映画「イーグル・アイ」を劇場で、十月中旬に見ました。
2008年の映画で、監督はD・J・カルーソー、脚本はダン・マクダーモット、製作総指揮はスティーヴン・スピルバーグです。
何か見ようと思って劇場に行って、タイミング的にこの映画の時間がちょうどよかったので見ました。
以下、ネタバレ的なことを交えて感想を書きます。
ネタバレ的な部分が、完全に嫌な人は読まないで下さい。
プログラムでは、同じくスピルバーグの「マイノリティ・レポート」と比較されていました。「なるほど、比較したくなるのも分かるな」と思いました。
なぜならば、この作品のアイデアの根幹は、人間を管理・監視するレベルの超頭脳だからです。
「マイノリティー・レポート」では、未来予知を行う超能力者を使った「予言システム」が、「人間が作った」「人間の上位の存在」でした。
対して、この「イーグル・アイ」では、超盗聴を行う人工頭脳が「人間が作った」「人間の上位の存在」となります。
そういった意味で、比較するのは、よく分かるなと思いました。
このパターンの話は、過去から何度も繰り返されています。
では、この「イーグル・アイ」が、これまでの同系統の物語とどこが違うかと言うと、「現実で使える技術でそれを実現したこと」だと思います。
プログラムのインタビューでスピルバーグは、以下のように語っていました。
「最初に原案が出た時点では、『現実の技術が追いついていない』ために荒唐無稽過ぎたが、『今ならできる』と思ってGoサインを出した」
つまり、出てくる仕掛けのほとんどが、既存技術とハッキングでできるものです。(いくつか、それは無茶だろうというのはありますが、基本的には「組み合わせれば無理じゃない」というのが多いです)
この作品では、物語の焦点が「超頭脳」ではなく、「その目や耳や手」に当てられています。
バックにいる何者かの「頭のよさ」を楽しむのではなく、バックにいる何者かの「現実への干渉具合」が娯楽のポイントになっています。
そういった意味で、私は前述の「マイノリティー・レポート」よりは、寺沢武一の代表作の一つ「ゴクウ」(1987〜)を思い出しました。
この「ゴクウ」という作品は、左目に小型コンピューターを埋め込まれた主人公が、そのコンピューターから接続している謎のマザーコンピューターを通して、ハッキングで現実社会に干渉しながら、アクションをしていくというものです。
この「イーグル・アイ」と、アクションのコンセプトが非常に似通っています。
(「ゴクウ」は、非常によくできた作品なので、未見の人は読むと面白いと思います)
□buichi.com - ゴクウ
http://www.buichi.com/works/goku/index_goku.html
□Wikipedia - ゴクウ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%AF%E3%82%A6
「ゴクウ」と「イーグル・アイ」の最大の違いは、その「超ハッキング能力」を振るうのが、主人公か、主人公をコントロールしようとしている第三者かという点です。
「イーグル・アイ」では、謎の存在が「超ハッキング能力」を駆使して、主人公とヒロインに、無理矢理何かの仕事をさせようとします。
映画の前半では、その「何か」は明かされず、さらに「なぜ彼ら」なのかも明かされません。
しかし、主人公とヒロイン、そしてアメリカ全土の各地で、「何か」が進行していきます。
そのそれぞれは、ハッキング能力が高い人なら実現不可能ではないと思わせるものです。
ただ唯一の違いは、その手数が多いことと、情報入手の網が非常に広いことです。
端的に言うと「エシュロン」の超強化+人工知能版です。
□Wikipedia - エシュロン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%B3
後半は、「何か」の謎が明らかにされ、「なぜ彼ら」なのかも明らかにされ、主人公が、その「何か」に対してカウンターのアクションを取ります。
映画的には、よくできていると思う部分と、わずかに足りないと思う部分がありました。
よくできていると思う部分は、二点です。
・アクション
これは、非常によくできています。
謎の存在は、主人公たちに強制的に行動を取らせるために、「行動を強要」しながら「行動を手助け」します。
主人公たちにプレッシャーを与えて、他の行動を取れなくするように追い詰めながら、彼らがその行動を取る際に障害となる警察などを、凄い勢いで迎撃していきます。
この、圧力主義とでも言うような、有無を言わさないアクションの連続が圧巻です。
これでもか、これでもかと、畳み掛けるようにアクションが続いていきます。
・感情の誘導
映画自体は「行動の誘導」で動いていくのですが、主人公が終盤の行動を取るための「感情の誘導」もきちんと描かれています。
そのため、「序盤は流されているだけの平板な人物」だった主人公が、徐々に「立体的な人物」になっていきます。
その結果観客は、話が進むにつれて感情移入できるようになっていきます。
ここら辺がきっちりと行われているために、圧力主義の映画でありながら、後半は情緒的な膨らみを持ちつつ、主人公の反撃に共感できるようになっています。
わずかに足りないと思う点は、二点です。
・時々、因果関係があやふや
「Aのために、あらかじめBをやる」という因果関係に対して、「それおかしくない?」と感じる部分があります。
厳密に見れば合っているのかもしれませんが、アクション系映画なので、そんなに観客は厳密に見ないと思うので、「初見でそう感じた」ということは、何か「見せ方が間違っている」可能性が高いです。
一番そう感じたのは、軍用飛行機に乗り、高気圧でも耐えられる薬を打った時です。
「命懸けでAをゲットした。Bという予定だったが、Cになった。大丈夫、Aがあるから、Cの障害は取り除ける」というプロットです。
これは、Aを入手する理由が間違っていると思います。ここが一番違和感を感じました。
・ヒロインをさらった理由が曖昧
謎の存在が「主人公を自分の許までやって来させた理由」は、非常に納得がいくものでした。しかし、「ヒロインも一緒に連れてきた理由」がかなり弱かったです。
謎の存在自身が、ヒロインに対して、「あなたがここに来るのは特に重要じゃなかった」と言っていますし。
これは、いかがなものかと思いました。
そういった感じで、プラスもあるけど、マイナスもあるといった感じの映画でした。
あまり深く考えずに面白いアクションを楽しむという点では、特に問題はないと思いますが、陰謀物なので、その部分に弱さが見えるというのは欠点だとも感じました。
基本的に水準以上の映画なので、普通に楽しめると思います。
私は個人的には、「人間の作った超存在系のSF物」として、「その古典的話をどう見せてくれるか」という部分に注目して見ました。
可能な限り現実のラインでそれを実現しようとしているので、現実社会が凄くなったなと感じました。
以下、粗筋です。(序盤のみ書きます)
主人公はコピー屋で働く冴えない男。ある日、彼の双子の兄が死んでしまう。兄は、空軍にいた優秀な人間だった。
その直後、主人公の家に、武器弾薬が送りつけられ、女性からの謎の電話が入る。電話は彼に「逃げろ」と言う。
だが、何がなんだか分からない主人公はその場に留まり、FBIに捕まってしまう。
主人公は、身に覚えのない、テロリストの容疑を掛けられる。
そんな彼に、再びコンタクトが入る。謎の存在は、主人公のいるビルを破壊し、彼に逃げる道を作り、追い立てる。
何が何だか分からずその指示に従う主人公。全ての指示は、携帯電話や電光掲示板などの電子機器を通して行われる。
反発を覚えて、違う行動をしようとすれば、周囲の人間の携帯電話にメールが入り、主人公の命を危険にするような情報が与えられる。
主人公は、嫌々指示に従い続ける。
その頃、同じように指示を受けている女性がいた。彼女は息子を人質に取られ、わけも分からず命令を受け続ける。
二人は、指示に従い合流し、目的の分からない旅に出発する。彼らは、警察やFBIの追跡から逃れながら、ある場所へと向かう。
やっぱり、どう見ても「ゴクウ」を思い出すよなと思いました。
ちなみに、「ゴクウ」は実家に置いてあって、何度も読み直しています。
現実社会への干渉の仕方の表現が似ているので、どうしても気になってしまいます。