映画「エルマー・ガントリー 魅せられた男」のDVDを十一月上旬に見ました。
1960年の映画で、監督、脚色はリチャード・ブルックス。
素材と話は非常によいです。しかし、1960年という古い時代の映画のせいもあるのか、描き方が非常に古臭かったです。
たぶん、これは監督の腕のせいなのだと思います。同じ時代の映画でも、今見ても古さを感じさせないものもありますので。
というわけで、「もっと面白く演出できそうなのになあ」と思いながら、映画を見ました。
できれば、もっといい条件でリメイクして欲しいです。
ミステリーでも何でもないので、先に粗筋を書きます。そして感想を書きます。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。中盤のラストぐらいまで書いています)
主人公は、エルマー・ガントリーという男性。彼は宣教師の学校に行っていたことがあるが、そこを中退して、様々な町を巡るセールスマンをしていた。
彼は見た目がよく、会話が上手く、女性を口説くのが得意だった。彼はセールスマンではあったが、詐欺師に近いような男だった。
そんな彼が、ある町で見た女性に一目惚れする。
その女性は、伝道団の主催者の女性だった。その伝道団は、キリスト教の復興を目指して活動していた。
彼女は聖処女と呼ばれ、各地を巡業しては、サーカスのようなテントを建てて、説教活動を行っていた。
主人公は、言葉巧みにその女性に近づく。そして、その伝道団の一員になる。
宣教師の学校に通っていた彼は、そういった仕事が得意だった。彼は、宣教師の知識と、セールスマンのトークを駆使して説教をして力量を現す。
人々に天国と希望を説く聖処女と、人々に地獄と悪魔を説く主人公。
二人の対照的な説教は、人々を魅了して、伝道団は次第に力を増していく。
そして、伝道団が大きくなっていくにつれ、社会との軋轢を生み出し始める。
主人公は「悪魔を倒す」という名目の元、人々を煽動し、売春婦の宿を襲撃する。
しかし、そこには、かつて主人公が捨てた女がいた。女は主人公を罠にはめる。そして、マスコミは一斉に主人公たちを叩き始めた……。
話的には、「宗教を広める人たちの内幕を暴く」というものです。
なので、宗教を信じている人たちの多い地域ではショッキングな内容のものです。
たぶん、アメリカ公開時にはそういった見られ方をしていたと思います。
しかし、この映画には、もう一段深みがあります。
それは、このエルマー・ガントリーという男自身です。
悪意も善意も全くない人間なのに、その瞬間々々の彼の置かれている立場と行動によって、彼が悪魔にも神の使徒にも見えるようになっています。
神や宗教を信じる人間を嘲笑うように、彼には全く宗教心がありません。
しかし、そこに人々は神を見たり悪魔を見たりする。
その人々の信心を、主人公は「自分の恋愛を成就させる」ことだけに使おうとします。(金ではなく恋愛なのが、人々の反発心を招かない上手い設定だと思います)
この、「人間と人間の間の意識の断絶」が、色々と考えさせられます。
「あなたたちが信じている神は、あなたたちが信じている“だけ”の存在だ」
映画からは、そういった雰囲気が伝わってきます。
そういったことを強く感じさせるシーンがあります。
伝道団には、長期取材をするために、ピューリッツァー賞受賞の新聞記者が同行しています。
その彼は、どちらかというと無神論者です。
その新聞記者と、主人公が言い争いをして、主人公がやり込めるシーンがあります。
主人公は、以下のようなことを言います。
神の奇跡や、聖者の奇跡は本当に起こったものではない。宗教とはそういったものだ。嘘を付いていると宗教家を新聞で叩くことには意味がない。
つまり、遠回しに「宗教家は嘘を付くのが職業だ」と、伝道をしている本人が言うのです。
そして「だから、そういった批判記事を書くのは無意味なんだ」と理解させます。
「宗教の本質は、人を気持ちよく騙すことにある」と、主人公は暗に言います。
映画自体は、そういった解釈ではない、他の解釈もできるようにできています。
ただ、私には、そういった解釈に伝わり(選び)ました。
表面だけでも魅力的な素材ですが、内部もぎっしり詰まっている「よい素材」だなと思いました。