映画「わが命つきるとも」のDVDを十一月中旬に見ました。
1966年のイギリス映画で、監督はフレッド・ジンネマン。脚本はロバート・ボルト。
ロバート・ボルトは、「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」の脚色の人ですね。
映画は、英国教会設立の件に絡んで、トマス・モアが頑固に反対するというお話です。
「トマス・モア……、そういえば歴史の時間に名前を聞いたな」ということで、映画の途中で少し調べてみました。「ユートピア」の著者ですね。
□Wikipedia - トマス・モア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83...
しかしまあ、映画は感情移入が全くできずに辛かったです。
たぶん、イギリス人や、それに連なるヨーロッパ文明圏の人ですと「あのトマス・モアが映画化!」と興味津々で見るのかもしれませんが、日本では知名度が低過ぎです。
もっと言うと、そういった興味を抜きにすると、全く面白くない映画だったということです。
ともかく、頑迷にキリスト教徒であることを主張し続けるだけで、周囲の迷惑を顧みず、家族を窮乏させて自滅するという、ある意味、家族に対する自爆テロをするだけの描かれ方をしていましたので。
見ていて「あー、狂信的なキリスト教徒以外はおいてけぼりの映画だな」と思いました。
この映画では、主人公のトマス・モアは「キリスト教の教えに反する」という理由で、離婚しようとしている国王ヘンリー8世に反対し続けます。
□Wikipedia - ヘンリー8世 (イングランド王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83... 歴史的にはヘンリー8世は「女好き」と言われたりしているようですが、映画はあくまで創作物なので、映画の中で提示されている情報から、基本的にその立ち位置を読み取らなければなりません。
この映画では、ヘンリー8世が離婚して、新たな女性と結婚しようとする理由は以下のように語られます。
・国は統一されてまだ二代目。
・妻は石女。
・今、世継ぎができなければ、国は再び分裂し、戦争に突入する。
・なので、新しい妻を得なければならない。
・これは、恋愛という問題以上に、国事である。
それに対して、トマス・モアが主張するのは以下のようなことです。
・離婚はキリスト教に反する。
・国が分裂しようが、戦争で人が死のうが、神の教えに従うことの方が大事。
トマス・モア側からは、特にそれ以外のヘンリー8世に対する反論はなされません。
これでは、狂信的なキリスト教徒ではない私には、トマス・モアに感情移入する余地がありません。
映画から提示された情報だけを見る限り、ヘンリー8世側の意見の方に正当性がありますので。
確かに、ヘンリー8世にも落ち度が多く、今の妻は、兄の妻だった女性だったり、女癖が悪いところも描かれていたりするのですが、別に悪政を敷いている王として描かれているわけでもありません。
何と言うか、物語の感情移入の前提の扉が狭過ぎる映画だなと思いました。
はっきり言うと、外れの映画でした。
こういった、主義主張が偏り過ぎた物語を作ると、一般性のない作品になってしまうなと思いました。
逆に言うと、そういった作品でも売れてしまう世の中は怖いなと思いました。明らかに偏った社会だと立証していることになるので。
ちょうどリチャード・ドーキンスの「
神は妄想である—宗教との決別」を読んだので、特にそう思いました。
本を読みながら、アメリカの余りにも偏った狂信さにくらくらしたので。
以下、粗筋です。(最後まで書いています。特にネタバレ的な内容ではないですので。)
トマス・モアは敬虔なキリスト教徒で、法律家で、政治家だった。
彼は、ヘンリー8世が離婚し、再婚しようとしていることに対して断固として反対していた。
トマス・モアは高名な法律家で、政治家だったので、影響力が大きく、ヘンリー8世は頭を悩ませていた。
そして、トマス・モアを失脚させるための陰謀が進行する。
トマス・モアは地位を奪われ、牢に繋がれる。
彼は、裁判にかけられる。そして、自分の主張をその場で貫き通す。
映画自体は面白くなかったですが、終盤の裁判シーンは、そこそこ面白かったです。
やはり、裁判シーンのように、対立と攻撃の応酬が明確なシーンは、嫌でも盛り上がります。
特に、このシーンでは、キリスト教的戦いではなく、あくまで法律家としてのトマス・モアのバトルを描いています。
なので、きちんとしたロジック・バトル。
全編、この調子で作って、宗教色を十分の一ぐらいにしてくれればよかったのになと思いました。