● 本のお話 ● |
● 2007.08.02(木)01 入江亜季「群青学舎」2巻ちょっと発売から経ちましたが、入江亜季の「群青学舎」2巻が届きました。「ビーム」連載の単行本です。 入江亜季「群青学舎」2巻 前作の「群青学舎」1巻と「コダマの谷」の感想は、以下をご覧下さい。 □入江亜季「群青学舎」1巻、「コダマの谷」http://crocro.com/book/060828.html 以下に、単行本収録のマンガの初出と各タイトルをリストにしておきます。
というわけで、何度か読んだので感想を書こうと思います。 前回も、読む人によっては割合厳しく見えることを書いた気がしますが、今回もそういった傾向があります。 私が読んで感じたことを率直に書いています。 感想というよりも、どちらかと言うと、「私が考える物語についての諸々」という感じの文章になっています。 ● 物語と詩最初に一読して感じたのは、「この人はストーリーの人ではなく、ポエムの人だよな」でした。 これは私の個人的な解釈なのですが、ストーリーとは構造で、ポエムとは瞬間の切り取りです。 ストーリーを作るという作業は、将棋で相手を詰めるのに近いです。「どうやって相手を追い込むか」というのがまずあって、そこに対してどうやって攻めて、そして相手にどういった思考の過程をたどらせて、最終的にどういった形で勝つか。それを理詰めで考えて、過程を踏んで行く。そういったものです。(注:将棋の例えは、私のような素人レベルでの話です) 対してポエムの場合は、瞬間の提示です。写真や絵画や華道なんかが近いでしょうか。ある感情や状景などを切り取って、固定化して、それを相手に提示する。 ストーリーというものが動的で長い時間を掛けて行う相互作用だとすれば、ポエムは静的で短い時間で決着を付ける相互作用だと思います。 どちらかに完全に偏っている人というのはいません。しかし、どちらの割合が多いかで、その作者の傾向が決まります。(当然、どちらもできて使い分けられる人もいます) 入江亜季という人物は、この分類で行くと、かなりポエム寄りの人だと思います。 ポエムに著しく偏った人は、長いストーリーを書くのが苦手だったりします。それは、ポエムと同じ攻め方では、長編物の読者を落とせないからです。 長い話を書く場合には、ポエムと攻め方を変えないといけません。ストーリーとしての作りが必要になってきます。 そういった「ポエム寄りの人の弱点」が露呈しているのが、全五話にわたる「北の十剣」なのではないかと思いました。この一冊の中で、明らかにこの五話は面白さという点で劣っています。 この話を読んで思ったのは、「ポエムの人がストーリー物で失敗するパターンかな」ということでした。 以下、入江亜季がポエム寄りの人間だと思う理由を、別の視点からも書いてみようと思います。 ● 空気と人間小説などではよく言われることなのですが、「物語をどう見せるか」には「視点」が大きく関係してきます。 一人称で書くか、三人称で書くか。個人の内面からの描写にするか、神の視点で語るか。 これは映画などでも同じです。カメラでどう撮るかによって、同じ物語でも、観客の感じ方は大きく変わってきます。 小説家や映画監督が、物語をどういった風に見せたいか。それが、それぞれの作品の視点に反映してきます。 この視点という概念は、当然マンガにもあります。そして、視点によって物語の描かれ方は変わってきます。 マンガの場合には、二つの視点があります。それは、小説のような内面視点(誰が世界を感じているのか)と、映画のような描写視点(世界をどのように画面に見せるのか)です。 マンガは、その特性上、内面描写と外面描写を同じ画面上でできるメディアです。 また、この二つが併存しているために、二つが混ざり合って曖昧になっていることも多いです。 さて、入江亜季のマンガについて感じたことを書きます。 この作者の作品を見て感じるのは、外面描写が強く前面に出ているということです。 心的独白が圧倒的に少なく、一歩引いた視点から話が描写されています。 これは、たぶん空気を描きたいからなのだと思います。 人間を取り巻く空気。 人間の内面ではなく、その周りの淡い空気を写し取りたい。 入江亜季のマンガを見ると、そういったことを考えているのではないかと強く感じます。 つまり、人間そのものではなく、人間の周りにある空気を描こうとしている。 これは、「写し取れない何か」を曖昧なまま固定化しようとする作業であり、ポエムに偏った表現の仕方だと思います。 このやり方は、短編では有効です。 しかし、長編のストーリーを書く場合は、空気ではなく人間を書かないといけません。 そのため、入江亜季の現在のやり方でそのまま長編を描くと、ポエム寄りの人間の問題が露呈するのかもしれないなと感じました。 入江亜季が徹底的に空気にこだわるのならば、短編の方が向いていると思います。また、長編を書くのならば、物語の構造を作るか、人間自身を内面から描くか、どちらかが必要なのではないかと思いました。 ● 等距離と奥行きさて、入江亜季のマンガは「空気を描こうとしているのではないか」ということを先ほど書きました。 そういった考えで読んでいくと、「何かが足りないなあ」と思う部分があります。 それは何なのか。 考えながら、一コマ一コマ確認していく内に、その理由が分かってきました。 コマに奥行きがないのです。どのコマも距離感が同じというのが一つ、さらに、コマ内でも描画物の距離感が同じ(もしくは距離の差が少ない)です。 空気を描こうとしているのに、空気の厚みがないのです。 「何かが足りないなあ」と感じている理由は、ここにあるのではないかと思いました。 コマごとの距離感が特に感じられず、「近付く」「遠のく」というコマの連続が、ただたんに「絵が大きくなる」「絵が小さくなる」という表現になっています。 だから、コマの間に風が吹かない。空気を描こうとしているはずなのに、空気が止まっているように見える。 そういう風に感じました。 これは人によって感じ方は違うと思います。あくまで私の感じ方です。 しかし、マンガというものを読んでいて、空気が動くのを確かに感じることがあります。ふっと吸い込まれるような錯覚を感じたり、さっと風が吹くように感じる瞬間というものがあります。 たぶん、入江亜季というマンガ家は、そういったものを表現したがっているのではないかと思います。これは私の勝手な想像ですが。 絵に奥行きが出て来るだけでもだいぶ違うのになあと感じました。 入江亜季の絵は、けっこうクオリティが高いのですが、表現しようとしていることと完全にリンクしているわけではありません。近景も遠景も、あまり変化のない描線を使っています。 マンガは究極的に言うと、「きれいな絵」よりも、「表現しようとしていることに効果的な絵」の方が大切です。 もし入江亜季が空気感を表現しようとしているのならば、それに最も効果的な絵を模索していく必要があるのではないかと思いました。 ● リアルとファンタジー 約束事──現実からの情報の借用少し話が外れますが、「北の十剣」を読んで感じたことを書いておきます。 短編と長編の違いの一つに、「どれだけ約束事に乗っかるか」というものがあります。 ぶっちゃけ言うと、短編では説明的なことがあまりできないので、「みんなが知っている約束事」を徹底的に利用して話を組み立てる必要があります。 そういった意味では、短編は、現代物や歴史物といった「読者の共通認識があるもの」がやりやすいです。 また、SFやファンタジーをやる場合は、「特殊なことは一点に絞る」といったやり方になります。 対して長編は、「世界をじっくり描く」ということに適しています。短編では入れられない情報をふんだんに盛り込み、現実世界と大きく離れた世界を構築することができます。 長編作品の醍醐味の一つは、世界を肌で感じ、世界に潜り込むことです。 ただし、長編物でも、長々とした説明は禁物です。情報の提示はエピソードの中で語られたり、登場人物の行動を通して語られなければなりません。単なる説明は読者を退屈させますので。 そのため長編では、短編とは違って「世界の描写」という作業が一つ追加されます。 短編では普段やらないことが、一つ追加されるわけです。 「北の十剣」を読んでいて思ったのは、この「世界の描写」に失敗しているなということです。 なんとなく中世ヨーロッパ的な世界というのは分かるが、そこから先が見えてこない。そして前述したように、人間の中身ではなく、人間の周りの空気を描こうとしている。 そのせいで、読者の心に引っ掛かる部分が極端に少なくなっているのではないかと思いました。読者が長編に対して「当然あるべき」と思っているものが欠けている。 「北の十剣」を読みながら、そういった印象を受けました。 末尾になりますが、今回の一冊では、「ニノンの恋」が個人的には一番よいと感じました。 あと、「時鐘」や「続ピンク・チョコレート」の少しエキセントリックな女性たちは、けっこう好みでした。 今回の感想は、本を実際に読んでいない人には意味不明の文章となっているかもしれません。まだ未見で興味を持った人がいましたら、手に取って読んでみるのもよいのではないかと思います。 あと、入江亜季の絵は結構好きです。こういった絵には弱いです。大学時代に、こういった方向性の絵を練習していたのを思い出します。 ● 参考リンク入江亜季「群青学舎」2巻 □入江亜季「群青学舎」1巻、「コダマの谷」(前作感想) http://crocro.com/book/060828.html |