映画「スリング・ブレイド」のDVDを一月中旬に見ました。
1996年の作品で、監督・脚本・主演はビリー・ボブ・ソーントン。
映画は、堅実に面白かったです。
この映画の主人公は、精神病院帰りの知恵遅れの殺人犯です。そして、かなり特徴的な人物です。
映画を見た後に、ビリー・ボブ・ソーントンのインタビューがDVDに入っていたので見たのですが、映画の中の人物とあまりにも違っていてびっくりしました。
まるで別人です。
姿形から振る舞いからしゃべり方から声まで全部別人。
げげっと思いました。
ちなみに、映画中に説明が出てきますが、スリング・ブレイドは刃物の名前だそうです。主人公は、過去にこれで母親を殺しています。
ただし、武器ではなく、道具だそうです。
でも、映画中には出てきません。どんな道具なのでしょう?
友人が調べてくれました。
http://images.lowes.com/general/s/slingblade.jpg 背の高い雑草などを刈るのに使用されていたガーデニング用品だそうです。
これで殴られたらかなり痛そうです。
さて、この映画は、ハラハラ感の作り方が上手かったです。
私が個人的に「時限爆弾モデル」と呼んでいる手法です。
例えば校長先生の朝礼シーンを考えたとします。
その直前に、時限爆弾が仕掛けられるシーンをワンカット挟みます。
すると、退屈なはずの校長先生の朝礼の演説が、とたんにサスペンスシーンに早変わりします。
なんでもないシーンでも、その冒頭に時限爆弾が存在していることが示されると、観客が勝手にシーンから手がかりを探して「これが爆発のサインに違いない」と思いながらハラハラして見てくれるという手法です。
この映画では、冒頭に主人公の過去が明かされます。
主人公は知恵遅れで、過去に母親を殺して精神病院に入院しています。
その理由は、母親の密通です。悪い男に襲われている母を助けようとして男を殺したら、母親はその男を愛していたことを知り、主人公は母親も殺します。
映画によっては、こういった「主人公の過去」を物語の中で徐々に明かしていきます。
しかし、この映画ではその過去を冒頭で明かし、それを時限爆弾として利用しています。
映画は、冒頭で主人公の過去が明かされた後、主人公が退院して故郷に戻るところから動き出します。
そこで、彼は一人の少年と知り合いになります。
その少年の家は母子家庭で、母親は荒くれ者と付き合っています。
母親自体は非常に優しい人なのですが、その恋人は子供に暴力を振るい、母親も傷付ける悪い男です。
この設定が明かされた時点で、この映画の時限爆弾のセットは完了します。
「主人公は、きっとこの恋人か母親かその両方を殺すはずだ」ということが暗黙の了解として出来上がるからです。
観客は、映画を見ながら「誰を殺すか」もしくは「誰も殺さない決断をするか」を、ハラハラドキドキしながら見ることになります。
そしてこの初期配置以降、主人公と少年、さらに少年の周囲の人間たちとの心の交流が描かれていくことになります。
しかし、観客はそれらのシーンを普通には見られません。
観客は、その全てのシーンに対して「誰に死亡フラグが立つのか」を深読みしていくことになります。
脚本は、この本筋から基本的に逸れることなく、まっすぐに結末に向かっていきます。
ベタだが、上手いなと思いました。
この映画では、こういった基本構造を元に、各キャラに対して明確な位置づけを与えて適切に描いていきます。
時限爆弾のように、無機物で何を考えているのか分からない主人公。
本当に駄目人間で暴力的な、少年の母の恋人。
そして、少年の現状と主人公の少年時代の対比、主人公の心の中での父親に対する葛藤。
そういった必要な要素を処理していき、最後に結末に至ります。
映画中、特に演出として上手いなと思ったシーンが一つあります。
それは、精神病院から退院した主人公がフライドポテトを買うシーンです。
主人公は知恵遅れという設定で、会話もぶっきらぼうで、あまり頭の回転が速そうには見えません。
しかし、このシーンで「本質的には頭がよい」ということが示されます。
フライドポテトを買うやり取りで、主人公は思考の過程を口にします。それは、知識はないかもしれないが、知恵はある物の考え方です。
主人公は、「どういった商品があるか」「その商品が何なのか」「そして何が美味しいのか」といった基本的な知識がありません。
しかし、「じゃあ何を買うか」となった時に、知恵があり、本質を見通せる思考力があることを観客に示します。
主人公「何が美味しい?」
店員「全部美味しいです」
主人公「じゃあ、君が好きなのは?」
店員「○○と、△△と、□□かなあ」
主人公「じゃあ、その中で、君が買うとしたら何?」
店員「私なら○○を買うなあ」
主人公「じゃあ、それをちょうだい」
こんな感じです。
主人公は、知識はないかもしれないけど、知恵はあるということがここで示されます。
このシーンは、この映画の中でも非常に重要なシーンです。
なぜならば、このシーンがなければ、「過去に母親を殺した知恵遅れの主人公が、今度は誰かを殺すかもしれない」という単なる殺人鬼の映画になってしまうからです。
しかし、このシーンがあるおかげで「アウトサイダーだが知恵は持っている主人公が、考え抜いた挙句に決断を下す」という人間性の溢れる映画になっています。
前者だとホラーで、後者だと人間ドラマです。
小さなところですが、上手く作りこんでいるなと感じました。
以下、粗筋です(ネタバレあり。終盤まで書いています)。
知恵遅れの主人公は少年時代に母親を殺した。
悪い男に母親が襲われていると思って男を殺したら、母親はその男と密通していたからだ。
彼は精神病院に入り、十年以上を過ごし、退院することになる。
しかし、彼は故郷に戻っても伝手がない。病院に帰った彼は、機械修理の仕事を紹介してもらう。
どうにか故郷の町で暮らしだした主人公。
彼は、その町で一人の少年と友達になる。主人公は彼に、自分が殺人者であることを伝える。しかし少年はそのことを気にしなかった。
なぜならば、少年には、そんなことよりも重大な関心事があったからだ。
それは、母親についてだ。
少年の母親は、町でも札付きの悪い男を恋人にしていた。
何度も暴力を振るわれながらも、甘い言葉を囁かれることで、ずるずると関係を続けていたのだ。
母親以外の誰もが別れるべきだと考えていたが、彼女は恋人に依存しきっていた。
主人公は、少年の現状を見ながら、自分の少年時代を思い出す。
しかし彼は、殺人は悪いことだという考えを病院で教えられたために、少年がそういったことを考えないようにと振る舞う。
主人公は、少年の誘いで、彼の家の納屋に住み始める。そして、少年の母親の恋人の問題行動をつぶさに観察する。
また、母親には、彼女と少年を見守るゲイの男性がいた。主人公は、彼こそが少年の父親に相応しいと考える。
それからしばらく経った。
母親は悪い男と結婚するという。そして、悪い男は徹底的に少年を押さえ付けることを宣言する。
主人公は、全ての解決には、自分が動くしかないと判断する。そして、少年と母親を家から遠ざけ、ある決断を行動に移す。
主人公のキャラクターが非常に特徴的でした。
演技によって、オンリーワンのキャラクターを作り出していました。
派手さはなかったですが、上手い映画だなと思いました。