映画「紳士協定」のDVDを一月中旬に見ました。
カザン流しということで、前回に引き続き、エリア・カザン監督の映画です。
1947年の白黒映画で、アカデミー作品賞、監督賞、助演女優賞を取っています。
面白かったというよりは、考えさせられる映画でした。
以下、粗筋です。(それほどネタバレはありません。中盤の最初ぐらいまでしか書いていません)
フリーライターの主人公は、ある大手出版社で記事を書くことになる。その出版社では、人権問題に積極的に取り組んでいた。
彼が提案されたテーマは、「反ユダヤ主義」(ユダヤ人差別)についてだった。
このテーマを出したのは、編集長の親類でバツイチの女性だった。やはりバツイチで子持ちの主人公は、彼女に引かれる。
彼は仕事に取り掛かる。アメリカ社会において、ユダヤ人は差別の対象となっている。そのことについて主人公はどういったアプローチで書くか悩む。
今まで彼は何かについて書く場合、その対象を経験することでより深い洞察を得ていた。
ヒッチハイカーについて書くときは、ヒッチハイカーになり、鉱山労働者について書く場合は、鉱山に勤めた。
「そうだ、私自身がユダヤ人になればいいんだ」
引っ越して間もなかった彼は、自分をユダヤ人だと名乗る作戦を考える。編集長もその案に賛成し、社内でも彼がユダヤ人だということで通すことに決めた。
記事のタイトルも決まる。「私は六ヶ月間ユダヤ人だった」
その仕事が始まる頃には、彼は意中の女性と親密になる。二人は結婚を前提に付き合いながら、反ユダヤ主義の体験調査を進める。
そして、主人公は、自分がユダヤ人だと名乗ることで、今まで体験したことのなかった数々の差別を受けることとなる……。
差別する側とされる側。その「される側」に入ってみた主人公は、いきなり思いもよらぬことを知ることになります。
「される側」の内部でも、さらに差別があり、「差別されても当然のユダヤ人」と「差別されるべきではないユダヤ人」という風に、差別される側の意識もさらに細分化されている。
さらに、今まで気付かなかった様々な差別に主人公はさらされていきます。
また恋人は、差別の被害を無意識のうちに避けようとして、そのことで二人の仲が、どんどんぎくしゃくとした物になっていきます。
意識しないレベルで、「当然のこと」と思っている部分に、いくつもの差別が潜んでいる……。
差別というものが、一筋縄ではいかないものが炙り出されていきます。
そして、その差別の矛先は、彼だけでなく、彼の息子にも及んでいきます。
「面白い」タイプの作品ではありませんが、いろいろと考えさせられる映画でした。
うまく、差別という現象について、描いています。道徳の授業のときの教材にも、そのままなるなと思いました。
さて、この映画は、差別についての映画であるとともに、結婚についての映画でもあります。
作品中、差別が“障害物”として主人公に立ちはだかり、結婚という“ゴール”を邪魔します。
しかし、この映画では、“結婚”は単なる“ハッピーエンド”のためのゴールではありません。
差別がメインの映画ではありますが、その次ぐらいの重さのテーマとして、結婚について描いています。
以下に、映画の終盤の台詞のなかから、それがよく分かる部分を抜粋します。
# 男が妻に望むのは ただの同棲者じゃないよ
# 愛する女でもないし 子供の母親でさえない
# 相棒なんだ
# 世の荒波に出会った時に
# 一緒に乗り切るようでないと うまく行かない
結婚の条件が「愛ではない」と言い切る映画は珍しいです。
この映画では、結婚相手は「相棒」だと断言しています。そして、人生の仕事の片棒を担げる相手でなければ、結婚してはいけないと主張します。
個人的には、この部分が、この映画の揺るぎない強さを表わしているなと思いました。
キャストについて、少しだけ書いておきたいと思います。
主役のグレゴリー・ペック(「ローマの休日」にも出ている)は格好いいなと思いました。
背が高く、がっしりしていて、それでいてスマートで、落ちついていて、凛々しい。「頼もしい」という言葉が、これほど似合う容貌を持った人も珍しいと思いました。
ただ、声はあまりよくありませんでした。なかなかパーフェクトな人はいないなと思いました。