PBeM 史表(しひょう)

第5回

柳井政和
ver 0.03 2005.09.05
ver 0.02 2005.08.18
ver 0.01 2005.07.16(公開)

目次

  一 約束

 暗い世界のなかで音が聞こえる。
 波の音。
 彼は海を思い浮かべる。海は時とともに変化する。潮は満ち、そして引く。天空に浮かぶ月が海を空へと引き寄せる。それは巨大な天体による引力のなせる業だ。
 人類のなかにも引力を持つ者がいる。歴史を大きく変える者だ。強い重力を持ち、周囲の人々を引き寄せ、世界をも巻き込んでいく。彼が知っているその人物は、白く輝く星の姿を取っていた。
 光が揺れる。光は星だ。天空の星空は渦を巻き、銀河を作る。その光の渦を抜けた先には光の園があった。大地を覆う眩い光。数え切れないほどの光点が辺り一面を満たしている。
 黄金に輝く光の波のなか、白大狼は白い衣をまとった男の背中に視線を注いでいる。浮遊感を感じた。音はない。風が吹き、金の穂波が光と影の模様を作る。
「……」
 声を出そうとしたが口から音は漏れなかった。そういう夢なのだろう。どこからかそのような声が聞こえた。目の前の人物は白賢龍だ。歴史を導こうとして、その途上で死んだ男。
「大狼よ」
 懐かしい声が響いた。間違いない。自分の伯父であり、白麗蝶の父親であった人物の声だ。
「歴史を作れ。その道標は示した。次はお前の番だ」
「……」
 問い掛けようとするが、声は空気を震わせない。白賢龍は背中を向けたまま光の波の奥へと歩きだす。追い掛けようとした。だがどれだけ足を動かしても追い付けない。まだ聞きたいことはたくさんある。なぜ自分なのか。自分は白王の遺志を継ぐのに相応しい人物なのか。
「……」
 叫びは虚しく口の中で消える。視線の先の男が白い光に変わる。瞬く輝きに変わり、無数の黄金の光の海のなかに埋没する。海から生まれた生命が、億年の旅のうちに母なる海に戻るように、歴史から生まれた男が、過去という名の歴史の一部になった。白大狼の視界は瞬く光で満たされる。その光のなかから白賢龍を探すことはできなかった。彼は死んだ。白王はもういない。
 目尻を伝う涙を感じた。それは夢のなかの感覚ではなく、現実の肉体の感覚だ。光が滲んでいる。手を動かし涙を拭いた。無数の光が目に映る。星空だ。体がゆるやかに揺れている。波の音に混じり心地のよい笛の音が聞こえる。彼は目頭を強く押さえ、そして起きあがった。
 湿気を含んだ夜の海風が白大狼の体から夢の残滓を取り除く。満天の星の下、大陸周回航路船の甲板に立ち、笛の音色の源に目を向けた。白楽猫だ。そして彼女の近く、帆柱の根元には膝を抱えた少女の姿があった。白大狼は歩きだす。そして幼い従妹の傍らに膝を突いた。
「分かっておる大狼」
 少女の声が聞こえた。
「お父様が死んだ今、戻れば王位継承の争いが待ち受けている。そして私はその政争に勝たねばならない。私が王位を継ぐのはお父様の望みだ。私はお父様が目指した未来を見てみたい。そのためには、くよくよしてはいられない。分かっておるのだ」
 顔を帆柱に向けたまま、少女は毅然とした口調で告げる。白大狼はその姿を静かに見つめる。船が揺れ、風が吹いた。
「なあ大狼」
「なんでしょうか」
 彼は既に、少女のことを王として扱いだしている。
「この航海が、私がお父様の死を悲しむ最後のときなのだ。だから頼む。泣く私を責めないでくれ」
 少女の肩は震えている。いつもの存在感はなく、消え入るほど小さく感じられた。大狼は優しく体を包み、顔を胸にうずめてやる。すすり泣きの声が漏れた。白楽猫の笛の音が少し大きくなる。少女の泣き声が周囲に漏れぬよう、楽人は曲を奏す。
「麗蝶。賢龍伯父さんが望んだ世界を二人で見ましょう。伯父さんは、あなたにその世界を見せたいと願っていました」
「大狼。それは素晴らしい世界なのか」
「ええ、彼ほどの人物が一生をかけて追い求めた世界ですから」
 白大狼は静かに告げる。
「私は史表を読み、その先に何があるのかを知りたいといつしか考えるようになりました。そしてそれが素晴らしい世界であることを黒陽宮のなかで確信しました。彼の望みを叶えたい。それは、あなたのためだけではないのです。私の願いでもあるのです」
 白麗蝶は目に涙を浮かべたまま、顔を上げて白大狼に笑顔を向けた。
「どうしたんですか麗蝶」
「ううん。大狼が、私の前で自分自身の希望を口にしたのを初めて聞いたから」
 彼は頷いた。旅が白大狼という男を変えた。白麗蝶は、師であり従兄であり婚約者である男の背中に手を回す。いまだ短いその腕は彼のたくましい体を抱え込むことはできなかった。
 青年は少女の背中に手を当て、頭を撫でる。
 波の音のなか、心地よい音色が船を包む。軽やかな曲とともに、船は波間を過ぎていく。


  二 簒奪

 砂煙を上げ、五万近くの軍団が白都に入った。一行のなかには白都の防衛を担っていた軍団長もいる。白都に残された守備兵は突如白都に帰還した大軍を何も疑わずに城門から入れた。
 白緩狢は数人の軍団長や千人長とともに、精鋭の兵を率いて白安豚の住む邸宅へと向かった。その建物は白惨蟹子飼いの兵が守っている。襲撃は深夜に行なわれた。警護兵達は軍団長達が兵を率いて攻めて来ると考えていなかった。彼らは姦計にはまる。白緩狢は兵を二隊に分け、一隊に屋敷を襲わせ、その危機を救う救援という名目で建物内に兵を送り込み、そのまま制圧した。こうして白緩狢達が白都入りした翌日には、白安豚は白緩狢達の手に落ちた。
 三日後。白賢龍の死と、白安豚の王位継承が電撃的に発表される。この時期には白緩狢配下の百人長まで意思の疎通が図られ、白都の要所要所には警備兵が置かれ、無用な混乱が起こらないように手が打たれていた。全ては速やかに行なわれた。そして西の地に強大な敵が誕生し、白大国の結束がいかに大切であるかが声高に主張された。過去の多くの国がそうであったように、国内の混乱を静めるために、戦争の二文字が使われた。
 白大国の各都市には伝令が放たれる。伝令の多くはそれぞれの地に地縁を持つ百人長、千人長達だ。彼らは白緩狢に忠誠を誓い、その言葉を行為で示そうとした。白弱鴇も馬車に乗り、自らの故郷に走る。
 政治の安定には、圧倒的な軍事力が必要となる。白緩狢はすぐにこの面でも手を打った。新たな兵の徴募と、新規の軍団の編成だ。そしてその軍団長に、彼に協力した百人長、千人長のなかから有能な者を選んで就けていった。既に声を掛けてあった白恐蝮もこのとき軍団長に抜擢される。
 目まぐるしく日々が過ぎていく。いきなり王位に就いた白安豚は不安そうな顔で謁見室にいる。その斜め前に立つ白緩狢が鋭い声で次々と指示を出す。白安豚は耳を使うことも口を使うことも許されなかった。彼の耳の代わりは白緩狢で、口の代わりも白緩狢だった。白安豚は玉座に据えられたただの肉塊だった。彼は不満を一切漏らさない。怯えることだけが彼の仕事であるかのように震え続ける。そのような人物であるからこそ、彼は白惨蟹に見出され、そして白緩狢に歴史の表舞台へと引きずり出された。
 即位の儀の数日後。白都内の図書館の入り口に一人の黒族の少年が立った。この建物には学僧市に収蔵されていた典籍が引き継がれている。それらに加え、白王が内外から集めた文献も収められている。黒髪の男は入り口を抜け、館長室へと向かった。
「白大国、白緩狢付き参謀部の黒醇蠍だ。今から述べる資料を出せ」
 館長は椅子の上からその少年の姿をちらりと見上げる。白緩狢と言えばいまや時の人だ。その参謀部の人間ならば直属の部下になる。彼は立ちあがる。少年の顔や腕には刀傷や矢傷の跡があり、目には幾多の死線をくぐり抜けてきた者だけが持つ鋭さが宿っていた。
「どういった文献を御所望でしょうか」
「錬金」
 その言葉に、かつて学僧市にいた老人は少しだけ反応する。
「それと、黒陽会について」
 館長の指先が微かに震えた。
「白王様は崩御なされたのですよね」
「何を言っているんだ。あなたは発表を聞いていないのか」
 老人は暗い顔で黒醇蠍を見る。
「ならば、現王の許可証をもらってきてください。それが規則になっていますので」
「本を借りるだけなのに、わざわざ陛下の許可がいるというのか」
 違うと館長は言う。
「白都の図書館には、三種類だけ、閲覧に王の許可の必要な文献が存在します」
 黒醇蠍は興味を持つ。
「それはいったい何だ」
 館長室には老人と少年の二人しかいない。館長は周囲を気にするように呟く。
「一つは錬金。一つは黒都。もう一つは死表についてです」
 少年は幼い頃の記憶を呼び起こす。彼は両親とともに、白大国の小さな村で生活していた。父親と母親は黒陽会の敬虔な信者だった。祖父や祖母は黒都に住んでいたという。その頃の話や、黒円虹という神の話、死表についての話は何度も聞いたことがある。だがこのような話を聞いたことのある人間は大陸のなかでもほんの一握りだろう。黒都から散らばったわずかな者だけがこれらのことを知っている。
「錬金、黒都、死表……」
 彼は呟く。その言葉に驚いたのではない。白王という偉大な王が、それらの知識を重要な情報と見なしていたことに驚いたのだ。
「白王様は、それらの情報を集めていたのですか」
 館長に尋ねる。若い軍人の態度の変化を疑いながらも、老人はゆっくりと頷く。
「いったい白王様は、何を考え、何をしようとしていたのか……」
 黒醇蠍の頭のなかに、数々の疑問が浮かんでくる。
「恐らく、史表に関係することだと思いますが」
 司表とその配下の白頼豹、白秀貂の顔が浮かぶ。青聡竜は白王の命を受け、歴史書の編纂を行なっていた。その歴史書と黒都とのあいだに関係があるというのか。だが彼にはそれ以上は分からない。
「白安豚様の許可が必要なのですね」
 少年の丁寧な口調に館長は顎を引く。
「それではすぐに許可を得てきます」
 黒髪の軍人は館長室の扉を開け、図書館の外へと向かった。


  三 東進

 華塩湖より出発した大軍が東を目指して進んでいる。ただの移動ではない。軍事訓練を行ないながらの進軍だ。栄王の率いる軍隊は、数だけは多かったが雑軍だった。それを戦力に変えるには訓練と経験が必要だ。精鋭一千騎を海都への遠征で失った赤栄虎はそれに代わる新たな武力を求めていた。連日の訓練は兵達に考える隙を与えず、次第に彼らは栄王を唯一絶対の君主として崇め始めた。
 白大国を捨てることで地位を得た人物もいる。赤族には戦闘に長けた者は多くいたがそれ以外については素人しかいなかった。国を運営し、巨大な軍隊を動かすには専門の職能を持った人間が多数必要になる。白惨蟹の下で兵站担当の千人長をしていた白危貘は栄大国を選び栄達した。十万の軍団の物資管理を行なっていた実績を買われ、栄王に忠誠を誓った彼はいきなり高官として待遇された。軍団長級だ。今までの白大国での扱いとの差に彼は驚く。周囲の羨望の眼差しに晒され、白危貘は自分の時代がやって来たことを感じた。
「栄王は素晴らしい」
 この日何度か漏らした台詞を、白危貘は同じ馬車に乗っている人物に向かって告げた。司表配下の黄清蟻は苦い顔をする。外で戦闘に参加した白頼豹と違い、砦に向かった黄清蟻は逃げ遅れ、栄王への忠誠と死とどちらを選ぶか問われたのだ。
 白危貘は黄清蟻の表情に気づかずに笑みを浮かべ続ける。黄清蟻は周囲を見渡す。白王は死んだ。史表編纂という仕事が白王の足跡を残すことを真の狙いとするならば、これから先の情報収集に何の意味があるのだろうか。だが白王は史表の写本を作り、世間に流布させることを望んでいた。白王を継ぐ者がいるかもしれない。その人物のために、自分が見聞きした情報は必ず役に立つ。そう考え彼は生きる道を選んだ。
「なあ、君は黒壮猿という人物をどう見る」
 急に発せられた質問が自分に向けられたものだと気づくのにしばし時間が掛かった。
「あっ、私に対しての質問ですか」
「当然ではないか」
 白危貘の表情がいつもの暗いものに戻る。黄清蟻は慌てて頭を巡らせる。
「広源市での、黒陽会の市庁舎買い取りの件を覚えていますか」
「ああ」
「黒壮猿は、その黒陽会の指導者です」
「ふむ」
 二人は押し黙る。奸物だろう。それは容易に想像が付く。
「広源市の黒陽会の教会で話を交わしましたが、穏やかな口調でしゃべっていたことが記憶に残っています」
 白危貘は黄清蟻の目を見る。
「旧知の仲なのか」
「いえ、そのとき一度だけですので」
「だが、互いに覚えている」
「か、どうかは分かりません。私のように黒陽会の教会を訪れた者は無数にいるでしょうから」
「君には私にない黒壮猿に対する縁がある。ぜひ彼に私を紹介して欲しい」
「何のためにですか」
 彼は目を逸らす。
「この栄大国には、兵站というものを正しく理解している人間がほとんどいない。私が見たところ、そういったことを大陸規模で考えられるのは、栄王と黒壮猿の二人だけだ。私は栄大国で、この分野の第一人者になりたい。だから黒壮猿とも会って話をしたいのだ」
 黄清蟻は考える。栄大国で情報を得るのなら、高い地位の者と多く接する機会が必要だ。この男に恩を売ることでその下地を作るのも一つの手だろう。
「分かりました。今夜訪ねてみます」
「そうか、恩に着る」
 白危貘は細面の顔を綻ばせた。黄族の若者は前方で固まって進む黒陽会の一団に視線を移す。黒壮猿が周囲の者達と言葉を交わしている様子が見えた。

 黒陽会の一団の表情は暗い。
 正確に言うならば、錬金の道具を持っていた上級以上の信者達の、と言うべきだろう。黒壮猿の周囲には幹部達だけが集まっている。馬上で今後のことを協議するためだ。
「しかし、錬金の力が失われるとは思ってもいませんでした」
 草原での活躍により幹部に昇格した黒暗獅が口を開く。長身の青年は棒術という芸を持っていたため、もともと錬金の力には頼っていなかった。そのために周囲の者達ほど落ち込んではいない。黒壮猿は口の端を歪めるだけで、言葉を返そうともしない。
「こ、黒壮猿様。錬金の力はなぜ消滅したのでしょうか」
 黒暗獅同様、他の幹部の馬の背にまたがっている黒逞蛙が恐る恐る口を開く。
「分からん。何かあったのだろう」
 忌々しそうに黒壮猿は呟く。言葉とは裏腹に、何かに気付いている素振りだ。重々しい空気のまま、一行は栄大国の行軍に従い進んでいく。しばらく無言が続く。沈黙のなか、黒暗獅だけが冷静に物事を考えていた。
「馬を近付けてくれないか」
 前にいる幹部に声を掛け、黒壮猿に馬を寄せる。
「黒壮猿様」
「何だ、黒暗獅」
 棒術使いは体を近付け耳打ちする。
「海都にいた頃、私は一信者でしたので詳しくは聞き及んでおりませんが、黒都に大陸周回航路の船を送ったのですよね」
 導師の目が黒暗獅に向けられる。
「黒都で何かあった。そのために錬金の力が失われた。そう考えるのが自然だと思うのですが」
 しばらくして黒壮猿は頷いた。再び黒暗獅は耳打ちをする。
「大陸周回航路船は戻ってくるかもしれません」
 その言葉に黒壮猿の目が反応した。
「私なら、どんな敵地であろうが任務を成し遂げ、生還することができます」
 黒暗獅はそれだけ言うと耳から口を離した。黒壮猿は会計係を呼び、路銀を用意するようにと告げる。そして長身の棒術使いを再び側に寄せた。
「閉腸谷までは一緒に行動しろ。一騎だけ離れると目立つからな。それまでに必要な情報を教える」
 無言のまま、黒陽会随一の武人は頷いた。


  四 閉腸谷

 青聡竜が草原に向かったのならば、通る場所は開喉丘、閉腸谷の砦だろう。そのような話を東に逃げる兵士達から聞いた白太犬はひたすら西へと進んだ。これらの場所がどこにあるのかは知らなかったが、逃走する者と逆に走ればいつかはたどり着く。そう思い進んでいたのだが、ある時期を境に兵士達の姿が全くなくなってしまった。
「もう、全員逃げてしまったのかな」
 山岳地帯まではまだ少しある。頼りなく思いながら歩き続けて数日後、山間部の入り口に砦が見えてきた。他に人工物はない。あれがきっと開喉丘の砦だろう。白太犬は飛びあがって喜び、両手を振り上げながらその場所へと向かった。

 現在閉腸谷に留まっている兵士の数は千人強。雪崩を打つように逃げ出した兵士達の足を止めたのは草原から帰ってきた青聡竜だ。彼は残った兵達を集めこの砦の守将となった。
「白緩狢はよい仕事をしたようだな」
 城壁の上に立ち、青聡竜は周囲の者に声を掛ける。
「青聡竜殿、敵は十万以上。この砦で足止めすることは可能でしょうか」
 白王崩御を知らせた騎馬武者の一人であり、司表の配下でもある白頼豹が問う。
「戦闘力のある赤族が総攻撃しても防ぎ切れるようにこの閉腸谷の砦は作られている。それに投石機は小人数でも効率的に扱えるような配置だ。食料や武器なども十分にある。これなら少ない人数でも敵を食いとめ損害を与えられる」
「なーに、わしに任せておけば、赤族など片手でひとひねりじゃよ」
 白厳梟が大声で笑う。
 青聡竜の指示の下、防戦の準備は着々と進む。
 既に広源市や白都、海都へは伝令を放った。赤族をこの場所で足止めする時間が長ければ長いほど、白大国の迎撃準備の時間が稼げる。それに白淡鯉と白賢龍の仇である赤栄虎を葬る隙も見出せるかもしれない。
「青聡竜様、開喉丘で不審者を捕らえました」
 城壁の下から声が掛けられた。青聡竜は周囲の者達とともに声がした場所を見下ろす。
「縄で縛って連れてきました」
 兵士が大男を引き出す。
「司表様~っ」
 泥と垢にまみれた男は、涙を流しながら大声を上げた。
「あれ、あいつは白太犬じゃないですか」
 白早駝が指を差す。
「そうみたいだな」
 青聡竜が苦笑する。
「たしか白太犬は剣が得意だったな。兵士は多い方がいい。丁度よいところで現れた」
 口に手を添え大声を出す。
「おーい、縄を解いてやれ。その男は私の直属の部下だ」
 兵士が垢だらけの男を不審の目で見る。
「司表様~っ」
 縄を解かれた白太犬は両手を振り上げて喜んだ。
「白太犬。お前、まずはその格好をどうにかしろよ」
 白早駝の声で、初めて白太犬は自分の姿に気付く。
「あれ。いつの間にこんなにぼろぼろになったんだろう」
 自分の姿を不思議そうに見る白太犬の滑稽さに、城壁の上の一同は笑い声を上げた。

 草原の東の端に、雲霞のごとく兵が現れた。赤栄虎率いる十数万の兵だ。
 どうも砦の様子がおかしい。
 そのことに最初に気付いたのは、視力のよい赤族の兵士だった。人の気配がしない。砦だけがただ打ち捨てられているように見える。
「栄王様。どういうことでしょうか」
 赤荒鶏は石造りの壁を遠望しながら尋ねる。これだけの軍勢を平原に運ぶには、この閉腸谷を通らざるをえない。少数ごとに分け、山中を行軍させるという手を使えば、元白大国の兵のなかから多くの脱走兵を生むことになる。
「姦計か。それとも白王の死の報を聞き、逃げ出したのか」
 赤栄虎は静まり返った石壁を睨む。砦には投石機が多数設置されている。もし兵が潜んでいるのなら、大軍で近付けばよい的になってしまう。
「少数で探りを入れる必要があるな。赤荒鶏よ。百の兵を率いて偵察してこい」
「はっ」
 いまや右腕とも言える赤族一の射手に王は命じる。すぐさま百人の赤族の戦士が選ばれ、赤荒鶏指揮の下、砦へと向かった。百騎を率いる男は頭を丸めている。遠征の果てに散った仲間達の喪に服しているからだ。禿頭の男は巨大な城門の間近まで馬を進める。
「赤荒鶏様。滅んだ村のように、誰もいないようです」
 声を潜めながら部下の一人が告げる。もしそうなら、誰か壁の向こうに行き、この城門を開かなければならない。だが本当に無人なのか。赤荒鶏は城壁を越えるように矢を一本放つ。反応があるかと期待したが、矢の音が静かに壁の向こうに吸いこまれるだけだった。
「壁を登り、砦の様子を知らせろ」
 部下は頷き、壁に手を掛け、登り始める。何事もなく壁を上がる。そして城壁の上に立ったところで姿が消えた。
「おい、どうしたんだ」
「いきなり消えたぞ」
 馬上の兵士達がざわめきだす。消えた男の声はない。
「誰かが城壁の上にいて、一瞬の内に仕留めたようだ」
 目を凝らしながら赤荒鶏は呟く。
「姿を見たのですか」
「いや、人が掻き乱す空気の渦が見えた。誰かは知らぬが、相当の手練がいると見て間違いない」
 赤族の男達が色めき立つ。赤族でも五指に数えられる勇者が相当の手練と呼ぶ相手だ。並の敵ではないだろう。己が腕を試してみたい。そう思った男達が数人壁に取り付き、登りだした。
「よせ、危険だ」
 制止しようとして赤荒鶏は叫ぶ。壁を登り切った瞬間、男達の姿が消えた。
「いったい何が起こっているのだ」
 地上に残っていた兵達が口々に叫ぶ。
「今度は見えた。刃を落とした矛で、首筋を引っ掛けて城壁の内側に引きずり込んでいる」
「生きているのですか」
「いや、首の骨は折れているだろう。あの矛の速度なら生きてはいまい」
「しかし、いったい何のために」
「一切姿を見せずに、俺達を翻弄するためだろう。この砦に残っている者が極端に少ないか、あるいはそう思わせておき、こちらを油断させるためか。どちらにしろ、こちらが戦術を考えるための情報を、敵はまったく与えないつもりのようだ」
 不気味に沈黙している砦を見上げ、赤族の兵士達は顔を顰める。敵の数も実力も分からないのに、ただ壁を登るだけでは損害ばかりが増える。
「忌々しいが、一旦引き上げるぞ」
 赤荒鶏は馬首を巡らせ西へと走った。

 夕刻。赤族の千人長が作戦会議の行なわれている天幕に入ってきた。
「栄王様。私が率いている兵のなかに、ぜひ栄王様に進言したいことがあると言っている者がいるのですが」
 赤髪の若き王は会話を中断して床から立ちあがる。
「どういった内容だ」
「今晩から、明日の朝に掛けての天気に注意して欲しいということです。濃霧が発生するそうです」
 指揮官達は顔を見合わせる。この季節、草原で濃霧が発生することはほとんどない。
「言ったのは誰だ」
「白大国の軍で天気読みをしていたという黄族の壮年の男です」
「その情報は確かなのか」
「分かりません。しかし、その男の天気読みの腕は確かだと、何人も証言する兵がおりました」
「その男の名は、もしかしたら黄慎牛というのではありませんか」
 細面の白族の男が顔を上げる。
「そうです。たしかそういう名前でした」
「白危貘、知っているのか」
「ええ、その者の天気を読む力は本物です。信頼するに値します。彼のような能力を持つ者を、前線の一兵士として使うのはもったいないと思います。よければ後方での仕事に従事する、私の下に配していただければと思うのですが」
「いや、そのような才能を持っている者ならば直接話を聞きたい。私の部下にしよう」
「分かりました」
 白危貘は素直に頭を下げる。
 それからいくつかのやり取りがあり、黄慎牛を呼びに赤族の兵士が天幕から走り出た。

 深夜。黄慎牛の予言通り、濃霧が発生した。山の湿気が草原に流れ込んだためだ。山には川や池もある。風の向きや前日の天気によっては、ときにこのような霧を生む。閉腸谷に潜む者達がこの自然現象を頼りにしていたかどうかは定かでない。だが霧の発生は彼らの接近を容易にした。栄大国の敵への警戒は行なわれていた。だがその警戒は視界を補ってまではくれなかった。
 矢音と悲鳴が敵の襲来を告げる。
 蹄の音はない。馬の脚に袋でも被せているのだろう。速度は落ちるが音は消せる。栄大国の指揮官が走り回り、兵達を叱咤し、見えない敵に向け矢を打たせる。霧の奥からの矢はまばらだ。そして攻撃も本気ではないようだ。反撃が始まるやいなや、潮が引くように敵兵の姿は消えた。寝ずの警戒のうちに夜が明け、朝日が霧を払う。兵達はそのとき初めて打ちこまれた矢に布が巻き付けられていることに気付いた。布を解いた黄族の兵が自分の上官の許にそれを運ぶ。
「白晴熊殿。これは何と書いてあるのですか」
 白族の者なら取り敢えず文字ぐらいは読める。黄族の兵は筋肉に鎧われた大柄な男に布を渡す。白晴熊は鬱屈した表情でその布を受け取った。彼は胸中不満を抱えている。憧れていた白王を殺した赤族の軍門に下り、その軍勢に組み入れられたからだ。そんなことなどこの男の本意ではなかった。だが逃げ遅れた。一矢報いてやろうかと思い、白頼豹の馬を降りたのが災いした。そのまま死か忠誠かを問われ、彼は生きる道を選んだ。
「何だこれは」
 布を受け取りながら問う。
「昨夜射掛けられた矢に布が付いておりまして。ほかの布にも同様に同じ文字が書かれていました」
 片手を振り、布を広げてその文字を読む。
「我が友の仇を討つために、汝らの故郷を守るために、ともに戦う者を欲す。閉腸谷守将青聡竜」
 白晴熊の全身の毛が逆立つ。周囲にいて彼の声を聞いた兵達にも緊張が走る。白晴熊はその布を素早く畳んで懐に仕舞う。彼の声が届くところには、幸いなことに赤族の者はいない。
「白晴熊殿。これは本当のことなのでしょうか」
 声を潜めて兵の一人が問う。
「分からん。砦の兵を見定めた者は誰一人としていない。青聡竜様がいるかどうかも不明だ。そもそもあの方は十年前に軍を退いたはず。それにもし本当にいるのならば、なぜ顔を見せない」
 白晴熊は思案する。しかしその理由は彼には分からなかった。

「青聡竜は白大国建国の雄。だが既に引退したと聞く。その男がなぜ閉腸谷の守将をしている」
 赤栄虎は会議の席で怒鳴る。少ない情報は想像を膨らます。疑心を生み、判断を誤らせる。列席者は、布に書かれた名前の男が本当にこの地にいるのかどうかすら分からない。
「元白大国の兵達は明らかに動揺しています」
 赤爽鷺が報告する。数の分からぬ敵に、いるかいないか分からない将。市表という情報面での有利の上にこれまで戦いを進めてきた赤栄虎は明らかに苛立っていた。
「栄王陛下。まずは情報を得ることが肝要かと。砦に密偵を放つとともに、青聡竜について詳しい者を軍のなかから探し、話を聞く必要があるでしょう」
 黒壮猿が進言する。
「それでしたら打って付けの男がいます。司表の元配下の黄清蟻という男です」
 白危貘の言葉に赤栄虎は驚きの声を上げる。
「シヒョウだと」
「ええ、そうです。青聡竜は白王より、司表という役職と名前を与えられ、大陸各地の情報を収集していたそうです」
「あの男か」
 赤栄虎は立ちあがり叫んだ。海都で戦ったあの武人、それが白大国の英雄青聡竜だったのか。
「だがなぜ奴がこの場にいて、我らの前に立ちはだかるのだ」
 その理由までは赤族の王には分からない。
「黄清蟻をこの場に呼べ」
 声を受け、白危貘は天幕を出る。しばらくして黄族の若者が会議の場でひざまずいた。
「栄王様、黄清蟻でございます」
 軍団長など主立つ者が列席するなかで黄清蟻は落ち着いた様子で挨拶する。
「黄清蟻よ。お前は青聡竜の配下であったのだな」
「はい。左様でございます」
「では、問おう。白王が起こした戦が始まってのち、俺は何度となくシヒョウという言葉を聞いた。白大国のシヒョウとは、いったい何なのだ。そして青聡竜が与えられたシヒョウの役職とはどのようなものなのだ」
 黄清蟻は頭を垂れたまま驚いた顔をする。何度も聞いたとはどういうことだ。そして白大国以外にも史表があるのか。
 彼以外の会議の面々は不審がる。赤栄虎は青聡竜について聞くと思っていたからだ。
「どうした答えよ」
 栄王の言葉を受け、黄清蟻は心の乱れを無理矢理静める。
「白大国の史表とは歴史書です。これは前史表と後史表の二つに分けられます。前史表は、白王様の書かれた過去千年の歴史をまとめた巻物です。これは数十巻にわたります。この前史表には、人類の英知がこめられており、様々な出来事に直面した時に、過去の賢人達がどのようにして、その難事を切り抜けたかが書かれています。この書を読み、活用すれば、千年に生きた賢人達を参謀として得たがごとく振舞うことができるでしょう。
 そして後史表には、白王様が大陸制覇を行なっていた現代のことが記されています。白王様は青聡竜様に後史表の編纂を行なう司表という役職と名前を与えました。その仕事には大陸各地の情報を集め、歴史書を作ることが含まれています。この後史表は、白王様が作ろうとした未来への道標となるものです。白王様は自分の死後のために、自らが見出した歴史の目的地に人々を導くために史表を作ったのです」
 場のほとんどの者が、黄清蟻の言葉を理解できずに呆気に取られる。だが赤栄虎と赤荒鶏は違った。白淡鯉の言葉を聞いたこの二人だけが、この話の意味を悟ることができた。
「前史表と後史表は今どこにある」
 重い口調で赤栄虎は問う。
「二つとも、海都にございます。前史表は多数の複製を作り、各地に配布される予定になっております。そして後史表は、私達が集めた情報を元に編纂され続けているはずです」
「多数の複製を作るのは何のためだ」
「第二、第三の白賢龍を生み出すためだと思います」
「海都を襲ったときに、なぜ俺はそれを手に入れなかったのだ」
 赤栄虎が歯軋りをする。それは無理というものだ、そう思いながら、赤荒鶏は王の姿を見る。あのときは彼らは史表の存在すら知らなかった。
 黄清蟻は二人の赤族の男の反応を観察する。どうやらこの二人は、史表を知る機会があったらしい。彼は頭を下げ、口を開く。
「この話、全てを語り出せば一晩で終わる話ではございません。軍議の妨げにもなるでしょう。栄王様。もしよろしければ、私をあなたのお側に置いていただけないでしょうか。そうすれば、陛下の御都合のよいときに、いつでもこの話の続きをすることができます」
「よし。黄清蟻よ。お前を側に置くことにしよう」
 王の即決に会議の参加者達がどよめく。
「軍議を再開する」
 赤栄虎のその一言で場は静まった。
「黄清蟻よ。今日ここにお前を呼んだもともとの用件だ。砦のなかに青聡竜がいるかどうか。そして立てこもっている兵士の数がどのくらいであるか。それを効率よく確認する手はあるか。お前は青聡竜の配下だった男だ。お前の知っていることで、我らが知らぬこともあるだろう。お前が知っていることを話すのだ」
 しばし考える仕草をしたのち、黄族の若者は答える。
「兵士の数は正確には分からないと思いますが、青聡竜様がいるかどうかは確認できると思います」
「どうするのだ」
「暗号がございます。司表の配下だけがその読み方を知っているその方法で手紙を書き、こちらの軍の状況を流したいので、調べる必要のある情報を送って欲しいと請うのです」
「それだけでどうやって分かるのだ」
「私が把握している限り、あの砦に司表関係の人間がいたとしても白頼豹という男だけです。彼すらいなければ返事はないでしょう。そして彼だけがいたならば、閉腸谷に残り、守将となった人物の考える戦術に沿った返答があるでしょう」
「そして、青聡竜がいれば、より高度な問いが返ってくる。そういうことだな」
「そうです。私にはその問いが何を意図しているか判断が付きませんが、栄王様にはお分かりになるはずです」
「内容によっては、敵兵の数も予想が付くな。昨晩投じられた布切れは兵の寝返りを狙ったもの。白族の兵に、その暗号の密書を持たせて青聡竜の許に届けさせよう」
 赤栄虎は剣を抜く。
「よいか、皆の者。これから数日。脱走者が出ぬよう、兵を厳重に見張れ。そして、一部だけに抜け出せる隙を作るのだ。密書はその場所近くの指揮官級の者に託す。黄清蟻、お前が工作せよ」
「はっ」
「栄王様、そのように安易に黄清蟻殿の言葉を信じるのはいかがかと思います」
 額の汗を拭きながら黒壮猿が問い掛ける。
「黄清蟻よ。俺が何を考えているか言ってみよ」
「史表を手に入れること。大陸を統一すること。そして白王様の全事業を継ぎ、その先に道を伸ばすこと」
「黒壮猿。この男はこの局面で俺を裏切りはしない」
「なぜそのようなことが言えるのです」
「この男にはお前には見えていないものが見えているからだ。よいかみなの者。指示はいま出した通りだ。すぐに行動に移れ。軍議は終わりだ」
 軍人達は素早く立ち、各々の持ち場へと帰っていく。知識において優位に立っていることを自負していた黒壮猿は、恨みのこもった目で黄清蟻を睨む。白王の史表について、黒壮猿は語るべき何物も持っていない。
 その日の夜。白晴熊率いる一隊が戦列を離れ、閉腸谷の門を叩いた。彼は黄清蟻から託された一通の手紙を青聡竜に渡した。


  五 黒陽宮を訪れし者達

 大陸周回航路船が長焉市を離れた。
 その船上の艦長室に、黒円虹に出会った者達が集っている。彼らの表情は暗い。補給と情報収集のために立ち寄った長焉市で得た話のせいだ。
「白安豚が王位を継いだだと。あの腰抜けの脂肪の塊に何ができるというのだ」
 白麗蝶が怒りを目に浮かべて呟く。長焉市には開喉丘以西の情報は届いていない。海都の炎上と復興の話、そして白緩狢が発した新王の布告だけが届いていた。
「海都に着く前に、私達が何をするかを決めておく必要があるだろう」
 白大狼が少女の横で口を開く。部屋には二人のほかに四人の男女がいる。船長の青遠鴎、剣士の青勇隼、浮都の生き残りの黒健鰐、そして旅芸人の白楽猫だ。最後の女性だけは黒円虹の話を聞いていない。だがあの場に立ち会ったという点では他の者達と秘密を共有している。
「二つ、考える必要がありますね」
 青遠鴎が口を開く。
「そうだな。白麗蝶様の王位継承の件。そして黒円虹の遺産の件」
 青勇隼が応じる。
「考えることはみんなに任せたぜ」
 そもそも白大国を見たことがない黒健鰐は、はなから会議に参加する気がない。
「みなさん、がんばってください」
 同じく、物事を論理的に考えるのに向いていない白楽猫も応援に徹している。
「王位継承の件については、はっきり言って情報が不足し過ぎている。一度どこかでまとまった情報を入手する必要があるだろう」
 白大狼の言葉に、青遠鴎と青勇隼が頷く。
「海都の沖合いに船を泊め、密かに少数を上陸させる。そして情勢を探る」
「白大狼様、それでしたら、舟大家に属する私がその役に相応しいと思います。青美鶴様に報告し、情報を得て船上に戻ります」
「そうだな。彼女なら感情で物事を運ぶことはないだろう。麗蝶の身の安全を図ることの価値も熟知しているはずだ。この件に関しては完全に情報待ちだな。一刻も早く海都に近付くことが重要だとしか言いようがない。となるともう一つの件だ」
「実は、私に腹案があります」
 青遠鴎の改まった口調に、隣に座っていた青勇隼は興味を持つ。既に長焉市までの航海で、必要な情報はそれぞれ伝え合っている。それならば結論は同じになる可能性が高い。
「言ってみろ」
「はい。黒円虹の残した知識ですが、その場所には錬金の力が残されていると彼自身が言っていました。しかし、この大陸のどこかというだけで、どこにあるのかは分かりません。さらに困ったこともあります。その力が、どのような形で残されているのか、皆目見当が付かないことです。黒都の建材のような形だったり、地に埋まっていたりするのでしたら、完全にお手上げです。しかし黒円虹は白大狼様に探し出して欲しいと思っていたはずです。何らかの手掛かりのある状態だと私は考えています」
 そこまで話したところで、青遠鴎は白大狼の表情を確認する。
「つまり、その土地に何らかの異常や錬金の力だと思われる現象が起こるというわけだな」
「そうです。それも、白大狼様の寿命の範囲内で聞き及ぶことができる内容だと推測できます」
「青遠鴎。君は、そういった情報を何らかの手段で集めるべきだと言いたいわけか」
「はい。ではその情報収集の方法について説明します」
 白大狼は頷く。
「まず大陸を大きく二つに分けます。白大国の支配地域と、それ以外の地域です。白大国の支配地域は青族の情報網が行き渡っている場所です。そういった情報に絞って情報収集を行なえば、必ずや網に捕らえることができるでしょう。そしてそれ以外の地域、つまり辺境には探索隊を派遣するのがよいと思います。その探索隊の隊長には、辺境の専門家であり、かつ今回のような大陸周回航路の航海経験を持つ人物こそが適任だと考えております」
「辺境探索を行ないたい。そのための資金の調達がしたい。そういうわけだな」
「はい」
 万事察しのよい白大狼に青遠鴎は頷く。
「分かった。その資金の出所がどこになるのかはこの船の上では明言できない。だが探索隊を組織し、その一隊を君が指揮できるように取り計らおう」
「ありがとうございます。必ずや白麗蝶様と白大狼様のために黒円虹の遺産を探し当ててみせます」
 青遠鴎の話が終わったとみたのか、青勇隼が手を上げて発言を求めた。
「大師匠、いいですか」
「ああ、なんだ」
「その計画には穴があります」
 青遠鴎が隣の男を睨む。青勇隼は面白そうな顔で椅子を引き、立ちあがる。
「まず一つめ、錬金の力が分かりやすい形で発現するという件。これは単なる推測にしか過ぎません。俺は錬金の知識を持った人物を同行させるべきだと思います。黒健鰐、お前錬金の知識はあるか」
「ない」
 青勇隼は、軽蔑するような目で黒健鰐を見下ろす。
「えー、まあ、じゃあ、海都に黒陽会の教会があったと思うので、そこで人数を調達するべきでしょう」
「そうだな、その方が確実性は上がるだろう」
「そして二つめ。青遠鴎が辺境の専門家だという話には俺は同意できません」
 立ちあがろうとする青遠鴎を、白大狼が手を上げて制する。
「青遠鴎はあくまで船乗りです。辺境海域については経験豊富かもしれません。でも陸に上がってからはどうでしょうか。陸には陸の専門家が必要です。大陸各地を冒険し、多くの場所で生き延びてきたような人物が必要だと思います」
 青勇隼は左手を机に突き、身を乗り出す。
「海の専門家と陸の専門家。俺は大陸周回航路船に乗る前は、大陸各地を巡る冒険家業をしていましてね。ちょうど俺も、こいつと似たようなことを考えていたんですよ」
 青遠鴎は驚く。だが同じ経験をして同じ知識を得て相応の頭脳を持つ者ならば結論は同じになるはずだ。
「なあ青遠鴎。お前は陸に上がればただの蘊蓄野郎にしか過ぎない。剣や機知で乗り切らなければならない場面はいくらでもある。それに俺は航海に関しては素人に毛が生えた程度の存在だ。やろうとしていることが同じなら、互いの長所を生かして協力するというのも手だと思わないか」
 若き剣士は右手を伸ばし、青遠鴎に握手を求める。青勇隼の実力は彼も黒陽宮で目の当たりにしている。辺境の探索に彼が加わるならそれは願ってもないことだ。
「青勇隼、心強い限りだ」
「ああ、だがこれは難事だぜ。大陸の周囲全てを回らないといけないかもしれない」
「望むところだ」
 青遠鴎は青勇隼の手を握った。青遠鴎はちらりと視線を白麗蝶に向ける。いつもの彼女なら、この探索行に同行すると言い出しかねない。だが彼女は口を噤み、考えこんでいる。
「どうしました白麗蝶様」
 少女が視線を青遠鴎に向ける。その眼光の鋭さに彼は背筋が凍りついた。
「いや、どうやって白安豚を殺すか。そのことについて考えておったのだ」
 彼女の声は、子供とは思えないほど落ち着いていた。
 その日の会議は終わった。だが青遠鴎は、膝が震えてしばし立ちあがれなかった。


  六 決意の表明

 長焉市。肉厚の葉を焼く太陽が西に没し、月が地上に影を投げ掛け始める頃、復興の途上にある街を二人の男が歩いていた。外套の頭巾を深く被っている。彼らは一軒の廃屋に入った。
 青凛鮫はこの街の近くに上陸した際に、黒捷狸から、許可なく一切の発言を禁ずると言い渡された。彼はその命令に従い口を閉ざし続けている。白大国には小舟で入ってきた。大陸周回航路船を使ったのは、砂漠を抜けるまでのあいだだけだ。錨を上げ、帆を一枚だけ張り、風を待って緑族の地まで抜けた。
 密林に入った時点で彼らは数日を費やす。その地に住む緑族の部族を襲い、彼らは奴隷と船を得た。船は腕木をわたした安定性の高いものだ。大陸周回航路船は海の底に沈め、一行は東進した。緑族の地から離れる直前にこの奴隷達は全て殺害した。以降は長焉市近くの海岸に上がり、いまに至る。
 頭巾を被ったまま黒捷狸は瓦礫の上に腰を下ろした。その対面に青凛鮫も座る。鍛え上げられた男が懐から幾つかの小瓶と磁器製のたらいを取り出すのを彼は眺める。緑族の部族から奪った黄金で夕刻に買い求めたものだ。
「青凛鮫よ。わしの下で働くには、忠誠を示す必要がある」
 目元に笑みが浮かぶ。黒捷狸はたらいに複数の小瓶の中身を注いだ。たらいのなかで泡が起こり、異臭と共に煙が出る。
「わしはな、様々なことに通暁している。この調合も過去に調べて知ったものだ」
 たらいが青凛鮫の前に差し出される。
「わしの部下となるならば、このたらいに顔を浸けよ。ただし、目を開けてはならんぞ。目が潰れるからな。わしがよしと言ったら顔を上げよ。そして、もう一度よしと言えば目を開けよ」
「いったい、この液体は何なのですか。そして顔を浸ければどうなるのですか」
「顔が潰れる。あとで声を変える薬品も飲ませる。わしの下で働くのならば、過去を、そして青聡竜の部下であったことを捨てなければならない。わしの言葉の意味は分かるな」
 彼は息を呑む。よもやこのような方法で決意を表明させられるとは思っていなかったからだ。
「黒捷狸様」
「何だ」
「これから、あなた様は何をするつもりなのですか」
 微かな笑い声が頭巾の下から漏れる。
「それを知って、どうするつもりだ」
 青凛鮫は沈黙する。たしかにそれを知ったところで彼は何もできない。
「あまり長くは待たぬぞ。考える時間は十分与えたからな」
 黒捷狸は立ちあがり剣を抜く。
「服従か死か」
 たらいの底は地獄に湧く熱水のように音を立てている。青凛鮫は目を瞑り、顔をゆっくりと下げる。皮膚を焼く刺激を感じた。痛みが顔全体を覆い、やがて骨に錐を当てたような激痛が走る。
 黒捷狸の声は掛からない。必死に痛みに耐え、息を止め、言葉を待つ。
「よし」
 顔を上げる。皮膚の焼ける音が耳に届く。鼻は悪臭で満たされている。徐々に痛みが引いていく。再び黒捷狸の声が掛かり、青凛鮫は目を開いた。目蓋が一部癒着しており、それを引き剥がすようにして目を開く。
「これを飲め」
 差し出された小瓶の中身を飲み下す。焼けるような痛さに、肺の中身を全て搾り出すようにして喘ぐ。落ち着くまでにしばしの時間が掛かった。そのあいだ黒捷狸は静かにときを待つ。
「これ以後、わしの名前を呼ぶな。そろそろ行くぞ。付いてこい」
「はい、……ご主人様」
 その声はしゃがれ、以前のものとは大きく変わっていた。
「余人が怖がる。顔を隠せ」
 注意され、青凛鮫は目深に頭巾を被る。その顔は薬品で焼けただれ、荒れた岩肌のようになっていた。


  七 海大家の商館

 まだ日が昇らず霧の立ち込めている早朝。海都から少し離れた海岸に一艘の小舟がたどり着いた。乗っているのは二人。舟大家の青遠鴎と剣士の青勇隼だ。
 政情の激変に、海都の破壊と再生。まずはこの地を偵察し、青美鶴と交渉可能なら交渉する。彼らはその大切な任務を帯びている。二人は夜明けとともに城門を抜けて海都に入った。二人の視界の先には数ヶ月前とは似ても似つかぬ光景が広がる。
「ひゅー、えらく変わったな」
 口笛を吹いて青勇隼は驚きの表情を浮かべる。青遠鴎は一瞬黒都の町並みを思い出す。高層化され、有事の際にはそのまま各家が砦に早変わりする軍事都市。
「青勇隼、まずは舟大家の場所を聞き、そこに向かおう」
 故郷に帰ってきたこともあり気楽な口調で答える。青遠鴎は道行く人に尋ね、海都の五大家が海大家として一つになったことを知った。通行人はこのような質問を多く聞いているのだろう。馴れた口調で、最近の海都の情勢について語ってくれた。
「へー、いまは海都は青美鶴さんが治めているのか。そりゃあ好都合じゃないのか」
「ああ、有事には意思決定をする人間が少ない方がいいからな。五大家の話し合いで検討するなどと言われるよりはよっぽどいい。だが」
「何か心配なことでもあるのか」
「いや、この海都の変わりようが青美鶴様一人の意思での取り決めだとしたら」
 それは軍事的野心というものの発露ではないか。青遠鴎はその言葉を飲み込む。
「それよりも、さっさと海大家だったかな、その場所に行こうぜ。早く結果を持ち帰ったほうがいい。時間は大切だからな」
 青遠鴎は頷く。二人は新生海都の路上を歩き、海大家の商館へと向かった。

「なるほど。それはとても貴重な情報を届けてくれたわね。早速、白麗蝶様と白大狼殿を貴人としてこの海都に迎え入れる準備をしなければなりません。護衛船を出し、海都の港に入ってもらうことにします」
 家長の執務室で報告を受けた青美鶴はすぐに判断を下した。青遠鴎と青勇隼はほっとする。既に海都は完全に復興を遂げていた。そして新しい商館も利用され始めていた。
「それで、生き残った人員は、先ほど説明があった者達だけなのね」
 念を押すように青美鶴が尋ねる。
「はい、そうです」
 黒都での出来事も説明済みだ。わざわざ生存者を確認するのは、父親の生死が気になるからだろう。
「分かったわ。青勇隼殿は護衛船に同乗してください。あなたは海大家の者ではないですがこの仕事を引き受けてくれますね」
「ええ、もちろんです」
「青遠鴎、あなたは白麗蝶様達がこの商館に来るまでのあいだ、書記官を呼んで海図製作部門に行き、上役に報告をしなさい」
「はっ」
 青美鶴は秘書に手配を命じる。二人の訪問者も執務室を出ていった。
 部屋には彼女一人が残る。
 港を見下ろせるガラス張りの窓を背に椅子に座り、机の上の紙の束を取り上げる。閉腸谷における戦闘の報告書。一行目にはそう書いてある。大陸中に派遣された諜報機関とも言える司表の組織がまとめた文書だ。司表殿から送られてきた。青聡竜、栄大国、赤栄虎などの文字が並んでいる。
 青聡竜がこの地を離れているいま、青聡竜の一番弟子とも言える彼女が、司表代理の相談役的役割を果たしている。いや、そうなるように彼女が誘導した。そのおかげで司表の情報網はそのまま青美鶴の私的諜報機関になっている。
「叔父様」
 彼女は立ちあがり窓の下の景色を見る。色とりどりの帆の船、広河の河口、対岸の大地、そして輝く海。その向こうには真っ青な空を背景に白く濃い入道雲が浮かんでいる。その雲の一つが、猛る竜の姿に見えた。
 その竜に触れようと手を伸ばし、指がガラスに触れた。見えない壁が彼女と竜のあいだにあった。寂しそうに外の景色を見たあと青美鶴は表情を引き締める。
「誰か」
 呼んだあと、老秘書を護衛船団の編成に走らせたことを思い出す。
「はい、青美鶴様」
 扉を少し開けて、少女がちょこんと顔を出した。誰よりも耳聡い青明雀だ。
「白怖鴉殿をお呼びするように」
「はい、分かりました」
 彼女は頷き、しばし青美鶴の顔を見る。
「どうしたの、早く行きなさい」
「は、はい。すみません」
 彼女は慌てて扉を閉めた。
 海大家の商館の廊下を走りながら彼女は考える。
──叔父様
 と、青美鶴は呟いていた。青聡竜に助けを求めるように声を漏らしていた。なぜ、青聡竜は海都を離れたのだろう。司表殿の人間なら、そのことを知っているかもしれない。ちょうどよい、尋ねよう。そして青美鶴のことも。彼女は商館を出て走りだした。

 ぼろをまとい石畳に寝そべっていた男が、海大家の商館の下で身を起こした。港に大型船が入ってきた。杖を持った男はその船を見て目付きを鋭くして立ちあがる。長身だ。杖の必要がないほど体は逞しい。黒陽会の幹部黒暗獅は、大陸周回航路船が一隻しかないことを不審に思った。海都を出たときには十隻だったはず。そして下船してきた人々の姿を丁寧に観察して眉を顰める。黒覆面の男、黒捷狸らしき人物がいない。
 上陸した人々のうち、少女と青年が商館へと上がっていく。白麗蝶と白大狼だろう。情報は事前に得ている。黒暗獅は動きだす。商館への侵入路は既に見つけてある。彼の前を一台の馬車が通った。勢いよく地を蹴り、荷物の上を駆け上がり、天井に跳躍する。通気孔に手を掛けた彼は、一瞬後にはそのなかに姿を消した。彼ほどの体術を持つ相手を想定して、商館は設計されていない。その盲点を突いた侵入方法だった。

 白麗蝶、白大狼、青勇隼が家長の執務室に入る。青美鶴、白怖鴉、青遠鴎を合わせた六人が用意された椅子に座る。
「白麗蝶様のお立場は、危ういと言わざるを得ません」
「ふんっ、そうだろうな」
 青美鶴の言葉に彼女は頷く。
「王位の正統性を主張し、白安豚を殺すというのはどうだ」
「いえ、それは難しいでしょう」
 少女の言葉に海大家の家長は首を横に振る。
「白安豚を殺すには、二つの方法があります。一つは戦で滅ぼすこと。これは白都攻略という困難を伴います。今の白麗蝶様にも海大家にもそれだけの武力はありません。もう一つは暗殺です。しかしこれは敵を利することになるでしょう。例え暗殺が成功して、万が一その暗殺者を放った人間の正体が分からなかったとしても、彼らは白麗蝶様を犯人として非難し新たな王を立てるでしょう。彼らにとって、王はただの飾りですから」
「一応確認しておきたいのですが。彼らとは何者達を指すのです」
 横から白大狼が尋ねる。
「白緩狢とその一党です。白緩狢という人物は、数十万の軍団を率いて指揮ができる人間です。今この大陸でそれだけの能力を持っている人間は三人しか知りません」
「誰です」
「白緩狢、赤栄虎、青聡竜です」
 少しだけ、彼女は叔父の名前を呼ぶときに言い淀んだ。
「赤栄虎とは」
「赤族の族長です。現在、草原で旗揚げをして栄王を名乗り、栄大国を興しています。白惨蟹傘下の十万の兵を取り込み、指揮しています」
 白麗蝶の目に怒りが浮かぶ。彼女は父の死に様を思い出す。
「いまその赤栄虎の東進を、青聡竜の叔父様が、白緩狢が作った砦で食い止めています」
 青美鶴は大陸の概略図を一同の前に開く。
「白麗蝶様、正統な王位があなた様にあることを宣言し、首都を海都とする旨各地に伝えてください。そして白大狼様、あなたが摂政になることも同時に伝えるのです。ただし白大狼様はいまだ無名に近い。だから白王様の英知を全て引き継いだことを内外に分からせる必要があります。白怖鴉殿」
「はい。白涼鴻、例のものを頼む」
 彼は同僚の名を呼ぶ。扉が開かれ、別室に控えていた青年が、数十巻の巻物とともに現れる。白怖鴉は立ちあがり、白涼鴻とともに臣下の礼を取る。
「白大狼様。史表の原本でございます」
 青美鶴がその言葉のあとを続ける。
「司表の部下に便宜を図るために、史表の存在は各地の高官に伝えられています。その原本を正式に受け継いだということは、白王様の考えを継承したということになるでしょう。血と知から正統性を主張する。そうなさるのがよいと思います」
「しかし、軍事の問題がある。海都の兵だけでは白都に巣食う者達に対抗はできない。今から軍隊を組織するにしても時間が掛かる」
 白怖鴉が顔を上げる。
「白大狼様、史表にこのような事例が書かれていました。敵を正面から攻めることができないのならば、敵の背後の国を動かせと」
 しばし考え、白大狼は青美鶴の顔を見る。
「赤栄虎の東進を止めているのは、青聡竜殿だと」
「ええ、そうです」
「一筆お願いできるでしょうか」
「では早速。それと、各地に送る文章も作成いたしましょう」
 流れるように話が決まる。
「青美鶴殿。もう一つ話し合いをしなければならないことがあります」
 白大狼が言葉を改める。
「黒円虹の遺産についてです」
「黒陽宮という場所で父は死んだそうですね」
「ええ、あなたの父君が何をしようとしていたか、その詳細も、できれば伺いたいと思っていました」
 青美鶴は短く笑う。
「あの人は、引退する前から、私と会うことは稀でしたから。私が舟大家の家長になる前の十年、私は青聡竜の叔父様に育てられていました。そして家長になってからは激務で父と会う暇もありませんでした。あの人が何をしていたかなど私には分かりません。決して仲のよい親子ではありませんでしたから」
 彼女は寂しそうな目で窓の外を見る。その表情に嘘は微塵も感じられない。白大狼は彼女の真意を読み取ろうとして目を凝らす。しかししばらくして諦めたような表情でため息を吐いた。
「分かりました。いまはそれ以上詮索しません。青美鶴殿、黒円虹の遺産については探索隊を組織しようと考えています。つきましては協力をお願いします」
「青遠鴎から黒陽宮での話を聞いたときに、そういった話が出ることは予想が付いていました。司表の組織に増資する形で、この探索組織を作ろうと考えています。白麗蝶様、白怖鴉殿に御命令を」
 少女は立ちあがる。白怖鴉と白涼鴻はひざまずき、頭を垂れる。
「汝らに命ずる。我が父が組織し、知の集積と知の配布を目的とした司表の組織に、新たな命令を追加する。白王の記憶と彼の求めた知識がある場所を探索する組織を作れ。またそのために必要な資金と人員を、海都より調達することも合わせて命ずる」
 二人は小さな王の命令を恭しく受ける。
 青美鶴も一礼して口を開く。
「青遠鴎、あなたを海大家からの出向者として、錬金探索隊の隊長に任じます。そして青勇隼殿、あなたを海大家で雇い入れ、青遠鴎の補佐役に配したいと考えています。この仕事の依頼を受けますか」
「ええ、喜んで」
 話し合わなければならないことはまだ多数ある。そのあと彼らは細かな打ち合わせを行なった。

 商館の廊下を歩いている少女が天井を見上げた。そして一点を見つめ、少しずつ視線を動かしていく。
「天井に誰かいるんですか」
 司表殿から帰ってきた青明雀が口を開いた直後、暗闇のなかで動いていた男は動きを止めた。
 なぜ分かった。
 心のなかで黒暗獅は呟く。己の体術に絶大な自身のある彼は、家長の執務室での話を盗み聞いたあと、屋外に出ようと移動していた。
 殺すか。
 声の主は少女のようだ。距離は少しある。彼の侵入を見破ったということは、何か異能を持っているのかもしれない。手元の杖を引き寄せ、思案する。
「脱走だ」
 そのとき警備兵達の大声が響いた。少女の注意が逸れる。その隙に黒暗獅は素早く移動した。
──黒捷狸が死んだ。
 大陸周回航路の生存者達が語っていたその情報、そして錬金の力が失われて黒都が崩壊した事実、さらに黒円虹の知識がこの大陸のどこかに隠されているという大いなる秘密。これらを黒壮猿に伝えるまでは捕まるわけにはいかない。
 黒暗獅は暗闇のなか、指と足の感覚だけを頼りに進み続けた。

 商館の地下で異変が起こっている。
 青新蛇達が閉じ込められていた地下牢は海都の地下運河の途中にある。ここは赤族来襲による大火事に影響されなかったためにそのまま再利用されていた。
 閉じ込められていた者達はいずれも武器を持っていなかったが、それぞれの職業の知識や異能を持っていた。脱出の切っ掛けになったのは、青喧鶯の食材の知識だ。彼女は地下牢に生えていた茸のなかから、青黒い色素を搾り出せる茸を発見した。牢では数日に一度獄死者が出る。その死体に青黒い模様を多数描き、黒死病のように偽った。海都では伝染病患者が発生したときの対応は厳格に決められている。焼くか、離島に隔離するかのいずれかだ。
 すぐに殺す者と隔離する者が決められ、卑賤の者がその作業を行なうために牢を訪れた。彼らは兵達ほど囚人を監視することに熱心でなく、自分達が命の危険に晒されることに不満を抱いていた。その者達を脅し、虜囚達は脱出を果たす。海都の各所にある排水溝から漏れる光を頼りに地下運河を走り、兵を不意打ちし、武器を奪って小さな集団に分かれて逃げた。集合場所は広河の対岸の小山の向こうの小さな池。集合予定は三日後の明朝。
 風を切る音がして、前方の兵士が倒れた。
「ふんっ、弦が弱いな。赤族の弓なら、もっと遠くの敵を狙えるんだがな」
 青新蛇の護衛を買って出た黒華蝦が愚痴を漏らす。弓と矢を手に入れて以降の彼は、驚くべき正確さで敵を射抜き続けている。
「凄いな、これは海都が燃やされるわけだ」
 戦場で直接赤族の弓の腕を見ていなかった青新蛇が忌々しそうに呟く。
「よせよ、俺は赤族を捨てた男だ。そういう言い方をされると、繊細な心が傷付くぜ」
 荒縄のように太い神経を持った男が笑みを浮かべる。
「その怒りは、海都に赤族の軍団を引き入れた罪で収監されたという、青旨鯨という男にでも向けてくれ。俺は完全に無関係なんだからな」
 沈黙が続く。黒華蝦は青新蛇の殺気を感じたような気がした。
「次はどっちに行けばいい」
「右だ」
 青新蛇の指示で彼らはさらに先を目指す。点のようだった光が次第に大きくなり、桟橋の下に彼らは姿を現す。久し振りの太陽の下だ。視界が真っ白になり、しばらく視力を取り戻すために時間が掛かる。
「次はどうする」
「まずは船に密航して海都を離れる。その後、下船して合流場所に向かう」
「分かったぜ」
 黒華蝦は弓を引き絞った。

 三日後明朝。
 海大家の追跡を逃れた者達が池のほとりに集結する。数は半分以下に減っている。殺された者もいるのだろう。だがこの場所に来る気がなかった者も多いはずだ。牢に入れられていた者達は、青美鶴の意向に逆らった人々だ。彼らは青新蛇の下で何かを起こそうと考えていたわけではない。この場所に集まった者達は、金大家の関係者や、青美鶴に個人的な恨みを持っている人間や、何らかの利益を見込んでいる打算者だ。
 場を仕切る青新蛇が岩の上に立つ。そして、青美鶴の批判、海都の自由の気風の維持や自主独立の商業組織の設立について熱く語る。これまで金大家の家長ということで胸の奥に仕舞っていた感情を、彼は言葉に乗せて人々にぶつける。そこに立っているのは、執務室の奥で指示を出す冷徹な為政者ではなく、街頭の演壇の上で情熱を語る扇動者だった。極限の環境にいる者には過激な言葉が必要だ。その場にいる人々のほとんどは、弾圧を受け怒りを胸に持っていた。
 わっと歓声が巻き起こる。
 そして青新蛇は組織の樹立を宣言する。名をどうするかという段になった時、一人の赤髪の男が手を上げた。
「海蛇の団でいいんじゃないのか」
 黒華蝦だ。一見青新蛇と無関係に見えるこの男は、この三日間に打ち合わせをする時間を十分持っていた。人々は青新蛇の名前の入ったこの組織の名前に反感を抱かずに賛成する。決起集会は成功した。だが、彼らは追われる身だ。祝うこともせず、すぐに次の行動に移らなければならない。
 青新蛇は岩を下り、南に向けて歩きだす。横に青正蛤が付き従い、この組織を維持する費用や、周囲の町の各商品の相場などを述べ始める。この集団のほとんどは商人だ。それぞれの人に指示を出しながら青新蛇は歩いていく。次の集合場所を告げ、資金調達のために各人を走らせる。行進の人数が残りわずかになったとき、一人の男が青新蛇の横に来て頭を下げた。
「牢で御一緒させていただいた青旨鯨と申します」
 青新蛇の眉が少し動く。
「いやあ、逮捕されるまで、まさか私の知り合いが赤族の族長で海都に赤族を招き入れたとは知りませんでした」
 男は笑みを浮かべる。
「海蛇の団には、多くの情報が必要だと思うのですよ。だから私は赤族の住む草原にでも行き、情報を集めたりしたらお役に立てるかなと思いまして」
 まずい。
 黒華蝦は前を歩く青新蛇の様子を見る。こめかみに青筋を浮かべ、拳を強く握っている。
「どうでしょう、青新蛇様。赤族はまた海都などに来るかもしれませんからね。私を、赤族の情報を集める役として使っていただけないでしょうか」
 笑顔を浮かべた青旨鯨の顔面に青新蛇の拳が叩きこまれた。青正蛤が悲鳴を上げる。
「ひぃ、な、何をするんですか」
 地面に転がった青旨鯨は恐れおののく。青新蛇の目は怒りで血走っている。慌てて黒華蝦は彼を止める。人数がほとんどいなくてよかった。面白そうだと思って入った組織だが、動きだす前に空中分解してもらっては困る。
「私の前から去れ」
 必死に自制しながら青新蛇が呟く。青旨鯨は怯える目で彼を見上げたあと、逃げるようにその場を離れた。
 その姿を冷笑を浮かべて見たあと黒華蝦は青新蛇の耳元で囁く。
「俺が矢を射ってきますよ。なに、見えないところで片付けますから」
 青新蛇は少し考えたあと頷いた。
「すまん、ちょっと俺は小便をしてくるぜ」
 わざと女性達にも聞こえるように言い、黒華蝦は笑いながら人々の列を離れた。
「くく、おもしろいな。便利な黒艶狐が来なかったから、どうしようかと思っていたところだったんだよ。腐っても辣腕の商人達の集団だ。うまく立ち回れば、楽して遊べそうだぜ」
 茂みに入り、矢をつがえてひょうと放つ。遥か遠くを歩く料理人が倒れた。首筋に矢が刺さっている。
「さて、ついでに小便もしておくかな」
 彼は用を足し、青新蛇達の許へと戻った。


  八 父と娘

 青新蛇達が決起集会を開いてから一ヶ月ほど経った頃、その場所からあまり離れていない海岸に一艘の小舟がたどり着いた。二人の男が月夜の浜辺を歩きだす。彼らは外套を着て覆面を被っている。先を歩いている男が北の方角を指差した。その指の先には海都がある。彼らは河岸で小舟を得て対岸に向かう。目指す場所は海都より少し上流。そこには海風神社の社領がある。その岸壁の底には引き潮のときだけ現れる洞窟があった。船はその暗闇のなかに吸い込まれて消えた。

 海都、青美鶴の私邸。焼け落ちた屋敷を復元した建物の自室に、仕事が終わった青美鶴は戻ってきた。あとは泥のように寝て、翌日再び仕事をする。その繰り返し。
 せめて水を浴び、汗だけでも流しておかなければ。そう思い、扉の握りに手を掛けたとき部屋の奥の壁を二度叩く音がした。緊張が走る。扉に鍵を掛け、入り口近くの壁の燭台に手を伸ばす。壁が動き、覆面を被った男が二人、姿を見せた。
「久し振りだな美鶴よ」
「お、お父様、ご無事だったのですね」
「くくく、わしが死ぬとでも思っていたのか」
「い、いえ」
 彼女の顔がさっと曇る。
「わしが離れているあいだに、海都は焼け落ちたそうだな」
「え、ええ。でもお父様のために、屋敷は元の場所に建て、地下運河の入り口も元の場所のままにしておきました」
「結構だ。さて世間一般では父娘の再会を祝す場面だと思うが、わしはそんなことをする気はない。報告をせよ」
「は、はい、お父様」
 顔に緊張を浮かべて説明を始める。青凛鮫は彼女の様子に驚く。彼が遠巻きに見て知っていた青美鶴は明るく気品のある女性だった。だがいま目の前で話している彼女は親に怯えるだけの陰鬱な女性だ。この落差は何だ。青美鶴は黒捷狸のわずかな動きにも恐怖の色を浮かべながら必死に話を続ける。
「なるほど、だいたい分かった。それでお前は青聡竜を閉腸谷から撤退させ、この海都に呼び戻そうとした。そういうことか」
 彼女は身を縮め、目に涙を浮かべる。折檻されることを恐れる子供のようだ。
「そういうことかと聞いている」
「は、はいそうです。お父様」
 目を瞑り、かすれるような声で答える。
「そうか、では青聡竜に暗殺者を放て」
 青美鶴と青凛鮫は驚きの目で黒捷狸を見る。
「お、お父様、それはどういうことでしょうか」
「海大家が抱えている荒事師を派遣して、青聡竜を襲わせろということだ。お前は、その程度のことも理解できないのか」
 青美鶴は咄嗟に頭を両手で覆い、体を震わせる。しばらくそうして怯えたあと、勇気を振り絞り父に目を向けた。
「あ、あの。お、お父様。青聡竜の叔父様を殺すのは……」
 必死にそこまで言ったあと、言葉が続かず、彼女は唇を噛む。
「荒事師ごときでは殺せぬと言いたいのだろう。それは分かっている。だが奴は察しがいい。その一事を見て、我ら父娘があの男のことを拒絶していることを知るだろう。そうすれば奴は海都に戻ってこない。聡竜はそういう男だ」
 青美鶴は訴えるような目で父を見る。
「それとも、奴が戻ってきて、お前のことを守ってくれることを期待していたのか」
「い、いえ違います」
 彼女は服の裾を強く握る。
「それでいい。お前はもう子供ではないのだ。一人前の人間として、わしの手足となり働かねばならない」
「は、はい」
 彼女は涙を必死に堪えながらその場で呼吸を整える。
「あ、あのお父様」
「何だ、美鶴」
「隣の方はどなたなのでしょうか」
「くくく、覆面を剥いで顔を見せてやれ」
 青凛鮫は女性に対してこの顔を見せるべきか迷い、黒捷狸に視線を送る。彼はおもしろくて堪らないという表情をしている。仕方がない。青凛鮫は覆面を剥ぎ、青美鶴に自分の顔を見せた。
 青美鶴の顔が凍りつく。両手で口を押さえ、悲鳴が漏れないようにと堪えている。青凛鮫は彼女の表情を冷静に観察する。これは恐ろしいものを見たときの表情ではない。黒捷狸に逆らえば、自分もこの顔になるだろうと想像して怯えている顔だ。
「こ、この方はどなたなのですか」
「自己紹介をしてやれ」
 楽しそうに言う。
「青凛鮫と申します。元司表配下で今はこの方の秘書をしております」
「くくく、どうだ美鶴おもしろいだろう。青聡竜に従っていた者が、今はわしの下にいる」
 彼女の表情にわずかな変化があったことを青凛鮫は見逃さなかった。だがその表情の意味までは分からない。青美鶴は顔を背け、覚束ない足取りで扉に向かおうとする。
「どうした」
「いえ、気分が悪くなりましたので。それに水を浴びて寝なければ明日の仕事にも差し支えますから」
「そうだな。ではわしらは地下に戻ることにしよう」
 吃音が取れている。黒捷狸は聞き逃したようだが、青凛鮫はそのことに気付いた。二人が壁の奥に消えたあと、青美鶴は廊下に出て扉を閉めた。
 周囲には誰もいない。この時間、女主人の眠りを妨げないようにと、使用人達は呼ばれなければ顔を出さないようになっている。彼女は何者かを閉じ込めるように扉に寄り掛かり、顔を伏せた。
 その表情は最初恐怖に染まっていたが、徐々に悲しさに変わり、最後は微かな笑みに変わった。
「老いたわね、お父様」
 彼女の蒼白かった顔に、わずかだが赤みが差す。
「お父様は、黒都で大失敗をしでかした。それがお父様の鉄の仮面にひびを入れた。そのひびの証拠があの青凛鮫という男」
 背中を扉から離れさせ、廊下を歩きながらぶつぶつと呟く。
「お父様は青聡竜の叔父様など歯牙にもかけないようなことをこれまで言っていたけれど、そうではなかった。叔父様の能力に、心に、生き方に嫉妬していた。だから心にひずみが生じたとき、子供のように叔父様のものを奪おうとした。馬鹿なお父様」
 彼女は顔を顰める。頭痛が襲って来た。幼少の頃に受けた心の傷は深い。この程度の事実を知ったぐらいでは癒されない。血の気が引き、また蒼白い顔に戻る。
「暗殺者を放たないと」
 そう呟き、彼女は重い足取りで廊下を進んだ。


  九 撤退

 相手を幻惑しさえすればよい。
 鉄壁の城砦に潜み、相手を疑心暗鬼に落とし入れることだけを目的とした青聡竜の作戦のせいで赤栄虎は無用な足止めをさせられている。
 守将は白緩狢ではない。そのことは赤栄虎も予想が付いた。何度も戦闘を重ねた相手だ。あの男の作戦はいつも同じ原理で動いている。相手の油断を誘い、罠にはめて圧殺する。
 閉腸谷にいる将の戦い方は根本的に違う。出す情報、出さない情報を徹底的に管理し、相手の思考を封じ込めて自分の手の平の上で躍らせる。そういう術策を弄する人間といえば神経質な相手を想像する。だがこの将は違う。闇や霧に紛れて奇襲もする。繊細さと大胆さを兼ね備えた人物だ。
 青聡竜という男だろう。
 そう予想しているが確証は得ていない。黄清蟻の書いた手紙の返事もなかった。山に放った偵察の兵も追い払われ続けている。脱走、反乱、不和、喧嘩。小さなものが頻発しだした。攻めなければならない。草原の民は攻城戦が得意ではない。しかしそれをせざるをえない。赤栄虎は苦い顔をした。

 翌日、総攻撃が決定され、栄大国の陣はにわかに活気付いた。炊煙がたなびき、少し離れた山から運んで来た丸太で作った攻城具が並べられた。誰の目で見ても分かる城攻めの準備だ。
 馬上の赤栄虎は不機嫌な顔でその様子を見る。こんな間抜けな攻撃を自分がさせられるとは思ってもいなかった。いつも圧倒的な情報の優位にあった赤栄虎にとってこれは屈辱的な戦闘だ。
 草原に隊列を組む。一枚目に当たる者達から順に城壁に向かって駆け、梯子や縄で壁に取り付く。丸太に紐をわたした攻城具を持った兵達は、城門にその先を打ち付け、扉を壊そうとする。
 城壁の上にあがった兵士達が怪訝な顔をしているのが見えた。
「おい、どうしたんだ。報告させろ」
 眉を顰めて赤栄虎が伝令を走らせる。すぐに報告が来た。
「砦内はもぬけの殻です」
 赤栄虎の顔が真っ赤に染まる。翻弄された挙句、こちらが総攻撃を掛ける前に、敵は全員こっそりと逃げ出したのだ。これ以上の恥辱がどこにある。赤栄虎は剣を抜き、手近な旗の棹を叩き切る。周囲の者がぎょっとする。だが彼はその一太刀で怒りを静めた。
 まだ顔は赤い。だが彼は大きな笑い声を上げて言い放った。
「敵め、我らが総攻撃をすることを知り、恐怖のあまり逃げ出しおったわ」
 周囲の者がどっと笑う。彼の言葉通りのことが起こったと思ったからだ。赤栄虎は笑顔で進軍を宣言し、陽気に砦へと馬を進める。栄大国の兵達が凱歌を上げながら続いた。兵は城門をくぐる。日を遮る影のなか、赤栄虎の爪は手の平に食い込んでいた。

「がははは、敵の奴らめ、わーっと攻めてみたら戦う相手が急にいなくなって、さぞ呆気に取られたことだろうな」
 馬で開喉丘を離れながら白厳梟が腹を抱えて笑う。
 海都から密使が来たのは数日前のことだ。撤退せよという青美鶴と白麗蝶、白大狼の署名入りの手紙を読んだ青聡竜がこの作戦を告げたとき、兵達は最初ぽかんとして、そのあと大笑いした。これほど相手を馬鹿にした作戦もなかったからだ。散々相手にちょっかいを出し、相手が本気で攻めてきたら手の平を返したようにいなくなる。
 相手が細かく攻めている時点で撤退を始めれば、すぐに気取られ追い討ちを食らってしまう。だから相手が攻撃の手を休める、凪に当たる時期がこの作戦には必要だった。この問題を解決するには、赤族に詳しい白晴熊の知識が役立った。
 赤族は大きな攻撃を仕掛ける前に、必ず戦闘を一時中断して全員で攻撃準備を行なう。敵が総攻撃の前の炊煙を上げるのを待ち、それを見るとともに全軍撤退した。
「青聡竜様、このあとはどうなさるのですか」
 馬上で白頼豹が問う。
「広源市は既に反乱が起き、落ちているという報告があった。広源市に近付かずに東に抜け、船を捕まえ海都へと向かう」
「途中の白都はどうするのですか」
 白早駝だ。背後には白太犬が乗っている。
「手前で船を降り、山道を抜けて海都に向かう」
 既に赤栄虎が抜けられることを実証している。
「しかし、赤栄虎の首を落とせなかったのは悔しいですな」
 白晴熊の言葉に全員が頷く。
「ああ、いつか我が手で、あの男の首を刎ねてやる」
 青聡竜は西を振り返り、目を鋭くさせた。

 青聡竜達一行は船を集め、広河を下り始めた。数日が過ぎ、日が没し、夜になる。既に白大国に入ってだいぶ経つ。見張りを除きほとんどの者が寝静まったなか、白太犬は横になり、月明かりで紙片を睨んでいた。
 彼はいまだ満足に文字が読めない。海都でもそのために周りの者に呆れられ、司表にも迷惑を掛けてきた。だから空いている時間を使って密かに努力を重ねている。まだ成果は出ていない。眠い目をこすりながら、頭のなかで文字の形を思い浮かべ、声を出さないように唇を動かす。
 木と木が触れ合う音がした。舷側に何か流木でも触れたのだろうか。白太犬は口を動かすのをやめ、その音に意識を集中する。少し頭を動かしてみたが、見張りは何も気付いていない。月の光を遮るように一人の男の姿が夜の景色のなかに現れた。周囲を警戒して中央の屋形に向かう。青聡竜のいる場所だ。白太犬は紙片を懐に仕舞い、音を立てないように起きた。男は気付いていない。一気に襲いかかり、背後から羽交い締めにする。
「侵入者だ」
 白太犬の言葉で船上の者達が慌てて起きた。屋形から青聡竜も出てくる。男は必死に逃げようとするが複数の兵達に囲まれて観念する。
「何者だ」
 青聡竜が問い質す。だが男は答えない。
「青族の者だな。何の目的で来た」
 白頼豹が剣を鞘ごと奪い、中身を月にかざす。
「青聡竜様。剣に黒色の墨のようなものが塗ってあります。いや墨ではなく毒のようです。むかし見たことがあります」
「暗殺者か。誰に依頼された」
 男は一瞬口の端を上げ、すぐに脱力した。口の隙間から赤いものが垂れる。毒だ。暗殺者がよく使う手だ。
「持ち物を調べろ」
「はい」
 白早駝は懐を探り、一枚の紙を見つける。
「何を持っていたのだ」
 その紙を奪い、青聡竜は読む。荒事師への暗殺の発注書だ。周囲の者も横からその書類を見る。
「こんなものを持っているなんて、間抜けな暗殺者だな」
 白早駝は笑う。
「いや、これは依頼主が身に付けておくようにと指示したのだろう」
 まともな暗殺者ならこんなものは持ち歩かない。彼は書類を食い入るように見る。海都海大家の家長の署名が入っている。青美鶴の文字だ。しかし彼女がこのような指示を出すとは思えない。誰か別の者が指示したのだろう。そして彼女に指示を出せるような人間といえば。
「そうか、そういうことか……」
 呟いたあと、青聡竜の顔がにわかに曇った。
「どうしたんですか」
 自分がこの暗殺者を捕まえたせいではないだろうか。そう思い、白太犬が心配そうな声を漏らす。
「どうやら、私は嫌われていたようだ」
 額を押さえ、自嘲げな顔をして、乾いた笑いを漏らす。周囲の者が怪訝な顔で青聡竜の姿を見る。彼らはこのように取り乱した青聡竜を見たことがない。ただ一人、白太犬だけが同じように我を失った青聡竜の姿を見たことがあった。
 誰か大切な人を失ったのだ。
 白太犬にはそのことが分かった。
 青聡竜は船上の者達に、自分が明日下船することを告げた。驚く者達をよそに、彼は屋形に一人引き返しだす。白太犬はあとを追う。そして青聡竜の前に立ちはだかった。
「司表様。何があなた様の心を傷付けたのでしょうか」
 彼は少し驚く。そして、白淡鯉の死を報せたのがこの青年であったことを思い出す。
「いつも君だな」
 白太犬は自分のせいで青聡竜が悲しんでいるのかと思い、表情を暗くする。青聡竜は右手を上げ、青年の肩に手を置いた。
「私は家族に愛されていると思っていたが、疎まれていたようだ。私は彼の心を深く傷付けていたらしい」
 どういう意味だろう。横を抜け、扉の奥に消えていく青聡竜の姿を白太犬は追おうとする。だが彼の前で扉が閉まった。船上に残された人々は、打ちひしがれた青聡竜の姿をただ見送ることしかできなかった。


  十 猟官運動

 栄大国の首都が広源市に定められ、慌しく日々が過ぎていった。
 白王が使っていた仮の王宮は栄王の王宮となり、連日多くの人々が面会を求めてこの建物を訪れた。一階の大広間には自分の番を待つ人々が列を作っている。そのなかに黄族の醜い男がいた。黒陽会の幹部の黒逞蛙だ。彼は左手に抱えた書類に目を通して時間を潰している。ふと周囲を見渡す。赤族の者が圧倒的に多い。続いて白族か。赤爽鷺や赤眩雉という赤族の軍師達が推挙した人物が多数いると聞いた。それらに混じり、黒衣の者達の姿も見える。ほとんどの者の目的は猟官運動だ。
 ふっ、俺もだな。
 辛そうに顔を歪める。人から軽んじられていた彼が、やっとのことで身に付けた錬金の秘術。それを失ったいま、ただの人に戻ってしまった。黒陽会で錬金に従事していた者の多くが同じ悩みを抱えていた。そしてその多くが行政官に転身した。
 俺には無理だ。
 そのことは彼自身がよく分かっていた。人を相手にする仕事は向いていない。彼を見た者の大半は彼を軽んじ残りは憎むからだ。
 人に会わずに済む職業がいい。
 そう思い、白大国の官制について必死に調べた。栄大国は白大国の体制をほぼそのまま引き継いだ。彼は農管吏という職掌、それも研究所での仕事なら自分でもできると考えた。黒壮猿に書いてもらった紹介状も懐中に入れてある。研究所の所長に推薦する書状だ。
 人の列が動いた。数人ずつ上階にあげられる。黒逞蛙も数人の男達と待合室に通された。白族の者達は緊張し、赤族の者達は談笑している。黒逞蛙はため息を吐く。彼らには推挙されるべき能力があるのだろう。黒逞蛙はいま必死に農業の勉強をしている。
「へー、あんた、植物について詳しいのかい」
 いつのまにか、赤毛の男が挿絵を覗き込んでいた。
「え、ええ。専門家ですから」
 卑屈に答えを返す。男はおもしろそうに黒逞蛙の手元を眺めたあと、赤族の男達に声を掛ける。
「おーい、行き倒れ。お前、植物のことを赤栄虎様に聞きに来たんだろう」
「なんだよ、俺を行き倒れって言うのはいい加減やめてくれよ。俺には赤善猪っていう立派な名前があるんだからさ」
 数人が笑いながら黒逞蛙に近付いてくる。殴られたりするのではないか。そう思い、顔を強張らせる。
「この男、植物の専門家らしいぜ」
「へー、そりゃあ都合がいいな。ついでに聞いておくか」
 赤善猪は大きな体を揺すって笑い声を上げる。にわか専門家の顔が曇る。赤毛の男は懐の袋から植物を取り出す。それは微かに光を放っていた。最初は迷惑そうな顔をしていた黒逞蛙の顔が徐々に変わる。
「こ、この植物は」
「ああ、草原の奥で見付けたんだ。俺は輝瞬草と呼んでいるんだがな」
 黒逞蛙は赤善猪の手からその草を奪い取る。そして目を大きく見開いた。
「知っているのか」
 陽気に尋ねる声を黒陽会の幹部は無視する。
 これは錬金の力を持っている。
「つっ」
 強く握り、鋸状の葉で指を切りその草を取り落とす。
「おいおい、気を付けろよ。そいつの葉は鋭いからさ」
 血が数滴床に垂れる。その血を見つめながら黒逞蛙は考える。錬金の力を秘めた草が存在する。その草を研究すれば力を取り戻せるかもしれない。
 黒逞蛙の顔付きが真剣になる。
 謁見室の扉が開き、彼らは呼ばれた。人数が多いためにまとめて話を聞いている。黒逞蛙は輝瞬草を拾い、抱えるようにして持つ。そしてかつて白王の姿に怯えた謁見室へと足を踏み入れた。今度の彼は黒壮猿の従者ではない。彼は一人の男として決意に燃えている。これはただの猟官運動ではない。錬金の力を独占できる人生最大の好機だ。横で赤善猪が草を返すようにと言っている。だが彼はその声を無視した。
「栄王様」
 無作法に、扉の前で立ち尽くしたまま第一声を発した。
「何だ。黒逞蛙ではないか」
 王は彼の名前を覚えていた。
「私がやらなければならない仕事があります。私こそが、誰よりも相応しい仕事です」
「ほう、大きく出たな」
 赤栄虎はおもしろそうに玉座から声を掛ける。
「かつて、白大国には農管吏という官制がありました。そしてその農管吏の組織には研究所がありました」
 彼は懐から、黒壮猿の推薦状を取り出す。
「栄大国にも農管吏が、そして研究所が必要です。そして私こそが、その研究所の所長に相応しい人物です」
 周囲の者達は呆気に取られる。
「ふむ。そして、お前が持っている植物は何なのだ」
「輝瞬草。私はこの植物の研究をします」
 黒逞蛙の言葉に赤善猪は驚く。
「それは、栄大国のためになるのか」
「黒陽会の力以上に」
「それは、錬金のように価値があるのか」
 言葉に詰まる。この草から力を抽出できるかはまだ分からない。しばらく視線をさ迷わせたあと決意の表情を浮かべる。
「私が価値あるものにします」
 赤栄虎は兵士に紹介状を受け取らせる。開いて見たあと、笑みを浮かべる。
「輝瞬草のことなど、一つも書いていないな」
「先ほどの言葉は、私個人の意思です」
 王は面白そうに笑い、小男を見下ろす。
「栄大国が成った暁にはしかるべき地位を、山中でお前はそう言っていたな。いいだろう。それがお前の望む地位ならば与えてやる。お前個人との約束だからな」
 赤栄虎は筆を取り、辞令を書く。
「次の者」
 呆気に取られていた人々が栄王の言葉で動きだす。白族や赤族の男がひざまずき、自分の売り込みを始める。辞令を渡された黒逞蛙だけが、その場の空気から浮いていた。
「ははっ」
 乾いた笑みを浮かべる。生まれて始めて、ここまで堂々としゃべった。もう二度とこんな真似はできそうもない。そう思い、自分がびっしょりと汗を掻いていることに気付いた。
 彼はとぼとぼと歩きだす。人々は彼を一顧だにしない。王宮を離れ大通りに出るまで語り掛けてくる者は誰もいなかった。辞令と輝瞬草を懐に入れた黒逞蛙は空を仰ぐ。太陽が輝いていた。黒陽の教えなど、もうどうでもいい。俺は力を手に入れる。彼は背を丸め、今後のことを考えるために自分の家へと向かった。


  十一 白麗国

 五年が過ぎた。
 これだけの月日があれば、人は成長し、国は興り、大陸の情勢は大きく変わる。
 白王が死んでのち、三つの大国ができた。西方には栄大国。そして白大国は西と東に分裂し白安国と白麗国になった。二人の王位継承者、白安豚、白麗蝶の名を冠した国だ。それぞれの国の首都についても触れる。栄大国は広源市、白安国は白都、白麗国は海都。史表作成の作業は司表不在のまま海都で続けられている。
 そこまで書き、白涼鴻は筆を置いた。
「少し、外を歩いてきます」
 白怖鴉にそう告げ、廊下を抜けて玄関を出る。石畳の上を歩き、階段まで来たとき、眼下に海都の姿が広がった。新しい司表殿は、土を盛り、高所に築かれている。政治的な正統性を主張する材料として、史表作成の事業が引き継がれたからだ。
 視線を街の各所の兵舎に向ける。兵達の動きが慌しい。戦が近付いている。街全体を見渡したあと中央を見た。かつて金大家があった場所には壮麗な王宮がある。白麗蝶、いまは麗王と呼ばれる美しい少女が住まう宮殿だ。
 階段を下り始めたとき一陣の風が吹いた。その風のなかに、春を感じさせる花の匂いが混ざっていた。

 王宮の庭園は花の匂いで満たされている。その花園の中央に一人の少女が立っている。年は十四。その顔にはまだあどけなさを残しているが、胸はゆるやかに膨らみ、腰から足先に掛けては女としての曲線を帯びている。大理石のように白い肌、銀糸のように細く美しい髪、薄墨を水面に垂らしたように微かに色を帯びた瞳。そして花にも負けない美しい唇。彼女は羚羊のようにしなやかな四肢と華奢な体の上に色鮮やかな絹をまとっている。
「ふむ。稽古を付けてやろう」
 彼女の前には九人の兵士が並んでいる。新任の護衛兵だ。隊長のいない隙を突いて連れてきた。彼らは困った顔をする。
「ほらほら、どうしたお前達。余が許可すると申しておるのだ。武器は何でもいいぞ。剣でも槍でも矢でも。まあ、素手がよいならそれもよい。どうした、お前達は腰抜けか」
 麗王は両手を組み、意地悪そうな顔で挑発的に顎を上げる。
「なんなら、手は使わずにいてやろうか。これなら、触ることぐらいはできるかもしれないからのう。それとも女人の肌に触れるのは慣れていないのか。それとも不能か。いや、仕方がないかもしれないのう。その顔では女も寄らぬであろうから」
 忍び笑いを漏らす。兵の数人の表情が変わった。
「麗王陛下、我々にも誇りというものがあります。そこまで言われて黙っているわけにはいきません」
 大きな手を広げて少女に飛び掛かる。彼女は軽く地を蹴った。そして男達の膝と肩を階段のように駆け上り、一瞬のうちに宙に舞う。
「背中ががら空きだ」
 足の先で一人の背中を押した。男達は互いにぶつかり合い、花壇に顔を突っ込む。白麗蝶はゆるやかに滞空して地面に着地した。
「よし、どんどん掛かってこい。王宮での生活は、暇で暇で仕方がないからのう」
 彼女は上着を脱ぎ捨て、薄手の衣一枚になり、身構える。純白の肌が露わになる。彼女が拳を振り上げた瞬間、その腕が掴まれた。
「ほほー、腕を上げたな黒健鰐。余の腕を掴むとはなかなかやるではないか」
「頼みますから、俺の部下で遊ばないでくださいよ」
 その台詞を言い終わる前に、彼の体は浮かび上がり、頭と足の位置が逆になった。
「飛んでいけーっ」
 嬉しそうに黒族の大男の腹を蹴る。花壇で横たわる部下達のあいだに、護衛隊長は落下した。
「うむ。黒健鰐は蹴り甲斐があるのう」
「白麗蝶様、じゃなくて、麗王陛下。いい加減に、おしとやかにしてくださいよ」
 十四歳の白麗国の王はぶすっとした顔をする。
「おしとやかにしても、おもしろくなかろう」
「いや、あのですね。女性はおしとやかにするべきなのですよ」
「ほほう、なぜだ」
「そういう守りたくなるような女性を男は愛したくなるのですよ」
「ふむ。それはお前の好みだろう。そういう女性を探し続けた挙句が、今の一人身の境遇というわけか」
 黒健鰐はばつが悪そうに視線を逸らす。
「まあ、よい。興が冷めた。で、余を探しにきたのは、護衛兵を連れ出した件だけではなかろう。お前の顔にそう書いてある」
「はい」
 表情を引き締める。
「白大狼様と青美鶴様がお呼びです。白安国侵攻の打ち合わせを行なうそうです」
「よし分かった」
 脱ぎ捨てた上着を蹴り上げ、空中で羽織る。
「ようやく退屈から解放されそうだ」
 薄笑いを浮かべながら、彼女は屋内へと向かった。

 作戦会議室には、摂政として政務を取っている白大狼、大臣として経済、外交を取り仕切る青美鶴、そのほか各軍団長や、元五大家の家長達が席に座っている。扉が開き、白麗蝶の姿が現れると全員が立ちあがり礼をする。
「侵攻計画を話せ」
 席に着くと同時に告げる。一同は着席し、白大狼が計画の概要を説明し始める。その言葉を肘掛に頬杖を突きながら彼女は聞く。
「現在、白都と海都の間には長大な石の壁が横たわっています。双方の国が砦を築き、その間を城壁で繋いでいった末、二本の長城になったものです。広河については二国の水軍が睨み合い、通行不能になっています。
 作戦の要点は、この長城の一部を無効にすることです。二本の壁は、均一のものではありません。互いの距離も違えば、作りも違います。周囲の自然環境も大きく異なります。麗王陛下。地図のこの場所をご覧ください」
 白大狼の顔を眺めていた白麗蝶は、視線を彼の指の先に向ける。平行線の形が複雑に入り組んでいる場所だ。
「この場所は低地にあり、地形が複雑な場所です。この場所では、どちらの国も、全ての場所を城壁で繋いでいるわけではありません」
「それはなぜだ」
「天然の要害だからです。高い城壁を築く必要はここではありません。次にこの場所をご覧ください」
「ふむ。かなり近い場所に湖があるのだな」
「はい。ここから運河を掘り、この低地に水を流します。白安国は陸軍での戦いが、白麗国は水軍での戦いが得意です。それは白安国も分かっています。だから広河に大艦隊を集結させています。我々はその場所ではなく、地図に新たな湖を作り、船を運び込み、そこを渡ります」
「実現は可能なのか」
「それに関しては、土木軍団の軍団長から説明があります」
 白大狼に代わり、別の男が技術解説を始める。その言葉を耳で聞きながら、白麗蝶は視線を別の場所に向ける。白大狼と青美鶴が隣り合い座っている。二人は互いの資料を見せ合いながら熱心に話している。若い女王は海大家の家長の姿を見た。五年という歳月は青美鶴から若さを奪わなかった。代わりに円熟した色香を身に付けさせた。白麗蝶は自分が美貌で劣るとは思っていない。だが女性として比べたとき、明らかに負けていることは理解していた。彼女は男を誘惑する術に関しては無知だった。
 会議が終わる。部屋がざわめきで満たされ、要人達が席を立つ。
「大狼」
「白大狼様。このあと、お部屋で打ち合わせを」
 白麗蝶の声を掻き消すように、青美鶴が白大狼に語り掛ける。玉座の上で、上げ掛けた手を止めた。二人が扉から出ていく様子を、寂しそうな顔で見送る。
「……大狼」
 小さく呟く。去り際に、青美鶴が微かに笑みを浮かべた気がした。麗王はとぼとぼと歩き、扉に向かう。廊下に出たとき青美鶴が白大狼の腕に手を回すのが見えた。
「お父様がいてくれれば」
 顔を背ける。白賢龍は、白麗蝶と白大狼を娶わせようとしていた。そして彼女はそうなることが当然だと思っていた。だが現実は彼女の望みとは違う方向に進んでいる。白麗国ができ、王になって以来、白大狼は臣下以上の態度をとろうとはしない。
「麗王陛下」
 大臣の一人が下卑た笑みを浮かべて近付いてきた。何とかして王に取り入ろうという魂胆だろう。彼女は父親譲りの眼力で睨む。不意を突かれた男が尻餅をつき、失禁した。白麗蝶はため息を吐き、前方を見る。白大狼達の姿は消えていた。彼女は再び庭園へと向けて歩き始めた。


  十二 海蛇の団

 ここ数年で急速に勢力を伸ばした組織がある。名は海蛇の団。商業組織としての側面が強く、構成員は各地を転々としながら資金や情報を集める生活を送っている。最近では辺境の開拓にも力を入れており、戦災を逃れてきた人々を自立に導く事業もしている。活動規模は大陸全土におよぶ。
 海蛇の団の本部は数週間で場所を移す。国家に属さず、三国の軍事活動を公然と非難しているために、どの国からも表向き弾圧されているからだ。だが実体は違う。各国の高官と結び、人材や情報の流通を担っている。数日前、その本部が白都の近くへと移動した。
「まるで遊牧民のような生活だな」
 かつて草原で暮らしていた赤毛の幹部が笑みを浮かべる。老境に入って既に長い。馬上毅然としているが、その顔に刻まれたしわの数は隠せない。黒華蝦は団長の姿を見る。
 この男とも奇妙な縁だな。
 青新蛇という男は、彼とは対照的だ。生真面目な性格のなかに、燃えるような情熱を持っている。怠惰と厭世観に支配された黒華蝦とは違う。
 今も真剣な顔で報告を受けている。確かあの老婦人は青喧鶯といったな。地下牢で一緒に過ごしたので覚えている。行商をしながらの諜報活動。海蛇の団には、このような仕事に従事している者が多い。ほかにも周囲を見渡せば、三国のそれぞれからやってきた人々の姿が見える。さながらここは情報の市場だ。各国の特産品が取り揃えられている。
「そうか、白麗国は白安国に侵攻を開始するのか」
 青新蛇の声に、黒華蝦は振り向く。
「いよいよ戦か」
「ああ、大規模な戦いが起こる。また人が多く死ぬ」
 彼はため息を吐く。
「最もよいのは、三国が均衡して戦争が容易にはできない状態になることなのだが」
「栄大国も白安国に攻め込むのだろう。白安国は挟まれる形になるな」
「白安国も、一国が相手ならば戦える力を持っているだろうが、二国を相手にすれば押し潰されてしまう。最も豊かな土地を持っているから軍事力は足りている。だが人材が不足し過ぎている。数十万の兵を率いて戦ができる人材が白緩狢しかいない。二面の攻撃は防ぎ切れない。そして白安国が滅びれば、その次は白麗国と栄大国の決戦となる。この二国が目指しているのは大陸制覇だ。いかに早く白安国を落とし、その領土を自国のものにするか。そのことに腐心している」
「じゃあ、潰れるな」
「このままではな」
 何か考えているようだ。だが青新蛇は武将ではない。自らが兵を率いて介入することはできない。
「白柔猩を呼べ」
 創設後しばらく経ってから入団した男を呼ぶ。元司表の配下であり、その職を辞して野に下った人物だ。白都にいくらかの人脈を持っている。
「青新蛇様。白安国への密使の仕事でしょうか」
「ああ、ひと働きしてもらう。一月以内に、白緩狢殿と会談をしたい」
 白柔猩は緊張する。予想以上の大仕事だ。
「分かりました。必ずや」
 すぐにその場を離れて旅の準備を整える。
「白安国の摂政と会うつもりなのか」
 黒華蝦は馬上で口の端を上げる。
「ああ、海蛇の団の情報が、必ずや今の白安国の不利を覆す」
「それはおもしろそうだな。冥途の土産に見ておくか」
「青新蛇様、収支計算が終わりました」
「いま行く」
 青正蛤の声だ。黒華蝦が見守るなか、二人は並んで歩き始めた。
「俺も老いたねえ」
 若さを羨ましく感じた。この五年で、世界を動かす人々の陣容が総入れ替えになった。老いるはずだ。
「さて、今日の女でも決めに行くか」
 黒華蝦は、馬の腹に足を入れた。


  十三 栄大国

 五年の歳月で、栄大国は名実共に大国の名に相応しい国となった。平原の西は旧白大国のなかでも開発の遅れた地域だった。そのため、最初の三年ほどは低い生産性に甘んじなければならなかった。だがこの二年、開墾も軌道に乗り、国力は日増しに増えている。それに応じて国民の王に寄せる信頼も篤くなった。白王の時代に成し得なかったことを栄王が行なっている。そう言う者も少なくない。
 広源市の王宮。その謁見室で栄王は待っている。日々膨大な数の臣民と会見する王だが、今日の午後はただ二人の臣下と会うためだけに空けている。長く時間が掛かるからではない。人払いのためだ。一人目の男が部屋に入って来た。
「栄王陛下、お久し振りです。黄清蟻、戻って参りました」
「うむ、待ちかねたぞ」
 赤い髪に、赤い髭を生やした王が笑みを浮かべる。黄清蟻は手を叩く。扉が開き、輿に乗った数十巻の巻物が謁見室に運び込まれた。部屋は再び二人だけになる。
「史表の写本でございます」
 赤栄虎は玉座を離れ、巻物の一つを開く。そして満足そうに頷く。
「俺はこの全てを読むぞ。市表の視点に史表の知識。広き大地と悠久の時間。史表を読み終えたとき、俺はさらなる高みに上がるだろう。そして白王を越え、大陸で最初の統一王朝の王となる。そして……」
「白王様の見た夢の先に……」
「俺はたどり着くだろう。黄清蟻よ。密かに人を集め、栄大国の後史表を編纂するのだ。白王の後継者には俺こそが相応しい。当然史表の事業も俺が継ぐべきだ。そして大陸を統一した暁には、お前の申したとおり史表を大陸中に流布させてやろう。だがそれまでは秘匿しておくのだ。大陸制覇には、情報の独占が必要だからな」
 黄清蟻は頭を垂れる。白王の遺志を継ぐ者が敵であっても構わない。そう思い、この五年間、過去の仲間達を偽って奔走してきた。その判断が正しかったか否か、それは赤栄虎が史表を読み終えたときに分かるだろう。
 やるべきことはやった。あとは結果を待つだけだ。黄清蟻は栄王としばらく話をして、王宮をあとにした。

 二人目の男が謁見室に入ってくる。同じ黄族であるが、その容貌はひどく異なっている。醜い顔をした黒衣の男だ。
「できたのか」
 赤栄虎の言葉に黒逞蛙は卑屈な笑みを浮かべる。
「ひ、密かに草原から入手させた輝瞬草を、研究所に植えて繁殖に成功しました。そして、いろいろな実験をしました。そして錬金の力を引き出せないか考え、そして……」
「もういい。俺が聞きたいのは、そして、という言葉ではない。できたのか、できなかったのかの答えだ。死表はできたのか」
「つ、作りました。しかし」
「今度は、しかし、か」
「答えは返ってきませんでした」
 王は失望の意を露わにする。
「お前を研究所の所長にし、何度か会い、錬金の話を聞いたとき、俺は死表のことを考えた。市表、史表、死表。世界を把握し、過去を知り、未来をも尋ねることができるのならば、俺はそれこそ神にでもなれる。そう思ったのだがな」
 錬金の力が失われたことは、黒逞蛙の口から知った。そして輝瞬草から錬金の力を生成したと報告を受けたとき、そのことを黒陽会の者に話すことを禁じた。もとより黒逞蛙にも話す気などない。これは二人だけの秘密だ。
「黒壮猿に研究をさせるべきだったか。だがあの男にいま以上の力を持たせると臣下の域を越える危険がある。……いや、いまからでも話すべきか」
 慌てて黒逞蛙は土下座する。そんなことをされれば、彼は黒陽会の者達から裏切り者として抹殺されかねない。
「栄王陛下、それだけは御容赦を」
 謁見室にため息が漏れる。
「あ、あの、死表は駄目でしたが、実は……」
 黒逞蛙は、師のような笑みを顔に浮かべる。
「何だ、申してみよ」
「このようなものを開発いたしまして」
 懐から何かを取り出し説明する。しばらくして栄王の顔に笑みが浮かんだ。
「ほう、なるほど。それは価値がある」
「は、はい。ありがとうございます。もし栄王陛下がお望みならば量産いたします」
 首が縦に動いた。黒逞蛙の目に光が宿る。その光には狂気が混じっている。彼はそれがどんな結果を招くのか気付いていない。彼は右手に持ったものを握り締め、醜悪な笑みを浮かべた。


  十四 白安国

 東の白麗国、西の栄大国に挟まれた白安国は、自らの意思とは関係なく戦の危機に晒されていた。この国の高官達にはいまのところ領土拡張の野心はない。いや正確に言うならば、現状をいかにして維持するかに彼らは腐心している。
「軍団長様」
 白都の西に支城として作られた砦の上で、自分を呼ぶ声に白恐蝮は振り向いた。年は二十七とまだ若い。だが白都周辺の城砦構築を一手に任されている。かつて閉腸谷から開喉丘にわたる巨大城砦を築いた白緩狢から、彼は築城を学んだ。
「なんだ」
 無愛想な声を返す。
「この砦の通過の許可を求めている一団がいます。白緩狢様の書状を持っておりますので通してもよろしいでしょうか」
「ふむ、確認しよう」
 西から白都に入るには水軍の網を抜けるか、白恐蝮の築いた城砦群を抜ける必要がある。一行は青族の男に率いられていた。
「本物のようだな」
 書類に問題はない。目的も正当なものだ。
「白緩狢殿に依頼された商品を届けに行くのだな」
「そうです。白緩狢様の故郷の特産品を届けるようにとのご依頼を受けましたので」
 品物を改めてみたが普通の小麦だ。このようなことは誰もがやっている。自分達の故郷の農産物を買うという名目で、地元の実力者に大金を落としてやる。忠実な兵を得るための政治活動だ。
「よし、通行を許可する」
 男はお辞儀をして白都へと向かった。白恐蝮はため息を吐く。彼の右手には、黄金の入った袋が握られていた。砦を通る商人達は、大なり小なり付け届けをする。自分はこんなものをもらうために軍団長になったわけではない。
「よいか気を抜くな。白都には五年の歳月で赤族の脅威を忘れた者もいる。だが奴らが大軍勢を率いて攻めて来たとき、白都の人間達も赤族の恐ろしさを思い出すだろう。そのとき白都の盾になるのは我らだ」
 千人長が頷く。白恐蝮は遥か遠くの西の空を見た。

 位打ちという言葉がある。分不相応な位にまで身分を上昇させて相手の自滅を誘う手法だ。白安国という国は、国を上げてこの位打ちをしている。五年前、王位を簒奪することで栄華を手に入れた者達の多くは、その数日前までは一介の兵士に過ぎなかった。わずかな数の軍団長達を除き、残りは千人長、なかには百人長達までもが高官に就いた。そのひずみがこの国を蝕んでいる。人が腐敗すれば国は崩れる。白安国は、その根から腐り始めていた。
 もう一つ問題があった。
 軍事の熟達者が、必ずしも政治の能力を持つとは限らない。
 この国の事実上の支配者である白緩狢には政治の才能はなかった。そもそもそのことは彼自身にも分かっていたことだ。白王の生きていた時代、白惨蟹の政治力に成す術もなく、孤立していた彼だ。攻め込んで来る敵を打ち破る才はあっても、味方の振りをして周囲で動く敵を屈服させる力はない。彼には簒奪者という弱みもあった。その彼が権力を維持し、この国を統治する方法は一つしかなかった。軍事力だ。白安国はその名に反して、軍事を最優先とする軍事国家として自らを変えた。
 最近、笑顔を見たことがないな。
 安王の部屋に向かう白緩狢を見て白秀貂は思った。彼はいま、白安豚の近習の末席にいる。近習といえば聞こえはよいが、実体は虜囚である。史表の事業は白麗国の首都で継続されている。その仕事に従事する者を手元に置いておけば、何らか情報が得られるかもしれない。そのために公然と離れることができない職に就け、実際は何も仕事をさせずに飼い殺しにしている。当然、外部とのやり取りは厳しく監視されている。
 白緩狢は扉を開け、奥に消えた。
 やることが何もない。
 白秀貂は窓へと歩き、王宮の廊下をみた。青族の男が白族の男と歩いているのが見えた。
「あれは白柔猩」
 五年振りに見た元同僚の姿に彼は驚く。いったいなぜ彼がここに。そして、隣の人物は誰なのか。窓を離れ、廊下に向かおうとする。衛兵が彼の腕を掴んだ。
「どちらに行かれるのですか」
「少しこの場を離れる」
 兵士は首を横に振る。
「白安豚様の許可がない限り、ここを離れてはなりませぬ。いつお声が掛かるのか分かりませんから」
 白秀貂は舌を鳴らし、再び窓の前に戻る。二人の姿は消えていた。

 その日の夜。
 白緩狢は王宮内の自室で一人の青族の男と会った。傍らには、この会談の仲介をした白柔猩が立っている。
「あなたと会うのは初めてですね」
「ええ、白緩狢様。お互い、これまでの人生で出会う機会がありませんでしたから。しかし五年前を境に大きく運命が変転したということでは、我々は近い運命を持っているのかもしれません。初めまして、元海都金大家家長、現在は海蛇の団の団長、青新蛇です」
 二人は握手を交わす。
「さて、青新蛇殿。あなたは商売人だそうですね。何か白安国が欲しがるようなものでもあるのですか」
 白柔猩は緊張する。その話は既に白緩狢に告げている。だから今日の会談を受けたのではないか。青新蛇の顔を少し見る。彼は笑顔のままだ。
「さすが白緩狢様。商売の基本を心得られている。商売は、相手が欲しがっているものを売るのが基本。無理矢理ものを押し付ける商人は下の下ですから。話が分かる御方でよかった」
 白緩狢が笑顔の男を睨む。機嫌は決してよいとは言えない。彼は苛立たしそうに指先を動かしている。
「白安国は圧倒的な軍事力で安定を求めようとしています。ですが、決定的に不足しているものがあります」
「何ですかそれは。私は軍人の出ですからね。回りくどい言い方は嫌いなのですよ」
「人材ですよ。それも特殊な人材。数十万の兵を率いて戦をできる人材です」
 白い眉が微かに動く。
「栄大国には赤栄虎がいます。白麗国にはこの五年で育った白大狼がいます。そして白安国には同じく摂政の白緩狢様がいらっしゃいます。大将の数だけ見れば互角。ですが、白安国は分が悪い。他の二国に挟まれています。戦が始まれば戦場は二面になる。だから人材が不足していると申し上げたのです」
「そのような人材が簡単に見つかれば苦労はしない。育てるのにも時間が掛かる」
「この者から、既に提案はさせていただいたはずですがね。それとも、やはり感情のしこりが原因でしょうか。あなた様はあの方を嫌っているようですから」
 白緩狢が睨む。
「我々の情報網は、一人の人物の居場所を掴んでいます。だが彼は世を捨て隠遁した身。世間に今一度呼び戻すのならば、それなりの手間が必要になるでしょう。白緩狢様、あなたが望むのならば、我々は青い鎧の人物にあなたが会えるよう、手配する準備があります」
 沈黙が続く。白安国に即戦力となる将が必要なのは事実だ。それも、当面の数年を凌ぐためにだ。彼は人材育成に努めている。そして多くの軍団長を育てた。だがそれ以上に育つためにはあと数年が必要だ。あと五年、いやあと三年でいい。その期間、栄大国と白麗国の侵攻を食い止める人材がいる。
「あなたは商売人だ。利益はいったいどこにあるのです」
 青新蛇は口元を綻ばせる。
「何か勘違いをされているようですね。たしかに私は商売人です。ですが商売は手段に過ぎません。私が望んでいるのは、この大陸全土がかつての海都のような自由な商業の場になることです。そのためには戦が止み、安定状態に移行し、通商の自由が確立する必要があります。白安国が倒れれば、大陸は二国の決戦の場になる。それを避けようとしているだけです。そのためには、侵攻を食い止める将が白安国にいなければならない」
 再び沈黙が下りる。しばらく蝋燭の炎だけが揺らめき続ける。白緩狢は口を開いた。
「人間一人で大陸全土の安定。とても高い商品らしい」
「お買い得だと思いますよ。商品には自信がございますから」
「三日以内に返事をしましょう」
「賞味期限内にお返事をいただければ幸いです」
 二人は部屋を出ていく。白緩狢は立ちあがる。壁に影が映った。その影をじっと見つめる。
「私が二人いれば、あの男の力を借りる必要もないのだが」
 自嘲げに顔を歪め、腰の剣を抜く。振り返り一閃した。蝋燭の芯が断たれ、部屋が暗くなる。影はもう見えない。彼は寝台の上で横になった。


  十五 青い鎧の男

 田畑と山河しかない白安国の片田舎。その場所に建つ庵に子供達の声が響いている。
「ねえ、先生。これはどう読むんですか」
 利発そうな少女が青黒い髪の壮年の男に書物を見せる。
「そうだな、そこの大きなお兄さんに尋ねてみなさい」
「えー、俺ですか。えーと、は、は、は、はくけんりゅうはいいました」
 白族の男はしどろもどろになりながら必死に文字を読む。
「うーむ、お前は相変わらず字を読むのが苦手なようだな」
「分かっているなら、俺に振らないでくださいよ」
 青年の声に子供達はどっと笑う。十数人の生徒達とともに青族の男も笑みを浮かべた。
 その庵の外に、天蓋付きの馬車が止まる。扉が開き、きらびやかな高官の服をまとった白安国の摂政が降り立った。続いて後続の馬車から青新蛇とその秘書の青正蛤が出てきた。二人は白緩狢の横まで歩く。
 庵の入り口の上に、木の板に墨書した看板が見えた。
「何と書いてあるんでしょうね」
 青正蛤が背伸びをして顔を近づけようとする。眼鏡を動かして焦点を合わそうとするが遠過ぎてよく見えない。
「双龍庵だ。かつて白王様が国を興される前に、青聡竜殿と互いの学問を競われた場所の名だ」
 白緩狢が抑えた口調で説明する。青新蛇はその横顔を見た。
「青新蛇様」
 小声で呟き、青正蛤が袖を引いた。彼女の顔を見下ろすと、少し怯えている。
「どうした」
「大丈夫なんですか」
「何が」
「白緩狢様、何か怒っているみたいですけど」
 今一度男の顔を見る。言われてみると怒りを抑えている表情にも見える。しばらく入り口で待っていると一人の男が出てきた。
「どなた様ですか。え、うわ、白緩狢殿がなぜここに」
 白頼豹が声を上げる。
「どうした白頼豹」
 奥から声が響く。
「青聡竜殿、白緩狢殿が来ています」
 庵のなかで大人達の驚きの声が上がる。しばらくして青い衣をまとった壮年の男が入り口に現れた。
「なるほど、どういうことかと思ったら、青新蛇殿の手引きですか。いつも子供達の勉学に必要な物資の差し入れ、感謝しています」
 青聡竜は笑顔で握手を交わす。
「白緩狢殿はお久し振りですな。たしか広源市の付近で分かれて以来だったと思います。その後、いろいろあったようですな」
 少し責めるような口調だ。
「あなたこそ。各地を転々としながらいろいろなことをなさっていたそうですね」
「ええ、大陸の各地をこの目で見て回りましたよ。そしていまは子供達に学問を教えている。気ままな隠遁生活です。それよりも、白安国の摂政ともあろう御方が、いったいなぜこのような庵にやって来たのですか。風流でも楽しみに来ましたか」
「話がある」
 白緩狢の声は重く鋭かった。青聡竜は庵の奥を眺める。
「君達、先ほど教えた部分の暗唱、白頼豹に教わりながら先を続けなさい」
「はーいっ」
 子供達の元気な声が響く。
「そちらの林道を少し歩きましょう。青新蛇殿もご一緒に」
 青聡竜の背中を追い、白緩狢、青新蛇、青正蛤が歩きだす。
 林に入ると周囲の景色が緑色に輝きだした。風が心地よく彼らのあいだを過ぎていく。四人はしばらく歩き続ける。
「青聡竜殿」
 庵に声が届かなくなった頃を見計らい、白緩狢が口を開いた。
「何ですか」
「私はあなたが嫌いなのですよ」
 海蛇の団の二人は卒倒しそうになる。
「そうですか。そのことを、わざわざ言いに来たのですか」
 四人は足を止める。青正蛤は青新蛇の腕を掴み、不安そうに見上げる。
「こういったことはあらかじめはっきりさせておいたほうがいい。あなたは金や地位で動く男ではないですからね」
 青聡竜は振り返る。
 風が吹いた。木々の枝が揺れ、木洩れ日が地面に模様を描く。
「私は隠居の身。あなたは私に何を望んでいるのですか。それに私の持つ海都との縁を考えているのでしたらお門違いですよ。私は疎まれ追放された身ですから」
「あなたは一度隠居したあと司表という仕事を引き受け世に戻ってきた。一度できたことが二度できないわけはない」
 白緩狢は青聡竜を睨む。
「私が今日来たのは海都の件ではない。赤栄虎と戦う人物を求めてここに来たのだ」
 空気が一瞬変わる。
「それこそ見当違いというものです。私のような個人に何ができるというのです」
「西方大将軍という職を用意している。数十人の軍団長を率い、栄大国を迎え撃つ軍の将だ」
 青聡竜はしばらく目を閉じる。
「私が戦をしていたのは過去のことですよ。もう昔のことは忘れました」
 その言葉を聞き、白緩狢が激怒する。
「ではなぜ、庵に双龍庵などと掲げているのだ。あなたは昔を忘れてなどいない。双龍庵があなたと白王様が学僧市で過ごした場所だということぐらい私でも知っているぞ。あなたは白王様と白淡鯉様と過ごした時代をいまも強く覚えている。そして大切な思い出を破壊した赤栄虎という男を許していない。あなたと私の目的は一致している。あなたは赤栄虎を倒したい。私も倒したい。なぜこの話に乗ろうとしないのだ」
「白淡鯉」
 青聡竜の顔が曇る。
「あなたは戦を望んでいる。いや、はっきりと言おう。白王様と白淡鯉様の復讐を望んでいる」
「私はもう武器も鎧も捨てた身です。今更何をおっしゃる」
「青聡竜様ーっ」
 呟く声を掻き消すように、騒がしい声が聞こえてきた。二人の男が林道を駆けてくる。
 青新蛇が振り向き、道の先を見る。司表の部下の白早駝と白厳梟だ。二人は青聡竜の前まで一気に走り、口々にしゃべりだす。
「ようやく追い付きましたよ。白頼豹に話を聞き、慌てて荷物を探して追い掛けてきたんです。でも、荷物が重くてなかなか早く走れなくて」
「はあ、はあ、わしは荷物は持たずに追い駆けたのだが、白早駝の足の早さといったら化け物じゃわい」
「どうした、何を持ってきたんだ」
 白早駝と白厳梟は顔を見合わせて笑みを作る。
「戦に行くんでしょう。二年前に青聡竜様が剣と鎧を捨てておけと言ったときに、僕達密かに捨てずに取っておいたんですよ」
「あーそうだ。水臭いぞ青聡竜。わしらを置いて一人で戦に行こうと思って、鎧と剣を捨てさせようとしたのだろう。その手には乗らんぞ。がっはっはっ」
「いや、そういうつもりでは」
 背中に背負っていた荷物を下ろし、白早駝と白厳梟は荷を解き始める。包みからは青く美しい鎧と一振りの剣が出てきた。
「きちんと手入れはしておきました。いつでも戦に行けます」
「ああ、わしらもちゃんと体を鍛えておった。いつでも赤族の首を刈れるぞ。さあ、敵はどこだ」
「いや、戦に行く気は……」
 二人の勢いに青聡竜は口ごもる。
「先生、栄大国が攻めてくると、この場所も戦場になるの」
 気付くと双竜庵にいた子供達もいつの間にか林道に来ていた。青聡竜は彼らの目をじっと見つめる。その様子を見て、沈黙を守っていた青新蛇が口を開いた。
「青聡竜殿。いま白安国が倒れれば、栄大国、白麗国の徹底的な大戦に発展するでしょう。そうなれば平原のいたるところが戦場になるはずです。それを防ぐには、白安国が滅びないように、栄大国、白麗国の侵攻を止めなければならない。そのためには青聡竜という才能が必要なのです」
 子供達は不安そうに青い衣の男を見上げている。妻を得ず、子を成さなかった彼にとって、自分の教え子達はみな我が子のようなものだ。
「心配ない。この場所は戦場にはならない」
「先生」
 青聡竜は剣を取り上げ腰に差す。
「再び鎧を着ることになるとは」
 青い鎧に手を掛けた彼の目は徐々に鋭さを増していく。鎧を身にまとう。青聡竜は林道を歩き始めた。赤栄虎をともに追った白早駝と白厳梟がその後ろに付き従う。白緩狢も歩きだした。青新蛇も続く。青正蛤も彼の手を握りあとを追う。彼女の手は震えていた。
「どうした」
「始まるのですね、戦争が」
「ああ、だがこの初戦をしのげば、数年は安定が続くだろう。安定の期間が長くなればそれが常態になる。そうすれば平和が訪れる」
 青正蛤は青新蛇の腕に抱き付く。
「怖いのか」
 首を横に振る。
「計算できないんです。どうなるか」
「戦とは、そういうものらしい」
「今日のことが、より被害を拡大させる可能性もあるのですよね」
 青新蛇は立ち止まる。
「大丈夫だ。この策が成就するように、私も命を賭して働くつもりだ。策は必ず成功する」
「駄目です青新蛇様。命を賭すなんて言わないでください」
「何を言っているんだ。ここで私が命を投げ出して働かずにどうするというのだ。この策を白緩狢殿に提案する時点で、既に命など捨てている」
 林道を引き返していた者達が怪訝な顔で二人の様子を見る。
「子供が」
「子供がどうしたというのだ」
「できたんです」
「どういうことだ」
「あなたの子供が私のお腹に」
 かすれるような声が漏れる。
「だから、死なないでください」
 男は青い顔をして女を見下ろす。
「そ、そうか」
 人々は二人を残して林道を進んでいく。青新蛇の腕には青正蛤が抱き付いたままだ。彼は頭上の枝葉を通して天を仰ぐ。しばらくそうして木洩れ日を眺めたあと、腕を振り払い歩き始めた。
「もう、戻れないところまで来ているのだ」
「青新蛇様っ」
 一人、緑の景色のなかに取り残された青正蛤は嗚咽を漏らす。風が吹いた。木々のざわめきが彼女の声を掻き消した。


  十六 開戦

 栄大国は水軍が弱い。そのため輸送に船を使う場合も細心の注意が必要となる。少なくとも国境を越えての大量輸送は望めない。栄大国と白安国の事実上の国境となっている地点の遥か手前で船は止まり、それ以降は徒歩と騎馬での行軍となる。
 国境の砦には既に栄王が到着していた。この地から内政の指示を出しつつ、侵攻の準備を進めている。今日は侵攻直前の最終会議ということで、軍務、内務の高官達が集まっていた。
「いよいよ明日より東進を開始する。兵站の準備の進み具合を報告しろ白危貘」
「はっ、現時点で兵を十年養える物資を用意しています。あと、黒壮猿殿の食料増産計画の進展で、戦時中の物資の補充も問題なく行なわれる予定です」
「それについては、私から話しましょう。既に国内生産は黒字に転じています。そして辺境の地の開発の成果が出始めています。飢饉が起きたとしても、三年続かなければ実質的な影響はございません」
「後顧の憂いはないということです」
 白危貘は告げる。
「いや、憂いはある」
 栄王の言葉に一同はどよめく。
「赤眩雉、密偵の調べてきた情報をこの場で述べよ」
「はっ」
 諜報活動を主に担当している美服の赤眩雉が立ちあがる。
「白安国の西方戦線担当の大将軍として、青聡竜が起用されたそうです」
 一同どよめく。五年前、閉腸谷で彼らを翻弄したあと、歴史から忽然と姿を消した男が再び立ちはだかるというのか。
「憂いとはこのことでしょうか」
 白危貘の問いに赤栄虎は首を横に振る。
「続けよ赤眩雉」
「はっ。青聡竜と白安国の摂政白緩狢を結び付けたのは海蛇の団の団長青新蛇。この海蛇の団と密かに内通している者がこの席上にいます」
 ざわめきが起こる。もしこの話が本当ならば、栄大国の作戦会議の内容が白安国に漏れていることになる。栄王は静かに目を閉じた。
「その者は誰だ。報告せよ」
 赤眩雉は頷き口を開く。
「赤爽鷺です」
 若い軍師に視線が集まる。
「事実か」
 目を瞑ったまま栄王は尋ねる。赤爽鷺は震えながらその場で身を縮めている。
「栄王陛下。私の話も聞いてください。理由があるのです」
「事実かどうかと聞いている」
 赤栄虎は目を開き、燃えるような視線を青年に向けた。
「事実でございます。しかし、国のことを、民衆のことを思い、やったことなのです」
「そして、我々を裏切り、国を滅ぼそうとした」
 赤眩雉がぼそりと呟く。赤爽鷺は彼を睨む。だが赤眩雉はその視線を無視するように、席に着いた。赤爽鷺だけが衆目に取り残される。
「赤爽鷺に永蟄居を命じる。広源市の自宅にて扉と窓を閉ざせ。追って調査が行なわれる。正式に罪が確定するまで待機しておけ」
「は、はい」
 消え入るような声が口から漏れた。兵が現れ、両脇を抱えて赤爽鷺を会議室から下がらせる。続いて具体的な進軍計画が話し合われた。

 白都を取り囲むように作られた支城の屋上に立ち、青聡竜は西方を見ている。背後には白早駝と白厳梟が控え、横には白恐蝮が立って砦の説明をしている。
「ああ、非常によくできた砦だ。白緩狢もよい部下を持ったな」
 青聡竜の言葉に、ふだん笑わない白恐蝮が笑みを浮かべる。周囲の者の心を自然と自分に引き寄せる魅力を青聡竜は持っている。
「支城の防衛は、君を中心にして軍を編成しよう。あとは迎撃計画とその運用だな」
「それは下の作戦会議室で他の軍団長達とともに」
「よし。移動しよう」
 二人は階段を下り始める。白早駝はそのあとを追おうとして足を止めた。
「厳梟殿、どうなされました」
「うむ、わしの人生は戦ってばかりだと思ってな」
「またまた。そんな感傷的な台詞、厳梟殿には似合わないですよ」
 白早駝は笑い声を上げる。
「これが最後のご奉公じゃろう」
 白厳梟は白早駝を追い、階段へと向かった。

 会議室には西方の栄大国の軍勢を迎え撃つ軍団長達が集まっている。彼らの前に立ち、青聡竜は作戦の概要を説明する。
「重要なのは敵の戦力を無力化し撃滅することだ。そこで我々は変則的な平原での会戦を行なう。通常の会戦では、自軍と敵軍が向かい合い、陣形を作り、相手に決定的打撃を与える。だがこれは危険が大きい。さらに赤族というこの形式の戦いに慣れた兵が敵には多数いる。今回行なうのは、その会戦に砦を組み込むことだ。白都の支城として建設されている砦は、平原という地形の特性上、平らな大地の上に建てられている。これは、敵の侵攻を食い止める砦としてはいささか不都合だ。無視して一気に通過することが可能だからだ。だから発想を変える。砦を巨大な兵士と見立て、戦線の一端を担わせる。敵を砦に引き付け、その場で兵を展開し、限定的な会戦を行なう。そして敵を城壁に押し当て撃滅する」
 そこまで告げたところで青聡竜は周囲を見渡す。
「そのようなことは可能なのでしょうか」
 最年少の軍団長の黒醇蠍が尋ねる。
「いまのままでは不可能だな」
 一同ざわめく。西方大将軍は笑みを浮かべ、片手を上げてその声を止めた。
「今日は無理だが、七日後には可能になるだろう。君達の努力次第だ。どうだね、学んでみたいとは思わないかね。白賢龍と青聡竜が白大国を築いた用兵の数々を」
 会議室のざわめきが止む。
「それでは作戦の詳細を説明しよう。まずは全軍団を四つに分ける。各砦内で守備をする軍団。砦に潜み、必要に応じて野に兵を展開する軍団。いつでも会戦に応じられるように、平原を絶えず移動する軍団。そして敵の後背を突く遊軍」
 白恐蝮は屋上での話のとおり守備軍の長を任された。過去に騎馬軍団を率いて戦を重ねてきた黒醇蠍は遊軍に組み込まれる。各軍団長は特性に合わせて持ち場を振り分けられた。最後に青聡竜は、自分自身の居場所を平原を移動する大軍団と決めた。最も危険で大局眼を必要とする場所だ。そして会議の直後から、軍団を手足のように動かすための教練を開始した。

 白安国では西方だけでなく東方でも戦の準備が進んでいる。こちらでは白緩狢が東方大将軍となり防衛を担当している。彼が今いるのは長城沿いの砦の一つだ。白緩狢と軍団長達は地図を囲み防衛策を協議している。
「最も考えられる敵の侵攻経路は長城のどこかを破ることだ。もう一つの方法としては、長城を大きく迂回しての移動がある。しかし大軍を長距離動かせば、その動きは容易に露見する」
「どちらの策を取ってくるでしょうね」
 軍団長の一人が尋ねる。
「敵の総司令官の白大狼は万事慎重な男だ。最も安全で確実な策を選ぼうとする。対して白麗国の王白麗蝶は目的のためには障害を叩き潰してでも進もうとする人間だ。彼女が策を決定するのならば長城を破壊して進もうとするだろう。もしくはまったく違う第三の策か」
 そのとき部屋の扉が開け放たれ、千人長が飛び込んできた。
「白緩狢様、長城の一部が消滅しました」
 部屋にいた一同がその言葉の意味を計り兼ねる。
「どういうことだ」
「白麗国の土木軍団が運河を作り、近くの湖の水を低地に流し込んだのです。その結果、長城の一部が湖の底に沈みました。彼らは防衛線を船で渡り、長城を裏から攻め始めています」
 軍団長達は戦慄する。白緩狢は机の上の地図を見た。確かにそこには湖がある。
「兵を動かすぞ。すぐにその場所の迎撃に向かう」
 先制攻撃を敵に許してしまった。だが敵は兵の移動に船を使っているという。一度の輸送で運べる兵員は限られている。迅速に動けば対処できる。白緩狢は砦の階段を駆け下り、自身の馬に飛び乗った。

 支城での会議から七日が過ぎた。
 東で戦端が開かれた数時間後、西でも戦いが始まった。赤熱鷲の率いる先鋒がもっとも西の支城に攻撃を仕掛けた。城砦の弩や投石機が唸りを上げる。矢が兵を貫き、岩が人馬を押し潰す。だが栄大国の兵は止まることを知らずに城壁に殺到する。梯子が掛けられ、鉤縄が投げられる。わっという歓声と共に男達が壁に取り付いた。矢が、岩が、熱湯が城壁の上から落下する。悲鳴とともに兵も落ちた。
 法螺貝の音が響く。
 少し離れていた丘に集結していた兵が動きだす。歩兵も騎兵も大きな旗を持っている。その一団が、景色を幕のように隠しながら近付いてくる。
「奇妙な動きだな」
 攻城戦の指揮をしていた赤熱鷲は馬上で首を捻る。白安国の兵達が砦に接近した。赤熱鷲率いる軍の間近まで来たときに、幕の陰から大量の騎兵が飛び出した。対応が遅れ、騎兵が一気に砦の周りを囲むのを許してしまう。森や谷のない場所で、白安国の軍は旗で自軍の動きを隠していた。彼らは栄大国の攻城軍に刃を向けるだけでなく、後続の兵達に対しても武器を構え、大量の旗で視界を遮る。城門が開かれ、騎兵が突撃し、重装歩兵による殲滅が行なわれる。包囲していた兵が動きだし、旗の幕が移動する頃にはその兵達は砦内に引き上げている。残されたのは栄大国兵の屍の山だけだ。
「追え」
 栄大国軍の本隊で指示が飛ぶ。だが白安国の軍団は波が引くように一定の距離を取り、戦陣を組み直す。全軍が一つの機械のように正確に動く。砦から矢や岩が放たれた。
「全軍停止」
 追撃を諦めたのか、栄大国の軍勢は停止した。
 砦の周囲のわずかに生き残った兵士達が栄大国の本隊に戻ろうとする。その背中に大量の矢の雨が降り注ぐ。軍団長の赤熱鷲など数人を残し、攻城兵は全滅した。

 戦は始まった。だがこの三国の交通は完全に断たれたわけではない。国境線が長大であるため、完全に人の行き来を制限できないからだ。小競り合いは多くの場所で起こっている。だが広河の流域を除いては大戦場と呼べるような場所はない。そういった戦禍に巻き込まれていない地域を経て、白安国に至った人物がいる。もともと海都の住人だった女性だ。だがある目的があり、単身白安国に潜入した。指示を出した者はいない。自身の考えと決断でこの危険な旅に出た。
 五年前、司表殿で、多くの人々から青聡竜と青美鶴が頻繁に会っていたことを聞いた。そして青美鶴が青聡竜を叔父として以上に慕っていたことを知った。誰もが口々に語った。彼女が司表に時折見せる表情は、女性が愛する者に対して見せる表情だったと。
 そして青聡竜が去ったことにより、青美鶴の性格が一変したということを司表代理の白怖鴉から教わった。海風神社の神官とも話をして青美鶴の生い立ちも知った。十歳の彼女が青聡竜に出会ったことで変わったことも聞いた。
 青美鶴を元に戻すには、青聡竜が海都に戻る必要がある。
 青明雀はそう確信した。しかしそれから五年。青聡竜がどこにいるかはようとして知れなかった。青聡竜が白安国の西方大将軍に就いたという噂を聞いたとき、彼女は反射的に飛び出した。そしてこの五年で得た荒事師の人脈で密入国の経路を聞き、白都の近くまでたどり着いた。
「お嬢ちゃん。危ないよ。西は戦場だ。逃げるのなら北だよ」
 家財道具を荷台に積み込んだ老農夫が声を掛けてきた。
「ありがとうございます。でも私はその戦場に、会いに行かなければならない人がいるんです」
 老人は怪訝な顔をする。
「そうかい。無事に会えるといいね」
 農夫は北へと消えた。どうすれば青聡竜に会えるのかは分からない。でも青美鶴のことを伝えなければならない。彼女は歩きながら耳を澄ました。風に乗って微かに人々の悲鳴が聞こえてきた。


  十七 突破

 開戦から七日が経った。
 栄大国の侵攻は完全に止まっていた。白恐蝮の建てた砦、青聡竜の神速の用兵、そして黒醇蠍達遊撃軍の後背への奇襲。赤栄虎の指揮の達者さのせいで決定的な一撃を与えることはできなかったが、それでも彼らの攻撃は栄大国の兵の数を確実に減らし、士気を衰えさせていた。
「敵もなかなか持ち堪えるな」
 青聡竜は西を見ながら呟く。訓練期間が短かった。新兵も多い。このような繊細な用兵は長く続けられないだろう。
「敵は馬鹿正直ですね」
 白早駝が呟く。
「そろそろ手を変えてくるかもしれんのう」
 これまでの戦場での経験から、白厳梟が意見を述べる。
「何か決定的な隙を見せてくれれば、白淡鯉と白賢龍の仇が取れるのだがな」
 だが栄大国の軍、いや赤栄虎は、まだその隙を見せてはいない。

「風が必要だ」
 馬上、周囲の者達に向け、栄王は声を発した。現在、風は東から西に吹いている。ここ数日そうだ。彼には試したい策がある。だが風向きがその策を許さなかった。
「黄慎牛を呼べ」
 王の言葉に、天気読みの男が姿を現す。
「今こそ、お前の能力が必要なときだ。西から東に強風が吹くときはいつか。それを申せ」
「はい、そうでございますね。今日の夜、もしくは二日後の正午」
「夜はまずい。二日後の正午の天気はどうだ。そして風の吹く長さはどのくらいになる」
「天気は晴れでございます。風は正午から夕方に掛けて徐々に弱くなるでしょう」
「赤荒鶏」
「はっ」
「弓の上手を明日の夕刻までに選抜せよ。例の策を試す」
「白麗国との決戦に使う予定ではなかったのですか」
「いま使わざるをえないだろう。敵が予想以上に強かったということだ」
 赤荒鶏は頷く。
「青聡竜よ。五年前は煮え湯を飲まされたが今回は違うぞ。貴様が砦という武器を持って俺達の前に立ちはだかるのならば、我らもお前が持たぬ武器を持ち戦おう」
 赤栄虎は東の空を見て笑みを浮かべた。

「風が変わったな」
 二日後の正午辺り、砦の屋上で白恐蝮は呟いた。この数日、背中から吹いていた風がいまは正面から吹いている。敵の矢の飛距離が伸びる。そう思い、西の栄大国の本陣を見ていると何かがきらりと光った。
「何だ、あの光は」
 いくつかのきらめきが見えたあと、青聡竜が率いている草原の部隊で悲鳴が上がった。何事だ。慌てて東側に走ろうとした彼の腕に痛みが走る。何が起こったのだ。床に倒れ込みながら左腕を見る。淡く光る矢が刺さっていた。
「くっ」
 右手で掴み、矢を引き抜く。血が噴き出した。東側に這っていき展開している軍団を見下ろす。数人の軍団長が額や胸を貫かれて死んでいた。
「この距離をどうやって」
 弩や投石機でも届かぬほど遥かに離れた場所に敵はいる。そしてこの正確な狙い。ふと周囲を見渡すと、他の砦を守備していた軍団長達が状況を確認するために屋上に立っていた。
「隠れろ」
 危険を報せるために叫ぶ。しかしその声が届くほど彼らの場所は近くない。西を覗き見た軍団長が射抜かれ、地面に落下する。
「いったい、何が起こっているのだ」
 白恐蝮は歯軋りをしながら呻いた。

「紫雲部隊、次の矢を構えろ」
 赤荒鶏の言葉とともに赤族の弓の達人らが光る矢を構える。赤荒鶏は風を読み、部下達に矢の角度と弓を引く強さを指示する。
「撃て」
 輝く矢が天空に舞い上がり、鷹が獲物を狙うように白安国の軍団長や千人長を狙う。ある者は馬上から落ち、ある者は砦から落ち、大地に屍を晒す。
「突撃せよ」
 赤栄虎の声が響く。栄大国の赤い鎧の騎兵がまず飛び出した。続いて歩兵が大地を踏み鳴らして進む。大軍が動いた。指揮系統の破壊された白安国の軍勢に赤い旗を掲げた兵士の濁流が激突する。戦線が乱れた。
 栄大国の本陣でまた数度きらめきが見えた。矢の落下点で青聡竜は身を躱す。
「怯むな、踏み止まれ」
 法螺貝の音が響き、その命令を各所に伝える。だが、次々に上官を射抜かれた兵士達は浮き足立つ。戦線が末端から崩れ始めた。
「くそ、あれは何だ」
 錬金の兵器を見たことのない白厳梟が喚き散らす。戦場の多くの者が同じ驚きと恐怖を感じている。
「まずいな」
 青聡竜は馬を走らせ、各軍団のあいだを駆け巡って直接兵達を鼓舞する。崩れ掛けた戦線が何とか持ち直す。
「あの矢を何とかしなければ」
 そのとき、栄大国の本陣の近くで鬨の声が上がった。白安国の遊軍のなかから、黒醇蠍の率いる軍団が猛然と飛び出し、紫雲部隊目掛けて突撃を開始した。
「文献で読んだ錬金の道具のなかに、暗闇で光を放つ驚異の射程距離を誇る矢があった。華塩湖での戦いの生き残り達が話していた白王様を倒した矢も、あの錬金の兵器に間違いない。あの部隊を倒さなければ白安国軍は滅ぼされる」
 白緩狢の指示で錬金について調べていた黒醇蠍は苦い顔をする。
「赤族の奴らはあんな兵器を量産していたのか。何とかして使用をやめさせなければ。いや奪って僕達が使うことができれば」
 一軍団が前方を遮るように現れる。黒醇蠍は射手達に敵の一点を狙わせる。そしてその場所の混乱に乗じて一気にその敵を突破する。赤族がよく使っていた戦術だ。間近で見ていた黒醇蠍はその術を学び、己のものにしていた。
 黒醇蠍の軍団と紫雲部隊の距離が縮まる。
 人馬の悲鳴が上がった。
 軍団が横撃を食らう。赤栄虎が兵を動かし、黒醇蠍達の動きを止めようとする。騎馬隊が分断され半数以上の突撃が止まる。だが二千ほどの兵が紫雲部隊へと進み続けた。
「このまま敵を蹴散らせ」
「距離を取れ」
 黒醇蠍の声と同時に赤荒鶏が叫ぶ。赤族の射手達が馬に乗り、遠ざかりだす。その足は速く、みるみる二千人との距離が開く。いつの間にか栄大国の兵が黒醇蠍達と併走し、包囲しようとしていた。
「まずい。引き返さなければ全滅する」
 馬上で背を伸ばし周囲を見て逃げ道を探す。兵を押し潰すように包囲の輪が縮まりだす。紫雲が飛んできた。それを馬を巡らせて躱す。
「黒醇蠍殿、お逃げください」
 いくつかの砦に赤い旗が上がっている。周囲の兵を率いて囲みを抜けようとする。兵の数がたちどころに減っていく。包囲を突破したときには十人しかいなかった。その数も一人、二人と消えていく。
 万の兵を率いる軍団長だった黒醇蠍は再び一人の兵士に戻る。
 肩や足に数本の矢を受けたが構わず走り続ける。痛みで意識が遠のく。黒醇蠍は馬に体を預け戦場から遠ざかった。

 目覚めた黒醇蠍は霧のなかにいた。戦場の声は聞こえない。僕は死んだのか。馬のいななきが聞こえ、そうではないことを知る。耳を澄ますと水の音が聞こえた。水辺が近いようだ。
 戦場で気を失ってどのくらいの時間が経ったのだろう。馬に感謝しなければならない。黒醇蠍は首を撫で、水音のする方へと向かう。人の姿が見えた。敵か。そう思ったが兵ではないようだ。女か子供ほどの背丈しかない。白安国の民か。警戒しながらその人影に声を掛ける。
「そこの者に尋ねたい。ここはどこだ」
「どなたですか」
 白都周辺の農民の喋り方とは違う。馬を寄せ、馬上からその者の姿を見た。青族の女性だ。
「商人か」
「いえ、違います」
「では何者だ」
「曲芸団の団員です」
 彼女はかつての職業を告げる。
「名は」
「青明雀です」
「ここはどの辺りになる」
「あの、私はあまり土地には詳しくないんです。白都の近くから左手に広河が見えるように歩き続けて来たのです。そうしたら霧が」
「では、あの水音は広河か」
「はい」
「だいたいの位置は分かった」
 馬は川沿いに東に逃げたのだろう。
「あの、あなたのお名前は。立派な鎧を着ていらっしゃるようですが」
「黒醇蠍だ。白安国で軍務に就いている」
 女性は彼の姿をじっと見つめる。そして意を決したように口を開いた。
「あの、私を青聡竜様のところへ連れていってくれませんか」
「えっ」
 虚を突かれ思わず答えに詰まる。そのときゆっくりと霧が晴れ始めた。陽が東の空から射し、彼女の輪郭を黄金色に照らす。
「お願いです。私を青聡竜様の許へ連れていってください。大切な用があるんです」
 いまだ二十歳を過ぎない黒醇蠍は、女性の神々しい姿とその真剣さに心を打たれる。
「いや、だが戦場に女人を連れてはいけない」
 振り返り西を見る。霧が幕を開けるように引いていき、景色を露わにしていく。白都を防衛する支城のいくつかが燃えていた。そしてその防衛線を越えて栄大国の兵が野営をしている。白安国の兵はいない。
 撤退したのか。
 黒醇蠍の身に衝撃が走る。戦に破れたのだ。ならば残った兵達は白都に向かったはず。
「乗れ」
 振り向き、青族の女性に声を掛ける。
「この場にいれば、敵に捕まり慰み物にされるだろう。白都へと連れていってやる」
「でも、青聡竜様は」
「もし生きているのならば白都にいるはずだ。手を出せ」
 青明雀の手を取り、背後に乗せる。
「しっかりと捕まっていろ」
 黒醇蠍は馬の腹に足を入れ、東へと向かった。


  十八 崩壊

 西の戦線が崩壊したのと時を同じくして東の戦線でも変化が起こる。長城の一部を湖の底に沈め軍船で兵を白安国に潜入させた白麗国軍は素早く兵を展開して砦を次々と落としていった。白緩狢率いる軍が来たときには片手にあまる城砦が落とされていた。白緩狢はすぐに手を打つ。人造湖と砦のあいだの連絡を断ち、孤立させ各個撃破を狙う。だがそれは白大狼の仕掛けた誘いだった。
 手品師が派手な動きをした手と逆の手で観客を騙すように、大地の真ん中に湖を生み出した白大狼自身は広河間近のもっとも堅固な要塞の地下を土木軍団に掘り進めさせていた。白緩狢を大きく移動させた数日後、白安国側の長城の一部が突如崩れた。その穴を抜けて白麗国の軍勢が攻め込む。虚を突かれた守備兵達は必死の防戦を試みたが数日で白麗国軍に道を譲ることになった。
「久しぶりに白都の姿を見られることになりそうだな」
 白麗国の軍勢の中央で輿に乗って移動していた白麗蝶は笑みを浮かべる。何度も白大狼が海都に留まるようにと進言したが、この若く美しい王は戦場に赴くと言って聞かなかった。無理に押しとどめようとすれば海都を抜け出して参戦しかねない彼女の言を、白麗国の摂政はしぶしぶ飲んだ。
 麗王は輿の上で立ちあがる。白銀の髪が風でなびき、細く引き締まった肢体が衆目に晒される。その姿は銀糸で織り上げた繊細な女神のように見えた。人々の目が彼女に吸い寄せられる。
「みなの者」
 このか細い体から、いかにして雷鳴のような声が響くのか。初めて彼女の声を聞いた者達は度肝を抜かれる。そして、かつて白王の声を聞いたことがある者達は、彼女こそが白賢龍の国を継ぐに相応しい人物であることを改めて知る。
「余とともに白都を目指そうではないか。我が故郷にして、そなた達の街である白都を。余が白都を恋焦がれているように、白都の女達は、お前達の来訪を首を長くして待ち詫びておるぞ」
 彼女の声に兵達は笑いながら歓声を上げる。陽の光を浴びながら、麗王は腰に手を当て、満足そうに兵達の姿を見渡す。輿の近くの馬上には総大将の白大狼の姿が見える。
「大狼、いよいよ白都に帰れるのう」
 彼は苦い顔をする。
「麗王陛下、今は戦争中なのです。いつ攻撃を受けるか分からない状況なのです。そのように立ちあがっていては敵に矢で狙われかねません」
「大狼は心配性だのう」
「お父上が矢で殺されたことをお忘れなく」
 ため息が漏れる。重責が人を変えてしまったのか。ここ数年の白大狼は厳しい言葉ばかりを彼女に投げ掛ける。
 いや、厳しい言葉は昔からだ。
 彼女は白都での暮らしを思い出す。白大狼はいつもそばにいて、いないときでも呼べば必ず姿を現してくれた。だが最近では会うだけでも一苦労だ。王と臣下。そしてその臣下は白麗国でもっとも忙しい人物。昔と変わった点はここだろう。
 戦場に行くとわがままを言ったのは白都に行きたいからだけではない。総司令官の白大狼のそばにいることができると考えたからだ。そしてここには青美鶴はいない。白麗蝶は王宮で噂を聞いた。白大狼が青美鶴に結婚を申し込んだという噂だ。根も葉もないとは言い切れない。白麗蝶が王宮で見る白大狼は、いつも青美鶴の横にいる。
「大狼」
 思わず口から声が零れた。
「何でございましょう麗王陛下」
 白大狼が馬上振り向く。
「すまん。何でもない」
 頭を掻きながら答える。厳しい顔の白大狼に向け、彼女は無理に笑顔を作る。
「くれぐれも、危険なことだけはしないでください。あなたももう子供ではないのですから」
 子供の頃のほうがよかった。少なくとも、白大狼は自分のことを構ってくれた。
 彼女は馬上の将軍を寂しげな目で見つめる。その視線に気付かないのか白大狼はそのまま前を向きなおした。戦よりも彼の心に自分は興味がある。かつて黒都からの帰りに、父の夢見た世界を一緒に作ろうと白大狼と誓い合ったことを思い出す。
 私が望んだことは、父の見た世界を作ることなのか、白大狼と一緒に何かをすることなのか。
 彼女は美しい顔に暗い陰を落とした。

 白緩狢の許に西方敗戦の報が入った。それとともに広河に近い長城が破られた報告も届く。彼の眉間にしわが寄る。今から白都に戻ったとしても、栄大国か白麗国の軍の方が先に白都までたどり着くだろう。
 だが戻らないわけにはいかない。かつての赤栄虎を真似て海都を奇襲しようにも、人造湖を渡る大型船は白安国側にはない。また広源市を攻めるには距離があり過ぎる。その間に栄大国の軍に見つかってしまう。
「結局、白都に帰るしかないというわけか」
 本陣の天幕のなかで呟く。
「白都に立てこもり、白麗国と栄大国が睨み合う状況になれば、あるいは」
「軍事が分からぬ者が口を出すな」
 白緩狢は叫ぶ。いつの間にか彼の本陣に潜り込んでいた青新蛇は暗い目で白緩狢を見つめる。
 見誤ったか。
 その思いが胸に静かに広がっていく。軍事の面では既に勝負は決している。もともと白麗国も栄大国も、白安国との和平を望んでいない。この状況で外交の手段を講じても結果は見えている。だがその無理を通すしかないだろう。それしか白麗国と栄大国の決戦を防ぐ方法はない。
「白緩狢様。外交使節を」
「二組必要だ」
 この男も同じことを考えていたか。
「私は白麗国では犯罪者として手配されています。栄大国に使者として向かいたいと思います。あの国の高官のなかにも海蛇の団と結んでいる者がおりますので」
「あとは白麗国に向かわせる使者だな」
「白緩狢様、私めに」
 天幕の入り口に一人の若い男が立っていた。
「平原の西で旗揚げを決意したときより、白緩狢様のために粉骨砕身すると決めておりました」
 白安国建国の切っ掛けを作った白弱鴇だ。白緩狢は頷く。
「再び君に、私の運命を賭けてみよう」
 白弱鴇は頷いた。白緩狢は天幕の外に出る。
「白都に戻るぞ」
 彼は行軍の準備を命じた。

 白都の近くに白麗国と栄大国、そして白緩狢率いる白安国軍の野戦陣地が築かれた。白緩狢達は目前の白都に入れない。白都入りするにしても、他の二国の軍の動きを止める必要があるからだ。
 この奇妙な均衡はそれほど長く続かない、そのことは白緩狢も分かっていた。国境付近にいた白安国の水軍は首都防衛のために白都近くまで下がっている。いずれ白麗国の水軍が攻め上ってくるだろう。そして栄大国は兵の数を後方より補充していた。攻略した町々から兵を徴用して前線に送り込んでいるのだ。このままでは、白緩狢の軍は栄大国に破れ、白都は広河側から白麗国の手に落ちるだろう。
 外交使節として乗り込む前に栄大国の情報を得た青新蛇は絶望を感じた。赤爽鷺をはじめ内通していた高官達が要職から一掃されていたのだ。これは私の命もないかもな。そう思いながら、青新蛇は白安国の外交官として栄大国の本陣に入った。

「なるほど。白王の遺志を継ぎ、大陸を統一することを公言するならば、白王の血筋の者達の国を封土として温存し、無用な戦を避けるべきだと。その代わりに毎年貢物を納めさせる。そうすればお互いに無用な戦死者を出すことなく戦乱は収まると。お前はそう言っているわけだな」
 栄王は床机の上で笑みを浮かべ、青新蛇に向かって話を続ける。
「だが俺が望んでいるのは大陸の完全なる統一だ。それは旧勢力の駆逐を意味している」
「しかし、それは多くの死者を出すことになります。そして多くの人々の生活を破壊することになります」
「そうだ。俺は多くの死者を出す。そして人々の生活を破壊する。創造には前段階としての破壊が必要だ」
「あなた様は白王様の事業を引き継ぐと内外に告げています。白王様は既存の支配層を維持しながら統一を進めていきました」
「そうだ。彼が事業を始めたときは、世の中は小国家に分かれていた。だが今は時代が違う。世界は少ない数の大国にまとまっている。もし今この場に白王がいればこう言うだろう。今こそ真に大陸を統一するときだと」
 栄大国の軍団長達の前で行なわれている二人の会談は既に長い時間続いていた。栄王の意思は固く、折ることも曲げることもできない。
「そろそろ話を打ち切ろう」
 赤栄虎は立ちあがり剣を抜いた。
「その者達を捕らえよ。これより、白安国の軍勢を皆殺しにする」
 軍団長達の天地を震わす雄叫びが上がる。兵士達が白安国の外交団を取り押さえた。軍団長達は軽口を叩きだす。
「しかし栄王陛下。海都攻めに比べれば、この白都攻めはだいぶ楽ですな」
 赤荒鶏の言葉に青新蛇は顔を赤黒く染めた。
「赤栄虎っ」
 青新蛇は大声で怒鳴る。人々の声が止まった。栄王は歩み寄り、抜き身の剣を青新蛇の顔の前に突き付けた。
「お前がただの白安国の外交官ではないことは調べが付いている。お前が率いている海蛇の団というのは、海都を逃亡した者達が作った組織だそうだな。お前はかつて海都の五大家の家長の一人だったと聞く。海都を火の海にした俺がさぞ憎かろう」
 火を吹くような目が赤栄虎に向けられる。
「俺は必要なら、海都だけでなく、この大陸全土をも戦乱の炎で焼き尽くす。俺は自分の理想のために躊躇しない、妥協しない、そして妨げる者は全て排除する。お前のように、陰でこそこそと人を動かし、何者かが理想を実現してくれるだろうと期待することはない。俺は鉄の意思で自らの人生を歩み続ける。そして屍を越えていく。千人の盟友の死も乗り越えた。父の死も目的のために利用した。俺は、そういう人間こそが大陸を統一し、新しい世界を作るべきだと考えている。憎みたければ憎め、恨みたければ恨め、俺はその全てを背負って歩み続けるだろう。なぜならば、俺こそがこの大陸を支配するために生まれてきた王だからだ」
 その言葉には一点の迷いも曇りもなかった。本心から出た言葉であり、彼にはその言葉を吐く根拠があった。しばし睨み合ったあと、青新蛇はうな垂れた。この男を止めることは自分には不可能だと分かったからだ。
「その男は広源市へ護送しろ。海蛇の団に内通していた者達を断罪するときの証言者として使う」
 かつて海都の金大家の家長だった男は縄を掛けられ引かれていく。栄大国の軍団長達は、各自持ち場へと戻った。

 白麗国の本陣では白弱鴇の一行が麗王に口上を述べていた。
「白安国と白麗国は元は同じ国。我ら二国が争そうことに何の意味がありましょうか。栄大国、いや赤族の国が攻め上ってきたいまこそ、手を取り合い対抗すべきときです。麗王陛下、何とぞよいご返事を」
 男の口上を、白銀の髪の女王は豪奢な椅子に身を沈めて聞いている。目は閉じている。寝ているのか起きているのか分からない。白弱鴇は怪訝な顔をして麗王の傍らにいる白大狼に視線を送る。だが彼は冷徹な目で先を続けるようにと促がすだけだ。
 話し難い。まるで壁に向かって話しているようだ。
「あの、麗王陛下」
 失礼ではないかと考えたが、これでは外交使節の用を成さない。
「できましたら、目を開けていただき、私めの話を聞いていただければと思うのですが」
 白麗蝶は、目を瞑ったまま、椅子の肘掛を指先で小突いた。
「麗王陛下」
 目がゆっくりと開かれ、白弱鴇に向けられる。
「これ以上余を不機嫌にさせるな。なぜ余の王位を簒奪した者と手を取り合わなければならない。お前は自分の家に入った泥棒が、手を取り合って仲良くしましょうと言ったら、どういう気分になる。馬鹿にするのもいい加減にしろ」
 鋭い視線と、全身が吹き飛ばされそうな音圧が白弱鴇の体を震わせる。膝が震え、立っているのがやっとの状態になる。
「白弱鴇よ、白緩狢と白安豚にこう伝えよ。盗人には死を。これだけ短い言葉なら、どれほど頭の血の巡りの悪い愚者であろうとも理解できるだろうからな」
 声が鉄槌のように白弱鴇の肉と骨を震動させる。
「不快だ。大狼。この者達を下げてくれ」
「分かりました麗王陛下」
「お待ちください。何とぞ、お話を」
「くどい。余がなぜ目を閉じ、口を結んでいたのか分からぬのか。殺せと言いたくなる衝動を必死に堪えていたからだ。これ以上は我慢せぬぞ」
 その声に射すくめられ口を閉ざす。白大狼が下がるように命じた。白安国からの使いは、とぼとぼと陣地を去った。

 白都の守備兵達に混じり、西方の戦線から逃げてきた兵士達も白都に立てこもっていた。彼らを指揮していた者達のことごとくが紫雲の攻撃により死んでいたために、白都に逃げ込んだ兵は暴徒に近い状態になっている。青聡竜はその兵達のなかから長となる者達を選抜して、軍に秩序を回復させる仕事に奔走していた。
「白都はいま暴発寸前になっている。内部の兵士の混乱、外部の敵兵の侵攻。せめて何人か軍団長が生き残っていてくれれば」
 彼は指揮所として使っている建物の応接室で椅子に座りため息を吐いた。
「しかしまあ、えらいことになったのう」
 白厳梟も疲労混じりの声を漏らす。兵士達の小競り合いの仲裁を命じられ動き回っていたが、そんな繊細な仕事はこの老人の得意とするところではない。しかし城門を開いて打って出るわけにもいかず、城壁内に閉じこもり日々を過ごしている。
「司表様、軍団長の黒醇蠍殿が生還されました」
 白早駝が表から駆けてきて報告した。青聡竜と白厳梟は顔を見合わせる。栄大国の軍に包囲されて殲滅されたものと思っていた。
「生きていたのか」
「はい、あと、女性の客人を連れてきているそうです」
「女性、誰だ」
 怪訝な顔をする。
「あっ、黒醇蠍殿が参られました」
 部屋に黒髪の青年が入ってきた。
「黒醇蠍、生還いたしました」
「よく戻って来た」
 手を取り、部屋に向かい入れる。
「あと、青聡竜様。ご客人をお連れしました。道中、私の身分を明かして話を聞き、白麗国との外交上重要なことと判断しましたので」
 青聡竜は頷く。白大国時代から、軍団長は自己の判断で外交などの政治的判断をすることが許されている。彼が有益と判断したのなら、重要な情報を握っているのだろう。黒醇蠍は廊下に目を向け、部屋に入るようにと告げた。背が少し低い青族の女性が入ってくる。
「あの、青聡竜様、覚えていらっしゃいますでしょうか。青明雀と申します。海都が炎上する前に、青聡竜様と青美鶴様とともに、踊舌亭にお食事に行った者です」
「ああ、あのときのお嬢さんか。すっかり美しい女性に成長しているから気付かなかったよ。見違えるようだ」
「実は、青美鶴様の件で来たのです」
 彼の顔が少し曇る。
「いまは海都の海大家の家長をしながら、白麗国の大臣も務めているそうだな。彼女は元気か」
「それが」
 青明雀は言い淀む。
「何か、問題が発生しているのか」
「五年前に青聡竜様が海都を飛び出した直後から、あの方は人が変わられたようになってしまったのです」
「どういうことだ」
「いつも青い顔をされていて、とても冷酷な決定をくだすようになったんです」
「それだけか」
 彼女は首を横に振る。
「私、とっても耳がいいんです。それで青美鶴様の独り言を聞いていたんですが、あの方は、お父様、つまり青聡竜様のお兄様をものすごく恐れているようなんです。……お父様、お父様、お許しください。美鶴はお父様の娘です。言われたことを全て守ります。お父様の言う通り何でもします。どんなことでも行ないます。だから見捨てないでください。私を一人にしないでください。私を殺そうとしないでください……。そういったことを言っていたんです」
 青聡竜の顔が緊張する。
「その独り言、もの凄く小さく呟くんです。だからほかの人には一切聞こえていないと思います。でも、私にはきちんと聞こえるんです。だから調べました。史表の仕事に従事している方々から、青美鶴様が変わったのが青聡竜様が飛び出した直後だということを聞きました。そして海風神社の神官の方々にも尋ねました。青美鶴様の生い立ち、十歳までの青美鶴様のこと、そして青美鶴様のお父様の青捷狸様のこと。私思うんです。今の青美鶴様は十歳以前の頃の性格になっているんじゃないかって。私、いろんな人に話を聞いて知ったんです。海都を要塞化しようという発想は、もともと青捷狸様の案だったことを。五大家を解体して海大家を作るという話は、青美鶴様の性格が変わるまでは、周囲の誰にも話していなかったことを。白麗国を作るように白麗蝶様と白大狼様に進言したのも青美鶴様だったそうです。私、いまの青美鶴様は本来の青美鶴様ではないと思うんです。青聡竜様と一緒にいたときの、あの明るい青美鶴様とは違う。全然別人です。あの方には青聡竜様が必要なんです。お願いします。海都に来て、青美鶴様に会ってはもらえないでしょうか」
 一気に言葉を吐き、青明雀は沈黙した。
 青聡竜は顎に手を当て、部屋を歩き回りながら考える。黒醇蠍は部屋の入り口で腕組みをしてその様子を見守る。白早駝と白厳梟は、青美鶴にそんな変化があったことに驚き、おろおろしている。
「青美鶴が十歳のとき、私は兄上に呼ばれて彼女の家庭教師になった。そのときの彼女は一切笑わない氷のような少女だった。私は彼女の心を解きほぐすことから始めた。彼女を連れ、街に出て、美味しい物を一緒に食べて回った。半年経ち、青美鶴は初めて美味しいと呟いた。そしてはにかむように笑みを浮かべ、ありがとうと言った」
 青明雀はその言葉に耳を傾ける。
「それから徐々に笑うようになった。笑顔を忘れた少女だったが、一つ一つ、子供が言葉を覚えるように、様々な表情を取り戻していった。海都の舟大家の家長といえば、並の人間では勤まらぬ仕事だ。そのための徹底した英才教育の代償として、それは仕方がないことだと思っていた」
 彼は歩み続ける。
「青美鶴は、いままたその当時のように心を閉ざし、怯えているというのか」
 苦しげな表情のまま足を動かす。黙って観察を続けていた黒醇蠍が口を開く。
「白麗国の青美鶴といえば、彼の国の二本の柱のうちの一本。彼女の心を変え、戦を止めるように働き掛けることができれば、事態は好転します。この状況を利用しない手はありません」
 青聡竜は壁を叩く。
「彼女は私にとって娘のようなものだ」
「あなたにとっては家族の問題かもしれない。でも、僕にとっては、白安国にとっては、これは政治的な問題ですよ」
「青聡竜様」
「何だ、青明雀」
「青聡竜様にとって、青美鶴様は娘のようなものなのですね」
「そうだ。兄上の娘であり、私が名を付けた子供だ」
 彼女は胸の前で強く手を握る。
「でも、青美鶴様はあなたのことを父親とは思っていません」
 青聡竜は訝しがる。
「あの方は、青聡竜様を愛する人として慕っています」
 白早駝と白厳梟は驚き、黒醇蠍は鼻を鳴らす。
「恋人に会いに、海都まで行きますか」
 青聡竜は黒醇蠍が立っている入り口に向けて歩きだす。
「戦を止めるために、白麗国の大臣に会いに行こう」
 黒醇蠍はからかうような顔をしながら道を開ける。
「どうぞ、お通りください」
「白都の収拾は黒醇蠍殿にお任せしよう」
「ええ、僕は自分の仕事を全うしますよ」
「白早駝、白厳梟殿。白都に残り、黒醇蠍殿の補佐をするように」
「青聡竜様」
 近付いてきた白早駝と白厳梟に耳打ちをする。
「私は海都に向かう。青明雀の話で今まで見えなかったものが見えてきた。白麗国は、青美鶴が内実動かしている。そして彼女を陰で操っているのは兄上だ。五年前、私を海都から遠ざけようとしたのも彼だ。何かよからぬことを考えているとみて間違いない。海都に行き、それをこの目で確かめる」
 彼は扉をくぐり、廊下を歩きだす。青明雀は司表のあとを追った。


  十九 光の園

 広源市からほどなく離れた農管吏の研究所。その敷地内の所長のみが入ることを許された研究棟で小さく醜い男は作業をしている。大量の輝瞬草を育て、それを高温で処理して矢の形に整形する。輝瞬草の生育は早い。そのため紫雲の量産は簡単だ。だが栽培が軌道に乗るまでは時間が掛かった。輝瞬草は何者かに命令されているかのように芽吹こうとしなかったからだ。それは鍵を掛けられた錠前に似ていた。錬金の知識を一つ一つ試してようやくそのからくりが分かったあとは簡単にことが進んだ。発芽時に錬金の力の流れを少し変えてやればよいのだ。成長を抑制している力から促進する力へ。その作業は一つ一つ手で行なう必要があったので、彼が手を掛けられる範囲でしか栽培することはできなかった。だがそれで十分だった。一日で成長する輝瞬草だ。紫雲部隊の使う矢などはすぐに作ることができる。
 扉が叩かれた。この研究棟の入り口には守衛がおり、各部屋には鍵が掛けられている。黒逞蛙は訝しがる。守衛は何をしているのだ。作業の手を止め、扉の覗き穴に近付く。廊下には黒壮猿がいた。黒逞蛙は驚き身を縮める。栄王の前で紫雲の作成を告げたときは保身の気持ちに支配されていた。自らの言葉が我が身の破滅に繋がると考えたのはだいぶあとになってからだ。戦争で紫雲が使われれば黒壮猿に全てがばれる。扉の向こうの男はいつもの通り笑顔を浮かべている。黒逞蛙は知っている。この五年、失われた錬金の力を嘆きながら師が日々を送ってきたことを。
 再び扉が叩かれた。
 このまま顔を合わさずに済めばどれだけ楽だろうか。返事をしなければそのまま帰ってくれるのではないか。そう思い、息を潜めて時が経つのを待つ。
「黒逞蛙よ。いるのは分かっている。出てきなさい」
 後ろめたさもあり、扉の鍵を開けた。黒壮猿がゆるやかな足取りで部屋に入ってくる。
「戦場からの報告で事実を知った。そして、輝瞬草という草が錬金の力を持っているということまで調べが付いた。これが輝瞬草なのだな」
 部屋を満たすように、淡い光を放つ草が群生している。部屋の床には人が泳げるほどの水が張られている。その上を、井桁のように通路が走っており、その板橋の上を黒壮猿は歩いていく。扉の鍵を掛け、黒逞蛙もあとを追った。
「ふむ、まさかこのような形で錬金の力が残っていようとは」
 背中を向けたまま黒壮猿はしゃべる。
「あ、あの。黒壮猿様にこの事実を告げなかったのは、俺のせいだけじゃなく、あの、その、栄王陛下の厳命もありまして」
 矮小な男は卑屈に笑う。導師は片手を上げ、その言葉を制した。
「よい。そのことを問いに来たのではない」
 顔は見えないが声は穏やかだ。しばらくすると輝瞬草が瞬き、光の波が部屋中に広がった。それは規則的な明滅を繰り返し、まるで歌の旋律か踊りのように見える。こんなことは初めてだ。いつもは不規則に光るだけなのに。黒逞蛙は草の変化を呆然と見守る。何か音が聞こえてきた。黒壮猿の口から微かな旋律が漏れている。死表を発動させるときのような、だがそれとはまた違う音だ。光の明滅が早くなり、それが溶けて混ざり合うように、二人の周囲で渦を巻きだす。光の波長が変化し、七色の光が右回りと左回りに高速に回転を始める。黒逞蛙の平行感覚は乱れ、何かに捕まらなければ立てないような目眩を覚えた。膝を突き、師の姿を見上げる。
「黒壮猿様」
 旋律が大きくなり、光が部屋の景色を溶かし始めた。黒壮猿は相変わらず背を向けている。二人の周囲に、見たことがない光景が現れた。ここは研究所のはず。黒逞蛙は目をこする。鉄の箱が黒い煙を吐き出しながら地の上を走っている。その箱には奇妙な服を着た男女が乗っていた。その向こうには鉄の管が壁面を這う建物がそびえており、恐ろしく太く長い煙突からは赤い火の粉と煙が噴き上げられている。黒逞蛙の背後で振動とともに巨大な鉄の箱が通過した。人々が葡萄のように房になって群がっており、手には金属の筒状の棒を持っている。
 この景色は何だ。黒逞蛙は震えながら周囲を見渡す。彼に向かって奇妙な象眼がほどこされた鉄の箱が突進してきた。
「うわあああああ」
 悲鳴を上げ、避けようとする。足が空を切った。そして水飛沫とともに水に落ちる音がした。
「なっ」
 周囲は水だ。あれは幻か。水上にあがろうとした彼の頭に何かが触れた。手だ。固くしわの寄った手が頭を掴んでいる。その手は頭を押し下げる。何が起こっているのだ。そのことが分からず闇雲に手足を動かし口から泡を吐き出した。呼吸ができない。喉に空気を通そうとするたびに、大量の水が肺へと流れ込む。
 黒壮猿様。
 助けを呼ぼうとして、自分の頭を押さえ付けている相手がその名の男であることにようやく気付く。必死に腕を振り払い空気を求めようとする。だが腕はびくともしない。彼は手を動かし、水面に上がるために手掛かりを求めようとする。数本の輝瞬草を掴んだ。それが彼が人生の最後に手にしたものだった。目の光は消え、動きは完全に止まる。それからしばらくして、ようやく頭の上の手は離れた。
「飼い犬に手を噛まれるとはな」
 既に不可思議な光景は消えている。
「これは記憶の一部にしか過ぎない。本体とも言うべき、巨大な記憶の容器があるはずだ。黒円虹様は、死の間際に記憶をどこかに転送されたようだ」
 黒壮猿は笑みを浮かべる。水の上に浮かぶ黒逞蛙の死体を探り鍵を得た。いくつかの部屋を調べ、この草が草原に群生していることを知る。
「くくく。錬金の力が失われ、黒円虹、黒捷狸の死を知ったときは絶望したよ。海都から帰った黒暗獅が、この大陸のどこかに錬金の力が隠されているらしいと言ったがそんな話どこまで信じてよいのやらと嘆いたものだ。そもそもどうやって見つけるというのだ。大海のなかから針を探すようなものだ。これで全てが終わったと思った。だが天は私を見捨てていなかった。いや私だけが錬金の力を振るえるように、天が世界の規則を変えてくれたのだ」
 彼はひとしきりその場で笑う。笑いが収まったあと、研究棟の表に出て守衛に告げた。
「所長はこれから新しい研究に入るそうだ。一ヶ月ほど、建物内にこもると言っていた」
「はっ、分かりました」
 大臣の言葉に守衛は頷く。黒壮猿は馬に乗り走りだす。彼の笑顔はいつになく輝いていた。

 それはどちらからともなく言い出した話だった。
「白王様の死に何らかの意味があるのなら、その死の場所に何か手掛かりがあるのではないか」
 初めにこの考えを口にしたのが青遠鴎だったのか青勇隼だったのかは定かでない。しかし錬金の探索を始めて五年が過ぎたとき、二人は探索隊を率いて華塩湖の近くに来ていた。この場所に建設されていた砦は、現在、華塩市という名の寂びれた町になっている。白王が計画していた草原開拓の失敗の象徴のようにその町は佇んでいる。栄大国の兵もわずかながら駐屯している。そのため彼らは遊牧民の姿を装い、この周辺を散策することにした。白王の死の現場も見学した。だが錬金の手掛かりを掴むことはできなかった。
「もう五年になるのか、早いものだな勇隼」
「ああ、あっという間だったな遠鴎」
 青遠鴎は三十に、青勇隼は二十六になった。この五年で大陸の各所を巡った。辺境の沿岸地域はほぼ洗いざらい調べたと言ってよいだろう。だがそこには錬金の痕跡を示すものはなかった。
 騎馬の群れが東から華塩市へと走っていくのを青遠鴎は見た。
「珍しいな。華塩市に行く人間とは」
 塩商人か何かだろうか。それにしては荷馬車の群れは見えない。
「あの、青遠鴎様」
 隊員の一人が口を開く。
「何だ」
「あの騎馬隊は、黒陽会の衣装を着ています」
「黒陽会がなぜこんなところに。何かあるのか」
 青遠鴎達は、黒陽会が錬金の力を保持していたこと、そしてその幹部達が栄大国の要職に就いていることを知っている。
「率いている人物が誰だか分かるか」
 隊員は黒陽会の元信者だ。栄大国の黒陽会はもともと海都に住んでいた。彼なら知っている可能性が高い。
「分かるも何も、あれは海都の黒陽会で導師をしていた黒壮猿様ですよ」
 青遠鴎と青勇隼は視線を交わす。何かある。直感的にそう思った。
「これは、追う必要がありそうだ」
「ああ、何か関係があるに違いないぜ」
 彼らは御者に華塩市に向かうようにと告げた。

 翌日、西に向かった黒壮猿達を追い、錬金探索隊は華塩市を離れた。遮るもののない草原のため、追跡していることはいずれ露見する。それを覚悟の上で彼らは西へと進み続けた。一日が終わる頃には、追っていることがばれた。
「こりゃあ、今晩辺りに俺達を襲ってくるかもしれないな」
 青勇隼が嬉しそうに言う。だがその日は何事もなかった。変化があったのは三日後の夜、西の地平線に淡く輝く光を発見したときだ。これ以上放っておくのはよくないと判断したのか、黒陽会の一行から数人が離れて青勇隼達に向かってきた。数は錬金探索隊と同じ数。腕の立つ者達なのだろう。同数で追い払うつもりらしい。
「大丈夫か勇隼」
「ああ、任せろ。弓が使える者は敵の馬を狙え。あれは軍馬ではない。それだけで足止めになる。剣が使える者は俺に従え。止まった敵を討つ」
 遊牧民の姿をした一行は、突如武装を取り出し、敵を迎え撃つ。矢が放たれ、馬の脚が止まり、青勇隼達が駆け寄る。彼はたちどころに数人の足を切り落とした。落馬した男達を、剣を持った者達が止めを刺していく。撃退したときには、隊員の幾人かが傷付いていた。死者はなし。敵は半分を失った。
「このまま一気に追い、捕らえることにしようぜ」
「よし、そうしよう」
 青遠鴎は御者に命じ、前方の黒陽会の一行を追い掛けさせた。
 追跡は深夜まで続いた。
 探索隊と黒陽会の距離が縮まるにつれ、地平線の輝きは強く大きくなる。光の園の縁にたどり付いた黒陽会の一団は馬を止めた。黒壮猿は馬を下り、青遠鴎達に背中を向けて両手を上げる。
「何をする気だ」
 青勇隼が眉を顰める。その直後、広大な光の園が、黒壮猿を中心に光の渦を作り始めた。草原の夜空に黒壮猿の笑い声が響く。
「おい、急げ」
「限界まで飛ばしています」
 御者が悲鳴を上げる。車輪が地面の上を飛び跳ね、青勇隼が見つめる景色が上下にぶれる。黒衣をまとった黒壮猿が振り向いた。両腕には眩い光が絡み付いている。顔が愉悦に歪んでいる。まだ距離はある。青勇隼は両手に剣を持ち、黒壮猿の顔を睨む。既に互いを敵として認識している。あとはどちらが生き残るかだ。暗闇の世界のなか、輝く右手が馬車に向けられた。
「全員馬車から飛び出せ」
 自らも跳びながら咄嗟に叫ぶ。青遠鴎など数人が、疾走する馬車から跳躍した。闇を切り裂く光線が馬車を貫いた。光と熱が馬と御者と馬車を削り取り、白い蒸気を上げる。半数以上が一瞬のうちに消し飛んだ。
「ちっ」
 全滅させられなかったことに黒壮猿が舌打ちする。右手の光は消えていた。彼は輝く左手を掲げて右手を背後に向ける。この場所には錬金の力がいくらでもある。再び右手に光が点り始める。
「うおおおおっ」
 両手に剣を持った青勇隼が草原を疾走する。
「どうやら、あの剣士を倒せば残りは雑魚のようだな」
 黒壮猿の左手が青勇隼に向けられる。その手から光が放たれる直前に剣士は身を翻した。光線が虚空を抜ける。光を見て躱したのではない。白麗蝶との修行のおかげで、敵の動きの先を読むことができる。
 右手の光はまだ十分ではない。黒壮猿は苛付く顔で左手を背後に向ける。右手が強く輝き始めた。
「食らえ」
 突き出した腕が宙を舞う。青勇隼の左手の剣が投げられ、肩口から先を切断した。行き場のなくなった錬金の力のせいで地に落ちた右腕が爆発する。悲鳴とともに、黒陽会の手勢が吹き飛ばされる。半身に傷を負った黒壮猿が左手を青勇隼に向ける。輝きは十分ではない。躱しながら攻撃できる。身を捩りながら一気に懐に飛び込む。空気を破る音とともに、草原が一瞬輝いた。右脇から左肩口に掛け、青勇隼は黒陽会の導師の体を切り上げた。血が宙に舞い、光を受けてきらきらと輝く。口から血が噴き出し、ゆっくりと後ろに向けて倒れた。体が光の園に横たわる。何か呟いている。返り血を浴びた青勇隼は、耳を近付けた。
「錬金の力を我が手に……」
 そこで言葉は途切れた。焼けた草が煙を上げる音だけが周囲には響いている。彼は光の園を見た。それは輝き瞬く草で構成されていた。その草の茎を見た。その淡い輝きは何かに似ていた。
「白王様を殺害した矢の輝き」
 あの日、黒陽宮の天蓋に映し出された白王の死の瞬間。そのときに見た矢と同じ光だ。地に伏せ様子を窺っていた青遠鴎が近付いてくる。
「探し出したぞ。これこそ錬金の力。そして黒円虹の遺産。白王様の記憶とともに、数々の未来の知識が眠る場所」
「ああ、遠鴎。こここそが俺達が探していた場所だ」
「そうだ。ここに間違いない。長い旅の末、俺達はとうとう見付けたのだ」
 二人は光の園の前に立つ。
「よし、俺はこのことを大師匠に伝えに戻る。遠鴎、あとは頼む」
「分かった。俺はこの周囲を調べたあと、華塩市で待機しておく。そこで再び合流しよう」
 青勇隼は頷いた。二人は五年にわたる長き探索をようやく終えた。


  二十 陥落

 海都の海大家の船着場に長焉市より来た船団が入ってきた。それほど珍しい光景ではないため人々はその入港を気にしなかったが、海大家の家長は細心の注意でその様子を眺めていた。それも特殊な場所からだ。彼女がいる場所は海大家の商館ではない。その足下にある地下水路の一つだ。隣には彼女の父が、その後ろには彼の秘書が控えている。
「お、お父様、本当にこれを栄大国との戦いに使用するのですか」
「ああそうだ。この戦、ぜひとも勝たねばならぬからな。赤族の戦闘力を圧倒する力が白麗国には必要だ。白大狼や白麗蝶はこの兵器の使用を思いつかなかった。だから仕方なくお前の口から提案させた。五年前の旅で得た知識だよ。面白い戦い方を見せてくれた者達がいたからな」
「そ、そうですか。私はあまり乗り気にはなれません。何だか怖くて」
「ふっ、我が娘らしからぬ言葉だな。目的のためには手段を選ぶな。そう教えたではないか」
 父親の厳しい口調に、娘は顔を青くする。
「す、すみません、お父様」
「まあよい。黒都の英知は錬金だけではない。そのことを理解している者がどのくらいいることか。ほかにも数多くの有用な知識があの都市から流出している。それを丁寧に収集していけば、それだけでもかなりのことができる」
 黒覆面を被った黒捷狸は笑い声を上げる。
「ところで美鶴よ」
「は、はい」
「白大狼の件はどうなっている。お前の夫にして、完全に支配下に置くという計画」
 彼女は少し言い淀む。
「はい、進めております。ですが、ま、まだ婚約までには至っておりません」
 覆面の下から青い目が睨む。
「何をのろのろしている。お前の体を使えば、たいていの男は落ちるだろう」
「で、ですが」
 彼女は身を縮めるようにして視線を逸らす。
「教育が足らぬようだな」
「お、お許しください。お父様の言うとおりにします。ですから、ですから」
 その場に座り込み、がたがたと震える。
 青凛鮫はその様子を暗い顔で見続けた。この五年間で何度見た光景だろうか。海都の青美鶴といえば、太陽のように輝く女性だと思っていた。その彼女が父親の操り人形として動き、幼子のように怯え続けている。
 黒捷狸が娘の腕を掴んだ。青凛鮫は目を逸らす。青聡竜が姿を消して五年。彼が白安国の西方大将軍になったという情報も伝わってきた。いったいあの方は何をやっているのだ。願わくば、この場に現れてこの悪夢を断ち切って欲しい。
「何をぼうっとしている。戻るぞ」
 しばらく経ち、黒捷狸が呼んだ。
「はい、ご主人様」
 青凛鮫はちらりと青美鶴の姿を見下ろす。
「それと美鶴。白麗蝶の服の件、こちらも進めておくように。そろそろあの娘も用済みだからな」
「は、はいお父様」
 服の件とは何だ。どうやら秘書といえども漏らしていない話は多くあるようだ。自分は信用されていない。彼は焼け爛れた顔を歪め、主人を追ってその場をあとにした。

 広河に面した白都の港に白麗国の軍船が入ってきた。水軍の戦いに白安国の船団は破れたのだ。
「くそ、このままでは、すぐに上陸されてしまう」
 十人ほどの兵を従え王宮の廊下を歩きながら黒醇蠍は苛立たしげに呟く。白都は時を経ずして落ちるだろう。その前にやっておかなければならないことがある。扉に手を掛けたとき声が響いた。
「この先は安王陛下の居室に繋がる廊下です。白緩狢様の許可なく入ることは許されておりません」
 白秀貂の声だ。その声を無視して黒醇蠍は先に進む。廊下を抜け、再び扉を開くと、長椅子に座り、醜く肥大した体を震わせている白安豚の姿が目に入った。年はまだ十四歳。僕が十四歳のときは、もう少しまともな人間だった。
「安王陛下。白都は落ちます。逃げる準備をしなければなりません」
 若い王は顔を青くして口元を忙しげに動かしている。黒醇蠍の表情が暗くなる。白麗国の王、白麗蝶は利発で美しく、武の腕も他の追随を許さないという。この差は何だ。僕は肉の塊を王と仰ぎ、この五年間過ごしてきたのか。
 悔恨とも自嘲ともつかない苦い感情が胃の腑から喉元へと上がってくる。
「黒醇蠍殿、無礼ですぞ」
 背後より近習達の声が聞こえた。
「輿を用意せよ」
 王を椅子から引き剥がす。
「何をなさるのですか」
「落ち延びさせる」
「まだ敵は白都のなかに来ておりません。早過ぎるのでは」
 そのとき、港が突破されたとの伝令がやって来た。
「白麗国の一部の者は、白都の内部やこの王宮を熟知している。手を加えたとはいえ、基本構造は変わらない。すぐにここまでやって来る」
 続いて白都に兵が雪崩込んでいるという報告が入る。
「早く」
「余はどうなるのだ」
 怯えた顔で黒醇蠍の腕を掴む。腕を引き、無理矢理輿へと押し上げる。
「黒醇蠍殿、逃げると言ってもどこに」
 近習の言葉を無視して階段を駆け下りる。王宮の地下に、北へと続く抜け道があるのを白緩狢に教わっている。王宮の城門が突破されたという声が聞こえた。干戈の音が響いてくる。黒醇蠍は抜け道へと続く扉に手を掛けた。
「白安豚、どこだ」
 少女の声が雷鳴のように響き渡った。麗王自らが来ているのか。彼女を殺せば戦局は変わる。黒醇蠍は背中の弓に手を伸ばす。
「は、早く逃げよう。麗王は余を殺すつもりだ」
 輿に乗った安王が、汗に濡れた手で黒醇蠍の腕を引いた。彼は無言で眉を顰める。手を弓から離し、扉を開ける。
「いたぞ、あそこから逃げようとしている」
 階段の上で兵士達の声が響いた。
「ちっ」
 黒醇蠍は素早く弓を取り出し矢を数本放つ。白麗国の兵士が階段を転がり落ちた。横穴に入り、輿を追いかける。
「麗王陛下。危険です。動き回らないでください」
「うるさいぞ大狼。白安豚がいるのは下だな。余、自ら成敗してくれる」
 階段を駆け下りる音が響いてきた。
「先に行け」
 輿を担いでいる部下達に指示を出し、抜け穴の入り口に向けて弓を構える。両手に剣を持った細身で美しい女性が現れた。彼女は白銀の髪をなびかせ突進してくる。
「どけっ」
 石造りの通路を少女の声が震わせる。黒醇蠍は矢を続け様に放つ。だが彼女はその矢を苦もなく躱して駆けてくる。右手の剣が投げられた。黒醇蠍は頭を下げる。高速の剣は彼の髪を切断して暗い道の奥へと消えていった。
 やばい。
 ここまでの武芸を身に付けているとは正直思っていなかった。彼は壁に視線を移す。石が一つだけ飛び出ている。一気に押し込んだ。鈍い音とともに天井が崩れだす。落石の煙で視界が白濁する直前、石を躱しながら王宮に引き返す麗王の姿が見えた。彼は北に向けて走る。輿は既にだいぶ先を進んでいるのか姿が見えなかった。

 黒醇蠍は横穴の端にたどり着いた。あとは階段を上がり、地上に出るだけだ。彼は頭上の光の穴に向けて駆け上がる。大地を踏んだ。戦の音が風に乗って聞こえてきた。ここは丘の上だ。彼は南を向く。白都の各所で兵が動いているのが見えた。そしてその手前では、白緩狢の軍に攻め込む栄大国の軍勢が見えた。津波が海岸線上のあらゆるものを破壊するように、白安国の戦線は崩壊していく。黒髪の青年は呆然とその光景を眺める。白緩狢が指揮する軍団に赤い鎧の兵が次々と攻め込む。貧農から出て、摂政まで上り詰めた男の生涯が閉じる。
 白緩狢の戦争は終わった。
「黒醇蠍様」
 兵の声が聞こえ振り向く。輿を担いでいた兵士が申し訳なさそうに頭を下げる。輿は地面に置かれていた。その上に安王が横たわっている。衣が血で濡れ、背中に一振りの剣が刺さっていた。麗王の投げた剣だ。最初から黒醇蠍ではなく白安豚を狙って投げたのだ。
「ははっ」
 額を押さえながら乾いた笑い声を上げる。笑うしかない。そう思った。
 僕の戦争も終わった。
 風が妙に心地よかった。
「黒醇蠍様、我々はこれからどうすればよいのでしょうか」
 兵士の一人が尋ねる。白都を見た。そして白緩狢の軍を見た。白安国を形成していたそれらは、既に過去のものになっていた。
「墓を作ろう」
「安王陛下の墓ですか」
「いや、白安国の墓だ。一人ぐらい、そういうものを作る男がいてもいいだろう」
 黒醇蠍は剣を抜き、足元の地面を掘り始めた。

 白都は陥落した。白安国の軍も壊滅した。白都には白麗国の兵士達が入り、その周囲を栄大国の軍勢が取り囲んだ。得た領土は栄大国のほうが多い。だがこの戦場だけを見ると、城を取った白麗国のほうが有利だ。その城の後背、広河に面した港に、南国様式の船団が入ってきた。海都に一時寄港し、この地にやって来た船だ。長焉市の兵達とともに、緑族の兵士が多数乗っている。彼らは水で冷やした荷物を大量に城壁へと運び込んだ。城壁には投石機が多数設置されている。その弾に使う何かを運んできたのだろう。その搬入を、白都を占領した白麗国の兵士達は目撃した。彼らはそれが何であるか知らされていない。
「うんっ、あれは」
 ただ一人、その正体に気付いた兵士がいた。海都の金食彩館で料理人をしていた緑硬亀という男だ。この五年で軍隊に入り、白都攻略に参加した。彼はそれを故郷で何度か見たことがある。そしてその破壊力も知っていた。
「なぜあれが、ここに」
 畏怖の表情を浮かべて彼は城壁へと運ばれるそれを見る。猛虫。かつて緑輝達が使った戦術を黒捷狸は研究していた。白麗国の支配範囲には緑族の地の一部も含まれる。その地で密かに猛虫を秘密兵器として繁殖させていた。赤族の兵士や白大国のほとんどの兵士は、この兵器の存在を知らない。搬入されている猛虫の卵の数は膨大だ。
「あんなものを大量にばら撒いたら、えらいことになるぞ」
 緑硬亀は恐怖で身を震わせた。


  二十一 二人の王

 白都の王宮で白大狼は軍団長達に矢継ぎ早に指示を出す。その背後では暇そうに白麗蝶が髪を弄っている。
「よいか。栄大国の主力が集結して赤栄虎自らが戦場に来ているいまが好機だ。この機会に敵を倒せば一気に大陸を統一に導ける」
 白大狼の言葉に軍団長らは頷く。地の利もある。兵達の士気も高い。白安国軍の生き残りのうち、栄大国と対抗するために戦っていた者達も下ってきた。野に散り、赤族と戦う機会を待っていた者達もこの戦いに参戦を表明している。白大狼はそのような将兵達の受け入れの可否を素早く決めていく。
「なあ大狼」
「麗王陛下、いましばらくお待ちを」
 白麗蝶はため息を吐き、立ちあがる。
「どこに行かれるのです」
「庭園に」
 しばらく白大狼の背中を見つめたあと、彼女は謁見室を出た。
 雲一つない青空の下、かつて白大狼とともに遊んだ庭園を白麗蝶は歩く。船上での約束の通りに、白大狼が大陸統一に奔走しているのは分かる。でも少しぐらい自分のことを構ってくれてもいいのではないか。それがわがままだということは分かっているのだが。
「はあ」
 思わず声が漏れる。この戦が終われば白大狼の気持ちを確かめよう。それまでは何かほかのことで気を紛らわせるしかない。
「そうだ、戦に出よう」
 かつて父が戦った相手を見てみたい。そしてその首を落としたい。
「赤栄虎よ覚悟しろ」
 彼女は剣を抜き一閃させる。風が吹き、赤い花が茎から落ちた。

 日が落ち、夜が深まり、白都の多くの者が寝静まった頃、白大狼はようやく自室へと引き下がった。頭が割れるように痛い。多くの者と謁見したからだ。黒都を離れて以来、うちに秘めた能力が徐々に覚醒してきた。いまでは人と相対すれば、その思考が細部まで読み取れる。
 他人の野心に当てられ過ぎた。
 彼の前に来る者は、いずれもこの戦で自らの名や地位を上げようと考えている。その黒く粘度の高い心が白大狼の精神に重しのように伸し掛かってくる。目を閉じると無数の人々の声が頭のなかで谺した。彼はたらいの水を掬い、顔を洗う。少しだけ頭の熱が去る。大きく深呼吸した。鳴り響く声が消え、一つの声だけが残った。白麗蝶の声だ。彼女の心の声は白大狼に届いていた。だが彼はその声に答えられないでいる。一国の政務を見るということは大変なことだ。若い彼は全ての時間をそのことに使わなければならなかった。
 部屋で読むつもりで持って来た書類を手に取る。蝋燭の光の下で、青美鶴の手紙を読んだ。二通ある。一通は軍務のこと。もう一通は流麗な文字で愛の囁きが書かれていた。
 このような手紙をもらうのは悪い気はしない。
 だが。
 そこまで考えて彼は窓際へと移動した。城壁に設置された投石機が見える。一年前、猛虫を使う策を青美鶴から告げられたとき彼は心の底から驚いた。彼女は青遠鴎や白大狼から緑輝の長焉市攻略の話を聞いていた。だが実際にその目で見たわけではない。その彼女がそれを赤族との戦いに使うべきだと提案した。白大狼はその発想に疑問を持ち、彼女の意図を読み取ろうとした。だが白い霧のなかに迷い込んだように心に触れることはできなかった。
 黒捷狸なら緑輝の戦術を学び自分の策に取り込んでもおかしくない。だが彼は死んだ。
「疲れているのか」
 ため息を吐く。
「寝たほうがいいな」
 少し考えたあと、彼は寝床に着いた。

 麗王がいない。
 その事実が王宮内を駆け巡った。朝食を運んでいった女中がその事実に気付き、慌てて女中長の許に走り、彼女が白大狼に報告した。
「またかっ」
 最初に発した言葉は怒りと諦めが混ざった言葉だった。白都を抜けだし、海都へ向かったときと同じだ。この五年、彼女にしては大人しくしていたから忘れていたが、白麗蝶とはそういう人間だ。白大狼は彼女の部屋に行き、窓から下を見下ろした。昔住んでいた部屋がいいと言うので、かつての居室を使うようにと告げた。五年前もここから逃げたのだ。なぜ二度は繰り返さないと思ったのだ。
「くそっ、鉄格子の付いた部屋に入れて縄で縛っておくべきだったか」
 普段の物言いとは大きく違う白大狼の言葉に女中長は驚く。
「白大狼様、馬が一頭盗まれています。白い駿馬です」
 兵士が報告に来る。
「麗蝶のことだ。白都の外に出るつもりで馬を盗んだはずだ。すぐに門衛に触れを出し、いかなる者も通さぬよう厳命せよ」
 小さな門のいくつかは、参戦を表明した兵達が入ってくるのに使っている。そこから逃げられては捕まえるのが困難になる。しかし何のために外に出たのだ。白大狼は頭を悩ます。白都を攻めたときも、自ら王宮に乗り込み白安豚を倒そうとするし。
「まさか」
 嫌な予感が脳裏をよぎる。恨みの度合いでいえば、白安豚など比較にならない相手がすぐ近くにいる。白賢龍を殺した赤族の長、赤栄虎だ。彼女ならあり得る。暇だという理由だけで大陸周回航路船に乗り込み、黒都へ向かうような人間だ。白大狼は部屋を出て廊下を歩き始める。
「精鋭騎兵千騎をいつでも出撃できるようにしておけ。栄大国の陣地に切り込む必要があるかもしれん」
 大股で歩きながら、白麗国の将軍は顔を顰めた。

 白都の広河寄りの小さな城門を抜けて、白大狼に許可された兵士達が白都に入城している。栄大国軍が街を包囲しているとはいえ、それはひどく不完全なものだ。広河とその岸辺は白麗国の勢力が勝っている。そのためこのような入城の光景が見られる。
 白安国と栄大国の国境線で私兵を率いて赤族と戦っていた白晴熊もその列に並んでいた。青聡竜が栄大国と戦っているという噂を聞き駆けつけたときには白都の主は白麗蝶に変わっていた。だがそんなことは白晴熊には関係がなかった。赤栄虎を葬るための戦いならばどの陣営でも構わない。彼は白王を尊敬していた。だから白王の死に乗じてその後継者を名乗った赤栄虎を許せなかった。そして赤族に恨みを持つ者達を率いてこの五年、戦を重ねてきた。
「しかし、白晴熊の兄貴。俺達みたいな兵も参戦させてもらえるとは思っていませんでしたよ」
「白大狼様と謁見して、俺の情熱をぶつけたのがよかったのだ。白大狼様は俺の手を取り、あなたのような勇気ある武人を求めていたのですとおっしゃってくれた。俺は打ち震えたよ。心の底から感動した。そしてあの御方は、ともに赤栄虎を倒しましょうとおっしゃってくださった。まるで俺の心のうちを理解してくれているようだったよ。さすが白王様の甥に当たる方だ」
 白晴熊は拳を握り、笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、兄貴。いつものあれをやりますか」
「おう、やるか。打倒、赤栄虎っ」
「おーうっ」
 列の一角が掛け声とともに盛りあがる。笑い声を上げている彼らの前に、一頭の白馬が歩いてきた。その馬の上には武闘着を身に付けた少女が乗っている。
「おうおう、元気がいいのうお前達」
 少女の高飛車な物言いに白晴熊の部下達が眉を顰める。
「お嬢ちゃん、言葉には気を付けな。俺達は戦に来たんだ。だから少しばかり気が荒くなっている」
「ほう。それは面白い。で、余相手にどうするつもりなのだ」
 白銀の髪の少女は意地悪そうな笑みを浮かべる。兵達の顔付きが険しくなった。
「こいつ、人を小馬鹿にするのもいい加減にしろ」
 詰め寄った兵士が腕を伸ばす。彼女は馬上から跳躍し、兵の背中を蹴った。男は勢い余って落馬する。少女はそのまま白晴熊の馬の背に着地する。その身の軽さに一同が驚いた。
「お前いったい何者だ」
 白晴熊は目の前の女に視線を向ける。
「うーん、そうだな。お前達でいいか。よし、赤栄虎の首を取りに行くぞ」
 全員が口を大きく開ける。何を言っているのだこの小娘は。白晴熊は改めて少女の姿を観察する。着ている服は一目で高級と分かる布地だ。少なくとも平民の娘ではない。貴族か王族だろう。
「俺はこの兵団を率いている白晴熊という者だ。あんたはいったい何者なのだ」
 白晴熊の頭を一つの考えがよぎる。白麗国の女性で高い地位にあり、武術に長けた人物の名前など一人しか聞いたことがない。
 城門が騒がしくなり、兵達がこちらを指差している。何人かの兵が向かってきた。
 少女は舞うように宙を跳び、白馬に戻る。
「白晴熊、余に付いて参れ」
「あなた様のお名前は」
「白麗蝶。今は麗王と呼ばれている」
 馬に足を入れる。門衛達が武器を手に走りだした。
「どうします。白晴熊の兄貴」
 あまりに突飛な出来事に部下達がうろたえる。
「赤栄虎の首を落としに行くと言っていたな。面白い。さすが白王様の娘だ。行くぞお前ら」
 白晴熊も馬の腹を蹴った。彼の部下一千騎が列を離れ白麗蝶のあとを追い始めた。

 栄大国の兵達が朝食の支度をしていたとき、少女を乗せた白馬がその陣に近付いてきた。あまりに何気なかったために、兵士達はいずれかの高官の知り合いだろうとしか思わなかった。彼女は歩調を変えずに馬を歩かせ続ける。警備の兵に声を掛けられたときも、うむ御苦労などと返事をし、そのままその場を素通りした。誰も彼女が敵国の王であるとは考えない。だが本陣の近くまで来たときに、さすがに馬を止めるように命じられた。何者だと問われ、赤栄虎に会いに来たと答える。兵士はぎょっとする。栄大国で栄王を赤栄虎と呼び捨てにする人間はいない。あるいは敵か、とも訝しがったが、相手はまだ幼さを顔に残した少女だ。兵士は彼女のことを栄王に伝えるために伝令を走らせた。栄王は赤荒鶏や赤眩雉など幾人かの高官を引き連れやって来た。
「栄王陛下。この女性が陛下に会いに来たと申しております。お知り合いでしょうか」
 名を告げぬ少女を指差し兵士は語る。
「知らぬな。何者だ」
 白銀の髪の少女は美しい顔に笑みを浮かべる。
「ほう、赤栄虎とはこのような顔をしておったか」
 赤族の者達は眉を顰める。この物言い、少なくとも栄大国の者ではない。
「女、何者だと問うておる」
 赤荒鶏が弓に手を掛ける。少女は不敵な笑みを浮かべている。何かを待っているようにも見えた。
「赤栄虎よ、お前の話は以前から聞いていた。白賢龍や白淡鯉を葬ったそうだな」
「そうだ、栄王陛下のお力をもってすれば、そのようなこと容易い……」
 途中まで言い掛けた赤眩雉の言葉を赤荒鶏が弓で遮る。
「白王を殺した矢を放ったのはこの俺だ。栄王陛下が自ら手を下したわけではない。そして白淡鯉殿は自ら死を選ばれた。我らはその死を見届けたに過ぎない」
 少女の顔に一瞬不快な表情が浮かぶ。彼女は胸の前で腕を組み、大きく深呼吸をする。
「そろそろ頃合だな」
 陣の一部で急に兵達が騒ぎだした。白晴熊達千騎が栄大国の宿営地に突っ込んできたためだ。人々の意識がその喧騒に向かう。少女は笑みを浮かべ、腰から二本の剣を抜き、馬の背を蹴った。赤栄虎は剣を抜き、一本の剣を受け止める。だがもう一本の剣が首に迫る。赤荒鶏が電光石火で矢を放った。白麗蝶は空中でその矢を払い落とすためにやむなく剣の向きを変える。赤栄虎はその隙を狙って剣を振るう。だがそのときには既に白麗蝶はいない。彼女は宙を舞い、白馬の背に着地した。すぐに警護兵達が栄王と少女のあいだに割って入る。
「うーむ、そう簡単に首は取れぬか」
「女、貴様何者だ」
 赤荒鶏が紫雲を構える。この矢は父を葬った矢と同じ。ならば剣で受けることはできない。少女は右手の剣を捨て精神を集中させる。周囲の人々の動きが緩慢になる。耳に聞こえる音が低く変わる。赤荒鶏が矢を放った。子供の投げる鞠のように、矢は低速で近付いてくる。彼女は細心の注意でその矢を右手で握る。腕を柔らかく動かして矢の勢いを殺す。彼女は馬上で独楽のように回った。矢が止まる。赤栄虎に向けて投げてやろうか。そう思ったが、いくつかの矢が自分に向けられているのに気付いた。
「我が名は麗王。お前の首は次に会う機会まで預けておく」
 彼女は馬の背に腰を落とす。白馬が駆けだした。栄大国の兵士達に衝撃が走った。なぜこんな敵陣深くに白麗国の女王がいるのだ。
「追えっ」
 馬の腹を蹴りながら赤荒鶏が飛びだした。弓には次の紫雲がつがえられている。矢を白馬に向ける。だが放とうとすると馬がわずかに位置を変えた。何度か矢で狙いを付けたがそのたびに馬が左右に身を躱す。
 後ろに目でも付いているのか。
 赤荒鶏は顔を顰める。兵達が白馬を捕らえるために動きだす。だが数百の馬の動きの先を読むように白麗蝶は駆け抜けていく。
「あの者を捕らえよ」
 赤栄虎も馬を走らせる。赤荒鶏は馬の足に狙いを定めて矢を放つ。しかし矢が到達したときには白馬は違う場所を駆けていた。
 栄大国の軍の外縁では白晴熊達が奮戦している。彼らの視界に白麗蝶の姿が入った。
「御無事でしたか麗王陛下。お前達、あの御方のために道を作れ」
 白晴熊は大声を上げる。ここで白麗蝶が死ねば彼の首がいくつあっても足りない。まさか単身敵陣に入っていくとは思っていなかった。
「おお、白晴熊か。白大狼も来たようだな」
「白大狼様が」
 振り向いた瞬間、精鋭千騎を率いた白大狼が横を駆け抜け栄大国軍に突撃を行なった。彼らは錐のように敵陣に切り込む。
「麗蝶」
「おお、大狼か」
 少女は笑顔を浮かべ、剣を持った手を振る。白大狼の馬が敵の人馬をすり抜け少女へと向かう。彼の顔は怒りで赤くなっている。白麗蝶がやばいという顔をする。二人の馬がすれ違った。少女は白都に向かって一目散に逃げる。赤栄虎が剣を構え、白大狼の頭目掛けて振り下ろした。腰の剣を抜き敵の剣を逸らす。そして切っ先を返して赤栄虎の喉を狙った。数十本の矢が白大狼へと放たれた。彼は舌打ちをして剣の動きを変える。複雑な軌道の一振りで全ての矢を叩き落した。
 何だ、こいつらは。
 矢を放った一人である赤荒鶏は背の毛を逆立たせる。白麗蝶にしろ白大狼にしろ、反応速度が異常だ。
 白大狼は素早く周囲を見渡す。兵が多い。そろそろ潮時か。彼は数人の兵を切り伏せ血路を開く。精鋭兵達が退却路を作り、そこまで一気に抜けた。
 赤栄虎は全軍に追撃を命じる。数十万の兵が二千の兵を追う。精鋭兵が壁となり、白麗蝶と白大狼への攻撃を防ぐ。城門の一つが開けられ、投石機からは岩が、弩からは矢が放たれる。先頭が城門を駆け抜けた。
「弓隊、矢を放て」
 雨のような矢が敵を襲う。栄大国の兵の一部が白都に入った。門が無理矢理閉じられ、挟まれた兵士の悲鳴が響きわたる。重装歩兵達が槍を構えて侵入した兵達を殲滅する。絶叫とともに死体の山が築かれた。
「麗蝶、来い」
 腕を掴み、馬から引きずり下ろす。白麗蝶の顔が青くなる。白大狼は少女を小脇に抱えて王宮へと向かう。
「ごめん、大狼」
 顔が本気だ。これはこっぴどく怒られる。彼女は怖そうに表情を引き締める。兵達が見守るなか二人は王宮に消えた。
「何だか、すごいことになりましたね白晴熊の兄貴」
「ああ、本当になあ。しかし俺達の首は大丈夫なのか。うーん」
 白晴熊は難しそうな顔をして呟いた。

「あはははっ、いや面白かった」
 再び野営地に戻った栄大国の軍の本陣で栄王は大声を出して笑った。
「冗談じゃないですよ。互いにこれだけの大軍を率いて、なぜ王と王の一騎討ちをしないといけないんですか」
 不満そうに赤荒鶏は言葉を漏らす。
「いやしかしさすが白王の娘というか。なかなかの強者ではないか」
 堪え切れないといった表情で赤栄虎は笑う。
 まあ、王が笑いでもしなければ、全軍が虚仮にされたこの現状、士気にも関わりかねないのだが。
 赤荒鶏はため息を吐く。彼は周囲を見渡した。赤栄虎の笑いに釣られて兵士達が苦笑している。そのなかで一人だけ考え事をしている者がいた。美服の赤眩雉だ。
「栄王陛下」
「何だ赤眩雉。いつになく真面目な顔をしておるな」
「それじゃあ、私がいつも不真面目な顔をしているみたいじゃないですか」
 ああ、その通りだと軍団長達が笑い声を上げる。
「どうした」
「栄王陛下は、あの白王の娘を気に入りましたか」
「くく、まあ面白い娘だな。あれだけの女傑は大陸でもそうはおらんだろう。名に相応しく、ひらひらとどこにでも飛んでいく」
「気に入ったと考えてよろしいのでしょうか」
「赤眩雉よ。また何か悪巧みか」
「それじゃあ、私がいつも……」
 その時点で笑い声が大きくなった。赤眩雉は苦笑しながら口の端を上げる。
「栄王陛下、白王の直系を娶るというのはどうでしょうか」
「ほう、面白いことを言うな」
 一座の目が赤眩雉に向けられる。
「以前より、白大国の地を併呑するには、その方が都合がよいのではないかと考えておりました。そして今日、その相手がわざわざ栄王陛下に会いにきたのです。栄王陛下もお気に入りのご様子。今や栄大国は大陸の三分の二ほどを支配下に置いています。国力で言えば、白麗国を上回っています。交渉の余地はあるかと思うのですが」
「つまり交渉して来たいと言うのだな」
「はい」
「あの跳ねっ返りは、力尽くでなければ言うことを聞かないと見たが」
「かもしれませぬ。しかし、栄王陛下にお会いしたことで、一目惚れしたかもしれませぬ」
 赤眩雉は笑みを浮かべる。
「まあよい。どうせ降伏勧告の使者は送らねばならぬのだ。それほどその役をやりたいのなら、赤眩雉お前に任せよう」
「はっ、必ずや吉報を」
 頭を下げ、彼は自分の天幕へと向かう。赤栄虎は白都の城壁に目を移した。
「交渉が決裂すれば、城壁を無効化する土木工事を開始するぞ」
「はっ」
 軍団長達は頷いた。


  二十二 もう一つの戦い

 白麗蝶は白大狼に抱えられて王宮の最も高所にある尖塔の部屋に連れていかれた。部屋の窓には鉄格子がはまっている。
「戦が終わるまで、ここで大人しくしていてください」
 彼のこめかみには青筋が立っている。
「大狼」
「あなたは、自分が何をしたか分かっているのですか」
 部屋には二人しかいない。白麗蝶は意を決して口を開く。
「なあ、大狼。お前が大変なのはよく分かる。でも、もう少し余と一緒にいてはくれまいか」
 白大狼は壁を叩く。
「何を言っている。今はそのような時期ではないだろう。それに栄大国の軍に単身突っ込むなど、王としての自覚が全く足りていない」
「余は王である前に一人の人間だ。お願いだ大狼。余のことをもっと構ってくれ」
「そんな理由であんなことをしたのか。麗蝶、私がどれだけ怒っているのか分かるか」
 激しい声が部屋に響く。
「だって海都での大狼は、余ではなく青美鶴ばかり見ているんだもん」
 彼女は首を竦めながら頬を膨らます。
「いい加減にしろ。もう少し大人になれ」
「どうせ、子供だもん」
「何が言いたい」
「余は青美鶴と違って子供だ。だから大狼は、余ではなく青美鶴といつもいるのだ」
 彼はため息を吐く。
「仕事だから長い時間一緒にいただけだ」
「でも、噂で聞いたもん。大狼が青美鶴に結婚を申し込んだって」
「根も葉もない噂だ」
「本当なの」
 彼女の顔が明るくなる。
「本当だ」
 しばらく彼の顔を見つめたあと、白麗蝶は嬉しそうに頷く。
「そっか、あれは単なる噂だったのか」
 彼女は幸せそうな顔で白大狼に抱き付く。
「それよりも、青美鶴については気になることがある」
「何だ」
「彼女の真意が読めない」
「もしかして心が読めないのか」
「そうだ」
「ふーん、たぶん破邪の力を持っているのだろうな」
「ああ、だから何を企んでいるのか分からない」
 彼女は男の顔を見上げる。
「何か企んでいるのか」
「分からない。だが今回の戦争用に提案した猛虫を使う作戦。そしてそのために数年前から繁殖を行なっていたという用意周到さ。青美鶴個人から出た考えとは到底思えない」
「黒捷狸が生きていて、裏で操っているとか」
 しばらく彼は考える。
「いやしかし、黒捷狸は黒陽宮の崩壊に巻き込まれて死んでいる。それはあり得ない」
「でも生きていたら青美鶴を使って大陸の覇権を握ろうとするのではないか。そして大狼が得る黒円虹の知識を横取りしようとするのではないか」
 白大狼は沈黙する。
「余は青美鶴があまり好きではない。あいつはいつも心ここにあらずという感じがする。なあ、大狼もそう思わぬか」
 顎に手を当て白大狼は考える。もし黒捷狸が生きているのなら前提が大きく変わる。栄大国との戦争とは別種の戦いが密かに進行していることになる。大陸の未来の舵取りをできる黒円虹の遺産の争奪戦。
 しばらく経ったあと、白大狼の胸に抱き付いていた白麗蝶が手を離した。
「そういえば大狼。栄大国の軍に錬金の武器があったぞ」
「それは本当か」
 白大狼の表情が変わる。
「ああ」
 彼女は懐に仕舞った紫雲を取り出す。薄暗い部屋のなかで錬金の矢は淡く輝く。
「これは白賢龍の伯父様を葬ったのと同じ矢。栄大国のどこかに錬金の力が残っている」
 五年探して見つからなかった手掛かりが突如目の前に現れた。
「白大狼様」
 階下で声が響く。
「何だ」
「海大家付きの青勇隼様が面会を求めてきております」
 紫雲を眺めていた二人は顔を見合わせる。錬金の力が残っている場所が分かったのだ。
「行くぞ麗蝶」
「余も行っていいのか」
 白大狼は深呼吸をして、いつもの口調に戻る。
「麗王陛下、この件に関しては、二人で報告を聞く必要があるでしょう」
「分かった。よし行こう」
 彼女は笑顔を浮かべ、白大狼の背中を追い掛けた。

 謁見室では既に青勇隼が待っていた。人払いをしてあるその部屋に、白大狼と白麗蝶が入ってくる。
「おうおう青勇隼、久しぶりだのう」
「白麗蝶様もお美しくなられて。今なら俺の守備範囲ですよ」
 青勇隼は明るく笑う。白大狼が咳払いをする。
「で、どうだったのだ青勇隼」
「ええ、大師匠。見付けましたよ。黒円虹の遺産を。今は青遠鴎達が残ってその場所を見張っています」
「場所は」
「赤族の住む草原の奥地でした。白王様がお亡くなりになられた華塩湖からさらに馬で数日進んだ場所に、輝き瞬く草が群生しておりました。かつて海都の黒陽会にいた黒壮猿という導師がその地で錬金の力を引き出しておりましたので間違いありません」
 白麗蝶と白大狼は身を震わせる。
「では本物だな」
「ええ。それで俺はこのことを白麗蝶様と大師匠にお伝えするために、単身急ぎで戻ってきたわけです。この五年の探索で開発された北周りの大陸周回航路を使い海都に入り、青美鶴様にも報告してから白都にやって来ました」
 白大狼の顔が緊張する。
「青美鶴殿にもこの話をしたのだな」
「当然ですよ。俺の直接の雇い主ですからね」
 険しい顔で白大狼は謁見室を歩きだす。
「どうしたんですか大師匠」
「青勇隼。黒陽宮にともにいた君に意見を聞きたい。あの黒都の崩壊に巻き込まれた人間が生きていると思うか」
「どういうことですか」
「つまり、黒捷狸は生きていると思うかということだ」
「うーん、難しいんじゃないですかね。それに黒捷狸が生きているのなら、青凛鮫も生きているでしょうし。あれ以来、あいつが生きているという話は聞きませんし」
「そうだな」
 航海から帰ったあと青凛鮫は司表の配下だったと白怖鴉から聞いた。もし生きているなら何らかの報告があるはずだ。それがないということはやはり死んだと考えるべきだろう。
「どうやら私は幻影を見ているようだ」
「幻影ですか」
 白大狼はしばらく考える。
「どちらにしろ、黒円虹の遺産は栄大国の深奥にあるわけだ。眼前の敵軍を破るのが先決だな。今の時点で私だけが前線を離れて草原に行くわけにもいかない」
 青勇隼は頷く。三人は部屋を出た。
「白大狼様」
 廊下の向こうから伝令が声を掛けてきた。
「どうした」
「栄大国より外交使節がやって来ました」
「では、俺は席を外しますよ」
 青勇隼は一礼してその場を離れる。
「麗王陛下、謁見室に戻りましょう」
「分かった大狼。さて、どんな話を持って来たのやら」
 楽しむような口調で彼女は言った。

 謁見室に赤眩雉とその一行が入ってきた。
「麗王陛下、先ほどは我らの本陣を訪ねてきていただきありがとうございました。きちんとした持て成しもできず、我らが王はそのことをは悔やんでおりました」
「そうか。矢の馳走や剣の舞い、さすが武の国の歓待と思い感心しておったのだがのう。だがいささか物足りぬと思っていたのも事実だ。余も大狼も少し退屈していたからな」
 赤眩雉の眉が微かに動く。
「それで、何の用で参ったのだ。また栄大国の兵士達の舞いでも見せてくれるのか」
 意地悪そうに白麗蝶は口の端を上げる。
「ええ、舞いを楽しんでいただくのも一興かと思いまして。ただし、戦の場ではございません」
 そこで言葉を区切り、反応を待つ。
「どういうことだ」
「今日は、一つ提案を持って参りました」
「ふむ、どういう提案だ」
「栄大国と白麗国の争いは、遡れば白王様の征西に端を発します。だいぶ長い期間、戦を続けてきました。そろそろ終決させるべき時期ではないかと思っております」
「そうだな。そろそろ栄大国が白大国の軍門に下る時期ではあるな」
「それ以外にも戦を終わらせる手段はございます」
「ほう、どういうことだ」
「先ほど麗王陛下が我らの本陣に遊びに来られた際、栄王はあなた様のことをたいそう気に入った様子でした。婚姻という形で二国が一つになるという道もあるのではないかと臣下一同話し合った次第でございます。婚儀の場で舞姫達の舞踊を眺めるというのもよろしいかと思いまして」
 白麗蝶の軽口が止まる。顔に不快な色が浮かんできた。
「赤族の田舎者が、余の夫になりたいと申すのか」
「今では栄大国のほうが白麗国よりも広い領土を有しています。時代は変わったのです。今後は栄大国こそが大陸の中心になりましょう」
 そこまで告げたとき、赤眩雉の言葉が止まった。白麗蝶の怒りのこもった目を直視してしまったからだ。すさまじい圧力を赤眩雉は感じる。気付くと膝が震えていた。額から汗が零れてくる。
「余は既に心に……」
 白大狼が手を上げ言葉を遮る。そのようなことは外交の場で言うべきことではない。
「赤眩雉殿。麗王陛下は、いまはその気はないとおっしゃっています」
 白麗蝶は不満げな顔で白大狼を見る。
「お引き取りください」
「分かりました。今日の提案を蹴ったことを後悔なさらぬように」
 赤眩雉は額の汗を拭い、一礼して引き下がった。
 白麗蝶は白大狼に連れられて尖塔の部屋へと向かう。
「なあ大狼」
「何でございましょうか麗王陛下」
「結婚してくれ」
 白大狼はため息を漏らす。
「ご自分の立場と時期をわきまえてください。軽々とそのようなことを言ってはなりません」
「そうか」
「そうです」
「大狼は真面目だのう」
「あなたが不真面目なだけです」
 私は真面目に言ったのに。彼女は白大狼の脛を思いっきり蹴った。


  二十三 兄と弟

 海都に向かう二人の旅人の姿があった。白都を出たあと広河の水軍と長城を避け、北回りで海都を目指した一行だ。途中、人造湖周辺の混乱に出会い、その地を小舟で抜け、馬を調達して南東の海都へと向かった。直行するよりはだいぶ時間が掛かってしまった。しかしこれも仕方がない処置だったと言える。二人連れのうちの一人は、白安国の将軍を一時引き受けていた。いかに海都にゆかりのある人物とはいえ、何の障害もなく海都にたどり着けるはずがなかったからだ。
「あっ、青聡竜様。海都が見えてきました」
 青明雀が南の地平線を指差す。彼女は青聡竜の馬の背に同乗している。
「そろそろだな」
 青聡竜も彼方を見やる。
「さて、一応私は敵国の者だ。身を隠して海都に入らなければなるまい。それに私は兄上に疎まれてもいる」
「そうなのですか」
「ああ」
 彼は苦笑する。
「青聡竜様のお兄様って、青捷狸様のことですよね」
「そうだ」
「じゃあ、大丈夫ですよ。私、青美鶴様や白大狼様達の話を盗み聞きしましたから」
「どんな話なんだ」
「あの方は、黒都って場所で亡くなったそうですよ」
 青聡竜は怪訝な顔をする。
「どういうことだ。詳しく話してくれ」
「私が聞いた範囲の話でいいですか」
「ああ」
 青明雀は五年前のことを思い出し、頭のなかを整理する。
「青捷狸様は黒捷狸とお名前を変えて、大陸周回航路船に乗って黒都という場所に行ったそうです。そこでいろいろあって亡くなったということでした」
「海都で葬儀などはあったのか」
「えっ、葬儀ですか。そういえばなかったですね」
「聞き間違えではないのか」
「いえ、そんなことはないですよ。私、確かに聞きましたもの」
 何がどうなっている。
 少なくとも、閉腸谷での戦の帰りに襲ってきた暗殺者は青捷狸の考えで派遣されたものだと言える。あのようなことをやる人間は、ほかには思いつかない。ならばその時期、青捷狸が生きていたと考えるのが適当だ。だが青捷狸は黒都で死んだという。
「この五年、兄上の姿を見たという話は聞いたことがあるか」
「いえ、ないですよ」
「そうか」
 馬上でしばらく考える。もし青捷狸が生きていて、自らを死んだと偽って活動しているのならば、何かよからぬ企みをしているはずだ。そして暗殺者の一件を考えれば、その計画には青聡竜が邪魔らしい。
「青明雀よ」
「はい、何ですか」
「海都に入ったら少し様子を見る」
「えっ、なぜですか」
「まずは情報収集をする。海都で何が起こっているのか把握する必要がある」
「青美鶴様には会っていただけないのですか」
 青明雀は困った顔をする。
「いずれ会う。しかし、その前に情報を得ておきたい」
 彼は海都に視線を移し、馬の腹を蹴った。

「そうか黒円虹の遺産が見つかったか。くくく、あの者達はよく働いてくれた。わしのために探していることも気付かずにな」
 海都の地下水路の一角にある豪奢な隠し部屋。そのなかで黒捷狸は笑みを浮かべた。室内には青美鶴と青凛鮫がいる。
「あとは美鶴、お前が白大狼を篭絡するだけだ。それと、あの男が戦で死なないように気を配れ。……死んだ場合は次善の策になるが、錬金の力を握ることで諦めるしかあるまい」
 指示を出す父親の姿を娘は冷めた目で見る。次善の策を口にすればするほど、当初の計画とは程遠い小さな話になっていく。やはりこの人は老いたのだ。だがそのことが分かっても、幼少期に受けた心の傷は癒えない。彼女は父の呪縛から逃れられないでいる。
「ご主人様」
 顔の潰れた秘書が口を開く。
「何だ」
「白都から消えたのち、行方不明になっていた青聡竜様の目撃情報がありました」
「どこだ」
「長城を水没させるために作った人造湖の周辺で見掛けたという兵士がいました。馬を買い求めたそうです。あと、若い女を連れていたそうです」
 若い女。
 青美鶴が身を硬くする。
「海都に来るつもりか」
 黒捷狸の表情が醜く歪む。
「並の者ではあの男を葬ることはできない。奴の性格を利用してこの場所から遠ざけておいたのだがな。まあ、五年も持ったのだ。策は成功と言えるだろう」
 部屋を歩き回りながら考える。
「そろそろ全力で葬るときが来たのかもしれん。わしの大陸制覇の野望にとって、あの男は邪魔だ。いや、我が人生の邪魔者と言うべきかもしれん。あの男のせいで、わしは絶えず心休まるときがなかった。あの男の存在が、才能が、無欲さが、いつもわしを脅かしていた。憎んだ、恨んだ、疎ましかった。わしが苦労して手に入れようとしたものを、奴は惜しげもなく捨て続けた。決着を付けるべきだ。わしが次の段階に行くために、あの男を排除すべきだ。そしてわしの力があの男を上回っていることを証明しなければならない」
 黒捷狸は顔面いっぱいに邪悪な笑みを浮かべる。
「美鶴よ」
「は、はいお父様」
「わしは殺すぞ。青聡竜を」
 青美鶴が青い顔になり震えだす。その様子を楽しむかのように、黒捷狸は笑い声を上げる。
「お前はあの男に心を傾け過ぎた。白大狼をいまだに篭絡できないでいるのは、奴への思いが強過ぎたからだろう。その迷いを断ち切ってやる。そうすれば、何の憂いもなく白大狼をその体で狂わすことができるだろう」
「は、はい」
 彼女は顔を下げ、恐怖で全身を震わせる。
「凛鮫よ」
「はい」
「海都の入り口を見張らせている荒事師達に、青聡竜の侵入に注意するよう伝えろ」
「……分かりました」
 この五年、何度も見てきた光景だ。悪夢。青美鶴にとってはそうとしか言いようのない日々が続いている。何とかして彼女を救う方法はないものか。
「何をしておる。早く仕事をしろ」
 苛立たしげに黒捷狸は告げる。
「はっ」
 地下水路には指令を投函する秘密の連絡所がいくつかある。青凛鮫は机に着き、そこに投げ込む手紙を書き始めた。
「美鶴よ、我が娘よ。青聡竜の首を、お前と白大狼の婚礼のための祝いとして贈ってやろう」
 彼女は美しい顔を背ける。黒捷狸はその顎に手を触れ、愉悦の表情を浮かべた。

 青聡竜は海都では顔が知れすぎている。二人は街に入る前に馬を捨て、頭巾付きの外套を求め、泥で姿を変えて城門をくぐった。門衛や街の人々は彼らの通過に気付かなかったが、青聡竜を探すことに専念していた者達はその変装を見破った。報告は黒捷狸の許に届き、密かに見張りが付けられる。
 二人は親子と偽り、目立たぬ場所に建つ宿の個室に入った。
「さて、まずは舟大家を見に行くか」
「今は海大家となっています」
「そうだったな」
 荷物を下ろした青聡竜は声を返す。彼が居ぬまに海都の町並みは根本から変わってしまった。まずは主な場所を見て回り、海都の現状を把握したい。彼は扉に向かって歩きだす。
「案内します」
 青明雀は素早く前に立ち、扉を抜けた。
 彼らは頭巾を被ったまま人込みのなかを進み、海大家の商館や王宮、司表殿など、海都の主要な建物を訪れる。また、身分を隠して街の各所で人々に話を尋ね、海都の現状を確認した。白安国の崩壊もこのとき知る。そして白都での白麗国と栄大国の睨み合いも聞き及んだ。夕日が景色を赤く染める頃、必要な情報をあらかた仕入れ終わった二人は宿の近くに戻ってきた。
「新しい海都には昔日の面影はまるでないな」
 長い影を伸ばしながら青聡竜は呟く。
「ええ、そうですね。この街は青美鶴様の指示の下、徹底的に作り変えられましたから」
「宝石箱のようだった海都の町並みが無骨な要塞になってしまったか」
 歩きながら青美鶴の姿を思い出す。彼女がここまで軍事に傾斜した都市にするとは思っていなかった。
「あの、青聡竜様。青美鶴様に会ってはいただけませんか」
 南の空を見る。赤と紫のせめぎ合いが空を美しく染めている。
 商館に行けば、無用に目立ってしまうだろう。
「青美鶴の居館はどこにある」
「会っていただけるのですね。青美鶴様のお屋敷は、かつての場所に当時の姿のままあるんですよ」
 青明雀が嬉しそうに答えた。これほど街を変えたのに、住んでいる場所だけは元のままにしているのか。道も区割りも全く違う。何か理由がなければ同じ場所には建てないはずだ。
「感傷か、それとも……」
「どうしたんですか青聡竜様」
「いや、日が落ちたら館に向かおう」
「分かりました」
 青明雀は嬉しそうに微笑んだ。

 夜になり、二人は宿を出た。
 月明かりの下、裏路地を抜けて青美鶴の住む建物へと向かう。屋敷はかつてとまったく同じ場所にそのままの佇まいで建っていた。かつて青聡竜が専属家庭教師として青美鶴とともに過ごしたときのままの姿だ。
「ここだけ時間を遡ったようだな」
 辺りに人はいない。窓から漏れる光もない。寝静まっているのか。この区画一帯に人の気配がない。
「人の声が全く聞こえませんね」
 青明雀が不安そうな顔をする。彼女の耳は信頼できる。ならばこの周囲一帯の人を遠ざけているのだろう。
「どうやら、我々がこの街に入ってきたことは、初めから知れていたようだな」
「えっ」
 青聡竜は頭巾を取り、周囲を見渡す。青捷狸や青美鶴なら、荒事師程度では彼に傷を負わせることができないことを知っている。青聡竜に匹敵する腕を持っている人物となると大陸にも数人しかいない。それならば待ち構えている人物もおおよそ想像が付く。
「入ってこいということか」
 扉に向かって歩きだす。そのあとを青明雀も追う。
「危険だ。外で待っていろ」
 足を止めた青明雀は、その直後四階の窓を見た。
「青美鶴様の声」
「聞こえたのか」
「最上階から聞こえました」
 青聡竜も上を見る。だが彼の耳には声は聞こえない。彼女は意を決してしゃべりだす。
「お願いです、私も連れて行ってください。私の耳は必ず役に立ちます。私は、青聡竜様に青美鶴様を救って欲しいんです」
 彼は扉を蹴り壊した。
「身を守ってはやれぬぞ。兄上がいるのならば、このなかで死闘が起こるのは必定だからな」
「はい」
 彼女は緊張しながら数歩足を進めた。

 建物のなかは暗闇だった。まるで、十五年前に初めてこの屋敷を訪れたときのようだ。青聡竜はここで出会った少女の闇のように暗い表情を思い出す。あのときの彼女は人形のようだった。青捷狸という巨大な人物に怯え、彼の希望に沿えるように必死で課題をこなす姿を見て、彼はしばし呆然とした。それは通常の十歳の少女から想像される姿ではなかった。その心は重圧に押し潰され変形し、岩のように硬くなっていた。青明雀の話を聞く限り、青美鶴の精神はその頃の状態に戻っている。彼女はいま、再び青聡竜の差し伸べる手を待っている。
 墨を塗った数本の槍が青聡竜に向かって突き出された。反射的に手が動き、腰の剣が数人の荒事師の頭蓋を割る。
「きゃーっ」
 血が飛び、死体が床に倒れ、青明雀が悲鳴を上げる。
「どうやらここで全てのけりを着けるつもりらしい」
 立て続けに数十本の矢が飛んでくる。無数の風切り音が青聡竜の前で弾けた。矢は全て叩き落される。少し遅れて青明雀の怯える声が響く。
「怖いのなら建物の外で待っていろ」
「だ、大丈夫です」
 目の端に涙を浮かべながら彼女は答える。その返事が終わる前に、数人の悲鳴が聞こえた。青聡竜が剣を大量の血で染めていた。階段に足を掛ける。手すりを伝って鋼線が青聡竜の胴を分断するために滑り落ちてくる。剣を数度振るい鋼線を断ち、階段を一気に駆け上がる。再び絶叫。
「いったい何人の荒事師を仕込んでいるのだ」
 青聡竜が進むたびに建物には血と臓物が撒き散らされる。
「美鶴から兄上を引き剥がすには、血の儀式なしでは済まされないようだな」
 彼は三階へと上がる階段に足を掛けた。

 四階に着いた。
「先ほど美鶴の声が聞こえたと言ったな。どの部屋か分かるか」
 青明雀は意識を集中する。
「あそこの部屋です」
 青美鶴の寝室だ。扉に仕掛けがあるかもしれない。倒した荒事師から奪った剣で取っ手を叩く。指を切り飛ばすための花弁状の刃が飛び出した。
「声はまだ聞こえるか」
「微かに」
「部屋のどこらへんにいるか分かるか」
「真ん中辺りだと思います」
 青聡竜は警戒しながら扉を蹴破る。無数の針が飛んできた。それを素早く躱す。暗闇のなか、月明かりがわずかに射し込む寝室の様子が露わになる。かつての青美鶴の部屋のままだ。足を踏み込む。扉の陰に隠れていた者達を数人切り伏せる。青明雀もあとを追い、部屋に入った。
 寝室の中央には大きな縦長の箱が立ててあった。青聡竜はその見慣れぬ箱を見て表情を険しくする。何を狙ってのものだ。彼は警戒しながら近付いていく。
「青美鶴様の声がします。その箱のなかからです」
 彼は一瞬足を止める。
「彼女は何と言っている」
 青明雀は目を瞑り、耳を澄ます。
「……お父様、お許しください、何でも言うことを聞きます。だから見捨てないでください、お母さまを私の目の前で殺したように、私を殺さないでください……」
 驚きの顔で目を開ける。
──お母さまを私の目の前で殺したように。
 二人の汗腺から一気に汗が噴き出る。
 青聡竜は箱に駆け寄った。どこか開ける場所はないかと箱の周囲を探る。その様子を見ていた青明雀は急激な目眩に襲われた。耳に聞こえていた音が消えたかと思った瞬間、これまでの人生で聞いた全ての音が耳の奥で爆発した。
「あっ」
 一瞬口から声が漏れて床に倒れる。意識が白濁していく。何が起こったのか全く分からない。霞む視界のなかで、青聡竜が箱を開けたのが見えた。そして驚く顔。その背後に剣を振り上げる黒衣の人影。彼女は口から泡を吐き、体を数度痙攣させた。青聡竜の血が飛び散るのが見えた。
「くっ」
 青聡竜の顔が苦痛で歪む。その左腕の肘から先がなくなっていた。血が床を染める。箱のなかには全裸で怯える青美鶴の姿があった。黒捷狸が黒衣を脱ぎ捨てる。久しぶりに兄弟は対面した。
「くくく、読み通りの結果になったよ。聡竜、お前が驚く顔を想像しながらわしはこの罠を張った。予想通りの反応をしてくれて非常に嬉しかったよ」
「兄上」
 服を裂き、その布で腕を縛りながら青聡竜は距離を取る。
「予想外の闖入者があったがな」
 黒捷狸は痙攣する青明雀の近くに寄り、壁に向けて蹴り飛ばす。腕がありえぬ方向に曲がって床に落ちた。
「さあ、弟よ。剣を交えようではないか」
「青捷狸、貴様っ」
「くくく、あはははっ。その声を聞きたかったのだよ。できのよい弟、物分りのよい弟。そんなお前が感情を剥き出しにしてわしの前にひざまずく。その日が来るとは思っていなかったぞ」
 彼は目を血走らせながら叫ぶ。青聡竜は呼吸を整える。
 そのとき、意味不明の言葉の羅列が大声で響いた。
「何だ」
 これは凛鮫の声。黒捷狸は眉を顰める。その直後、青聡竜は部屋の奥の壁に向けて駆け出した。行き止まりだ。激突する瞬間、壁が開いて地下へと向かう階段が現れた。
「どういうことだ」
 壁の隙間には青凛鮫がいる。青聡竜が通り抜けた瞬間壁が閉じられた。一瞬黒捷狸は呆然とする。そして、この五年、秘書を務めていた男が裏切ったことに気付いた。
「凛鮫っ」
 髪を逆立たせて激高する。壁を開けるには扉近くの燭台を操作しなければならない。
「くそっ」
 彼は慌てて走り、壁を開く。既に二人の影はない。彼は床を蹴り、壁の奥の階段を駆け下りた。

 青聡竜と青凛鮫は地下道を走る。青聡竜の腕からは血が垂れ、顔は青い。
「青凛鮫よ、よくぞ助けてくれた」
「しかし、青聡竜様。よく私の声に従って動いてくださいましたね。私はこの通り、顔も声も変わってしまいましたのに」
「よもや司表の暗号がこのような形で役に立とうとはな」
 息が荒い。このままでは失血で倒れてしまう。
「青聡竜様、私を信用するなら、このまま付いて来てくださいませんか」
「どこに向かう」
「黒捷狸様の隠れ家です」
 一瞬沈黙が横たわる。
「お前を信用しよう」
「ありがとうございます」
 彼は歩き続ける。
「私はこの五年で、黒捷狸様の秘書をして様々なことを学びました。黒都の医術もその一つです。すぐに治療をします」
 青凛鮫は闇のなかで立ち止まり、隠し扉を開けた。

「くくく、逃がしはせぬぞ」
 地下水路には天井から微かな月明かりが漏れている。光は水路沿いの通路の床を照らし、その上にある血の跡を浮かびあがらせる。走って追い掛けるわけにはいかない。曲がり角で待ち伏せしているかもしれないからだ。だが血をたどれば必ず追い付くことができる。それにこれだけの出血、そう遠くには逃げられない。
 血の跡が途切れた場所で黒捷狸は不快な顔をした。ここは隠れ家の入り口だ。青凛鮫め、どこまでわしを虚仮にする気か。剣の柄で壁の一部を押し、現れた廊下に踏み込む。その先の扉の周囲から光が漏れている。通路の壁に触れると扉が開いた。きらびやかな装飾と無数の品々が並ぶ部屋が目の前に広がる。壁は一面書物や地図や書類が並べられており、机の上には無数の道具や瓶に入った生き物、薬品が並んでいる。部屋の中央に青聡竜と青凛鮫がいた。弟の腕には真新しい包帯が巻いてあり血は止まっていた。
「ほう、勝手にわしの部屋のものを使いおったか」
「ええ、使わせてもらいましたよ。青凛鮫の治療のおかげで、失血死は免れました」
「だが顔は青いままだな」
「兄上は赤黒く染まっておりますね」
 二人はほぼ同時に剣を構える。青凛鮫は青聡竜の側を離れる。手には一つの瓶を持っている。兄弟は静かに睨み合う。
「兄上」
「何だ聡竜よ」
「私達兄弟は、もっと若い頃に争いを経験しておくべきでしたね。そうすれば互いに剣を取り、殺し合うこともなかったでしょうに」
「ふんっ、出会ったときは、わしは既に大人だったがな」
「私は兄上のことを信頼していました。しかし、あなたは私のことを疎んでいた。そのことが五年前に初めて分かりましたよ」
「遅いな。欺かれ続けていたわけか」
 黒捷狸の笑い声が響く。二人は緩慢な動作で距離を詰める。
「ところで兄上、伺いたいことがあるのです」
「何だ。冥途の土産にたいていのことなら教えてやるぞ」
「先ほど美鶴が呟いておりました。お母さまを私の目の前で殺したと」
「ああ、あの女のことか。身分もあり、多産の家系ということで娶ったが、数人子供を産んだあとに死産を経験してな。子の産めぬ体になったと医師が言いおった。用済みになったのだ。その頃にはわしの地位も安泰になっておったしな。だからわしの子供のなかで最も高い能力を持つ美鶴を完全に支配下に置くために活用したのだ。あれも幸せな女だった。死んだあとも、ずっとわしの役に立っているのだからな」
 青聡竜の顔に血の色が差す。
「公式には病死と伺いましたが」
「ああ病死だ。薬物中毒という名のな」
 剣が一閃し、火花が部屋に散る。二人の距離が遠のいた。
「毒を盛り、死に至る過程を幼い美鶴に見せ続けたのか」
「察しがいいな。さすが双龍と呼ばれていた男だけある」
 青聡竜が踏み込み剣を繰り出す。黒捷狸が横薙ぎに剣を振り、互いに寸でのところで躱す。数合打ち合い、再び距離を取った。
「なぜそのようなことを」
 悲しげな顔で声を漏らす。
「わしは誰も信用していない。弟であろうが娘であろうが一緒だ。だから、もっとも効果的な方法を選んだだけだ」
「なぜなのですか。家族ではありませんか」
 同じ血を分けた兄に弟は訴え掛ける。
「その家族が一番信用が置けない。妾腹だったわしがどのような人生を歩んできたかお前には分からぬだろう。この世の中で、もっとも恐るべき敵は身内なのだ。わしはお前が羨ましかったよ。何の迷いもなく素直に育ったお前が。全てを持っていたお前が。そして誰からも愛されていたお前が。そしてわしはお前を憎んだ」
「私は全ての人から愛されていたわけではありません。この世で最も愛して欲しかった相手の愛を得ることができなかった」
「白淡鯉か」
 黒捷狸は満面の笑みを浮かべる。
「大陸の重要人物の死の時期を知らせる死表という錬金の石板があるのだがな。そこに白賢龍や白淡鯉の名前が刻まれたときにわしは狂喜したよ。お前の大切な人間達が、お前より先に死んでいくのだ。人を信用したお前が、その心がゆえに苦悩するのだ。これ以上愉快なことはあるまい」
「青捷狸っ」
 青聡竜は大声で吼える。既に彼の息は荒い。
「もう一つ。面白いことを教えてやろう。白賢龍と白淡鯉の娘の白麗蝶。あの小娘もそろそろ死ぬぞ。わしがあの娘を殺す策を仕込んだ」
「貴様」
 猛然と踏み込み数合打ち合う。だが今度はその剣に差が出た。青聡竜は傷を受け、血を流す。
「深手はないようだな。まあ片腕で、よくここまで頑張ったと誉めてやろう。さすがわしの弟だけはある」
 青聡竜は息を整える。
「兄上。あなたの敗因は人を誰も信用しなかったことです。人を信用した私が最後は勝つ」
「ほざくな」
 その瞬間、二人の間に瓶が投げ込まれた。青凛鮫だ。瓶が床で割れ、巨大な火柱が立つ。
「くそ、わしを焼き殺すつもりか」
 黒捷狸は炎を避けるように数歩下がる。その猛火のなかから炎に包まれた青聡竜が飛び出してきた。剣の切っ先が黒捷狸の胸を貫く。二人分の体重の掛かったその先端が壁に突き刺さった。
「な、なにっ」
 吐血しながら声を漏らす。黒捷狸は青聡竜の体をまじまじと見る。
「貴様、火傷を負っていないだと」
「黒都の知識のなかには、不可思議な薬品の調合もあるそうですね。先ほどの炎は、青凛鮫が調合した、低温の炎だそうです。だから私は自分の身が焼けることを恐れずに飛び込んだ」
「何だと。そんな、見たこともない、存在しないかもしれないものを信用して、お前は炎のなかに身を投じたのか」
「兄上には無理でしょう。あなたは他人を信用しませんから」
「くくく、そうだろうな。わしはそうやって生きてきた。お前とは逆にな」
「ええ。だから私は白賢龍の夢をともに見ることができたのです」
 黒捷狸は口から血を溢れさせる。
「わしも夢ぐらい見ていたさ。わしだけが幸せになる夢をな」
 青聡竜は剣を捻じり、一気に引き抜く。胸から大量の血が噴き出て黒捷狸は床に倒れた。青凛鮫の投げた炎はまだ燃えている。その光を背に受けながら、青聡竜は兄の首を切り落とした。火の勢いが弱まり、完全に消える。青聡竜は膝を床に落とし、荒く息を吐いた。
「青聡竜様」
「大丈夫だ。それよりも戻るぞ」
「戦いで受けた怪我の治療をしなければ……」
「必要な道具を持って付いてこい。美鶴が心配だ。彼女の心の闇を払わねばならない」
 黒捷狸の首を持ち、彼は立ちあがる。
「それに兄上は気になることをしゃべっていた」
「麗王陛下暗殺ですか」
「ああ、青凛鮫、何か知っているか」
「いえ、その件は黒捷狸様と青美鶴様しか知らないことです」
「どちらにしろ、急いで戻るぞ」
 青聡竜は歩きだす。青凛鮫は医療道具を持ってあとを追った。

「美鶴、起きろ、大丈夫か」
 彼女に服を着せ、寝台に寝かせ、気付け薬を嗅がせてしばらく経った。青凛鮫は既に青聡竜の治療を終え、今は青明雀の治療を行なっている。彼はちらりと二人の姿を見る。青美鶴はまだ目を覚まさないようだ。
「青明雀のほうはどうだ」
「思わしくありません。骨折は添え木を当てていればそのうち治るでしょうが、精神のほうは分かりません。黒捷狸様の破邪の力を真正面から受けていましたから。無事に意識を取り戻したとしても、耳は一生聞こえないかもしれません」
「彼女にはいろいろと助けられた。治してやってくれ」
「できる限りのことはします」
 青凛鮫は数種の薬瓶を取り出し、穴の付いた針で彼女の腕に薬液を注ぎ込む。やることはやった。あとは結果を待つしかない。
「青聡竜様、青美鶴様はどうなりましたか」
 答えがない。立ちあがり寝台に近付く。青聡竜の背中越しに眺めていると、青美鶴はゆっくりと目を開けた。
「美鶴、私だ。青聡竜だ」
 彼女の唇は青く、全身が震えている。
「青聡竜の叔父様が、なぜここに」
 夢を見ているのではないか。彼女は自分の目に映っている光景が信じられないといった素振りをする。
「大丈夫だ美鶴。もうお前は何も心配しなくていいんだ」
 青聡竜が語り掛ける。だが彼女は怯えながら身を竦ませる。
「お父様、お許しください。私はお父様の言うことは何でも聞きます。だから、だから……」
「美鶴」
 一声叫び、青聡竜は彼女を抱き締める。先ほどまで幻影のように見えていた男の温もりを感じ、青美鶴は驚きの表情を浮かべる。
「叔父様、本物の叔父様なの」
 震えが徐々に止まり、彼女の唇に赤みが差す。青聡竜は腕を緩め、彼女から少しだけ身を離す。
「そうだ美鶴。もう大丈夫だ。父の影に怯える必要はもうないのだ」
 彼女は叔父の姿を眺める。そして左腕の肘から先がないことに気付く。
「叔父様、その腕は」
 彼は苦い顔をする。
「兄上と、お前の父親とやりあった。あんな男でもお前の父だ。私は青捷狸を殺した。恨むがよい。だがお前を救うにはそれしかないと思ったのだ」
「嘘、お父様を」
 彼女は口に手を当てる。あまりにも唐突なことに頭が混乱する。彼女は青聡竜から目を逸らし体を震わせる。
 やはり、あれでも父親だった男だ。私は去るべきだろう。
 青聡竜は立ちあがり扉に向けて歩きだす。青美鶴は声を掛けようとするが頭のなかを様々なことが駆け巡り、うまく言葉がまとまらない。
「青聡竜様、どちらに」
「白麗蝶様が心配だ。兄上が話していた件もある。私は白都に行く。あとは頼んだ」
 青凛鮫が頷き、青聡竜が歩き始めたとき彼の服の裾を何かが引いた。足元を見ると青明雀の手が裾を握っている。
「青美鶴様にお会いしてください」
 彼女はまだ錯乱している。目の焦点も合っておらず、この場所がどこかも把握していない。青凛鮫が彼女に駆け寄る。
「青聡竜様、意識が戻りました。これで大丈夫です。時間は掛かりますが、きっと回復するはずです」
「そうかよかった」
 指を開かせるために彼は膝を突いた。
「叔父様、待ってください」
 ようやく頭の整理が付いた青美鶴が口を開く。
「本当に、お父様は死んだのですね」
「ああ。証拠の首も持ってきた。確認するか」
 青美鶴は首を横に振る。
「いえ、叔父様がおっしゃるのなら信用します。それに、私はあの人の顔などもう一生見たくはありません」
「そうか」
 青聡竜は安心した笑顔を浮かべる。その顔を見て青美鶴は頬を薔薇色に染めた。窓の外の空が白み出していた。長い夜が明けようとしている。
「もう、お前は解放されたのだ。これからは父の影に怯えず暮らしていけばよい」
「はい」
 久方振りの笑顔で彼女は答える。目の端には微かな涙が滲んでいた。
「……あの、青聡竜の叔父様」
 彼女は寝台から下りようとして、よろめき倒れる。
「大丈夫か」
 青聡竜は近寄り、片手で彼女を立たせてやる。彼女は何かを言おうとして、途中でやめて視線を逸らす。
「何か言いたいことでもあるのか」
「はい、あの、……麗王陛下の件です」
 頭に浮かんでいたこととは違うことが口から出た。
「そうだ。それを美鶴から聞きたかったのだ。兄上は白麗蝶様暗殺の計画があると言っていた。それはどういう計画なのだ」
 肩を強く掴み問い質す。青美鶴の表情は暗く沈む。もう自分の思いを伝えるような雰囲気ではない。彼女は諦め、海大家の家長の顔になる。
「恐るべき計画です。叔父様は猛虫というものを御存知ですか」
「史表で名前を見たことはあるが、実物を見たことはない」
 青美鶴は、猛虫のこと、大陸周回航路船の旅のこと、緑輝のことなどを掻い摘んで話す。細部で分かり難い点は青凛鮫が補足した。
「今回の栄大国との戦いでは、その猛虫を秘密兵器として使う予定になっているのです。緑輝という者達が使っていた戦術を、大規模戦闘向けに改良したものです。投石機から猛虫を放ち、敵に多大な打撃を与え、その混乱に乗じて攻め倒すという作戦です。お父様は、黒都から戻ってすぐに、白大国の領土に編入された緑輝達の支配地域でこの計画のために猛虫を育てさせ始めました」
 彼は少し考える。
「特にその作戦自体に問題はなさそうだ。猛虫に関しては私も見たことがないくらいだ。栄大国の者達は大いに混乱するだろう」
「ええ、そこまでは問題ないのです。白大狼様も、そうおっしゃってこの作戦を採用しました」
 青凛鮫もこの件に関しては聞き及んでいる。
「しかしお父様が考えた作戦には、緑輝の作戦とは違う点が二つあるのです」
「それは何だ」
「一つはその猛虫のなかに、羽の生えたものが一割ほどいることです。緑輝達は、地を這う猛虫だけを戦に利用していました。なぜならば、空を飛ぶ猛虫は自在に動き回り、制御が難しく、味方をも襲う危険があるからです」
「道理だな。もう一つは何だ」
 青美鶴は緊張で唾を飲み込む。
「麗王陛下のお召し物は、全て旧布大家から供出されています。その服の繊維の染料には、全てある液体が混ぜられているのです」
「ある液体とは何だ」
 彼女は震えている。
「それは、ある特定の猛虫を引き寄せる液体です。その液体は、猛虫の体の一部から取れ、体温などで温められると人には感じられない匂いを発するそうです。そして匂いは周囲一帯に微かに漂い、猛虫を引き寄せます。麗王陛下が白都にいたならば、その周辺ぐらいまでは軽く匂いが届くとお父様は言っていました。つまり、放たれた猛虫の九割は栄大国の兵を襲いますが、残り一割は麗王陛下個人を狙うことになるのです。この作戦を提案したのは私です。でも採用したのは白大狼様です。白大狼様が私にその罪を問うならば、自分の首をも絞めかねません。白都はいま戦場です。そこで麗王陛下が猛虫に倒れたとしても不幸な事故として片付けることができます。そして栄大国を破ったあとならば、そう処理して、白大狼様が王位を継いでも誰も文句は言わないでしょう。実際そのようになるだろうとお父様は言っていました」
 青聡竜と青凛鮫は驚く。
「そんな計画が進行していたのですか」
「すぐに白都に行き、猛虫の使用を中止させるか、白麗蝶様の服を全部処分しなければならないな。馬を得て、すぐに白都に向かう」
「待ってください。叔父様一人では関所を抜けられません。敵将として手配されているはずです。私も行きます」
「美鶴、お前は少し休んだほうがいい」
「いえ、行きます。私が一緒に行かなければ、現状では叔父様は白都に入ることもできないはずです」
 確かにそうだ。部屋に朝日が射し込み始めた。時は刻一刻と過ぎている。
「美鶴行くぞ」
「はい、叔父様」
「あとは頼んだぞ青凛鮫」
「はっ」
 二人は並んで廊下に出る。青聡竜は頭巾を目深に被った。白賢龍と白淡鯉を失ったいま、せめて彼らの娘の白麗蝶だけでも救いたい。彼は腕の痛みを堪えながら階段を駆け下りた。


  二十四 決戦

 赤眩雉が栄大国の陣地に帰った直後から土木工事が始まった。白都から少し離れた場所、投石機や弩の射程から外れた地点に土を盛り、踏み固め、なだらかな丘を作る。工事に要した日数は少ない。数十万の軍勢の大半が土を掘り、運んだため、瞬く間にその丘は完成した。丘は数日後には山になった。円錐状の山だ。その山の形が変わるのにさらに数日が掛かった。栄大国の兵は、山を壁にして土を白都側に放り始める。城壁の兵達は初め嘲笑った。山の尾根を白都まで伸ばす気かと。栄大国の兵達は、遠距離兵器の狙いを付けられない夜間にその尾根を踏み固めた。山の形は徐々に変わっていった。そして遂にはその土の先が白都の端に達した。城壁の兵士達は笑うのを止めた。古い兵達は噂を始めた。これはまるで白王の城攻めだ。大地の形を変え、敵の城砦を無用のものに変える。工事のあいだも栄大国の兵は後方より送られ増え続けた。
 白麗国側は悩んだ。打って出れば平原での会戦になる。そうすれば栄大国の思う壺だ。だがただ待ち続ければ敵に時を与えることになる。何度か小規模な戦闘が発生した。補給部隊も襲った。夜間の奇襲、後方の中継都市の急襲など、栄大国の戦力を削るためのあらゆる努力が行なわれた。だがそれは決定的な勝敗に影響しなかった
 決戦すべし。
 それはいつしか作戦会議に参加する軍団長達の一致した意見になった。戦う必要があった。ここで戦いを回避すれば、次は彼我の国力差が大きくなった状態で戦をしなければならない。旧白安国の領土のうち、より広い範囲を占領したのは栄大国だ。
 猛虫を使うべきだ。
 軍団長達までにしか明らかにされていないこの秘密兵器を使う時期について検討が始まった。海都の海大家が開発したというこの兵器は、かつて長焉市を壊滅に追い込んだ緑輝という緑族の小王国が使っていたものだ。数匹の試作品を見た者は多い。だがこの兵器を戦線に投入した場合の効果を実際に見た者は少ない。目撃したことがあるのは、将軍である白大狼と、長焉市出身の数人の軍団長だけだ。使えばその後数ヶ月、猛虫が餓死するまで白都周辺は交通不能になる。そして近隣の村々は全て滅ぶ。多くの軍団長は決戦のために猛虫を投入すべしといきり立った。わずかに長焉市出身の者達だけが反対を唱えた。理由は白都にも猛虫が攻め込むかもしれないから。白都には長焉市と違って堅固な城壁がある。使用派はそう主張し、反対派はその発言に沈黙した。
 白大狼個人の意見はどうだったか。
 長焉市の破壊を見た彼は、反対派に近い心情だった。軍団長達の意見を可能な限り聞くという態度を取っていたが、それは単に使用を先延ばしにしていただけだ。そしてその日の会議で、初めて白大狼は猛虫の使用に対して発言した。人工の山の尾根が城壁に達した日だ。
「山の近くの投石機を使い、猛虫を敵陣に向けて放つ。またそれと同時に移動式の投石機を城門から繰り出し、そこからも敵に猛虫を投げ込む。やるときは徹底的にやらなければならない。全ての猛虫を使い切るつもりでやれ。そして混乱した敵に対して騎兵隊を突撃させる。敵が算を乱したあとは、重装歩兵を投入し敵を殲滅する」
 既に移動式の投石機は組み上げられている。そしてその兵器を運用する兵達の訓練も行なわれている。
「いよいよ、こいつを使うときが来たぞ。特殊弾が運ばれてくる。慎重に扱え」
 十人長の言葉に緑硬亀は緊張する。特殊弾とは、もしかして白都入城のあとに運び込まれた猛虫の卵のことか。その嫌な予想は当たった。運ばれてきた白い特殊弾は彼の想像通りのものだった。
「俺達の仕事は、こいつを徹底的に敵陣に放り込むことだ。命令のあと城門を出て、一気に射程距離まで近付き、全特殊弾を使用する。それで俺達はがっぽりと恩賞にありつける。戦のおかげで俺達は大金持ちだ」
 兵士達のあいだから歓声が上がる。これが危険な任務だということを言うべきか言わざるべきか。笑顔の兵達のなか、緑硬亀だけが緊張した顔をしている。
「おっ、緑硬亀怖いのか」
「そ、そんなこと、あ、あ、あ、あ、ありませんよ」
 周囲の者達が彼のどもり癖にどっと笑う。言い出せる雰囲気ではなくなった。そのとき号令が発せられた。いよいよ攻め込むときが来た。城門が開く。馬に引かれた移動式投石機が次々と白都を出発した。

 栄大国の宿営地に築かれた櫓に乗っていた見張りが下の兵に敵の動きを告げる。すぐに伝令が本陣に走る。栄王はその報告を聞き、天幕の外に出た。
「穴倉に潜り込んだ兎が痺れを切らして出てきたぞ。さあ、狩りの時間だ」
 軍団長達が歓声を上げる。白緩狢を葬って以来、久しぶりの本格的な戦闘だ。彼らは手に手に武器を取り、自分達の軍団を率いるために本陣から散った。赤栄虎は馬上から白都の動きを見る。城門から連なるように馬車が出ている。騎兵や歩兵はその馬車を守るように付き従っている。何か策があるな。馬車には幌が掛けられていて、何が積まれているか分からない。だがかなり大型のもののようだ。彼は草原で戦った者達から聞いた白惨蟹の兵器のことを思い出す。投擲兵器か射出兵器の類いだろう。
「あの馬車に近付き過ぎないように全軍に伝えよ。距離を保って矢を放て」
 白都の周辺に無数の馬車が並ぶ。そして幌が取られて、匙状の発射装置の上に猛虫の卵が置かれた。城壁に白大狼の姿が現れる。
「全弾発射」
 声とともに法螺貝の音が響く。緑硬亀は棒を引いた。猛虫の卵が青空の下を舞う。馬車から城壁から無数の白い塊が栄大国軍に向けて放たれた。
「次弾装填用意」
 違う音で法螺貝が鳴る。再び発射装置が巻き取られて卵が乗せられた。白い特殊弾が次々と発射される。
 卵は栄大国軍のあいだに次々と落下した。直撃して死んだ者はほとんどいない。兵達は狙いの悪さを嘲笑った。赤族の弓ならこんな外し方はしない。この命中精度なら馬車を蹴散らし壊滅させることができる。
「先陣突撃」
 栄王の号令と共に赤熱鷲の部隊が駆け出した。本隊も動きだす。地面にめり込んだ白い弾を無視して彼らは武器を鳴らしながら行進する。
 変化が起こった。白い弾が内側から割れた。兵のなかの好奇心の旺盛な者がそれを覗き込む。指揮官が、隊列を離れるなと叫び、兵は隊列に戻ろうとした。その背後で、白く透き通った体の何かが姿を現した。おい、あれは何だ。隊長の言葉に、列に戻り掛けた兵士は振り向く。そこには小牛ほどの巨大な虫の姿があった。空気に触れたその外殻は次第に色を帯び、黒く染まっていく。柔らかく折れ曲がっていた脚や体が硬質な光沢を持ち始める。その生き物は顔の先の顎を音を立てて動かしている。
「蟻、なのか」
 六本足のそれは勢いよく兵に向かって走りだした。激突した兵の足が折れる。
「ちっ」
 隊長が矢を続け様に放つ。垂直に当たった矢だけが突き刺さり、それ以外の矢は全て弾かれた。巨大蟻は向きを変えて今度は隊長に向けて突進する。矢では止まらない、そう判断した赤族の男は剣を抜き、突撃を躱しながら剣を叩き付ける。剣は頭部にめり込み、そのまま持って行かれた。すれ違い様、蟻は何かを噴出した。
「目が、目が」
 それを顔に浴びた男が悲鳴を上げながら転がりだす。
「気を付けろ、蟻酸だ」
 察しのよい兵士が叫んだ。白い卵は空を横切り無数に落下してくる。次々に卵が割れた。白く透き通った生まれ立ての生物は、すぐに黒い悪魔に変身し、人々を襲いだす。栄大国の陣が崩れた。
「何だ、何が起こった」
 栄王が叫ぶ。投石機から放たれた岩で兵が乱れているわけではない。軍の内部に突如敵兵が現れたかのように兵士達が逃げ惑っている。目を凝らしていくつかの場所を観察する。黒い何かが動いている。人ではない。別の生物だ。蟻に見える。彼は目をこする。蟻だと。何だ、あの大きさは。
「栄王陛下、報告いたします。敵の放った白い塊が突如割れ始め、そのなかから巨大蟻が現れております」
 見間違いではないのか。だが同様の報告が続々と寄せられる。
「こんな方法で攻めてくるだと」
 彼は目を血走らせて歯軋りをする。
「……猛虫」
 そういえば史表で読んだ。そのような黒都産の生体兵器があったと。赤栄虎の顔が青くなる。空には白い塊が飛び続けている。
 白都の城門が開け放たれ騎兵が飛び出した。栄大国の陣を完全に崩壊させるための一撃を食らわせるためだ。
「軍を立て直せ。投石機を沈黙させるのだ」
 その言葉の直後、先鋒を担っていた赤熱鷲の軍団が突撃を行なった。投石機を護衛していた騎兵が倒れ、重装歩兵が死に、機械を操作していた兵士達の幾人かが絶命した。矢が雨のように降り注ぐ。緑硬亀のいる場所にも矢が飛んできた。彼は身を硬くしてその矢を弾く。彼の同僚達は次々に死体に変わっていく。このままでは猛虫の卵ごと投石機が奪われてしまう。彼は卵を積み込んだ馬車に走り、木箱を次々と地面にひっくり返して衝撃を与えた。何十本か矢を弾いたところで目に矢が刺さった。赤族の射手だ。緑硬亀の体を矢が貫かないことに気付いて目を狙ったのだ。
「い、痛いよう」
 激痛で泣叫びながら緑硬亀は逃げだす。先鋒の幾人かがそのあとを追おうとする。そのとき巨大蟻が目覚めた。生まれ立ての蟻は自らの力を解放するように方々に走る。一匹の蟻が馬車に激突して木箱を地面にぶちまける。そのような連鎖が各所で起こった。栄大国の兵士達が悲鳴を上げながら引き返し始めた。既に彼らは軍の体をなしていない。白麗国の騎兵の突撃が始まる。巨大な栄大国軍が徐々に細分化されていく。そして個人という最小の単位になった瞬間、それは殺戮の対象となった。白都から重装歩兵の大軍が出撃する。彼らは盾と剣を構えて壁を作り、それに触れる敵兵の息の根を止めていく。不思議なことに猛虫は彼らに近付こうとしない。兵達は天が白麗国を勝たせようとしているからだと思った。恐れるな、我々の勝利の時が来た。軍団長が叫ぶ。彼らは知っていた。猛虫が近付かないことには理由があることを。盾には緑族の化粧と同じ成分が、濃縮され大量に塗られていた。
 一人、二人、軍団長の死が報告されだした。そこには軍隊はない。烏合の衆がいるだけだ。赤栄虎の許に赤荒鶏が駆けてくる。
「栄王陛下、お逃げください。あなた様が無事ならば、国は何度でも再起します」
「何だあれは、俺達は虫に負けたとでも言うのか。この五年、国を富ませ、軍を鍛え、その結果、虫けらに我らは蹂躙されているというのか。俺達はいったい何と戦ってきたというのだ。俺達はなぜいま負けようとしているのだ」
 赤栄虎は赤荒鶏に向かって叫ぶ。その気持ちは俺も同じだ。赤荒鶏の頭に、死んでいった仲間達の顔がよぎる。
「赤荒鶏よ。俺は殺してやりたいよ。こんな馬鹿げた作戦を考えた張本人を。何度殺しても飽きたらない。こんな兵器、馬鹿げている」
 彼はこの作戦を考えた者が既に死んでいることを知らない。赤荒鶏は答える。
「所詮殺し合いですよ。剣を使おうが矢を使おうが虫を使おうが。我々がやっていることは殺し合いです。それ以上でもそれ以下でもない。それだけのことです」
 二人の視界のなかで血の山河が築かれていく。赤栄虎の表情が落ち着いていく。
「そうだったな。俺は目的を達するためには、何十万、何百万でも死体を積み上げる」
「そうです。それこそが、大陸の覇者となるべき人間に必要なことです」
「赤栄虎っ」
 白都の方角から声が響いた。白大狼が率いる白麗国の本隊が二人目掛けて騎馬で向かってくる。
「栄王陛下」
「ああ、逃げるのは得意だ。何度でも逃げてみせるさ」
 そのとき彼らの周囲で不気味な羽音が起こった。
「何だ」
 羽蟻だ。雄の蟻達が、一斉に天空へと舞い上がった。蟻達は何かを探すように上空を旋回し、白都へと向かいだした。


  二十五 救出

「おうおう、戦っておるのう」
 王宮の尖塔の鉄格子を通して白麗蝶は眼下に広がる戦場の様子を眺めていた。王というのは退屈なものだ。公務のないときは逃げ出さないように囚人のように閉じ込められてしまう。この部屋に入って以来ずっと暇を持て余していたのだが、戦闘が始まってからの時間、興奮しながら時を過ごすことができた。彼女は海都の旧布大家から届けられた服を着ている。彼女が袖を通す衣は全て厳選されたものだ。大陸でもっとも高級な衣服を作るこの工房の服を着るのは、白麗国の王として当然のことだった。
 戦場から何かが舞いあがった。
「何だあれは」
 鉄格子に顔を押し当て遠くを見ようとする。一つではない。二つ、三つ、いくつかの黒点が飛び立つ。戦場の各所でそのような光景が見え、そのうちの一つが白都に向かってきた。
「虫のようだな。猛虫か。うーむ、羽蟻のようだ」
 観察を続けていると、一匹の猛虫が城壁を越えて王宮へと向かってきた。
「ほう、近付いてくるか。うんっ、真っ直ぐこちらに向かってくるぞ」
 彼女は嫌な予感がして鉄格子から遠ざかる。直後、轟音と衝撃とともに巨大羽蟻が窓に激突した。蟻は壁面に取り付き、強靭な顎で鉄格子を噛み切る。蟻の頭部が窓を押し壊しながら部屋に侵入してくる。白麗蝶は武器を探す。だが脱出道具になるという理由で、そういったものはこの部屋には置かれていない。
「ちっ、大狼の奴、剣ぐらい置いておいてもよいだろうに」
 彼女は扉に走り、警備している兵士に声を掛ける。
「おい、開けろ。大変なことになった。余は逃げるぞ」
 先ほどの衝撃を不審に思っていた兵士が覗き窓を開ける。部屋に侵入してくる巨大な蟻の姿が見えた。悲鳴が尖塔に響く。
「あっ、待て。せめて鍵を開けて行け」
 兵士は階段を駆け下りる。彼女は何度か扉を蹴った。しかしびくともしない。窓が崩れる音がした。壁に大穴が開き、猛虫が部屋に侵入してきた。
「くそ、武器もなしで、どう戦えというのだ。うーむ、黒都の猛虫は酸を体内に含んでいたから、素手では戦いたくないし。えーい、誰かおらぬか。麗王が呼んでおるのだぞ。早く来い。剣か槍を持って来い。ぐわぁっ」
 数度の衝撃が尖塔に起こった。数匹の羽蟻が尖塔に体当たりをした。彼女は汗を掻く。そして体温の上昇が、さらに多数の猛虫の雄達を引き寄せ始めた。

「あーあ、やっぱり俺も戦争に参加するんだったな」
 軍人ではないために王宮で待機していた青勇隼は暇そうに庭を歩いている。
「そういえば白麗蝶様はあの尖塔にいるんだよな。しかしまあ五年前と全く性格変わっていないよな。単身栄大国の王の許まで首を取りに行くなんて」
 彼はげらげらと笑い声を上げる。塔を見上げていると、急に黒い影がよぎり、最上階に激突した。激しい音が響く。
「何だ」
 見覚えがあるものだ。
「猛虫か」
 なぜここにいる。よく分からず、塔に向かって小走りに進みだす。少し経ち、白麗蝶の大声が聞こえた。そしてさらに羽の生えた虫が塔にぶつかる。
「これはやばいぞ」
 彼は真剣な顔になり、全力で尖塔に向かって走りだした。王宮の各所で悲鳴が起こる。猛虫を目撃した者達の声だ。彼は塔から走り出てくる警備兵に白麗蝶の部屋の鍵の在処を尋ねる。一階の控え室にあるという。塔に飛び込み、鍵を取り、階段を駆けあがる。
「白麗蝶様」
 覗き穴から部屋の様子を見て一声掛けた。
「おう、青勇隼か。早く扉を開けて武器を渡せ」
「分かりました」
 彼女は寝台を覆う天蓋を支えていた細い柱で巨大蟻の頭部を殴っている。柱が折れた。
「えーい、こんなもの武器にならんわ」
 柱を床に叩き付けながら激怒する。扉が開いた。青勇隼は一階で拾ってきた剣を放る。白麗蝶は空中でそれを受け取り、器用に巨大蟻の頭部と胴部を切り離した。体液が周囲に飛び散り、それを避けるように彼女は扉に駆けてくる。
「逃げるぞ」
「戦うんじゃないのですか」
 その瞬間、尖塔の壁が一気に崩れ、無数の猛虫が部屋に雪崩込んだ。狭い扉のせいでその突進は一瞬止まる。巨大な黒い顎が激しい音を立てている。扉の周囲の石材が階段側に迫り出してくる。白麗蝶は階段を駆け下りる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
 青勇隼も走りだした。直後、扉の周囲が崩れた。階段を石の塊が転がり落ちる。尖塔の上部を崩しながら巨大羽蟻の大群が二人を追い始めた。

 白都東側の城壁で二人の兵士が雑談をしている。一旦は白安国の兵として栄大国と戦い、その後白麗国の兵員募集で採用されたが閑職に回された白厳梟と白早駝だ。
「あー、暇じゃのう。みんなは前線で決戦を行なっておるというのに、わしらはこんなところで警備かい」
「仕方がないですよ白厳梟殿。捕まえられて牢獄に放り込まれてもおかしくないんですから僕達は」
「まあ、そうじゃがのう。最後の戦で華々しい活躍をしたかったんじゃが」
 白厳梟はため息を漏らす。
「そういえば、何か城門のほうが騒がしいですね」
「うん、そうかいのう。ちょっと見てみるか」
 二人は端から身を乗り出し、地上の様子を見る。女と男の二人連れがいる。男は頭巾を目深に被っている。女は見たことのある女性だ。
「あれは青美鶴様じゃないのか」
 白早駝の声に、他の兵士達も興味を引かれて身を乗り出す。青美鶴といえば、白麗国の大臣であるだけでなく海都一の美女と誉れ高い女性だ。
「本当だ、青美鶴様だ」
 数人の声が上がる。彼女はその声に気付き、兵士達に手を振る。城門が開けられ、二人は白都に入った。
「おい、行くぞ白早駝」
「どこにですか」
「青美鶴殿のところに決まっておるだろうが。わしらは面識がある。きっと戦場に行けるように取り計らってくれるわい」
「あっ、そうですね」
 二人は他の兵士達の注意が城門に向いていることを幸いに、白都への階段を駆け下りる。閉じられた城門の前に、青美鶴と頭巾の男がいた。二人は馬の足下に駆け寄る。
「青美鶴殿」
 白厳梟が大声を上げる。
「あら、あなた方は司表配下の白厳梟殿に白早駝殿」
「実はお願いしたいことがあってのう」
 彼女は兵に馬を二頭用意するように命じ、付いてくるように告げる。二人は馬上で青美鶴と頭巾の男を追い掛ける。
「わしらは戦いたくてうずうずしておるんじゃ。どこぞの戦場で戦えるように取り計らってはくれまいか」
 頭巾の男がちらりと王宮を見上げた。黒い影が舞っている。
「私達がこれから向かう場所が戦場だ」
 その声に白厳梟と白早駝は驚く。青聡竜は頭巾を少しだけ上げ、人差し指を唇に当てた。
「麗王陛下暗殺計画が進行している。私達は彼女を救いにきた」
「はは、白早駝よ。遂にわしらの活躍の瞬間が来たぞ」
「ええ、白厳梟殿。思う存分剣を振るいましょう」
 青美鶴を先頭に彼らは王宮に入った。

 戦場では追撃戦が続いている。逃げる赤栄虎に追う白大狼。だがわずかに赤族の馬のほうが速い。
「赤荒鶏、弓で白大狼を狙え」
「はっ」
 馬上で逆向きになり、赤荒鶏は矢を放つ。白大狼はその矢を避け、追跡の足が鈍る。すぐに元の向きに戻り赤荒鶏は馬の腹を蹴る。
「ちっ」
 赤栄虎の舌打ちが聞こえた。前方に千人ほどの騎兵が現れた。はなから栄王の首だけを狙っていた白晴熊の率いる一団だ。
「赤栄虎覚悟」
「逸れるぞ」
 二頭の馬は向きを変える。
「うわ、逃げやがった。くそっ、あっちだ。追え、追え」
 白晴熊の声が背後で響く。次は前方に一万の軍団が現れた。さらに向きを変える。包囲されかけている。赤栄虎は周辺の地形を頭に描き、脱出方法を考える。大軍が通れない大地のしわのような狭い溝がある。そこを通れば敵の視界に入らず、一気に包囲の外に出る。二騎は溝に向かった。敵兵が見失ったことに気付いて大声を上げている。読み通りだ。そのとき突如赤荒鶏の馬が倒れた。続いて赤栄虎の馬も足を崩す。二人は地面に放り投げられた。受身を取り、大地を転がる。猛虫だ。巨大蟻が、この狭い場所に集まり穴を掘っていた。馬の悲鳴が上がる。瞬く間に肉を引き裂かれる。
「いたぞ、あそこだ」
 居場所がばれた。二人は自らの足で走る。死ぬまでは敗北ではない。彼らはそのことを知っている。溝を駆けあがったとき、周囲は白麗国の兵が取り囲んでいた。逃れる道はない。
 兵の間から白馬の騎士が出てきた。白大狼だ。
「死を選ぶか、虜囚を選ぶか」
「虜囚だ」
 兵達が非難の声を上げる。潔い死を期待していたからだ。
「ここで殺そう。虜囚を選ぶような男は必ず再び兵を上げる」
『史表にそう書いてあった』
 二人は同時に同じ言葉を発した。白大狼と赤栄虎は互いの目を見る。二人はそれぞれ自分こそが白賢龍の後継者だと思っている。
「俺も史表を読んだ。黄清蟻という男がおってな。司表の元部下の男で今は俺に付いている。そいつが史表の写しを手に入れたのさ。そして俺は悟った。白王がこの大陸に、理想の世界を作ろうとしていたことを」
 白大狼は眉を顰める。
「なあ、白大狼よ。お前にはその世界が作れるのか。俺には作れる。その自信と力がある。俺は生きる価値がある男なのだ」
 兵士達はざわめきだす。たった一人の配下しか連れていない栄王の台詞に、みなの心が引き込まれ始める。
「赤栄虎よ。お前がその世界を作るというのか」
「そうだ。我が手で世界を作り上げる。俺がこの世界を、白王の望んだ世界へと作り変えてやる」
 白大狼と赤栄虎は睨み合う。
「分かっていない」
「何」
「勘違いをしているようだ」
「ほう、俺のことをそういうのならば、根拠を示してみろ」
 既に兵士達は武器を構えていない。赤荒鶏は素早く視線を巡らせ、脱出できそうな包囲の薄い場所を探す。
「白王様が、史表の複製を大量に作り、世に撒こうとした意味をまるで分かっていない」
「どういうことだ」
「一人の指導者の力だけではその世界に到達しないからだ。そこで暮らす人々がそれぞれ深く考え、世界をよりよくしようとしなければならない。そういう世界を白賢龍の伯父様は考えていた。白王とは、その世界に到達する道を切り開く者。そして道標を示す者。しかし、歩く者がいなければ道は荒れ果てやがて消える。君の考える世界には、白王様が考えた民は住んでいるのか。私は自分一人の力でそのような世界を作れるなどとは思っていない。私はお前ほど傲慢ではない」
 沈黙が下りる。頃合だ。突如赤荒鶏は赤栄虎の腕を引き走り出した。虚を突かれた兵士達はうろたえる。赤栄虎も赤荒鶏の考えが分かったようだ。素早く矢を放ち、馬上の敵を落とす。二人はそれぞれ馬に飛び乗った。そこだけ包囲がわずかに薄い。白大狼の馬が駆けた。赤栄虎の背後にすぐに達する。剣が一閃した。首が飛んだ。赤荒鶏の体にも無数の槍が刺さった。白大国と長い年月争そっていた戦士の命の火が消えた。兵士の一人が馬上から降り、赤栄虎の首を白大狼に掲げる。その首を見て彼は呟いた。
「白賢龍の伯父様が、私を後継者に選んだのは、青聡竜殿を司表の仕事に就けた理由と同じだ。能力があるだけの人間では駄目なのだ。我欲の少ない人間を求めたのだ。白賢龍という人は、我欲の塊のような人だった。だから後継者には逆の人間を選んだのだ」
 彼はしばらく赤栄虎の首を見つめた。私が選ばれた理由が、この男に会ったことでようやく分かった気がする。
「白大狼様」
 兵士の叫び声で彼は我に返る。
「どうした」
「大変です。王宮が」
 彼は白都に視線を移す。黒い一団が王宮の上空を舞い、尖塔に突撃をしている。あの塔には白麗蝶がいる。猛虫には羽が生えていないものを使っていたはず。それがなぜ空を飛び、白麗蝶を狙っている。
「黒捷狸なのか」
 死んでいると思っていたあの男が生きていれば、このような策を考えてもおかしくない。
「急げ、白都に戻るぞ」
 彼は大声で叫び、白麗蝶の待つ王宮へと馬を飛ばした。

 王宮の石造りの壁を破壊しながら巨大な羽蟻達は白麗蝶を追い掛ける。周囲では兵士や女中が悲鳴を上げて逃げ惑う。廊下を駆け、扉をくぐり、無数の部屋を抜けたが虫達を振り切ることはできない。
「白麗蝶様、奴らしつこく追ってきますよ」
「まるで余一人を狙っているようだのう」
 走り続ける二人の背後に猛虫の大群が徐々に近付いてくる。
「このままではいずれ追い付かれますよ」
「分かっておる。だが、なぜ余を追ってくるのだ」
「何か変なものでも食べたんじゃないですか」
「馬鹿者。余は犬か猫か」
「航海のときは嬉々として変なものを食べていたくせに」
 白麗蝶は逃げる場所がないかと必死に考える。だが相手は蟻だ。それも鉄格子を噛み切り、尖塔の壁を破壊するほどの力を持つ巨大蟻だ。部屋に逃げ込もうが地中に潜ろうが追ってくる。
「麗王陛下っ」
 そのとき遠くで女性の声が聞こえた。
「あっ、あの声は青美鶴さんだ」
「そうなのか。聞き間違いではないか。あの女はいま海都にいるはずだぞ」
「聞き間違えるはずがないですよ。俺は美人の声は絶対に忘れませんから」
 壁を崩して襲い掛かってきた羽蟻を数匹切り伏せ、青勇隼は声のほうに向かう。
「おい、そっちは大広間だ。囲まれたら逃げられんぞ」
「あの人が呼んでいるんです。意味もなく呼んだりしないでしょう」
「しかし、余はあの女が嫌いだ」
「いまは緊急時ですよ。好き嫌いなんか関係ないでしょう」
「ちっ、仕方がないのう」
 足を止め、走る向きを変える。大広間には馬に乗った青美鶴と三人の男がいた。
「麗王陛下。私の後ろにお乗りください」
 白麗蝶は青美鶴の馬に飛び乗る。青勇隼は適当に若い男が乗っている馬の背に乗った。四頭の馬が走りだす。大広間の天井が崩れ、無数の羽蟻が落下してくる。その下を抜け、手近な廊下へと駆け込む。
「申し訳ございません麗王陛下。いま起こっていることの全責任は私にあります。これは私の父、青捷狸が仕組んだ計画なのです。猛虫にあなた様を襲わせる罠なのです」
 青捷狸の名を聞いて青勇隼は驚く。死んだはずではなかったのか。
「どういうことだ」
 少女は叫び、青美鶴以外はその声に身を強張らせる。
「服に、あの羽蟻を引き寄せる薬液が染み込ませてあるのです。服を全て脱ぎ捨ててください」
「余に裸になれというのか」
 怒声が飛ぶ。
「はい、そういうことになります」
 心苦しそうに青美鶴は言う。いまここで馬を下りて服を着替える余裕などない。馬上で服を脱ぎ捨てる以外に助かる道はないだろう。
「信用できぬ」
 白麗蝶は拒絶する。
「貴様、余をないがしろにして大狼を誘惑しておっただろう。そんな者の言葉など聞けぬ」
「それは、父上に命じられて行なったことで、私の本心ではございません」
「父が仕組んだ、父に命じられた。貴様はよほど父親には頭が上がらぬようだな。だがやったのはお前だ青美鶴。余を馬鹿にするのも大概にしろ」
 声は廊下を震わせる。青美鶴は顔を青くして馬を駆る。
「白麗蝶様」
 外套をなびかせた男が二人の女性に馬を寄せた。
「何だ、お前は」
「あなたのお父上の古き友人です」
「名は何と申す」
「青聡竜」
 少女は驚き、男の横顔を見る。
「姪があなた様に行なった失礼の数々、謝って済むものではございません。それは私も重々承知しております。しかし、彼女が父に命じられて意にそぐわずやったというのは本当です。そしていまようやくその呪縛から解放され、急ぎあなた様を救うために白都に馳せ参じたのです」
「その話、どうやって信用しろというのだ」
「彼女の父、青捷狸という男は、あまりにも強大な人物で、青美鶴といえども逆らうことはできなかったのです。その男、私の兄を、私はこの手で葬ってきました」
「青捷狸というのは、海都の舟大家の前家長だったと聞くぞ。ただの商人だろう。その男が、お前が言うほどの人物だったという証拠でもあるのか」
「ええ、あります。私も白王様と双龍と並び称された男。その私の力を持ってしても、彼を退治するには片腕を失わざるをえませんでした」
 彼は外套の下から、なくなった左腕を見せる。白麗蝶の表情が強張る。
「白麗蝶様。もしご信用いただけないのでしたら、私の右腕を切り落としください。青聡竜の腕で、あなた様の信用を買いたいと思います」
 青美鶴をはじめ、馬上の全員が驚愕する。廊下を抜けた。庭に出た。白大国の白銀の龍の図案が刺繍された旗が無数にたなびいている。
「よかろう」
「駄目、青聡竜の叔父様」
 泣き叫ぶように青美鶴が声を上げる。
「ふんっ、信用してやる。だがその腕はまだ使い道がある。以後、余のために使え」
 白麗蝶は馬上立ちあがる。
「青勇隼、あの旗を落とせ」
 彼女ははためく旗の一つを指差す。庭には既に何匹かの巨大羽蟻が回り込んでいる。
「了解です」
 青勇隼も馬の背に立ち、狙いを付けて剣を続け様に二本投げる。旗を繋いでいた紐が切れた。旗は風に舞いながら草花の上に落ち始める。
「青美鶴、あの旗に突っ込め」
 彼女は自らの服の各所に剣で切れ目を入れていく。
「よし、これで、一気に全部脱げるはず」
 馬が白銀の龍の旗に向かっていく。白麗蝶は跳躍し、服の端を勢いよく引いた。布地が一息に破れ、彼女は全裸になる。
「おお」
 青勇隼が声を上げ、馬の背から足を踏み外す。白麗蝶は旗に包まれ草花の上に落下した。空中を舞っている彼女の服に無数の羽蟻が群がる。一瞬のうちに服は引き裂かれ、蟻は折り重なり、庭に黒い山ができる。巨大羽蟻はまだ上空に無数にいる。すぐに庭は雄蟻で埋まるだろう。
「白麗蝶様」
 青美鶴が馬を巡らせ旗の落下点に戻る。旗の中央に剣で切れ目を入れ、白麗蝶は穴から頭を出した。
「すーすーする服だが、仕方があるまい」
「白麗蝶様、それ半裸ですよ」
 地面にしたたか腰を打った青勇隼が自分の投げた剣を拾いに行きながら茶化す。猛り狂った猛虫が数匹、白麗蝶へと向かってきた。
「危ない」
 その虫を白厳梟と白早駝が切り伏せる。空からは巨大な羽蟻が次々と落下してくる。二人はその蟻を弾き飛ばしながら、白麗蝶が青美鶴の馬に乗るのを待った。
「屋根のある場所に行きましょう」
 青聡竜の言葉で一同は手近な扉へと向かう。猛虫はもう白麗蝶を追ってこない。ただひたすら庭のなかにある匂いの付いた布目掛けて突進を続ける。王宮は巨大な蟻の落下で揺れ続けた。しばらく経ち、その音はやんだ。雄蟻の活動期間は終わった。破壊の跡と猛虫の死骸だけを残し、青捷狸の策略は潰えた。
「麗蝶」
 王宮の廊下で成り行きを静観していた彼女達の許に、慌てた顔の白大狼がやって来た。
「大狼無事だったか」
 彼女は先ほどの姿のまま廊下を駆けて白大狼に抱き付く。
「えっ、うわっ、麗蝶、何て格好をしているんだ」
 布を被っているだけの姿を見て白大狼は顔を赤らめる。
「へー、大師匠もあんな顔をするんだ」
 感心した口調の青勇隼の声を聞き、そこに青美鶴や青聡竜がいることに気付く。
「あなた方、なぜここに」
「青捷狸の企みを防ぐために来たのです」
 青聡竜は青美鶴を庇うようにして立つ。
「企みは」
「無事防げました。飛翔する猛虫で白麗蝶様を殺害するという計画は失敗しました。また、青捷狸も私の手で倒しました」
「そうですか」
 問い質したいことは多数ある。そのような表情を白大狼はする。
「大狼」
「何ですか麗王陛下」
「戦はどうなった」
「勝ちましたよ。赤栄虎の首を取りました。それと、白王様を射抜いたという赤荒鶏という赤族の軍団長も倒しました」
「そうか、見たい」
「生首ですよ」
「分かっておる。見たあと塩漬にする」
「塩漬にするのですか」
「そうだ。お父様の墓はない。唯一墓と言えるのは、草原の華塩湖の砦に残っている演壇だ。そこに二人の首を供える。そして黒円虹の遺産を見に行く」
「しかし、まだ栄王を倒したとはいえ、広源市が残っています。兵も残っているでしょう。そしてあの都市はこの白都と同じぐらい堅固です」
「余に腕を売ってきた者がいる」
「腕、ですか」
「そうだ。青聡竜、広源市はお前の腕で落とせ。それをもって、青美鶴の罪は帳消しにしてやる」
 一同驚く。
「しかし、麗王陛下」
 計画したのが黒捷狸であっても実際に動いたのは青美鶴だ。そのことは白大狼にも分かっている。それを無罪にするというのか。
「口答えは許さぬぞ大狼。余の決定だ」
 青聡竜と青美鶴は深く頭を下げた。白大狼は渋々王の命令に従う。
 白麗蝶は白大狼の体から離れてその手を引く。
「大狼、付いて参れ」
「どこに行くのです」
「余に、この格好で兵達の前に出れというのか。服を着替える。手伝うのだ」
「服ぐらい一人で着替えられるでしょうに。私は戦のあとの処理で忙しいのですよ」
 しばらく沈黙したあと、彼女は白大狼の手を強く握った。
「戦は終わったのだろう。余には大狼が必要なのだ。たまには麗王ではなく、白麗蝶として扱って欲しいのだ」
 白大狼は少女の顔を見る。彼女は言い難そうに視線を逸らす。
「そしてもっとたまにでいいから、余のわがままも少しぐらい聞いて欲しいのだ」
 白麗蝶は顔を赤らめながら呟く。その様子を見て、白大狼は大きくため息を吐いた。
「仕方がないですね。本当にたまにしかわがままは聞きませんよ」
 少女の顔に喜びが溢れる。
「大狼、では余のわがままを聞いてくれるのだな」
「はいはい、服の着替えを手伝えばいいのですね」
「うむ、そうだ。それからな……」
 二人は服を探すために扉の奥に消えた。
「へー、大師匠って、案外尻に敷かれる性格なのかもしれないな。まあ、ずっと白麗蝶様の尻拭いをさせられてたわけだし。あんまり変わらないか」
 青勇隼がにやにやしながら二人を見送る。青美鶴は安心した顔をして、青聡竜に近付き右腕を抱いた。
 青聡竜は赤栄虎が死んだことに対して胸中複雑な思いを抱いていた。できることなら自分の手で殺したかった。だがこれでよかったのかもしれない。次代を切り開く白大狼が敵国の王を仕留めることが政治上もっとも好ましい。彼は白賢龍と白淡鯉の顔を思い浮かべ静かに目を閉じた。
「ぬおっ、しまった」
 突如白厳梟が声を発し、青聡竜の黙祷を妨げた。
「どうしたんですか。何かあったんですか」
 白早駝が尋ねる。
「老兵は潔く散ろうと思い、この白都での戦争を死に場所と考えておったのに、うっかりと生き残ってしまったわい。さらに不都合なことに、青聡竜が広源市を攻めるのなら、わしが行かんで誰が行くんじゃ。ぐわーっ、白厳梟一生の不覚」
 頭を抱えてしゃがみ込む。白早駝が笑いを漏らした。続いて青勇隼が大笑いした。青聡竜も笑い声を上げ、最後に青美鶴が噴き出した。
 まだやるべきことは残っている。だが長い戦いに一段落が付いたことをみんな悟った。王宮には猛虫の死体が散乱している。白都は戦に傷付いている。その周辺では猛虫が村々を襲っている。平原ではまだ戦の火がくすぶっている。大陸全土を見れば、まだまだ戦乱の世が続いている。だがその中心にいる人々は、笑い声を上げ、一息吐くだけの余裕を得ていた。大きな山を越えた。その場の全員がその実感を持っていた。彼らがやるべきことはまだある。だがいくつも連なる峠の一つは確実に越えていた。笑い声はまだ数人だけのものだ。だが彼らはその笑い声が大陸中に広がっていくことを確信していた。


  二十六 再会

 あれから一年が経った。広源市は落ち、青美鶴の罪は許され、青新蛇は解き放たれ、青明雀は回復した。
 華塩市。
 平原と草原、そして密林の半分ほどを支配下に置いた白麗国は、正式な名称である白大国を再び名乗り、大陸完全征服の事業を一歩ずつ進めていた。その合間を縫って、白大狼と白麗蝶は青勇隼の案内でこの地を訪れた。供は一万の精鋭騎兵。白王がかつてこの地を訪れたときと同じだ。青遠鴎も合流し再会を懐かしむ。白王が消えた演壇は残っていた。死体のない彼の墓所をこの地に定め、赤栄虎と赤荒鶏の塩漬の首が供物として捧げられる。葬儀は三日三晩続いた。
 一行は輝瞬草の群生地へと進む。
 野が輝いていた。風のそよぎとともに、光は瞬き、波のように波紋を描く。それは世界に拡散する意識の揺らぎのようにも見えた。彼らはしばしその光景に見とれる。
「これが黒円虹の遺産か」
 白大狼の横には白麗蝶が立ち、手を握っている。一万の騎兵は少し離れた場所で待機している。いまこの場には、彼ら二人と青遠鴎、青勇隼しかいない。
「余も一緒に行く」
「分かりました。そうしましょう」
 二人は黄金に輝く草原に踏み込み、進んでいく。その様子を青遠鴎と青勇隼は眺めている。
「いったい何が起こるのか」
「さあな。だが特別なことが起こると思うぜ」
 彼らの見守るなか、白大狼は深呼吸をして静かに目を瞑った。光の動きが変わる。まるで彼を中心に渦を巻くように光が回り始めた。それは銀河のようにも見え、大地に開いた光の穴のようにも見えた。光の色合いが変わり、七色の光線が踊り、光点が弾けて無数の景色が浮かびだす。
「おい、遠鴎。あれは何だ」
「あれはきっと無数の未来の光景だ。そうだ、そうに違いない」
 浮かんでは消える無限の可能性が白大狼の体を通過していく。彼の輪郭は光に包まれ曖昧になる。砂で作った山が海の波に洗われて消えていくように、白大狼の姿が光のなかに溶けていく。
「大狼」
 少女は叫んだ。指先の感覚が薄れ、白大狼の姿を見失った。周囲は光しかない。前後も上下も分からぬほどの光に取り囲まれて、白麗蝶は自分がどこに立っているのかも分からなくなった。
「大狼、どこにいるのだ」
 彼女はもう一度叫ぶ。だが返事はない。少女は光のなかで、愛する人を捜し求めた。

 白大狼は目を開いた。これはかつて夢で見た光景だ。どこだったか。そうだ、大陸周回航路船のなか、帰路の途中で見た夢だ。彼は白い衣の人物を探す。黄金に輝く光の波のなか、彼は背中を向けて立っていた。
「伯父さん」
 声が出た。夢とは違う。彼はその背中に駆け寄る。手を触れようとすると、その衣は少し先に移動していた。
「必要な知識は得たか」
 彼は念じる。脳が何かに繋がっていることを実感する。試しに数年先を見ようとする。時は無数に分岐し、いくつもの状態が次々と頭のなかで示される。さらに数年先、数十年先を思い描く。世界は無限の可能性に満ちており、果たしてどれが本当の未来なのか分からなくなる。
「選ぶのだ」
 白王は言った。
「望む世界にたどり着くために、未来を選び続けるのだ。その道標は示した。続く道はお前が切り開け。白王の名をお前が継ぐことを私は望んでいる」
 白賢龍の姿が無数の光の糸となり、周囲へと解けていった。輝く波と一体になり、衣だけが足下に落ちた。白大狼はそれを拾い、身にまとう。よく見ると、白銀の糸で龍の姿が刺繍されていた。白王がかつて着ていた服だ。
「世界の進む道を示せ」
 光が充満した。密度を持った光の粒子が彼の体を取り囲み、黒円虹の記憶のなかの世界から離脱させていく。彼の姿が草原の輝瞬草の群生地で再構築された。指先に白麗蝶の体温を感じる。彼は白王の衣をまとっていた。
「大狼」
 喜びと驚きの入り混じった声を少女は上げた。白大狼はしばし呆然とし、少女に顔を向けた。
「麗蝶、結婚しよう。私は白王になる。白王の名を継ぐ」
 少女は目に涙を浮かべ、青年に抱き付いた。光の渦は止まっていた。風にそよぎ、瞬きの波紋を作っているだけだ。白大狼は白い衣の姿で白麗蝶を抱えあげる。そしてその様子を見ている二人の青族の男達の許へと向かった。
「どうだったんですか。全ては終わったのですか」
 青遠鴎が息せき切って尋ねる。その頭を青勇隼がはたいた。
「いい雰囲気なんだからさ、邪魔するなよ」
 笑顔を向ける青勇隼に、白麗蝶は微笑みを返す。白大狼はゆっくりと大空を見上げた。
「終わったのではない。始まったのだ。これから私の仕事が始まるのだ」
 青遠鴎と青勇隼も空を見上げた。青い世界が広がっていた。無限に広がる青い空。
「行こう。仕事は山ほどある」
 白大狼は歩きだした。
 やるべきことをやらなければならない。自らが見た無限の未来から、ただ一つの世界を選びださなければならない。
 彼は白王として生き始めた。


  二十七 後談

 さらに数十年が経った。
 大陸は統一され、その後、様々な変化が起こった。農作物の改良により餓死者が減った。医療の改善により寿命が延びた。鉄道が走った。電信が実用化した。機械仕掛けの人形の導入により、人々は勉学に費やす時間を得た。それは黒都ほどの急激な変化ではなかったが、人々の生活は一歩一歩確実によくなった。
 二代目白王である白大狼の治世は平穏そのものだった。后である白麗蝶は子を多く作り、いまでは数人の孫も得ている。首都は白都に戻され、海都は商業と文化と学問の街になった。海都の指導者青美鶴は結婚をせずに年を取った。彼女は私生児を一人生んだ。海都の市民は、その子は青聡竜の子だろうと噂した。だがそのことで彼女を責める者はいなかった。血が濃過ぎたので正式な婚姻は許されなかった。青美鶴が望んだのだろう。人々はそう判断した。青聡竜は広源市攻略の数年後に死んだ。若い頃の無理が祟ったのだろうと人々は言った。
 いま海都の海大家の家長は青美鶴の息子だ。明るく美しいその青年の統治で、海都は以前にも増して栄えている。
 この街の司表殿は、いまは大陸中の俊英が集う大学となっている。かつての学僧市のような場所だ。この場所から、第二、第三の白賢龍、青聡竜が生まれるかもしれない。彼らは史表を学んでいる。そして各地にその写しを持ち帰り、その知識を大陸全土に広めている。世界は白賢龍が望んだ方向に徐々に向かいつつある。
「学長様、教室で学生達が待っています」
 一人の少年がこの大学の創始者を呼びにきた。かつて司表の部下として白賢龍に選抜され、青聡竜に司表代理を命じられた白怖鴉だ。彼は杖を突き、足を引きずりながら教室に向かう。少年が扉を開けた。白怖鴉は生徒達の前を通り、演壇に立つ。
「それでは若い君達に話をしよう。かつて白賢龍という御方がおった。そして史表という書物を著わした……」
 彼の言葉を聞く青年達の目は輝いている。彼らが瞬きをするたびに、その光は明滅する。若者達は光を持っている。この光が失われず、調和を保ち、彼らが賢人達の知識と知恵を持つようになれば、世の中は早晩白賢龍の垣間見た未来になるだろう。白怖鴉は心をこめて語る。かつてそのような世界を夢見、そして実現しようとした男がいたことを。
 あれからも史表は紡ぎ続けられている。いつかその作業が終わるとき、人々は白賢龍の見た未来にたどり着いているだろう。


第五回 了


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