映画「パンズ・ラビリンス」のDVDを十二月上旬に見ました。
2006年のメキシコ、スペイン、アメリカ映画で、監督、脚本はギレルモ・デル・トロです。
この監督の映画を見たのは、「デビルズ・バックボーン」(2001)に続いて二作目です。
「デビルズ・バックボーン」と同じく、スペイン内戦下を舞台にしており、悲しくも美しい、よい映画でした。
さて、この映画は、状況設定や物語の構造が「デビルズ・バックボーン」に似ています。
舞台はスペイン内戦下で、主人公は子供。そして大人の世界の入れ子構造として、大人と子供の関係が描かれている。そういった意味で、二つの映画はよく似ています。
しかし「パンズ・ラビリンス」は、より幻想色が強く、心理的に閉じた印象があります。
その理由は、主人公が女の子だということと、主人公の周囲に他の子供がいないということにあると思います。
「デビルズ・バックボーン」の主人公は男の子で、子供の集団の中で生活します。そこには社会性があります。そして、その子供の集団は、「内戦下の抵抗勢力」を象徴しています。
対して「パンズ・ラビリンス」の主人公は、夢見がちな女の子で、立場的に孤立しています。
彼女は、出産が近い母親と、その再婚相手である軍事独裁国家の指導者層である父親と一緒に暮らしています。
彼女が関係を持っているのは、基本的に「家族」だけで、「暴君である父親」は「内戦下の独裁者」を象徴しています。そして主人公は弾圧される「孤立した個人」として表現されています。
この、主人公の置かれた環境の違いが、主人公が目を向ける世界の違いになっているように思えました。
目を向ける世界が「仲間の子供たち」という「人間の集団」なのか、「幻想の世界」という「内的方向性」なのか。その違いを作っているのだと思います。
そういった意味で、「デビルズ・バックボーン」は男の子的な物語で、「パンズ・ラビリンス」は女の子的な物語だと感じました。
この映画なのですが、「デビルズ・バックボーン」もそうだったのですが、美術が非常に美しかったです。
そして、その美しさが、この映画の「悲しさ」を非常に盛り上げていました。
「悲しさ」の部分は、映画のラストシーンに関わる部分なので、ここでは書きませんが、美術については書いておこうと思います。
この映画の美術を一言で言うと、「幻想と悪夢が渾然一体となった美しい映像」です。
まず、前提として、舞台となっている古い建物の暗さと、それを取り囲んでいる森の湿っぽさが独特の雰囲気を作り出しているというのがあります。
そして、主人公の少女が分け入っていく幻想の世界は、陰鬱な森の中をイメージさせるクリーチャーたちが住む、暗く苔むした世界です。
その中で、少女が泥だらけになったり、死の危機に直面したりしながら、牧神パンから与えられたクエストをこなしていきます。
幻想の世界の方が、現実の世界よりも触覚に訴える泥臭い部分があり、これは独特な世界観だなと感じました。
この映画を見始めて最初に感じたのは、「これはおとぎ話の本歌取りだな」ということです。
幻想世界の住人であるパンが現れて三つのクエストを授けたり、主人公は幻想の王国の王女であると言ったり。そういったところから強く思いました。
また、パンが繋ぎ役というのも、正か邪か分からない怪しさを醸し出しており、古い物語の印象を強く出していました。
個人的に「そう来たか」と思ったのは、カマキリが妖精に姿を変異させていくシーンです。
あくまで現実世界の「羽根の付いた生き物」を少女が擬人化することで、「真実の世界か虚構の世界か分からない」という曖昧さを出しています。
そして、それが鳥などの「動物」ではなく、無機物的な印象を持つ「虫」であることから、少女の一方的な思い込みの可能性を強く示唆してくれています。
ただし、向こうの習俗が分からなかったので、虫を妖精と見立てる文化があるのかもしれませんが。
また、もう一点、映画の冒頭で「おとぎ話」を感じたのは、少女が石碑の目を拾い、石碑の顔にその目をはめ込むシーンです。
このシーンで思い出したのは、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」(2001)の冒頭のシーンです。
石の人形を主人公が見て、その横を通っていくことで、「境界を越えていく」という描写をしています。
これと同じように、石碑に目をはめ込んだ瞬間、「パンズ・ラビリンス」の主人公は、幻想の世界に足を踏み入れたのだと思います。
そういった印象が強く伝わってくる、よいシーンでした。
さて、映画の中身についてです。
「デビルズ・バックボーン」でも感じましたが、「パンズ・ラビリンス」でも感じた点があります。
それは、この監督は、敵役などの脇役の背景の、さりげない掘り下げが上手いなということです。
「それぞれの登場人物には、それぞれの背景や事情がある」
それを、説明的ではなく、集団の中の会話や内省的なシーンで徐々に浮き彫りにしていきます。
各登場人物は、自分ではそういったことを語りません。しかし、周囲の人の会話や、一人だけの無言のシーンや、その人物の習慣やこだわりなどで背景を上手く伝えています。
そして、今回の「パンズ・ラビリンス」で気付いたのですが、大切な伏線や内的背景の描写を、かなり繰り返して描いています。
さりげない動作の中に、同じことを繰り返しているシーンがいくつもあります。
分かりやすいところで言うと、家政婦が、裾にナイフを巻き取って持ち歩くシーンがあります。これは何回か描写され、その後の伏線として活用されます。
この映画は、こういった「何度も繰り返される描写」が多いなと感じました。
後、どうでもよいですが、主人公の少女の名前がオフェリアなのは、それだけで物悲しげだなと思いました。
どうしてもシェークスピアのハムレットを思い出してしまいますので。
以下、粗筋です。(ネタばれ的なものはありません。序盤だけを書いています)
主人公は思春期に差し掛かったばかりの少女。彼女は、臨月の母親とともに、森の中の要塞へと行く。
目的は、母親の再婚相手の許に行くためだった。
その途中で少女は壊れかけた石碑を発見する。その石碑は人の顔をしており、少女は石碑の欠けた目を元の位置に戻した
母親の再婚相手は、軍事政権の冷酷な軍人だった。彼はゲリラを討伐する指揮を執っていた。
主人公は、新しい父親に恐れを抱く。父親も主人公を嫌っていた。彼の関心は、母親のお腹の中にいる子供だけだった。
孤立する主人公は、要塞内で家政婦をしている女性と親しくなる。だがその女性はゲリラと繋がっていた。少女はその事実を偶然目撃する。
夜。少女の許に昆虫がやって来た。その昆虫は妖精に姿を変える。昆虫は石碑にいた虫だった。
主人公は妖精に導かれて森に分け入る。森の中の古井戸の底に行くと、牧神パンが待っていた。
パンは主人公に語り出す。彼女は妖精の王国の王女であると。そしてクエストをこなせば妖精の世界に戻れると。
幻想の世界に憧れていた主人公はその話を受ける。そして自分のベッドに戻る。
翌日から、少女は現実の世界と幻想の世界を行き来し始める。
その間に、森の緊張は高まっていた。ゲリラと政府軍の対立が一触即発の状態へと向かっていく。そして臨月の母親の体調が悪化し、主人公と父親の対立も進んでいく。
主人公は幻想の世界に逃げ込みたいと思いながらも、現実世界に対処していくことになる。
独裁国家の重苦しさと森の陰鬱さ、ファンタジーとナイトメア、そういったものが渾然一体と混じり合ったよい映画でした。
非常に楽しめました。