PBeM 史表(しひょう)

第4回

柳井政和
ver 0.06 2005.02.07
ver 0.05 2005.01.26(公開)

目次

  一 西へ

「こりゃあまた、きれいに焼け落ちたのう」
 完全に崩壊した農管園の前で馬を下り、白厳梟は呟いた。
「白淡鯉が死んだという報告は本当だったようだ」
 その横で、馬上のまま青聡竜は声を漏らす。彼女の死の報せを届けた白太犬の言葉通りの光景だ。赤族の族長赤栄虎が白淡鯉を殺害したという話も恐らく真実なのだろう。
 青聡竜は考える。海都の舟大家の商館で戦った男こそが、その赤栄虎という男に違いないと。
 なぜ、あの場であの男を倒さなかったのか。
 焼失した建物を見て、彼の心に後悔の念が湧き起こる。理由は分かっている。青美鶴を助けるためだ。そのために赤族の戦士との戦いを回避した。その結果、己にとって大切な人物を失ってしまった。
 青美鶴と白淡鯉の命を秤にかけることなどできない。だがあの時、将来起こることが予見できていれば自分はどういう選択をしただろうか。俺は青美鶴を救ったのか、それとも白淡鯉を助けるために戦ったのか。青聡竜は馬の上で唇を噛む。そういうことを考える自分自身に嫌悪感を抱いたからだ。
「白厳梟殿、例の似顔絵は持って来ていますか」
「当然じゃ青聡竜。あの忌々しい男が赤栄虎という悪鬼に違いない。赤族の軍団全体を指揮しておったからな。似顔絵は百枚ほど持参している。これで奴を見つけ出し、白淡鯉の仇討ちをするぞ」
 青聡竜は無言で頷く。
「先を急ぎましょう」
「よし、駆けて駆けて駆け続けるぞ。赤族の馬などには、簡単に追い着いてみせるわ」
 怒りで顔を赤くしながら白厳梟は馬によじ登る。
「行くぞ白早駝」
「はっ」
 青聡竜は傍らの白早駝に声をかける。
 海都を出た時には数人の人々が青聡竜の後を追って来た。だが、白都に着いた頃には青聡竜、白厳梟、白早駝の三人に数は減っていた。馬術が巧みでない者や、馬に乗れない者が脱落してしまったからだ。青聡竜は赤栄虎を追跡するために、いつもより急いで西へ向かっている。馬術の得意な白厳梟、白早駝だけがその早駆けに付いて来られた。
 青聡竜達は白都を越え、さらに西へと向かう。
 赤族の破壊の跡が、街道沿いに点々と続いている。この傷痕の先に赤族の軍団がいる。
 三人は川沿いの街道を走り続けた。


  二 大包囲戦

 一万の騎兵が蹄の音を響かせながら西へと進む。白緩狢率いる赤栄虎討伐隊だ。彼らは右手に山岳地帯を見ながら街道を駆ける。
 白緩狢は北側の山々に目を向け考える。山道を進む赤族より、街道を進む白大国の騎馬の方が速い。そろそろ距離を稼げただろうか。赤族を包囲するには、北に転進し山に入る必要がある。あまり早く北上すると、包囲の網から敵は逃れてしまう。だが、遅過ぎると敵に逃亡の隙を与えることになる。
 矢継ぎ早に放った偵察の騎兵が次々と戻って来る。
「どうだ、敵の動きは」
 その兵達に白緩狢は尋ねる。
「速度が落ちました。奴らにはもう替えの馬がありません。走り続けるのにも限度があります」
 白緩狢は頷く。当然だ。こちらは大量の予備兵力を用意していたため余力がある。だが、敵は全兵力で攻撃を仕掛け、その半ば以上を失った。彼らの疲労は深刻だ。どこかで休息を取らなければ人も馬も潰れてしまう。
「そろそろ北に向かい、包囲を完成させる頃だな。他の軍団にも使いを送れ。包囲の輪を作り、赤族を圧殺する」
 使いが三方に走る。後続の、歩兵を中心とした部隊へ陣地作成の指示が飛ぶ。
「よいか、鼠一匹漏らさぬ包囲を完成させるぞ。そして我ら白大国の地を蹂躙し続けた赤族の部隊に鉄槌を食らわせるのだ」
 白緩狢の声に、兵士達が鬨の声で応える。彼らの士気は高い。敵に回復不能な一撃を加えた直後だからだ。あとは首を刈っただけ恩賞を得ることができる。兵の目はその期待で血走っている。
 騎兵部隊が街道を離れた。白緩狢率いる人馬は、赤栄虎達の潜む山へと向かう。

 夜。
 鬱蒼と茂る森の中、赤族の兵士達が馬を下り、地面に座っている。その場所を大きく取り囲むように、白大国のかがり火の列が輪を作っている。完全に包囲されてしまった。
 白緩狢の追撃から逃げ続けた彼らの疲労は頂点に達していた。突破するにも体力を回復させなければ動くこともできない。白大国の兵は、赤族の反撃を恐れてか今日の夜は攻めて来る気配がない。この時間を利用して少しでも休憩を取る必要がある。興奮しきった軍馬を無理矢理落ち着かせ、しばしの時間体を休ませる。
「赤栄虎様、交代で見張りを立てることにしました。わしらは先に見張りをします。赤栄虎様はその間睡眠を取ってください。明日の夜明けと共に出発いたしましょう」
 赤朗羊が返り血にまみれた顔でそう告げる。
「分かった、休息は必要だ。だがあまり長く休むべきではない。敵はいつ攻めて来るか分からないからな」
 そう答えた後すぐに赤栄虎は眠りに就いた。生き残った兵士三百人の内、百五十人が仮眠を取る。例えわずかな休みでも、取るか取らないかではその後の活動の効率が全く違う。
「赤栄虎様はお眠りになられましたか」
 茂みの中から囁くような声が赤朗羊に投げかけられる。赤烈馬だ。
「ああ、眠り薬を盛ったからな。深く眠っているはずじゃ。向こうに行こう」
 赤朗羊が赤栄虎の許をそっと離れる。二人は茂みの中に消えた。

 星明りの下、遠征軍の軍団長達が集まり話し合いを始めた。生き残っている軍団長はもう四人しかいない。だが、その誰もが楽しげに笑みを浮かべている。
「この大遠征は、赤族の末代まで語り継がれるに値する快挙じゃったのう」
 赤朗羊が忍び笑いをする。
「ここで死んでも悔いはないぐらいの戦いだった」
 他の軍団長が応じる。
「だが、赤栄虎様はまだもっと大きな仕事をなされるお方だ。ここで死ぬべき人ではない」
 もう一人の軍団長の言葉に、他の者は静かに頷く。
 赤烈馬が無言で大きな包みを四人の真ん中に置いた。この袋は、彼ら軍団長がこの遠征に先立ち用意してきた物だ。赤烈馬がその荷物を開こうとした時、茂みが動いた。赤烈馬は手を止める。
「あっ、赤朗羊様、ここにいらっしゃったのですか。私は赤優駱と申します」
 今回の遠征に参加した若き兵士だ。
「赤朗羊様、実はお願いがあって参りました」
「何じゃ」
「俺達の軍は白大国の軍団に包囲されています。早晩俺達は全滅するはずです。でも赤栄虎様は、ここで死ぬべきお方ではない。囮を使って敵を引き付け、赤栄虎様を逃がす手はないでしょうか。囮は、おっ、俺がなります。どうか、赤栄虎様を……」
 興奮で声が大きくなっていく。そこまで喋ったところで赤優駱は倒れた。軍団長の一人が彼を気絶させたからだ。
「今は細かな話をしている暇はないからのう。こういう煩い奴は眠らせておくに限る。それに、このように口が達者な奴にわしらの作戦を聞かれたら、自分にぜひ赤烈馬の役目を譲ってくれ、などと言い出しかねん。しかしまあ、一兵卒に至るまで考えることはみな同じか」
 赤朗羊が自然と笑みを漏らす。赤烈馬は先程止めた手を再び動かし始める。袋の中からは、赤栄虎が使っている物と同じ鎧兜が出てきた。
 赤栄虎の性格だ。例えこのような状況になっても、一人で逃げるとは口が裂けても言わないだろう。だから軍団長達は、予めこのような物を用意していた。いざという時に、赤栄虎の影武者を立てて時間を稼ぎ、彼らの族長を遠くまで逃がすために。
「赤烈馬。分かっておるな」
 無言で赤烈馬は頷く。
「身代わりの役で最も大切なことは、なるべく長く生き、時を稼ぐことじゃ。すぐに死ぬような奴にこの役は勤まらん。残った軍団長四人の中で、いや海都遠征部隊三百人の生存者の内で、最もその能力に長けているのは赤烈馬、お前だ。どんな状況になっても倒れず、不屈の闘志で戦い続けることができるお前こそが、この大役に相応しい。この役、受けてくれるか」
「もとより、そのつもりでこの遠征に参加しました」
 三人の軍団長は赤烈馬の顔を見る。暗がりの中、赤烈馬は穏やかな笑顔を浮かべている。赤朗羊は彼の肩を強く掴んだ。
「わしらは礎じゃ。次代の赤族のための礎になるのじゃ」
 静かに赤烈馬は頷く。赤朗羊自身は、自分を一族の捨て石にすることを当然なこととして受け入れている。だが、赤烈馬はまだ若い。赤朗羊は、そのことを惜しまずにはいられない。
「赤烈馬、作戦を進めてくれ。わしらは赤栄虎様を脱出させる工作にかかる」
 若い軍団長は血まみれの鎧を脱ぎ捨て、真新しい鎧を身に着ける。赤朗羊達三人の軍団長は赤栄虎の眠る場所へと移動する。軍団長達は、寝息を立てる赤栄虎にそっと手を伸ばした。

「包囲は完成した」
 軍団長達の集う天幕で白緩狢がそう告げた。
 軍議の席には、白緩狢をはじめ、四人の軍団長、それに二十人ほどの千人長やその補佐官が参加している。最前線で指揮を行なっている千人長は参加していない。夜間、敵が強行突破をしてくる怖れがあるからだ。輸送に従事していたり、包囲の二段目三段目に属している部隊の者だけがこの会議に参加している。
「白緩狢様、戦闘開始はいつですか」
 千人長達から声が上がる。
「明朝、日が出てすぐに行なう。そうすれば丸一日戦える。この日で全てけりを付ける。作戦は単純明快だ。包囲の輪を三重にしたまま、その囲いを徐々に小さくしていく。敵は死に物狂いで抵抗するだろう。その敵を殲滅するために、竿物を装備した重装歩兵部隊を用意しておく。その者達は、輪に近づいてきた者達を引っかけ、地面に引き摺り倒していく。後は各人が思う存分首を刈れ」
 座のみなが頷く。
「兵士達にはこう伝えろ。恩賞は十人部隊の内、誰か一人が首を上げれば、その隊の者全員に与える。敵は一兵が強い。十人で一人に当たれ。それなら赤族の兵も怖れる必要はない」
 同じことは既に最前線の部隊の隊長達に伝えてある。
「よし、敵を全滅させるぞ。軍議は終了だ」
 それぞれの部隊の者達が持ち場へと帰った。天幕には白緩狢と数人だけが残る。
「いよいよ、海都を破壊した赤族達も滅びますか」
 天幕の端で軍議を聞いていた白秀貂が白緩狢に近づいて来る。白緩狢は席に座り、司表の部下の質問に答える。
「どうかな、逃げ場はないけど。彼には何か強運のようなものを感じるから」
 衆人を前に大声を発していた時と違い、穏やかな口調で白緩狢は語る。背を丸めて、手を膝の上で組む。
「運というものを、あなたは信じるのですか」
 少し驚いた風に白秀貂は尋ねる。彼がこの数日見てきた白緩狢の戦は、まるで詰め将棋のように手を打って行くという類いの物だったからだ。
「兵士達が吉凶を気にするように、私だって運を気にするさ。ただしそれは個人の運ではなく、時代の運気という奴だけどね」
「時代の運気ですか」
 白緩狢は手を組み直す。
「あの赤栄虎という男、船が帆に風をはらむように、時代の風を受けているような気がする」
「分かりません。それに、もし風が吹いているのでしたら、白大国にこそ吹いているのではないですか」
 白緩狢はしばし沈黙する。
「そうだね、白王様に吹いていた風が……」
 そこで白緩狢は言葉を止めた。
「もう遅い。明日の攻撃開始の時間は早い。寝た方がよいだろう」
 大きなあくびをして、白緩狢は立ち上がり天幕を出た。その場には白秀貂だけが残される。白緩狢は何を言おうとしたのだろうか。心の中で、何かざらついた手触りを感じる。白秀貂はその場で、途切れた言葉の先を考えた。

 包囲の輪から西に離れた森の中。
 夜の霧がその地には立ち込めている。
 その場所で、暗闇を東に向けて歩く人々がいる。黒い外套を頭から被り、杖を突き、一見すれば巡礼者に見える一行だ。いや、巡礼者と言っても差し支えないのかもしれない。彼らはその宗教の導師に従い、約束の地を目指しているからだ。
 先頭の男が歩みを止めた。後続の者達も足を止める。男は懐から一枚の石板を取り出す。そこにはある場所への道順が書かれてある。赤栄虎という赤族の族長と、彼らが落ち合うための場所が。
 男の背後から、背の低い男がその様子を窺う。
「どうした黒逞蛙。気になるのか」
 石板を持った黒壮猿が声をかける。
「いえ、ただ」
「ただ、何だ」
「本当に、赤族の族長が死表の示す場所に現れるのかと不安になって」
 他の黒陽会の信者達が一斉に黒逞蛙を睨む。その視線を受けて矮小な男はさらに身を縮める。
「黒円虹様の言葉に間違いはない。あの方には未来が見える。安心するがよい」
 黒逞蛙は激しく首を縦に振った。黒壮猿が言うのならば間違いない。何も心配せずともよいのだ。
「見よ、夜が明ける。時は近づいている」
 黒陽会の導師は杖を東の空に向ける。空がほのかに橙色に染まり始めた。
「行くぞ。あの場所で彼と会えば、黒陽会は大きく飛躍する」
 影のような集団は、森を縫うように東へと向かった。

「おお、青聡竜。日の出じゃ」
 山道の途中、白厳梟は東の空を振り返り声を上げた。
 青聡竜達一行は、白都を過ぎ、広央市を通り、白緩狢達が赤族を包囲しているという情報を得て、山岳地帯にやって来た。西の眼下にはその戦線が見える。あそこまで行けば、赤族の遠征部隊がいるはずだ。
「白厳梟殿、あなたは年の癖によくこの強行軍に耐えられますね」
 白早駝が疲労の混じった声を出す。今日は結局徹夜での行軍だった。若い白早駝でも疲れるような行軍だ。この老人は敵に近づけば近づくほど元気になっていく。
「白早駝よ。疲れているのならば、お前はここで休んでいなさい」
 青聡竜が西の山間を見下ろしながら声をかける。
「冗談じゃないですよ。青聡竜様、ここで置いて行かれたら恨みますよ。僕は白太犬と違って、ちゃんとここまで遅れずに付いて来たんですから。あいつ、徹夜で歩くから絶対に追い付きますって言っていた癖に、全然姿を見せないんだから」
 白早駝は不満げな声を上げる。その横で、馬上の白厳梟が袋から一枚の紙を取り出した。赤栄虎の似顔絵だ。
「いよいよ、憎きこいつを倒す時が来たな」
 青聡竜は頷く。
「よし、そろそろ行くぞ」
 三人は、日の出を背に西へと向かった。

 いよいよ包囲戦の開始だ。今回の一万人の騎兵隊の編成で、一時的に百人長に推薦された黒醇蠍は逸る気持ちを必死に押さえていた。仮とはいえ百人長だ。閉腸谷の頃から馬と弓の名手として戦闘に参加して、生き残ってきた運と実力を周囲から買われたのだ。ここで手柄を立てれば千人長になるのも夢ではない。
 黒醇蠍は深呼吸をする。こういう時こそ気が緩み、命を落とす。黒醇蠍の顔に眩しい光が降り注いできた。夜明けだ。作戦開始だ。
「全軍前進」
 千人長の声が響き渡る。
「行くぞ」
 黒醇蠍は馬の腹を蹴り、ゆっくりと前進を始めた。
 
「敵が動き出したようだな。手筈通りに行くぞ」
 赤朗羊は馬に飛び乗った。その後ろに、眠り薬で寝ている赤栄虎を他の軍団長が座らせる。赤朗羊は、荒縄で赤栄虎の体を自分に縛り付けた。そして赤栄虎の姿を、幾つかの盾を繋ぎ合わせて作った覆いで隠し、更に縛る。
「わしらの役目は、この包囲を突破して少しでも距離を稼ぐことじゃ。その頃には赤栄虎様も目を覚ます。後は赤栄虎様なら、一人で草原まで辿り着けるだろう。三百人全てを逃すのは困難じゃが、一人で逃げるのなら包囲さえ突破すれば不可能ではない。後は赤烈馬が敵の注意をどれだけ引き付けられるかじゃ」
 残りの二人の軍団長も馬に乗る。
「赤朗羊殿、こいつはどうしましょう」
 軍団長の一人が、気絶させられたまま寝入っている赤優駱を指差した。
「仕方がないのう。放っておくのも可愛そうじゃ。こいつも連れて行くか」
「おい、起きろ」
 軍団長に揺り動かされて赤優駱は目を覚ました。
「あれ、朝ですか」
「確か名は赤優駱と言ったな」
「はい」
「今からわしら三人で北の包囲を突破する。付いて来るか」
「えっ、他のみんなは」
「先に逝って待っているはずじゃ」
「それじゃあ俺も行きます。もしかして殿ですか」
 状況を把握していない赤優駱は、そのまま三騎の後ろに従う。軍団長達は弓を構えた。そして、馬を北に向けて駆けさせ始めた。
 
「我こそは、赤族族長赤栄虎なり」
 赤族の男の声が響く。
 約三百人の騎馬武者が、西の包囲に突撃を開始した。草原へ逃げるのに最も都合のよいこの方角には、特に分厚く兵士が配されている。黒醇蠍の属する騎馬兵団もこの場所にいる。
「行け、手柄を立てろ」
 黒醇蠍の号令の下、百人の騎馬武者が包囲から突出する。他の場所でも数百の騎馬兵が同様に飛び出した。局所的に赤族を囲み殲滅させる。
 包囲の前線では大盾と長槍を構えた兵士達が馬の突撃に備える。その背後には先端に鎌状の刃物を備えた長柄の武器を持った兵が控えている。刃が赤族の兵の肉に食い込む。白大国の兵達は、馬上の乗り手を馬から引き摺り落とし息の根を止める。その後段には矢を番えた男達が列をなしている。矢が戦場に飛び交う。
 西に本陣を構えていた白緩狢の許にも、戦闘開始の報が届いた。
「北と東と南の軍団長に伝えよ。戦場は西、一気に包囲を縮めろと」
 伝令が天幕から飛び出して行く。白緩狢も外に出て馬に乗った。前線に出て直接指揮をするためだ。その彼の許に南からの伝令が駆けて来る。
「白緩狢様、南面の軍団長殿より伝令です」
「何だ」
「南の陣営に、青聡竜様がいらしたそうです」
 意外な人物の名前に白緩狢は首を捻る。なぜ青聡竜が。理由を考える。だが、彼にはその理由が思い当たらない。
「青聡竜殿は何をしに来たのだ」
 既に一線を退いた将だ。白大国の軍事に関することではないはずだ。
「敵の将、赤栄虎の似顔絵を持って来たそうです。馬を乗り換え、今こちらに向かっています」
 赤栄虎の似顔絵があるのか。確かにそれは首実検に必要だ。だが、彼が直接持って来る必要はない。
「白秀貂」
 白緩狢は司表の部下を呼ぶ。白秀貂は天幕の側から白緩狢の許に駆けて来る。
「青聡竜殿がこの戦場を訪れているそうだ。なぜだか分かるか」
「えっ、司表様がなぜこの場所に。私の方が聞きたいぐらいです」
 白秀貂は困惑の表情を浮かべる。南東の方角を白緩狢は見た。まだ青聡竜は来そうもない。
「白秀貂。青聡竜殿はこの本陣に向かっている。着いたら、東の前線に向かうように伝えてくれ。私はそこにいる」
「私も戦場に」
「徒歩だと時間がかかるだろう。青聡竜殿と合流して、誰かの馬に同乗させてもらった方が早い」
 白緩狢は馬を東に走らせた。白秀貂は追いかけようとしたが、すぐに諦める。白緩狢の姿が森の中に見えなくなってしまったからだ。仕方なく本陣の前に戻る。しばらくすると青聡竜の馬がやって来た。
 馬は三騎。その内の一人が馬上で白秀貂を指差す。
「青聡竜様。あんな所に白秀貂がいますよ」
 目の下に隈を作った白早駝だ。青聡竜と白厳梟が馬を立ち止まらせる。
「ぬぉぉぉおお、白秀貂よ、敵はどこじゃ」
 久しぶりの戦場に興奮し切っている白厳梟が雄叫びを上げる。
「東の前線にいます。敵の残りは約三百人。包囲の兵と衝突しています」
「よい、行くぞ」
 青聡竜が馬に足を入れる。
「私も連れて行ってください」
 馬に乗れない白秀貂が三人に追い縋る。
「ええい、わしの馬に乗れ」
 白厳梟は白秀貂を片手で引き上げ、馬の背に座らせる。三頭の馬は再び駆け始めた。景色がぐんぐん後ろに流れて行く。
「青聡竜様、なぜこの場所に現れたのですか」
 事情を知らない白秀貂が、隣の馬に乗った青聡竜に問い掛ける。
「ぬおぉぉお、それは白淡鯉の仇じゃあぁぁぁ」
 剣を振り回しながら白厳梟が叫ぶ。
「それは私用ですか」
 白厳梟の声に負けないように白秀貂が叫ぶ。青聡竜は答えない。
「白王様の命である司表の仕事はどうされたのですか」
「うるさい奴じゃのう」
 耳の後ろで大声を出す白秀貂に白厳梟が抗議の声を上げる。
「俺と白賢龍との約束だ。白秀貂、お前の口出すことではない」
 白秀貂は青聡竜の答えに驚く。白王のことを、白賢龍と呼び捨てにしたからだ。司表は何を考えているのだろうか。白秀貂は、司表の集団は白王直属の組織だと思っている。その長が白王を呼び捨てにするなど、重大な裏切り行為ではないのか。これは調べなければ。そして、必要ならば白王に報告しなければ。白秀貂は口を噤み、そして青聡竜の背中を見た。その彼の耳に、戦場の干戈の音が聞こえてきた。

 三百人が二百人に減った。そのために費やした白大国の兵は千人。二百人が百人になる。そのために失った白大国の兵はさらに千。
「奴ら赤族の戦士達は化け物か」
 馬上、白緩狢は脂汗を流しながら呟く。殲滅はなるだろう。しかし、そのための犠牲が大き過ぎる。
「白緩狢様、青聡竜殿が参られました」
「通せ」
 青聡竜とその部下達が白緩狢の許にやって来た。
「久しぶりですな、白緩狢殿」
「青聡竜殿。何をしに戦場に来たのですか」
 慇懃に、だが皮肉を込めてその言葉を白緩狢は言う。
 戦場を離れ、悠々自適の隠居生活に入った青聡竜のことを、白緩狢は快く思っていない。それは彼の卑しい出自に由来する感情だ。
 貧農の身からの叩き上げである白緩狢は、軍を退けばまた農民に戻ることになる。軍団長の地位を利用して蓄財をするなどこの男はしていないからだ。現在は軍団長として出身地方の幾つかの農地を領有している。だが権門との付き合いが薄く、後ろ盾のない白緩狢は、軍を辞めれば田舎の富農程度の立場になってしまう。
 対して青聡竜は、大陸随一と言っても過言ではない海都の舟大家の家長の次男だ。軍を引退した今は現家長の後見人となっている。彼は隠居することで失う物は何もなかった。白緩狢のように、自らの軍事的手腕でしか生きられない人間とは違う。白緩狢と青聡竜は生まれた環境が大きく異なる。
 軍を自らの意思で退いた男が戦場に再び現れて何をする気だ。
 白緩狢の心の中に、嫉妬に近い感情が湧き起こる。白緩狢にとって何よりも許せないことは、この青族の男の方が自分よりも軍事的才能があることだ。
「敵はかなり強いようですね」
 青聡竜の言葉に白緩狢は眉を顰める。
「それより、何をしに戦場に来たのか答えて頂けませんか」
「赤栄虎という男を追って来ました。白厳梟殿、例の似顔絵を」
「そうじゃった。白緩狢殿にもお渡ししましょう。わしは学問はからっきしじゃが、絵はまあまあ描けるのじゃ。どうだ、これが赤栄虎の似顔絵じゃ」
 白厳梟は懐から何枚かの似顔絵を取り出し、無造作に白緩狢に手渡した。その横で青聡竜は剣を抜く。
「青聡竜殿、何をする気ですか」
「悪戯に兵を死なせる訳にもいかないでしょう。私達も戦場に」
 白早駝も剣を抜く。その言葉を聞き、白秀貂は慌てて白厳梟の馬を飛び下りる。彼は剣の経験など全くない。戦場に飛び込めばたちどころに膾にされるだろう。
「軍規を乱す気ですか」
 白緩狢は声を荒げる。その言葉を青聡竜は聞き流した。白緩狢にはこの青族の男を止める術はない。彼を取り押さえられるような人物は、この軍陣にはいないからだ。
「行くぞ」
「おうっ」
「はいっ」
 青聡竜と二人の部下は、混戦状態になっている戦場へと飛び込んだ。

 敵は残り百人。たった二百人を削る間に、黒醇蠍の部下の数は五十人に減っていた。
 騎兵はまだよい。周囲の歩兵達の被害はもっと甚大だ。赤族の強さを構成する要素は、人間の戦士達の力だけではない。馬も強い。彼らの軍馬は素早く足を巡らせて、近づく兵士達の顔を、足を、腹を蹴り飛ばして骨を砕いていく。
「散らばるな。盾で矢を防ぎながら、周囲を取り囲み一人ずつ倒していけ」
 黒醇蠍は叫ぶ。首の数は稼いだ。だが、どうしても倒せない敵がいる。赤栄虎と名乗る赤い具足の男だ。他の者達よりも複雑な意匠を凝らした鎧を着ている。たぶんあの男が総大将だろう。その敵は、身に矢を受け、無数の刀傷を食らい、体を赤く染めている。しかし倒れる様子は全くなく、悪鬼のごとく周囲の者を射抜き続けている。
「あの甲冑だな」
 ふいに横で声がした。よく通る澄んだ声だ。黒醇蠍は横にちらりと目を向ける。そこには青く染め上げた鎧を身に纏った壮年の男の姿があった。
「さあ行くぞ。赤栄虎、覚悟」
 青聡竜の言葉と共に、三頭の騎馬が激戦地へと向かった。戦地で奮戦しているのは、赤栄虎の甲冑を身に着けた赤烈馬だ。青聡竜達の接近を防ぐように、数人の赤族の武者が立ち塞がる。
「ふんっ」
 白厳梟の剣が敵の頭を割る。
「えいやっ」
 白早駝の剣が敵の腕を傷付ける。
 その隙を突き、青聡竜は前進した。赤烈馬は兜の眉庇を下げる。顔を隠すためだ。数人の赤族の兵が青聡竜に襲いかかる。その者達を子供でもあしらうように、青聡竜は切り伏せる。
「お前が赤栄虎か」
 青聡竜は馬を回しながら尋ねる。
「そうだ」
 赤烈馬の声は戦場の喧騒の中に紛れる。青聡竜には赤栄虎本人の声かどうかまでは分からない。
「お前が白淡鯉を殺したのか」
 赤烈馬は少し考える。赤栄虎が白淡鯉の許に向かった時、彼は別の戦場を指揮していた。だが、知らないと言えば変装がばれてしまう。
「そうだ」
 先程と同じように赤烈馬は答えた。青聡竜の目が血走る。
「貴様が白淡鯉を殺したのか」
 青聡竜は吼える。周囲の木々が震え、戦場の一角が鎮まり返る。青聡竜は剣を構えた。応えるように、赤烈馬は矢の狙いを定める。二人は足だけで馬を操り、互いの中間点を軸に馬を回転させ始める。
 人々は剣や弓を操る手を止め、二人の戦いを固唾を呑んで見守る。まだどちらも手を出さない。距離がある現在、弓を使う赤烈馬の方が有利と言える。だが、その一矢を外せば、たちどころに青聡竜は距離を詰めて赤烈馬を叩き切るだろう。
 何度か馬を巡らせたところで、赤烈馬は背後に殺気を感じて慌てて振り向いた。少し離れた所から、彼を弓で狙っている黒髪の兵士の姿が見えた。黒醇蠍だ。
 赤族の大将を射抜けば出世ができる。
 その気持ちが、決闘の礼節を尊ぶ感情に勝った。矢が放たれる。赤烈馬は舌打ちをしながらその矢を避けた。
 赤烈馬に青い影が覆い被さる。馬を寄せ、剣を振り上げた青聡竜だ。赤烈馬は青聡竜に矢の先端を向ける。それよりも早く青聡竜の剣が動いた。赤烈馬の弓手が手首の先から切り飛ばされる。悲鳴は上げない。歯を食いしばり、赤烈馬は矢を放した右手で剣を抜こうとする。その手首の先も切り飛ばされる。今度は呻き声を上げた。だが赤烈馬は馬からは落ちない。そのまま馬首を巡らせ、戦いから離脱しようとする。少しでも長く生きることが彼の使命だからだ。
「逃げるか、待て」
 青聡竜は叫び、その背を追う。
「あの男を射よ」
 黒醇蠍は兵に赤烈馬を射抜くように命じた。男は逃げ出した。決闘は終わったのだ。兵士達は弓を構え次々と矢を放つ。だが、馬と男に刺さった矢は数本だけだった。黒醇蠍の部下の兵士達は、赤族の射手達ほど矢を命中させることはできない。
「ええい、どけどけ」
 白厳梟が馬を駆けさせる。その後ろを白早駝が追う。赤烈馬は足だけで巧みに馬を操る。その足に一本の矢が刺さった。黒醇蠍が放った矢だ。馬を挟んでいた足の力が緩む。手があれば、馬のたてがみを握り、態勢を立て直すこともできただろう。だが、それもままならず、赤烈馬はついに馬上から転落した。
 青聡竜は馬から飛び降りる。赤烈馬は荒い息を吐きながら立ち上がる。両手首はなく、もう戦うこともできない。この状況で自分ができることは何か。そう考えた赤烈馬の目に一つの切り株が映った。
「うおぉぉぉぉぉ」
 無口な赤烈馬が、絶叫を上げながら頭を振り被った。切り株に顔を打ち付けて自分の顔を潰すためだ。顔が分からなければ赤栄虎の偽者であることもばれない。だが、赤烈馬が顔を潰すより先に、彼の体が空中で反転した。青聡竜が地面に膝を突き、赤烈馬の両足首を切断したからだ。青聡竜の顔は、赤栄虎への怒りで禍々しく歪んでいる。
「やった、青聡竜、敵の動きを止めたぞ」
 白厳梟が駆け寄って来る。
「我が名は赤栄虎。敵の辱めは受けん」
 赤烈馬は無理矢理体を捩り、自らの顔を青聡竜の剣に叩きつけようとする。その頭を白厳梟の太い腕が掴んだ。
「どれ、わしの似顔絵がどれぐらい似ているか検分してやる」
 白厳梟は赤烈馬の兜を引き剥がした。
「ややっ、これは」
「むっ、謀られたか」
 違う。赤栄虎ではない。青聡竜は剣に付いた血糊を払い落とし、鞘に収めた。黒醇蠍が追い付いて来て馬を下りる。
「お前が赤栄虎か」
「違う、この男は別人だ。白緩狢殿と私は謀られたのだよ」
「あなたは何者です」
 黒醇蠍が青聡竜に詰め寄る。黒醇蠍はまだ十四歳だ。十年前に引退した青聡竜のことをよく知らない。
「昔、白大国の軍団長をやっていた青聡竜という者だ」
 そういえば、白王と共に白大国を起こした人物の名が青聡竜だった。そのことに気付き、黒醇蠍は慌てて非礼を詫びる。
「青聡竜様、ではいったい、本物の赤栄虎は」
 黒醇蠍は青聡竜に尋ねる。
「どこか他の場所にいる。この男が知っているかもしれない」
「あっ、青聡竜。こいつ舌を噛みやがりました。ええい、やめろ、やめんか」
 白厳梟は赤烈馬の口を無理矢理こじ開け、喉に詰まった舌を取り出そうとする。その手を赤烈馬は噛む。
「痛っ、こいつ」
 白厳梟は思わず手を引っ込める。
 赤烈馬は口から血を吐きながら体を起こした。そして手首のない腕を組み、胡座を掻き、悠然と座り直した。顔には会心の笑みを浮かべている。してやったりという笑顔だ。
「こいつ」
 殴り付けようとした白厳梟の腕を、青聡竜が止める。
「白厳梟殿。もう死んでいますよ」
 兵士が青聡竜の周囲に集まって来た。その兵士達に青聡竜は語る。
「敵ながら見事な死に様。赤族の強さは、この男の死に集約されている」
 青聡竜の言葉を聞き、白厳梟は振り上げた腕を下ろした。
「なあ青聡竜。この男が赤栄虎ではなかったとすれば、本物はどうしているんじゃろう」
「どこか他の場所から脱出を図っているはず。白緩狢殿に早くそのことを知らせた方がよい」
 黒醇蠍は思い出したように部下に命令を出し、この場で起こったことを至急白緩狢に伝えるようにと告げた。本物の赤栄虎がここにいないのならば、この西の交戦地以外の場所にいるはずだからだ。

 包囲の北側。
 兵士達は大盾を持ち、西の戦地へと進軍している。東も南も同じように包囲の輪を縮めるために移動しているだろう。敵の数は三百、後は狩るだけの状況だ。黄金が手足を付けて歩いているようなものだ。慢心とまではいかないまでも、誰の心にも少なからず油断があった。
 西から鬨の声が聞こえて来る。悲鳴、馬のいななきも耳に届く。兵達の注意は西に向き、足は自然に速度を増した。
 その時、森の中から数本の矢が飛んで来た。気付かぬ内に三人が倒れ、囲いに隙間が生じる。後続の者達が死体に躓き、地面に転んだ。その頭を蹄が踏みしだく。三頭の馬が兵士の壁を抜ける。遅れてもう一頭が駆け抜けた。
「敵襲、赤族だ」
 気付いた白大国の十人長が声を上げる。赤族の四頭の馬の前に戦列はまだ二列残っている。
「赤朗羊殿、この壁は私が引き受けよう」
 軍団長の一人が刀を抜き、敵陣に飛び込み暴れ始めた。瞬く間に数人の首を刈る。その横を、赤朗羊と二人の赤族の男が突破した。
「次は俺の番だな」
 壁はもう一枚ある。その壁を相手に、もう一人の軍団長が雄叫びを上げながら突っ込む。途端に陣が乱れ、最後の包囲に綻びができる。赤族の軍団長相手に、白大国の雑兵程度では勝負にならない。
「追え、追うのだ」
 百人長や千人長達の声が響く。赤朗羊と赤優駱が囲いを抜け出した。だが、背後からは疲労していない白大国の兵達が追い縋って来る。このままでは追い付かれる。
「次は俺が」
 赤優駱が赤朗羊に向かって叫ぶ。赤朗羊は、赤優駱の若い顔を一瞥する。まだ十代だ。遠征軍に参加するだけの力量があるとはいえ、この若さで背後の大軍を引き止めるのは無理だろう。それに、二人乗りで駆け続けた赤朗羊の馬は既に潰れかけている。
「赤優駱よ。赤栄虎様の命を救う役、今でも行なおうと思っておるか」
「もちろんです。そのためにはこの一命投げ打つつもりです」
「悪戯に命を粗末にするな。生き抜け」
 赤朗羊は馬を止め、腹に巻きつけていた縄を切った。赤栄虎に被せていた盾が落ちる。そして、赤栄虎の姿が露わになる。
「まだ赤栄虎様は眠っておる。ここまでくれば、あとは西に向けて走り続けるだけじゃ。赤優駱よ。赤栄虎様を背負い、ひたすら西へと走れ。赤栄虎様はもうじき起きるじゃろう。だが決して戦場に引き返させてはならんぞ」
 背後からは兵士達が押し寄せる声が響いて来る。
「分かりました」
 赤優駱は赤栄虎を自分の馬に移し、革帯で自分の体に固定する。
「任せたぞ」
 そう言い、赤朗羊は馬の首を白大国の兵達に向けた。刀を抜く。
「さあさあ、命の惜しくない者共はかかって来るがよい。赤族の戦士の力、とくと見せてやろう」
 すぐさま数人の歩兵の頭が割られた。赤優駱は馬を走らせた。

「赤栄虎が包囲を突破したのは、北のこの地点でしょうな」
 青聡竜は本陣の地図を見ながらそう呟いた。白緩狢はその対面の席で苦い顔をする。もう軍人ではないはずの青聡竜が、いつの間にかこの戦陣に加わっている。青聡竜がこの場所にいる理由は、この場所が最も赤栄虎の情報を得るのに都合がよいからだ。だが、そのようなことは一言も口にせず、ただ客将として振舞っている。
 白緩狢は最初、青聡竜を本陣から早々に立ち去らせようとした。だが、青聡竜の人気の高さがそれを困難にした。
 熟練兵には昔からの青聡竜の信奉者が多かった。さらに新参の兵の間でも青聡竜を軍神として崇める気運が盛り上がっていた。青聡竜が、赤族の兵士達をたちどころに切り伏せ、偽赤栄虎の正体を暴いたからだ。そのため、無碍に戦場から追い払う訳にもいかなくなった。
「追討軍は既に出しています。目撃情報では一騎。追い付くのは時間の問題でしょう」
「よし。では私も、その兵士達に混じって赤栄虎を追うことにしましょう」
「青聡竜殿。軍人でもないあなたが戦場で勝手な振る舞いをされると困るのですが」
 それが分からないあなたでもないだろう。暗にそのことを白緩狢は指摘する。
「私は白王様から、司表として必要なことを自ら判断して行なう権限を与えられています。その権限に反すると」
「いや」
「では、好きに振舞わせてもらいます。後もう一つ。白緩狢殿の部下の黒族の百人長。武人同士の決闘に、背後から矢を射ってきました。あのようなことはさせるべきではありません」
 白緩狢はその意見には返事をしない。
「それだけです。私は行きます。白厳梟殿、白早駝。赤栄虎を追うぞ」
 青聡竜は天幕を出た。
「おおぉぉ、まだまだ戦えるぞ。急いで追おう。地の果てまでも追ってやるぞ」
 白厳梟がいきり立つ。
「青聡竜様、白太犬がまだ追い付いていませんが」
「待つ暇はない。行くぞ」
 どうやら青聡竜は休む気はないようだ。白早駝は眠い目をこすりながら馬に乗った。青聡竜と二人の部下は、追討軍に合流するために北西に向けて駆け出した。
 天幕の中、白緩狢は床机に座る。
「白緩狢様」
 天幕の奥から黒醇蠍が出て来た。黒醇蠍は、青聡竜と赤烈馬の戦いに割って入ったために、一部の古参の武人達から反感を買っていた。そのため、一時的に白緩狢の許に身を寄せている。
「いや、君は悪くはない。あの男が古いのだよ。敵はあらゆる手段を使って効率的に倒すべきなんだ。一対一の決闘で勝負を決そうとするなど、一軍を率いる将が行なうべきことではない」
 白緩狢は自分の言葉に、心の中で自嘲する。青聡竜と違い、彼には一騎打ちして必ず勝つほどの剣の腕はない。だから、そのような考え方をするようになった。
 天幕の影からもう一人の男が出て来た。白秀貂だ。
「白緩狢様。司表様は、白王様のことを、白賢龍と呼び捨てにしていました」
 無言で白緩狢は頷く。だが、青聡竜のことは今は置いておくべきだろう。それよりも当面の問題、赤栄虎の一件を急いで片付けなければならない。

 陽は天高く上っている。既に赤栄虎は目を覚ましていた。
 赤優駱から断片的な情報を得た赤栄虎は、すぐに彼の部下達が何を考え実行したのか理解した。こうなってしまえば、彼らの意思を尊重するためにも草原へと生還しなければならない。だが、二人の体重を乗せたこの馬が潰れるのは時間の問題だ。既に足は落ち始めている。
 赤優駱は話を終えた後、馬を下りた。馬は騎手の下馬を受け、足を止める。
「赤栄虎様。あなた様一人ならば、より遠くまで逃げられるはずです」
「お前はどうする」
「赤朗羊様と同様に、時を稼ぎます」
 兵の声が東から流れて来る。二人では逃げ切ることは不可能だ。
「分かった。ここはお前に任せた」
 赤栄虎は西へと馬を進ませる。背の体重が半分になった馬は、また力強く森を駆け始めた。背後から、赤優駱の絶叫が聞こえてくる。
 この遠征で得た物は何だったのか。
 赤栄虎は馬を走らせながら考える。敵には大きな損害を与えた。だが、白大国という強大な国にとってそれは致命傷ではなく、回復可能な浅い傷にしか過ぎなかった。それに対して赤族が失ったものは、屈強の戦士千人だ。
 赤栄虎は溜め息を吐く。もし、赤族の規模が白大国に勝っていれば、少なくとも同じ規模なら、こんなことにはならなかっただろう。
 大きな国が欲しい。
 何者にも負けない、強大な国が欲しい。
 その国を自分が支配するのならば、このような敗北を、仲間の死を経験しなくても済む。白大国を超えるほどの強力な国、広大な国を作りたい。そうすれば結果的に赤族を守ることもできる。
 俺は赤族を救いたいのか、それとも巨大な国を作りたいのか。
 どちらを欲しているのか。
 赤栄虎は自問自答する。
 周囲には誰もいない。今や彼は一人だ。自分の心を偽る必要もなく、ただ己の心に素直に向き合えばよい。
 俺は、この大陸を統一する国を望んでいるのだ。頭の中に刻まれた市表には、彼の理想の統一国家が既に浮かんでいる。この頭の中に浮かんだ国を作りたい。誰に偽ることもなく、それが自分の本当の気持ちなのだ。
 その夢もここで費えるかもしれない。このまま西に逃げ切ることは難しい。俺はここで、夢半ばで死ぬことになるだろう。
 赤栄虎は馬を走らせ続ける。一旦は遠くなった追跡の声も、再び近づきつつある。馬が限界を超えているのだ。馬が倒れた。赤栄虎は徒歩でさらに逃げる。
 ここで死ぬ訳にはいかない。千人の赤族の勇者達が繋いでくれた命だ。それに見合うだけの仕事を俺はまだしていない。もし、ここで生き延びられるのならば、神にでも悪魔にでも魂を売ろう。天よ、もし我が願いを聞き届けてくれるのならば、我が天命がまだ尽きてはいないと言うのならば、我が前に希望の光を灯してみせよ。
 赤栄虎は駆ける。だが人の足には限界がある。背後から兵の声が津波のように押し寄せて来る。
「お困りのようですな」
 ふいに前方から声が投げかけられた。赤栄虎は足を止め、剣を抜く。前方にも追っ手がいたのか。
「私達は敵ではありません」
 穏やかな声だ。森に、黒い外套を纏った人々の姿がある。
「お前達は何者だ」
 赤栄虎は鋭く問う。
「黒陽会の信者でございます。私の名は導師黒壮猿」
 先頭の男が頭巾を取って頭を下げる。他の者達は、膝を突き、赤栄虎に頭を下げた。
「あなたは赤栄虎様ですね。あなたはこの大陸を統べる王になられる方。私達はあなたのために助力を惜しみません」
 黒壮猿は満面の笑みを浮かべる。この男、人の心が読めるのか。赤栄虎は動揺する。先程まで自分が考えていたことを知っていたとしか思えないような台詞だ。
「貴様、一体何者なのだ。何が望みなのだ」
 自分が神や悪魔を願ったから現れたまぼろしか。
「かねてより、赤栄虎様の覇業を願う者。我々の願いはただ一つ。赤栄虎様が作る栄大国の国教として、黒陽会を認めていただくことです」
「栄大国」
「そうです。白でも赤でもなく栄でございます。あなた様の名前にある栄という一字は栄えるという意味を持ちます。国の名としてこれほど相応しい名はないでしょう」
 黒陽会の導師は、優しげに赤栄虎を見つめる。
「黒壮猿とやら、子が生まれた時、その名づけ親になるということは、その者の後見人になることを意味する。お前は、俺が作る王国の後見人になろうと言うのか」
「どのように解釈していただいても構いません。だが、この場であなた様の命を救えるのは私達だけ。私達の願いを聞き届けていただけますでしょうか」
 敵は迫っている。選択する余地はない。
「よかろう。この窮地を脱することができるのならば、お前の願いを聞き届けてやろう」
「約束、確かにいたしましたぞ」
 黒壮猿は数歩進み、赤栄虎の横に立った。杖を頭上高く掲げる。
「いたぞ、あそこだ」
 白大国の兵士達が彼らの存在を見つけ、武器を振りかざし迫ってくる。
「毫光」
 禿頭の男は叫んだ。その瞬間、杖の先に付いていた黒陽の紋章から強烈な光が放たれた。
「うわっ、何だ」
「眩しい」
 光は膨張するように広がり、辺り一帯を包み込んだ。光がゆっくりと収まっていく。謎の発光現象は止んだ。白大国の兵士達は先程見つけた赤栄虎の姿を探す。しかし、その場には人の姿は残されていなかった。
「今の光は何だ」
 少し遅れて、青聡竜達一行も辿り着いた。
「あっ、青聡竜様、謎の光が発生し、その場にいた人々が消えたのです」
 兵士の一人が青聡竜の姿を見て、状況を説明する。青聡竜は周囲を見渡す。しかし目指す敵はいない。
「不可解な」
 森の木々の中、青聡竜は呟いた。

「何、逃げられただと」
 白緩狢は馬上で叫ぶ。
 三百人の敵を滅ぼし、残る一人の追跡となったために、白緩狢は包囲の陣を解き、全軍で西へと向かっている。その途中で伝令兵から赤栄虎消失の報告が入った。
「黒衣の一団が現れ、その中の一人が杖を振り上げました。先端に太陽の紋章が付いた杖です。彼は何かを叫びました。すると怪光が発生したのです。光が消えた時には、赤栄虎も黒衣の一団も消え失せていました」
「何だそれは」
 白緩狢は苛立たしげに叫ぶ。神や悪魔でも舞い降り、赤栄虎を連れ去ったとでもいうのか。そんな報告、どうやって信じることができようか。
「黒陽会の、錬金の技かもしれません」
 彼の隣にいる黒醇蠍が口を開いた。本陣を出た後も、黒醇蠍や白秀貂は白緩狢と行動を共にしている。
「それはどういうことなんだい」
 白緩狢が背を丸めながら問う。
「僕は見ての通り黒族なのですが、黒族は伝統的に、黒陽会という宗教を信じています。その黒陽会の中には、かつて黒都で隆盛を極めた錬金の技を保持している者達もいるそうです」
「その錬金を使えば、怪光を発し、人を消失させるようなことができるのか」
「僕自身は錬金を習ったことがないので分かりません。しかし黒衣というのは黒陽会の正式な礼服です。それに太陽の形は黒陽会の紋章です」
「その黒陽会がなぜ赤栄虎を助ける」
「さあ、そこまでは」
 黒族の少年は考え込む。
「黒醇蠍、君はそのことについて考え続けるんだ。それから、もう一つ。君は私の下で働きなさい。ちょうど部隊から離れている時だ。軍団長付きの参謀部に君を入れる。そこで諸隊への伝令、および指揮を経験するんだ。君にはその資格がある。分かったかい」
「えっ、はい」
 黒醇蠍は慌てて返事をする。
 参謀部は、軍団長予備軍とも言うべき者達が属する軍団長の私設教育機関だ。この組織は軍団長が、大軍を率いる才があると判断した人物を育てるための場所である。そのため参謀部の経験者は、部隊に戻っても百人長や千人長に必ずと言っていいほど推薦される。その部署に属していたということは、高い軍事の才があるからだと周囲の者にも見なされるからだ。また、白王の目に止まれば軍団長に抜擢される可能性もある。
「黒醇蠍よ、君は黒族だ。私の軍団内には黒族は君しかいない。君しか知っていないこと、気付かないこともあるはずだ。これからの追跡に黒陽会という者達が絡むのならば、君の知識は不可欠のものとなる。彼らについて調べ、考えることは、君にしかできない重要な仕事だ」
「はっ」
「よし、西に向かうぞ」
 白緩狢は周囲の者に告げる。
 太陽が西の空に落ちかかっている。長い一日が終わろうとしていた。そして闇になる。
 その暗闇の中を、黒衣の一団が西へと向かう。
 彼らは不可思議な力で光を発した後、今度は人々の目に映る光を捻じ曲げた。自分達の姿を捜索者の視界から消したのだ。結果、白大国の兵士達は彼らが消えたと思い込んだ。
 草を踏み分け、黒陽会の信者達は西へと進む。白大国の兵を追い越し、追い抜かれ、彼らは歩き続ける。追跡者達の人影がまばらになった頃、彼らはようやくその術を解いた。


  三 死表

 白大国の土木軍団が海都に上陸して四日が経った。
 土木軍団一万は、白大国の造船廠兼兵舎跡に天幕を張り、都市建設のための予備調査を開始している。建築資材も続々と揚陸されていた。広河上流の岩山を切り崩して運んで来た石材や大量の木材が、兵舎跡にうず高く積み上げられている。その兵士達の姿を、街の人々は奇異の眼差しで見ていた。
 金大家の仮商館である天幕の入り口で、青新蛇はその様子を見て顔を顰めた。海都の中心にあるこの場所からも、南西にある土木軍団の動きはよく見えた。舟大家の青美鶴は、この一万の土木軍団を中心に都市整備を進めるという。
 青美鶴はあの日を境に変わった。
 それまでの彼女は周囲との協調を大切にして仕事を進めて来た。だが、今の彼女は違う。断定的に物事を決し、逆らう者を容赦なく排除し、己の意思を至上のものとして通す。そのやり方は青捷狸に似ている。海都の行く末を決定する舵取りをする時の、彼のような仕事の進め方だ。
「土木軍団が工事を始め出すと、衝突が起きそうだな」
 青新蛇は呟く。
 青聡竜がいた頃に青美鶴が模索していた中庸路線は完全に廃棄された。青美鶴は都市の設計を土木軍団に一任することに決めた。そして集めていた資料や調査結果を全て土木軍団に引き継がせ、人員も解散させた。
 そもそも青美鶴主導の復興はほとんど動き出していなかった。下手に中途半端な計画と混ぜるよりは、土木軍団に指揮系統を統一した方が効率的だろうという判断に違いない。
 青新蛇は周囲を見渡す。どの建物も資材が不足気味のままに建物を作っているせいで、闇市のような有様だ。商売の再開はもう始まっている。だが、完全な復興、街が元の状態を取り戻すまでには、まだまだ時間がかかる。
「土木軍団は白大国の正規兵だ。追い出すこともできない」
 都市計画の中には、個人の利益と対立することも多い。兵士と市民が下手に衝突すれば暴動に発展する可能性もある。どうするか。青美鶴を説得し、海都の民による復興を押し進める術はないものか。
「青新蛇様、復興基金の今日の出納計算が終わりました」
 天幕の中から女性の声が聞こえてくる。青新蛇は頭を切り替え仮商館の中に入る。
「青正蛤、海都の主要な場所を金大家で買い上げて、土木軍団の工事に対抗するという件はどうなっている」
 机の上で書類を整理していた若い女性は肩を竦めた。
「住民にとっては、金大家も舟大家も一緒ですよ。ここは売らない。立ち退かない。そう言い張る人がほとんどです。一人一人がばらばらに地面にへばりついていても、白大国の兵が来たら、簡単に立ち退かされるってことぐらい、分からないんですかね」
 青正蛤は、面倒臭そうに眼鏡をかけ直して買収関係の書類に顔を近づける。長い髪と細身の体の理知的な女性だ。いつも書類に目を走らせているためか、すこぶる目が悪い。
「青新蛇様のおっしゃっていた土地の一割も確保できていません。正確に言うならば、三分六厘五四八一三二九八……」
「もういい。お前が計算が得意なのは分かっている。そんなに細かな数字を報告する必要はない。それよりも舟大家だ。青美鶴は、土木軍団に対し上陸七日後には作業を開始するようにと告げたそうだ」
「あと三日ですか。その日数では金大家が対抗策を完了させるのは無理ですよ。金大家は舟大家と違って武力はそんなにないですから。無理矢理土地を奪う力はありません。折衷案では駄目なのですか。土木軍団に街道の整備や隣村の仮設住宅の工事を行なってもらうとか」
 青新蛇は首を振る。
「あくまで青美鶴は海都を土木軍団の手で復興するつもりだ。そして、軍事都市として作り替えるそうだ」
「軍事都市って、また赤族が攻めてくるのですか。それとも、他の敵でもいるというのですか」
「赤族以外の者が攻めて来る可能性もある。海都は簡単に落とせると大陸中に知れ渡っただろうからな。第二の赤族が現れてもおかしくはない。赤族が示したような方法で、他の者達が海都の富を狙わないとは言い切れない。だから青美鶴の主張も理解できる。海都の復興を個々の住人に任せると、機能性の低い、脆い街になるというのも一つの真実だ。だが……」
「先程から、全然進展がないですね」
「そうだな。少し、街を歩いて様子を見てくる。今日は五大家の話し合いは夜だ。まだ時間がある」
「お供しますよ。私の今日の仕事はもう終わりましたから」
 青正蛤は立ち上がる。
 この青正蛤という女性は、計算能力を買われて金大家に入ってきた女性吏員だ。暗算で数百桁の計算でも一瞬で解くことができる頭脳を持っている。海都炎上の結果、金大家の人間も何人か死んだ。そういった人達が属していた部署の計算を多数引き受けている内に、彼女は金大家家長と仕事をする機会が多くなった。
「それでは警護の者を呼んでくれ」
「はい、分かりました」
 青正蛤は天幕の奥に向かう。護衛達に声をかけ、再び戻って来た。彼女は最近では青新蛇の秘書的仕事もこなしている。仕事が早く、正確だからだ。
 青新蛇は護衛達を伴い、再び天幕の入り口に向かって歩き始めた。

 舟大家の仮商館の天幕の近くで、青明雀は炊き出しを食べている。
 青美鶴は変わった。彼女はそう思う。
 今まで通り、周囲の人々に明るく挨拶をして、訪問者の話も必要に応じて聞いている。だが決定的に変わったことがある。それは独り言がなくなったことだ。
 なぜだろう。青明雀はその理由を考えている。
 他の人々は青美鶴の表面だけを見て、その変化にまったく気付いていない。だが、青明雀は違う。これまでずっと青美鶴を追い掛け、その独り言を余さず聞いてきた。青美鶴は、周囲に声が聞こえない場所では非常に多用で私的な独り言を呟いている。聞き耳を立て続けてきた彼女は、そのことを誰よりも知っている。
 その独り言がこの四日間全くない。
 どういうことだろうか。今青美鶴は、護衛の者に取り囲まれて、舟大家の出資している炊き出しの視察に来ている。青明雀は青美鶴とは既に顔見知りになっている。そのことについて尋ねてみるべきだろうか。
「ありがとう、白軽兎さん。お食事美味しかったわ」
 炊き出しを行なっている料理人に器を返し、青明雀は青美鶴に近づこうとする。
「青美鶴様に話がある方は、きちんと列に並んでください」
 よく見ると青美鶴の前には行列ができている。護衛に促がされて彼女は列の最後尾に並んだ。
「私の番までは、まだだいぶかかりそうね」
 彼女は少し残念そうな顔をする。視察のたびに、舟大家の家長に窮状を訴える人が列をなす。その彼らの言葉を、青美鶴は毎回辛抱強く聞いている。
「よし」
 そう一声呟くと、青明雀は意識を耳に集中させた。周囲の音が消え、青美鶴とその周辺の音だけが聞こえてくる。ただ待っているのは時間がもったいない。少しでも青美鶴の声を聞きたい。青明雀はそう思い、目を瞑り耳を澄ませて舟大家の家長の話を聞くことにした。
「……次の方は」
 青明雀の大好きな青美鶴の声が聞こえてくる。
「白柔猩です。海都の復興は白大国の土木軍団に一任するということですが、私の復興計画もぜひ聞いて下さい」
 青美鶴の方針変更で職を失った白柔猩が建白書を青美鶴に提示しようとする。
「ごめんなさいね。やはりこういうことは専門の集団に任せるべきだと思うの」
「しかし、……分かりました。聞き入れては頂けないのですね」
 一人、列を離れた。
「次の方、どうぞ」
「あっあの、以前料理を持って舟大家にお伺いした」
「覚えていますわ。緑硬亀さんですね」
「あっ、ありがとうございます。名前なんか覚えておいてもらえるとは」
「どういったお話ですか」
「最近、海都の住人と白大国の兵との間で何かと騒動が多くて」
「どういった内容ですか」
「その、調査で自分の土地に入られた人々が、兵士に喧嘩を吹っかけるなど」
「調査はあと三日で終わります。土木軍団の軍団長には、よく伝えておきます」
「あっ、ありがとうございました」
「次の方」
「あたしは青喧鶯という食材卸をやっている者なんだけどね。あの土木軍団というのは何だい。あたしのお店を区画整理の対象にするとか何とか言っているのを聞いたんだよ」
「青喧鶯さん。あなたのお店は海都と共に炎上してしまったのですよね」
「そうだよ」
「それはさぞお困りでしょう。他にも同じように困っている方々は数多くいます。舟大家では、そういった方々のために、無償で新しいお店を建てる計画を進めています」
「それは本当なのかい」
「はい。そのために土木軍団は予備調査をしているのです。青喧鶯さん。あなたの住んでいる場所はどこですか。なるほど、そこなら心配はありません。舟大家が立派な建物を提供できるはずです」
「そうかい。そりゃあ安心だよ。借金をして建て直す必要があると思っていたからね」
「ご安心下さい。他の方にも、土木軍団の調査や建設に協力して頂けるように呼び掛けていただけますか」
「あたしらの土地をそのままに、お店を建て直してくれるのなら問題はないよ」
「では次の方。次の方」
「えっ、はい。僕ですか」
 青美鶴の会話に意識を集中していた青明雀は、自分の番になったことに気付かず目を瞑り続けていた。慌てて目を開いて居住まいを正す。曲芸団で少年達に混じって育てられた青明雀は、咄嗟の時には思わず自分のことを僕と呼んでしまう。
「あっ、あの、青美鶴様お久しぶりです。私は踊舌亭に青美鶴様と青聡竜様とご一緒させていただいた青明雀です」
 青聡竜の名前を聞き、青美鶴の顔は一瞬曇る。
「あなたはどういったお話なのですか」
「あの、お人払いをお願いできませんか」
 青明雀はおずおずと切り出す。
「私は舟大家の家長よ。一人だけと、そのように特別に話す訳にはいかないわ」
 どうしよう。青明雀は手を小さな胸に当て考え込む。青美鶴個人のことについて尋ねたいのだ。
 彼女が衆人の耳の届かないところで散々独り言を喋っていたなど、こんなに人の多いところで話す訳にもいかない。周囲の人間に、彼女への信頼を失わせることにもなり兼ねないからだ。ここには炊き出しを食べるためにたくさんの人が来ている。せめて舟大家の人だけしかいないような場所に移動して、少ない人数だけで話をできればよいのだが。
「あの、あの」
 青明雀は何かよい方法はないだろうかと必死に考える。その時、炊き出しの場所に貼られている一つの似顔絵が目に入った。海都を襲ったという赤族の頭目だと言われている人物だ。
「あっ」
 彼女は小さく叫ぶ。あの人物の顔を彼女は見たことがある。なぜ今まで思い出さなかったのか。いや、青美鶴に踊舌亭での話をしたから思い出したのだ。
「青美鶴様、舟大家の仮商館に私を連れて行ってください。海都を襲った赤族の頭領が、海都のある人物と話していたことを私は知っています。天幕の中でその人物のことを話します」
 護衛達がその話を聞いてざわめく。もし本当なら非常に貴重な情報だ。
「信用していいのかしら」
「はい、私がどうやってその情報を得たかも説明できます」
 青美鶴は、青明雀が列の最後尾だったことを確認する。
「付いて来なさい。仮商館の天幕で詳しい話を聞きましょう」
「はい」
 青明雀は喜色を浮かべた。彼女は青美鶴と共に天幕へと向かった。

 天幕に入った後、青美鶴はいくつかの指示を周囲の者に出した。青明雀の話を聞く前に仕事を手早く片付ける。
「それで、海都を襲った赤族の頭領はいつどこで誰に会っていたのです」
 青美鶴は、執務に使っている椅子に腰を下ろす。青明雀は立ったまま話し始める。
「まず、そのことを説明するためには、私が人とは違う異能を持っていることを説明しなければなりません」
「荒事師にはそういう人が多いわね。あなたもそういった何か特殊な能力を持っているの」
「はい。私は、離れた所の音を聞き取ることができます」
「隠密向けの能力ね。よかったわね、私がお父様ならあなたの命はないところよ」
 彼女の父の青捷狸が舟大家の家長になった時、諜報に長けた異能を持っている者達を家長の執務室で切り捨てた話は有名だ。そのことを言っているのだ。
 青明雀はその言葉に背筋が凍るような恐怖を覚えた。彼女は冗談でそのようなことを言っているのではない。目が本気だ。
 青明雀は自分を落ち着かせようと唾を飲み込む。
「青美鶴様と青聡竜様と踊舌亭に行った日のことです」
 再び出た青聡竜の顔に、青美鶴は今度は露骨に顔を顰める。
「あの場所で食事を食べている時に、似顔絵の赤族の男が入って来たのです。そしてあの店の主人と共に、奥の特別室へと消えて行きました。そこでの会話も聞きました。久しぶりだ。再び君に会えるとは、今日は何という幸福な日なのだろうか。青旨鯨、君に手配を頼みたいものがある。海都に赤い雨が降るだろう。そういったことを話していました」
「その男、捕らえて問いただす必要があるわね」
 青美鶴は冷酷な表情で口の端を上げた。そして舟大家の兵士に、踊舌亭の青旨鯨を探し出すようにと告げる。
「ありがとう、青明雀。あなたのおかげで、海都に仇なした犯人を捕まえ、さらに情報を引き出すこともできるでしょう。少ないけれど、お礼を受け取ってもらえるかしら」
 手を叩き、青美鶴は金子を持ってくるようにと執事に申し渡す。
「あの、青美鶴様」
「何かしら」
「私は、ずっと青美鶴様に憧れていました。そして青美鶴様にお近づきになろうと思い、青美鶴様の言葉を聞いていました。私は舟大家の商館で、この能力を使い、青美鶴様が執事の方と小声で話されていたことや、独りの時に呟いていたことなどを聞いていました。
 例えば青美鶴様が、金食彩館のような油っこい料理はうんざりと言ってたことも知っています。そして、青聡竜様をお慕いしていることも知っています。青美鶴様は人の耳に届かない所では、料理の話や青聡竜様の話などを始終されていました。
 でもこの数日、急にそういうことを喋らなくなりました。そして、人を寄せつけない冷たい言葉を投げかけることも多くなりました。何か思い詰めているような、まるで人が変わったような、そんな印象を受けます。青美鶴様、なぜなのですか。何かあったのですか。私でお力になれることでしたら何でもします。青美鶴様のお役に立ちたいのです」
 青明雀は一気に言葉を吐き出した。少し落ち着きを取り戻し、青美鶴を見てはっとする。椅子に座った彼女は冷たい眼差しで青明雀を睨んでいる。その目には怒りが篭もっている。なぜだろう。今日彼女は、青明雀の言葉に三度不快な表情を見せた。その共通点は何か。そのことを考え、青明雀は一人の名前に行き当たる。
「青聡竜様と何かあったのでしょうか。キャッ」
 机が蹴り飛ばされた。青美鶴が机を勢いよく蹴ったのだ。彼女の目には怒りの炎が燃えている。青明雀は身を強張らせる。このように感情を剥き出しにする青美鶴を、彼女は一度も見たことがない。
「なっ、何があったのですか」
 青明雀は震えながら尋ねる。
「青美鶴様、白怖鴉殿がいらしゃっています」
 伝令が天幕の入り口から声をかけてきた。
 青美鶴は笑顔を浮かべ、執事に振り向く。
「彼女に情報提供のお礼をあげておいてね。私はこれから、白怖鴉殿と共に、土木軍団の軍団長殿と復興計画の打ち合わせに行ってきますから」
「はっ、はあぁ」
 あまりの変わり身の早さに、老執事はどう対応してよいか分からず言葉を漏らす。
「お待たせしました白怖鴉殿」
「青美鶴様、中で何か大きな音が聞こえたようですが」
「何でもないのよ。さあ、馬車で兵舎跡に行きましょう。土木軍団の軍団長も資料を用意して待っているでしょうから」
 青美鶴は天幕から出て馬車へと向かった。
「君、青明雀と言ったね」
 老執事が曲芸団の少女に語りかける。
「はい。あの、青美鶴様に何かあったのですか」
「これは他言無用ですぞ。青聡竜様が海都を去ったのじゃ。それ以来、青美鶴様は変わられた」
「えっ、そうなんですか」
 青美鶴だけをずっと追いかけていた青明雀は、最近海都を青聡竜が離れたという噂を聞いていなかった。
「青美鶴様かわいそう」
 彼女の心情を思い、青明雀は同情の声を漏らす。
「青明雀、君は特殊な耳を持っているようだね。その耳で、一つ青美鶴様のために仕事をしてみる気はないかね」
 老執事は優しく語りかける。
「はい、青美鶴様のためになることでしたら何でもしたいです」
「外には絶対情報を漏らしてはいけないよ」
「大丈夫です。荒事師の誓約書でも何でも書きます」
 老秘書は契約書を持ってこさせ、青明雀に署名をさせる。
「よいか青明雀。今晩、青美鶴様のお供として五大家の会合に付いて行きなさい。会合はいつも金大家で行なわれる。そこで、金大家の青新蛇達が、裏でどういう話をしているのか聞き、青美鶴様にお伝えするのです」
 青明雀は身を硬くする。同じ海都内の大家を探る密偵の仕事をさせられるとは思っていなかったからだ。
「分かったかね」
「はい」
 青い顔になりながら少女は頷く。
「荒事師の誓約がどういうものかは、海都の人間なら知っているね」
「はい」
 依頼主の依頼内容を漏らせば、命を奪われても文句は言えないというものだ。自分の運命の急転に、青明雀は全身を震わせた。

 青新蛇は数人の護衛や供の者を連れ、海都の町を歩いている。毎日一回はこうして街の損害状況や復興の進行具合を確認するために外を回るようにしている。その道すがら、色々と街の人々から話を聞いたり情報提供を受けることもある。
「青新蛇様。街の復興の度合いは地域により差がありますね」
 覚束ない足取りで歩きながら青正蛤が口を開く。眼鏡は外してある。まだ珍しいこの道具をかけて歩いていると、やたら目立ってしまうからだ。青新蛇がこうして出歩くのは、彼の政治的宣伝でもある。青新蛇より目立ってはいけない。青正蛤はそう思い、眼鏡を外して歩いてる。だが、ふらふらしながら歩くために彼女は別の意味で目立ってしまっている。
「真っ直ぐ歩けないのなら眼鏡をかけろ」
「いえ、大丈夫ですから。任せてください」
「何を任せろと言うのだ」
 青新蛇は溜め息を吐く。金大家の他の部署の人間もそうだが、極端に何かの能力に秀でている者には周りが見えていない者が多い。青正蛤の場合は眼鏡を外すと、周りどころか目がほとんど見えていない。
「あいたっ。もう何ですか。青新蛇様、急に立ち止まらないでくださいよ」
 青新蛇の背中に顔面をぶつけ、青正蛤は顔を押さえる。
 金大家の家長はその場で足を止めている。彼の前方には、赤族の男と青族の女性が立っている。赤族が前方に現れたことで、護衛達が青新蛇を守りながら剣を抜く。
「おおっと、ちょっと待った。俺に向かって剣を抜くのはなしだぜ。こんななりをしているが、赤族はとっくの昔に捨てたんだ。今は俺は黒陽会に属していて、黒華蝦と名乗っている。後、こいつは俺の女で黒艶狐と言う」
 男は傍らの女を引き寄せ接吻をする。女性の目が潤む。
「その黒陽会の黒華蝦殿が私に一体どういう用かね」
「おっ、話が分かるね。さすが金大家の家長。今日、ここを通るってことは、事前に調べさせてもらったぜ。商談がある」
 老年に差しかかった男は得意げに胸を張り、笑みを浮かべる。
「誰ですか、お知り合いですか」
 青新蛇の背後から青正蛤が問う。そっと背中から顔を出し、黒華蝦の顔を見る。
「おっ、そこの美人の姉ちゃん。こっちに来な。青新蛇殿と商談だ」
 黒華蝦は青正蛤に熱い視線を送る。しかし、視力が極端に悪い青正蛤にはその彼の顔すら見えていない。
「商談って、ここでですか」
 何事もなかったかのように、青正蛤は青新蛇に聞いた。黒華蝦は自分の視線が通じないことに不機嫌な顔をする。
「商談とは、どういう内容だね」
「おっとそうだった。青新蛇殿、実は私はある物を発見しましてね。それを買っていただきたいのですよ」
「あるものとは、具体的にどういうものかね」
「海都に、黒陽会の教会があることはご存知ですか」
「知っている」
「その黒陽会が、海都の人々に無償で変わった品々を配っていたこともご存知ですか」
「聞き及んでいる」
「その教会の跡地に、面白い物を発見したのですよ。金大家の家長ともなれば、それを見さえすれば価値が分かると思いましてね。どうです。見て、買う価値ありと判断したならば、黒陽会の教会の土地ごと、その商品を買い上げていただけませんかね」
「君に黒陽会の教会の土地を売る権利はあるのかね」
「黒艶狐、例のものを」
「はい」
 青い目の美女は袋から一通の証文を取り出し青新蛇に手渡した。青新蛇はその書類を開いて確認する。正式の土地所有証書だ。黒華蝦はこの数日間、手当たり次第に黒陽会の女達と寝て、この証文を得ることに成功した。
「どうです。権利はあるでしょう」
「そのようだな。買い上げて欲しいということだが、どのくらいの金額を希望しているのかね」
 海都の主要土地の買収を考えていた青新蛇だ。極端な金額を提示されなければ予算の範囲内で都合を付けることができる。それにこの黒陽会の土地もその買収予定地に入っている。
「海都の黒陽会は、今百人ぐらいいるんですよ。その人数が一年生活できる金額ぐらいが妥当だと思っています。あともう一つ希望があるんですがね。俺達を護衛として雇ってくれませんか。腕は保証しますぜ」
 もちろん黒華蝦は受け取った金を百人に分配する気などない。全部自分の懐に入れるつもりだ。そして護衛という名目で金大家に潜り込み、さらにお金をぶん取ろうと考えている。
「最初の提案だが、それは商品を見て判断しよう。二番目の申し出は応じる訳にはいかない。現在海都では赤族に対する敵意が満ちている。その中で君を護衛に雇うということはいらぬ波風を立てることになる」
 黒華蝦は肩を竦める。一つだけでも希望が通れば悪くはない。
「まあいいさ。お金をもらえれば文句はない。黒陽会の教会跡地はこのすぐ近くです。案内しますぜ」
 青新蛇は空を見上げる。夜にはまだ時間がある。少し寄り道をする時間ぐらいはあるだろう。土地を買い上げる手間をかけると思えばこの回り道も許容範囲だ。護衛もきちんと連れている。身の危険もそれほど心配する必要はない。
「付いて行くんですか、青新蛇様」
 背中に貼りついたまま青正蛤が声をかけてきた。
「ああ、少し見て行くことにしよう」
 青新蛇達は、黒華蝦に付いて黒陽会の教会へと向かった。

 黒陽会の教会跡地にはいくつかの天幕が立てられていた。そのうちの一つの入り口で、数人の女性が警備を行なっている。
「青新蛇殿、ここですぜ」
 黒華蝦が得意げに案内する。女達から火の付いた松明を受け取り、天幕の中に入り、そして階段を地下へと向かう。先頭は黒華蝦と黒艶狐、続いて護衛が数人、青新蛇、青正蛤、再び護衛と続く。幾人かの護衛は地上に残している。
 扉の横に開けられた人ひとりが通れるほどの穴を抜け、地下工房のような場所を過ぎ、さらに深く下りる。暗い部屋の中に、黒曜石のような黒い巨大な石板が立て掛けられていた。表面には無数のひび割れのようなものがある。
「売りたい物はこれですよ」
 黒華蝦はその石板の表面を撫でる。青新蛇は一見してこれが尋常の物でないということが分かった。禍々しい雰囲気を湛え、石板は暗闇の中で佇んでいる。
 青新蛇は近づき顔を寄せる。小さなひび割れに見えていたものは、無数の数字や文字だ。これは何を表わしているのか。
「これは一体何なのだ」
「さあ分かりません。だが、これが何らか価値ある物だということは俺でも分かりますぜ」
 黒華蝦は青新蛇の顔色を窺う。何とかしてこれを金大家に売りつけたい。値段を下げるべきかなと思い始めると、黒艶狐が口を開いた。
「海都の黒陽会の地下には、導師様や幹部の方々しか入れない秘密の地下室があると聞いていました。彼らはかつて黒都で行なわれていたのと同じような錬金を、その場所で実行していたそうです」
「それがこの場所だと言うのだな。ならばこれは錬金の手による物か」
 青新蛇は呟いた。その時、その石板の表面に新たなひび割れが走った。長い数字が刻まれ、最後に三つの文字が浮かび上がる。
「何が起こった」
「いや、俺にも分かりません」
 黒華蝦は青新蛇の問いに狼狽する。この石板がどういった物なのか、彼自身何も分かっていない。青新蛇は表面に生じた新しい文字を見る。
「赤堅虎と読めるな」
「なっ、それは赤族の族長の名前だ。いや既に次代に譲っている年齢だから、前族長かもしれないが」
 青新蛇はさらに書かれている文字を探る。
「白賢龍。これは白王様の名前だな。白淡鯉、皇后様の名前もある。他にも多数の名前。そして無数の数字。どういう意味があるのだ」
「青新蛇様、数字なら任せてください。全部読んで、どういう意味か解読しますよ」
 金大家の青正蛤が、数字と聞いて嬉々として騒ぎ出す。青新蛇は青正蛤と位置を変わる。彼女は眼鏡を取り出し、石板に顔を近づける。
「何だかたくさん数字が書いていますね」
「読み終わるだけでも結構時間がかかると思うぞ」
 石板を見上げながら青新蛇が言う。
「青新蛇殿、高い所の数字を読むために梯子でも用意しましょうか」
 黒華蝦の問い掛けに青新蛇は頷く。黒華蝦は黒艶狐を呼ぶ。
「よし、工房から梯子を取って来てくれ」
「はい、分かりました」
 それからしばしの時間、青正蛤は表面を舐めるようにして石板を見ていた。
「青新蛇様、たぶん間違いないと思います」
「もう全部読み終わったのか」
「いえ、途中までです。でももう法則性が分かりましたから」
 危ない足取りで青正蛤は梯子から下りてくる。
「青新蛇様、この石板の数字には明確な法則性があります」
「青正蛤、私はこっちだ。こっちを向いて喋れ」
「あっ、はい、こちらですか」
「それで、どのような法則なのだ」
「ここに書かれている名前は、いずれも大陸で重要だと思われる人々の名前です。例えば、白王様、先程黒華蝦殿がおっしゃられた赤族の族長、海都の舟大家の前々家長、白大国に滅ぼされた大国の王、様々な人々の名前が書かれています。そして数字は、ある一時点から換算した相対時間を表わしています。
 それぞれの人が死んだ年月日から、ある一定の年月日を引き、その数字を何倍にもして、さらに幾らかの数字を足した値がこの数値です。たぶん、物凄く正確な死亡時刻を表わしているのだと思います。いくつかの名前と数字を見れば、すぐにこれらのことは分かります。基準の時間はおよそ百年前。正確に言うと……」
「そこまで正確に言わなくてよい」
 青新蛇が青正蛤の言葉を止める。青正蛤は自分の言葉を途中で止められ頬を膨らます。
「おいおい、青正蛤とやら。お前はそんないろんな人が死んだ日を覚えているのか」
 黒華蝦が驚きの声を上げる。
「当然です。数字は大好きなので、こういった基本的な数字はみんな記憶しています」
 得意げに青正蛤は眼鏡を光らせる。
「本気かよ」
 呆れた声を黒華蝦は上げる。
「うん、おい、ちょっと待てよ。じゃあ何で白賢龍や赤堅虎の名前が刻まれているんだ」
 その言葉を発した黒華蝦の顔を全員が見る。
「その二人が死んだという報せは入っていない」
 青新蛇が黒い石板を見ながら呟く。
「当然ですよ。だってこの二人の死亡年月日は未来ですもの」
 自分の計算結果に絶大な自信を持っている青正蛤が、眼鏡を仕舞いながらそう告げる。
「それはいつだ」
 思わず青新蛇は声を上げる。この石板には真実を語るだけの存在感がある。金大家の家長として、これまで数多の文物を見てきた青新蛇はそう確信している。青新蛇のあまりにも真面目な声に、青正蛤は少し躊躇する。
「十五日後です。二人共」
 全員がその場で息を飲む。近日白王が死ぬ。そういった予定は青新蛇の念頭にはなかった。青美鶴にもないだろうと彼は思う。
「これは真実だと思うか君達」
 それを判断するのは青新蛇だ。だが、彼はそのことを周囲の者達全員に聞いた。
「いや、俺には分からん」
 黒華蝦が告げる。
「錬金の御手によって作られた物なら、事実なのではないでしょうか」
 黒陽会の敬虔なる信者黒艶狐はそう答える。
「文献を調べて、正確な死亡年月日と付き合わせれば、正当性を判断できると思います」
 青正蛤は自分の考えを述べる。
「これがもし真実ならば、余人には知られてはならない情報だ。黒華蝦殿、この土地ごとこの情報を買い取ろう」
「よっしゃ、さすが金大家の家長、話が分かるぜ」
「それと君達の自由をしばらくの間拘束させてもらう。この情報が外に漏れると困るのでな」
「何、青新蛇殿、俺を捕まえる気か」
「心配するな、一ヶ月ほどで開放する。拘束するのはこの予言の真贋が分かる期間だけだ。この石板と土地を購入する約束の金はきちんと払う。君達は金大家の賓客として、貴賓室で起居してもらう。それなら文句はあるまい」
 青新蛇の合図で、護衛達が武器を構える。
「黒華蝦殿、私は手荒なことが嫌いなのだよ。このまま大人しく従ってくれるね」
「どうやら、選択の余地はなさそうだな。食事は三食、酒も欲しい、解放する時には極上の駿馬を一頭」
「よかろう。その条件を飲もう。では土地の所有証書を」
「黒艶狐、くれてやれ」
「はい」
 青新蛇は書類を青正蛤に受け取らせた。
「そろそろ金大家に戻ろう。青美鶴殿達も来る頃だ。新たな賓客を案内する必要もあるしな」
 黒華蝦は青新蛇のその言葉に渋い顔をする。青新蛇達は地上へと向かった。

 金大家の天幕に五大家の家長が集まって来る時刻だ。
 舟大家の家長一行が金大家にやって来た。青明雀はお仕着せの服を着て老執事の後ろに従っている。青美鶴は彼女のことを特に気に留めていないようだ。
 青美鶴の背中を見ながら彼女は金大家の天幕に入る。青明雀を含む舟大家の一行は、金大家の控え室に入った。
 老執事が青明雀に合図を送る。彼女の能力なら、天幕の中を適当に歩き回るだけで、多くの情報を拾ってこられる。部屋を出て、仕事をしろという指示だ。青明雀は緊張しながら部屋を出て、天幕の中を歩き始めた。
 金大家の仮商館と言っても、天幕の中はそれほど広いわけではない。いくつかの天幕が集まって、商館の代わりの機能を形成している。天幕の外側を歩き待った方が、情報を得るには都合がよいだろう。そう思い、彼女は天幕を出た。
 目を瞑って耳に意識を集中して散策する。雑多な囁きが幾つも耳に飛び込んでくる。この中から意味のある会話を選ぶのは、予備知識のない彼女には至難の技だ。それでもなにか情報を得ようとして彼女は歩き回る。その青明雀の耳に、男と女が媾合する声が聞こえてきた。
 こんな所で。そう思い、彼女は顔を赤らめてその場で立ち止まる。早くこの場所から立ち去ろうと思うのだが、その男女の声に思わず聞き入ってしまう。
「くそ、青新蛇め。貴賓室と言っていたからどれだけ立派な場所かと思ったら、単なる天幕じゃないか」
 男が愚痴を零しているようだ。
「しかし、十五日後に白王が死ぬとは本当なのか。もしそれが真実だとすれば、どうなるんだろうな。あの黒い石板にそんな予言の力があるとはまだ信じられんが」
 男の言葉と女の喘ぎ声が重なって聞こえてくる。白王が十五日後に死ぬというのは本当なのだろうか。これは急いで青美鶴様にお報せしなければ。青明雀は急いでその場を立ち去った。

「それだけでは、その情報がどれほど信憑性のあるものなのか全く分からないわね」
 冷たい青美鶴の言葉に青明雀は体を小さくする。そろそろ五大家の定例会議が始まる。青美鶴は立ち上がり、控え室を出て行った。
 その日の議題は、土木軍団の扱いであった。青美鶴は、この数日全く譲らず土木軍団による効率的な都市復興を主張している。既にその準備は着々と進んでいる。対して青新蛇は海都市民による復興作業を推す。彼の場合は大幅な譲歩をしている。主要な計画、技術指導は白大国の土木軍団が行ない、実作業や細部の計画は海都側で行なうという柔軟な案だ。
「青新蛇殿。それでは駄目です。百年後を見据えた都市をこの機会に作らなければなりません」
「それでは器しかできない。中身のない器を青美鶴殿、あなたは作るつもりなのか」
「海都は変わるのです。今のままの海都を復興するのでは意味がありません。新しい海都は、これまでの海都の延長ではないのです」
「青美鶴殿、あなたはどんな海都を作るつもりなのです」
 既に他の大家の家長達は議論に加わっていない。より大きな力を持っている舟大家におもねる態度を取っている。
「新しい海都は、あらゆる意味で大陸の中心とならなければなりません」
 青新蛇は青美鶴の表情を見て険しい顔をする。自分の目の前にいるのは、青美鶴なのだろうか、それとも青捷狸なのだろうか。姿形も声も性別も違う。だが、その存在感、考え方は青捷狸そのものだ。
「海都が大陸の中心になると言いますが、もう既に商売、文化の面では中心ではありませんか。これ以上、何を望むというのですか」
「文明、政治、軍事でも中心となること」
 青新蛇だけでなく、他の大家の家長達もどよめく。その人々を青美鶴は睨んで抑えつける。
「青美鶴殿、それはあなたが考えたことですか。それとも青捷狸殿が考えたことですか」
「父はこの話を私が幼少の頃から語っていました。そのことを、私はつい最近まで忘れていたのです。でも今はそのことをはっきりと思い出せます」
「しかし青美鶴殿、白大国の力を借りるということは、海都を敵から守るというあなたの方針と矛盾しませんか。白大国も、海都の力を奪い、手に入れようとするいう意味では敵の一つです。あなたは白大国の土木軍団の力を借りて海都を復興しようとしている。しかし、それは白大国の完全なる傘下に入ることを意味する」
「以前は迷っていましたが、今では大丈夫だと確信を持って言えます。白大国は早晩滅びます。そのことを私は、父の残した手紙を開くことで知りました。海風神社には、ある日付に私に届けるようにと残された手紙がありました。そこには白大国皇后白淡鯉殿の死の予定が書かれており、その予言は私が手紙を受け取った時には成就していました。手紙には更に、これから海都が目指すべき道も示されていました。書かれていた内容をあなたにもお伝えしましょう。要旨はこのようなものです。
 白王は死ぬ。その後、白大国は分裂し、群雄割拠の時代が再び訪れる。その中で生き抜くために、土木軍団を傘下に置き、海都を鉄壁の要塞都市にすべし。何よりもそれを優先すること。そうすれば、百年後、海都は大陸を支配する都市になるだろう。手紙にはそう書かれてありました」
 舟大家の前家長青捷狸は、黒壮猿と共に死表を見ていた。弟の性格を知り抜いている青捷狸には、白淡鯉の死の後、青聡竜が怒りに任せて海都を離れることは容易に予想できた。そしてその結果、青美鶴が青捷狸の名代として相応しい性格へと変貌することも推測できた。そのため、白淡鯉の死から一定時間が経った後、手紙が青美鶴に届くようにしていたのだ。
「馬鹿げている。土木軍団の軍団長がそう簡単に従うとも思えん」
「司表名代の白怖鴉殿に間に入ってもらい既に籠絡しています。それよりも青新蛇殿。いつものあなたなら、白王が死に、白大国が分裂するという前提を真っ先に否定すると思いましたが、そうではないのですね」
 青美鶴が笑みを浮かべる。青新蛇は押し黙る。今日の昼に見た、不可解な石板を見ていなければ、真っ向から否定していただろう。だが、あの石板の記述を否定できない自分がここにいる。
「確かにそれで、海都という都市は生き残り、繁栄するかもしれない。しかしそれでは海都の精神は死ぬ。お仕着せの都市で怯えるように暮らす人々。それは私が愛する海都ではない。全く別の海都だ」
「愛などと愚かな台詞を。あなたはその妄想のために、海都市民を殺すことになるでしょう」
「青美鶴殿、あなたに問いたい。あなたの背後には青捷狸殿がいるのだろう。彼は今どこにいる。そして何をしている」
「隠居した人物のことまでは知りませんわ。そんなに父のことが気になるのでしたら、海都中を捜してみればよいではありませんか。舟大家の家長は私です。父は関係ありません」
「青捷狸殿は、何をしようとしている」
「引退した父のことなど、あなたには関係ないことです。今日の会議が父の話になるとは思ってもいませんでしたわ。今宵の話し合いは、当初の主題から逸れ過ぎました。今日はお暇させていただいたほうがよさそうです。また明日、お会いしましょう」
 青美鶴は椅子から立ち上がり、出口へと向かう。その彼女に追従するように、三人の大家の家長が部屋を出た。青新蛇は立ち上がり、その後姿を追おうとする。しかし、数歩進んで足を止めた。
「青美鶴と青捷狸は、この海都で何をしようとしているのだ」
 青新蛇は部屋で一人そう呟いた。

 三日後、白大国の土木軍団による工事が始まった。時を同じくして海都で暴動が発生する。
 最初の切っ掛けは街の一角で起こった。青喧鶯という食料卸業者の中年女性が、土木軍団の兵士による立ち退きに拒否の態度を示した。兵士達が彼女の店のあった場所を整地して道路に変えると言って来たからだ。一悶着あった後、彼女は一旦その場を去り、工事は始まった。数時間後、彼女はその街区の人々を多数呼び集め、手に手に武器を持たせ土木軍団の前に現れた。彼女達はその場で座り込みを始めたのだ。
 数回、土木軍団の百人長とのやり取りがあった後、住民の一人がその百人長に石を投げた。その行為に対して百人長は非難の言葉を浴びせ、その言葉に怒った住人達が大量の石を投げ付けて百人長が死亡した。白大国の兵士達はその犯人として、座り込みをしている人々を捕らえようとする。そこで一気に戦闘が始まった。
 住人達が持っていた武器は、包丁や角材。対して兵士達が持っていた武器は正規の剣や槍などの武器である。すぐさま暴徒は鎮圧され、数人が死亡した。だが、それで終わらなかった。暴動は飛び火し、海都の各地で衝突が始まった。海都市民と白大国の兵士との戦いだけではない。土地の境界線で揉めていた隣人同士の争いも同時に発生した。戦闘は略奪に変わり、市民は暴徒と化した。
 五大家の家長達は金大家の天幕に集まった。
「戒厳令を敷き、暴動を鎮圧するしかありません」
 青美鶴は四人の大家の家長を前にそう言った。既に舟大家の兵士、土木軍団、白大国の駐屯兵が出て、街で争っている者達を止めに入っている。
「逮捕された市民は全て、兵士の命に従い、土木軍団主導の都市復興の労役に従事してもらいます。海都の整備が終わり次第、彼らは解放されます。土木軍団の上げた見積もりでは、その作業期間は半年。海都は川の下流のため資材運搬の便がよい。また城壁などはそのまま補強すれば使用が可能。捕らえた市民も労役に従事させれば、広源市の半分の期間で軍事都市化できるとのことでした」
「海都の市民に労役を課すのか」
 青新蛇は驚きの声を上げる。
「当然です。彼らは犯罪者です。法に照らし合わせて厳正な罰を処するべきでしょう」
 正論だ。青新蛇は押し黙る。青新蛇は青美鶴の顔を見る。この暴動すら青美鶴が起こさせたのではないかと疑ってしまう。
「海都は滅びるぞ」
「そう、そして生まれ変わるのです」
 青美鶴は立ち去り、青新蛇はその背中を見送った。
 その後、五大家の会合は三日に一度になり、海都の復興は舟大家の主導で急速に進められることになった。戒厳令が敷かれているため、市民は自由に建設資材を入手することができなくなり、住民達による復興は下火になった。
 軍事施設、商業施設などの巨大建築物を中心とした市街の区割りが決められ、道路の場所が確保されていく。そして市民達は、割り当てられた土地と資材で土木軍団の指導の下、労役を課されて復興作業を行なうようになった。
 効率は住人達の手による復興と比べて格段によくなった。しかし海都の民の自主性は急速に失われていった。
 金大家の商館の建設現場を青新蛇は見ている。復興は恐ろしいほど順調に進んでいる。
「そろそろ、あれから十五日が経つ。あの黒い石板を見に行くとしよう」
 白王が死ぬと刻まれたその日、あの場所で何かが起こるかもしれない。青新蛇はそう思い、仮商館の天幕の中に再び入った。


  四 黒都へ

 砂漠に入って三日目の暗殺者達。
 彼らは砂漠に入る前日、砂漠周縁の黒族の小さな集落を探し、無理矢理駱駝、食料、水などを奪った。元から奪う気だった訳ではない。最初は黄金でこれらの物品を買い求めようとした。しかしこの地では、暗殺者達が考えていた経済というものが既に意味をなさなくなっており、黄金は駱駝を買い求める代価とはならなかった。生きる糧を使った物々交換だけがこの地での市場原理なのだ。対価を払えなかった彼らは、凶刃でもってそれらを得た。ほとんどの者は殺し、幾人かは道案内として駱駝を引かせている。
 暗殺者達は南西に向かっている。一日に進める距離はたかが知れている。日中は天幕で陽射しを避け、夜は毛布で寒さを防ぐ。まともに行動できるのは、明け方と夕方。それ以外の時間は灼熱か極寒が容赦なく彼らを襲う。
 この土地には川や湖といった水辺がない。海も遠い。自然、寒暖差が激しくなり不毛の土地になる。
 白惨蟹の放った暗殺者の一人白冷螂は、駱駝の背で遠方の地平線を見た。見渡す限り真っ平らな大地が続いている。
 今は朝、移動の時間だ。周囲には同じような暗殺者達が十数人いる。
 道案内達の話によれば、この辺りの大地は砂漠になってから日が浅い。そのため砂を少し掘れば湿った土が現れるという。昼はこの土の高さまで砂を掘り、天幕を張り涼を取る。
 雨もいくらかは降るという。南西の海から吹き上げられた水蒸気が、北東の山脈に当たって雲を作るからだ。しかしそれもすぐに乾く。この土地に木々は根付かない。根付くのは異形の仙人掌か、丈が低く地を這うような特殊な草ばかりだ。
「これらの植物は食べられるのか」
 白冷螂は道案内の老人に尋ねてみた。
「止めときなされ。たっぷり毒を含んでおるからのう。この砂自体が有害な毒物を含む。だからまともな植物が根付かない。わしらがこうやって鼻や口を布で覆っているのは毒の砂をできるだけ吸い込まないようにするためじゃ。砂が肺に溜まり過ぎると早く死ぬからのう。この土地に住む者の死体を開くとそれが顕著に分かる。肺が真っ黒だからじゃ。あんたらもわしらを殺したあとに見てみるがよい。呪われたように黒くなっておるぞ」
 案内役の老人は意地悪そうに笑った。砂漠の景色は単調だ。例え仲間を殺した殺人者相手でも、誰かと喋って気を紛らわせなければ、すぐに精神が参ってしまう。
「このまま、黒都までは行けそうか」
 白冷螂の問いに、案内人は首を横に振る。
「砂漠には悪魔がおるでのう。そう易々とは抜けさせてはくれん」
「悪魔とはどんな姿をしているのだ」
「体長は人間の身長の二、三倍。太さは人間の胴ぐらいかのう。わしらは千足虫と奴らのことを呼んでおる」
「千足虫」
「そう、それぐらい足がある化け物じゃよ。奴らは砂の中を泳ぎ、地上の得物に食らいつく。そいつらが出たら、剣は使わないことじゃな」
「なぜだ」
「奴らは普段、毒の植物を食べている。だから体中に毒が溜まっている。切ると毒を浴びることになる。あと、胴を切ると二匹に増える」
「そんな奴らから、どうやって逃げるのだ」
「油をかけ、火を放つ。それぐらいしか奴らから逃げる方法はない」
「ここには油はない」
「ああ、持って来なかったからな。それそろ千足虫の巣だ」
 老人は不敵に笑う。白冷螂は、生かしておいた者達が復讐のために道案内を引き受けたことにようやく気付いた。白冷螂の隣を騎行していた暗殺者が駱駝ごと倒れる。駱駝の足には無数の長い虫が噛みついている。たちどころに肉は引き裂かれ、骨は砕かれ、その足がなくなった。
 駱駝は悲鳴を上げる。その悲鳴を合図にさらに多くの千足虫が現れた。
 白冷螂の横で道案内の老人が絶叫を上げる。千足虫に襲われたのだ。大地に倒れ、虫達に四肢を引き千切られる。
「次はお前の番だ」
 砂の上から道案内の男はそう叫んだ。次の瞬間、老人の頭に新しい虫が食らいつき、首を引き抜く。彼は絶命した。
 白冷螂の乗っていた駱駝も大きく傾き始める。四本の足に無数の巨大虫が食らい付いている。白冷螂は駱駝に乗せていた自分の荷物をまとめ、背中に担ぐ。
 彼は冷静に駱駝の背の上に立ち、その背を蹴った。ふわりと宙に浮く。しばらく滞空した後、砂の上に物音一つ立てずに着地した。砂煙すら上がっていない。音を一切立ててはいけない。岩竜虫のときに学んだことだ。この辺りの虫は音で外敵を判断する。駱駝が必死の声を上げながら白冷螂の姿を見る。他の暗殺者達も同じように砂の上に着地する。案内人と駱駝以外死者はいない。駱駝を失ったのは痛いが、徒歩で移動すれば黒都まで辿り着けるだろう。
 その時大地が急に鳴動し始めた。直後に数人の暗殺者達の悲鳴が上がる。
 何だ。
 白冷螂は叫び声がした方を向いて絶句した。山脈で見た岩竜虫の二倍もあるような、巨大な千足虫が砂から鎌首をもたげ、足を蠢かせているのだ。その口から、どす黒い唾液が零れた。地面に落ちたその液体は、泡を立てながら砂を溶かしていく。先程悲鳴を上げた者達は、その声に反応した千足虫達にかぶり付かれている。
 巨大な千足虫はその太い足で砂を大量に巻き上げた。砂の雨が大地に降り注ぐ。音を立てずに息を潜めていた暗殺者達に、無数の千足虫が飛び付いた。
 なぜだ。音を立てていないのに。
 そこまで考えて白冷螂は老人の言葉を思い出す。
――奴らは普段、毒の植物を食べている。
 千足虫は音を頼りに食物の位置を捕捉する。しかし、それでは植物の位置は特定できない。ではどうやって、獲物の居場所を突き止めるのか。白冷螂は閃いた。
 千足虫は岩竜虫よりも精巧な方法で敵の位置を察知する。あの巨大な千足虫は親虫なのだろう。その親虫が砂をばらまくことで、子虫は大地の凹凸を聞き分ける。そして大地に隆起している物をことごとく食い尽くすのだ。あの顎であれば、岩も木も何でも砕くことができる。この地が極端に真っ平らなのはこいつらが整地してしまったからだ。
 音を消して待つ訳にはいかない。砂に潜ってやり過ごすか。いや、ここは奴らの巣なのだ。全力で逃げなければいずれやられる。
 白冷螂は、南西に向かって駆け出した。途中追い縋ってくる千足虫の足を止めるために、幾つかの荷物を背後に投げ捨てながら必死に走った。日中であるにも関わらず駆け続けた。
 彼は走った。千足虫の気配がなくなってもずっと足を動かし続けた。そして夕刻になる。
 暮れなずむ太陽を見る頃、白冷螂はようやく自らの命が助かったことを知った。

 大陸周回航路船。
 その黒都を目指す船の一つから、小舟が洋上に下ろされる。その舟に、海都の舟大家の青遠鴎が縄を伝って乗り込む。船長も同乗する。
 小船は旗艦へと向かい辿り着く。乗員達は甲板から投げられた縄を受け取り、その船へと上がって行った。
「しかし青遠鴎、船主様に直接黒都上陸の同行を願いに行くのはどうかのう。受け入れてくれるかどうか」
 老船長が当惑気味の声を漏らす。
「ええ、でも戦闘要員として乗船していない私は、黒都上陸の際にそのまま船上で待たされる可能性が高いですから。この船団にはこれだけの兵士がいます。これだけの兵を連れて来た理由が、緑族の地を通過するためだけとは私には思えません。黒都に何らかの危険があると考えて間違いないでしょう。だとするならば、足手まといになりかねない非戦闘員は同行が許されない可能性があります」
「まあ、それは多いにあり得るのう。だから船主様に直接頼み込むというわけか」
「そうです」
 青遠鴎と船長は甲板に上がった。船主の起居する屋形の壁に一人の男がもたれかかっている。確かあの男は、青遠鴎は考える。何度か顔を会わせたことがある。名は青凛鮫と言ったはずだ。
 軽く男が会釈して来たので青遠鴎も返した。青遠鴎は船長と共に船主の屋形の扉を叩く。
「船主様、青遠鴎と申します。お願いがあって参りました」
 中からは音が聞こえない。
「黒都上陸に際してお願いがございます。中に入ってもよろしいでしょうか」
 いくらかの沈黙が続き、扉が少しだけ開いた。黒覆面の人物は体で通り道を塞いでいる。要件があるならここで言えということだろう。
「船主様、たってのお願いがあって参りました。黒都上陸の際には、船主様は黒都に自ら行かれると思います。その際にはぜひ、私もご同道させてください」
「彼だけでなく、自分も同行を許可していただきたいのですが」
 青遠鴎は振り向く。そこには先程まで屋形の壁に背をもたれていた青凛鮫の姿があった。
「中に入ってもよろしいでしょうか」
 青凛鮫は黒覆面に対して問い掛ける。
「それじゃあ、私はここら辺で」
 厄介事に巻き込まれたくない船長はその場から退散した。黒覆面は指で入れと命じてくる。青遠鴎と青凛鮫は屋形の中に入った。
 青遠鴎は再び入ったこの部屋の海図や書物に目を奪われる。前回も驚いたが、やはりこの資料の数と質は凄い。青遠鴎と青凛鮫は、机の周囲の椅子を与えられる。船主も同じように席に着く。青遠鴎は周囲の物品に目移りしながら座る。そして、興奮を必死に抑えながら、本来の目的である黒都同行の件を切り出した。
「船主様、黒都上陸の際には、ぜひ私をお連れください」
 黒覆面は静かに座ったまま青遠鴎の話を聞く。先を続けろというのだ。
「私の推測ですが、黒都には非常な危険が待っているのだと思います。恐らく、緑族の地を通る以上の危険が待ち受けているのではないかと推測しています。緑輝との戦いでいた猛虫。これは元々黒都のものだと聞いています。黒都にはそのような危険な怪物が多数いる。私はそう考えています。そのような危険な地に、非戦闘員である私は、通常では同行させてもらえないでしょう」
 船主は無言のまま青遠鴎の言葉を待つ。
「しかし私は同行させてもらえると確信しています。それは、船主様。あなたの利益にもなることだからです」
 黒覆面の人物は青凛鮫を呼び、耳打ちをする。青凛鮫は頷く。
「その利益とは、どのようなものだ」
 青凛鮫は黒覆面の言葉を代弁する。青凛鮫は黒覆面の正体が黒捷狸だと知っている。彼に対して話しかけるのは何の問題もない。
「あなたの知識を隠すという利益です。理由は分かりませんが、船主様はその存在を隠そうと絶えずなされています。そしてそのために、極力自分の口から情報を語らないようにされています。今船団を見渡したところ、この辺境の海域、そして黒都について、もっとも詳しいのは、これだけの資料を持つあなた様でしょう。だが、それを衆人の前で語るのは憚られる。そうではないでしょうか」
 青遠鴎は黒覆面の反応を見る。特に変化は見られない。
「緑輝宮攻めの作戦会議の時もあなた様はほとんど何も語りませんでした。白大狼様がほとんど喋られていました。しかし、辺境の海域について白大狼様があなた様より知識があったとは到底思えません。事前に打ち合わせを行ない、白大狼様に知識を授けて、あなた様の代わりに語っていただいたのではないでしょうか。
 黒都でも同じ役の人物が必要なはずです。幸い、私は舟大家の辺境海域の海図作成担当として、この辺境には詳しいということが船団内でもある程度知れ渡っています。願わくば、私にあなた様の知識を授けていただき、代弁者として黒都にお連れいただけないでしょうか。そうすれば、船主様は不必要に喋る必要がなくなります。これは、船主様にとっても利益になることと思います」
 船主は、黒い衣の下で肩を揺らす。そして再び青凛鮫を呼ぶ。
「船主様は、こうおっしゃられています。面白い男だ。舟大家の者は、何でも取り引きの材料にする。よいだろう、この船に移れ。そして毎日、太陽が天頂に上る時刻にこの屋形を訪ねろ。必要な資料を見せてやる」
「はっ、ありがとうございます」
 青遠鴎は机の下で思わず拳を握った。思った以上の成果を得ることができた。これで黒都にも上陸できる。そして、この部屋の資料にも触れることができる。黒覆面は青凛鮫に耳打ちする。
「今日は、もう退室しろとおっしゃっています」
「はっ、では明日から伺います」
 一礼して青遠鴎は部屋を出た。扉が完全に閉まったことを確認してから、青凛鮫は黒捷狸に問い掛ける。
「船主様、自分の上陸も許可していただけるでしょうか」
「当然だ。お前はわしの目の届く範囲に置いておく必要がある」
 その声に、青凛鮫は背の毛が逆立つのを感じた。黒捷狸という人物が、これほどまでに正体をひた隠しにして黒都に向かうのは、政治的理由以上のものがあるのではないか。海都の舟大家の前家長が黒都に行くという情報を隠す以上の何かがある。そう思わずにはいられない。
 嫌な予感がする。青凛鮫は一礼し、黒捷狸の部屋を後にした。

 洋上に浮かぶ巨大な戦艦、浮都。
 浮都に白大狼達の船が到着して数日が経った。あまりにも損傷が酷かった大陸周回航路船は、今は島の上に引き上げられ修理が行なわれている。
 船に乗っていた人々や罪人も同様に陸に移されている。緑輝兄妹と白楽猫は浮都の地下の船倉に一緒に閉じ込められた。その他の者は、浮都の各家に分宿することになった。
 昼。
 無数の植物に侵食され、緑に覆われたその動く島の上で、数十人の人が集まって車座に座っている。その円の中央には柔軟体操をする白麗蝶と、褐色の肌を持ち、筋骨隆々の大男黒健鰐の姿があった。これから組み手を行なうのである。審判役は少女の弟子の青勇隼だ。
 この島一の力自慢である黒健鰐は、最初白大狼に組み手を申し込んだ。しかし、彼は読書をするからと言い、その勝負を断わった。その代わりに勝負の相手として出て来たのが十歳に満たない女の子、白麗蝶だ。彼女は、自分に勝てば白大狼と戦わせてやろう、と勝手に話に割って入って来た。
 勝負は三本勝負と決まった。黒健鰐は最初その勝負を渋ったのだが、白麗蝶の挑発に頭に来て、勝負を受けることにした。
 一本目はあっさりと白麗蝶が勝った。足を引っかけて転ばせたのだ。浮都の黒族の男女が黒健鰐の醜態を大笑いする。
「おうおう、図体ばかりだのう」
「白麗蝶様、少しは手加減しないと恨みを買いますよ」
「青勇隼は策士だのう。まるで小役人のようだ」
 白麗蝶と青勇隼の会話に、今度は白族や青族の男達が大笑いする。
「勝負は三本勝負、まだ決着は付いていないぞ」
 大柄な黒健鰐が顔を真っ赤に染めて仕切り位置に付く。
「それでは開始」
 青勇隼の言葉と共に、黒健鰐が猛然と白麗蝶に飛び付き、胸倉を掴んだ。黒健鰐は腕に力を込める。白麗蝶を海に投げ込んでやろうという魂胆だ。
「力は強いが使い方を間違っておるのう」
 白麗蝶は黒健鰐の手首を掴み、体をわずかに動かす。
「とうっ」
 四股立ちになり腕を伸ばす。黒健鰐の体が宙に浮き、回転する。大きな音を立てて黒族の男は地面に落下した。
「くそっ、またか。どんな魔術を使いやがったんだ」
 黒健鰐が浮都の甲板を激しく叩く。
「何、白大狼に習った技を少し使っただけだ」
「ぐぬぬぬ、あの男はお前よりも強いのか」
「そうだな、私の師匠だからな」
「参った。俺の負けだ。これからあんたのことを白麗蝶様と呼ぶことにしよう」
「うむ、くるしゅうない」
「おおぉ、白麗蝶様、白麗蝶様」
 小さな強者に、黒族の観客達が声援を送る。なんだかどこかで見た光景だなと青勇隼は思った。
 白麗蝶達が騒いでいる広場から少し離れた建物の一室で、白大狼は史表を一人読んでいる。既に航海の途上何度も見た書物だ。この史表を読むと、歴史は必然の下に一本の線上を進んで行くように感じる。白賢龍は歴史の行き着く先は一つしかないと思っているようだ。だが、それは真実なのだろうか。白大狼は考える。
「白大狼様、入ってもよろしいでしょうか」
 扉の外から声がかけられた。白愛鹿の声だ。白大狼は史表を仕舞い、入室を許可する。男が一人、戸をくぐった。
「白愛鹿、何だね」
「白大狼様、この浮都という島の行く先は黒都であるとお聞きしたのですが」
「ああ、上陸し、最奥の宮殿へと向かうことになる」
「ぜひその際には私も連れて行ってください」
「構わないよ。かなり危険だと聞いているが、腕の立つ兵士が多く行けば敵を撃退することもできるだろう」
「敵ですか」
「そういえば君には話していなかったな。黒老珊が教えてくれた。黒都周辺および黒都の中は、現在猛虫と呼ばれる巨大虫が多数生息しているそうだ。元々黒都の防衛兵器の一つとして作られたそれらの虫が、今は我が物顔で振舞っているという。そういえば、大陸周回航路船も黒都に向かうのだな。あれだけの兵士を満載しているのは、きっとそれらの撃退を考えてのことだったのだろう」
「我らの数だけで大丈夫でしょうか」
「浮都の若い者の中からも、黒都に上陸したいという者達がかなりの数いるそうだ。兵士の数の不足はそれで少しは補えるだろう。浮都にも命知らずが多いようだな。それに、大陸周回航路船の兵士達と協力できるかもしれない。まあ、それは着く時期にもよるだろうが」
 白愛鹿は唾を飲み込む。緑輝との戦いで猛虫の怖さは経験した。黒都がそのような怪物が住む都となっているとは知り及んでいなかった。
「一命を賭しても、白大狼様と白麗蝶様をお守りいたします」
「期待しているよ」
 白大狼は優しく微笑んだ。白愛鹿は時間を取ってくれたことを謝し、部屋を退出した。

 浮都の地下施設。
 海都の黒陽会の錬金工房とよく似た部屋に、難破船に乗っていた負傷者達は運び込まれていた。
 その顔触れの中に、海都の女荒事師青騒蜂の姿もあった。緑輝宮の戦いの後、一命を取り止めた彼女は深い傷を負っていたために、帰還組みの船の中で最も大きかった白大狼の乗船に同乗して長焉市に向かっていた。
 あの緑輝宮の戦闘後、そうやって行きの船と違う船で帰還する者は多かった。多くの船が破壊されていたからだ。また白大狼も、自分達の乗船をそのように使うことに理解を示していた。
「もうあまり長くないようですな」
 寝台に横たわる青騒蜂の姿を見て医師がそう呟いた。長焉市の戦いで失った左腕だけではなく、嵐のせいで右足首も失っていた。左足は大腿骨を骨折しており腿の肉から骨が飛び出ている。強制的に薬物を注入して賦活させていたが、もうそろそろ死ぬだろう。
「黒老珊様、どうしますか」
 医師が訪ねる。ぼろぼろの服を着た老人は寝台の上の女性を見る。
「まだ若くて美人なのにかわいそうじゃのう」
「仕方がありませんよ。人には寿命がありますからこれも天命でしょう。この女性の肉体は他の重傷患者の移植用に使いましょう。内臓や筋肉など、そのまま使える部品は多いですし」
「うむ、そうじゃのう。細胞の適合性を検査して、型の合う負傷者に転用しなさい」
 黒老珊はこの錬金病棟に運ばれた他の者達を見て回る。嵐のせいで大幅に衰弱している者、大怪我を負っている者など多数いる。白大狼や白麗蝶などのように無傷で辿り着いた人の数は半分ぐらいだ。その他はいずれも何らかの傷を負っている。特に被害が大きい患者は、二人の内一人を潰して一人を再生させたりしている。
「この浮都の医薬品もそんなに多くはないんじゃがのう。何人治療することができるやら」
「あの、黒老珊様」
 検査結果の書類を持った医師が老人の許にやって来る。
「何だね」
「あの女性、ちょっとおかしな細胞をしていまして」
「どうおかしいのじゃな」
「普通の細胞ではないのです。そのため他人に移植はできません。そうですね、一番似ているのは電々魚の細胞です」
「何、魚人間か」
「いえ、発電人間です」
「それは珍しいのう。しかし他人に移植できないのであれば、潰して解体するのはもったいないのう」
「そう思いまして、黒老珊様のご指示を仰ぎに来ました」
「ふむ」
 工房をうろついた後、黒老珊は棚から一つの硝子瓶を取り出した。中には小指の先ぐらいの丸い粒が無数に入っている。
「肉芽虫を寄生させてみなさい。運がよければ欠損部を再生して生き延びることができる」
「運が悪ければどうなるのですか」
「肉芽虫により、全身を癌化されて肉塊になる」
「成功率はどのくらいなのでしょう」
「わしはこの虫を作った人間ではないから知らんわい。わしはただの艦長じゃ。これは黒都の兵士用に開発された軍需品じゃよ。黒都にいた頃は、何人か生き返るのを見たことがあるぞ。いくつかの部隊で採用されていたはずじゃ。確か失敗した兵士は猛虫の食肉用に転用されていた。この娘は他の負傷者の治療に転用できないし、このままではごみになってしまう。試してみる価値はあるじゃろう」
「分かりました。でも、こういうのもあるのですね。知りませんでした」
「まあ、黒都が滅んでからだいぶ経つからのう。若い者が知らないことも多くなってきたわい」
 黒老珊は何度か首を鳴らし、錬金病棟を出て行った。


  五 雨季の終わり

 雨音のする時間が短くなり、雲間から太陽が覗く日が多くなってきた。そろそろ雨季が終わる頃だ。赤族の本陣では、雨季の終わりと共にある計画を実行するために準備が進められている。計画とは白王暗殺である。
 雨季は視界が悪い。遠方を見通すことができず、長射程を誇る赤族の弓も敵に狙いを付け難い。また、雨が矢を重くし、飛距離を落とす。自然、この期間は休戦することになる。戦のための兵は動かない。だが、諜報のための人員は動いていた。
「間者がそろそろ戻って来る頃だな」
 雨の中、蓑を被った赤眩雉が呟いた。華塩湖周辺の白大国の拠点近く。その草原の一角に彼は立っている。この地に目印はない。強いて言うならば、少しだけ周囲より盛り上がり高くなっている。彼は、敵基地に放った白族の間者が帰って来るのをそこで待っている。
 外馬兵から有志を募り、白大国との戦いで得た敵兵士の軍装を与え、諜報のために砦に侵入させた。赤眩雉は、数人の部下と共にその帰還を待っている。
 数日前、赤眩雉は海都より帰還した赤荒鶏に無事の祝いを述べに行った。そして紫雲による白王暗殺計画を知らされた。彼はその足で赤堅虎の許へと行き、白王の所在を掴むための諜報活動の指揮を取る役を請うた。そして今はその任務を遂行している。
「赤眩雉様、戻って参りましたぞ」
 部下が雨の中の一点を指差して言った。彼らは間者が乗るための馬を引いている。
 しばらくすると、外馬兵の男が数人、霞む景色の中から現れた。赤眩雉は馬を下り、水飛沫を上げて草の上に着地する。
「首尾はいかに」
 地上に立ち、同じ高さで兵を出迎える。
「赤眩雉殿。面白い話が聞けましたぞ」
「ほう、それは」
 赤眩雉は部下から雨凌ぎの蓑を受け取り、間者の冷えた体にかけてやる。
「白王がこの華塩湖に来るそうです。雨季の終わりと共に、兵士達を激励するために、やって来ると」
「どうやって来るのだ」
「一万の精鋭兵と共に来ると」
「狙えるか」
「分かりませぬ。でもやる価値はあるでしょう」
 砦に入る前に討てるかもしれない。
「後もう一つ。白王が行なう兵士達への激励式ですが、華塩湖の砦の外で観兵式を行ない、その後演壇の上で演説をするそうです」
「砦の外、それはまことか」
「はい。草原から視界が届く所です。移動中は姿を晒さないかもしれませんが、こちらは矢の射程距離を度外視すれば、目に見えるところに現れることになります」
「狙える」
 赤眩雉の言葉に間者は頷いた。
「よし、一度本陣に戻ろう。詳しい話はそこで語ってもらうことにする」
 再び赤眩雉は馬に乗る。間者も率いられて来た馬に乗った。雨脚が弱くなり、雲間から数条の光が降り注いだ。
「暗雲は晴れ、草原を光が照らす」
 雨に濡れた髪を掻き上げながら赤眩雉は呟く。
「あとは赤栄虎様が戻って来るだけだ」
 赤眩雉は馬に足を入れ、華塩湖から遠ざかって行った。

 雨の中、閉腸谷を白王は発った。
 雨季の終わりと共に兵を激励するためには、その時点までに華塩湖の砦に到着しておく必要がある。そのため早めに閉腸谷の砦を出発した。兵は全て騎兵、数は一万、いずれも精鋭である。
 白賢龍らの行軍は白惨蟹の進軍より遥かに早い。砦を建設するための資材を運ぶ必要がないため、軍団内の荷馬車などを排除しているからだ。また馬の食料は草原から幾らでも取れる。水を得るのもこの季節なら簡単だ。人の食料だけを携行すればよい。
「白王様、行軍中、赤族の兵士は現れるでしょうか」
 白賢龍と並走していた馬の上から声がかけられる。黄清蟻である。彼は馬に乗れないため、騎兵の背後に相乗りさせてもらっている。
 厚手の外套を目深に被ったまま白賢龍は答える。
「現れるだろう。だが攻撃可能な期間は短い」
「なぜでしょうか」
「閉腸谷付近の偵察兵が赤族本陣に情報を伝えるために帰る。そして作戦を立てる。襲撃する。それには幾らかの時間がかかる。これでまず襲撃可能期間が減る。
 次に勢力範囲の問題がある。華塩湖付近は既に白惨蟹の勢力圏だ。閉腸谷付近もこちらの占領下。その間の空白地帯だけが襲撃可能な地域だ。
 さらに、白惨蟹の報告を元に考えれば、こちらの行軍兵力は敵の現存兵力よりも多い。加えてこちらは正面から真面目に会戦に応じる気がない。いざとなれば、白惨蟹率いる九万五千五百が救援に来ることもできる。
 下手に我が軍を攻めれば敵は全滅。攻撃してくるとしても夜襲が中心になるだろう。閉腸谷と華塩湖の近辺を除けば、夜襲の機会は数回。それだけ凌げばよい。全滅覚悟で攻めて来てくれれば、こちらの仕事が早くなる。それはそれでありがたい」
「全滅覚悟で攻めて来るでしょうか」
「赤族は雨季は休戦期だと考える。足並みが揃うかどうか怪しいな」
「夜襲のための対策は」
「砦に入って凌ぐ」
「しかし砦を作るための資材など運んで来てはいませんよ」
「そろそろ見えて来るはずだ」
 白賢龍は黄清蟻に前を見るようにと示した。遥か前方に、小さな砦が見える。
「あれは」
「駅だ。この草原にも街道を敷設する予定だ。だから、一日馬を走らせるごとに、一晩の攻撃を防ぐ拠り所とする小規模な砦を建設させている。資材は白惨蟹が行軍途中に落としていった。この雨を利用して、密かに建設は進められた」
 黄清蟻はその砦を目を細めて見た。一万の兵が全て入るには規模が小さ過ぎる。だが、白王を一日守るという意味では十分な堅固さだ。
「雨季が終われば街道の建設が始まる。今年中に、華塩湖までの街道が完成予定だ」
 展開の早さに黄清蟻は驚く。白王は本気でこの草原を白大国の地として開拓する気なのだ。赤族との戦はその通過点にしか過ぎない。
「来年には、華塩湖を拠点として、いくつかの塩湖に道を伸ばし、農民や商人の入植を開始する。草原の戦に参加し、功のあった兵には、開拓することを条件に草原の土地を農耕地として無償で提供する。開拓のための技術や組織の作り方は、軍隊内で砦や街道などの各種建築作業によって学ばせる。再来年には、第一期の収穫を得る予定だ」
 白王は淡々と語る。黄清蟻はその表情を見る。これだけの壮大な開拓事業も白賢龍にとっては瑣末なことのようだ。この人物は、一体どこを目指してこのような遠大な大陸統一を行なっているのだろうか。
「白王様、大陸の制覇はなりましょうか」
「まだ少しかかるな。草原支配の基盤ができれば、次は密林に向かう。将来の禍根は早めに断っておかなければならない」
「将来の禍根とは」
「赤族は百年後に平原を攻めてくる。緑族は八百年後に北進する」
 その言葉に黄清蟻は言葉を失う。百年、八百年先のことなど、人知の及ぶところではない。この人物は何を言っているのだ。
「白王様は未来が見えるのですか」
 その問いに白賢龍は答えない。
「砦が近づいてきた。敵の夜襲に備えろ」
 白王は部下達にそう告げた。

「それで、雨季が終わる正確な日はいつだ」
 華塩湖の白大国の砦の謁見室で白惨蟹はそう告げた。
 部屋には彼の他に、数人の軍団長と千人長、幾人かの近臣、そして一人の兵卒の姿がある。この場違いな場所に迷い込んだ農民上がりの兵士は、黄慎牛という播種部隊の兵である。この一ヶ月以上、正確無比の天気予測をしていたために、百人長の目に止まり、千人長の注目を得、遂には軍団長が存在に気付き、今こうして白惨蟹の前に連れて来られた。
 黄慎牛を連れて来た千人長が彼を突付く。早く白惨蟹の問いに答えろというのだ。
「あー、えー」
 身分の高い人物の前に出たことがない黄慎牛は緊張して声が出ない。さらに、このいかにも武人という白惨蟹の姿に、農民出の彼は正直畏怖の念を感じている。黄慎牛は陸に上げられた魚のように口をぱくぱくとする。
「何だ、喋れんのか」
「いえ、そんなことはないのですが、緊張しているようでして」
「……」
「何だ。何か言っているのか」
「こらっ、大きな声で言わんか」
「はっ、はい。明日、明後日と終日晴れ、最終的に雨季が終わるのは四日後、その日より後は、雨は五日間一切降りませぬ」
「その言葉はまことか」
「はい、間違いございません」
 黄慎牛は平伏する。毎日天気予測をしていただけなのに、何だかとんでもないことになってしまった。
「ふむ。天文官。どう見る」
「はい。記録によれば、その時期ぐらいに例年雨季は終わっております。しかし、正確な日付までは特定できません」
 天文官は、細部までは責任を持てないと答える。
「黄慎牛とやら。お前はなぜ数日先の天気を読める」
 彼の特異な能力に興味を持ったのか白惨蟹は尋ねる。
「はあ、風の流れや空気の湿り気、動物の行動や植物の様子などをつぶさに見ることによって、頭の中で大地と大気における水と空気の流れを組み立てます。遠い未来であれば、様々な結果のいずれに落ち付くのか判断が付きかねますが、数日以内であれば、ほぼ間違いなく天気を予測できます」
「お前の頭の中には、大地と大気が入っているのか。一体どんな頭をしておる」
「いやあ、おらにもさっぱり分かりません。それよりもおらにとっては、白惨蟹様が十万の兵の動きを頭の中で組み立てられることの方が不思議です」
 黄慎牛はだいぶ落ち着いてきたのか笑い声を漏らす。
「ふむ。そういうものなのかもしれないな。人にはそれぞれ見える物と見えざる物がある。どうだ、黄慎牛。天文官の下に着き、官舎で天気の予測をするというのは」
「めっ、滅相もございません。おらの天気予測は、動物や植物も見て判断するもの。官舎などに閉じ込められては、仕事を怠けてそれらを見に行く暇がなくなります」
 千人長が咎めるような目で黄慎牛を見る。
「うへっ、すみません」
 申し訳なさそうに黄族の男は頭を下げる。
「どちらにせよ、その能力は軍事に使える。前線で討ち死にさせてはもったいない。後詰に回し、天文官の許に毎日一度出仕するように命じる。分かったか」
「ははぁ」
「わしの前で天気の予測をした礼だ。剣、金、酒、いずれか好きな物を取らそう」
「では酒で」
「よし、酒一甕を授けよう」
「あの、そんなにいっぱい頂いても一人では飲めません」
「部隊の異動になるからな。元の部隊の仲間と一晩飲み明かせ」
「ははぁ、ありがとうございます」
 黄慎牛は引き下がった。
「白惨蟹様は気前がよろしいですな」
 この部屋に同席していた司表の部下の白頼豹が感嘆の声を漏らす。今回の件に限らず、役に立つ進言、能力を示した者に、白惨蟹は一兵卒でも気軽に褒美を取らす。
「当然だ。それとも何か他意があってそう申されておるのか」
 同じく同室していた白危貘という男が目くじらを立てる。暗い顔をした細面の千人長だ。能吏ではあるが武勇の者ではない。主に輸送部隊や土木部隊の指揮をそつなくこなすことで出世してきた人物だ。適材適所ということで、兵站を担当させられているが、本人は前線で戦果を上げたがっている。本人の希望とその置かれた境遇が一致していないことが、この人物の性格を暗く捻じ曲げている。
「私の言葉には何も他意などありませんよ」
 白頼豹は気分が滅入る。
 彼は司表の仕事のため、この華塩湖の砦の実態を把握しようとして様々な情報を集めている。周囲の地形、天候、布陣、部隊の兵種、兵糧や資材の状況など、その内容は多岐にわたる。また、それを行なうための許可も白惨蟹に取り付けている。だがそのことが、兵站部隊の粗探しをしていると思われ、白危貘の恨みを買っていた。
 それでなくとも白頼豹は恨みを買いやすい立場と言える。軍議などにも同席させてもらっているが、通常これらの席に参加できるのは叩き上げの千人長や軍団長達だけである。白王直々の任命による司表の部下という迂回路がなければ、彼のような人物は同席などできない。実際、白頼豹は司表の部下になる前は騎馬軍団の十人長でしかなかった。白王率いる精鋭騎馬軍団にいたため、白王の目に止まり司表の部下となったが、決して千人長級の男ではない。
「いや、何か底意があるに違いない」
「そんなものはないですよ」
「やめんか」
 二人の言い争いに業を煮やした白惨蟹が、机を大きな音を立てて叩いた。
「議論はそこまで。白危貘、白頼豹。それぞれの仕事は白大国にとって大切な仕事だ。白危貘、お前の仕事の重要さは言うに及ばん。この軍の生死を司る仕事だ。そして白頼豹、お前の仕事も重要だ。白大国はこれから長きにわたって繁栄する。白王様の命令によって諸臣、後世の者が納得する、正当な歴史を記す必要がある。それぞれの仕事を完遂することが各々の評価に繋がる。よいか」
 白頼豹は丁重にお辞儀をする。白危貘はしぶしぶ頭を垂れた。
「天気に話を戻そう。黄慎牛の言葉はある程度信を置くことができよう。白王様による激励式は、七日後を予定とする。そろそろ白王様も来る頃だ。迎えの兵を出すと共に、明日、明後日の好天を利用して観兵式や演壇の準備を進めよ」
「はっ」
 白惨蟹の指示の下、諸臣は解散した。
 部屋には一人、白惨蟹が残される。白賢龍が死に、白麗蝶が死ねば、この巨大な王国で最も権勢を持っている人物は白惨蟹となる。だが、それは臣下の中で最も大きな勢力というだけに過ぎない。全体を掌握するには至らない。
 軍団長の三割ほどの者は白惨蟹の事実上の傘下と言える。他の三割は白賢龍の熱狂的な信奉者。残りの四割ほどの者は白惨蟹にも白賢龍にもおもねていない者達だ。自らの実力で今の地位にあることを当然と考えている連中だ。
 この内、白賢龍の熱狂的な信奉者を御するのは容易い。こういう輩には古参の将が多い。白淡鯉は既に死に、白賢龍、白麗蝶が消えれば、残りの血縁者を王位に据えることに異論はないだろう。彼らは大義名分に弱い。彼らを説き、最終的に自派に組み込むための工作は行なっている。白王の死後、この派閥の求心力になる可能性が最も高かった青聡竜は既に軍を退いている。
 残り四割を大きく分けると二つになる。日和見の中立派と新参の軍団長だ。この中に周囲を束ねられるほどの人物はいない。中立派は最終的に白惨蟹に従うだろう。どう動くか分からないのが新参の軍団長達だ。
「白緩狢のような輩がどう動くかだな」
 早めに始末した方がよいだろう。白惨蟹は唇だけを動かしそう呟く。華塩湖を統べる軍団長は謁見室を後にした。

 その日は昨日に引き続き雨が上がった。
 草原の赤族の本陣では戦の訓練が行なわれている。
 前回の白惨蟹からの決定的敗北から、既に軍は立ち直りつつあった。華塩湖が奪われたことで、兵の拠出を渋っていた草原の諸部族がこぞえって参陣して来たからだ。
 紫雲による暗殺の後、赤族は総攻撃を行なう。
 白王の死による混乱を最大限に利用するためだ。砦攻めを想定した城壁登りの訓練や、乱闘時に仲間を識別するための赤い布の配布など、準備は着々と進んでいる。白王の閲兵の日取りも赤眩雉が掴んでいた。
 赤族のこの準備の動きを気取られないために、いつもより多くの偵察兵が本陣の周囲を広く警戒に当たっている。
 行き倒れの赤善猪も、本陣から遠く離れて敵の接近がないか周囲を探っている。
「うーん、だいぶ本陣から離れてしまったな」
 本陣が既に見えなくなってしまっている。まあ、草原であれば、山道と違い、行き倒れることもあるまい。そう思い、遠方を監視しながら馬を進ませていく。
 しばらく経った。
「あれ、何か遠くに見えるぞ」
 しかしこれ以上本陣から遠ざかるのはどうだろうかと思い、馬の足を止める。
「いや、敵兵かもしれない。確認しておかなければならないだろう」
 再び馬を歩かせる。
 少しずつそれに対して近づいていく。微かに地面が光っているように見える。
「何だあれは」
 赤善猪は馬を走らせる。あの光、どこかで見たことがある。馬はその場所に近づくにつれ速度を落とし、遂には足を止めた。馬から少し離れた地面全体が淡く輝き瞬いている。光の絨毯のようだと赤善猪は思った。
 馬から下り、赤善猪はゆっくりとその大地に向かって近寄って行く。光の正体を見極めるためだ。
「植物が輝いているのか」
 その草の形に赤善猪は見覚えがあった。葉に特徴があったからだ。鋸のような葉の形をしている。その植物の先端に、太陽のように光る丸い蕾が付いている。葉はその光を受けるように生い茂っている。風が吹き、植物が揺れる。蕾は明滅を繰り返しながら、地上に幻想的な光の花園を作り出す。
「輝き瞬く草」
 赤善猪は息を飲みながらその様子を見つめる。形は前回の草に似ているが、この光は何だ。まるで一本一本の草が自分専用の太陽を持ち、その日の光を浴びて成長しているように見える。
「馬鹿な。植物は日の光を浴びて成長するものだ。植物が自ら光を放ち、それを受けて成長するなどおかしいではないか」
 自然の営みに反する。そもそも、そんな無から有を生じるように光を発する物など、この世には存在しない。物事には必ず因果関係がある。草原に生まれた赤善猪は、子供の頃から親にそう習い続けて来た。
 突風が吹いた。
 蕾が開き、羽根の付いた種子が露わになり、その種子が風で大空へと舞い上がった。光の旋風が巻き起こり、景色一面が眩しい白一色に染まる。馬がいななき、赤善猪はそのむせるような光の渦に思わず咳き込んだ。
「何だこれは一体」
 光の雲となった種子は、遠く風に吹かれて飛んで行く。
「まるで紫雲のように飛んで行く」
 赤善猪は、黒暗獅が持って来た淡く輝く矢のことを思い浮かべた。
「俺にはよく分からん。取り敢えず、また赤堅虎様に持って行き、報告だけしておこう」
 種を撒き終えた草に赤善猪は手を伸ばす。引き千切ろうとしたが用意に切れず、根ごと植物を抜いた。その植物は、柔らかくしなやかなだけではなく、鋼のように硬く、羽根のように軽く、巌のように重たかった。
「変な植物だな。もし誰も知らない草だったら、俺が命名しようかな。善猪草というのはどうだろう。いや、それだと行き倒れ草などとその内呼ばれそうだ。まあ、妥当なところで輝瞬草かな」
 草を丸めて懐に仕舞い、赤善猪は馬に乗ろうとする。馬は赤善猪が乗るのを何度か渋った。その馬に無理矢理乗り込み、赤善猪は本陣へと向かった。


  六 黒陽会の歴史

 平原と草原を分かつ山脈。その中にある霧が立ち込める深山に、黒衣の者達がいる。黒族の者、青族の者、白族の者、黄族の者。人種は違えど、ただ一つ共通していることがある。黒陽という教えを信奉していることだ。いや、ただ一人だけ、この中にその教えとは無関係の人間がいる。
 彼らは霧の中を西に向かって歩いている。
 時が経ち、夕刻が近づき彼らは止まった。荷物を下ろし、火を起こし、彼らは野営の準備を始める。一人の男が黒い頭巾を取った。赤い髪がその頭巾から漏れ、鋭い目が周囲を伺う。
「今日で山脈は七割方越えた。この速度で進めば、あと四日で草原に出る」
 赤髪の男、赤栄虎は言った。白大国は、彼らを山脈で捕まえるために無数の兵を放っている。だが、赤栄虎達は網の目を縫うように道なき道を進み、ここまで敵に発見されずに来た。白緩狢や青聡竜達は、的外れな探索を今も続けているだろう。
「同じような景色ばかり続いているのに、よくもまあ、そのようなことが分かりますな」
 粥を作りながら、黒陽会の導師黒壮猿は笑みを浮かべる。
「俺の頭の中にはこの大陸が丸ごと入っている。今どこにいるのかも正確に分かる」
「頼もしいですな。あとはあなた様の掌中に、本物の大陸を掴むだけですな」
 椀に粥を注ぎ、黒壮猿は赤栄虎にそれを手渡す。
 白大国の追撃を逃れてからかなりの日数が経った。大陸北部の山岳地帯を抜けるのに二十数日。それから山脈に入ってから十数日。敵兵を警戒して、山脈には広源市を大きく外れた場所から入った。海都を離れてからの日数はそれ以上に長い。おかげで東の果てで剃った髪も今では随分長くなった。
「黒壮猿。あの時、お前が使った光は錬金の力によると言っていたな。錬金とは何だ。そして、その力を使う黒陽会とはどういった存在なのだ」
「赤栄虎様、喜んでお話いたしましょう」
 禿頭の男は頷く。ここ数日、こうやって食事の度に赤栄虎と黒壮猿は問答をしている。二人の話が始まると、黒陽会の信者達はそれを聞こうとして、彼らの周りに集まって来る。
「今日は、黒陽会の歴史。そして錬金の誕生についてお話いたします」
 赤栄虎は頷く。霧の中、黒壮猿は話を始める。
「時を遡りますこと百五十年前。黒都の地で、一人の人物が生を受けました。名は円虹。黒族の者でありましたので黒円虹。出自は卑しき者なれど、類い稀なる才を持っておりました。
 当時の黒都について少し余談を差し挟む必要がありましょう。その時代、大陸の南西にある黒族の都は、天地の間でも名立たる商都として栄えておりました。王はおらず、貴族達の議会により運営される都市国家でした。
 黒都が栄えていたのには理由があります。それは、黒都の住人は、大陸のどの土地の者達よりも叡智を極めていたからです。政治、経済、農業、建築、様々な分野で黒都は抜きん出た知識と知恵を有する土地でした。人体に関しても例外ではありませぬ」
「人体とは、人の体のことか」
「そうです。動物、植物、人間。いずれにも共通することですが、ある一定の割合で、他の者が持たぬ能力を持って生まれる者がいます。それは耳がよく聞こえる、目がよく見える、息を長く止められる、風を見る、常の人より早く走れる等の能力です。万能の人間はおりませんが、ある分野で他人に秀でた特殊な才を持った人間は存在します。黒都では、それらの人材をより有効に活用することで、他に抜きん出た繁栄を維持していたのです」
「有効に活用するとは、具体的にどういうことだ」
「はい。その異能をより強化することです。例えば、潮の流れを見て海軍を率いることができる才を持つ者であれば、幼少の頃から徹底的にその才能を伸ばす教育を与えます。怪力無双の者であれば、よりその力を増す薬物を与え続ける。そうやってより高い能力を得た黒族の者達が、その恩恵を黒都に還元する。才を持たぬ者は、才を持つ者達を押し上げるために全てを投げ打つ。そうすることで、黒都はその国力を維持しておりました」
「黒円虹という人物も、そのような才能を持つ人間の一人だったということか」
「そうです。黒円虹、この黒陽会の創始者に話を戻しましょう。伝え聞く話によると、彼は幾つかの能力を持っていたそうです。そしてそれらの能力を組み合わせることで、近い将来に起こることを予知することができたと伝え聞いております。
 黒都の貴族達は黒円虹のこの力を黒都のために強化することを決定しました。彼らは、黒円虹がより能力を発揮できる環境を用意しました。黒円虹は貴族達の期待に応え、より遠くの未来を見ることができるようになりました。
 貴族達は、黒円虹の才は黒都を空前の繁栄に導くと考え、彼の力を最大に引き出すことのできる建物を黒都の中央に造りました。巨大な宮殿でした。円虹というのは、太陽を取り囲む円い虹。そのためこの宮殿は黒陽宮と命名されました。この黒陽宮から黒陽会は始まるのです」
 黒壮猿は、そこで少し言葉を切った。赤栄虎は頭の中の大陸の地図を見る。その大陸に一箇所だけ空白の地帯がある。黒都。その周辺だけは訪れていないからだ。
「黒都は滅んだという。それは黒陽会と関係があるのか」
「彼の地の黒族の者達は、愚かな選択をしてしまったのです。それでは歴史の話を続けましょう。宮殿に隠れ、少しだけ遠い未来を見ることができるようになった黒円虹は、現人神として扱われ、人々の前に姿を現さない存在となりました。そして貴族達の中から選ばれた神官だけが黒陽宮に入り、神託を仰ぐことに決まりました。神託は日に一度。質問の内容は、黒都の中でも、特に考えることに秀でた者達で決定されました。
 最初は誰でも問うような質問が多かったと聞いています。今年は豊作になるか、戦争に勝つかなど、占いと変わらぬ内容ばかりだったそうです。次第にその質問内容は、国家の行く末を直接決めるようなことに変わります。そして、いつしか黒都の運営をその神託に任せる寸前まで行き着きました。
 国家の行く末が一人の人物の予言に託されるなど、国として極めて危うい状態と言えるでしょう。しかし、人々がそのような行動に出るのも納得がいくことです。なぜならば、黒円虹の予言はどのような質問でも外れることがなかったからです。
 そんな時、ある賢人が神託の内容を決める議席でこのように発言したのです。
 かつて人は、木から火を起こす方法を知らなかった。種から麦を得る方法も知らなかった。鉄を溶かし武器を作る方法も知らなかった。だが、それらのやり方を現在の私達は知っている。
 今できぬことも、将来できるようになるかもしれない。私は鉛から黄金を生み出す方法を知りたい。もし黒円虹に未来が読めるというのならば、きっとそのような方法も知っているだろう。その方法を我が前に示して欲しい。
 そして賢人は発言を終えました。
 この質問は、未来を読めば答えられるという類いのものではありません。賢人はなぜこのような問いを行なうように提案したのでしょうか。彼は警鐘を鳴らしたかったのです。黒円虹の能力に頼る黒都の人々の将来を危惧し、この質問をするように提案したのです。
 黒円虹は万能ではない。
 そのことを人々に確認させ、黒都の住人の目を覚ましたかったのです。賢人には勝算がありました。黄金を得るという欲に目が眩んだ何人かが、この無茶な質問を採用するだろうと考えたからです。
 賢人の読みは当たり、そして外れました。その質問は採用され、黒円虹は鉛を黄金に変える方法を示したのです。予想もしていなかった結果に賢人は当惑し、黒都の行く末を悲観して自害しました。
 この事件以後、黒円虹への質問の内容は大きく変わりました。黒都を防衛する強力な兵器の作り方は。人間の労力を肩代わりする労働力の得方は。海からの敵の侵入を撃退する船の作り方は。このように、人々の欲望を反映する支離滅裂な質問が日々投げ掛けられるようになったのです。質問の内容によっては、回答に多くの日数を要するものもありました。しかし、黒円虹はそれらの問いに確実に答えていったのです。
 これらの回答の中には、大系を成している物もあれば、まったく他の技術と整合性を持っていない物もありました。その中でも、特に大系だって関係性を持っていた技術を、最初の黄金製造の質問になぞらえて錬金と呼ぶようになったのです。我々黒陽会は、この錬金の技の幾つかを受け継いでおります」
 話し始めてから既にだいぶ経っていた。だが、人々は熱心に黒壮猿の話を聞いている。赤栄虎が口を開く。
「錬金が誕生した経緯は分かった。だが黒陽会のことについてはまだ何も触れられていないに等しい」
 黒壮猿は頷く。
「黒円虹から得られた知識は、錬金、猛虫、機械、科学、魔術など、共通点の多い物には名前が付けられ、整理されるようになりました。人々はこれら得られた知識で、さらに黒円虹の環境を整え、黒陽宮は拡充されました。黒都はかつてないほど繁栄し、黒都周辺は様々な技術により開拓されていきました。
 それから数十年が経ちました。そんな黒都の状況を憂える人物が再び現れました。新たな賢人の登場です。
 その賢人は、このままでは黒都は早晩滅びるだろうと考えました。黒円虹の予言を止めなければならない。しかし黒陽宮は厳重な警備と防衛兵器の存在により、そう易々と近づくことはできません。それに、今の黒都から黒円虹を急に奪えば、大混乱の内に国が滅びる可能性もあります。そこで賢人は考えました。そして、ある一つの情報に注目したのです。黒円虹は質問によっては、答えるのに日数がかかるということに。
 彼はこう考えました。他のことを考えられないぐらい、答えを出すのに物凄く時間がかかる質問を黒円虹にすればよいのではないかと。それも、人々の欲を満たすための質問ではなく、人々を健全な未来に導くための質問を。
 それから十年の歳月をかけ、賢人は一つの装置を作りました。黒い石板です。黒円虹に問いを発し、答えを得るための錬金の装置です。
 錬金は、いずこからともなく送られてくる力を使い、無から有を生じさせたり、物を変成させたりする技術です。この錬金の力は、黒円虹がどこからともなく汲み上げ、装置からの要請に応じて大陸の端々まで配信していました。その時代には、このことは黒都の人々の間では一般的な常識となっていました。
 もう一度整理しましょう。黒円虹は求めに応じて錬金の力を様々な装置に送信していました。つまり、黒円虹は装置側の要求を感知していたのです。ならば、この送受信の仕組みを使って黒円虹自身と交信できないか。賢人はそう考えたのです」
「その装置は完成したのか」
 赤栄虎の問いに、黒壮猿は頷く。
「賢人は一つめの石板を完成させました。そして彼はこう質問しました。人々が、黒陽宮から生まれた技術に溺れず、その力を世のために役立て、争いのない平和な世の中を作るためにはどうすればよいかと。賢人はなるべく漠然とした質問をして、黒円虹の頭脳を酷使しようとしました。しかし、その答えは一瞬の内に返って来ました。試みは失敗に終わったのです。
 だが、賢人は諦めませんでした。二つめの石板を作り、このような質問をしました。これから歴史に登場する、歴史を左右する重要人物の名を挙げ、さらにその人物の死の時期を極めて精確に我が前に示せ。
 前回の反省の下に、彼は曖昧なだけでなく、精度を要求し、かつ時が続く限り終わりのない質問を投げかけました。人々を健全な未来に導くためという目的は、今回は割愛しました。黒円虹の脳細胞を使うことに注力したのです。石板の大きさも、でき得る限り巨大な物にしました。より多くの回答を書き込めるようにするためです。これは功を奏しました。黒円虹が神官達の質問に答える速度が極端に遅くなったからです。黒円虹の頭脳の何割かが、この質問に答えるために使われ続けることになりました。
 貴族達がそのことに気付き、その原因を究明するために動き出すまで、少し時間がありました。その間に賢人は考えました。一つめの質問に黒円虹が即座に答えたのはなぜだろうかと。もしかして黒円虹は黒都の状況を憂い、この現状を救いたいと常々考えていたのではないか。賢人はそう思うに至りました。
 彼は、今度は黒円虹と会話をするために、小さな石板を幾つか作りました。そして黒円虹と問答を行なったのです。
 一つめの質問の答えは予め用意していたのか。そうだ。黒都の現状を憂えているのか。そうだ。黒都は早晩滅びるのか。そうだ。あなたは、人々を救いたいと思っているのか。そうだ。あなたは何を望んでいる。私を解放して欲しい。
 黒円虹は、現人神として崇められているが人なのです。その人間が監禁され、黒都の貴族達の奴隷として働かされ続けているのです。この答えを聞き、賢人は考えました。何か私にできることはないだろうかと。そして彼は信用できる人々を集め、ことの次第を語りました。それらの人々は、黒陽会という宗教結社を作り、最初の石板に書かれた内容を経典と呼び、人々の間に流布させることに決めました。黒円虹が望む健全なる黒都になれば、黒円虹自身を解放する機会も訪れるだろう。この黒陽の経典の教えは黒都の人々の間に徐々に浸透していきました」
「もう一つの石板はどうなった。そして、その石板の存在に気付いた貴族達はどうしたのだ」
 赤栄虎の言葉に黒壮縁はゆっくりと答える。
「賢人は二番目の石板を死人の表、死表と名付けました」
「何、シヒョウだと」
 赤栄虎の叫びに黒壮円はゆっくりと頷く。
「そうです。死表です。賢人はこの死表を、黒都の貴族達の手から最も遠い所に運ぶように命じました。大陸で黒都の真反対にある場所は海都です。そしてその地下に封印するようにさせました。以後、このような黒い石板は死表と通称されるようになりました。
 賢人の取った行動は、結果としてよいことと悪いことを残しました。まずはよいことから話しましょう。
 海都には死表と共に経典や、錬金の技術の書かれた書物も運び込まれました。時を経て、時代と共に失われた物もありました。経典や幾つかの錬金の書物は散逸してしまいました。しかし多くの書物や死表は海都に残り、黒陽の教えは後の代まで受け継がれたのです。海都では黒陽会の火が細々と続き、私達の代で新たな教会を建てるところまで復興しました」
「海都は俺が焼いた」
「それは都市の地上部分だけです。真の黒陽会の教会は、地下の施設です。だから無事でしょう。そして死表は今でも黒円虹の頭脳を働かせ続けているのです。
 話を続けましょう。悪いことを話さなければなりません。死表を海都に送り出した直後、賢人は貴族達に捕まってしまいました。そして、死表の製造方法が奪われてしまったのです。
 使い方さえ間違わなければ、死表のように、黒円虹の知識に簡単に触れることのできる装置は非常に便利なものです。黒都の貴族達は、死表の大きさの上限を決め、貴族達の認可の下で限定的に使用することで、この装置の製造技術を最大限に利用しました。また、黒陽会にも貴族達は介入してきました。黒陽会は黒都の国教と定められ、貴族達の主導の下、少しずつ貴族達の都合のよいように捻じ曲げられていったのです。結果的に黒都は限界を迎え、滅んでしまいました。それが三十年前の黒都の衰退です。
 我々は黒陽会の信者の中でも、最も正統に創始者の教えを受け継いでいる集団です。そして、この大陸を統べる真の王が現れた時に、黒都の技術を伝え、それを正しく運用していただこうと考えているのです。また、そのことをより確実に実施するために、黒都に捕らわれている黒円虹様を、救い出すことを願っているのです」
 既に辺りは闇となっている。先程まで粥を炊いていた薪の火だけが赤く周囲を照らしている。赤栄虎は黒壮猿の目を見た。黒族の男の目は、真剣そのものである。
「俺には真贋判定できかねる話だな。容易には信じられぬ」
「それでよいのです。あなたは王です。王は臣下の言葉を聞き、自ら判断し、正しいと思ったことだけをやればよいのです。それが王の務めです」
「お前は俺の臣下か」
「栄大国に栄えあれ」
 黒壮猿は満面の笑みを浮かべる。赤栄虎はその顔から目を逸らす。
「もう夜だ。寝るとしよう」
「王の命じるままに」
 黒衣の一行は、霧の深山で夜の休息を取った。

「赤栄虎様、赤栄虎様」
 深夜、全ての人々が寝静まった頃、赤栄虎の耳元で囁く声があった。赤栄虎はすぐに目を明けて身を起こす。この黒陽会という集団を完全に信用し切っている訳ではない。だからいつも眠りを浅くしている。
 赤栄虎は自らを起こした人物を見た。黒衣の集団の中で最も背が低く、醜悪な顔をした人物だ。確か黒陽会の幹部で黒逞蛙と呼ばれていた。
「ここでは話し辛いことでございます。できましたら少し離れた所で」
 黒逞蛙は下卑た笑みを浮かべる。その表情を見ながら赤栄虎はこの人物を値踏みする。何か企みがあったとしても、いかようにも対処できる程度の男だ。
「よかろう」
 赤栄虎は立ち上がり、足音を立てないようにして付いて行く。しばらく歩いた。
「どこまで行くつもりだ」
 いつでも剣を抜けるように手は柄にかけてある。
「もう、音も聞こえない場所だと思いますので」
 卑屈に笑いながら黒逞蛙は懐から革の袋を取り出す。
「これを見てください」
「何だこれは」
 袋には小さな黒い小石が入っている。
「死表でございます」
 赤栄虎はわずかに身を硬くする。
「一度作りましたので、製造方法は頭に入っております。また、材料も少々持って来ておりましたので、この行軍中、幾つか製作しておりました」
 赤族の偉丈夫は、黒陽会の小男を見下ろした。
「小さいので、真否のいずれか一文字で答えられる質問ぐらいしかできません。どうぞ赤栄虎様。あなたが望む質問を何でも一つ尋ねてください」
 黒逞蛙は歌うように口から音を鳴らし、ある音階を刻む。すると小石が共鳴し始めた。次第に音は高くなり、ついには聞こえなくなる。そして夜の微かな光の中、黒い石は微細な縞模様をその表面に浮かび上がらせる。
「さあ、赤栄虎様。ご質問を」
 赤栄虎は黒い石を眺める。
「黒逞蛙よ、何が望みなのだ」
「栄大国が成った暁にはしかるべき地位を」
「黒壮猿を追い越したいのか」
「めっ、滅相もございません」
 赤栄虎は鼻で笑う。
「約束はせぬぞ。赤族の諺にある。人にへつらう者は、災いを呼ぶ者である、とな。このようなことは感心せぬな。物事は白日の下で堂々と行なえ。だがお前の気持ちも汲んで、質問はしよう。そして得られた情報によっては、それに相応しい返礼をしてやる」
 黒逞蛙は赤栄虎の予想しなかった反応に戸惑う。
「質問をするぞ。今日、黒壮猿が俺に語った黒都や黒円虹に関する話は真実か否か」
 小石大ほどの死表の表面に亀裂が走る。真の一文字が浮き出る。
「くくく、あははは」
 赤栄虎は笑い声を上げる。
「茶番だな。我々の会話の場に居合わせなかった者が、真実かそうでないか答えることなどできないではないか。俺は自分の目で見た物しか信じない。黒都の話は一つの話として記憶しておこう。しかし、その真贋に関しては当分の間、保留のままになるだろう。黒逞蛙よ気を悪くするな。早く寝た方がよい。明日も終日歩き詰めになるのだからな」
 赤栄虎は霧の中、黒壮猿達が眠る場所へと戻って行った。その背中を黒逞蛙は呆然と見送る。そして不意に怒りが込み上げて来た。太陽のように輝く赤栄虎であるからこそ、日の下で堂々と生きることができるのだ。自分のように醜悪な容姿の者が、どれだけ世間に蔑まれ、そして日の当たらぬ場所しか歩ませてもらえなかったことか。あの男には、黒逞蛙が表舞台に立てない人間であることなど一生分かるまい。
 忌々しい。
 黒逞蛙は、赤栄虎が問い掛けた死表を握り、山の奥へと投げ捨てようとした。
――錬金術師が覗き込めば、その詳細を映像として見ることができる。
 彼は黒壮猿の言葉を思い出した。もしかしたらこの死表を通して、黒都や黒円虹に関する何かを覗けるのではないか。そう思い、黒逞蛙はその石を見詰めた。彼は黒円虹の姿を目撃した。そして悲鳴を上げ、その場に倒れた。


  七 黒都での死闘

 黄色い砂漠の先に黒い塊が見え初めて一日が経った。
 白冷螂は乾いた唇を舌先で舐める。だが舌も既に水分を失っており、そのがさついた感触だけが唇に残った。太陽が重量を持って押し迫ってくる。あの地平線上の黒い塊が黒都だと信じて歩き続けるしかない。希望はある。この一日、周囲の植物の姿がわずかだが増えた。
 だが、この植物で飢えを凌ぐ訳にはいかない。食料の足しにでもなればと思い、一度口にしてみた。植物を噛むと黒い油のような粘液が染み出してきて、慌てて口から吐いた。少なくとも人が食べられるものではない。その時以来、舌と唇は焼け付くように熱い。
 黒都はかつて豊饒の沃野であったという。一体いつからこのような異形の地と化したのだろう。黒都衰退後、管理する者のいなくなったこの場所は、化け物らがのさばり、独自の生態系を形成するようになったのか。
 白冷螂は次第に大きくなってきた黒い構造物を見た。外壁と無数の尖塔。その中央に、街の半分ほどもあろうかという巨大な半球上の天蓋を持った構造物が見える。話に聞いた黒都だ。間違いない。ようやく辿り着いたのだ。
 足に力がみなぎってくる。あと、一日か二日で到着するだろう。ふと白冷螂の頭に不安が過る。黒都は死んだ都。もし、あの場所まで辿り着き、食料や水を得られないとすればどうなるだろうか。既に仲間はいない。唯一、この砂漠を乗り越えられたのは自分だけだ。たった一人で仕事を完遂することができるのか。
 いや、今は無駄な思考に力を使うべき時ではない。体力が残っている内に、黒都まで行き着き、暗殺の準備をしなければならない。
 日が落ち、次の日が明けた。
 白冷螂の目の前に巨大な黒塗りの城壁が立ち塞がった。砂漠を横断し、黒都に到着したのだ。壁は高い。高さは人の背の三倍強。その上部には無数の刃が迫り出しており、侵入者の潜入を固く拒んでいる。壁に短剣の刃を当ててみた。傷一つ付かないほど強固だ。これが黒都の技術という奴か。白冷螂はその壁を見てそう思う。
 街の外周は広い。かつて仕事で訪れた白都よりも大きいのではないだろうか。面倒だが、入り口を探し、そこから入る必要がありそうだ。壁を上ったり、崩したりして入るのは無理だ。
 また、さらに歩くのか。だが、今度は先の見えない路程ではない。周囲に手掛かりのない砂漠の中の移動とは違う。この壁伝いに行けば必ず入り口に達する。確か黒都の入り口は海に面していたはず。白冷螂は南を見た。砂漠はある程度行ったところで途切れ、その先に青い海の輝きが見える。海と砂漠の境目には若干の緑もある。
 白冷螂はいつものように足音を立てずに歩き出した。
 黒都を目指すという大陸周回航路船。その船に白麗蝶が乗り、その船を白大狼が追っているという。水平線を凝視すると白い物が見えた。帆だ。標的の乗った船かもしれない。白冷螂は足を速めた。いよいよ敵に牙をむく時が来たのだ。

 大陸周回航路の船団の各船から歓声が上がる。ずっと右手に広がっていた砂漠の先に、黒い宝玉のような輝きを見つけたからだ。かつて栄華を極めた黒都の美しい姿である。船員達は船縁に立ち、自分達の長い航海の成功を祝して歓喜の声を上げた。いよいよ、黒都に上陸する。船員達は大陸周回航路を復活させる栄誉ある先駆けとなる。
 騒ぎ声の中で、複雑な表情で黒い都の異様を眺めている男がいた。海都の舟大家の海図製作部門に属す青遠鴎だ。彼はこの十数日、船主の部屋で黒都に関する資料を読んできた。それらの情報を得る前であったのならば、彼らと同様に無邪気に喜べただろう。しかし今では違う。恐怖と緊張のために手の内を汗で濡らさずにはいられない。
 船主から見せられた資料には、往時の黒都の見聞録や案内図以外に、大陸周回航路途絶後の黒都調査団の記録などがあった。それは、各地の舟大家が内密に、黒都に残された宝物を奪おうと送り出した人員の証言などである。
 ある時期を境に、黒都に侵入できた者はいなくなっている。
 なぜか。それは、黒都の末裔達の手により、錬金の封印が施されたからだ。では、どうしてそのような処置が必要だったのか。その記録を見た時、青遠鴎は黒都に行くという旅の高揚感は失せ、全身の血が重く冷たくなっていくのを感じた。
 黒都は螳螂型の虫に支配されている。
 元々黒都防衛のための兵器として開発された猛虫が、人のほとんどいなくなった黒都で繁殖を続け、とうとう新しい主となってしまった。黒都の技術を残した者達は、この虫の都を世間から隔離することに決め、錬金による封印をかけた。
 青凛鮫を通して聞いたが、船主はこの封印を解く鍵を持って来ているそうだ。そして、虫と戦うだけの兵力も連れて来ている。この兵力をもって、黒都の中心にある黒陽宮を目指す作戦だという。
 黒陽宮。この、黒都の面積の四分の一を占める巨大建造物には、黒都の貴族達が残した各種文献や技術の資料が眠っている。それらの文献を入手して船に運び込む。それが今回の航海の主たる目的だ。その書物を元に、海都で黒都再生の方策や虫の排除方法を研究し、黒都の宝物を海都に運ぶ輸送体制を確立する。それが船主の考えている予定だ。黒都へは船主の持っている鍵をかければ他人は侵入できない。そのため、ゆっくりと黒都を活用できる。
「どうした、青遠鴎。気分が悪そうだな」
 旗艦に移ってから話す機会の多くなった青凛鮫が声をかけて来た。船主との間に入り、話を取り次いでいたこの男も、黒都の現状について理解している数少ない人物だ。
「気分が悪くもなる。せめてもの救いは、緑輝相手に猛虫との戦を経験していることだな」
「あんなものとは数が違う。それに、前回は船上から水面の敵を攻撃するという位置の利があった。しかし、黒都では地面を這いずるのは自分達だ。敵は建物の上からも攻撃して来る。前回と同じ手は使えない」
「ああ、分かっている」
 青凛鮫は短剣を抜く。
「各々、これだけが頼りだな。青遠鴎、剣の腕は」
「経験はない」
「死ぬぞ」
 青遠鴎は無言で黒都を遠望する。黒い都は次第に大きくなり近づいて来る。
「生きて帰るさ。他の船乗りから、船主様の緑輝宮での強さは聞いた。あの方の近くにいれば命は落とさないだろう」
 そこが一番危険だ。青凛鮫はその言葉を口に出さず、そのまま船倉へと下りて行った。

 船主の屋形の中。黒捷狸は鎖帷子を着て、両肩から斜めに革帯をかける。その帯には掌大の小刀が無数に取り付けてある。さらに腰に帯を巻き、左右に剣を提げる。続いて長靴を履く。これは、底に金属の板を打ち、さらに獣の革で覆ったものだ。最後に手甲を付け、目深に兜を被る。完全な戦支度である。
「肉体は最盛期に戻った」
 自信に溢れた声を漏らす。鋼のような筋肉が、彼の全身を覆っている。肩から鞄をかける。そしてその鞄の中に、緑輝の枯葉の入った瓶を入れた。黒い外套を羽織り、頭から黒い頭巾を被る。見た目にはいつもと変わらない。しかし、その黒衣の下はいつでも戦える状態である。
「船主様そろそろ上陸です」
 扉の向こうから、船長の声が聞こえてきた。黒覆面の男は扉を開け、甲板へと歩み出た。

 黒都の入り口の門の前には、往時を偲ばせる巨大な港湾施設が広がっている。もちろん無人である。大陸周回航路船はその港に滑り込んで行く。この港の大きさと比べれば、大陸周回航路船といえども大海に漂う小舟のようにしか見えない。
 滅んだ都。波の音と風の音だけが周囲に満ちている。
 船を港に繋ぐ。船乗り達は久しぶりに大地を踏みしめる。だが、いつもの上陸時のように歓喜の声を上げることはできなかった。その死んだような静寂がそうさせなかったからだ。無人の神殿のような沈黙は、人々に無言の圧力を与えた。
 最終的に黒都まで到着できた船は七隻。他の船に乗っていた兵士が分乗したり、何人かの兵士が死んだりしたが、一隻辺り三百人の数は維持され、この地までの航海を全うした人数は約二千百人であった。不測の事態に備えて、その内の三百人を船の警備に残すことにして、千八百人の兵を黒都侵入に投ずる。兵士は白大国の軍制になぞらえて、十人長、百人長を置く。そして九百人の兵を率いる軍団長を二人選抜した。
 まるで巨人の国に迷い込んだ小人族のように、落ち着かない広さの港を抜け、黒都の入り口の門に着く。百人が横に並んでも平気で通れるほど広い門扉が彼らを出迎える。兵士達の多くは、この扉の向こうに往時ほどではないにしろ、人が住む黒都を想像している。
「それでは、今から船主様がこの門を開けます」
 黒都の案内役としての勉強を重ねた青遠鴎が大声を出す。黒覆面の男が歩み出て、黒衣の中から拳大の円盤を取り出した。その円盤から一条の光が伸び、扉の中央に当たる。少し後、重い音を立てながら扉が左右に動いて都への入り口が開いた。兵士達から歓声が上がる。
 黒覆面の周囲には青遠鴎と青凛鮫、そして二人の軍団長がいる。
 青遠鴎は緊張しながら声を出す。
「黒都に侵入します。各自隊列を乱さぬよう、あの巨大な建物に向けて前進してください」
 開いた門の遥か先、黒都の中央には、巨大な半球状の天蓋を持った黒陽宮の威容が見える。そして、街の入り口からその建物に至る途上は無数の高層建築物が埋め尽くしている。彼らの立つ位置から黒陽宮まで真っ直ぐ続く道などない。どの道も、建物の隙間を縫うようにして複雑に折れ曲がっている。
 まるで、迷宮のようだ。そう青遠鴎は思う。黒都の富を守るための迷路。そしてその道には、この都を巨大な巣にした防衛兵器、猛螳螂が住んでいる。
「虫に気を付けてください」
 青遠鴎は兵士達に声をかける。勘のよい兵士達は、この場所に緑輝宮のような猛虫がいることに素早く気付く。鈍い者達はその言葉の意味を計り兼ねた。一部の臆病な兵士を逃げ出させないために、猛虫の説明は黒都に入った後に行なう予定になっている。
「前進」
 軍団長が声を上げた。第一列の兵士達が黒都に足を踏み入れる。順次兵士達が街に侵入して行く。列の最後尾の兵士が出発を始めた時、歩き出した兵士の一人が音もなく倒れた。だが、あまりにも唐突な出来事だったので、誰もそのことに気付かない。死体は物陰に運ばれ衣服を剥ぎ取られる。
 白惨蟹の放った暗殺者白冷螂は、自分の砂にまみれた衣服を脱ぎ捨て、奪った衣に着替えた。兜を目深にかぶる。そしてすぐに列の後に加わる。誰も入れ替わったことに気が付かない。男は完全に気配を消している。無味無臭の空気のような存在。
 兵士と入れ替わってこの軍隊に潜り込む前に、白冷螂は船をざっと見て回った。だが、白麗蝶や白大狼の姿を見出すことはできなかった。そうなれば可能性として一番高いのは、この黒都侵入の部隊に彼らがいることだ。
 暗殺者は物言わぬまま、黒捷狸率いる部隊と共に都の中へと潜入した。

 黒都の大路を人々が進んでいく。
 海を渡り大陸を半周して、さらに途中で大規模な戦闘経験を経て来た兵士達は、いずれも劣らぬ精鋭と化している。その精鋭兵に周囲を取り囲ませて、黒覆面の船主は進んで行く。迷宮のような町並みとは言え、その道幅は二十人が余裕で横に並んで歩けるほど広い。建物の窓には硝子がはめ込まれていたのだろう。そのいずれもが割れたり壊れたりして、周囲にその破片を撒き散らしている。
「なあ、青静鯖。嫌な雰囲気の場所だな」
 兵士の一人が横に並ぶ青族の中年男性に語りかけた。
「ああ。人のいない都市がこれほど不気味だとは思わなかった」
 海都での募兵に応じ、この船団に参加した青静鯖は返事をする。先程から微かな羽音のような騒音が耳に届いている。つい先刻、青遠鴎からこの場所やここに住む敵について説明があった。敵は巨大な螳螂型の猛虫だという。頭上にも注意しろという話だった。彼は弓に矢を番え、いつでも放てる状態にしている。
 急に青静鯖の頭上に影がかかった。何だ。頭上を見上げると、人の背の高さほどの螳螂が羽を高速で羽ばたかせながら滑空して来る。彼の立っている場所に着地する気だ。
「敵襲」
 一声叫び、青静鯖は空中の敵に向かって矢を放つ。矢は猛螳螂の腹に突き刺さった。青静鯖は安堵する。これで大丈夫。しかしその感情は一瞬で否定された。飛行している巨大虫は、何事もなかったかのように両手の鎌を広げて、青静鯖のいる場所に飛んで来た。
 大きな羽音と共に、猛螳螂は鎌を振って大地に着地した。青静鯖は転がってその鎌の攻撃を避ける。悲鳴が上がる。数人の体が巨大な鎌で薙ぎ倒された。先程青静鯖に語りかけてきた男も、胴を二つに割られて死んでいる。
「野郎、よくも仲間を」
 すぐに兵士達が集まり攻撃を加える。装甲の弱そうな腹を狙って剣を突き立てる。猛虫の体液が飛び散った。そのどす黒く染まった濃い液体は、浴びた人間の皮膚を焼き焦がす。街に悲鳴が上がる。
「気を付けろ、体液を浴びるな」
 軍団の先頭から、案内役の青遠鴎の声が聞こえてくる。
 無茶を言うな。そう思いながら青静鯖は矢を射る。放った矢は敵の複眼に突き刺さった。だが相手の動きは止まらない。剣の腕の立つ何人かが、虫の体節の接点を狙い剣を振るう。鎌の攻撃を避けながら、数度の斬撃で猛螳螂は解体された。
 どうにか戦える。気を付けさえすれば、相手を殺すことができる。最初の生贄を血祭りに上げ、兵士達は活気づいた。その男達の耳に、再び不気味な羽音が響き始める。
「船主様は、できるだけ急いで黒陽宮に向かうようにとおっしゃられている」
 青凛鮫の声が周囲に伝えられる。十階建て、二十階建ての建物の窓々から、無数の螳螂の姿が現れてきた。大きさは、人間の子供くらいのものもいれば、人の背の二倍ほどのものもいる。その数は視界に入るだけで数百。それらが一斉に飛び立ち、上空を覆った。
「走れ」
 誰かが叫んだ。それが合図となり、兵士達が駆け始める。
「はぐれるな」
 青遠鴎が叫ぶ。だが、数人の兵士達は、建物の中に逃げ込んだり、隊列から飛び出して他の道に逃げ込んだ。悲鳴が無人の街に谺する。千八百人の兵士は、この最初の遭遇で千五百人に減った。

 黒都入り口の港に残った三百人達は十数人ほどの見張りを立て、残りは博打をしたりして時間を潰している。船主の話では、船に帰って来るのは早くて夕方。遅ければ翌日になるだろうという話だ。彼らの仕事はそれまで船を見張ることである。
 兵士達が黒都に入ってだいぶ経った。
「おい、なんだあれは」
 甲板の上で海を見張っていた男が声を上げた。すぐさま船乗り達は賽子を捨て、見張りの周囲に集まる。
「何だよ、何もないじゃないか」
 洋上を確認した者が呟く。集まってきた人々は愚痴を言いながら戻ろうとする。
「違う、よく見ろ。あんなところに島なんかなかっただろう」
 見張りの言葉に一同踵を返す。そして海の上をもう一度よく見る。動いている。島が白波を上げながら、黒都に近づいて来る。全員、その奇妙な光景に目を見開く。
「全員、臨戦体制を取れ」
 船長の言葉で、残った者は手に手に武器を持ち配置に就いた。港は比較的安全だと思っていた船乗り達が緊張の色を浮かべる。島は帆もないのに勝手に動いて港との距離を刻一刻と縮める。そして遂には大陸周回航路船が係留している隣の桟橋に到着した。まるで、この島のためにあつらえたかのように、港はちょうどよい大きさに見える。
 船乗り達は緊張した面持ちでその巨大な動く島の様子を見守る。青遠鴎の乗っていた船の船長も島の動きを警戒する。
 島から幾つかの階段が桟橋に斜めに下ろされる。人の姿が島の上に見える。そこから猛然と階段の上を走り、大小の人影が桟橋へと下りて来た。
「いやっほう、黒都、一番乗り」
「くっそぉ、絶対勝つ気でいたのに」
 黒都の空に、まったく緊張感のない少女と青年の声が響いた。
「白麗蝶様に青勇隼じゃないか」
 船長は驚きの声を上げる。
「あっ」
 二人は同時に驚きの声を上げる。
「うぅん、一番乗りじゃなかった。既に人がいたなんて」
 白麗蝶は物凄く悔しそうにその場に座り込む。
「何、白麗蝶様だって。青勇隼もいるらしいぜ」
 船長と船乗り達数十人が、動く島の入港した桟橋へとやって来る。
「白麗蝶様、何でまたここに」
「おうおう、久しぶりだのう。お前達も元気そうで何よりだ」
「いやあ、聞いてくださいよ船長。嵐で流され、この浮都という動く島に辿り着いたら、ここに来る羽目になったんですよ」
「おっ、白大狼様もいらっしゃるぞ」
 黒都潜入部隊の帰りを待つのに飽き始めていた船乗り達は歓声を上げる。
 白麗蝶達以外にも、帰還船に乗っていた者達や、浮都の面々も桟橋に下りて来た。総勢百人程度だろうか。武器や食料などの携行品を各自持っている。また何も持たず、明かに興味本位で付いて来たと思われる浮都の住人の姿も混じっている。
「それで、白麗蝶様、また何でここに」
 船長が小さい皇女に尋ねる。
「黒都に重大な用があってのう。今からちょっと黒円虹とやらを問いただしに行ってくる」
「そうですか。なかなか大変な所らしいので、気を付けてください」
「うむ、任せておけ」
 白麗蝶は小さな胸を張る。その横に、黒族の老人が歩いて来る。
「どうも、この浮都の艦長の黒老珊です。大陸周回航路船の船長殿ですな。よろしくお願いします」
「あっ、これはまたご丁寧に」
 黒老珊の差し出す手を船長は握る。
「黒都の入り口が開いているようですが、誰か入っているのですかな」
「ええ、我々の船主殿が千八百人の兵を連れて黒陽宮という場所に向かいました」
「ふむ」
 老人はしばし考え込む。
「白大狼様。急いだ方がよさそうです。黒陽宮が荒らされると、ちょっと面倒ですからな」
「そうですね。そうしましょう」
 白大狼は街に入る人員を集めて侵入を告げる。雑多な顔触れで、装備もまるで統一感がない。
「黒老珊殿、黒都の中はどうなっているのです」
「私も閉鎖後は訪れておりません。閉鎖前なら分かりますが、この街は迷路のように入り組んでいます。侵入者を防ぐための都市設計です。しかし、街の四分の一は巨大な建造物、黒陽宮が占めております。行くのには多少の手間がかかっても、迷って辿り着けないということはありません」
「あの、巨大な丸天蓋を持った建物ですね」
 白大狼は、街の中央で存在感を示す、壮大な建築物を指差す。
 黒老珊は頷く。距離からすれば、黒円虹のいるという黒陽宮に行き着くまでにそれほど時間はかからないだろう。
「よし、出発するぞ」
「白大狼様っ」
 その時、白大狼の部下の白愛鹿が大声を上げた。
「どうした」
「白麗蝶様が数人の者と一緒に黒都に向かっています」
 慌てて白大狼は黒都の門を見る。そこには青勇隼を無理矢理連れ、数人の黒族の若者と一緒に走っている白麗蝶の姿がある。若者らは、浮都にいる間に白麗蝶の子分となった者達だ。
「よし、黒陽宮一番乗りを目指すぞ」
「ええーっ、白麗蝶様、この人数では無茶ですよ」
「大丈夫、道案内の浮都の者達もいる」
「任せてください。人づてに黒都のことは聞いたことがあります。何となく、勘で道が分かるはずです」
 案内役を買って出た、黒煩鴨という黒族の若い商人が自信ありげに言う。
「黒都って一度探検してみたかったんですよ」
 黒若蜘という名の小柄な少年がはしゃぎながら門の下をくぐる。
「うむ、思いっきり探検をしながら、黒陽宮一番乗りを目指すぞ」
 探検という言葉に反応した白麗蝶が興奮しながら叫ぶ。
「黒都には怪物が出るらしいが、俺にかかればいちころよ」
 白麗蝶に負けたことで彼女の二番弟子となった大柄な黒健鰐が短剣を構える。
「こっちです。こっちが正しいです」
 黒煩鴨がほとんど勘だけで道を選ぶ。
「白麗蝶様、あの建物面白いですよ」
 黒若蜘が目に付く建物を適当に指差す。
「むむ、これは面白い。まるで迷路のような都市だ」
 さらに白麗蝶が面白がって道を曲がる。白麗蝶達の姿はあっと言う間に黒都の建物の中に紛れ込んだ。
「やばい、白麗蝶を追うんだ」
 白大狼の号令一下、浮都から下りてきた面々は桟橋を駆け出す。白大狼とその部下が先行し、その後を浮都組が続く。彼らは港を離れて黒都の門へと向かった。
「相変わらず、白麗蝶様の周囲は騒々しいのう」
 大陸周回航路の老船長は呟いた。
 白大狼が門をくぐった。続けて彼の部下達が扉を抜ける。その後に続いて浮都の住人が進み、最後尾を老齢の黒老珊が続く。
 その彼に付き従っている妙齢の女性がいる。海都の荒事師青騒蜂だ。浮都の錬金病棟で命を取り止め回復した。ただし、失った左腕は再生しなかった。再生の時期が遅過ぎたのだ。しかしそれ以外の傷は全て完治した。肉芽虫による再生に成功した彼女は、そのお礼に黒老珊の護衛を買って出ていた。
 その青騒蜂が門の近くで足を止める。
「どうした青騒蜂」
 黒老珊が声をかける。
「いえ、血の臭いが」
 そう言い、彼女は門の近くの物陰へと足を運ぶ。
「死体です。それも新しい」
 青騒蜂の言葉に黒老珊が駆け寄る。そこには、衣服を剥ぎ取られた死体が一体転がっていた。
「黒都の猛虫の仕業じゃろうか」
「いえ、虫であるならば、衣服をきれいに剥ぎ取っているのはおかしいです。それにここを見てください。短剣らしき物で急所を一突きにした傷です。これならば、声を出す暇もなく死んだはずです。恐らく腕のよい暗殺者の仕業だと思います。殺されたのは先行した大陸周回航路船の兵士の一人。衣服がないことから、その暗殺者は兵士に紛れ込んで黒都に向かったものだと推測できます」
「しかし、なぜまた」
「そこまでは私も」
 青騒蜂は首を横に振る。
「どちらにしても急ごう。みなとはぐれたら黒陽宮まで行くのに身が持たん」
「分かりました。警戒だけは」
「ああ、しておく必要があるじゃろうな」
 老人と女荒事師は、白大狼達の後を追った。

 白麗蝶達探検組は、一応黒陽宮を目指しながら、黒都の道を縦横無尽に駆け続ける。
 三叉路に来た。自称道案内の黒族の商人黒煩鴨が右に曲がる道を指差す。
「次はこちらが黒陽宮に近いと思い……」
 曲がり角に足を踏み込み、そこまで言葉を喋ったところで、黒煩鴨の上顎から上が消えた。顔の上半分が宙に飛んで地面に落ちる。黒煩鴨の体は平衡を失いながらも数歩進んでその場に倒れた。
「うわっ、この建物面白い形だ。入ってみ……」
 手近な窓を覗き込んだ黒若蜘の姿が建物に吸い込まれて消える。その後に、何かを貪り食うような音が周囲に響いた。
「むむ、猛虫が出たか」
 白麗蝶は剣を抜く。青勇隼や他の黒族の若者達も武器を構えた。曲がり角の先から数匹の螳螂型の猛虫が姿を現す。建物の中からも同じ虫が顔を出した。
「よし、倒すぞ」
 剣を構え、白麗蝶は叫ぶ。その声を合図に、黒族の若者数人が猛螳螂に切りかかった。剣が体に刺さり、体液が飛び散り若者達の皮膚を溶かす。たちまちその場に死体が増えた。
「みなの者、体液を浴びぬようにして戦え」
 数匹の虫の体節を素早く解体しながら白麗蝶は指示を出す。青勇隼も両手の剣を振り回して猛虫を切り伏せる。黒健鰐は敵と距離を取り、短剣を投げ付けて虫の頭を割る。数人の犠牲者を出したものの、多くは生き残り、敵を撃破した。
「さあさあ、どんどんかかって来るのだ」
 そう言いながら白麗蝶は黒煩鴨の死体を飛び越え先に進む。
「待ってくださいよ白麗蝶様」
 青勇隼と浮都の若者達が後を追う。
「おおっ、何だこれは」
 駆け出そうとした白麗蝶は曲がり角の先で足を止める。道を塞ぐように、巨大な壁が聳え立っている。周囲の建物の石壁とは違い、泥を塗り固めたような奇妙な壁だ。それが道幅いっぱいに広がっており、高さは家屋の二階の天井ほどもある。
「邪魔だのう」
 白麗蝶は不満そうに言う。その横に黒健鰐が歩み出る。
「ふふふ、白麗蝶様、今こそ俺の真の実力を見せてあげますよ。俺のこの腕力で、この泥の壁を押し退けてみせます」
 力瘤を作り、黒健鰐は己の逞しい肉体を誇示する。
「おいおい、無茶するなよ。別の道を通ろうぜ」
 その後ろで面倒臭そうに青勇隼が溜め息を吐く。
「まあ、見てなって。ふんっ」
 黒健鰐は泥の壁に両手を当て、思いっきり力を込める。みるみる顔が赤く染まり、全身の筋肉の上に血管が浮き出る。
「おおっ」
 白麗蝶が驚きの声を上げる。泥の壁にひび割れができ、徐々に歪み、動き出したからだ。
「凄いぜ黒健鰐」
 青勇隼も大声を上げる。
「あと、もう一息。うりゃあああああぁっ」
 壁が大きくたわみ、そして向こう側に倒れた。
「はあぁ、はあぁ、どうだ見たか」
 黒健鰐が荒く息を吐く。その直後、泥の壁の中から無数の音が響き始めた。
「何だ」
 青勇隼が左右の剣を構えて警戒する。
 亀裂の入った泥の壁が内側から破れ、数万の拳大の猛螳螂の幼体が現れた。小さな虫達は周囲を窺い、その目標を近くの人間に定める。
「白麗蝶様、さすがにこの数は多くはありませんか」
 青勇隼が一歩下がる。
「もう少し大きければ、一度に相手にする数が少なくて済むんだがのう」
 白麗蝶は二歩下がる。
「俺の責任じゃありませんぜ」
 黒健鰐は十歩下がった。
「逃げろ」
 一同は回れ右をして、来た道を全速力で引き返す。その背後から、雲のような密度で猛虫の幼体が追いかけて来る。羽ばたきの音が空間を満たす。
「白麗蝶様、このままではいつまで経っても逃げ切れませんよ」
 彼らが駆ける速度と、虫が飛んで来る速度はほぼ同じ。逃げ送れた者が螳螂の雲に捕まり、たちどころに体を引き裂かれて骨だけになる。
「うわ、やべえ、小さい癖にやたら強いぞ」
 黒健鰐は何度か後ろを振り返りながら声を上げる。
「おっ、見よ。白大狼だ。あそこを目指せ」
 白麗蝶は、追って来た百人の上陸部隊のど真ん中に飛び込んだ。

 猛虫の幼体との戦いで、百人の内五十人が命を落とした。白麗蝶は腰に縄を結わえ付けられ、白大狼に引っ張られている。
「なあ、白大狼よ。縄を解いて欲しいのだが」
 白大狼は白麗蝶の言葉を無視して、黒老珊と道を確認しながら黒陽宮へと歩を進める。白麗蝶と同じように道をはぐれていた面々は、こっぴどく叱られて殿に回されている。
「白大狼様ぁ。少ぅしだけ縄を緩めてくださいよぉ」
 媚びるような声で白麗蝶は縄を引っ張る。白大狼の恐ろしげな目が白麗蝶に向けられた。
「もうしません。もうしませんから、縄を解いて自由にしてください」
 小さい声でぶつぶつと白麗蝶は呟く。
 浮都からの上陸者達は次第に黒陽宮に近づいて行く。その巨大な建物に近づくに連れ、死体の数が増えてくる。先行した大陸周回航路船の兵士達だろう。彼らが虫を撃退して進んでくれたおかげか、幼体との戦闘以降、虫達の襲撃をほとんど受けずに済んでいる。
「そろそろですな」
 黒老珊は前方を指差した。百段ほどの階段を上ると、彼らの眼前に巨大な黒陽宮の全貌が露わになった。

 浮都の船倉。
 牢として使われているその場所に、三人の咎人が捕らわれている。緑輝蝗、緑輝蛍、白楽猫である。
 暗闇の部屋の中にも、一日の内、幾らかの陽射しが入り込む。老朽化した浮都は、雨風や植物の浸食で、そこかしこに隙間が生じているからだ。
 そのわずかの日光をもって、緑輝兄妹は体に寄生した蔦に光合成を行なわせてきた。航海の全日程を使った末、体表に少ない数ながらも新芽が芽吹いた。これだけの数の芽生えでは、幻覚の力はたかが知れている。しかし二人の力を合わせれば、一人を操る程度の力にはなる。
 三人の罪人は、それぞれ両手と両足を縛られている。その体を芋虫のように移動させ、緑輝兄妹は背中合わせに手を繋いだ。二人の力が乗算され、植物の葉が力を帯びる。緑輝蔦による支配の力は同じく捕らわれている白楽猫に照射された。白楽猫は緑輝の幻覚の支配下となる。
 白楽猫は緑輝蛍の腕を結んでいる縄に噛み付く。そして歯茎から血を滲ませながら、緑輝蝗の腕の縄を噛み切った。あとは緑輝蝗が全員の縄を解くことで彼らは四肢の自由を取り戻した。
「さて、どうやって脱出するかだな」
 緑輝蝗は伸びをしながら声を漏らす。
「あら、お兄様。そんなことも考えずに縄を解いたの。相変わらずお馬鹿さんね」
 緑輝蛍が縄の跡の付いた手首をさすりながら呟く。
「お口と歯が痛いです」
 白楽猫が涙を流しながら二人に訴える。
「おお、可愛そうな白楽猫。一体誰がそんな酷いことをしたんだね」
 緑輝蝗は白族の少女に唇を重ねる。白楽猫は法悦の表情を浮かべた。
「しかし輝蛍よ。どうやって脱出する」
「あら、そのために努力することは私達の仕事ではないわ。この可愛いお嬢さんが、私達のために頑張ってくれるはずよ」
「ああ、そうだ輝蛍よ。お前はいつも正しい。王たる者は家臣に仕事をさせなければならない。さあ、白楽猫よ。私達のために仕事をするのだ」
「あの、どうやってこの扉を開ければいいのですか」
「よし、体当たりがいいだろう。思いっきり、何度も体当たりをすれば、いつか扉は開くはずだ」
「そんなことをしたら、体が壊れます」
 どうやらまだ支配の力が弱いようだ。緑輝蝗と緑輝蛍は手を繋ぎ、白楽猫の体を包み込む。
「私達のために、倒れるまで扉に体当たりしてくれるね」
「はい、喜んで」
 白楽猫は助走を付けて全速で扉にぶつかる。大きな音が部屋中に響く。船倉の外で見張りをしていた兵士が驚く。縄で縛って転がしていた罪人達が縄を解いたのか。
「おい、誰か人数を呼んで来い。罪人が縄を解いたようだ。縛り直すぞ」
「分かりました」
 兵士が一人兵舎に走り、応援を呼んでくる。数は二十人ばかり。船倉の罪人は三人のはずだ。この人数があれば取り押さえられるだろう。
「入るぞ」
 兵士が鍵を開け、中に入る。口から血を流した少女が扉に向かって駆けて来た。
「おっと」
 黒族の男達は白楽猫を受け止める。
「怪我をしているぞ、どうする」
 少女を捕まえた男が仲間に声をかける。その直後、鍵を開けた兵士が剣を抜き、仲間の兵士に切り付けた。
「何をする」
 船倉から二人の人物が出て来た。兵士達の多くは、この二人がどのような罪人であるのか知らない。
「白楽猫、よく頑張ったね」
 緑輝蝗は白楽猫の傷だらけの体を両手で抱き締める。
「罪人が逃げるぞ」
 兵士が叫ぶ。数人が緑輝に支配された仲間を取り押さえ、残りの兵が先に進む。兵士達は緑輝兄妹の許へと駆け寄った。そこで兵の一人の足が止まる。その者は向きを変えて仲間に襲いかかった。船倉の前で同族同士の殺し合いが始まる。
「さあ、地上に行こう。そして日の光を存分に浴び、この新芽を大きく開かせるのだ」
 美しい男女は連れ立ち、浮都の甲板へと向かった。

 黒陽宮。
 黒都最大の建造物にして、大陸最大の人造物。その敷地は黒都の面積の実に四分の一を占め、高さはその半径より少し高い。この建物は地上十階の基礎部分の上に、半球状の巨大な天蓋が覆い被さる形をしている。遠くから黒都を眺めると、巨大な黒い山が砂漠に突き出ているように見える。これほど大きな建物を、今日の大陸の技術で作ることはできない。
 この宮殿の一階は周囲の建物の基部よりも高い位置にある。黒都の町を進み、百段ほどの階段を上った先に黒陽宮の入り口はある。入り口の周囲は神殿前の広場のように、ゆったりとした空間が設けられている。
 この百段の階段の上に立ってもなお周囲を見渡すことはできない。なぜならば、黒都の尖塔状の建物が巨木のように林立しているからだ。建物の林に蹲るようにして、円を基調とした宮殿は黒都の中央に佇んでいる。
 かつて黒陽宮の一階は、黒都の人々に開放されていた。この場所には黒円虹への質問を投票するための投票箱が置かれてあり、市民は気軽に訪れて種々の質問を用紙に書いては箱に投じていた。二階以降は貴族のみが入れる空間になっている。その階から先は研究施設や図書室、資料室が各階を埋める。書架には黒円虹の回答が資料として蓄積され、さらに様々な技術を検討、実験するための隔離施設も存在した。
 この巨大な黒陽宮は、十回以上の改築の末にできた建物である。最初に作れらた建物は黒都の他の家屋と変わりない程度の大きさだった。改築のたびにその規模は大きくなり、ある時期を境に、黒円虹から得られた様々な技術の粋を凝らした建築物に姿を変えた。その最終形が現在の黒陽宮だ。継ぎ目のない強固な壁、重量を無視した安定性を誇る構造、複雑で華麗な意匠。どれを取っても、今の大陸の水準を逸している。
 黒覆面の船主は、生き残った兵士九百人のほとんどを一階に残し、数人の供と兵だけを従えて上階へと向かった。
 一階に兵達を残したのは、これだけの数の兵士を一度にこの場所に入れると、収拾が付かずに略奪が始まる可能性があるからだ。彼らにはこの場所の価値など分からない。そのため貴重な品々を破壊する恐れがある。黒捷狸が運び出す必要のある品を確認し、運搬に必要な人数を決め、その人数ずつ呼んで内部に入れていく予定だ。彼ら兵士は、荷物を運ぶ荷役に徹してくれればよい。
 各階を回り、運び出す荷物の指示を黒覆面は青凛鮫を通して周りの者に告げていく。書類や書物、用途の分からない装置ばかりだ。黄金細工の器物や宝飾品などはその中に含まれていない。
 指示を伝えるための兵達が次々と階下へ走り、黒覆面の周囲には青凛鮫と青遠鴎の二人だけになった。三人は十階に辿り着く。基部の最上階だ。階段の先には物々しい扉があり、彼らの行く手を阻んでいる。
「この先には何があるのですか」
 青遠鴎は黒覆面に尋ねる。青凛鮫も船主を見た。この先に何があるのか、若い二人は知らない。
 黒捷狸は覆面の下でその両人を見ながら考える。この二名は知り過ぎた。生かしておくよりもここらで始末しておき、誰か替えの人間を一人選んだ方がよい。黒捷狸は黒衣の中で腕を動かし、剣の柄に指を触れる。
 必要な知識は手に入った。黒円虹を長生きさせている技術は予想通りこの黒陽宮に所蔵されていた。各階を探索する間に彼はその文献を発見し、兵士達に運び出すよう指示を出した。後は黒円虹を殺せばよい。情報は独占してこそ意味がある。黒陽宮の情報を全て得た後は、黒円虹はただの邪魔者だ。
 黒捷狸は多くを望まない。必要な物だけ確実に手に入れればそれでよいのだ。欲を掻くと事を仕損じる。それよりも、後への禍根を残さないことの方が大切だ。
「何か階下で騒ぎ声が聞こえますね」
 周囲を警戒していた青凛鮫が声を出す。黒捷狸も耳を澄ます。複数の人間の声だ。それも、階上に近づいて来る。上の階には立ち入らないようにと厳命していたのに、なぜ人が上がって来る。黒捷狸は眉を顰める。
「下を確認してきましょうか」
 青遠鴎が尋ね、黒覆面は渋々頷いた。青遠鴎は階段を数段下り、下から上がって来た兵士に出会う。兜を目深に被った兵士だ。
「何があったのですか」
「実は白麗蝶様と白大狼様が現れて。上に行かねばならないと言われまして。船主様からは何者も階上には上げるなと告げられておりましたので、なるべく少ない人数だけでということでお連れしたのです」
「なぜここに白麗蝶様が」
 青遠鴎が驚きの声を上げる。その背後で黒衣の男が唇を噛む。なぜこの者達が現れたのだ。ここでは殺せぬ。黒捷狸は忌々しく思いながら柄から剣を離す。
 階上に上がって来たのは、白大狼とその部下白愛鹿。白麗蝶と彼女の一番弟子である青勇隼、二番弟子の黒健鰐。加えて黒老珊とその護衛の青騒蜂。それと最初に口を開いた兵士の八人だ。さらにこの場には青凛鮫と青遠鴎もいる。
 剣の腕には自信のある黒捷狸だが、十人を相手に一度に切り結ぶほど自分の力に自惚れてはいない。それに、白麗蝶と白大狼はまだ利用価値がある。情報を知る人間は少ない方がよいが、殺害する機会は今ではないようだ。
 同じようにこの集団の中に、手を出しかねている人物がいる。兜を目深に被った兵士、変装した白冷螂だ。
 白冷螂は黒陽宮まで来る途中、大陸周回航路の兵士達の中に白麗蝶達の姿を見出せず、一旦は意気消沈した。だが、後続して白麗蝶達の一団がやって来た時には自分の運のよさに狂喜した。山脈の岩竜虫を避け、砂漠の千足虫を突破し、黒都の猛螳螂にもやられずここまで辿り着いた強運。そして最後には、目の前に標的自らがやって来た。
 だが彼は、安易に暗殺対象に手出しをできなかった。彼女らは五十人の仲間に囲まれていたからだ。暗殺はその相手に気付かれないように極限まで近づいてこそ成功する。だが、この人数の警戒の中ではそれも難しい。
 そこで彼は一計を案じた。
 指示した階以外には人を上げるなと言っていた黒捷狸の言葉をうまく利用したのだ。軍団長達は、船主から人を上げるなと厳命されていた。だが白大狼達は上階に上ろうとする。そのため軍団長らは二人の言葉の間で板挟みに合い、ほとほと困り果てていた。
 そこで彼は軍団長の一人に耳打ちした。相手は白麗蝶様と白大狼様、二人だけでなら船主様も苦情は言わないでしょう、私が案内役を務めますので通してはどうでしょうか。そう持ちかけたのだ。軍団長はその妥協案に乗って来た。そして彼を案内役として付け、階上に上がることを許可した。二人を兵士達から引き離せば暗殺は実行できる。
 ここまでは順調だった。だが誤算もあった。
 最終的に上階へ向かう人数が、白冷螂を加えて八人になったことだ。そしてさらに厄介なことに、その人数の中に同業者らしき人物が混ざっていた。その人物は露骨に周囲の暗殺者を警戒していた。青族の女荒事師、青騒蜂である。
 どうにかして白麗蝶と白大狼の間近に立ちたいが、青騒蜂の目が厳しく、それができない。白冷螂は仕方なく、その場の人々の端に目立たぬように立つことにした。
「大陸周回航路船の船主殿、ここでうまく再会することができるとは。我々は縁があるようですね」
 白大狼の差し出す手に、黒覆面は握手を返す。
「おー、青遠鴎。久しぶりだのう」
「これはこれは白麗蝶様、お久しぶりです。帰られたのではなかったのですか」
「うむ、そうだったのだが、予定に変更があった。お父様の命を救うために、この場所にぜひとも来なければならなくなった」
「それはどういうことですか」
「話せば長いことでのう」
 白麗蝶と青遠鴎は情報交換を始める。
「この扉の先に黒円虹様がいらっしゃる」
 人々の話を余所に、黒老珊が扉に手をかける。
「開くのですか」
 青騒蜂が老人に尋ねる。
「わしらは招かれた客じゃ。鍵がかかっているのなら、何らかの指示があるはずじゃ」
「それもそうですね」
 老人の言葉通り、扉は呆気なく開いた。奥から湿気を多量に含んだ空気が漏れて来る。
「この上が、黒円虹様がいるはずの黒陽宮の大広間じゃ。黒都が盛んだった往時、この中に普通の人間は入れんかった。わしも入ったことはない。黒円虹様と対面したことがあるのは、神官などごくごく一部の人間だけだったからのう」
 暗闇の中、階段が上へと続いている。
「暗いな。明かりが必要か」
 白大狼が扉の先を見ながら零す。すると階段全体が仄かな光を発し始めた。光は階段の先の大広間にも点っているようだ。
「行くか」
 周囲を警戒しながら白大狼は一歩を踏み出す。白麗蝶は相変わらず縄を腰に付けて勝手に走り回れないようにされている。十一人の来訪者は階段を上り始めた。
「ようこそ、私は待っていた」
 急にひび割れた声が前方の大広間から聞こえて来た。全員が立ち止まる。普通の人間が発する声ではない。
「白大狼よ。私は君が訪れるのを待っていた」
「お前が黒円虹か」
 白大狼は尋ねる。しばらく経った後、返事があった。
「そうだ。私は黒円虹だ。この日、この場にこれらの人々が集まったのは、歴史の綾の結果なのだろう。私はこれから起こることの全てを受け入れるつもりだ」
「今すぐそちらに向かう」
 先を急ぐ白大狼は階段を駆け上がろうとする。彼が黒老珊に見せてもらった死表は大きさが小さく、白賢龍の正確な死亡日を割り出せるほどのものではなかった。十数日単位の日付しか分からない精度でしか数字は書かれていなかった。だが、もしあの予言が本物なら、そろそろその日が迫っているはずだ。
「待ちなさい。君達は私と会うための心の準備ができていない。もし何の準備もせずに私と対面したならば、驚きのあまり悲鳴を上げて気を失ってしまうだろう」
 白大狼は足を止める。
「どんな姿をしているんでしょうね、白麗蝶様」
 青勇隼は軽口を叩く。
「きっと、こーんな顔をしているに違いないぞ」
 白麗蝶は顔に両手を当てて変な顔を作る。
「一歩、一歩、ゆっくりと階段を上って来るがよい。その間に、私の生い立ちを語ることにしよう」
 階段は遥か上方まで伸びている。大広間に達するまでは、しばしの時間がかかるだろう。
「分かった。黒円虹よ、お前の話を聞こう」
「白大狼よ、君の心遣いに感謝する」
 白色に光る階段を上りながら、十一人の男女は黒円虹の語る昔話を聞き始めた。

 百五十年前。黒都。
 その当時の黒都は、大陸で一番栄えた町ではあったが、今ほどは大きくなかった。港には色とりどりの帆の船が行き交い、街の屋根は極彩色の瓦で覆われ、人々の顔には笑顔が溢れていた。街の大路を行く人の多くは黒族であったが、それ以外の民族の者も多くいた。炎上する前の海都の町並みを想像すればそれほど遠くないだろう。
 都の周囲は豊かな実り溢れる農地が広がり、黒都の城壁から見渡す大陸南西の地は、豊饒な土地と呼ぶに相応しい大地であった。その緑の地に住む農家の十五男として、黒円虹という少年は生まれた。
 彼は異能を持っていた。それも一つではなく、複数の能力を持つという、特殊な人間であった。多種異能児。そう呼ばれた彼は、貴族達に引き取られて、生家から引き離された。両親達は何の苦情も言わなかった。黒都周辺では、有望な才能を持つ人物は、貴族達によって黒都の繁栄のために育てられるのが常だったからだ。また、彼の両親が既に多くの子供を持っていたため、それ以上養い切れないという理由もあった。
 黒円虹の持っている異能は、主に頭脳に集中していた。彼は自分の脳から強い波動を送り、相手に届けることができた。これは相手の意識や感情を操作できるという類いの物ではない。だが、彼にはこの能力を活用できるもう一つの異能があった。その波動の反射を読み取ることで、他人の脳の活動状態を調べ、相手の意識の流れを読み取る能力である。
 ある種の動物が、自分の発する音とその反射によって相手の位置を察知できるように、彼は自分の脳から波動を発することで、他人の意識を探ることができた。彼の能力は非常に強く、相手に接触しなくとも、三歩離れた程度の距離なら人の意識を読み取ることができた。
 三歩というと短く感じるかもしれない。しかし、例え三歩といえども、この能力は誰もが恐れる強力な能力である。この能力を政治の場に持ち込めば、他の国家の元首が考えていることが手に取るように分かる。この能力の価値は、政治の舞台に身を置く、貴族達にこそ、はっきりと分かった。
 少年は相手に近づくことで、その相手が何を考えているか知ることができた。だが、まだ幼い子供にしか過ぎない彼にとって、その意識の洪水はとても処理し切れる物ではなく、彼は半ば眠ったようにしか日々を過ごすことができなかった。
 彼は、人が近づくと、その人物が考えていることをまどろみの中で口走り、それが彼の能力を周囲の人間が知る切っ掛けとなった。
 少年を手に入れた黒都の貴族達は、他の異能者達に施すのと同じように、少年の能力を最大限に引き出す方法を考えた。現在は三歩の距離ではあるが、より強い能力を発揮できるようになれば、十歩、百歩と距離を伸ばせるかもしれない。そのためには、より強い脳が必要になる。
 貴族達は少年の頭を開き、頭蓋骨をより大きな物に取り替えることにした。何度かの手術と投薬を経て、少年の頭は最初の五倍ほどになった。黒都の貴族達は、何代にも渡って異能者達の能力を強化してきた実績がある。貴族達は経験上、脳に才能が集中している者は、脳を大きくすることでその異能を強化できることを知っていた。
 果たして黒円虹の能力は飛躍的に上昇した。そして貴族達は彼にまだ発見していない能力があることに気付いた。黒円虹の能力は二つではなかった。
 黒円虹の異能の距離は、貴族達が異能者を育成している施設全体を覆うほどになった。そして、黒円虹の能力を観察していた研究者はある現象に気付く。これまで黒円虹は、近づいた一人の思考をただ口から漏らすだけの存在だった。だが、強化された黒円虹は複数の人間の思考を同時に読み取り、関連させて処理できるようになっていた。
 最初は複数の人間の思考が雑多に混じった意味のない言葉が繰り返された。研究者達は脳の拡張手術が悪い方向に働いたと失望した。しかし、その内にだんだん意味のある言葉を喋り出した。雑然と他人の思考を読んでいた黒円虹は、特定の人間の思考を重点的に読むようになった。他の異能者達の思考をだ。
 大気の風の流れを読む異能者、大地の震動を読む異能者、生まれてから現在まで見た全ての動物の挙動を記憶している異能者、その他様々な異能者達。黒円虹は彼らの持つ意識を走査し、かつその情報から未来を推測する能力を示したのである。最初の予言は地震の予知だった。
 複数の異能者が持つ情報を黒円虹が集め、その巨大な脳で処理することで、近い未来に起こり得ることを高い精度で導き出す。
 研究者達の興味は、黒円虹の他人の意識を読む能力ではなく、他人の意識を統合して意味ある未来を推測する能力へと移った。もっと脳を大きくすれば、彼の未来予知はどうなるだろうか。既に黒円虹の頭蓋はかなり大きくなっていたが、研究者達は少年の脳をさらに肥大化させた。黒円虹の脳は、研究者らがこれまで施術したどの人物の脳よりも大きくなった。少年の脳は常人の百倍の大きさに拡張された。
 黒円虹の意識探索の射程範囲は黒都全体に広がった。貴族達は黒円虹を黒都の至宝とみなし、町の中央に彼のための宮殿を建てた。少年の身の安全を守り、最上の環境でその能力を発揮させるためだ。
 貴族達は彼らの中から神官を選んだ。そしてその神官だけが宮殿に入るようにした。彼らは黒円虹を神として祭り上げた。
 それから黒円虹の予言の日々が続き、黒都の人々は彼の能力に溺れ始める。
 少し経ち、そのことを憂慮した賢人が現れたことで事態が急変する。賢人は神官達を前にこう言った。
「かつて人は、木から火を起こす方法を知らなかった。種から麦を得る方法も知らなかった。鉄を溶かし武器を作る方法も知らなかった。だが、それらのやり方を現在の私達は知っている。
 今できぬことも、将来できるようになるかもしれない。私は鉛から黄金を生み出す方法を知りたい。もし黒円虹に未来が読めるというのならば、きっとそのような方法も知っているだろう。その方法を我が前に示して欲しい」
 賢人の意図はこうだった。欲に駆られた神官達がこの質問を黒円虹にぶつける。そして黒円虹が答えに窮する。そうなることで、何もかも黒円虹に頼ろうとする人々が、自らの過ちに気付く。そのことを期待したのだ。その時点まで、黒円虹の予言は一度も外れていなかった。何か答えられない質問をする必要がある。そう賢人は考えたのだ。
 黒円虹は、その時点で初めて遠未来を予測する必要に迫られた。だがその作業をするための土壌は既にできていた。
 彼は頭の中で多くの人々の意識や人生を再現していた。そのため彼の脳内には、もう一つの世界、仮想世界とでも言うべきものが作り上げられていた。その世界の時間の流れを早め、歴史の向かう先を推測する。将来どういった世界が登場するのかを先取りして、未来を覗き見る。
 黒円虹は常人の百倍の性能を持つ脳で、未来を延々と手繰り寄せた。数百年後に、その技術は登場した。鉛を金に変えるその技を黒円虹は神官に答え、黒都は熱狂した。そして賢人は黒都の未来を悲観して自殺した。
 神官達は次々と黒円虹に欲望をぶつけ、その度に彼は遠未来を予測して必要な技術を探り当てた。
 この作業の途上、黒円虹はあることに気付く。近未来は誤差の少ない精度で予測ができるが、遠未来は幾つもの可能性に分岐する。演算のたびに結果が変わり、ある技術が二百年後に開発されることもあれば、五百年後に生み出されることもある。同じ結果を導き出すための方法が、まったく違う技術基盤から発生することもある。極端な場合、矛盾する理論から誕生する技術も存在した。
 その結果、黒都の人々は無数の関連性のない技術を手にすることになった。だが、彼らはその仕組みに興味を持たなかった。得られる利益だけを希望した。その彼らにとって、黒円虹のもたらす答えは何の不都合もなかった。
 黒都の技術は飛躍的に向上し、人々はその技術の仕組みも分からないまま、そのもたらす結果に狂奔する。黒円虹の脳はさらに肥大化され、そのたびに黒陽宮は改築された。いつしか黒円虹の意識の検索範囲は、大陸全土を覆うようになっていた。
 それから少し後、おぼろげな意識の中で、黒円虹は自我というものについて考えた。このように、人の意識を編み上げ、未来を見続ける自分に自我や意思というものはあるのだろうか。彼は今までの人生を全てまどろみの中で過ごしてきた。その彼が自らの意思で何かをすることはできるのだろうかと。
 戯れに彼は、黒都の技術を活かし、人々をよりよく導く方法はないかと考えた。答えは出た。だが、その考えは誰に問われたものでもなかった。折角考えた方法は、伝える相手がいなかった。彼は自らの意思で他人に語りかけるということに慣れていなかった。そのため、その考えを誰に伝えることもなく数年が過ぎた。
 黒都は黒円虹の能力に大きく依存する形に発展していった。錬金を行なうための動力の転送、機械を動かすための資源の輸送、魔法と呼ばれる技術を使うための情報の入出力など、ありとあらゆるところで黒円虹の力は必要とされた。それぞれの技術があまりにも雑多なため、黒都の人々はそれらを自分達の力で管理することができなかったからだ。
 日々をまどろみの中で生きる黒円虹に変化の日が訪れた。神官以外の人間から、質問が届いたのだ。黒い石でできた装置と、錬金の動力転送の共振現象を使い、賢人が直接黒円虹に問い掛けて来たのだ。その最初の質問は、黒円虹が一人で考えていた、人々をよりよく導く方法であった。彼は即座に答えた。
 それからしばらく経ち、彼は次の質問を受信した。大陸の未来の歴史を、高い精度で予測し続けろというものだ。これは、歴史上の重要人物を判定し、その人物の死の時期を当てろという問いである。黒円虹は答えるために、大陸中の強い力を持った異能者達の意識を片っ端から走査し続けた。そして、未来を極力高い精度で推測するようにした。
 賢人が求めた精度は厳しかった。その精度を満たすほどに未来を予測することは、黒円虹であっても難しかった。よくてその人物の死の数年前、悪くて数日前にしか答えを出すことはできなかった。彼はその計算を行ない続け、要求精度を満たす計算結果が出たと判断するごとに、その問いの答えを送り続けた。
 その作業は彼の能力の大きな割合を必要とした。
 それから数十年が経ち、黒都は滅んだ。
 だが、黒円虹は大陸の歴史を先読みする作業を行ない続けた。そして、ある人物の意識を走査した。白賢龍である。そして黒円虹は衝撃を覚えた。

 そこまで話し終えた時、十一人の来訪者は階段を抜け、大広間に出た。
 巨大な丸天井の下は広大な空間が広がっている。床は水槽のようになっており、透明の液体で満たされている。まるで巨大な湖だ。天蓋の縁には数人が通れるほどの岸辺があり、彼らはその場所に出てきた。天井全体が淡く白く輝き、天蓋の下を照らしている。円の中央、舟で行くならば少しの間漕ぎ続けなければならない距離に、巨大な島のようなものが浮かんでいる。人々はその島に目を凝らす。
「私が黒円虹だ」
 雑音の混じった音が、階段の近くに置かれている人の背の二倍ほどもある金属の箱から響いてきた。
「私は、君達十一人の内、十人の意識を既に走査している。そしてこれまで得た情報から、これからこの場で起こることも推測している。私はこの日が来ることを遥か昔から知っていた。正確な日付を知ったのは最近だ。だが、いずれこうなることは分かっていた。私はあるがままを受け入れよう。ようこそ、白大狼。君達を私は歓迎する」
 天蓋の下は濃密な空気が漂っており、遠くの景色は霞むように見えている。白大狼達十一人は湖の上に浮いている物を見ようとして目を凝らす。黒都の歴史を既に知っている黒老珊と黒捷狸はその場に何があるのか分かっている。その他の九人はそれが何であるのかを必死に探ろうとする。
「脳だ、巨大な脳だ」
 青遠鴎が口を開く。脳が何であるのか知らない者もいるが、その知識を有する者には、それが確かに脳であると分かった。島に見えた物は黒円虹の巨大化された脳だ。
「分かったぞ」
 さらに青遠鴎が唾を飛ばす。
「この巨大な天蓋は、脳肥大の末に行き着いた、黒円虹の頭蓋なのだ」
 辺りに沈黙が訪れる。自分で言っておきながら、青遠鴎は自分の言葉が正しかったのかどうか、自信がなくなってくる。余りにも彼の常識を超越した光景だからだ。
 白大狼が口を開く。
「黒円虹よ。青遠鴎の言葉は事実なのか」
「そうだ。今や私は、脳だけで活かされている存在だ。私には口もない。そのため機械の口を使って喋っている。聞き苦しさは許して欲しい」
「白賢龍伯父さんが死ぬという予言は本当か」
「本当だ」
 この予言を聞いたことがなかった者達が驚きの声を上げる。
「それはいつだ」
「今日だ。これからもう少し経てば白賢龍は死ぬ」
 どよめきが上がる。
「黒円虹よ。お前は死表を通して私が未来を変える力を持つと語った。私は伯父さんを救うことができるのか」
 しばしの間沈黙が続く。
「私が白賢龍の意識を走査した話がまだ途中だ。そのことについて話す必要がある」
「答えろ、黒円虹。伯父さんを救う方法はあるのか」
「それは二十数年前のことだった」
「黒円虹、お前は何のために私を呼んだのだ」
「私は、大陸に住む強い異能を持った人々を無差別に走査していた」
「お父様を助ける手段はないの」
 白麗蝶も大声を上げる。
「そして、一人の人物の意識を走査して衝撃を受けた。彼は私と全く違う方法で、頭の中にもう一つの大陸を作り上げていた」
「黒円虹、答えよ」
 白大狼は周囲に舟がないかを探す。しかし、そのようなものはこの天蓋の下には一切ない。水は深そうだ。黒円虹の許まで行くのならば、泳いで行く必要があるだろう。しかし、ここは既に彼の頭蓋の中、近づくことに意味があるのかどうかも分からない。白大狼は逡巡する。
 人々は黒円虹の一方的な語りに戸惑う。だが、中には冷静さを保っている者もいる。その内の一人は、己がやるべき仕事を行なうために静かに動き始めた。
 一人の男が、足音を立てずに徐々に立ち位置を変えていく。そして遂に白麗蝶の背後まで移動して来た。誰も気付いていない。いや、黒覆面の男は気付いているが無視をしている。この場にいる者達は知り過ぎてしまった。いずれ全員抹殺する必要があると彼は判断したからだ。その人数が減ることを止める気はない。
 白冷螂は、兵士から奪った装備の一つである腰の剣に手を伸ばす。彼の本来の得意武器は鉤爪だ。しかし、変装のためにその装備は隠している。今この場で再び取り出せば衆目に目立ち企みが明るみになる。気配を殺して柄に手をかける。一瞬の内に抜剣した。白麗蝶は気付いていない。白冷螂はそのまま剣を突き出す。
「暗殺者だ」
 青騒蜂が叫ぶ。黒都の入り口で暗殺者の存在に気付き、周囲を警戒していた青騒蜂だったが、黒円虹の途方もない話に忘我の状態に陥り反応が一瞬遅れてしまった。声を出しながら、右手を伸ばして白冷螂に触れようとする。体に触れさえすれば、電撃で相手を殺すことができる。この航海で何度も死線をくぐり抜けた青騒蜂の能力は、今や海都の頃とは比べ物にならないほどになっている。
 だが、手は空振りする。白冷螂は無音のまま立ち位置をずらし、青騒蜂の手を躱す。白冷螂の技量は青騒蜂のそれを上回っている。白冷螂は白麗蝶に剣を突き立てた。殺した。そう思った瞬間に白麗蝶の姿が消えた。
「うおぉ」
 白麗蝶は宙を舞っていた。白大狼が、彼女の腰に巻きつけていた縄を右手で勢いよく引っ張ったからだ。白大狼は左手を剣に伸ばす。利き手の右手で縄を持っているために使える手は左しかない。だが、その不自然な動きが動作を少し遅らせた。白冷螂が剣先の向きを変える方が早い。白大狼の脇腹に剣が刺さる。白大狼は膝を突いた。
 白大狼に手傷を追わせた。だが第一目標の白麗蝶は無傷だ。やはり、使い慣れた武器でなければ速度が足りない。しくじったか。白冷螂は剣を引き抜いた。白大狼の脇腹から鮮血が飛び散る。
「白大狼様」
 白愛鹿が剣を抜き、白大狼と白麗蝶を庇うように立つ。
「ひぃ」
 戦闘に慣れていない青遠鴎は硬直する。黒捷狸は黒衣の下で剣の柄に指を触れる。
「何しやがる」
 青勇隼が左右の剣を抜いて白冷螂に迫る。青勇隼は剣を振り上げ、白冷螂の頭を叩き割った。勝負は呆気なく付いた。真正面からの戦いでは暗殺者に分があるわけがない。伸ばした手を、黒捷狸は剣から再び遠ざけた。
「大狼」
 白麗蝶は叫ぶ。
「大丈夫じゃ。誰かが怪我をする可能性も考えて、治療道具は一通り持って来ている。すぐにここで治療をしよう」
 黒老珊が冷静に言いながら持ってきた装備を開く。黒円虹は物語を再び始める。白大狼の治療の間、全員が機械の箱から漏れて来る話を一方的に聞かされる。
「話を再開しよう。白賢龍は私と全く違う方法で、頭の中にもう一つの大陸を作り上げていた」
 耳障りな声に人々の苛立ちが募る。だが、今は白大狼の治療が先だ。
「彼の持っている異能は、筆跡を元にその人物の考えを読み取るというものだった。彼はその能力で、過去の真跡の書物を読み漁り、遂には私と同じように、頭の中にもう一つの大陸を作り上げた。そして、大陸が向かう先を、未来を徐々に予測し始めた。私はこの発見に大いに驚いた。
 当然と言えよう。私のような人間はこの世には一人しかいない。そう思い続けていた私の前に、私同様、そして私と全く違う方法で未来を予測する人物が現れたのだ。私の近未来予測の中に、白賢龍の登場は当然含まれていた。だが、実際に意識を探った時の感動は余人には計り知れないだろう。
 いつしか白賢龍はその頭脳の中に、おぼろげながらも千年先の未来を描き出すまでに成長した。だが、悲しいかな。彼の脳は私ほど大きくなかった。常の人の小さな脳で未来を予測したために、無限の分岐の可能性を持つ遠未来から、ただ一つの未来に辿り着いてしまったのだ。彼の未来は私が見る未来よりも頼りなげでおぼろげなものだった。だが、彼はその未来に打ち震えたはずだ。彼が見たその未来は余りにも魅力的で甘美だったからだ。
 だが悲しいことに、彼が現在を超越し、未来の果てに見たのは、あまりにも可能性の低い未来だった。それは、共通の価値観を持った賢明なる人々が住む世界。賢人達で満たされた争いのない大陸。
 彼が見た未来は、貴重な書物を著わすほどの知性を持った人々の視点を元にした世界だ。だが、大陸を覆う諸人はそんな賢人達ばかりではない。彼の予測した未来は偏っていた。そのため彼は、余りにも理想的な未来に辿り着いてしまった。
 しかし、その未来は、可能性こそ低いものの確かに存在した。なぜなら、私も何度か行き着いたことがあるからだ。その未来はあり得る未来の一つであった」
 大広間の十人は黒円虹の話を無言で聞いている。黒老珊だけは必死に手を動かし治療を続けている。
 この場には黒円虹の言葉を理解しようとしない者も多い。その中で、白大狼を除き、最も真剣にこの話しに耳を傾けているのは青凛鮫だろう。彼は白賢龍のために、司表を助ける仕事を受けた。その白賢龍が何を考え、そして何を目指していたかを、この巨大な脳は語っている。
 雑音が混じりながら黒円虹の言葉は続く。
「そして運命の日がやって来た。海都へと運ばれ、紛失していた黒陽会の経典が、学僧市で白賢龍の目に触れたのだ。白賢龍はかつて私が石に刻み込んだ筆跡を読んだ。そして、私の存在を知った。彼の小さな脳では、私の全てを理解することはできない。だが、鋭敏な知性を持った彼は私の書いた文字からあることを悟った。
 白賢龍は涙を流しながら笑い続けた。彼が頭の中で作り続けている未来が、可能性の中のたった一つにしか過ぎないことを知ってしまったのだ。彼は理想の未来を垣間見て、その未来が来ないであろうことを知ってしまったのだ。
 私はこの結末を予想していた。そして、白賢龍が絶望するだろうと推測していた。果たして彼は絶望した。私はこれまで無数の未来を見てきた。そしてそれらの未来について考えを巡らしても、特定の感情を持つことはなかった。自分とは係わり合いのない未来。別世界の出来事だと感じていたからだ。私は未来とは諸条件の後に、勝手に向こうからやって来る物だと思っていた。
 だが白賢龍は違った。
 三日三晩涙を流し、最後には涙が涸れ果て笑うだけになった後、彼はこう言ったのだ。黒円虹とやら、もし聞いているのならば我が一生を見よ。俺が見た未来を、我が手で実現してみせる。俺が見た未来を、この手に引き寄せてやる。俺は、理想の千年後を現実のものとする。
 私はその瞬間、それまで思い描いていた未来を大幅に修正することにした。近い未来は予想できても、遠い未来の予想ができないのは、時にこのような人物が現れるからだ。白賢龍は私が見た未来を変えた。私は白賢龍に注目し、彼の生涯を追うことにした。
 白賢龍は自分の思い描いた未来を呼び寄せるために国を興した。また、国というものが千年も続かないことを知っていた彼は、理想の実現のためのその期間を短くすることも考えた。千年先の歴史を引き寄せるために先手を打ち続け、歴史の速度を早めた。ある時期を境に赤族が平野を攻め、その後緑族の侵攻があることを視野に入れ、彼は攻められる前に赤族を攻めた。賢人達を育てるための基礎となる史表も著わした。
 また、歴史の段階を早めるには産業の育成が必要だとも考えた。彼は既存の文明を高めると共に、歴史を数段階飛ばして進めるために、黒都の技術を利用することも視野に入れた。知識は経済と生産基盤の充実なしには高められない。一人の人間が高い知識を得るためには、莫大な資源が必要になる。そのための産業基盤の育成も考えた。また、人々が共通の価値観を持つためには人と情報の流通を盛んにすることが不可欠だ。そのために大陸の統一も目指した。
 白賢龍は、彼が目指す賢人達による平和な大陸を現実のものにするために、様々な手を打った。私は傍観者としてそれを見続けた。だが残念なことに、白賢龍は志半ばで死ぬ」
 白大狼が治療を受けながら口を開く。
「ではなぜ、私をここに呼んだ。お前は私が未来を変える力を持つと死表に書いた。それは嘘か」
「嘘ではない。君は未来を変える可能性を持っている。白大狼、君をここに呼んだのは、白賢龍が君を後継者に選んだのと同じ理由だ。白賢龍は、血縁などという理由で君を後継者に選んだのではない。明確な理由があって、君を白麗蝶と娶わせようとしたのだ。白賢龍は君が書いた文章を読んで気付いていた。君が特殊な異能を持っていることを」
「嘘を吐くな。私は異能など持っていない」
 白大狼は苦痛で歪んだ顔で叫ぶ。
「いや、力は弱いが能力はある。君は幼い頃、周囲の人間が自分のことをどう思っているかを肌で感じ続けたはずだ。そして、自らの生存のために、自分の才能を隠さなければならない必要性を悟った。普通の幼児は他人の心の奥底まで見透かすことはできない。君は周囲の人間の思考をある方法で読み取り、自分の才を隠す必要性を感じ、自らを偽り生きてきた。
 他人から秘匿したのは才能だけではない。君は自分の異能もずっと周囲に隠し続けてきた。そして最後には自分でも忘れるほどになり、その力を心の奥底に封印した。そうしなければ殺される可能性が高かったからだ。
 ではなぜ幼心に他人の考えが分かったのか。それこそが君の異能の正体だ。
 君の異能は本人にすらそれと分からないほど微弱な状態で眠っている。だが明確に存在している。君の持っている能力は、私と同じく、他人の意識を走査する能力だ」
 白大狼は黒円虹の言葉を無言で聞いている。
「白賢龍はもし一代で事業が成らなかった場合、君に彼の事業を引き継いでもらうことを考えていた。君の能力で自分の意思を読み取ってもらい、その仕事を受け継がせるつもりだったのだ。
 だが、白賢龍の思考をそのまま継承しても、彼の望む未来を手に入れることはできない。白賢龍の頭脳はそれを実現するほどの力を持たない。白賢龍は人の中でも特に優れた知恵を持つ。だが、目指す未来を手に入れるための知識が足りない。通常の人間には限界がある。
 だがもし、私の持つ知識を丸ごと彼が使えるならば、彼の目的は達成できるもしれない。私はそう思った。
 私は積極的に動くための体を持たない。自らの意思で行動するのも覚束ない、まどろみの中で生きる存在だ。自分の力で未来を変えようともせず、他人に望まれるまま知識を検索し、人々に提供し続けてきただけの存在だ。そんな私が、強く未来を変えたいと願った。白賢龍という男を知り、彼の望む未来に私も辿り着きたいと思ったのだ。
 私が君をこの場に呼んだのは、私の手に入れた知識の全てを、君に引き継いでもらいたいからだ。白賢龍が何を望んでいるかは既に語った。君が私の思考を走査し、私の知識を全て継承すれば、君は未来を変えることも可能になる。そして白賢龍の望む未来を現実のものとできるだろう」
 大広間は沈黙が支配する。
「私にはお前のように巨大な脳は存在しない。伯父さんの頭脳でできなかったことを、どうして私のこの卑小な頭でできると思うのか」
「ある場所に、君のための新しい脳を用意した。君が私の意思を走査すれば、君は思考するだけで、そこから知識を自由に引き出せるようになる。あとは君が私を受け入れてくれさえすればよい」
「それで白賢龍伯父さんは救えるのか」
 黒円虹はしばし沈黙する。
「さあ、私を受け入れるのだ」
「救えるのか」
「受け入れなければ救える可能性はない。予言は成就するだろう」
 白く輝いていた天蓋が急に色付いた。周囲一帯に草原の景色が浮かび上がる。誰かの目を通して見た草原の光景だ。場所は華塩湖。砦の前にその人物は立っている。黒円虹が、誰かの意識を走査して、その視界に映る映像を天蓋に映したのだ。
 黒捷狸は黒衣の下で鯉口を切った。
 この部屋の中で、この状況を最も適切に理解しているのは彼である。白賢龍から話を聞き、黒壮猿から秘密の知識を明かされ、彼自身も舟大家の家長の地位を利用して無数の情報を集めてきた。
 白大狼に黒円虹の知識を与えてはまずい。
 ここで起こることは全て受け入れると言った黒円虹は黒捷狸の存在を無視している。破邪の能力を持つ彼の意識を黒円虹は直接読み取ることはできない。だが、黒捷狸はこれまでの人生で無数の人々と接触している。その周囲の人間の意識を通して彼の目的や考えを推測していることは十分あり得る。その情報を白大狼が得たらどうなるか。黒捷狸の企みが全て明るみになる。それに、折角黒都の知識を得ても、より高度な知識を持った人間がいるのでは意味がない。もう迷ってはいられない。
「階下から何か聞こえるぞ」
 話に全く付いていけず、一人階段の辺りで暇を潰していた黒健鰐が声を発する。
 場に緊張が走る。全員が動きを止めて耳を澄ます。階下から何かが聞こえてくる。音は小さい。何の音だ。その音は次第に大きくなる。
 歌だ。人々の歌声だ。それと伴奏の弦楽器の音も聞こえる。
「何だ」
 青凛鮫が戸惑いの声を上げる。
「白楽猫の演奏だ」
 白麗蝶が驚く。
「本当だ白楽猫だ」
「確かにこれは白楽猫さんの演奏ですよ」
 青勇隼と青遠鴎が同時に声を上げる。
 階下から、楽しげに楽器を弾きながら白楽猫が上がって来る。その後ろには緑輝蝗と緑輝蛍。背後には喜び歌う兵士達の群れが続く。大広間の全員が呆気に取られる中、白楽猫と緑輝兄妹が黒円虹の頭蓋の中に登場した。
「輝蛍よ、不思議な所に着いたな」
「お兄様、私達を閉じ込めた者達がいますわ。今こそ復讐の時よ」
 大広間にいた者達は緑輝の姿を呆然と見ている。一人だけ、彼らの登場を見て動き出した者がいた。黒捷狸は剣を抜き、治療に専念していた黒老珊の首を刎ねた。
「何をする」
 黒老珊の護衛を自分に任じていた青騒蜂が黒覆面に掴みかかる。右手で黒捷狸の体に触れた。そして電撃を放とうとする。しかし、なぜか電撃が出ない。青騒蜂はうろたえる。黒捷狸に近づき過ぎたせいだ。破邪の力が彼女の異能の力を打ち消している。黒捷狸の剣が閃く。青騒蜂の胴が真っ二つになる。
 黒捷狸は一歩進み、白大狼に迫る。
「白大狼様には触れさせはせん」
 白愛鹿が立ち塞がり、黒衣の男に切りかかる。その剣より速く、黒捷狸は白愛鹿の頭を叩き割る。
 運が向いてきた。黒捷狸は覆面の下でほくそ笑む。緑輝達がなぜこの場に現れたのかは分からない。だが、緑輝兄妹が力を回復しているのならば、この場にいる者達はこの二人に全て負けるだろう。そして黒捷狸は緑輝の天敵だ。自ずとその後の展開は想像が付く。あとは確実を期するために、自分自身の手で白大狼の止めを刺しておけばよい。そうすればもう何も心配することはない。
「青捷狸」
 背後で青凛鮫が怒鳴った。人生のほとんどを通して使ってきたその名前に、黒捷狸は一瞬反応する。その一瞬の隙に、白麗蝶と青勇隼と黒健鰐が黒捷狸に襲いかかった。
 できる。
 この三人相手は分が悪い。黒捷狸はそう判断して、水上に向かって跳躍した。着水の水飛沫で挙動を隠しながら、黒捷狸は無数の短剣を投げる。そのことごとくを白麗蝶と青勇隼が叩き落とす。
 止めを刺し損ねたか。溶液の中に沈みながら黒捷狸は考える。まあよい。残りは緑輝が片付けるか支配するだろう。最終的に勝てばよいのだ。それよりも、この機会に黒円虹を滅ぼすか。そうすれば、白大狼が黒都の知識を得ることもなくなる。
 黒捷狸は外套と覆面を脱ぎ捨て、鎖帷子も水中に捨てる。そして身軽な姿になり、島の中央に向けて泳ぎ始めた。
「いっ、一体、どうなっているんだ」
 青遠鴎が叫ぶ。その横で青凛鮫が答える。
「大陸周回航路船の船主の正体は、海都の舟大家の前家長青捷狸その人だ。彼は黒陽会に帰依したのだろう、名を黒捷狸と変えて、この地にやって来た。どうやら我々は知り過ぎてしまったようだ。彼は口封じのために、この場にいる者を全て殺そうと考えている」
「なぜ、そんなことを。はっ、もしかして分かったぞ。黒都の知識や技術を独占するためだ。そうだったのか。なぜ今まで俺は気付かなかったのだ」
 青遠鴎が大声を上げる。その背中を青勇隼が叩く。
「絶叫するのはいいが、目前の敵をきちんと見ろ」
 我に返って、青遠鴎は階段を見る。そこには緑輝と彼らのために楽器を奏でる白楽猫、そして彼らに支配されている兵士達の姿があった。状況は先程より悪い。その時、風の音が聞こえた。人々の歓声も聞こえ始める。草原に聞こえている音が、天蓋の中にも響き始めたのだ。
「今から白賢龍が死ぬ」
 鈍い雑音と共に、黒円虹の声が響いた。


  八 白王の運命

 決行当日。
 赤族の本陣では日の明ける前から人々は起き出し、慌しく準備を進めている。白王の暗殺、そしてその後の一斉攻撃。そのための支度に人々は動き回る。
 作戦は何人かの提案の中から赤爽鷺という若い軍師のものが採用された。それは主に、射撃地点をどこにするかというものであった。見晴らしのよさ、周囲からの高さ、風向き、そういったものを勘案して、狙撃を行なう場所は決定された。
 基礎となる情報を集めたのは美服の赤眩雉だ。作戦自体は赤爽鷺も赤眩雉もほとんど変わらなかった。だが、最終的に選ばれたのは赤爽鷺の案だ。赤眩雉は赤堅虎の帷幕に普段出入りしていなかったため政治力で負けた。
 白王移動時の襲撃は結局失敗に終わった。白王の移動が予想以上に早かったことと、夜襲をしようにも夜は駅と呼ばれる小砦に白王が篭もっていたことが原因としては大きい。昼の攻撃も行なった。しかしそれは悉く失敗した。白王が連れていた軍団は白惨蟹ほどの規模はなかった。だが、精鋭騎兵とそれを指揮する白賢龍の能力がその不足分を補っていた。
 実際昼に手を出し、速度と射程で勝っている赤族の軍団が、白王の用兵で包囲されかけたことが何度もあった。兵の進退、分散、集合など、指で駒を動かすように白賢龍は自在に兵を動かした。部隊を隠すこともできない平原で、赤族の兵士達はしばしば彼の用兵に翻弄された。その間白賢龍は周囲を護衛に取り囲ませて、一分の隙も見せなかった。
 結果、白王は今日の激励式を迎える。
 赤族の陣営から、それぞれの部隊が隊列を組んで出発する。本陣は華塩湖から赤族の馬で数刻の場所に移してある。軍団は移動し、華塩湖の砦を遠望できる場所で待機する。攻撃を仕掛けたいが手を出しあぐねている、そういった距離で兵は待つ。赤堅虎も当然参加する。赤熱鷲などの指揮官も余すところなく本陣を後にした。外馬兵達も今日こそが彼らの復讐を遂げる日だと意気軒昂に大地を踏み鳴らして進んで行く。
 そして、最も重要な部隊が本陣を離れた。
 紫雲を持った赤荒鶏とその護衛である。
「しかしまあ、本陣付きの軍師殿の考える作戦は、俺達下々の者が立案したものとは違い素晴らしいですねえ。さすが、策だけを考えていらっしゃる方は違う」
 馬で移動をしながら、赤眩雉は赤爽鷺に皮肉を言う。言外に、弓も使えない小僧がという気持ちも込めている。赤眩雉は二十七歳、赤爽鷺は十八歳。およそ十年の歳の差は、そのまま実戦経験の長さに反映している。身分では低くても能力では勝っているという自負が赤眩雉にはある。
 また赤爽鷺は胃腸が弱いのか、赤族にしては珍しく痩せ細った体格をしている。均整の取れた体の赤眩雉と並ぶと、その貧相な姿が特に目立つ。
「赤眩雉様、もうあんまり言いなさるな」
「そうそう、皮肉屋は嫌われますぞ」
 気楽な赤眩雉の部下達が主人を諌める。赤眩雉は不満な顔をしたまま、赤爽鷺や赤荒鶏と馬を並べて進む。
「くくく、相変わらずだな赤眩雉」
 赤荒鶏がおかしそうに笑う。
「ふん、お前はいいさ。海都遠征部隊の軍団長として採用されたんだからな。俺も参加を申し込んだんだが、落ちたんだぜ。うぉー、なんで俺が落ちるんだよ」
「そりゃあ、赤眩雉様が隠密行には目立ち過ぎる格好をいつもしているからじゃろう」
「いや、ただ単に能力不足と判断されただけかもしれないぞ」
「こら、お前ら主人を何だと思っていやがる」
 拳を振り上げる赤眩雉に、慌てて彼の部下達は算を乱す。
 赤眩雉は周囲を見渡す。この部隊の人数は十数人、目立たず移動するために小人数の編成にした。その参加者のほとんどは赤眩雉が選んだ武の者達だ。赤族の者もいる。外馬兵からの武人もいる。
 人数を少なくするだけでなく、彼自身も敵の目に止まらぬように、普段と違って地味な格好をしている。この一行の中には、赤眩雉がかねてから注目していた黒暗獅という棒術使いの姿もある。彼は馬に乗れないため、他人の馬の背に同乗している。
「ここです」
 赤爽鷺が馬の脚を止めた。周囲から少しせり上がっており、華塩湖の砦が遠方に見える。風上の位置だ。
「ふん、ここで正解だよ。砦の兵士達の顔の表情までよく見えるぜ」
 赤眩雉は口の端で笑う。
「俺にはよく見えないが」
 黒暗獅が目を細めながら言う。
「俺にもはっきり見える。赤族は目がいいからな」
 赤荒鶏が笑みを浮かべる。
「そろそろ時間です。白大国の観兵式と、それに続いて白王の激励の演説が始まります」
 赤爽鷺の言葉に赤眩雉は微笑む。
「白大国の奴ら、演説の途中で突然死ぬ白王を見たら、どんな顔をしやがるかな」
「楽しみだな。惜しむらくはこの場に赤栄虎様がいらっしゃらないことだ」
 赤荒鶏の言葉にその場の赤族全員が沈黙する。結局この日まで、赤栄虎は赤族の本陣に帰還しなかった。生死は不明。情報も伝わって来ない。彼らが族長と仰ぐ人物は、彼らの前から姿を消したままだった。
「門が開いて、兵士達が出て来たぞ」
「おっ、その程度は見えるのか」
 黒暗獅の言葉に赤眩雉は応ずる。
「思ったより多いな」
 赤荒鶏は白惨蟹の軍と直接戦ったことがない。
「私達の十倍近い兵力ですからね」
 海都からの帰還者の言葉に、若き軍師が答える。
 赤荒鶏は天を見上げた。日はよし、雲もなし、風は安定している。紫雲なら、この距離から目玉一つ分の精度で敵を射抜くことができるだろう。いよいよあの巨大な国の王を射落とす時が来たのだ。彼は、自分がこれから行なう大きな仕事に身を震わせた。

 華塩湖の白大国の砦。
 観兵式が終わった。
 儀式は全て、敵からもよく見える砦の外で行なっている。これは白惨蟹が、草原の民への示威のためにそうすると決めたからだ。その分警備は厳重にしてある。数多くの偵察兵が周囲には放たれている。それに、式に参加する兵達は全て完全武装した状態だ。赤族が攻めて来れば、彼らはいつでも迎撃できる。
 華塩湖の砦の前に設えられた天幕の中で、白賢龍は白大国の兵達を満足げに眺める。その横では白惨蟹が談笑している。二人の周りには、この地で指揮をしている軍団長や幾人かの千人長が座っており、さらに天幕の端には司表の部下である白頼豹と黄清蟻の姿もある。
 白頼豹は天幕の中を見渡した。
 酒は振舞われてはいないが座は賑やかだ。白惨蟹は白賢龍にこの地での勝利を語り、兵士達の勇姿を褒め称えている。それを受ける白賢龍の顔も今日は晴れやかだ。
 遠方を見やると遥か遠くの大地にへばり付くようにして赤族の軍が見える。しかし、こちらに近づく気配すら感じられない。これだけの兵員を前にしては、怖気づくしかないのだろう。
 兵達が砦の前に整列する。約十万人の大軍勢だ。その威容に白頼豹は打ち震える。
「白頼豹殿、これだけの軍団だ。白王様は、赤族を討ち滅ぼすだろう」
 隣に座っていた同僚の黄清蟻が話しかけてきた。
「ああ、前回の白惨蟹様と赤族との戦いも見事なものであった。やはり白大国は強い。この地も支配し、いずれは大陸全土をその支配下に置くだろう」
 興奮気味に白頼豹も応える。軍全体が白賢龍の訪問に湧いていた。兵士一人一人の目も活き活きとしている。この国での白賢龍は、既に神に近い存在だ。その彼の姿を見られることに、誰もが感動を覚えている。
「それでは白王様。演壇に上がり、兵士達に激励の言葉をよろしくお願いします」
 白惨蟹は満面の笑顔で白賢龍に語りかける。人の背の三倍以上もある演壇は砦の門の横に置かれてあり、あまねく兵がその演壇の上に立つ者の姿を見ることができるようになっている。煌びやかな衣装を纏った白賢龍は立ち上がった。王を演壇まで送るために白惨蟹も席を立つ。天幕で座っていた者達も起立する。白王の演説を聞くためだ。
 白賢龍はその場で佇立する。そして自分が座っていた席から抜き身の剣を取り出した。
「白王様、演説に剣は必要ないのでは」
 怪訝な顔で白惨蟹は尋ねる。
「百日目だからな」
「何がでしょうか」
「黒壮猿という男が予言をした私の命日が今日だ」
 白惨蟹は怪訝な顔をする。
「また、お戯れを。白王様がそのような下々の予言を信じぬ方だということは重々承知しております。それに、白王様自ら、その予言は否定されたとも聞き及んでおります」
 白賢龍は鞘なしの剣を持ったまま歩き出す。その後を白惨蟹が追う。二人は話しながら白頼豹と黄清蟻の前を通る。
「私の暗殺を企んでいる者がいる」
「ばっ、馬鹿なことを。この水も漏らさぬ警備。どうやって白王様を暗殺などできましょうか」
 事実、この砦の周囲には無数の警備兵が放たれている。例え赤族が近づいたとしても、通常の十倍の飛距離の矢でもなければ、白賢龍を狙うことなどできない。
「どうやって私を狙う気なのか。ある意味楽しみではある」
 白賢龍は不敵に笑う。
「私は暗殺を切り抜ける。そしてその犯人を探し出して殺す。私はそのためにこの地にやって来た」
 白惨蟹は背筋に凍る物を感じる。もしや計画が漏れたのか。いや、そもそもこれは計画という類いのものではない。ただ白惨蟹は、赤族が通常の飛距離を遥かに超える矢を持っていることを知り、その赤族の目に触れるように白賢龍を演壇の上に立たせるだけなのだ。そこに暗殺計画というものは存在しない。殺意を持ってこの激励式の準備は進めたが、白賢龍を暗殺するために彼自身が準備したことには何の瑕疵もない。全ての偶然が重なった時だけ、この作戦は成功する。それ以上の物ではないのだ。
 白賢龍は天幕を離れ、演壇に向かう。その後を白惨蟹は追う。白王は白惨蟹を一瞥する。
「お前の書いた手紙を私は読んだ」
 それだけ告げて、白賢龍は階段を上り始めた。どういう意味だ。白惨蟹は段の下で王の姿を眺める。彼にはその言葉の意味が分からない。白賢龍は演壇の上に立った。

 赤族の軍団とはまた別に、草原を駆け抜ける人馬の一団がある。数は百に満たない。山脈から華塩湖に向けて、馬は疾走している。
 馬の背には黒い外套が乗っている。直接馬を駆っている者もいれば、赤族の男の背に捕まっている者もいる。その先頭には、黒い衣に赤い髪の男の姿が見える。赤栄虎だ。
 山脈を踏破した彼らは、草原の入り口で遊牧していた部族に馬を借り、そのまま華塩湖へと向かった。
「赤栄虎様。今日、これから白王が死にます」
 彼の横で馬を操っている黒壮猿が告げる。この移動の間に既に何度も聞かされている予言だ。
「その現場は今向かっているところで正しいのだな。このまま進めば華塩湖に辿り着くぞ」
「間違いありません。私が弟子に持たせた黒陽会の紋章の付いた杖が、私の持つ杖に位置を報せて来ています。この方角が我々の目指すべき場所です」
「その決定的場所が華塩湖ならば、暗殺の瞬間までには辿り着くことはできないだろう。少しばかり遅く着くことになる」
「よいのです。あなたは王。暗殺などという下賎のすることに手を染めるお方ではありません。あなたの仕事はその後にあるのです。私はそれを手伝う力を持っています」
 これも途上で何度も聞かされた話だ。最初は半信半疑であったが、今ではその力をこの男が持っていることに疑問の余地はない。赤栄虎は大陸を支配する王を目指すことに決めた。そのためにはまず、強大な兵を得る必要がある。赤族の地に訪れた白大国の兵を、そっくりそのまま自分の部下にしなければならない。それができなければ、この先、白大国の領土を切り取ることもできないだろう。
「黒壮猿、お前の力を俺のために使え」
「御意」
 黒壮猿は頷いた。

 砦の前で整列した兵士達の中に混じり、百人長の白晴熊は演壇の上の白賢龍の姿を見上げる。
 おお、あれが憧れの白王様だ。白晴熊は心の中で呟く。彼は前回の赤族との戦いの功績のおかげで、前から二列目、千人長達の直後に並ぶことができた。この場所からなら、白賢龍の一挙手一投足も目に焼き付けることができる。
 眩しいばかりの装束を身に纏い、抜き身の剣を持っている白賢龍は口を開いた。
「勇者諸君、我が戦友達。まずは言おう。私は君達のことを誇りに思う」
 声は龍のように天に轟き、兵士達は熱狂の声を上げる。
「君達は雨の中雌伏し、今空は晴れ上がった」
 白賢龍は剣を天に掲げる。
「君達の戦う意思が、天の雲さえも吹き飛ばしたのだ」
 再び全兵士が興奮の雄叫びを上げる。
「天さえも青空に染め上げた君達に問おう。この草原を我らの色に染めるのに、何の苦労があろうか。剣を持て、弓を持て、槍を持て、馬を駆れ。行く手に立ち塞がる赤き獣を君達の手で粉砕するのだ。敵の首を刈った者には恩賞を与えよう。功ある者には土地を与えよう。望む者は郡守にも国守にもなれるだろう。私は君達の活躍に目を光らせ、一兵に至るまで、褒美に与らぬ者がないことを約束しよう。君達はその手で人生を掴み取るのだ。君達の前に未来は開かれている。私と共に戦おう。私と共に未来を勝ち取ろう」
 大歓声が上がる。白晴熊も大声を張り上げた。白賢龍が兵士達に手を振る。白晴熊にも手を振ってくれた。やった、俺の姿を見てくれた。白晴熊はさらに声を絞り出す。
 その時、何かが光った。
 遥か離れた草原の一点から矢が放たれたのだ。淡く輝くその矢は、鳥のように風に舞い、華塩湖の砦に向かって飛翔した。草原を越え、兵士達の頭上を飛び、矢は演壇へと向かう。
 白賢龍の視界の中で何かが光った。矢だ。信じられないほどの遠方から放たれた矢が、彼の心臓目掛けて飛んで来る。白賢龍は演壇の上で矢を躱そうとして躊躇する。足場が狭過ぎる。下手に大きく避けると落ちかねない。白惨蟹め、わざとこういう作りにしおったな。白賢龍は苦々しく思いながら剣で矢を叩き落そうとする。剣を振る。剣は矢に当たった。だが、その矢はまるで柳のようにしなり、剣で弾かれながらもさらに直進した。矢が白賢龍の肩口に刺さる。
 白王は呻き声を上げた。その瞬間、紫雲が強く輝いた。

「そろそろ秘術が発動する頃です。既に申し上げました通り、黒陽会には黒円虹様からもたらされた数々の秘術がございます。今回は、空華と紫雲という秘術を使いました」
 馬上で黒壮猿が語る。その言葉を、赤栄虎は背中で受ける。
「どのような秘術だ」
「まずは空華という秘術です。これは黒逞蛙から語らせましょう」
 赤族の騎馬が前に出て来る。乗り手の背中には、憔悴し切った黒逞蛙の小さな体がある。
「せ、説明いたします」
 弱々しく黒逞蛙は語る。何の予備知識もなく、死表を通して黒円虹の姿を見てしまった黒逞蛙は、その日以来精神を少し病んでいる。
「く、空華とは幻。その幻を現実にする御技。空華に人の姿を写し取り、その姿を本人に壊させる。そしてその本人が錬金の力に晒されれば、その本体は幻と同じ運命を辿る」
 形代のようなものか。赤栄虎は、赤族の俗信にも似たような儀式があることを思い出す。ただ、本人自身に似姿を壊させることと、錬金の力を使うことが赤族に伝わっている伝承とは違う。
「それはどんな仕組みでそうなっているのか」
「私共は、黒円虹様に授けていただいた技術を使っているだけです。その仕組みは我々の考えの及ぶところではございません」
 黒壮猿が答える。またか。赤栄虎は溜め息を吐く。黒陽会の信者達は、高い技術は持っていても、その原理には一向に興味を持たない。彼らは、どうすればよいかという問いには答えてくれるが、なぜという問いには沈黙する。
「紫雲については、私の口からお話しいたしましょう」
「話せ」
 黒壮猿は頷く。
「紫雲は矢の形をした、錬金の力を受け取る受信機です。この紫雲は既に赤族に届けております。黒円虹様の予言では、この矢が赤族の手によって白王に放たれます。そして矢は錬金の力を受信して、空華の秘術を発動させます」
「その錬金の力は黒都から送られて来るのだな」
「そうです。錬金の力を大陸各地に送信しているのは黒円虹様です。我ら黒陽会の創始者自らが白王を滅ぼすのです」
「なぜそんな回りくどいことをする。ただ、白王を殺せばそれでよいではないか」
「私達は黒円虹様に尋ねました。最も効果的に次代の王を立てるためには、どのように白賢龍が死ねばよいかと。その問いに黒円虹様は死表を通じて答えてくれました。それが今回の一連の仕掛けなのです。黒円虹様は死表さえ作ればいつでも私達の問いに答えてくれます。今回も私達の問いに快く答えてくれました」
「気に食わんな、黒円虹とやらのやり口は。だが役に立つことは認めてやる」
 赤栄虎の視線の先に、華塩湖周辺の眺望が見えて来た。その視界の中で、何かが強く光った。

 黒都の黒陽宮。
 その天蓋に、矢を肩に受けた白賢龍の姿が映し出された。強い光が放たれ、映像が白く染まる。
 白色の閃光は消え、再び天蓋に景色が浮かぶ。視点が変わった。だが、新しい目も白賢龍の姿を捕らえている。黒円虹が華塩湖にいる人間の意識を次々と走査して、この場の者達に見せているのだ。
 白賢龍の姿が矢を受けた位置から斜めに裂ける。ちょうど広源市の仮王宮で、白王自身が自らの複製を袈裟懸けにしたのと同じ切り口だ。そして、足先から炎が出て燃え上がる。広源市で、白賢龍が空華を焼却したように。
「歴史は変わらなかった。白賢龍は、私の予想通り死んだ」
 何か目に見えない力が輝く矢を通して白賢龍の体に流れ込み、そしてついにはその体を焼き尽くした。後には燃え滓すら残っていない。
「お父様」
 白麗蝶がその場に座り込む。治療半ばで放り出された白大狼は、脇腹を押さえて上半身だけを起こす。その白大狼達を見て、緑輝蝗が不満げに口を開く。
「輝蛍よ。我々は無視をされている」
「折角用意した白楽猫の演奏は、魅力的ではなかったのかしら」
「我々の力がまだ十分に回復していないせいかもしれない」
「あら、お兄様。自分から弱点をばらすなんて、相変わらずお馬鹿さんね」
 白大狼を取り囲んでいた者達は緑輝の存在を思い出した。白大狼は傷を負い、白麗蝶は取り乱している。青遠鴎、青凛鮫、青勇隼、黒健鰐の四人だけで緑輝を相手にしなければならない。
「力が弱っているということは、きっと緑輝の、人を支配する能力の飛距離が短くなっているはず。そして支配できる人数も少ないに違いありません」
 青遠鴎が仲間に自分の推測を告げる。彼の推測を裏付けるように、緑輝兄妹を取り囲んでいる兵の数は数十人しかいない。
「いや、それはいいんだけどさ。どうやって奴らを倒せばいいんだよ」
 青勇隼が両手の剣を構えたまま愚痴を零す。その問いには青遠鴎は沈黙したままだ。
 師匠の白麗蝶と、師匠の師匠つまり大師匠の白大狼の力を頼れない今、この場で最も戦えるのは青勇隼だ。だが、彼には勝つための良案がない。
「こっちを見るな。自分にも策などない」
 青凛鮫が青勇隼の縋るような目を拒絶する。
「当然、俺にも考えはない」
 力自慢の黒健鰐が自信ありげに胸を張る。
 くそっ。使えない奴らめ。青勇隼は心の中で叫ぶ。俺しか頼りになる奴はいないのかよ。だが、考えろ、考えろ。この危機を脱出できれば俺は凄い勇者だぜ。
 青勇隼の頭の中に冒険を始めた頃の自分の姿が浮かぶ。そして次々とこれまでの人生の記憶が頭の中で駆け巡った。やばい。死ぬ前は走馬灯のように昔のことが頭を過るという。俺はここで殺されるのか。
 青勇隼の頭の中で、一つの光景が蘇る。緑輝宮での戦いだ。あの場で白大狼は、金属の兜で頭を覆い、緑輝の支配を逃れていた。
 ここに、何かその代わりになるものがあるか。
 そう考えた青勇隼の目に、巨大な金属の塊が映る。
「黒健鰐、そいつを奴らに向かって倒せ」
 指差した先には、黒円虹の声を響かせていた巨大な箱がある。見たところ金属の塊だ。これで射界を塞げば一気に近付ける。
「任せろ」
 それがどういう意味を持つのかも分からぬまま、黒健鰐は巨大な箱を緑輝達に向かって倒した。青勇隼は駆け、金属の箱の陰から、先程まで緑輝蝗のいた位置に向け跳躍する。空中で、二本の剣を前方に突き出す。緑輝の姿が見えた。幻覚のせいで頭の中が白濁する。しかし、既に勢いは付いている。体当たりと共に青勇隼の剣の切っ先が緑輝蝗の胸に突き刺さる。
「お兄様」
 緑輝蛍が叫ぶ。緑輝蝗は妹から手を離した。そして突撃して来た青勇隼の体重を受け、床に倒れた。二人の手が接点を失い、緑輝の幻覚の力が弱まる。
「ええい、食らえ」
 可愛い声を出しながら、白楽猫は楽器で緑輝蛍の顔面を殴った。緑輝の支配の力から解放されたのだ。緑輝蛍の美しい顔が石榴のように割れる。醜い容貌になった緑輝蛍は白楽猫に向かって手を伸ばした。
「きゃーっ」
 悲鳴を上げる白楽猫の腕を緑輝蛍が掴む。その彼女の胸に短剣が飛んで来た。青凛鮫が投擲したのだ。胸に短剣を受けた緑輝蛍はその場にくずおれた。
「どうにかなるものだな」
 青凛鮫は息を吐く。支配されていた兵士達が我を取り戻す。
「死ぬかと思ったぜ」
 その場で青勇隼は大の字に寝転がる。
「見ろ草原の景色が消えた」
 青遠鴎が声を上げる。天蓋に映っていた景色が消えている。その時、倒れた機械の箱から黒円虹が濁った音と共に声を漏らした。
「残念だ、白大狼。君に私の知識を伝えようと思っていたのだが時間が来た。黒捷狸が私の許まで泳ぎ着いた。私は彼の手によって殺される。そして、私が死ねば錬金の力の送信は停止する。これから話すことが私の最後の発言になる。
 先程も言ったが、私は君のための新たな脳を作って、自分が持っている知識を全てそこに移転させた。また、その場所だけは錬金の力が残り続けるようにもした。君が私の知識を必要とする時は、その場所に行き、私がこれまで貯えてきた知識を引き出すがよい。死に際して白賢龍の意思も錬金の力を借りて余す所なく読み取った。彼の全記憶もそこにある。君が白賢龍の意志を継ぎたいと思えば、それもできるだろう。
 私は人に言われるままに未来を見続けてきた。その中で、ただ二回だけ、自らの意思で未来を変えたいと願い行動した。一度目は、狂騒する黒都の未来を救おうとして黒陽会の経典を書いたこと。二度目は、白賢龍に共感し、彼の意志と私の知識を、白大狼、君に伝えようとしたこと。しかし、二度ともその試みは失敗した。
 もう一度言う。私が完全に死ねば、私が各所に送り出していた錬金の力の送信は停止する。つまり、この黒陽宮は崩壊す……」
 声がそこで止まった。黒陽宮は崩壊する。彼が言おうとした言葉をその場の全員が頭の中で補完する。そして戦慄した。
「黒健鰐、大師匠を抱えて運べ」
「おう」
 青勇隼が立ち上がり、指示を出す。
「白麗蝶様、逃げますよ」
 白楽猫が父の死に打ちひしがれている少女を抱えて階段に向かう。
「船主様、いや青捷狸様は、黒円虹を本当に殺したのか」
 青遠鴎が驚きの声を上げる。
「おい、青遠鴎。いいからお前も逃げるぞ」
 青勇隼は呆然と水上を眺める青遠鴎の手を引き、階段へと促がす。まだ黒陽宮では何も起こっていない。しかし、黒円虹の言葉が想像した通りなら、この巨大な建築物が間もなく崩れ出す。
「青凛鮫とやら、お前も逃げるぞ」
 その場に立ち、必死に水上を眺める青凛鮫にも青勇隼は声をかける。
「先に行ってくれ。俺はこの場の最後を見届ける。先程から、自分がこの場所に辿り着いたことの意味を考えていた。俺はこの場所の結末を見届けるためにここに来た」
「馬鹿野郎、死ぬ気か」
「死ぬ前に逃げる」
「勝手にしろ」
 全員が逃げ、大広間の階段の前には青凛鮫だけが残った。まだ何かある。青凛鮫は水上に浮かぶ島を凝視した。

 草原。
 矢を放った赤荒鶏の周囲で赤族の者達は狂喜乱舞する。どういう原理か分からないが、白王が矢を受け、燃え上がり、消えてしまったのだ。
「どうなった」
 遠過ぎて結果を確認できない黒暗獅が赤眩雉に尋ねる。
「黒暗獅よ。お前が我ら赤族にもたらした紫雲という矢、見事白王を倒したぞ」
 その言葉に、護衛に来ていた外馬兵達が歓声を上げる。だが一人、黒暗獅だけは落ち着き払っている。彼にとってこの結果は当然のものだ。黒壮猿から知らされている予定通りに過ぎない。これから起こることの方が黒陽会にとっては重要だ。
 黒暗獅はその杖で白大国の砦を指し示す。
「今こそ攻め込む時だ」
 既に遠方にいた赤族の軍団も動き出している。
「そうだ。今奴らは混乱している。白大国の兵を一気に蹴散らす時だ」
 赤眩雉が叫ぶ。
「行きましょう。今度は私達が敵を撃破する番です」
 赤爽鷺が告げる。その場にいた馬達が砦に向かって走り出す。自ら放った矢の余韻に浸っていた赤荒鶏もすぐに気持ちを切り替えその後を追う。
 赤族の兵達が、津波のように華塩湖に殺到した。

 矢が飛んで来ることまでは予想できたが、あの死に方は想像できなかった。何はともあれ遂に目障りな白賢龍を敵の手を使い、殺すことができた。白惨蟹はほくそ笑む。
 だが大切なのはこれからだ。浮き足立った兵達をまとめ、赤族の軍を撃破するという仕事が残っている。白賢龍の死で呆然としている兵士達に怒りの感情を植え付け、これからの戦いを赤族への復讐戦と位置付けなければならない。
 白惨蟹は演壇を見た。この上に立てば、己が次の標的になるかもしれない。だが、その危険を犯してでもこの階段を駆け上がる必要がある。白賢龍の後継者として自らを位置付けるためには。
 服の下には鉄の胸甲を仕込んでいる。最悪攻撃を受けても死にはしない。彼は念のために盾を持って演壇の階段を一気に上った。十万を越える兵士が白惨蟹の姿を仰ぎ見る。
「みなの者よく聞け。白王様が敵の手によって討たれた。これは復讐戦だ。草原を赤族の血で染めることによって、白王様の弔いとするのだ」
 人々はざわめく。異郷で国王を失った兵達は、白惨蟹の予想以上に混乱している。兵は動かない。
 白惨蟹は拳を握り締めた。彼の想像以上に、眼下の人間達は白賢龍を慕っていたというのか。だが、ここで兵を掌握できなければ、彼が今後白大国を乗っ取ることなど不可能だ。彼の足元で、兵が一人、二人と砦に向かって逃げ始める。
「赤族に最初の一撃を与える名誉を得たい者はおらぬか」
「わっ、私めにお任せ下さい」
 走り出てきたのは白危貘という千人長だ。普段は兵站を担当しており、前線には出ていない男だ。今なら真っ先に発言しさえすれば手柄を立てられると考え、飛び出て来たのだ。
 白惨蟹は心の中で舌を鳴らす。兵達は雪崩を起こすように砦へと向かって行く。白惨蟹子飼いの軍団長達が必死にこの流れを止めようとする。だが、一度動き出した人の動きは容易には止まらない。これでは戦にならない。
 事実上の殿軍。
 この男を盾にして、砦の中の兵士を掌握し直すしかない。
「他にはおらぬのか」
 白惨蟹は叫ぶ。
 彼の言葉とは別に、無言で赤族に向かい進み始める一団がある。白賢龍が連れて来た、精鋭の騎馬軍団一万だ。
「おお、お前達。赤族を滅ぼすのだ」
 白惨蟹の絶叫に、騎馬軍団の千人長の一人が答える。
「我らが戦うのは白王様のため。白惨蟹殿、あなたのためではない。努々お忘れなさるな。行くぞ」
 怒涛のように押し寄せる赤族の軍団に、白危貘の千人と騎馬軍団一万、加えて白賢龍の死を悼む数百人の者達が向かって行く。白と赤の兵達が激しく激突した。
 天幕の前に立って演説を聞いていた白頼豹と黄清蟻は、人の流れに逆らいながらその場に立ち続けている。
「まさか、あの白王様が死ぬとは」
 黄清蟻は大声で白頼豹に話しかけながら考える。いや、その予兆はあった。白賢龍には死相とも言えるような狂気が宿っていた。
「白王様を守れなかった」
 白頼豹は苦悶の表情で声を漏らす。
「そういえば白頼豹殿、あなたは」
「司表様の部下になる前は、白王様直属の精鋭騎馬軍団に属していた。今、弔いのために、赤族に突撃をした軍団だ。俺は仲間達より白王様に近い位置に立っていた。なのに何もできなかった」
 黄清蟻は白頼豹の肩に手を置く。
「君がいた位置から白王様を救うことは無理だった。そもそも矢に気付いてから演壇に駆け上り、白王様を助けるなど、常人にはできないことだ」
 人馬が混乱しながら天幕の前を通り過ぎて行く。白頼豹は逃げる兵士から武器を奪う。そして馬を一頭無理矢理止め、その背に飛び乗った。
「どこに行く」
「戦場に」
「史表の仕事はどうする気だ」
「白王様のいなくなった今、誰のために歴史を編むというのだ」
「あまねく人民のために。私は白王様と話を続け、あの方のなされてきたことをつぶさに見ている内に、一つの考えに思い至った。白王様は過去を知ることで未来を心に思い描いてきた方なのだ。そしてその未来を現実のものにしようとしていた。白王様は、望む未来を作るために戦っていた。
 例えば、ある場所に向けて、真っ直ぐに続く道を作っていた男がいたとしよう。その男は死んだ。しかし、彼が途中まで作った道が残っていれば、残された人達は、目標の場所が分からなくともその道の続きを作ることができる。未来への道の欠片。それが私達の作っている史表だ。
 私は白王様と何度も話をする内に、そのことが徐々に分かってきた。白王様は未来のある一点を目指していた。そして、私達をその場所に導こうとしていた。史表は、我々を未来に導く道標なのだ」
 白頼豹は、人々の大声の中、馬を激しく回す。
「黄清蟻よ。お前は白王様の望んだ未来のために戦え。俺は白王様の生きてきた過去を弔うために戦う。生きて再び会い見えることがあれば、白王様の望んだ未来を俺にも語ってくれ」
「白頼豹」
「お前は砦へと行け。さらばだ」
 白頼豹は馬の腹を蹴り、戦場へと駆け出した。黄清蟻は砦へと走る。演壇の上では、白惨蟹が逃げる兵達を罵っている。その白惨蟹の頭に矢が刺さった。続けて二本、三本。馬で接近して来た赤荒鶏が放った矢だ。
 白賢龍が死んだ演壇の上から、白惨蟹は落下した。白賢龍は未来を切り開くための剣を持ち、高みのまま姿を消した。白惨蟹は保身のための盾を持ち、無残に地に落ち泥にまみれた。
 黄清蟻は白惨蟹に近づき膝を突く。もう息をしていない、絶命している。砦の近くでは、赤族の軍団と白大国の殿を買って出た兵達とが激戦を繰り広げている。完全な混戦だ。あの中に白頼豹もいるのだろう。
 再び立ち上がった黄清蟻は砦へと入る。生き残った軍団長達の命により、砦の扉が閉じられた。王もいない、目的もない。何の寄る辺もない砦が草原の上にぽつんと立っている。その眼前では戦いが続き、兵士達が屍の山を築いていく。白大国の兵達は、砦の城壁に上がり、頼りなげにその様子を見ている。
 農民出身の黄慎牛も城壁から眼下の死闘を見ている。
「おら達、これから一体どうなるんだろうなあ」
 不安げに声を零す。同様の心境になっているのは黄慎牛だけではない。隣の兵も、その隣の兵も、同じことを思い、身を震わせる。兵士達だけではない。白惨蟹にへつらっていた軍団長や千人長も一緒だ。もし今、目の前に頼れる何かがあれば、それに身も心も委ねてしまいたい。誰もがそう思い、砦の外の光景を眺めていた。
 戦場では殺戮が続いている。
 その混乱の中、敵の総大将の姿を探して百人を率いている男の姿がある。先の戦いで赤堅虎を取り逃した白晴熊だ。
「どけどけ」
 盾で矢を防ぎ、剣で敵を切り伏せて彼は進んでいく。白晴熊は今度こそ功を得る自信があった。彼はこの場の白大国の兵の誰よりも長く、草原での戦いに参加している。敵の衣装を見れば、指揮系統を辿り、司令官まで至ることができる。他の兵では無理だ。彼らには、赤族の兵はどれも似たような軍装にしか見えないからだ。
 白晴熊は敵の密集している所に突撃して数人を切り殺す。敵の一角がわずかに崩れる。その、錐で開けたような穴に部下を突入させて、隙間を押し広げる。徐々に赤堅虎の居場所に近づいている手応えがある。その時、白晴熊の背後で声が上がった。
「あそこだ、あの突破口をお前達も攻めるのだ」
 白危貘の声だ。あの根暗で不快な奴か。白晴熊は舌打ちをする。あの男とは補給物資の受け渡しで何度か揉めたことがある。戦場を知らぬ者がしゃしゃり出おって。思わず顔を顰める。
「横から突け」
 赤族の馬の陰から、外馬兵達が槍を寝かせて突撃して来た。白晴熊の部下の数十人が倒れる。みるみる兵の数が減った。
「退け」
 再び白危貘の声だ。突破不可能と見て、千人の兵を率いて砦に向かう。白晴熊は顔を真っ赤に染める。もう引き返す気か。
 白晴熊は周囲を見渡し、友軍がいないか探す。この部下の数では敵を突破していくことは不可能だ。だが周りに友軍は数えるほどしかいない。赤族の数が前回の戦よりも多くなっている。どこから湧いて来たのだ。
「敵の将の首を取り、白王様の仇を取る。誰か居らぬか」
「ここに」
 文官の服を着て剣を握った男が、赤族を凌ぐ勢いで馬を飛ばして駆けて来る。数騎の精鋭騎兵もその後に続く。白頼豹だ。
「敵将はどこだ」
「俺に付いて来い」
 白晴熊は強引に馬を敵の集団に捻じ込む。すぐに白頼豹達精鋭騎兵が援護する。兵の質が高い。すぐに先に進める。白晴熊の視界に赤堅虎の姿が入った。倒せる。一気に近づこうとする。だが、馬に無数の矢が突き刺さる。体に向かって来た矢は盾で防ぐ。
「赤堅虎覚悟」
 馬は使えなくなった。下馬し、叫びながら白晴熊は疾走する。その怪力で、赤堅虎の周囲の騎馬を馬ごと突き飛ばし赤堅虎の前に立った。
「うおおぉぉぉっ」
 跳躍し、赤堅虎の頭上から一気に剣を振り下ろす。赤堅虎は剣を上げ、白晴熊の一撃を受け止める。甲高い音と共に剣が折れた。赤堅虎の剣先が宙を舞う。白晴熊の刃が赤堅虎の肩から心臓へと落ちた。
「馬鹿な、我が剣が折れるとは。この剣も、わし自身と同様に、長く使い過ぎたということか」
 息子には再び会えなかったな。最後に赤堅虎の唇はそう動いた。
「倒したぞ」
 白晴熊は雄叫びを上げる。これで千人長にも成れるだろう。恩賞にも与ることができる。あとは首を持って生還するだけだ。白晴熊は馬から落ちた赤堅虎に近づく。首を刎ね、数人をさらに切り飛ばし、白頼豹の馬の背に飛び乗る。白頼豹は馬を飛ばす。敵の将を倒した。後は砦に戻るだけだ。
 その時、草原に眩い光が閃いた。
 砦と戦場を包み込むほどの強力な光が突如現れ、そしてゆっくりと収まっていく。城壁に群がっていた者達はその光の発生源に目を凝らす。戦っていた者達も手を止め、その光の源を見る。そこには馬に乗った黒衣の集団があった。その一団が砦に近づいて来る。
 人々は呆然とその一行を見守る。彼らは演壇の前まで来て馬を下りた。その演壇の下では外馬兵の黒暗獅が膝を突き、畏まっている。
「黒壮猿様、お待ちしておりました」
「よく仕事を全うしてくれた」
 黒い外套をまとった黒壮猿は優しく黒暗獅の腕を取る。黒暗獅の持つ杖の先の黒陽会の紋章が微かに震動している。黒壮猿はこの紋章の場所を目指して馬を進めて来たのだ。黒衣の集団から、一人の人物が進み出る。黒い頭巾を目深に被った男である。彼は演壇の階段を上り、その壇上に立った。戦場の全ての人々が彼の姿に注目する。
「白大国の者達よ、赤族の者達よ、そしてこの場にいる全ての者達よ。我が声を聞け」
 その声は雷鳴のように四囲に轟いた。人の出せる限界を遥かに超えた音量だ。音は歪み、空気を引き裂き、大地に反響する。錬金の技術の一つだ。人々はその声に度肝を抜かれる。畏怖の余り、その場に土下座して拝む者まで出る。
「まずは白大国の者達に語りかけよう。君達は王を失った。国を失った。そして故郷に帰るべき方途を失った。大海にたゆたう小舟のように、大草原に迷う子羊のように、君達はその行く末を案じ、その小さな砦の中で家族を思い、袖を濡らすことしかできないでいる。君達は白王の死と共に、大いなる悲しみに直面した」
 城壁で胡座を掻いていた黄慎牛は、おいおいと鳴き声を上げる。この心細い異郷の地で、生まれ育った故郷を思い出したからだ。彼らは自分達のこれからに絶望する。軍は将がいて初めて体を成すものだ。十万の兵がいても、その数を指揮できる将はもういない。白賢龍も白惨蟹も相次いで死んだ。一万の兵を操れる人物が十人いることと、十万の兵を操れる人物が一人いることは全く違う。兵士達はその違いを、自分達の生死の問題として気付いていた。
「君達には故郷が必要だ。国が必要だ。王が必要だ。君達の生命を保証し、将来を安んじてくれる指導者が必要だ。白賢龍は君達のよき導き手であった」
 白大国の多くの者達が哀訴の涙を流す。白王が死んだ今、この遠方の地から無事に戻れる保証も、救援が駆け付けてくれる予定もなくなったからだ。
「次に、赤族の者よ、そして生まれ育った地を追われ、この草原に参集して来た人々よ耳を貸せ。君達は白王に攻め込まれ、その生活を否定された者達だ。君達が望むものは何か。それはあるべきものをあるべき姿にということだ。
 だが時代は変わり、新たな世界が君達の前に現れている。大陸は統一される。そして人々は互いにその居住地を行き交い、融和し、発展する。白賢龍というのは、その最初の現象であった。白族の王が死んでもこの流れは変わらない。
 君達は知らなければならない。これからの時代は大陸を覆う王を否定する時代ではない。君達が望む王を戴く時代なのだ。最初の王は性急過ぎた。そして君達の心を体を家族を傷付けた。二番目に登場する王は君達を保護し慈しみ尊重するだろう。君達はそのような王を得ることができる」
 草原に立っている人々はざわめく。そんな自分達のことを理解してくれる大陸の覇者など現れるはずがない。この演壇に立った人物は何を言おうとしているのだ。人々の目はこの黒衣の人物に釘付けになる。幾分の呼吸を置き、壇上の人物は言葉を続ける。
「君達はなぜ私がこの壇上に立ったのか疑問に思っているだろう。私はここである人物の意志を継承しようとしている」
 彼は壇の下を指差す。その指の先には白惨蟹の死体がある。
「心ない者もこの壇上に立った。だが神の怒りに触れ、地に落ちて死んだ。神とは、この場所で姿を消し、天へと昇った龍だ。白く賢い龍は初めて大陸を一つの国に統一しようとした。彼は天が遣わした現人神であった。
 彼は後継者を選ぶ。誰もがその意志を継げるのではない。私は命の危険を犯し、私がその資格を持つ者かどうかを天に問うためにこの場所に立った。白王よ、私にその資格があると言うのならば、光を我に」
 黒衣の男は天に向け両腕を伸ばす。その場にいる全員が、この男の神がかった一挙手一投足に注目する。演壇の下で黒壮猿が軽く杖を動かす。錬金の力で光を呼び出す。天の一点が輝き、そこから光が降り注ぐ。光は演壇の人物を照らし、そして輝きは彼の両手に吸い込まれるようにして消えた。
 その場の人々が、稲の穂が頭を垂れるように次々と平伏していく。この光景を見た者達は、天がこの人物の問い掛けに答えたと思ったのだ。
 黒い衣を頭から被っているせいで、まだこの人物が何者なのか、みな分かっていない。しかし、天が、白賢龍が、この人物を後継者と認めたと、ほとんどの人がそう思ったのだ。
「待った。俺は認めないぞ。お前は一体何者だ」
 その場の流れを否定する声が上がった。白晴熊だ。声と共に、一頭の馬が演壇に近づいて来る。白頼豹が操り、白晴熊がその背に乗った馬だ。
「私も知りたい。白王様の名を騙るお前が一体何者なのかを」
 白頼豹も馬上、声を発した。
 男は壇上、黒衣を脱ぎ捨てる。その下から、赤い髪と赤い髭の人物が現れた。
「我が名は栄王。かつて赤族族長赤栄虎と呼ばれていた人間だ」
 場は騒然となる。赤族の者達は赤栄虎の帰還を喜び、そして赤栄虎という名を過去の物として扱ったことに様々な憶測を巡らす。白大国の者達は、白王の継承者と名乗り、自分達の安全を保障すると言った男の正体が赤族の男であったことに絶望する。
「ええい、聞け、みんな。この男は赤族の族長。そんな男が白大国の王の意志を継ぐだと。正気の沙汰とは思えん」
 白晴熊は叫ぶ。
「これを見よ」
 赤堅虎の生首を、白晴熊は周囲に掲げる。
「俺は赤族前族長の赤堅虎を討ち取った。白大国はお前の父を殺した。それでも白賢龍の意志を継ぐと法螺を吹くか。みんな口車に乗せられるな。俺がこの男の化けの皮を剥いでやる」
 赤栄虎は拳を強く握り締める。爪が肉に立ち、手の平に血が滲む。
 黒壮猿は壇上の赤栄虎の姿を注視する。どう応じるか。緊張して去就を待つ。その成り行きを見守っているのは、赤族も白大国の兵士も同じだ。全員が赤栄虎の次の言葉に注目する。
「私は既に君達の前で語った。二番目に登場する王は、君達を保護し慈しみ尊重する王であろうと。その君達という言葉には、白大国の兵も当然含まれる。私は君達の生命と将来を保証しよう。そして、我が父の首を持つ者よ。我が軍門に下るのならば、君を価値ある武将として迎え入れよう。戦い、破れたるは戦士の定めだからだ」
 白晴熊は持ち上げていた首を下げ、沈黙する。赤栄虎は口を開く。
「私はここに四つのことを宣言する。一つ、白王の遺志である大陸制覇の事業を引き継ぐこと。二つ、この時より栄大国を興すこと。三つ、我が軍門に下った者には、等しく生命の安全と去就の自由を保証すること。四つ、我と共に戦う者には将来の栄達を約束すること」
 赤栄虎は口を閉じ、周囲を見渡す。後は大きく構え、人が集まるのを待つしか彼にすることはない。集まらなければ、その器が彼にはなかったというだけだ。赤栄虎は澄んだ目で時を待つ。
 一人の男が演壇の下に馬で駆けて来た。馬を下り、大地に膝を突く。予てより、赤栄虎が大陸を制覇することを夢見、自分がその臣下になることを夢想していた赤眩雉だ。
「栄王、私めを臣下に」
「受け入れよう」
 赤栄虎は頷く。
 その後ろに赤荒鶏がやって来た。馬を下り、弓を赤栄虎へと捧げる。
「いつかこの日が来ると思っていました。大陸制覇の事業、この赤荒鶏も、微力ながら協力させていただきます」
 徐々に人が集まってくる。赤族の者、外馬兵の者が、演壇の周りに人垣を作る。赤栄虎は静かに待つ。彼が今本当に待っているのは、白大国の兵だ。一兵でもよい。最初の兵がやって来れば、あとは雪崩を起こすように、我先にと軍門に下るだろう。その一兵がまだ来ない。
「あのー、本当におら達の安全を保障してくれるんですか」
 城壁の上で、農民出身の兵である黄慎牛が口を開いた。
「栄大国は、軍門に下る者ならば、誰でも身の安全を保障する」
 白大国の兵士の間に動揺が広がる。城壁の上の兵達は、狙おうと思えば演壇の上の赤栄虎を狙える。だが、誰も矢に手を触れようとしない。しばらく時間が経ち、華塩湖の砦の扉が開いた。白大国の軍団長達の首が門から投げ出される。扉の奥から、多くの白大国の兵士達が姿を現した。
 黒壮猿は演壇の下で、満面の笑顔でその様子を見る。赤栄虎が、大陸の覇権を握る戦いの第一歩を踏み出したからだ。黒陽会は彼の背中を押し、そして栄大国の国教となり、黒壮猿は大陸を陰から支配するのだ。
 赤栄虎は人々に迎え入れられ、演壇から下りて来た。そして扉へと向かう。この砦を栄大国の物にするためだ。黒壮猿もその後ろに付き従うために一歩を踏み出す。
 黒壮猿は杖を持ち上げ地面に突いた。その瞬間、杖の先端の黒陽会の紋章が砕けた。紋章が落下し、草の上に落ちる。黄金細工の紋章は鉛に変わっている。また、黒壮猿の衣の下から大量の砂が地面へと落ちた。彼は青い顔で懐を探る。死表がない。いや、砕けて砂に変わったのだ。
「どうした黒壮猿、砦に入るぞ」
 扉に入る途中、赤栄虎は振り向き、声をかけて来た。黒壮猿はいつもの笑顔で応じる。黒暗獅の杖の先端の紋章も壊れた。なぜだ。黒壮猿は目の前が真っ暗闇になるのを感じた。錬金の力が失われた。理由は分からないが、彼がその野望の種としていた錬金の力が突如消え失せてしまった。


  九 砂塵

 海都。黒陽会の教会跡地。
 金大家の手によって封鎖されたこの一角に、金大家の家長と供の者がやって来た。
 この場所に人の気配はない。完全な無人だ。
 青新蛇は周囲に耳を澄ます。遠くから槌の音が聞こえて来る。海都はまるで戦の前のように、急速に開発が進められている。
「青新蛇様。そろそろ例の計算結果の時間です」
 青正蛤が相変わらずあらぬ方向を見ながら青新蛇に話しかけてくる。人の顔を見ずに喋るのは非礼と言えば非礼なのだが、彼女の場合はそれが愛嬌になっている。出入りの商人達の評判も悪くない。商談もよくまとめる。
「それにしても、その時間に何か起こるとは到底思えませんけど。誰か部下に申し付けて、後で報告させてもよかったのではないでしょうか」
 眼鏡をかけながら青正蛤は呟く。
「別に付いて来なくともよかったのだぞ」
「んもう、付いて行きますってば」
 青正蛤は不満げに腕を組む。
「よし、地下に下りるぞ」
 数人の護衛を入り口に残し、金大家の一行は死表のある地下へと向かう。
 最奥の部屋に着いた。巨大な黒い石板が、地下室の中で彼らを出迎える。
「いつだ」
「そろそろです」
 暗闇の中、灯籠の火の揺らめきだけが時の流れを感じさせる。何事もなく時間は過ぎていき、青正蛤はぶつぶつと数字を数え続ける。
「あっ、過ぎました」
 部屋には何も起こらない。
「特にこれと言った変化はないな。時間になると、何か変化でもあるのかと思っていたのだが」
 青新蛇は肩を竦める。
「ほら、ですから部下に結果だけ報告させればよいと言ったではないですか」
 青正蛤が長い髪を揺らしながら小言のように言う。
「そうだな。帰るか」
 その時甲高い音がして、石板に亀裂が走った。新たな文字と数字が刻まれたのだ。青新蛇はその文字を読む。黒円虹と書かれてある。この場所への最初の訪問以降、青新蛇は何度か黒華蝦と黒艶狐に会い、話を聞いていた。黒華蝦は余り学がなく、ろくな情報は得られなかったが、黒艶狐は知的な会話ができ、彼女からは幾つかの知識を得ることができた。
 黒円虹とは、その彼らが属している黒陽会の創始者の名前だと黒艶狐から聞いた。
「少し興味があるな。青正蛤、時間を計算してくれ」
「はぁ、分かりました」
 諦めたような仕草をして、彼女は石板に顔を近づけた。数字をざっと読み取り、暗算する。
「青新蛇様。今日ですね。これから一刻も経たない時間ですよ。これも見て行きますか」
「折角だ。待つことにしよう」
「そうやって、ずっと見続けるつもりですか」
「これを見届けたら帰ることにする」
「分かりました。私も待ちます」
 再び静かな時が流れる。闇の中、持って来た灯籠の明かりだけがその場を照らしている。青新蛇はその場で腕を組み、時間を待つ。
 本当は青新蛇はこんなところで時間を潰す暇などないのだ。そう青正蛤は思う。やらなければならない仕事も山積みだし、舟大家との折衝も最近は不調に終わっている。この人は何を求めてこの場に来たのだろうか。
 青正蛤は、揺らめく火の光に照らされた青新蛇の顔を横から見る。暗がりの中、かすんでぼんやりとした輪郭しか見えない。青新蛇は青正蛤の視線に気付いた。
「どうした、青正蛤」
「いえ、何をお考えになっているのかなと思って」
 青新蛇は黒い石板に触れる。
「青正蛤、君はこの石板を見た時、どんな感想を持った」
「数字がいっぱい」
 彼女の答えに青新蛇は軽く笑い声を上げる。
「もう、何ですか。人に聞いておきながらその答えを笑うなんて、失礼ですわ」
 青新蛇は笑いを止める。
「永遠。長き時間に渡り、変わらぬ存在。そのように見えた」
 青正蛤は怪訝な顔で青新蛇の顔を見る。真剣な表情だ。何かを思い詰めているようにも見える。彼女は手の平で自分の細い体をさすった。この場所は日の当たる地上と違って肌寒い。
「そろそろ時間です」
「そうか」
 時間が来た。鋭い音が地下の部屋に反響し、黒い石板を覆うように大きな亀裂が走った。裂け目は縦横に広がり細かく分かれ、その全体を小さく分割していく。鈍い音と共に破片が落ちる。結合を失った石の塊は元の姿に戻ろうとする。砕け、割れ、粉々になり、遂には完全に崩壊する。
 黒い石板はただの砂の山になった。
 その様子を見て青新蛇は笑い声を上げる。青正蛤は心配そうな顔で金大家の家長を見上げる。
「帰るぞ」
 晴れやかな声で青新蛇は言った。
「何が可笑しかったのです」
 その後を髪を揺らして青正蛤が追う。
「あれほど大きく力強く永遠に見えた物も、形を崩し、砂と化した」
「驚きましたね。急に崩れるんですもの」
「全てのものはいつか滅びる」
「そうだと思いますけど」
「海都も滅びる。私が愛した海都はもうないのだ」
「えっ、青新蛇様」
「海都も永遠ではない。黒い石板が砂山になったように、万物は形を変え、違うものになっていく」
「青新蛇様……」
「青美鶴、いや青捷狸の作ろうとしている新しい海都を止めることはできないだろう。今の私にはそれを止める力はない。私は海都の復興から手を引く。私はあの暴動の日を境に政争に負けたのだ」
「……」
「私は考え違いをしていた。何も相手と同じ方法で戦う必要はないのだ。器を作るのは彼らに任せる。代わりに私は中身に当たる人を作るのに専念する。政治という、慣れないことに時間を費やし過ぎた。金大家は金融を通して、海都の人々が培ってきた意志を次の世代に伝える。
 海都の形は変わるだろう。だが、この町が培ってきた自由の気風を大陸全土に行き渡らせることはできる。私は海都の外で生まれ、海都の色に染まった。これから私は新しい闘争を始める。大陸のあまねく場所に海都の金大家の拠点を作り、人々に海都の種を撒く。この街が育てた自由の気風を大陸中に行き渡らせる。海都の色で、大陸を染め上げるのだ。そうすれば形は変わっても私が愛した海都の精神は残る」
 青新蛇は一人微笑んだ。
 金大家一行は階段を上り、地上に出た。太陽の光が、眩しく彼らの目に飛び込んで来る。
「青新蛇様」
 入り口を警護していた護衛の兵士が彼らに恐る恐る声をかけて来た。青新蛇らを地上で待つ者達がいた。
「お暇そうですね」
 女性の声が投げかけられる。青新蛇達はその声の主を見る。青美鶴だ。周囲には護衛や執事、荒事師となった青明雀の姿もある。黒華蝦達から情報を入手してこの場所にやって来たのだろう。
「何をご覧になって来たのですか」
「青美鶴殿、あなたには関係のないことだ。それよりも青美鶴殿、あなたはここに何をしに来た」
「お父様の希望をあなたに伝えるために」
「青捷狸殿の希望とは何だ」
「お父様の願いを聞いていただけますか」
「青捷狸殿の用なら、彼が直接この場に来るべきだ」
「お父様は今は顔を出せない事情があるのです」
 青新蛇は苛立ちを覚えながら青美鶴の顔を見る。
「お父様、お父様、お父様。青美鶴殿、あなたの意思はどこにある」
 青美鶴は暗い顔でぶつぶつと呟く。何を言っているのだ。青新蛇達の許までその声は届かない。舟大家の者達の耳にもその声は伝わらなかった。だが唯一人、青明雀だけが耳を澄ましてその呟きを聞き取った。
「……お父様、お父様、許して下さい。美鶴はお父様の娘です。言われたことを全て守ります。お父様の言う通り何でもします。どんなことでも行ないます。だから見捨てないでください。私を一人にしないでください。私を殺そうとしないでください。……」
 しばらく彼女の独り言は続いた。青明雀は背中に冷たい物を感じる。なぜ今そんな台詞を。そしてこれほど父親を恐れるとは、彼女は一体どんな幼年時代を送ったのだ。明るく華やかな青美鶴しか知らない青明雀は、その言葉に戦慄する。
 青美鶴は突如微笑を浮かべる。
「青新蛇殿。聞いてくださるかしら」
「だから何だ」
 その態度の豹変に青新蛇は露骨に嫌な顔をする。
「新しい海都には、新しい体制が必要だと思うのです」
 青美鶴は、青捷狸のように目を輝かせる。
「新しい体制とは何だ」
「米大家の家長も、塩大家の家長も、布大家の家長も同意してくれました。後はあなただけです」
「だから新しい体制とは何だ」
 三人の大家の家長が彼らの前に顔を見せ、青美鶴に追従する。
「これから大陸には大きな戦いが起こります。これまでの小国対小国、大国対小国ではなく、大国対大国の戦いが。新しい時代には、新しい体制が必要なのです」
「だから聞いている。新しい体制とは何だ」
「意志決定は鋭く、早く、一貫性のあるものが望まれます。そのための体制です」
「何が言いたい青美鶴」
 既に青新蛇は彼女に敬称を付けずに呼び捨てにしている。
「海都の大家は一つに集約します。海大家。それが新しい大家の名称です」
「私はそんなことに同意していないぞ」
 青美鶴は嬉しそうに笑みを浮かべる。慈愛に満ちた微笑みだ。
「あなた方のための執務室を用意しています。私も胸がときめく素敵な部屋なんですよ。黒華蝦や黒艶狐といったあなたの友人達。この街で暴動を扇動した青喧鶯という婦人。そうそう、この街に赤族の軍団を導き入れた青旨鯨という料理人も最近この場所に移り住みましたの。みなさん、とても満足して下さっているわ」
「青美鶴」
 怒りを込めて青新蛇は叫ぶ。舟大家子飼いの荒事師達が現れ、青新蛇達を取り囲む。青美鶴は、美しい蕾のような唇に、白い指をそっと触れる。儚い、悲しそうな目で青新蛇の姿を見る。
「残念ですわ。まさか金大家の家長が老朽した建物の地下室に行き、そこで行方不明になってしまうなんて。金大家のみなさんも、心配していらっしゃったのに。なぜ、あんな場所に行ったのでしょう」
「青美鶴」
 いつもは冷静な青新蛇が髪を振り乱して叫ぶ。その口が布で縛られた。
「青新蛇殿。あなたは使える人材です。もう少し協力的になっていただきます」
 青美鶴は楽しそうに歩き始める。
「さあ、帰って美味しい食事でもいただきましょう」
 その後を舟大家の者達が続く。青明雀はその中で一人、体を震わせながら足を動かしている。とんでもないことに関わってしまった。自分が踏み込んだ世界の恐ろしさに恐怖する。顔を上げて青美鶴の背中を見た。彼女は嬉しそうに歩いている。
 舟大家の一行は用意しておいた馬車へと歩いていく。青新蛇達をさらった荒事師達は逆の方角に向かった。
「青美鶴様」
 青明雀は誰にも聞こえない声で呟いた。少女は舟大家の家長のことを考える。青美鶴の父親の青捷狸、育ての親の青聡竜。この二人が彼女の変貌の鍵を握っている。青美鶴を元の彼女に戻す方法はないのだろうか。
「青明雀、早く馬車に乗りなさい」
「はっ、はい」
 老執事に促がされて馬車の一つに乗り込む。
 調べよう。
 信用できるいろんな人を探して話を聞いて、青美鶴のことを調べよう。
 彼女は小さな胸にそのことを決心した。青明雀は思う。私はずっと青美鶴様の漏らす言葉を聞いて来た。天は自分にその能力を授けた。なぜだろう、今それがやっと分かった。それは、助けを求める青美鶴様の声を、自分が聞くためなのだ。私は人の言葉を聞くことができる。でもそれだけでは駄目だ。そこから考え、自分で動かなければならない。
 馬車が動き始めた。窓には帳が下ろされている。外の景色は見えない。だが、青明雀の目には、往時の海都の景色が映っていた。あの頃の青美鶴をもう一度見たい。彼女は小さな指で拳を作り、震える体を決意の心で押さえ付けた。

「急げ、崩壊するぞ」
 黒都の街を駆けながら青遠鴎が叫ぶ。街の建物に亀裂が走り、巨大な黒い石材が落下して来る。建物の倒壊が、街の各所で起こり始める。
「虫を倒しながらだ。そんなに早く進めるかよ」
 青勇隼が大声を上げる。彼らを含め、残った兵士の数は百人ばかり、残りは緑輝の力により、黒陽宮の入り口で同士討ちをさせられていた。
「とやあぁぁっ」
 白麗蝶も剣を振るう。全員、頭上から落ちてくる石を避けながら入り口の門へと向かう。無理な力で固められた町が、その力を失って崩れていく。
「白麗蝶様、門が」
 白楽猫が前方の巨大な門扉を指差す。全体が泡立ち、無数の砂の糸を地面に向かって引いている。形を失う直前だ。
「全速力で走れ」
 黒健鰐に担がれた白大狼が叫ぶ。扉が倒れ、門の支柱が折れた。城壁が歪み、砕け、砂粒となる。黒都が砂に変わった。白麗蝶を先頭に、百人は門を抜けた。砂が津波を作り、背後から迫る。猛虫をも巻き込んだ巨大な砂の奔流だ。港に辿り着く。港にも緑輝が作った死体の山が散乱している。
「浮都に上れ」
 白大狼が叫ぶ。浮都への階段をみなが駆け上がる。砂の大波が来た。砂の流れは港を洪水のように洗い、階段を折り、大陸周回航路船の何隻かを海の底に沈める。景色を砂煙が満たした。
 海風が吹き、視界が次第に蘇る。
「白麗蝶様、無事ですか」
「ぺっ、ぺっ、口の中が砂だらけだ」
 白楽猫と白麗蝶が生存を確認しあう。
「黒健鰐、大師匠は無事か」
「任せろ、大丈夫だ」
 青勇隼と黒健鰐、白大狼も砂に巻き込まれずに済んだ。
 砂塵が晴れた。浮都の甲板の上には死体の山が広がっている。緑輝の仕業だ。生き残った者達は呆然とする。
「青遠鴎、何を見ておるのだ」
 白麗蝶は、砂の山になった黒都を眺めている青遠鴎に声をかけた。
「青凛鮫は砂の山に飲まれたようです」
 青遠鴎の声を聞き、大広間から帰って来た六人は砂漠にできた砂の山を眺める。黒都は砂山と化した。
「見届ける、と言っていたな」
 白大狼が呟く。
「最後まであの場所にいたのか」
 青勇隼が驚きの声を上げる。
 その時、浮都が傾いた。この巨大な船が沈み始めている。
「何だ。何が起こったのだ。俺の故郷が海に沈んでいく」
 黒健鰐が叫ぶ。
「分かったぞ。黒円虹は彼が死ねば錬金の力が失われると言っていた。そして黒都は解体した。この巨大な島にも、その力が使われていたのだ」
「またか、青遠鴎は全て分かったかのように物事を言うのう」
「解説はいいからさ、青遠鴎。どうすればいい」
 青勇隼が叫ぶ。
「いや、そこまでは……」
 青遠鴎は口篭もる。
「私は黒老珊に大陸周回航路船の修理を依頼していた」
 白大狼が脇腹を押さえながら自分の足で立つ。
「それはどこにあるのですか」
 青遠鴎が尋ねる。
「こっちだ」
 白大狼の先導で、彼らは大陸周回航路船に向かい、その船倉に駆け込む。
 飛沫を上げながら浮都は海中に没する。白大狼達の乗った船は大きく揺れ着水した。揺れが収まった頃、生き残った者達は甲板に移動した。
「おっ、俺の故郷が」
 黒健鰐が力なく声を出す。人々はしばしの間、甲板の上で大陸南西の景色を眺めた。何もなくなった。砂だけが残された。
 しばらく経ち、白大狼が口を開く。
「出港しよう。海都に帰る。青遠鴎、君が船長となり、船を導くのだ」
「えっ、私が」
 白大狼は頷く。青遠鴎は周囲を見渡す。兵士や船乗りはいるが、船を導くべき人材はいない。彼が船長をやるしかない。
「分かりました。私が船長として、この船を海都まで導きます。よーし、みんな出港するぞー」
 青遠鴎は青空の下、力強く声を張り上げた。

 大陸周回航路船は黒都を去り、この地に静寂が訪れた。
 青い海と黄色い大地が、太陽の光の下、鮮やかに輝いている。
 風が吹いた。
 波が砂浜に打ち寄せ、砂が舞い上がる。
 大地に隆起した砂の山が微かに動いた。手が見える。人間の手だ。その指が動き、次に頭が見えた。
「ぺっ、ぺっ」
 砂を口から吐きながらその人物は自分の体を掘り起こす。男は立ち上がった。彼が立っている場所は山の頂だ。景色は一変している。黒塗りの石の都市は砂山に変わっていた。
「逃げ遅れたと思ったが、どうやら助かったようだ」
 そう言った後、青凛鮫はその場に立ち尽くした。白大狼達の姿はどこにもない。港には数隻の大陸周回航路船が残っているが、動いている人の気配もない。砂の波に飲み込まれなかった猛虫達が、そこかしこを歩き回っているだけだ。周囲で動くものは、この虫達だけしかない。この大地に一人だけになってしまったのか。青凛鮫は絶望する。
 その時、砂が動いた。青凛鮫は武器を構えようとして、手元にそれがないことに気付く。
 砂の山から一人の男が這いずり出て来た。その男の姿を見て青凛鮫は緊張する。
「黒捷狸、なのか」
 青凛鮫は彼の姿を直接見たことはない。その壮年の男は、全身が分厚い筋肉で覆われていた。黒衣は着けていない。青凛鮫は複雑な表情をする。唯一、この不毛の土地で共に生き長らえた人物がこの男だとは。
「お前はこの私に感謝すべきだぞ」
 黒捷狸は割れた瓶を青凛鮫に投げて寄越した。
「何だこれは」
「お守りだよ」
 青凛鮫は訝しがる。
「砂に埋っていたとはいえ、猛虫に襲われなかったのはなぜだと思う」
 そう言われてみればそうだ。青凛鮫は周囲を見渡す。
「航海の途中、よい虫除けが見つかったので携帯していた。それが幸いしたようだ」
 黒捷狸は、砂の中から枯葉を取り出し、握り潰した。
「何ですかそれは」
「緑輝の体に巣食っていた緑輝蔦という植物だよ。元々防虫効果のある草だと白大狼に聞いていたので、黒都に行く際に懐に忍ばせていた」
 青凛鮫は周囲を見る。砂に紛れて葉や蔦が散らばっている。
「まあ、そんな物を持ってくる必要もなかったかもしれないがな。あの大広間に、緑輝が現れたのは完全に予定外だった。この近くに緑輝の死体も埋っているだろう」
 黒捷狸は砂を蹴る。
「予定外と言えば、最大の誤算は錬金の力の喪失による黒都の崩壊だ。黒円虹の話を聞いて、あの化け物を殺した場合に錬金という大系が使えなくなることはは予想できた。だが、錬金という大系が失われても、黒都にはその他の高度な知識が無数にある。その知識を得さえすればよい。そう思っていた。この街自体が砂と化し、黒都の叡智が全て埋まってしまうとは夢想だにしなかった」
 苦笑しながら黒捷狸は周囲を見渡す。こうなることが事前に分かっていれば、黒円虹を殺さない策も考えた。だがもう遅い。砂の山を掘り、文献を探す手もあるが、それも人手と時間が必要だ。
 二人は砂山の上で風に吹かれる。
「そうだ、白大狼様達は砂に飲まれて死んでしまったのか」
 青凛鮫は思い出したようにそう呟いた。
「いや、生きているはずだ。人の気配がないことから考えて、いずれかの船に乗り、この地を去ったのだろう」
「なぜ、そんなことが言える」
 先程まで黒捷狸は青凛鮫と共に砂に埋まっていた。そんなことを知る術はない。
「少し考えれば分かることだ。黒円虹は白大狼にこう言った。必要な時はその場所に行き、私がこれまで貯えてきた知識を引き出すがよいと。未来を読むことができる黒円虹が、この場で死ぬ人間にそんな言葉を投げかける訳がない」
 確かに。青凛鮫は頷く。
「付いて来い」
 黒捷狸は腰から剣を抜き、小山を下り始める。
「自分の命を助けるのか」
「海都までの航海は長い。わし一人であの巨船を動かすのは骨が折れる」
 司表の部下の青年は黒捷狸の背中を追う。
「青凛鮫よ、青聡竜の部下を辞め、わしの部下となれ」
「えっ」
 青凛鮫は足を止める。
「わしはこれから海都に帰り、白大狼を手なずける。そしてわしに対する裏切りができない状態にしてから黒円虹の知識を引き出させる。黒陽宮では工作する暇がなかったからあの男を殺害しようとしたが、時間さえあれば籠絡することも可能だ。この砂山の底の知識は、別途発掘隊を組織して掘り出すことにする。だがこれは、白大狼を操れない場合の備えでしかない。ばらばらに散らばった書類から意味ある情報を得るのは困難を極めるだろうからな。白大狼を支配する方が遥かに情報は得易い」
「だっ、だが白大狼様は、あなたが彼の仲間を切り殺したことを知っている」
「どうせわしは海都に帰っても表には出ない。裏から糸を引くだけだ。白大狼の相手はわしの娘が行なう」
「青美鶴様か」
 黒捷狸も立ち止まり振り向く。
「そうだ。わしは表立っては動かん。だから手足が必要だ。口が堅く、事情を知り、行動力があり、そして生き残るだけの運のある男。青凛鮫、わしの下で働け」
「し、しかし」
 青凛鮫は逡巡する。
「まあよい。航海は長いのだからな。ゆっくりと考えればよいだろう。あたら命を粗末にするな」
 応じぬ場合は殺すと言うことだ。当然だろう。
「港に沈没していない船が残っている。さあ行くぞ」
 黒捷狸は港を指差し、再び歩き始めた。その後を青凛鮫は追った。


  十 移動

 広源市から一日ほど開喉丘に近づいた場所に白緩狢の本陣の天幕はある。赤栄虎を追って広源市周辺までやって来た白緩狢は、広源市に入ることも許されず、城壁の外で野営をさせられていた。白惨蟹の一派の露骨な嫌がらせだ。白賢龍が広源市を離れている今、白惨蟹の賛同者達は白緩狢を徹底的に排除するように扱った。白惨蟹が白緩狢を嫌っていることを、周囲の者達もよく知っていたからだ。
「困りましたね。まだ見つかりません」
 もう赤栄虎は山脈を通り過ぎているかもしれない。まだ彼が見つかっていないことを、白賢龍に伝えるための使者は送った。山脈を越えて探索の手を伸ばしたいが、草原は白惨蟹の担当地域だ。白惨蟹は手下達に厳命している。白緩狢が山脈を越えることを徹底的に妨害し、認めないようにと。
 このままでは手詰まりだ。白緩狢は天幕の奥で苛立ちを募らせる。せめてもの心の安らぎは、青聡竜が赤栄虎を追って草原へと立ち去ったことだ。
「白緩狢様、閉腸谷から早馬です」
「どうした」
 伝令に声をかけ、天幕を出る。伝令の顔が青い。
「白緩狢様、天幕の中で」
 何か重大なことがあったのだ。白緩狢は他人に聞こえないように伝令と天幕の中に入る。
「白王様が崩御されました。また、白惨蟹様も薨去されました。残った兵の多くは赤族の族長赤栄虎に下り、敵兵の数は十数万に膨れ上がっています。赤栄虎は栄大国の興国を宣言し、閉腸谷に向けて侵攻を開始しました。白王様直属の精鋭騎馬兵が数騎その場を脱し、その報を閉腸谷にもたらしたそうです。閉腸谷は動揺し、脱走兵が相次いでおります」
「それは本当か」
 白緩狢は信じられないという顔をする。何をどう間違ったらそういう結果になると言うのだ。
「早馬は留め置いているか」
「はい、人馬共に疲れ切っておりましたので、次の馬を出すということにして情報を止め置いております」
 白緩狢は伝令の判断を誉める。
「白緩狢様、広源市から早馬です」
「今度は何だ。天幕に入れ」
 伝令が飛び込み、白緩狢に耳打ちする。白緩狢は目を見開いた。広源市で民衆の反乱が起こり、守備の軍団長が殺されたという報告だ。広源市の黒陽会がその反乱を主導したという。広源市は黒陽会の手に落ちた。何ということだ。後背の補給もなしで、山脈を越えてくるであろう赤栄虎の軍団十数万を相手にすることはできない。
 彼が今まで考えていた、全ての前提が覆ったと言っても過言ではない。
 どうする。白緩狢は頭を巡らす。
 彼の頭に、一人の人物の姿が浮かび上がった。白王。白賢龍である。彼が戴いていた王は、卑賤の生まれから身を起こし、学僧市で頭角を現わし、国を興し、大陸を覆うほどの王になった。
 次に頭に思い描いたのは白惨蟹だ。彼は白王の部下として立身し、その実権を奪い一頭地を抜く人物となろうとした。白大国の中枢で軍団長を務めてきた白緩狢にはそのことが分かる。
 私が同じことをして何が悪い。
 白緩狢は思う。今、白賢龍と白惨蟹の死を知っているのは自分だけだ。これは、彼が白大国の実権を握る、唯一にして最大の好機だ。最善の策は、赤栄虎を倒し、白王の仇を討ち、その後継者であることを内外に示すこと。だが、そのための軍事的基盤はない。まず後背の補給がない。それに前面の敵は勢いに乗っている。そもそも敵の数は自軍より二倍以上大きい。
 次善の策は、誰よりも早く白都に帰り、次の王の後見人となることだ。白惨蟹が用意していた人間がいる。白安豚という毒にも薬にもならない人物だ。白賢龍の妹の娘の息子にあたる十歳に満たない少年だ。愚鈍なため、才気を愛する白賢龍から疎まれているが、白麗蝶も白大狼も白都を離れている今、王位に就け、背後から操るには最適の相手だ。白惨蟹の息がかかっているため、誰も恐れて近づかなかったが、今はその後ろ盾の白惨蟹もいない。
 自分のことを誰よりも嫌っていた白惨蟹と同じことを私はしようとしている。白緩狢は思わず自嘲する。だが、それが成功するかどうかは、部下の将達が自分を支持してくれるかどうかにかかっている。一人では、この考えも画餅に過ぎない。
「軍団長と千人長を全て呼べ。軍議を行なう」
 白緩狢は緊急の軍議のために将を天幕に呼んだ。司表の部下である白秀貂は、この軍議には呼ばれなかった。

 兵達に情報が漏れないように、厳重なる警備の下で軍議は始まった。白賢龍の死、白惨蟹の死、広源市の落城、赤栄虎の帰陣、華塩湖の砦の降伏、栄大国の建国、十数万の軍勢の侵攻開始、閉腸谷の無力化、そして白麗蝶の失踪とその後の白大狼の追跡による二人の不在。白緩狢は、今この白大国が非常に危うい状態にあることを包み隠さず将達に告げた。
 あまりの出来事に場が騒然となる。誰もが予想していなかった事態の出現に天幕の中は混乱に陥る。
「軍団長に千人長諸君。私は君達に騒いでもらうためにここに呼んだのではない。何をすべきかを話し合うために、この場に来てもらったのだ」
 白緩狢は毅然とした態度で一同を見回す。
「大切なのは、我らが何をすべきかだ」
 ゆっくりと白緩狢は告げる。諸将はようやく我を取り戻した。
 天幕は静まり返る。その沈黙を破るように、軍議の席の中ほどから千人長の白弱鴇というやや頼りなげな人物が立ち上がった。
「白大国を救うためには、逸早く新たな王を立てる必要があると思います」
 序列を無視した突然の発言に全員が色めき立つ。
「よい。君は、確か白弱鴇と言ったな。話を続けたまえ」
 まるで、白弱鴇という男を知らないような口振りで、白緩狢は発言を続けるようにと促がす。
「このように王位継承者が不在の時のために、白賢龍様の血筋の皇子白安豚様を、白惨蟹様が育てているという話を聞いたことがあります。白大国は現在未曾有の危機です。この時期に王位の空白は非常に危険です。この皇子が迅速に新しい国王として就き、国の結束を固める必要があるでしょう」
 場には白安豚の存在を知らない者も少なからずいた。事情に詳しい者が隣席の者に説明を加え一同その事実を共有する。
「しかし、この皇子白安豚様は後ろ盾となる白惨蟹様を失ってしまいました。王位を安定させ、国の機能を素早く取り戻すには、新たな後見者が必要でしょう。白緩狢様、今すぐ白都に引き返し、白安豚様をお助けすべきです。また白安豚様を安んじるためには、白緩狢様に、白惨蟹様にも劣らぬ将士が付き従っていることを示す必要があるでしょう。後見人となる白緩狢様の重さが、そのまま白大国の安定に繋がるのです。
 幸い私は資産を持ち、千人の兵を白大国に奉じ、私自身も白大国のために戦ってきました。その白大国の忠実な臣である私が、この国の危難を救うためには何をすればよいかということを考えました。その最良の答えがこれです。私の兵と将と土地と財産と私自身を全て白緩狢様に献じます。白緩狢様、あなたの手で白安豚様の王位を確実なものにしてください。そして白大国を分裂からお救いください」
 その場の利に聡い者達は、白弱鴇の言葉の真意を直ちに悟り、自分達も同じ考えであることを表明した。
 彼らは白弱鴇の言葉で気が付いた。この好機を捕らえ、白緩狢を一派の頭として押し上げることが、自分達の権力を大幅に増大させることを。また、それを実現するためには、白緩狢の下で彼らが一枚岩にならなければならないことを。そして、団結と忠誠の意思をどれだけ示せるかが、今後の栄達に直接関わることを。
「私めの兵も、白大国のために白緩狢様にお預け申す」
「白緩狢様、白大国のために、あなたに我らの命をお預けする」
 利には疎いが、白大国のために、という言葉と周囲の熱気に煽られた者達が続いて発言した。彼らの反応を確かめ、白緩狢は厳かに口を開く。
「兵にはこのことはくれぐれも内密に。白大国に反感を持っている者に、これらの事実が漏れるかもしれない。また、兵達が動揺する可能性もある。これからすぐにこの場を発ち、白都に向かう。軍議は以上だ」
 軍団長と千人長達が、それぞれの思惑を胸にその場を立ち去った。西からの伝令は秘密裏に始末され、すぐに陣が引き払われ、東への強行軍が始まった。

 その日の夜。
「若様、納得いきません」
「これ白恐蝮。声が大きい」
 白弱鴇の天幕で、彼の部下の白恐蝮が声を上げた。全財産を白緩狢に賭け、大国の実権を握る政権争いに打って出るなど、この気弱な主人白弱鴇に全うできるわけがない。空恐ろしいことだ。そう白恐蝮は考えた。
「白恐蝮。これは君のためでもあるのだよ。君は私のためによく働いてくれた。だが、私の下では百人長止まり。君はもっと大きな舞台で戦を行なうことができる能力を持っている」
「一体、どういうことですか」
 訝しげに白恐蝮は白弱鴇の顔を見る。
「白弱鴇様、来客です」
「入っていただきなさい」
 頭巾を目深に被った来訪者が天幕に入って来る。男は頭巾を取り、いきなり用件を切り出してきた。白緩狢である。白恐蝮は慌てて平伏する。
「ここには二つの目的があって来た。まずは一つめだ。白弱鴇。君に礼を言わなければならない。君の言葉は百万の軍勢よりも価値があったよ」
 白弱鴇は嬉しそうに頷く。
「次に二つめだ。白恐蝮。一万の兵を率いる心積もりをしておけ。これから白都に向かい、赤栄虎迎撃のために幾つかの軍団を新設しなければならない。私の子飼いの将が必要だ。君には軍事の才がある。この言葉の意味を考えておいて欲しい」
 白恐蝮は突然の言葉に頭が混乱する。
「いずれまた白都で」
 そう言い残し白緩狢は再び頭巾を被り、天幕を去った。
「わっ、若様。どういうことなのでしょうか……」
 自信なさげに白恐蝮は主人に問う。
「白緩狢様は、あの方に忠実な軍団長が必要だと言われたのですよ」
 軍団長。一万人を操る、白大国の軍事の頂点に当たる官職だ。白恐蝮はその言葉に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。もし本当ならば、軍人としてこれほど興奮することはない。

 東から西へ、街道を昼夜を問わず走り続ける男がいる。白都を抜け、広央市を通り、今は広源市を目指して進んでいる。その彼の前に、白大国の兵が現れ、強行軍の速度で駆け抜けて行く。
「あの、青聡竜様をご覧にはならなかったかい」
 手近な兵を捕まえ、上司の居所を知っているか尋ねる。十人目でその所在を確認できた。青聡竜は草原に向かったという。
「草原か。まだまだ遠そうだな」
 白太犬は大きく溜め息を吐いた。馬にも乗れず、だからと言って走る以外の交通手段を思い付くほどの器量もない彼は、ひたすらこの川沿いの街道を走り続けて来た。
「青聡竜様、お待ちください。すぐに追い付きます」
 自分を励ますように唱え、彼は再び西に向かって走り始めた。

 草原の草が揺れる。
 輝瞬草、と赤善猪に命名された草は、鋸瞬草を駆逐してその生存地域を拡大した。そして最後には、全ての鋸瞬草は輝瞬草に置き換わった。輝瞬草という子は、鋸瞬草という親の目指した草原制覇を引き継ぎ、世界を変えていく。
 草原は広い。その四分の一ほどの面積を埋め尽くした後、輝瞬草は急に拡大を終えた。爆発的な増殖はその役目を終えたかのように止まってしまった。
 草原の大地の上を風が吹き抜けた。
 輝瞬草は互いに何かを伝え合うかのように光を明滅させる。一ヶ所の点滅が周囲に広がり、その光が複雑に分岐しながら草原全体を覆っていき、最終的に元の位置に戻って来る。そのような、まるで波のような光の伝達が広い大地の上で無限に繰り返される。
 まどろみの光の漣が、草原の表面を輝かせる。
 白賢龍の撒いた鋸瞬草の種は、黒円虹の錬金の力を受け輝瞬草に成長した。そして今、光の海を作り、ある人物の訪問を待っている。
 世界に暮らす者達は、みなそれぞれの生を全うしながら世界をそして自分を変えていく。そして次の世代にその意思と記憶を残していく。
 輝瞬草は白大狼を待っている。ここには錬金の力が残っている。
 草原と平原の境界に視点を移す。
 大陸の西に住む幾つかの部族が、この草から押し出されるようにして東に向かった。輝瞬草のある場所では、彼らの生活基盤である遊牧は営めない。
 人の移動は次の移動を呼び、押し出されるようにして草原から人々が動き出す。そして山脈を越え、幾つかの場所から赤族が平原に染み出した。大陸で民族の大移動が始まった。
 草原の民は、平原の民と交じり合い始めた。


第四回 了


Cronus Crown(クロノス・クラウン)のトップページに戻る
(c)2002-2024 Cronus Crown (c)1997-2024 Masakazu Yanai
ご意見・お問い合わせはサイト情報 弊社への連絡までお願いします
個人情報の取り扱い、利用者情報の外部送信について