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2006年01月30日 03:32:35
私が激しく反対することが三つあります。
一つめは、戦争。
二つめは、言論の不自由。
三つめは、趣味・嗜好を人格(人間性の評価)に結びつけて語ること。
「戦争」に反対する理由は、私は「自分の人生を自分のために使いたいから」です。
このような行動様式は、平和な環境の下でしか許容されません。
私は利己的な人間です。
私は、他人のために人生を浪費したくはありません。
「言論の不自由」に反対する理由は、私は「自分が作りたい物を作りながら人生を過ごしたいから」です。
もし言論の自由が著しく制限される世界になったのならば、私は檻のなかで残りの人生を過ごすことになるでしょう。
そしてもう一つ、私は「他人が作った素晴らしいものを楽しみながら人生を過ごしたい」と思っています。
もし言論の自由が著しく制限される世界になったのならば、私は目と耳を塞いだまま、残りの人生を過ごすことになるでしょう。
私は自分の人生を謳歌したいです。
「言論の自由」を犯す者は、私に戦争をしかける明確な敵だと認識しています。
そして三つめ、「趣味・嗜好を人格に結びつけて語ること」です。(これが今回の本題です)
わざわざ「思想の自由」ではなく、「趣味・嗜好を人格に結びつけて語ること」と書いているのにはわけがあります。
世の中には、「趣味・嗜好を人格(人間性の評価)に結びつけて語ること」が「思想の自由」を妨げる端緒となることに気付いていない人が多いからです。
まず最初に「思想の自由」を私が重要だと考えている理由を述べます。
私が「思想の不自由」に反対する理由は、「私がマイノリティの側の人間」だからです。
世界は多数派と少数派に分かれます。その場合、私は少数派に立ちたがる人間です。
なぜならば、私は世界の多様性を楽しみたいからです。そして、私は世界の多様性を認めています。さらに、自分はその多様性の一つだと認識しています。
思想も同じです。
「思想の自由」を保証することは、思想の多様性を肯定することです。
「思想の自由」を妨げることは、この私の存在自体をも否定することにつながります。
次に、「趣味・嗜好を人格(人間性の評価)に結びつけて語ること」が、「思想の自由」を妨げる端緒となる理由について述べます。
ここで、最初に断わっておかなければならないことがあります。
私は「個人が差別的考えを持つこと」を否定しません。
私は思想の自由を尊重しています。「趣味・嗜好の自由」は、差別も含めて許容されるものです。「差別」には、「好み」という瑣末なことまで含まれます。これは、人間が人間である限りしかたのないことです。
しかし、その個人としての差別的考えを、社会の仕組みとして反映することには明確に反対します。それは「思想の自由」を妨げることになります。
「趣味・嗜好を人格に結びつけて語ること」は、「差別的考えを社会の仕組みとして反映すること」につながります。
なぜならば「人格(人間性の評価)」とは、「社会に強要する価値判断」を含んだ「観察者側の主観的判断」だからです。
人間は「人格」というものを想定して主観的な判断を下すことで、一見客観的な評価をしたような勘違いをします。
「ある趣味・嗜好を持っている人間」を「人格的に問題がある」と判断した場合、「他人の趣味・嗜好」を「自分の趣味・嗜好」を通して判断し、「正しい・間違っている」と“社会的に”評価することになります。
個人的評価は自由ですが、それを社会的評価として扱うのには問題があります。
多くの人は、「人格」という言葉を使うことで、「主観的判断」を「絶対的、客観的判断」にすりかえます。
それは、主観的価値観の社会的正当化を意味します。これは、他人の思想を認めないという考え方です。そして、「差別的考えを社会の仕組みとして反映すること」につながります。
「趣味・嗜好を人格に結びつけて語ること」は、「思想の自由」を妨げることにつながる行為です。
社会に対して人間は、その行動様式で評価されるべきです。
法を犯さない限り、どのような趣味・嗜好を持とうが構いません。(この法には、広義の法が含まれます)
社会に対するバランス感覚を維持する限り、思考することは可能な限り自由であるべきだと考えています。
そして、個人の価値判断と、社会の価値判断は分けなければならないと考えています。
私が「激しく反対すること」はこの限りではないのですが、「書いておかないといけない」と思うことが十二月にあったのでまとめておきました。