映画「突撃」のDVDを十月中旬に見ました。
忙しかったので、何気に感想がたまっています。ボチボチ書いていこうと思います。
1957年の映画で、原題は「PATHS OF GLORY」。監督はスタンリー・キューブリック。脚本は、スタンリー・キューブリック、カルダー・ウィリンガム、ジム・トンプソンの三人です。
なんというか、クラクラくる映画でした。
やっぱ戦争だけは避けないといけないなと思いました。
映画中、非常に記憶に残った台詞は、「愛国心は悪党の最後の口実」という、序盤に出てくる、何かの本からの引用です。
全てがそれで正当化されていき、眩暈がします。
さて、映画の内容ですが、先に粗筋を書いておいた方が、話をしやすいので、粗筋を書こうと思います。
以下、粗筋です。(若干ネタバレあり。終盤に入ったあたりまで書いています)
主人公は、弁護士であり、士官である男。
ある時、将軍が無茶な攻勢を立案して、敵陣真っ只中に兵士たちは突撃しなければならなくなる。
しかし、敵の陣地は鉄壁で、壕を出ることすら難しい。
業を煮やした将軍は、自陣に砲弾を撃ち込む命令を出す。だが、その命令は現場の人間たちによって拒絶される。
攻勢は失敗に終わり、将軍はその原因は兵士たちの臆病にあると結論付ける。そして、各部隊から一名ずつ選んで、死刑にするように決め、軍事裁判に掛ける。
主人公は、この理不尽な話に腹を立て、軍事裁判に掛けられた三人の部下を弁護することを決める。
しかし、その軍事裁判は、裁判とは名ばかりで、証拠も議論もなく、ただ結論だけを決めるものだった。
まともな方法では裁判に勝つことはできない。そう考えた主人公は、将軍が自陣を攻撃する命令を出そうとしたことをマスコミにリークすると、上層部に訴え、外からの圧力を掛けようとする……。
人間の命が虫けらのように扱われ、それにクラクラくるのは、その後のキューブリックの映画でも同じです。
今回、この映画を見ながら伝わってきたのは、「戦争の構造的理不尽さ」です。
ボードゲームなどで、「最終ターンになると全員が裏切る」シーンはよくあるのですが、この映画では、そういったシーンが多々見られます。
「相手が死ねば報復がない」という、ゲームの最終ターンと同じ状態が発生するのが「戦争」なので、多くの人が、決断に歯止めが利かなくなっていきます。
そういった「戦争の構造的理不尽さ」を強く感じさせられました。
なぜそういったことを強く感じたのかは、映画の中に「上対下」の理不尽な対立だけでなく、「同級生だったけど、階級が違ったせいで、友人を殺す選択を取る上官」というキャラが出てくるからです。
自分の階級が上で、もし同時に二人が互いのことを訴えれば、自分の言葉の方が通る。だから、自分の弱みを握った友人を抹殺する。
そういった選択をする、「下の方の人間」が映画中出てきます。
そのことで、「戦争」というものが、「上層部の理不尽さ」に問題があるのではなく「構造そのもの」に問題があると主張しているように思えました。
「上層部の理不尽さ」というのは、それがいびつに出てくるだけで、末端まで全てそういった問題が支配している。
そう訴えているように感じました。
こういった映画を見ると、戦争は、やっぱり起こしてはならないなと思います。
あと、もう一点、脚本上、なるほどなあと思った点をメモして置こうと思います。
裁判に掛けられる三人の兵士ですが、映画中では、一人だけ丁寧に背景を描写しており、残りの二人は口頭の説明だけで済ませていました。
三人全員にスポットを当てなくても、一人だけ描写すれば、三人分の内容を代弁させられるのかと思いました。
なるほどなと思ったのでメモしておきます。
粗筋には書きませんでしたが、映画の終盤は、これまでのありとあらゆる伏線を駆使して、「皮肉な展開」になっていきます。
なんというか、「こうなってくれれば救われるな」という、魂の梯子を、嬉々として外していくような展開です。
原題が「PATHS OF GLORY」というのも、強烈な皮肉が入っています。
こういった部分を見るにつれ、キューブリックというのは、こういうのが好きなんだろうなと思いました。