映画「ゾラの生涯」のDVDを七月上旬に見ました。
1937年の白黒映画で、監督はウィリアム・ディターレ。脚本はノーマン・ライリー・レイン他。
系統としては裁判系です。
フランスの文豪ゾラが、晩年に軍の不祥事を暴いた「ドレフュス事件」(冤罪事件)を中心に扱った映画です。
□Wikipedia - ドレフュス事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83...□Wikipedia - エミール・ゾラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82...
映画は面白かったです。
そして、軍部が力を増すと起こる腐敗を、まざまざと見せ付けてくれました。
軍部は言論を弾圧し、無罪の人間を体面を守るために有罪にし、その証拠を捏造し、裁判になると軍に不利な行動をことごとく禁止し、反論を封殺していきます。
世論が言論弾圧に向かいつつある昨今、見ておいてよい映画だと思います。
話は少し飛びますが、今読んでいる三島由紀夫のエッセー集「三島由紀夫の美学講座」(編:谷川渥)に、言論弾圧に関する興味ある記述があります。
「政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これをカムフラージュするために、道徳的偽装がとられ、あわせてエロティシズムや風俗一般に対する規制が行われるのが通例である」
(五十四ページから五十五ページの一文を引用)
まさに最近の日本はこういった状態です。
本映画でも、軍部の攻撃は、ゾラの書く反体制的な文章だけではなく、娼婦を主人公にしたエロティックな文章にまでおよびます。
この符号の一致は興味深いです。
政治的弾圧と、風俗への弾圧は、人々をすり潰す戦車の両輪であることを理解しておいた方がよいです。
“青少年のため”などと、一見口当たりのよいことを言っている人も、それに迂闊に賛同してしまっている人も、歴史的に繰り返されている事実を認識しておくべきです。
以下、粗筋です。(中盤ぐらいまで書いています。ネタバレ的なことはありません)
ゾラは、画家のセザンヌと共同生活を送っていた。二人は貧しかったが、芸術に生きることを誓い合っていた。
ゾラの書く文章は、反体制的でで軍部から目を付けられていた。だが、彼は自分の目指す道を曲げようとはしなかった。
時代が経ち、ゾラは成功した。彼は豪勢な館に住み、残りの人生を謳歌しようとしていた。
彼の許にセザンヌがやって来て、絶交を告げた。セザンヌは、守りに入ったゾラを糾弾し、去っていった。
これまで散々苦労した。残りの人生を気ままに生きて何が悪い──。
ゾラはそう考える。
その頃、一つの事件が起こる。軍の機密情報を流した罪で、ドレフュスという軍人が裁判で有罪を受けたのだ。
ドレフュスは、無実を訴えていた。だが、異常な愛国心の高まりの中、彼の主張は聞き入れられず、島流しに遭う。
ドレフュス事件を調べ、無実を報告した将官も遠方に飛ばされた。
軍の首脳部は、軍の面子を守るために、ドレフュスの冤罪を黙殺した。
ドレフュスの妻は、ゾラに助けを求める。民衆のために戦ってきたゾラならば、立ち上がってくれると思ったからだ。
だが、ゾラはその助力を断る。
ドレフュスの妻は、失意の下、無実の証拠となる資料を残していく。ゾラはその資料を見て、ドレフュスの無罪を知る。
彼は新聞にドレフュスの無実を主張し、軍を弾劾する記事を載せる。
軍はゾラを訴える。そして、軍部対ゾラの裁判が始まった……。
ともかく、裁判は腐っています。
司法が完全に軍部の言いなりです。
裁判所には多数の軍人が入り、席を占領し、ゾラに対する野次と、軍部を称える言葉を叫びまくります。
証拠のほとんどは「軍事機密」を盾に出しません。自分に不利な論点は全て裁判官を通して、封殺します。
軍の腐敗も凄いですが、司法の腐敗も酷いです。
司法が全く機能していません。
社会は、少し目を離すと、すぐに腐敗してしまうという事実を目の当たりにできます。
あと、“愛国心”というものが、いかに民衆を甘美に酔わせ、思考能力を奪ってくれるのかも理解させてくれます。
軍部は、民衆を扇動するために人を派遣するのですが、人々は凄い勢いで踊らされます。
数年後には、こういった状態になる可能性があるということを理解するためにも、こういった歴史は知っておいた方がよいと思います。