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http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081205/1228472025
2008年12月06日 02:17:33
 ちょっと色々と思ったのでメモ。

 以下、戯言です。

 たぶん、リンク先の文章にもあるように、若い人はネットで無料で手に入るようなものに、お金を払うような文化は馴染まないのだと思います。そして、嫌儲だというのも分かります。

 でも、嫌儲自体は昔からありました。うちは商売人の家ですが、それでもそういった部分があったので分かります。

 これは、日本社会の歴史的経緯だと思います。世界的に見ても、その路線だと思います。貨幣経済の勃興で、痛い思いをした人の方が多いと思いますので。

 その経験が道徳的価値観として、そういった考え方を形成したのだと思います。

 でも、今の若い層の嫌儲は、私の世代の歴史的経緯からの道徳的嫌儲とは違い、習慣性の嫌儲だと感じています。

 普段、お金を払っていないことにお金を払うことへの拒否感というわけです。



 最近考えていることに「パトロンのいなくなる時代」という話があります。

 文化(ここでは、コンテンツ的な意味あい)は、基本的に余剰生産物です。

 時にそうではないように見えるゴッホのような人もいますが、飢え死にしない程度に食えて絵を描いているので、基本的には余剰生産物です。

 この「余剰」が構築されるのには、いくつかのパターンがあります。

 社会の人全員が余剰リソースを持っていて、個別にその時間を運用するケース。

 王侯貴族などの富を集約した人間が、その余剰リソースを他者に付与して文化を行わせるというケース。

 その変形で、企業や資産家が民衆の余剰リソースを集めて、文化活動を行わせるといった、資本主義社会のケース。



 この資本主義社会のモデルの前提にあるのは、「流通には金が掛かる」という事実です。

 その理由について少し触れます。

 王侯貴族のケースと、資本主義のケースには大きな違いがあります。それは、文化の受容者です。前者は王侯貴族で、後者は民衆です。

 つまり、資本主義社会では、いったん集めたリソースでできた完成品を、民衆に再配分する必要があります。

(現象から言うと、コンテンツを作った後に流通させて、人々からお金を取っているのですが、リソースの流れとしては、集めて再配分の方が分かりやすいので、こう書きます)

 この時、再配分のために流通が必要になります。

 資本を持っている人は、この流通を構築するのにコストを掛けることで、多くの人々の余剰リソースの上前をはねることができます。

(それ以外の方法で収入を得ている人は、資本主義社会では、流通構築者に養ってもらっている立場の人になります)



 インターネットは、この資本主義のモデルを減退させます。

 流通のコストが劇的に下がることで、流通構築のために余剰リソースを集約させる必要(資本家が介在する余地)がなくなるからです。

 その結果、集約再配分型のビジネスは、昔ほど簡単ではなくなりました。

 それでもまだ、集約再配分(流通)の根っこを握ると、資本主義社会では相変わらず強いです。

 最近だとアップルが、そういうビジネス(iTunesやiPhone)で成功しています。

 流通の根っこを握るのは資本主義の基本なので、それに成功すると強いです。



 話をインターネットに戻します。

 インターネットの登場は、集約再配分の不要な文化モデルを人々に普及させました。流通にコストが掛からなければ、集約再配分は必要ないので。

 だから、みんなのお金を集めて文化をするのではなく、個人が個人の範囲で文化をする。

 インターネット登場以降、文化は、こういった分散型の余剰リソースの使い方に転換していっていると思います。



 人間社会は、割と長い世代の間、余剰リソース集約型の文化活動を行ってきました。

 資本主義という形での集約の仕方、君主制や王政といった形での集約の仕方。その方法は色々ありますが、集約型だった期間は結構長かったです。

 これらの前提は、「文化にはリソースが掛かる」ので、「余剰リソースの集約が必要だ」ということにあります。

 過去の時代においては、「文化=モニュメント」的な部分があり、人々の趣味嗜好もあまり多様化していませんでした。

 そういった前提から、文化活動をする誰かと、余剰リソースを提供する誰か(複数人の場合もあり)がいるといった「パトロン」型の文化モデルを、人間は築いていました。

 しかし、インターネット登場以降、人々の趣味嗜好は劇的に多様化しました。

 そうなると、共同出資的にリソースを集めてモニュメントを作る必要もなく、個々の嗜好を満たす小さなものが求められるようになってきました。

 つまり、この意味でも、集約再配分の文化モデルは瓦解しつつあると思います。



 私がこの十年、よく口にする台詞で、以下のようなものがあります。

「本当は大口出資のパトロンについてもらって創作活動をした方がいいんだけど、そういったパトロンがいないので、自分自身が自分のパトロンになっている」

 自分が作りたい物を自由に作るために、自分自身が金を稼いで余剰リソースを作り、パトロン的に自分に投資しているといった意味です。



 そういったスタンスで活動をしていて思うことなのですが、「他人」という立場のパトロンは、この先崩壊していくんじゃないかという気がします。

 余剰リソース集約型の文化活動は、相当縮小すると思っています。

 流通コストと複製コストと制作コストが下がり、それらが限りなくゼロに近付くと、人件費だけが残ります。

 この人件費は、創作活動を行う人が、個々の余剰リソースで賄うような状態になっていくのではないかと感じています。



 また、時代の風潮として、人件費に価値を見出さない人が増えているのも大きいと思います。

 もう一つ、人件費という意味で、挙げておかなければならないことがあります。コンテンツを見る側にも、時間というコストが掛かっているということです。

 なので、コンテンツを見る側も、決してただで見ているわけではないです。

 例えば広告などは、広告を見る人に、時間というコストを支払わせているビジネスモデルです。

 なので、お金がある人は、お金を払って広告を飛ばします。

 そういう意味で、広告で収益を得るモデルも、そのうち問題が出てくると思っています。

 インターネットで人間の活動が極端になると、お金を持っていない人が広告を見る社会になるからです。

 お金がない人に、どれだけ広告を出しても、何も売れません。



 話を人件費に戻します。

 今後の世界の流れとして、時間以上の対価を支払わせるには、人件費以上の何かがなければ難しい気がしています。

 時間の長さを気にしなければ、人件費しか発生していないという意味では、作る側も見る側も同様のコストを支払っていますので、そこに価値を見出せるかどうかは、主観でしかありません。

 その人の人生の時間に対し、自分の人生の時間(あるジャンルに掛けた時間や情熱。技能のコストも含む)よりも価値があると感じ、金を払うだけの意味があると見た人が思わなければ、そのコンテンツに金銭的な価値は発生しません。

 そして、作り手と受け手の距離が縮まれば縮まるほど、人生の時間の価値は等価になっていきます。つまり、コンテンツにお金が発生しなくなっていく。

 というわけで、どんどん、「パトロンのいない時代=文化のためにお金の動かない時代」になっていくのではないかと思っています。



 もしかしたら、余剰リソース集約型の文化は、人類の長い歴史から見ると、あだ花だったのかもしれません。

 そう思う時もあります。

 そういった集約型文化の縮小は、多くの人から少しずつお金を徴収するといった形の資本主義が廃れるといっただけで、パトロン文化自体の縮小とは違うのかもしれません。

 お金持ち(余剰資産を持っている人)向けに、複製不可能なものを売るという形式は残ると思いますので。

 コンテンツを売るというビジネスは、今後ますます難しくなりそうだなと思いつつ、まあしばらくはこの現状が続くのではないかと思っています。
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