映画「ピグマリオン」のDVDを七月下旬に見ました。
1938年の白黒映画で、製作国はイギリス。監督はアンソニー・アスクィス。原作脚本はジョージ・バーナード・ショウです。
タイトルからはギリシア神話の映画かなと思っていたのですが、全く違いました。
確かに映画冒頭で「この物語はギリシア神話のピグマリオン伝説を元にした」という紹介が出ます。
でも、始まると、舞台はロンドンです。
そして、物語が始まるとぴんと来ます。
「これって、マイ・フェア・レディじゃ?」
そうです。有名なミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」(1964)の原作映画がこの「ピグマリオン」です。この事実は後で知りました。
ちなみにこの数日後に「マイ・フェア・レディ」も見たのですが、かなりの部分の台詞がそのままで、思わずニヤニヤしてしまいました。
しかしまあ、ギリシア神話のピグマリオンの話が、「マイ・フェア・レディ」に化けていたとは知りませんでした。古典はきっちりと抑えておかないといけないなあと思いました。
ちなみに「ピグマリオン」は96分。「マイ・フェア・レディ」は173分。個人的には、「ピグマリオン」の方が日本人向けだなと思いました。差分は歌って踊ってのシーンですので。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。有名な話なので気にしないでいいと思います)
主人公は言語学者。彼は英語の発音を聞けば、住んでいる場所を言い当てられる能力を持っている。
彼はある日、町の花売りと一悶着する。そして、成り行きから、彼女に上流階級の英語を教えることになる。
彼は、友人のインド帰りの軍人と賭けをする。
彼女に上流階級の英語を仕込み、社交界で人々の目を欺けるかどうかというものだ。
主人公はそのためにスパルタ式の特訓をする。
彼女は最初上手く上流階級の英語をしゃべれなかった。だが彼女は天性の耳を持っていた。彼女は徐々に上達する。
そして社交界に出て、見事周囲を騙し通すことができる。
賭けに勝った主人公は女性を御祓い箱にする。
だが、彼女がいなくなり寂しくなった主人公は、彼女に戻ってきて欲しいと思う。だが、素直でない主人公は上手くそのことを言えない。
しかし最後に折れて、彼女に戻ってきて欲しいと頼み込む。
さて、この映画で一番印象に残ったのは、言語の住み分けです。
階級固定社会では、人の流動が少ないために、人間は小集団に分かれ、様々な方言的な言語をしゃべるようになります。
これらは、人間の流動が激しくなるか、教育が普及するか、マスコミュニケーションが発達するまで続きます。
こういった状況はイギリスだけではなく、日本でもそうでした。
最近、スティーヴン・J・グールドの「人間の測りまちがい 差別の科学史」という上下巻の本を読みました。
(スティーヴン・J・グールドは、カンブリア大爆発の証拠となるバージェス頁岩の発掘を綴った本「ワンダフル・ライフ」で有名な古生物学者)
頭蓋骨測定や知能テストを使って、人間の差別を科学が正当化してきた歴史を綴った本です。
この本では、差別への糾弾、無条件の科学信奉や科学者信奉への警鐘、科学には偏見が付きまとうという危険性の紹介をしています。
映画を見た後、この本を読んだのですが、私はこの映画に、イギリスで最近まで行われていた階級による教育差別の実態を重ねあわさずにはいられませんでした。
貧乏人には低級の教育を与え、上級の教育を受けられないようにし、富裕層のみに上級の教育を与えるという政策です。ついこの間(前世紀)まで行われていたようです。
階級の固定化は、その階級間の言語の断絶で象徴されるように「コミュニケーションの断絶」を招きます。
そのことは、違う階級の人々を「人間」として見られなくなる社会を作り、さらなる格差の拡大を招きます。
教育のボトムアップと、人材の流動性の確保と、子供に経済的なツケを払わせない社会制度の構築が大人の仕事だと痛切に感じました。
だいぶ話が逸れたので戻します。
映画はなかなか面白かったです。
そして、「マイ・フェア・レディ」と比べると、映画をミュージカルにする上でどういった部分を追加したのかが分かって面白かったです。
でもまあ、「マイ・フェア・レディ」の173分は長過ぎだと思います。30分足して120分程度にするのがよかったなと思いました。