映画「太陽」を八月五日の土曜日、初日に見てきました。
ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の作品で、イッセー尾形が天皇ヒロヒトを演じている映画です。
□太陽 - トレーラー
http://taiyo-movie.com/trailer.html イッセー尾形が天皇で、桃井かおりが皇后で、佐野史郎が侍従長という絶妙のキャスティングのため、ネットでも密かに話題になって日本公開が待ち望まれていた作品です。
一緒に行ったのは、LEGIOんさんと、その後輩の方。昼の十二時に映画館に着いたら既に長蛇の列。
一時半の回は売り切れで、三時半の整理券をもらって見てきました。
上映館が極端に少なく、東京では銀座シネパストだけという話を聞いていたので、非常に多くの人が集まっていたようです。
以下ネタバレありの感想です。と言っても歴史物なので、ネタバレなのかどうかは謎ですが。
映画は、エンターテインメントではなく文芸物でした。そのため“面白い”というよりは、“興味深い”という内容のものでした。
上映時間は二時間弱。映画の構成は、大きく分けて二部になっています。
最初の四十五分ぐらいが戦時中で、天皇ヒロヒトの退屈な一日を退屈に描き、残りの時間は敗戦後で、米兵が来たり、マッカーサーに会ったりして、最終的に人間宣言に至り、皇后や子供と再開するとう筋書きです。
前半は本当に退屈で、だいぶ眠くなりました。イッセー尾形の演技は非常によいし、やたらと伏線がちりばめられているのですが、いかんせん「退屈な一日を退屈に描く」という内容なので、どうしても退屈です。
また、天皇自身の動きが非常に鈍いので、映画自体の速度もそれに合わせて遅いです。おかげで、非常に眠くなります。
対して後半は映画館に何度も笑いが起こりました。
天皇という存在をよく知らない米兵がわらわらとやって来たり、いろいろと探りを入れてくるマッカーサーと会談するなどの“外部の人々”との接触が出て来るために、「天皇であることの喜劇性」が浮き立っていました。
「天皇の喜劇性」は、この映画では明確に描かれています。
序盤で天皇がチャーリー・チャップリンなどの映画俳優の写真を見るシーンがあります。
そして後半に、タキシードにシルクハット姿で出て来た天皇を、アメリカの記者やカメラマンたちが「チャップリンそっくりだ!」「チャーリー、ポーズを取って!」などと言うシーンがあります。
その声に応えて、ポーズを取ったりする天皇。
この映画は、「人間であるのに、神として振る舞わなければならない悲喜劇」を描いているのですが、前半はその悲劇的要素が強く、後半は喜劇的要素が強いように感じられました。
後半はいろんな場面で笑いが湧き起こります。
本作品を見て感じたのは、“微妙な立場に立たされた人間の処世術”というのが、いかに喜劇的なのかということです。
映画中、天皇は、様々な場面で「言質を取られないこと」を念頭に置いて発言をします。
戦争責任の追求のために、どこまで知っていたのかという探りに対しても極力話を逸らします。
それも、意図的に逸らしているように見せないために、まるで自分自身に考える能力がないかのようにエキセントリックに振る舞います。
また彼は、責任が発生する場面では、極力自分自身の意思を出さないように努めます。すべてをはぐらかすようにして、微妙な綱渡りを行なうのです。
彼の口癖である「あっそう」は、聞いたことすら記憶するつもりがないように思わせます。この言葉は、彼の究極の処世術だったのではないかと考えさせられます。
そういった処世術に対して、生活圏内にいるごくごく身近な人には、自分自身の戸惑いを漏らします。
彼は侍従長に対して「私の体も同じだ。君のとね」と言います。
そして、侍従長が返事に困っているのを確認したあと、「神が持つものを何も持たぬ。皮膚にさえ何の印も持たない。……まあ、よかろう、怒るな、まあいわば……冗談だよ」と告げます。
生物を研究している天皇自身には、天皇が神などではなく、ただの人間なのだということが分かりすぎるほど分かっていたのだろうと思います。
その上で、偽りの神を演じ続けなければならない。
「誰も“私”を愛していない。皇后と子供たちを除いてはね」という内容の台詞が、彼の置かれた立場を物語っているなと感じました。
以下の項は、明確なネタバレです。
映画では、最後に天皇は人間宣言を決断するに至り、ようやくお仕着せの自分の立場から精神的に解放されます。
そして天皇は皇后と再会して、望んでいた人間にようやくなれます。
しかし、最後の最後でそんな喜びを吹き飛ばすような会話が行なわれ映画は締め括られます。
ヒロヒト「あの録音技師はどうしたかね? 私の人間宣言を録音したあの若者は?」
侍従長「自決いたしました」
(しばらくの沈黙)
ヒロヒト「だが、止めたのだろうね?」
侍従長「いいえ」
このあと皇后が、侍従長と天皇を非難するような視線でじっと見ます。そして、天皇は皇后を連れ、悲しそうにその場を去っていきます。
この場面は非常に印象的でした。
本作は、天皇ヒロヒトという人物が、いかに自分を手に入れるかの静かな苦闘の悲喜劇です。
そして、これはよくできたフィクションだと思いました。
「太陽」は、“天皇”という実在の人物を題材にして、特殊な状況に陥った“人間”を描いた作品でした。
でもまあ、見る人を選ぶ映画だなと思いました。
“娯楽”を求めて映画館に行った人は、“文芸作品”なので戸惑うだろうし、歴史映画やノンフィクションを期待して足を運んだ人は、「史実と違う!」と言って難癖をつけそうだし、右の傾向の強い人は、「天皇を喜劇にするとは!」と憤りそうです。
でも、それは見方が違うしなあ。
本作はこういった映画なので、観客を選ぶし、誰もが楽しめる映画ではありません。
また、やたらと寓意や伏線が張り巡らされているので、普段からそういったことに注意しながら映画を見ない人には辛いだろうなとも思いました。
それぞれのシーンでの行動にどんな意味があるのかを理解するためには、だいぶ前のシーンを覚えておいて読み解かないといけないからです。
でもまあ、イッセー尾形の演技を見るだけでも儲け物だと思います。
あと、見に行く人は、最初の四十五分で寝落ちしないように、前日はしっかりと睡眠を取っておいた方がよいです。本当に眠くなるので。
余談ですが、プログラムの後ろの方にシナリオが付いていました。台詞とともに、解説が書いてあります。行った人は買った方がよいと思います。
あと、どうでもよいですが、マッカーサーから送られた段ボールいっぱいのチョコレートを、天皇が侍従たちに分け与えるシーンが非常に面白かったです。
劇場の観客が、どっと笑っていました。