映画「我等の生涯の最良の年」のDVDを六月上旬に見ました。
1946年の作品で、監督はウィリアム・ワイラー、脚本はロバート・E・シャーウッドです。
ウィリアム・ワイラーは、「ミニヴァー夫人」(1941)や、「ローマの休日」(1953)、「ベン・ハー」(1959)の人です。
故郷が同じ三人の帰還兵が、町に帰って暮らす様子を描いた作品です。
この作品は、リアリティーを感じさせる作品でした。
そういったことを感じさせるのは、1946年という年から、それがその当時の人々にとって“身近な話”だったからというのが大きいと思います。
それともう一つ、三人の内の一人、傷痍軍人ホーマーの存在が大きいと思います。
この登場人物は両腕が義手なのですが、どう見ても本当に腕がないです。そして、時代を考えるとCGではありえません。
後で調べてみましたが、本当に義手でした。
本職の俳優ではなく、この人の姿をテレビで見た監督に一本釣りされたようです。
細かな話などが妙にリアルだったのは、こういった部分を積み重ねているからなのだと思います。
劇的に盛り上がって面白いタイプの作品ではなかったですが、時代を感じるという意味で楽しむことができる作品でした。
以下、粗筋です。(ネタバレが重要な映画ではないので、後半直前まで普通に書きます)
太平洋戦争が終結した。
三人の軍人が同じ飛行機で故郷に帰ることになった。空軍の士官だった若者、陸軍の軍曹だった壮年の銀行家、そして海軍で両腕を失った青年だ。
彼らは意気投合する。そして、故郷に到着し、それぞれの家に戻る。
空軍の士官だった若者は、軍では高給取りだったが、戦争前の元の社会ではソーダ売りの青年にしか過ぎなかった。彼の妻は、夫の稼ぎがなくなったことに失望する。
傷痍軍人である青年は、周囲が自分に気を使いすぎることで苛立ちを隠せない。婚約者は何とか彼の力になりたいと願うが、彼は心を閉ざす。
銀行家は家族の元に戻り、妻と娘を連れて町に酒を飲みに行く。酔っ払った銀行家に、妻と娘は手を焼く。
銀行家は、一軒の酒場に立ち寄る。そこは、傷痍軍人の青年の叔父が経営する店だった。
そこで三人は再開する。そして、そのことが切っ掛けで、空軍の元士官と、銀行家の娘は恋に落ちる。
銀行家は仕事に戻る。彼に任された仕事は、帰還兵たちへの貸付だった。彼は、戦争に行った者とそうでない者の間に温度差を感じながら仕事をこなす。
そういった中、空軍の元士官は次第に自分の居場所を失っていく。妻との不和、そして、社会への不適合。
彼は家を捨て、新天地を求めて出発する。そして、その途中、原野に大量に廃棄されている爆撃機の解体現場に紛れ込む……。
映画としては普通に面白かったです。
あとは、ヒットの要因は時代性だと思います。今目の前にある問題を取り上げていることが、大きな関心を生んだのだと思います。
それと、終盤の爆撃機の解体現場の遠景は圧巻です。延々と爆撃機が並んでいます。これは、全部本物なのだろうかと疑問に思いました。それぐらいたくさん並んでいました。
この映画を見て感じたのは、軍隊社会と通常社会の二重構造です。
日本の戦前の話などを読んでいますと、軍隊というのが、いかに底辺から効率的に這い上がるのに有効な場所だったのかと感じさせられます。
実際に、能力さえあれば、国に金を貰いながら勉強して昇進できる場所です。
そこは身一つで成功できる、身分社会の数少ない突破口だったわけです。
そういったところで身を立てた主人公が、徴兵が終わり、魔法が解けたように無職になる。
軍人の頃の彼に満足していた妻は失望する。
主人公は、軍隊で成功し、軍隊という社会の存在で転落した人間です。
底辺の人間がこういった社会で成功を維持するには、職業軍人として一生を捧げるぐらいしかないのだろうなと感じさせられました。
そういったことを考えながら、いろいろと身分社会や、昨今の格差社会について思いを巡らせながら見ていました。
こういった社会の二重化は、近々日本でも起こるかもしれないことですので。