映画「キング・オブ・キングス」のDVDを、六月上旬に見ました。
このタイトルで、同じ内容の作品は、1927年版(111分)と1961年版(165分)の二種類があります。私が見たのは1961年版の方です。
監督はニコラス・レイ、脚本はフィリップ・ヨーダン、主役はジェフリー・ハンターです。
映画を見ている間は、まったく気付かなかったですが、このジェフリー・ハンターは、「捜索者」(1956)で、 ジョン・ウェインと競演していた若手俳優でした。
また、ナレーションは、オーソン・ウェルズということでした。
さて、何の予備知識もなくこの映画を見たのですが、タイトルから「王様の話?」と思っていたのですが、全く違っていました。
「聖☆おにいさん」のロンゲの方(パンチじゃない方)の話でした。
つまり、イエス・キリストの話です。
どういう描かれ方をするのかなと思ったら、これがなかなか骨太でよかった。
奇跡は起こすのは起こすのですが、それは全部「治癒(ヒール)」だけで、主張は全部「非暴力主義」。そのせいで、ユダヤの解放を望んでいた人たちからは「奴は使えねえ」と落胆される。
でも、信念を貫き、自分の責務を全うする。
未来が分かるだけに、逃げたいという気もありながら、それをぐっとこらえて、自分がやるべきことを誰にも理解されなくてもやり遂げる。
そういった「ある意味地味」な描き方をすることで、イエスという人間の「心の強さ」を浮き彫りにする。
ジェフリー・ハンターの澄んだ目と、強い意志を感じさせる精悍さもあり、非常に強く印象に残る映画になっていました。
しかしまあ、この映画のジェフリー・ハンターの姿は、そのまま「北斗の拳」のトキだよなと思いましたが。
さて、「骨太」と書きましたが、この映画は、キャラだけでなく作劇も骨太です。
まず、映画の序盤は、ローマ軍がユダヤの地に攻め込み、支配するところから始まります。そして、ローマの息の掛かった王がユダヤの地を支配していく様を丁寧に描きます。
また、ローマに対するレジスタンスの活動も描いていきます。中盤以降、その首領を、非暴力主義のイエスと対比させることによって、物語に深みを与えます。
この構図は終盤に鮮明になり、最後の山場の磔刑のシーンにおいて、イエスが引き受けたものの大きさを感じさせる内容になっています。
また、全編出てくるキャラとして、ローマ軍の隊長の存在も重要になっています。
彼は、ベツレヘムの新生児狩りに参加し、その後、幼いキリストに出会い、予言者ヨハネが幽閉された時の責任者となり、キリストの演説を聞き、キリストの裁判の弁護人となり、磔刑を見届けます。
この人の立場を、一言で言うならば、観客の視点です。この人は基本的に善人で、偏見があまりないです。そういう人物であるために、彼の台詞は観客の感想の代弁になっています。
そのため、観客が解釈や感情で迷うところが少なく、長い映画であるにも関わらず、感情的な混乱が生じないようになっています。
映画は、165分と長いですが、内容は濃く、無駄な長さだとは思わない出来になっていました。
さて、キリストを描いた映画として、思い出して比較してしまうのは、メル・ギブソンの「パッション」(2004)です。
「パッション」で一番記憶に残っているのは拷問シーンです。
対して「キング・オブ・キングス」で一番記憶に残っているのは、丘を埋め尽くす聴衆に教えを諭すシーンです。
これは、非暴力主義で、友愛と博愛に満ちた問答です。
結果、圧制からの解放を望んでいた人たちは、イエスの教えに失望します。
この二つの映画の違いは、そのまま印象に残っているシーンの違いのように感じます。
「パッション」のキリストは、人々の罪を背負ってくれる神の子で、「キング・オブ・キングス」のキリストは、人々に生き方を示す教師です。
「パッション」の根底には他力本願があり、「キング・オブ・キングス」の根底には自力本願があるように思えます。
(宗教の話を、他の宗教用語で書く、それも、歴史的に多義になっている言葉で書くのは、意味の混乱を招きそうですが、ここでは敢えて上記のように書きます)
キリストの教えというのは、なぜあんなに捻じ曲がったのかなと、時々思います。
以下、粗筋です(ネタバレがどうこうという話でもないので、そのまま書きます)。
ローマ軍に支配され、ローマの息の掛かった王に支配されていたユダヤの地。そこでは、人々は解放を望んでいた。
反乱軍を組織する盗賊バラバや、現れては消える様々な預言者たちが、そういったユダヤの人々の希望と絶望を象徴していた。
ある年、王は首都ベツレヘムに産まれる男子を皆殺しにする命令を出す。将来、自分を脅かす子供が産まれるという予言を聞いたからだ。
その年、その地で生まれたキリストは、父母の手により難を逃れる。
その子供は長じて、預言者ヨハネの洗礼を受けに行く。ヨハネは、この人こそが真の指導者であると見抜く。
キリストは四十日にわたる苦行ののち、神の子として活動を始める。
彼は、各地で癒しの奇跡を起こしながら、信者を集める。また、彼の側近となる使徒たちも誕生する。
しかし、使徒たちは必ずしも一枚岩ではなかった。ユダヤの解放には一向に興味を見せないキリストに、使徒たちは多かれ少なかれ反発していた。
その中でも、最も不満を持っていたのはユダだった。かつて、盗賊バラバの許で反乱軍に加わっていた彼は、キリストをユダヤの王として祭り上げたいと考えていた。
彼はバラバと密かに交渉を持って、軍事作戦にキリストの動員力を使う絵図を描く。
しかし、その作戦は失敗し、反乱軍は殲滅され、バラバは捕まってしまう。
ユダは、キリストの力を信じていた。そして、その奇跡の力で、現状を打破して欲しいと願っていた。
しかしキリストは、自らの奇跡の力を、人を傷付ける目的で使おうとはしなかった。
そこでユダは、キリスト自身の身に危機が迫れば、奇跡を行うはずだと考え、キリストを苦境に立たせようとする。
しかしそこでキリストが選んだのは、徹底的な無抵抗だった。
キリストが死刑になる日、慣例として、一人の罪人がくじで解放された。その時、救われたのが、反乱軍の指導者のバラバだった。
キリストは自らの奇跡の力を封印したまま、傷付きながら、ゴルゴダの丘へと自らの十字架を運んでいく……。
終盤、死が近付いてきたキリストが、誰も見ていないところで死を恐れ、苦悩しているシーンが印象的でした。
キリストを描いている映画ですが、宗教的なところはそれほど強く感じず、素直にキリストという人物に共感できる内容になっていました。
個人的には、山を埋め尽くす人々との問答のシーンが一番印象的でした。
あと、何気に「ローマ物」ですので、塩野七生の本でローマ熱が高まっている人にもありなんじゃと思う映画でした。