映画「ディア・ハンター」のDVDを八月下旬に見ました。
1978年の映画で、監督はマイケル・チミノ、脚本はデリク・ウォッシュバーンです。
183分の長い映画で、主演はロバート・デ・ニーロです。
この映画の感想を書く前に、時代関係を把握するための年表をまとめておこうと思います。
年表はWikipediaより抜粋です。
□Wikipedia - ベトナム戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83...□Wikipedia - ベトナム戦争を扱った映画
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83... 以下、最初の行はベトナム戦争で、それ以降はベトナム戦争を扱った映画で私が見たものです。
1959〜1975年 ベトナム戦争
1978年「帰郷」
1978年「ディア・ハンター」
1979年「地獄の黙示録」
1982年「ランボー」
1986年「プラトーン」
1987年「グッドモーニング, ベトナム」
1987年「ハンバーガー・ヒル」
1987年「フルメタル・ジャケット」
1989年「7月4日に生まれて」
1994年「フォレスト・ガンプ/一期一会」
この中でベトナム戦争映画の重要な転機となったのは「プラトーン」だと言われています。
本当のベトナム戦争がありのままに描かれたという意味です。
つまりそれまでは、ベトナム戦争の「戦場」は映画の世界でリアルに描写されていなかったということになると思います。
そういったことを如実に感じるのは、同じ1978年の映画である「帰郷」と「ディア・ハンター」です。
「帰郷」は、戦争から帰ってきた後の人が中心の話です。傷痍軍人と、軍人の妻が話を牽引していきます。
つまり、ベトナム戦争の映画ではあっても、ベトナムを描いた作品ではないということです。あくまでもアメリカの中の話です。
もう一方の「ディア・ハンター」はベトナムを描いています。しかし、この作品も「帰郷」と同様にアメリカの映画です。
以下、そのことについて書いていこうと思います。
以下、物語について触れるので、ネタバレが嫌な人は見ないで下さい。
本作品は、田舎町からベトナム戦争にいった友人たちが、それぞれぼろぼろになり、戦争に参加した末の結末に至るという物語です。
この映画は、大きく四つの部分に分けられます。
1.出征(友人の結婚式)
2.ベトナム戦争(捕虜になり、ロシアンルーレットを強要される。トラウマの誕生)
3.帰国(トラウマを引きずる)
4.ベトナム再訪(トラウマから戻れた人、戻れなかった人。友人の葬式)
この中で、ベトナム戦争を直接描いているのは2の場所です。
しかし、ここの中心となるのは戦争ではありません。戦争の一部ではあるのですが、戦闘の直接の描写ではありません。
主人公たちは敵の手に落ち、賭けの対象としてロシアンルーレットを何度もさせられます。
映画ではこのロシアンルーレットが反復要素となり、登場人物たちのトラウマの醸成や狂気への傾倒の表現手段となります。
これはこれで演出的に上手いなと思うのですが、「プラトーン」以降の戦争描写を見ている私たちには「ベトナム映画でなくてもいいんじゃないの?」と思ってしまいます。
ベトナム戦争と言えばイメージする「泥沼感」や「焦燥感」がいまいち足りないと感じさせられます。
また、タイトルの「ディア・ハンター」にも少し疑問が残りました。
この映画を知る前、何の予備知識もない時には、この映画は「鹿狩り」の話なのだろうと思っていました。
まあ、本を読んだりしてこの映画を知った後は「ベトナム戦争」の話だと知識を得たのですが。
その「ディア・ハンター=鹿狩り」なのですが、この映画では友人たちの閉じた人間関係の象徴として出てきます。
戦争前に一回、戦争後に一回。その対比で、戦争に行った主人公の内面が変わった様子が描かれます。
この「鹿狩り」に対して、「別に鹿狩りでなくてもよいのでは?」と思いました。
たぶん、これは私が日本人だからであり、向こうの人にとっては何か精神的な意味があるのだと思います。
そう思う根拠は、映画の冒頭で、鹿狩りに対する迷信を主人公が語るからです。
つまり、そういったことをわざわざ口にするというのは、「鹿狩り」という行為が、精神的な意味合いを持っているからだと思います。
こういった台詞があるのは、「アメリカも広いので、きっと鹿狩りのそういう意味を知らない人もいるだろうから」という配慮だと思うのですが、本当のところはどうなのか分かりません。
映画は構成的にはよくできていました。
その部分を列挙します。
・序盤の結婚式と、終盤の葬式の対比。
・ロシアン・ルーレットというトラウマの創出とその反復。
・鹿狩りというプライベートな仲間空間の創出と、その比較による内面変化の浮き彫り。
・出兵前と帰国後、戦場とその再訪という、同じ場所の時間軸の違いによる内面の対比。
ただ、これらの構成要素は代替可能なものであると私には感じました。そして、ベトナム戦争である必然性も強くは感じませんでした。
そのため、私にはこの映画はベトナム戦争としてのリアリティは薄いと感じました。
たぶん、一番強くそう感じたのは、「ベトナム戦争」という恐怖を直接表す代わりに、「捕虜になり、ロシアンルーレットを行う」という恐怖を宛がったことだと思います。
話としては、なるほどと思うことが多かったですが、ベトナム戦争としては足りないと感じました。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。終盤の直前まで書いています)
主人公は、アメリカの工業系田舎町に住む労働者。彼は友人たちとともにベトナム戦争に行くことを決める。
彼とともに出征する友人は結婚式を控えていた。主人公は友人たちと結婚式を楽しみ、出兵前の最後の鹿狩りに行く。
友人たちの全てがベトナム戦争に行くわけではなかった。その鹿狩りは、死別する可能性を秘めた友人たちの間で、最後になるかもしれない鹿狩りだった。
主人公には、一人の思いを寄せている女性がいた。しかし、彼女は他の友人と相思相愛だった。
主人公はベトナムに入る。そして敵軍の捕虜となる。そこには故郷の友人たちもいた。捕虜の彼らは、敵兵たちの賭けの対象としてロシアン・ルーレットを強要される。
強運で生き残り続けた主人公は、三発の銃弾を詰めさせ、その銃で反撃を試みて敵の手から逃れる。
主人公は、救い出した友人たちとともに河を下って米軍の許まで行く。だが、その途中で生き別れる。
主人公は、強烈な死のトラウマから、ベトナムの町で行われているロシアン・ルーレットの闇賭博場に通い、金を賭ける側に回る。
彼はそこで、生き別れた友人が拳銃を頭に突き付ける側に回っているのを見る。
その友人は、主人公が思いを寄せる女性と相思相愛だった。彼はベトナムの闇に消え、主人公は帰国することになる。
帰国した主人公は思いを寄せていた女性の許に行く。そして、彼女と傷を舐め合うようにして暮らし始める。
彼は戦争に行かなかった友人たちと再び鹿狩りに行く。しかし、以前とは同じ気持ちになれない自分に気付く。
主人公の中では、帰国してからずっと、ベトナムに残る友人の影がちらついていた。
そんな折、出征前に結婚式を挙げた友人に主人公は会う。その友人は、足を負傷し、車椅子生活となり施設に入っていた。
彼は主人公に語る。毎月、謎のお金が送られてくると。主人公は、ベトナムの友人が生きていることに気付く。
そして、兵士ではなく、一個人として再びベトナムに足を運ぶ……。
粗筋をざっと書いて、脚本のプロットが非常に整理されていることに気付きました。
よくできている脚本には二つの方向性があります。
情報や人物の動きが錯綜していて、それが緻密な歯車のようにぴたりとはまるタイプの脚本。
もう一つは、骨太な骨格があり、その骨格に筋肉質の肉が付いているタイプの脚本です。
この映画は後者だと思います。
話としてはよくでいていると思いましたが、「ベトナム戦争映画」という点で、物足りなさを感じる作品でした。