映画「マンダレイ」のDVDを一月上旬に見ました。今年一本目です。
この映画は、実験的映画「ドッグヴィル」の続編になります。このシリーズは全部で三部作になるそうです。
どこらへんが実験的かというと、背景がないところです。ついでにBGMもないです。
つまり、映画のバックを埋めるものが何もなく、役者たちは、地面に描かれた建物や地形の地図の上で演技をします(家具類はありますが)。
このようにこのシリーズでは、通常、映画を盛り上げるために用意されている要素をかなりの割合で排除しています。
では、そんなことをして何をしようとしているかというと「抽象的な劇」です。物語はあるものの、かなりのレベルで抽象的な「劇」をやっているのです。
前回の「ドッグヴィル」は、以下のような話でした。
人間は相手が反抗できない状況ではどこまでも卑劣になる──。
また、外部との交流のない閉鎖社会で、人々がいかに簡単に非人間的なことに同調するかということも描いていました。
とはいえ、これは私が感じたテーマです。「ドッグヴィル」は、人によって様々な解釈ができるように、いろんな要素をぶち込んでいました。
なかなか興味深い作品だったのですが、いかんせん前作は長過ぎました。
「映画のバックを埋めるものが何もない」ということは、緊張と弛緩の「弛緩」を考えていない作りのわけで、それを三時間近くやられるとひたすら疲れます。
今回の「マンダレイ」では、その点を反省したのか二時間を少しオーバーする程度の尺でした。これぐらいなら、まあ耐えられる。
というわけで、本作はアメリカの奴隷制度を題材にしながら、社会に潜む闇の部分を浮き上がらせるという内容になっていました。
終盤はどんでん返しに次ぐどんでん返しで、なかなか楽しめました。
前作と違って話も随分絞り込まれて、内容も非常に明確になっており、前回の批判をきちんと消化してきたんだろうなと個人的には感じました。
その分、ドッグヴィルを見終わったときの、居心地の悪いもやもや感は薄くなっています。
先ほども書きましたが、このシリーズは抽象的な劇です。
そのため(というか、役者に逃げられたか?)、主役の女性とその父親というキー・キャラが前回の役者とは別人です。
しかし、そのことはほとんど気になりませんでした。だいたい、内容自体が役者の個性に全くというほど頼っていないので。
このシリーズは、例えるならば実験室で行う生体実験のようなものです。
被験体1、被験体2、と役者に書いてあっても全然違和感がないような作品です。
今回、父親がウィレム・デフォーだったのですが、「ここまでデフォーを使う意味がない映画は凄いな」と思いました。誰に差し替えても全く困りません。
もし監督がそのことを観客に分からせるためにこの配役をしているのならば、かなり野心的だなと思いました。
以下、粗筋です。(ドッグヴィルのネタバレが若干あります)
ドッグヴィルの村から出た主人公の女性グレースは、父親とともにアメリカの違う州に向かった。
そこで彼らが立ち寄ったマンダレイという南部の土地の農場では、奴隷制度を維持していた。
人間には自由が必要だと信じるグレースは、父親から、銃を持った手下を何人か借りて、この地に自由と自立を根付かせようと考える。
彼女が設定した期間は、綿花の収穫が終わるまでの間だ。
その期間に、白人たちには“いかに彼らがしていることが悪いことなのか”を教え、黒人たちには“自由と自立のある生活を根付かせよう”とする。
グレースの父親は、娘のわがままに閉口しながら、その場を去る。
その農場では、ちょうどグレースたちが来たときに、“ママ”と呼ばれる農場主が寿命でなくなった。
その“ママ”は、“ママのノート”と呼ばれる農場の管理マニュアルを残していた。それは、奴隷たちをいかに効率よく働かせ、管理するかをまとめたものだった。
グレースは憤りながら、この“ママのノート”から黒人たちを解放しようとする。
しかし、その試みはことごとく裏目に出てなかなか目的を達せない。そして彼女は最後に、この農場の真の姿を知ることになる……。
さて、「実験的だけれども、非常に濃くて面白い」ということは、多分誰もが書くので、ここでは割愛します。
私もその点は非常に面白いと思いましたので。ただ、何度も見直して楽しむ映画ではないなとも思いました。
内容は面白いのですが、映画を見ることによる爽快感は特に味わえませんので。
というわけで、ここでは、「ドッグヴィル」「マンダレイ」の“エロ要素”について書いていこうと思います。
前回の「ドッグヴィル」でもそうでしたが、なぜかこのシリーズは“エロ”にかなりの気合いが入っています。
それも、「ただ裸を出す」というのではなく、「いかに屈辱的なエロスを描く」かということに気合いが入りまくりです。
これは私がそういう視点で見ているからそう見えるというわけではありません。
今回の「マンダレイ」の冒頭で、父親がグレースに、「女は誰もがハーレムの奴隷になることを夢想する」といった内容の台詞を吐きます。
これは、この二作のエロの方向性を分かりやすく述べています。
つまり「他人に、非人間的扱いをされて犯されながら、どこかそのことに喜びを見出す」という、暗くて倒錯したエロスの表現を行うと宣言しているわけです。
ちなみに、前作の「ドッグヴィル」では、首輪をされて村中の男に回されるグレースを執拗に描いていました。
今作の「マンダレイ」では、「ハーレムの奴隷になる」という妄想がどんどん膨らんでいき、そこに身を委ねようと次第に考え出すグレースが描かれます。
こういった方向性は、普通の映画では出てきません。
映画自体が実験的なために、違和感なく作中に解け込んでいますが、これはかなり異常なエロの方向性です。
こういった方向性はエロマンガでも少ないです。このような話は、エロマンガのなかでも“鬼畜系”としてくくられる異端のジャンルになります。
この監督は、前述の台詞が示しているように、こういったエロ展開を意図的に行っています。
もう一つ面白いのが、前作で散々汚されたはずのグレースが、今作ではまるで処女のように振る舞っていることです。
つまり、どんどん落ちていくわけではなく、海の底に潜ってから海上に戻り、さらに潜って海面に戻りということを行っているわけです。
おかげで、次にどんなエロを持ってくるのか予想が付きません。
そのため、次の作品のエロ描写がどのようになるのか、私は非常に興味を持っています。
ちなみに、今作のグレースは胸が控え目で貧乳好きの人が喜びそうな裸体でした。なかなかよい裸でした。
「エロのことばかり書いてけしからん」と思う人もいそうですが、私が見る限り、この監督はエロにかなり力を入れています。
それも、映像的なエロではなく、シチュエーション的なエロです。そして、ストライクゾーンの狭いところを攻めまくっています。野心家です。
とりあえず球が放られて来たので、バッターボックスに立つことにしました。
次の作品も見ようと思います。