適距離はまだよ。距離調整はあまりできないから、時機を見誤っては駄目よ」
緑輝軍の象軍団を指揮する女性族長の緑純鮎が部下たちに声をかける。
「装填」
投石機の籠に、焚き火の煙で眠らせた巨大な虫が設置された。長焉市襲撃時に使った団子虫ではない。同じ甲殻類等脚目の船虫が今回の投擲物である。
「発射」
人ほどの大きさの巨大生物が空から落下してくる。大陸周回航路船が一隻、その他の船が数隻甲板に穴を空けられた。その場の全員が知っている。恐ろしいのはこれからだ。砕けた板が跳ねあがるとともに、眠っていた巨大船虫が覚醒した。反りあがるようにして立ちあがり、近くの者を多脚でずたずたに引き裂く。
「逃げろ」
人が次々に船から海に飛びこむ。次弾が発射された。また新たな船が船虫の犠牲になる。最初の一撃ほどの混乱はない。船員が手筈通りに動きだし始める。
「乗り上げるぞ」
全員が手近な柱や壁に身を寄せ、衝撃に備える。象の鼻に船が次々と乗り上げる。混乱の声が止んだ。
「あれ、おかしいわね」
緑純鮎は首を傾げる。船猛虫で、もっと大混乱すると思っていたのだが。
それよりもこれからは接近戦だ。そうなれば投石機は邪魔なので、外してしまったほうがいい。
「投石機解除」
象使いたちが、急いで象の背中の投石機を取り除く。象の牙の陰からは、緑輝の小振りな戦船が猛虫使いを満載して集まってくる。
「さあ、お前たち、奴らの血という血を吸い尽くすのだ」
小船の一つに乗っている緑小蚤も、叫びながら座礁した船にむかう。そのとき、大陸周回航路船の甲板から、剣で刺し殺された巨大船虫が投げ捨てられた。どうやって、倒したのだ。緑小蚤は首を捻る。まあいい。彼の船でひしめき合っている蚤の軍団が、彼らを始末してくれるだろう。
緑小蚤は、矢を防ぐための盾を持ちながら、船頭に指示し敵船へ接舷させた。船に装備されている鉄製の鉤爪を相手船の舷側に食いこませて船を固定する。
「乗りこめ」
他の船でも、同じように種々の猛虫使いが船に乗りこもうとする。彼らの船は、この浅瀬で動き回れるように、底が平らで浅い船を使っている。大陸周回航路船の甲板に、水桶を持った男たちが現れる。
「何だこいつらは」
蚤の着ぐるみをまとった緑小蚤は声を上げる。
「これでもくらえ」
他の者と同じように顔を出していた青遠鴎は、水桶の中身を緑小蚤の乗っている船にむけて勢いよくかけた。
「うわっ、何だ」
他の兵士たちも、一斉に水桶の中の物を猛虫目掛けてかけていく。緑小蚤は、船に乗りこもうとして、足を滑らせて転んだ。
「何じゃこりゃ」
「それは石鹸水だ。緑族の地ではあまり使わないかもしれないが、青族の軍船によく積まれている兵器の一つだ。相手船に撒き、自由を奪う効果がある。白大狼殿が、相手が虫ならば、石鹸水で倒す方法があると教えてくれたのだ。油で火をかけることも検討したが、俺たちの船は座礁させられる可能性が高い。そしてお前たちは自由に動き回り攻撃してくることが予想される。油を使えば、下手をすれば、こちらのほうが火の被害に遭うからな。だが、石鹸水であれば、猛虫だけを効率的に殺すことができる」
青遠鴎が水桶を振りながら叫ぶ。
「何っ、そんな方法が」
緑小蚤は慌てて自分たちの猛蚤に目を移す。界面活性剤によって気門を塞がれた彼の可愛い虫たちは、呼吸困難を起こして虫の息になっている。
「よし、息の根を止めてやったぞ。弓部隊あとは任せた」
水桶を持っていた男たちが後退し、代わりに弓を持った兵士が前進する。
「あとは猛虫使いだけだな」
矢が一斉に放たれる。
「ひぎゃあ」
緑小蚤は無数の矢を体に浴び、海面へと落下する。船頭も矢を受け死体となる。
「上陸部隊、下船せよ」
旗艦の船長の声とともに、武器を持った兵士たちが浅瀬へと飛びこむ。
「わっ、敵が来るわ」
象の上の緑純鮎は、投石機を解除して動きの速くなった象から順に、敵兵に突撃するように命じる。水飛沫を上げながら突進する象の体当たりを受け、兵士が次々と撥ねとばされる。
「ひっ、どうしましょう」
旗艦の船長が、黒覆面に声をかける。
「はい、分かりました。手筈通りに、猛獣は火で追い払えと」
船上から浅瀬の兵士たちに、火の点いた松明が渡される。兵士たちは剣を炎に持ち替えて、象を追い払おうとする。その様子を見て、緑純鮎が馬鹿にしたように笑う。
「他の部族の獣たちはともかく、私たちの部族の象たちは厳しい訓練を経て戦場に出てきているのよ。そんな火などは恐れはしないわ」
燃え盛る松明を持った兵の腕に、象の鼻が巻きつけられた。象はそのまま松明を奪い、持ち主の顔にその先を押しあてる。
「ぎゃああああ」
肉の焼ける臭いがした。苛立たしげに、黒覆面が船長に耳打ちをする。
「船の上の者は、象の上に乗っている乗り手を射抜け」
だが、矢は大きな盾で阻まれてしまう。この程度の反撃は予期されている。猛虫を撃退して、意気昂揚していた一同に、急に手詰まり感が漂い始める。船主は船乗りたちの不甲斐なさに憤っている。
何かする気かもしれない。黒覆面の様子をずっと監視していた司表の部下の青凛鮫は、船主の近くで成り行きを見守る。黒覆面は屋形に入り、抜き身の剣を握り戻ってきた。戦う気か。青凛鮫は驚く。彼一人が剣を取っても戦況は変わらないだろうに。
「奮戦せぬか」
怒気を露わに黒覆面は叫ぶ。そして、船上から跳躍して象の近くに着水した。
「あの黒服の男を先に倒しなさい」
緑純鮎は鋭く叫ぶ。野性の勘だ、あの男は放っておくとまずい。動きだした象にむけ、黒覆面が猛然と走る。象とすれ違った瞬間、船主の剣が一閃し、象の前足が切断された。象が前のめりに倒れる。と同時に黒覆面は垂直に跳びあがる。象使いと同じ目線の高さまで跳ぶ。象使いは慌てて盾を突きだす。だがその盾を断ち割り、黒覆面の剣は象使いの喉を貫く。
「奮戦せよ」
象の上に着地した黒覆面が、扇動するようにもう一度叫ぶ。全軍が奮い立つ。今まで及び腰だった兵士たちも、象に群がり引き倒し始めた。黒覆面は、たった剣の二振りと怒声で、彼らの闘争本能に火を点けた。剣が煌き、矢が飛び、象と象使いたちは人の波に飲まれていく。
「きゃああぁ」
族長の緑純鮎も水面に投げだされた。緑純鮎の姿はまだあどけない少女だ。血気盛んな兵士たちも、命を奪うのを一瞬ためらう。その人垣を掻き分け、黒覆面が少女の前に立つ。
「お前がこの象軍団の軍団長か」
「そうよ」
「万死に値する」
次の瞬間、少女の首が胴から微かに浮きあがり、転がるように海へと落ちた。誰もができる芸当ではない。
「緑輝宮を攻めよ」
黒覆面の言葉で兵士たちは雄叫びを上げて駆けだした。大陸周回航路船の船主は、そのあとを追うように悠然と歩き始める。
青凛鮫は急いで船から降り、黒覆面の近くまで駆け寄った。幻影を打ち消す能力を持ち、類い稀な剣技を持ち、女子供であろうと容赦なく敵を誅殺し、大喝で人を動かせるほどの器量を持つ人間となると、その人物は絞られる。彼は、その条件に合う人物に心当たりがある。なぜならば、青凛鮫は白大国の兵士だが、生まれは海都だからだ。彼はこの人物が誰であるか確信を得た。
「貴様、何を人のことを見ている。それも昨日今日の話ではないぞ」
抜き身の剣を持った黒覆面の男は、象の鼻を歩きながら、背後の青族の男に問う。二人は歩き続ける。周囲には誰もいない。会話は二人にしか聞こえない。
「あなた様は、もしや私が知っているお方なのではないかと……」
幻影を打ち消す現場は、船団では青凛鮫しか見ていない。まだ余人は彼の正体に気付いていない。
「お前こそ誰だ。事と次第によっては、首を刎ねるぞ」
「私は、司表配下、青聡竜様の部下に当たる青凛鮫と申す者です。青聡竜様のご命令により、この大陸周回航路船の記録を歴史に残すべく、乗船しております」
「聡竜の下の者か。奴にはこのことは告げてはおらぬ。この仕事は聡竜とは関係のないことだからな」
「では、やはりあなた様は、海都舟大家前家長、青捷狸様ですか」
二人は沈黙したまま歩き続ける。熱い陽射しと波音が彼ら二人を包んでいる。
「青捷狸という男はここにはいない。今ここにいるのは、黒捷狸という名の男だ」
「黒捷狸様」
「名を呼ぶな、船主と呼べ」
「では、船主様。なぜ名を変え、姿を偽り、この度の航海に出られたのですか」
「政治的配慮だ。ただでさえ人々の耳目を騒がす大陸周回航路船の船団だ。海都の舟大家家長が黒都にむかったと聞けば、衆論世情を騒がすことになろう」
「だから、青美鶴様が二十歳になるのを待ち、隠居という形で姿を隠されたのですか」
「そうだ」
「このことは青聡竜様にも告げていないとおっしゃいましたが、青美鶴様には明かされているのでしょうか」
「あれとは関係のないことよ」
「ではお聞かせください。船主様は、何のために黒都にむかおうとされているのですか」
そのとき、矢を剣で弾く音が響いた。黒捷狸が飛んできた矢を払い落としたのだ。
「ここは戦場だ。青聡竜の部下は、少しお喋りが過ぎるようだ」
いつの間にか海岸まで歩いてきていた。砂浜の先には、緑輝兄妹が住まう緑輝宮が見える。その最上階には複数の人の姿が見えた。海と緑輝宮までの距離はそれほどない。しかし、その間には多くの兵士や猛獣、猛虫が立ちはだかっている。青凛鮫は短剣を抜き、黒覆面のあとに続き、砂浜へと上がった。
海上とは別の一行がいる。
象の牙の遥か手前で下船して、密林を抜けて緑輝宮へとむかう白大狼たちだ。一行は全員同じような大きさの袋を背負っている。彼らは別働隊として、背後の密林から緑輝宮へと潜入する手筈になっている。
それとは別に、いくつかの船も戦場の手前で停船していた。戦闘に参加する気はないが、この場所には来る必要があった者たちである。全てが終わったあとに、危険のなくなった緑輝の宮殿を物色しようと思っている商人たちや、無理矢理戦場に送られた海都の荒事師たちである。
青騒蜂もこの一団にいる。他の荒事師たちと違い、復讐に燃える彼女は、武装し密林にむかう白大狼たちを追い、同行を懇請した。だが、実力も分からない女荒事師を加えてくれるわけもない。願いは一蹴される。彼女は仕方なく、見失わない距離を置きながら白大狼たちのあとを付けることにした。
「白大狼様、あれでは目立って仕方がありません」
密林の中、白都の兵士白愛鹿が後ろを気にしながら呟く。
「そうだな作戦の邪魔になるやもしれん。兵士に告げ、引き返すように説得に当たらせよう」
白大狼は、兵士の中で最も交渉に長けた者を選び、追ってくる女性の説得にむかえと命じた。今から戦闘だと思っていた兵は、面倒な任務を頼まれたと、落胆しながら隊列を離れていく。白大狼は兵たちに足を止めないように告げ、西へと前進させる。
背後で兵の悲鳴が上がった。白大狼の部隊と、青騒蜂の足が止まる。青騒蜂にむかわせた兵が血まみれになって死んでいる。どこかに敵がいる。各々が自らの武器を構え、周囲からの襲撃に備える。
列の端にいた兵の悲鳴が次々とあがる。いつの間にか四人、頭を割られて死んでいる。どこだ、どこに敵はいるのだ。
辺りは鳥獣の声と木々の緑で満ちている。襲撃者がいるにしても、その音や形を特定することは困難である。見えぬ敵を警戒して、いつまでもここで時間を空費すれば、救出部隊は使命を果たせなくなる。それどころか、先ほどの襲撃者を早く捕まえて処分しなければ、緑輝兄妹に通報されるかもしれない。
「白大狼様。ここは私が囮になり敵を引きつけます。その隙に先へと進んでください」
白恭雁と呼ばれる兵士が列を離れた。
「待て」
止めようとして白大狼が声をかけた瞬間、白恭雁の頭が、頭上から延ばされた獣の黒い腕によって飛ばされた。首元から血を噴き上げながら死体が倒れる。ほとんどの人の目には、首が勝手に落ちたようにしか見えなかった。
「豹だ。それも黒い豹だ」
白大狼が警告を発する。
「黒豹だって」
孤立している青騒蜂がその言葉に動きだす。襲撃者は、緑珍鼠という名の、人豹一体の猛獣使いだ。この密林は、彼の最も得意とする戦場だ。侵入者が地面の上しか移動できないのに対して、彼はこの場所を豹の背に乗ったまま上下にも動くことができる。
「どこだ、出てこい豹使い。この腕の仇、今こそ晴らしてくれる」
青騒蜂が叫ぶ。白大狼の部下たちが緊張する。彼女はこの作戦の目的を知らない。ここで騒がれては、彼らの存在を知らせてしまう。黙らせねば。全員がそう思い殺気を放つ。
「弓を貸せ」
白大狼は剣を鞘に収め、矢の狙いを青騒蜂の頭に定める。木々のざわめきを見ながら時機を計り、矢を放った。その瞬間、彼女の頭を狙った黒い腕が葉の間から現れ、矢はその腕に突き刺さった。豹の爪は逸れ、青騒蜂の頭をかすめる。だがそれだけでも彼女の頭には大きな傷ができ、派手に血を飛び散らせた。潜入戦に必要だろうと、毒を塗っておいた矢だ。豹の体格では痺れ薬程度にしかならないだろうが、それでも足止めの効果はある。
「先に進むぞ」
弓を兵士に返しながら、白大狼は失った時間を取り返すために早足で進みだす。他の兵士もそのあとを追う。別働隊は急いでその場を立ち去り、あとには豹と豹使いと電撃使いが残された。
青騒蜂は側頭部の出血部を押さえながら立ちあがる。頭上からは黒豹の巨体が落下してきた。その巨躯との衝突をすんでにかわす。
「おおぉ、大丈夫か」
樹上から、緑珍鼠の哀訴の声が響いてくる。豹の安否を心配しているのだ。青騒蜂はふらつく足を踏みしめ、匕首を構える。どこにいる。どこから攻撃してくるんだ。茂みが風もないのに揺れて音を立てる。緑珍鼠が移動しているのだ。身の軽い豹使いは、豹から降りても木々の枝の上を素早く走り回れる。彼女は豹使いの発する音から距離を取ろうと移動する。失血で意識が遠のき始める。敵の位置が特定できなければいずれ殺される。どうすればいい。青騒蜂は敵の立場になって考えた。
そうか。
青騒蜂は駆けだす。その行きつく先には、毒を受けて倒れている豹の姿がある。匕首の先を豹にむけ、全力で疾走する。
「やめろ」
真っ黒に日焼けした小男が枝を伝って跳んでくる。やはりそうだ。豹使いにとって豹は家族も同然。その命を救うために一目散にむかってくる。青騒蜂は足場の悪い密林の大地を駆け、豹の体を飛び越えた。そして振りむき様に匕首を豹にむかって投げつける。匕首には紐がついており、その紐にはたっぷりと鉄粉が塗りこんである。
豹使いが豹を守るために立ちはだかる。そして、手に持った鉄爪で受け流そうとする。匕首と鉄爪が触れた瞬間、電撃が彼の体に伝わってきた。
「ぎゃぁああああ」
悲鳴とともに緑珍鼠の穴という穴から血が噴きでる。青騒蜂はすぐに次の匕首を取りだし、豹使いと豹に止めを刺した。よし、左腕の仇は取った。その気の緩みと、頭からの出血で彼女の意識は遠のく。緑珍鼠に折り重なるように、彼女はその場に倒れた。
十七 緑輝宮の決戦
密林は急に途切れ、その先にある石畳の庭のむこうに、緑輝宮の姿が見えた。人々の姿はない。海側から攻めてきた船団との戦いのために、裏手は完全に無防備になっていた。おおらかというべきか、杜撰というかべきか。ともかく緑輝宮の裏手に人影はない。
白大狼は指示を出し、長焉市で用意させた荷物を各人に装着させる。頭部を完全に覆う鉄兜だ。この地方は灼熱の地である。ぎりぎりまで、この装備を付けずに密林を突破する必要があった。そうしなければ、熱にやられて戦いの前に死んでしまう。そのため、袋に入れて運んできたのだ。
なぜ鉄兜なのか。その理由を白大狼は部下たちに教えていない。史表の記述から、その対策を案出したからだ。緑輝は幻覚の能力を持っている。そのことは青遠鴎の報告と、黒覆面からの情報で知った。そして史表を読めば、異能者が持つ幻覚の能力とは、脳から発せられる強力な思念波によるものだと知ることができる。この思念波が、他人の脳に影響を与え、幻覚を生じさせるのだ。史表には、思念波と電磁波は非常に似通った特性を持つとの記述もある。また別の巻には、電磁波は金属の遮蔽物で防げるともある。白大狼にはこの電磁波という白賢龍の造語の意味は分からない。だが、金属の遮蔽物で頭部を覆えば、異能者の幻覚、つまり思念波を防げるという推論は行なうことができる。
史表の文言は、歴史上の事実と、そのことに対する白賢龍の所見で成り立っている。事実のほうが圧倒的に多い。だが、所々に現れる、著者の独白とも言えるような微かな記述に、白賢龍の見ている世界の欠片が混在している。白大狼は、まだその全てを結びつけて、白王の心象世界を己が物にできているわけではない。しかし、それでも個々の事象を繋ぎ合わせ、余人にはできない思考を行ない始めている。
全員兜を被った。一気に頭部が蒸し風呂状態になる。これは、早く緑輝宮に潜入して目的を達さなければ全員倒れてしまう。
「誰か、偵察と先導をする者が必要だ」
白大狼は鉄の面当ての奥で、こもった声を響かせる。
「ぜひ私めに」
白麗蝶を逃がした白好鳩の弟白愛鹿が、この危険な役目に名乗りを上げる。
「よし、警戒しながら、できるだけ早く頼む」
全員が兜の中でくぐもった笑い声を漏らす。急いでくれないと、暑さで倒れてしまう。白愛鹿は頷き、よたよたとした足取りで庭を横断し始める。緑輝宮に達した。侵入口から中を覗きこみ、後続を手招きする。こうして、緑輝宮への侵入が始まった。
緑輝宮の中は予想外に涼しかった。これなら、鉄兜もさほど気にならない。予想していたよりも快適な環境であったために、白大狼の一隊は焦ることもなく、冷静に事を運んでいく。各部屋を調べ、敵であれば素早く毒矢や剣で始末していく。一階、二階を制圧し、三階へとむかう。
この建物には、この手の宮殿に付き物の奴隷の姿はない。緑輝の部下たちは、強要されなくても進んで仕事をこなすからだ。このことは、誰も緑輝を裏切らないということも意味する。おかげで侵入した彼らは、一切の情報を得られないまま、各階の全ての部屋を見て回る羽目になった。
無駄に時間が過ぎていく。だが、緑輝と出会う前に白麗蝶を救いだせればそれでいい。鉄兜で幻覚は防げるはずだと白大狼は思っているが、緑輝兄妹相手に実験を行なったわけではない。遭遇しないに越したことはない。
各階層は、金字塔状に上部が狭くなっている。この次の階辺りが最上階だろう。行動が裏目に出てしまった。白麗蝶は最上階にいたようだ。完全に遠回りをしてしまった。
鉄仮面たちは頷きあい、白愛鹿がまず偵察のために階段を上っていく。
白愛鹿は周囲をせわしなく見る。兜のせいで視界は狭い。そのわずかな隙間から必死に危険がないかを探し続ける。顔をそっと潜望鏡のように階段の上に出した。緑族の男女と、幼い少女、それに青族の青年と白族の女性の後姿が見える。あの女児が白麗蝶だろう。彼らは、壁のない南面の解放部から眼下を見下ろしている。砂浜の戦闘を観戦しているのだ。一同は関心したり、驚いたりしている。白愛鹿はゆっくりと頭を下げ、階段下の仲間に、取り決めておいた白麗蝶のいた合図と、緑輝兄妹がいた合図を指で示した。
「何をしておるのだ」
白愛鹿の頭上から声が降ってくる。白麗蝶が、いつの間にか彼らの気配に気付き、階段の上から見下ろしていた。白大狼が、こちらに来いと白麗蝶に手で示す。
「おおぅ、これは鉄の仮面が鈴なりだ」
南国には不釣合いの一団を見て、白麗蝶は驚嘆の声を出しながら階下を覗きこんでくる。彼女は全身を蔓状の化粧で覆い、半裸に近い緑族風の衣装を着こんでいる。まだ幼女とはいえ、全員目のやり場に困る。
「どうした」
緑輝蝗が声をかける。
「緑輝宮には変わった兵がおるのう。鉄で首から上を取り囲んだ兵たちが、わらわらとおるぞ」
「そんな兵士はここにはいないわ。お兄さま、侵入者よ」
「何、白麗蝶、青勇隼。首を刎ねてしまえ」
「はっ」
青勇隼は腰の二本の剣を抜き、その一本を白麗蝶にむけて投げる。弟子の剣を受け取った小さな師匠は白愛鹿の兜目掛けて剣を振り下ろす。白愛鹿は避けようとして平衡を崩し、階段を転げ落ちた。白麗蝶の剣は空を切り、豆腐のように簡単に大理石の床を切り裂く。
「むっ、逃げる気か。青勇隼来い、師弟合体攻撃だ」
「えー、こんな発育していない幼女と合体しても楽しくないし」
「つべこべ言わずに肩車をするのだ」
「弟子使いの荒い師匠だな」
階段の上まで駆けてきた青勇隼の上に飛び乗り、二人は縦に連なる。緑輝宮の天井は高い。肩車をして剣を振り回しても、天井にはかすりもしない。
「駆け下りろ」
白麗蝶の命令で、四本の腕を持つ合体剣士が滅多矢鱈に剣を振り回しながら鉄仮面たちに突撃した。白麗蝶を取り押さえるために兵士たちが殺到する。すぐさま数人の兜が割られ、絶命する。
「剣を奪え青勇隼」
青勇隼は倒れかけた兵の手の平から、剣を奪って頭上の白麗蝶に放る。もう一本奪って今度は自分の二本目の剣とする。合計四本の剣を持つ異形の剣士が誕生する。兵士たちの集まる場所のど真ん中に立ち、彼女らは勝手気ままに剣を振り回す。近づく者は、青勇隼に腕を切られ、白麗蝶に兜を砕かれていく。少女は奇声を上げる。どうやら彼女は鉄の仮面を思いっきり叩き割りたかったようだ。そのために、青勇隼に肩車を命じたのだ。転がり落ちた白愛鹿は、地面に頭を打って気絶したせいで難を逃れる。
「ほう、これは面白い」
緑輝蝗と緑輝蛍が上階から楽しそうに見下ろす。
「緑輝の二人を矢で狙え」
白大狼の言葉で、慌てて兵士たちが弓に矢をつがえる。毒矢が一斉に緑輝にむけて放たれる。だが、その矢は空中で制止した。
「どうしたのかしら、矢で狙うのではなかったの」
眩いばかりに美しい緑輝蛍が、笑いながら白大狼に問いかける。これは幻覚か。いや、幻覚の影響は受けていないはずだ。矢に絡み、受けとめているものがある。それは植物の蔓だ。緑輝蝗と緑輝蛍の全身をくまなく覆うように、葉に覆われた植物が繁茂しているのだ。緑族の蔓の紋様の代わりに、本物の蔓が体の各所から生えているのだ。蔓はこの兄妹の体を苗床にして、美しい花を咲かせている。
白大狼は顔をしかめる。
「昔、本で読んだことがある。緑族の化粧の起源には、一般的に信じられているのとは違う、もう一つの説があるそうだ。かつて伝説の時代には、虫や獣を退けるために、自らの肉体に特殊な蔓性の植物を植え付ける一族がいたという。他の緑族の者たちは、その植物の効果にあやかるために、化粧を蔓状に描いたそうだ。この伝説では、このことが緑族の、蔓模様の化粧の始まりだとされている」
緑輝蛍は、白大狼の言葉を聞いて、笑い声を上げる。
「博学ね。そう、私たちは、あなたが今話した蔓性の植物と共生していた一族の末裔よ。ただし、私たちの体に生えているのは、伝説の時代に植えられていた蔓とは全く別種のもの。黒都から散逸した猛虫のおかげで、密林の生態系は大きく変化したわ。その環境変化は新種の植物を生みだしたの。森を荒らす猛虫を退け、森に踏みこんでくる人間の精神を支配する強力な植物よ。私たちはこの植物を、緑輝蔦と呼んでいるわ。植物は動物よりも何倍も早く進化し、環境に適応するの。特にこの密林ではね」
緑輝兄妹が階段を一段ずつ降りてくる。それに合わせて、彼らの足元から蛇のような蔓がその先端を伸ばし広がっていく。蔓は足元を覆い、怪しく美しい花を咲き乱れさせる。花は意思を持つように、その花弁を白大狼たちにむけ、何かを照射してくる。
「貴様ら、幻覚能力を持った植物を体内で育てているのか」
白大狼は叫ぶ。
「おおっ、輝蛍よ、この男は素晴らしい。我々の能力を一瞬で見ぬいたぞ。こういう軍師を持ちたいものだなあ」
「それよりもお兄さま、この鉄仮面たちには私たちの幻覚が効いてないみたいよ」
「どうやら対策は功を奏したようだな。幻覚の能力は金属の板を越えて影響を与えることはできないようだ」
白大狼は素早く剣を逆手に持ち替え、合体剣士にむかって駆けだす。白麗蝶と青勇隼の四本の剣の攻撃を素早くかわし、二人の腹に一撃ずつ与え、気絶させる。
「全員、緑輝兄妹を討ち取れ」
鉄兜の兵士たちが剣先を煌かせ緑輝の二人に殺到する。その兵士たちの足が、緑輝蝗と緑輝蛍の直前で止まった。
「どうしたお前たち」
白大狼は叫ぶ。
「ほほほほ、戦いの種明かしは、勝利が確実になるまでは口にしては駄目よ。あなたたち、鉄の仮面を外しなさい」
兵士たちは鉄兜を脱ぎ捨てる。
「どういうことだ」
「輝蛍よ、俺も分からないぞ。この兄の頭にも理解できるように教えてくれ」
「あら、お兄さまったら、やっぱりお馬鹿ね。彼らが取った鉄の防具を持ち上げてみると分かるわよ」
「持ち上げてみたが分からぬぞ」
「下から覗いて見るといいわ」
「うむ、がらんどうだ」
「もう、鈍いわね、お兄さま」
白大狼は、全てを悟ったという顔をして、苦々しげに声を吐く。
「そうか、分かったぞ。脳を覆い隠していない方向が一ヶ所ある。足元だ」
「まあ、よく分かったわね。お兄さまの言う通り、あなたを、緑輝王朝の軍師に欲しいわね」
既に緑輝兄妹の足元から伸びた蔓は、白大狼の足元まで伸びている。意識に鈍い靄がかかる。緑輝蝗と緑輝蛍は仲よく手を握りあう。それが合図のように、照射される幻覚作用を持つ波動の力が数倍になった。
「あなたも私たち、緑輝の手下になるのよ」
「それは困るな」
三階の廊下の端から、剣が唸りを上げて飛んできた。緑輝蝗と緑輝蛍は手を離す。その間を剣が通過し、大理石の階段に突き刺さる。廊下の端には、黒覆面や青凛鮫、その他海側から攻めてきた者たちがいる。白大狼たちが各階の敵を殲滅しながらこの建物を上ってきたのは無駄ではなかった。緑輝宮に入った海軍勢が、一気にここまで駆け上ってこれたからだ。
「ふんっ、者どもかかれ」
緑輝蝗が新たに彼らの配下になった兵士たちに命じる。兵士たちは武器を構え、猛然と廊下を駆けだした。廊下の端からも武器を携えた一団が走りだす。一同がぶつかる。その合間を縫って、黒覆面が飛びだした。緑輝蝗と緑輝蛍の顔色が変わる。彼らはこの黒衣の男こそが、長焉市で巨大芋虫の幻覚を消した人物、そして彼らの唯一の天敵と言ってもよい破邪の能力を持った人物、だと分かった。
緑輝の二人は階段を駆け上がる。その途中、緑輝蝗は、黒覆面の投げた剣を引き抜く。彼らは、普段は武器を持つ必要がないので、剣など一切持っていない。そのあとを追う黒覆面は、黒い外套をたなびかせながら疾走し、階段を跳ねるように上っていく。緑輝蛍は、四階にいた白楽猫を黒覆面へむかって突きとばした。黒衣の男は左手で彼女を弾きとばす。緑輝蝗は剣を構えて妹の前に立ち塞がる。
「くくく、緑輝よ、万事休すだな。お前たちも異能者なら知っているだろう。異能は、近づけば近づくほど効果が強くなる」
黒衣の船主は覆面を取り、両の眼で緑輝兄妹を見つめる。この目は、海風神社の巫女であった母から継承した能力だ。緑輝たちの顔から生気が失われていく。二人の美しい姿は掻き消え、葉で覆われた異形の姿が現れる。緑輝蝗は剣を取り落とす。
「きっ、貴様」
緑輝蝗と緑輝蛍は膝を付き、悲鳴を上げながらその場に倒れた。黒捷狸は、他の者がこの部屋に来る前にふたたび覆面を被る。
「くくく、世の中には絶対的な相性の悪さというものがあるのだよ。まあ、異能を持つ全ての人間にとって、わしは天敵なのだがな」
人々が階段から部屋に駆けこんできた。白大狼もいる。彼は緑輝の呪縛から逃れていた。気絶していた者以外、緑輝に操られていた人間たちは、彼と同様にすぐさま自分の意思を取り戻した。気絶した者たちも、目が覚めれば同様に元の人格になるだろう。
白大狼が剣を構えて緑輝を刺し殺そうとする。それを黒覆面が制した。
「なぜ止めるのです」
「白大狼様、せっかく生きたまま捕らえたのです。ここで殺すより、長焉市に身柄を運び、死刑にするほうが政治的に好ましいでしょう」
大陸周回航路船の船主の言葉に白大狼は頷く。黒覆面はしゃがみこみ、緑輝兄妹を裸にして、その体に生えている蔓と葉をむしり始めた。
「護送中、また幻覚能力を使われてはたまらないでしょうから。白大狼様、あなたはそこの露台から、浜辺の者たちにむかって、緑輝を捕らえたことを宣言してください。そうすればこの戦争は終決します」
「分かった」
白大狼は壁の開放面に立ち、眼下の兵士たちにむかい勝利宣言を行なった。兵士たちは大歓声を上げる。その声援を背後に受けながら、白大狼は階段を駆け下りる。白麗蝶の安否を確認しなければならない。白大国の兵士たちが、既に人垣を作り、白麗蝶の周囲を警護している。
「麗蝶」
半裸の状態で、全身に奇怪な化粧を施している少女に活を入れる。
「ふにゃ、大狼どうしたの」
白麗蝶は、まだよく状況を飲みこめていない。白大狼は思いっきり振りかぶり、白麗蝶の頬を叩いた。激しい音が廊下にこだまする。白麗蝶は、目に涙を浮かべる。
「うわーん、大狼がぶったー」
少女は大声で泣きだす。その彼女のもう片方の頬を、白大狼は厳しく叩く。白麗蝶は、潤んだ目をしたまましゃくりあげる。
「分かっているのか麗蝶。お前が自分勝手に城を飛びだしたせいで、どれだけの人に迷惑をかけたのか。そして、麗蝶のお父さん、お母さんをどれだけ心配させたのか」
白麗蝶は両頬を真っ赤に腫らして目から涙をぼろぼろと流している。
「分かっているのか麗蝶」
彼女のお守役の従兄弟は怒鳴る。
「うわーん、ごめんなさい。大狼、私が悪かったわ」
武人顔負けの体術を使い、冒険家も敵わぬ行動力を持つ少女も、泣きだしてしまえば年相応の子供になる。白大狼は、優しく白麗蝶の頭を撫でてやった。
「痛てて、ありゃ、どうなっているんだ」
気絶していた青勇隼も兵士に活を入れられて起きる。他の気絶していた者も目を覚ましていく。
「あの、白麗蝶様を許してあげてください」
階段から下りてきた白楽猫が、主人の許しを請う。
「白麗蝶様は一国の元首になられるお方、ならば世間を広く知っておくことも肝要かと思います」
「それが誘拐の理由か」
白大狼は、その女性の顔を冷然と睨む。白楽猫はその目に気圧され黙りこむ。
「貴様、名は何と言う」
「はっ、白楽猫です」
恐る恐るそう答える。
「白麗蝶皇女誘拐事件の主犯として、特級犯罪者白楽猫を逮捕する。白都に護送後、衆目の下で刑の執行を行なう。捕縛せよ」
彼女と同じ年頃の少女が、白麗蝶を連れて白都を抜けだしたことは既に知られている。人相も聞いている。兵士たちが彼女に殺到する。白大狼は、白麗蝶の視界からその様子を隠す。
「楽猫」
白麗蝶は慌てて叫ぶ。だがそのときには、白楽猫は兵士たちに打ち据えられ荒縄で縛られ気を失っていた。
「緑輝の二名を運ぶ檻も用意せよ。あと船を緑輝宮前の海岸に回すように伝えろ。白麗蝶は確保した。また種々の犯罪者たちも捕まえた。あとは帰還するだけだ」
「はっ」
兵士の一人が駆けだす。黒覆面が下りてきた。
「あなた方は帰るのですね。帰還準備を手伝いましょう。我々は、あなた方が発ったあと、ふたたび黒都を目指します」
「損害は出ましたか」
「二隻、大陸周回航路船を失いました。残りは七隻。ですが心配は要りません。元々この地は戦闘の上、突破するつもりでしたので。緑輝を根絶やしにできたのは収穫でした。我々にとっては、長焉市への緑輝襲撃が結果的に有利に働きました。たった三隻の損害で、この地の障害を根絶できたのですから。
白大狼様、帰還の途中、長焉市に寄港の折りには、この地に軍隊の派遣を行なうよう、白大国軍に申し伝えておいて頂けないでしょうか。長河の下流域を担当する軍団長にとって、この地を真空地帯にするのは得策ではないはずです。緑輝という危険物も排除できた今、一気に占領してしまったほうがよいと思います」
「分かった、そのことを伝えよう」
「よろしくお願いします。そうすれば私たちの帰りの船旅も、快適なものになるでしょうから」
白大狼と黒覆面は、固く握手を交わし、南海での勝利を祝しあった。
三日後、西に進む船と東に戻る船はともに緑輝宮前の砂浜をあとにした。黒覆面率いる大陸周回航路船は西への旅を再開し、白大狼の乗る船と長焉市から参戦した船たちは東への帰路を取った。船は波を切り分け、互いに離れていく。
二日後。大陸周回航路船が順調に帆に風を孕んでいる頃、東にむかった船団は危機に直面する。
大渦風。
その名で呼ばれる暴風雨に巻きこまれたのだ。風、雨、雷、波。全てのものが悪意をもって彼らに猛然と牙をむき、無力な船を翻弄する。船室は激しく掻き回され、中の人々の生きる意思は挫かれ、波が甲板の人々を洗い、吹き飛ばされた船が他の船の腹に穴を空ける。
船に乗っていた者たちは、自然の恣意によって生きる者と死ぬ者とに分かたれた。海神の好まぬ輩は海の藻屑となり、慈悲を受けるに値する人は命を救われた。ある者は大陸の東岸に運ばれ、他の者は南岸に流れつき、そして特別な運命を持った者たちは、特別な場所へと導かれた。
風は、雲を運び雨を降らせるように、人を運び歴史を作ることがある。少なくともこの大渦風は、そのために生を受けたように振舞った。一隻の船が、黒都ゆかりの海上都市へと運ばれていく。
浮都。
その場所に、金大家の作らせた大陸周回航路船は流れついた。
十八 浮都
「暇だな」
浮都と呼ばれる海上都市の岸壁で、釣り糸を垂らしている若者がいる。一年前、男は小船でこの島にやってきた。数日商売をして、さて帰ろうとしたら、やって来た陸が姿を消していた。この島は、動く島らしい。そのことを知らずに浮都に乗りこんでしまったこの商人は、売る物も尽きてしまい、仕方なく釣り糸を垂らして日々の糧を得ている。
「陸は見えねえな」
釣りをしているのは、陸を見逃さないためでもある。だが、小船でたどりつけそうな陸地は、なかなかこの浮都の近くに現れない。お陰で釣りの腕も随分上達した。
「おっ、魚がかかった」
小太りの男は竿を引く。今日の食事はこれで大丈夫だ。魚を魚篭に詰め、ごろりと横になる。この場所で過ごしていると、商人としてあくせく生きていたことが馬鹿らしくなってしまう。ほとんど何もせずとも、この島では食っていけるからだ。
「はあぁ、暇だな。陸が見えないなら、代わりに何か流れてくればいいのに」
男の願いはすぐに叶った。起きあがって海を見ると、海上に難破船を発見したからだ。
「げっ、えらい立派そうな船だ。長老に報せに行ったほうがよさそうだな」
その男、黒煩鴨は魚篭を放りだし、艦橋と呼ばれる長老の執務室へとむかった。
難破船は曳航され、浮都の岸辺に接舷された。この者たちがどのような素性の者か、浮都の住人たちは知らない。だが黒老珊は市民に指示を与え、船内から二人の人物を探して、浮都に上陸させるように命じた。白大狼と白麗蝶である。他の者たちは、船内に待機を命じられた。その代わり、医者が乗船して怪我人の治療を行なう。
浮都の大地に、白大狼と白麗蝶は立った。浮都の代表者である老いた人物黒老珊は、彼らにお辞儀をする。
「お待ちしておりました白大狼様、白麗蝶様。私はこの浮都の長老の黒老珊という者です。私は三十年以上、海上を彷徨っておりました。そして白大狼様、あなたがこの地を訪れるのを十年待っておりました」
さすがの白麗蝶も、精魂尽き果て疲労の顔色を浮かべている。白大狼もそれは同様だ。だが、白大狼は白麗蝶よりも体力がある。物を考えるだけの余力も残している。
「黒老珊と言ったな。なぜ我々の名前を知っている」
まだ名乗りも上げていないのに、彼は二人の名前を正確に呼んだ。白大狼は、老人のことを警戒する。黒老珊はその様子を見て、人のよさそうな笑顔を浮かべた。
「お腹がお空きでしょう。食事を取り、それから詳しい話に入りましょう。船上の方々にも同様に食事をお持ちします。私は、あなた方に伝えなければならないことがあります。その話が終わるまでは、あなたたちのお仲間には、少しだけ窮屈な思いをしていただかねばなりません。さあ、すぐに食事をお持ちします」
黒老珊の命令で、いろとりどりの果実が運ばれてくる。空腹には勝てない。白麗蝶は貪るように食べ、白大狼はそれらの品々を確かめながら口に運んだ。食事が終わったあと、黒老珊は口を開く。
「さあ、艦橋に行きましょう。白大狼様の来訪を告げた、シヒョウをお見せします。また、白麗蝶様には悲しいお知らせをしなければなりません」
「シヒョウだと」
白大狼は驚きの声を上げる。
「そうです。この浮都にはいくつかのシヒョウがあり、そのシヒョウには未来が示されています。そして、白大狼様の来訪も、そのシヒョウによって十年前から告げられていました」
どういうことだ。白大狼と白麗蝶は顔を見合わせる。シヒョウというのは、白賢龍が書いていた歴史書のことではなかったのか。二人を連れた黒老珊は、島の中心の塔状の建物に入る。そして階段を上り、一つの部屋に入った。室内には光がない。黒老珊は明かりを持ってこさせ、周囲の様子を二人に見せる。部屋の四方にはいくつかの石板が並べられ、立てかけられている。その黒曜石のような光沢を持つ石板の表面には、無数の文字が刻まれている。
「これは一体」
その文字の溝を指先でたどりながら、白大狼が質問する。
「この石板は、シヒョウと呼ばれる、ある種の受信機です」
「受信機とは」
部屋の中央に明かりを起きながら、黒老珊は問いに答えていく。
「ある人物の思念波を受けとり、可視化するための道具です。それぞれのシヒョウが、それぞれの問いに答えてくれるおかげで、私はこの辺境の海上にありながら、世の中の動静をこの目で見ることなく、知ることができております」
「世の中の動静はどうなっている」
もしこの地にあり、大陸の正確な情報を得ているならば、この男の言葉も信憑性があるといえる。
「平原を支配した白賢龍様が、赤族の住む草原を得るために戦争を仕掛けております。そのために、白賢龍様は広源市という都市に移動し、現在は閉腸谷と呼ばれる草原寄りの地まで移動されました。赤族の族長は、現在赤栄虎と呼ばれる青年が担っております。彼は少数の配下を率い、長駆海都を突き、現在草原へと帰還しているところです」
まるで見てきたように黒老珊は大陸の戦の経過を語った。白大狼が知らない情報も多い。白都を発ってから大分経つ。その間にこのような進展があったというのか。
「それと、白麗蝶様には、不幸なお知らせもございます」
黒老珊は悲しそうな目で、まだ年端もいかぬ少女の顔を見た。
「何があったの」
白麗蝶は、その表情を見て、心配そうに黒老珊に問いかける。
「白淡鯉様が、命を落とされました」
「嘘、お母さまが」
「残念ながら真実です」
少女は目に涙を浮かべる。彼女が家を飛びだし、遊び回っている間に、母親が死んでしまうなど、想像もしていなかったからだ。声を上擦らせながら、白麗蝶は大粒の涙をこぼす。
「わーん、大狼、お母さまが、お母さまが」
白麗蝶が落ちつくのを待って、黒老珊は口を開く。
「もう一つ、重大な未確定の未来があります」
「それは何だ」
この部屋の独特の雰囲気がそうさせているのだろうか。白大狼は、この老人が語る言葉には嘘偽りがないと感じ始めていた。シヒョウ。その不思議な響きの言葉からもたらされる情報には真実が隠されている。白賢龍の著した史表以外にも、同様に真実を記した存在があるのかもしれない。この部屋の石板を見て以来、彼の心はそう考えることに傾いている。
「その重大事項とは、白賢龍様の数十日後の死です」
「うわーん、お父様も死んじゃうの」
白麗蝶が大泣きする。彼女は自分が家出したことで、両親が命を落とすことになったと思いこみ、自分の行動を白大狼にむかって懸命に詫びる。白大狼は、少女を抱きしめ、彼女のせいではないと、慰めてやる。
「黒老珊よ、未確定の未来と今言ったな。白賢龍の伯父さんの死は確定ではないのだな。まだ生きている、そして助かる可能性があると言うのだな」
「まだ生きています。しかし、助かる可能性があるかどうかは分かりません。シヒョウはありとあらゆる問いに答えてくれる石板です。それは例え未来のことであろうとも、尋ねれば答えが必ず返ってきます。シヒョウはそのような存在です。
これまで、シヒョウは正確に、事実だけをその表面に刻んできました。未来予知に関してもそうです。そのため、未来に起こることを告げるとはいっても、実際にそのことが起こる直前にならなければ、その答えが示されることはありません。歴史は混沌に包まれています。その大まかな方向性は知ることはできても、正確な細部まで知ることは直前まで困難だからです」
「シヒョウとは、ある種の受信機だと言ったな。質問に誰かが答えていると言うのか。白賢龍の伯父さんが、史表という書物を著したように、シヒョウの石板に文字を刻んでいる何者かがいる。そうなのか」
白大狼の問いに、黒老珊は頷く。
「黒円虹という、黒陽会の創始者に当たる方が、人々の言葉に答えております」
「その名は本で読んだことがある。百年以上も前に活躍していた人物だと聞く。その者がまだ生きて、回答しているというのか」
「恐らくは。私もシヒョウを通して答えを得ているだけで、彼の御仁に直接お会いしたわけではありません。だが、生きていると確信に至ることがあったのです」
黒老珊は、部屋の奥にある、一枚の石板を指差した。
「これがその理由というのか」
「そうです。ただ一枚だけですが、この石板には、何の問いも発していないのに文字が刻まれたのです。そう、この文字が刻まれたのは黒都が閉鎖されて二十年後のことでした。三十年前、私は海の上で、今は浮都と呼ばれるこの軍艦の艦長をしていました。そして黒都が閉鎖してからは族長と立場を変え、この浮都の人々の生活を守ってきました。十年前、この部屋で大陸の動向を確認しているときに、この文字が石の黒い表面に走る瞬間を見たのです。
白大狼という男がこの地に現れる。その者、未来を変える力を持つ者。もし現れれば、我が許へと案内すべし。
そう文が顕現したのです。死んだ者ならば、このような言葉を発することもないでしょう。私はそれから十年、あなた様がやってくる日を待ち望んでいたのです」
白大狼はその石板を取りあげ文字を読む。表面には薄っすらと埃が積もっている。黒老珊の語った文言は確かに刻まれている。白大狼は震える指でその表面に触れる。
「未来を変える力と言ったな」
「はい、そのように文字は刻まれています」
「白賢龍の伯父さんの未来も変えられるのか」
「大狼、お父様の命を救えるの」
白麗蝶が泣き止み、白大狼の顔を見上げる。
「分かりませぬ。我が許へと案内すべし。そうとしか書かれておりませぬ。黒円虹様は、あなたが黒都を訪れることを望まれているようです。しかし、その地で何が起こるかまでは私の考えの及ぶところではございません」
「シヒョウは、問いに答えてくれると言ったな。ここからその黒円虹に問いかけることはできないのか」
黒老珊は、すまなさそうに首を横に振る。
「この地にあるシヒョウは、いずれも私がこの船の艦長になる前に運びこまれた物です。シヒョウの石板は、一枚につき、一つの問いにしか答えてくれませぬ。まだ問いを受け付けることができるシヒョウは七色に輝いています。ですが、唯一残されていた、質問のなされていなかった石板には、先ほどの文字が刻まれてしまいました。こちらから問いかけることはもうできません」
「黒老珊よ、数十日後に伯父さんが死ぬと予言されているのだな」
「はい」
「それまでに黒都に着くことはできるか」
黒老珊は少し考える。
「浮都には、まだわずかに燃料が残されています。この燃料は、このときのために残されていたのかもしれません。恐らく、黒都にたどりつけるかと思います」
「大狼、お父様の命を救えるの」
「分からない。だが、このまま白都に戻れば数十日の日数を要する。予言が真実ならば、白賢龍の叔父さんは死んでいることだろう。黒円虹という人物が何を考えているのかは分からない。だが、彼が未来を読める能力を持つというならば、石板に伝言とともに私の名前を刻んだのは、白賢龍の命を助けたくば、我が許まで来いという意思表示に他ならない。理由は分からないが、彼は私が黒都を訪れることを望んでいる」
白大狼は目を瞑って考える。なぜ、自分が呼ばれるのか、その謎を解き明かす手掛かりはない。全ては黒都の地を踏んでみないと分からない。
「よかろう、黒都にむかい、黒円虹と対面しよう」
「大狼」
白麗蝶が、白大狼に抱きつく。部屋の中央の火が揺らいでいる。その光の動きにあわせ、部屋の壁を埋め尽くすシヒョウの文字が星のように輝いている。白大狼は、彼を求める石板に手の平をあて、黒老珊の目を見つめた。
「行こう、黒都へ。何が待っているかは知らぬ。だがそれが運命だと言うのなら、私はその運命に正面からむきあおう」
黒老珊は、ゆっくりと頷いた。
「九百九十七、九百九十八、九百九十九、千」
大陸周回航路の旗艦の屋形では、黒捷狸が腹筋運動をしている。
船上の人になって数週間、海都の油まみれの食事から離れたこともあり、彼の体についていた脂肪はだいぶ姿を消していた。若者の頃ほどの引き締まった体にはまだほど遠い。だが、戦場で遅れを取らない程度には体を動かせるようになってきた。体を鍛えている効果が出てきた。黒都に着く頃には、何事にも対処できる頑健な肉体を作り上げているだろう。
汗を手拭いで拭きながら、黒捷狸は立ち上がる。部屋の壁には無数の海図が貼られ、棚には貴重な文献が並び、机の上には先日緑輝の体から剥ぎとった葉や蔓が瓶に詰められ置かれている。
「しかし、白大狼も、黒壮猿も、青聡竜も、白賢龍も、皆等しく青い青い」
黒捷狸は、堪え切れないという表情で笑いを漏らす。白大狼は、今回の一件で、彼のことを多いに信頼して帰ったことだろう。
黒壮猿も似たようなものだ。彼は青捷狸の入信を小躍りして喜んだ。そして、黒都を黒陽会のために開放すると告げたら、嬉々として黒都を開けるための鍵を錬金術で製造してくれた。
青聡竜に関しては、無欲過ぎる弟が憐れでならない。彼がその気になれば、十年前、白大国を辞したあと、舟大家の家長を継ぐこともできたのだ。だが、今となってはもう遅い。
そして、白賢龍である。
白賢龍は、最も組みし難い相手だった。運が悪ければ、彼の疑念を招き、青捷狸は立場を危うくしていた可能性もあった。白賢龍は、二十年前の彼との約束を反故にしようとしたこともある。黒都にむけ、平原南西の山脈経由で秘密部隊を派遣した。だがその一軍団は、岩竜虫によって一兵卒も残さず壊滅させられた。このことを裏から知った青捷狸は、白賢龍に激しく抗議し、黒都潜入の仕事は青捷狸の仕事であることを再確認させた。
だが、最も危険だったのは、白賢龍の異能である。その能力の内容を、婚礼準備のときに白淡鯉の口から聞きだせていなければ、今の彼の立場はなかっただろう。真筆の文書から相手の思考を読みとる能力。既にこの時点で白賢龍の実力が疑いようもないものだと確信していた青捷狸は、このとき以降、自ら文字を書くことを一切しなくなった。それどころか、彼が今まで書いた手紙や文書のことごとくを燃やさせた。その一片でも白賢龍の手に渡れば、彼の秘匿する意図が見ぬかれてしまうかもしれないからだ。実際、白賢龍は、青聡竜に宛てた青捷狸の妻の妊娠を知らせる手紙から、兄の弟に対する考えを読んでいた。
二十年。彼は周囲を偽りながら人生を過ごしてきた。だが、二十年など安いもの。黒捷狸はほくそ笑む。
白賢龍の未来予想を遥かに凌ぐ人物がいる。黒陽会始祖黒円虹だ。死表という存在を通して彼に質問をすれば、答えは必ず帰ってくる。彼が生まれたのは、百年を遥かに凌ぐ昔のことだ。だが彼は生きている。そのことを、黒捷狸は三十年以上前に黒都の王宮に潜入したときに確信した。
その長寿の秘密を解き明かせば、二十年の投資などすぐさま回収できる。白賢龍は、千年後の未来を現在に引き寄せると言った。馬鹿げたことだ。そんなことをしなくとも、千年生きればよいのだ。王が何代変わろうと関係ない。彼らを操る側の人間になればよい。わしがこの大陸を支配してやる。表には一切出ず、裏から世界を支配する真の王となるのだ。
黒捷狸は今度は腕立て伏せを始める。
「青い、青いなあ」
この航海の日数は、錆びついた腕を回復させるのには丁度よい長さだ。黒都には様々な恐るべき敵が待ちうけているだろう。己が身を守るのは、唯一自分の肉体だけだ。黒捷狸は腕に力をこめる。汗が飛び散り床を濡らす。
彼の眼中にあるのは、黒円虹という人物ただ一人だ。その人物の秘密を解き明かすために、彼は黒都へとむかう。誰のためでもない。彼自身のために。
船は揺れている。船は黒都へと進んでいく。
第三回 了
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