映画「モスキート・コースト」のDVDを二月下旬に見ました。
1985年の映画で、監督はピーター・ウェアー、脚色はポール・シュレイダー。主役はハリソン・フォード。
監督のピーター・ウェアーは、「刑事ジョン・ブック 目撃者」(1985)、「いまを生きる」(1989)、「トゥルーマン・ショー」(1998)、「マスター・アンド・コマンダー」(2003)などを撮っています。
ポール・シュレイダーは、「タクシー・ドライバー」(1976)の人です。
後半ちょっと辛かった(作品の出来にではなく、心情的に)ですが、なかなか特徴的な映画でした。
先に粗筋を書いた方が感想を書きやすい映画なので粗筋を書きます。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。終盤の中盤まで書いています)
主人公は発明家。彼には妻と子供たちがいた。
アメリカを愛しながら、その未来に絶望していた彼は、家族を引き連れてジャングルに行く。
そして、その地で、町長となり、発明を駆使して自分の理想郷を作り上げる。
彼が作った町に、宣教師がやって来る。主人公は神を信じていなかった。そして、神を信じる者と対立していた。
宣教師は人々を神の教えに導こうとする。だが主人公は、人々に現実的な幸せを提供することで、布教に対抗しようとする。
彼は熱帯地方に氷を作る巨大な施設を作り、得意の絶頂となる。
しかし、彼の運命は徐々に下り坂になる。
彼は自分の不注意のせいで、ゲリラを町に呼び寄せてしまう。そして、彼らを退治するために致命的な被害をその地にもたらしてしまう。
彼はその地を離れ、家族とともに海岸で小屋を作って暮らすようになる。しかし、その小屋も自然の猛威で破壊されてしまう。
彼らは小船に乗って川をさまよう。そして主人公は、かつて自分が築いていた街に、教会ができていることを知る……。
前半は、発明家の主人公が、その発明の才を駆使して、どんどん理想郷を作り上げていく話です。
多少強引で、現地の人に対する敬意が見られない部分が気になりますが、それなりに盛り上がり楽しいです。
しかし、後半は見るのがだいぶ辛かったです。
対立構造として、「発明家V.S.宣教師」というものが用意されていて、前半で絶頂期に至ってしまった発明家には、その立場の逆転が待っているからです。
正直言って、見る気力がだいぶ萎えました。
知力と努力で人生を切り開く発明家を否定し、考えることを放棄し「神」という名の「人間の声」の言いなりになることを推奨する宣教師が勝つことを正義とする映画ならば、最低の評価をしなければならないなと思って見ていました。
結果的には、最低の評価をしなくて済みました。
そこに強烈な皮肉を用意しておいてくれましたので。
ただ、見ている間は辛かったです。
さて、「発明家V.S.宣教師」ということを書きましたが、映画の物語構造は、これだけでできているわけではありません。
子供の目を通した親の存在というものを描いています。
絶対的に見える親が、実は絶対的な存在ではないと分かっていくという過程です。
この映画は、主人公の長男の目を通して、「自分の満足のためだけに動いている」という父親の動機を次第に明確にしていきます。
そして、子供は「親が絶対的な存在ではない」と知り、一人の人間として自我を確立していきます。
そのために、映画中ではいくつかの筋書き上の仕掛けが用意されています。そして、絶対的な支配の下からの脱皮という過程を描いていきます。
その過程をいくつか書きます。
・父親の自己満足のために、遠方まで氷を運ばされる長男。
・ゲリラを撃退するために、危険で倫理的に問題のある行動をさせられる長男。
・父親が自分の信念を貫くために、嘘を弟や妹に吐いているのを気付かされる長男。
そういった過程を通して、長男は徐々に父親から離れ、一人の人間として、自分で物事を考えるようになっていきます。
映像上では主人公は父親なのですが、物語全体の枠組み(語り手として独白もある)の上では、長男が主人公になっています。
こういった二重構造を持たせるのも、一つの手だなと思いました。
この映画は、このように「絶対的な存在からの離脱」を描いています。
また、宣教師による神の信仰の強要という事実も描いています。
この映画の宣教師は非常に典型的です。「神を信じない人間は地獄に落ちる」と人々を脅迫して、人々を信仰に導こうとします。
この二つの筋書きから、「絶対的な神からの離脱」ということに意識が向いてくれればなと思わずにはいられません。
映画のラスト近くには、「絶対的な神」の正体がいかに馬鹿馬鹿しいものかが描かれていますので。