映画「カヴァルケード」のDVDを十月上旬に見ました。
1933年の映画で、監督はフランク・ロイド、脚本はソニア・レヴィーンです。
カヴァルケード(Cavalcade)というのは、聞きなれない言葉なので調べてみたのですが、以下のような意味のようです。
□英辞郎 - Cavalcade
http://eow.alc.co.jp/Cavalcade/UTF-8/?ref=sa1.〈フランス語〉騎馬{きば}[馬上{ばじょう}]行進{こうしん}、車上{しゃじょう}[馬車{ばしゃ}]パレード
2.〈フランス語〉〔通例華やかな人や出来事{できごと}の〕一続き{ひとつづき}、オンパレード
allcinemaで調べてみると、「大帝国行進曲」という邦題が付いていました。まさにそんな感じの作品でした。
□allcinema - 大帝国行進曲
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=51258
この映画は、ある家族が年月を経ることを通して、その国の歴史の流れを紹介するというタイプの映画です。
場所は英国で、時間は1900年(第二次ボーア戦争)の元旦から、1932年の大晦日までの時間を扱っています。
ちなみに、第一次世界大戦は1914年〜1918年、第二次世界大戦は1939年〜1945年です。
1933年の1月30日に、ヒトラーが独首相に就任して、ナチスが政権を獲得をしているので、その直前まで(第二次大戦の時代の直前まで)を描いているという感じです。
まあ、1933年の映画なので、必然的にそれ以降の時代は描けないのですが。
あと、ボーア戦争について、名前以外の記憶がほとんどなかったので調べました。イギリスと、オランダ系ボーア人が南アフリカの植民地化を争った戦争でした。
□Wikipedia - ボーア戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D...
映画は、この手の映画に定番の構成で、歴史的イベントが盛りだくさんになっています。
また、この時代のイギリスが舞台なので、階級意識の時代による変遷が一つの重要な要素になっています。
タイタニック号の話も出てくるのですが、甲板の一シーンだけで、「タイタニック」(1997)を見た後の世代としては、物足りなさを通り越して、「すごい端折っているな」という印象が強かったです。
映画としては、基本的に歴史をたどるだけで、物凄いドラマ性が高かったり、謎があったり、アクションがあったりするわけではないので、まあこんなものだなという感じでした。
さて、この映画で一番注目して見た表現部分があります。
それは、「戦争の描写」です。
様々な時代に作られた映画を見る上で、比較対象として見るべきだと私が思っているポイントがいくつかあります。
例えば、初期の白黒映画だと、シーンの繋ぎ方が、最新の表現とどのように違っているか。
時代ごとに、女優として好まれる女性の顔や体型がどのように変遷していったか。
そういった様々なポイントの中でも、私が重要なポイントだと思っているのが「戦争の描写」です。
「戦争の描写」は、時代が進むにつれ、新しい描写方法が重要な作品中で提示され、それ以降、描写が大きく変わります。
こういった大転換の典型例は、「プライベート・ライアン」(1998)です。
比較がしやすく、予算がそれなりに掛けられる部分(客に対する売りになる部分)なので、私は毎回注目しています。
この「戦争の描写」なのですが、時代をさかのぼっていくと、驚くほどチープになっていきます。
予算云々以前に、まだ「臨場感のある表現方法が発明されていない」という、文化史的理由の方が強く感じます。
特に白黒映画の初期の方になると、大規模戦闘シーンの表現力が格段に落ちます。
ジオラマのような戦場の上で、人がまばらにいる様子を、斜め上から俯瞰して撮るだけといった感じになります。
それだけでなく、平べったい板のような戦場で、ドカンドカンと爆発があるだけといった状態になります。
これは、表現技法だけでなく、機材の発達の問題もあると思います。戦場の内側で、臨場感を持って撮影するには、そういった機械やノウハウも必要になってくるからです。
そういった初期の白黒映画の戦場シーンで、何度か見かけた表現方法を、この映画では使っていました。
これは、予算的にだいぶ安上がりに済む方法です。
そして、現代の人間が見ると、あまりにもしょぼくて泣けてくる表現手法です。
それは、「行進している兵隊を近景で撮り」、そこに「爆発シーンなどを半透明で重ねて」、「戦場です」「戦争しました」と言い切る方法です。
戦争がメインの映画では使えない手法ですが、歴史の流れを描く系の映画ではよく見ます。
本作では、この手法が多用されていて、ちょっとげんなりしました。
まあ、そういった時代の作品なので、仕方がないのでしょうが。
本作は、映画としては、それほど面白いものではありませんでした。
このタイプの映画には二種類あります。「その場所とその時代を知っている人を楽しませるための映画」と「その場所とその時代を知らない人を楽しませるための映画」です。
この映画は前者だと思いました。1933年の作品で、1900年から1933年を描いているわけですから。
なので、私の中に前提知識がなかったので、それほど楽しいものではありませんでした。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。最後まで書いています)
ある上流家庭の夫婦には二人の息子がいた。1900年の元旦に、彼らはこれから来る新世紀に思いを馳せていた。
だが、彼らが年を取る1932年までの時代は「多難」と言うに相応しかった。
ボーア戦争や第一次世界大戦。タイタニック号の沈没もあった。
彼らや、その子供たちは、時代の荒波に飲み込まれる。彼らの息子の一人は、タイタニック号の事故で死亡する。
同じ頃、夫婦の家にいた召使い夫婦は、独立して酒場を構える。彼らの娘は、有名なダンサーに育つ。
夫婦の息子は、元召使い夫婦の娘と恋に落ちる。
だが、その恋が成就することはなかった。夫婦の息子は戦死してしまう。
結局、夫婦は子供を全て失って老境に至る。彼らは、自分たちの人生を振り返る。
たぶん、世界全体で共通する「近代の意識」なのだと思いますが、「お国のために、進んで戦争に行く」というのがこの時代の人物描写でよくあります。
これは、近代的な価値観だと思います。
現代では、ちょっと違うと思いますので。
しかし、時代と時代意識は直進するとは限らないので、こういった時代もまたやって来るのかもしれません。
そういう時代が来なければよいのですが。