映画「マンハッタン無宿」のDVDを七月上旬に見ました。
1968年の映画で、監督ドン・シーゲル、原作ハーマン・ミラー、脚色ハーマン・ミラー他、主演はクリント・イーストウッドです。
映画史的に言うと、ドン・シーゲルとクリント・イーストウッドが初めて組んだ映画で、「ダーティハリー」(1971)前夜といった位置づけです。
94分というコンパクトな時間に、ハードボイルドなアクションとユーモアが詰まった映画で、面白かったです。
● 初見の感想
さて、映画を見た最初の感想は、「クリント・イーストウッド、若っ!」です。
とはいえ、1930年生まれなので、映画公開時は三十八歳で決して若くはありません。でも、優男な色気を感じさせており、「若いな〜」と思いました。
映画は、アリゾナ州(田舎)の保安官補の主人公クーガンが、ニューヨーク(都会)にやって来て犯罪者とバトルを繰り広げるという内容です。
原題は「Coogan's Bluff」で、邦題とはだいぶ違います。ここらへんは、イーストウッド=西部劇という売り方で、名前を変えたのだと思います。
● 話のひねり
話は、単なる「暴力刑事の物語」という感じではなく、ひねりが利いていました。
主人公は、地元アリゾナでは保安官補ですが、ニューヨークでは警察権はありません。一般人扱いです。なので、捜査も逮捕も行う権限がありません。
ここらへんは、アメリカらしい設定で、面白いなと思いました。
その主人公が、ニューヨークに、「アリゾナで犯罪を犯した犯罪者を引き取りに行く」というのが話の前提です。
そして、その犯罪者を「自分のミスで逃がしてしまう」ために、越権である追跡劇を始めます。
そのため主人公は、犯罪者と戦いながら孤立無援で、また警察に追われる立場になります。
敵を追いながら、他の敵にも追われるというのは、イーストウッドの他の映画「ガントレット」(1977)でも見られた構造です。
イーストウッドはこういった「孤高の(孤立した)勇者」といった役がよくはまります。そして、物語的にも、二重の追跡劇の様相を呈しており面白かったです。
● 女とユーモア
イーストウッドの映画は、格好よさとともに、「女に対する色男ぶり(女に対する弱さ)」と「ユーモア」を持っています。
これらの特徴は、この映画にも健在でした。色男ぶりは、初っ端から出てきて、映画の中でも物語の進行に上手く組み込まれていました。
また、ユーモアもよくできていて、繰り返しギャグが上手く活用されていました。
そのユーモアの中で、一番記憶に残っているのは「テキサス?」「アリゾナ」という掛け合いです。
この映画でイーストウッドは、カウボーイ・スタイルでニューヨークに行きます。そのため、会う人ごとに「テキサスから来たのか?」と質問され、そのたびに「アリゾナ」と答えます。
最初はきちんと答えていたイーストウッドですが、だんだん諦めの受け答えになっていき、その様子が妙に面白かったです。
この「最も目に付くユーモア」は、きちんと映画のラストで消化されており、単なる「ユーモアのためのユーモア」になっていないのが上手いなと思いました。
● 粗筋
以下、粗筋です。(終盤の頭ぐらいまで書いています)
主人公は、アリゾナの保安官補。彼は、一人の犯罪者を捕まえる。犯罪者は広域犯罪者だった。彼は、出身地のニューヨークに移送された。
主人公は、アリゾナでの裁判のために、犯罪者をニューヨークからアリゾナに移送する仕事を与えられる。
彼はニューヨークに行く。しかしニューヨークでは、精神鑑定の結果、治療が必要で犯罪者を移送できないと、裁判所の決定が下されていた。
こうなったら無理やりアリゾナに連れていこう。そう考えた主人公は、詐術を使い、精神病院から犯罪者を連れ出す。しかし、犯罪者の仲間たちに襲われ、犯罪者は逃げてしまう。
ニューヨークの警察は主人公を責める。主人公は、保安官補の身分のために、アリゾナではともかく、ニューヨークでは捜査権はない。
彼は身分を詐称して犯罪者を追う。また、ニューヨークに来た頃に出会った、警察の女性保護係に協力を仰ぐ。
主人公は、警察に追われながらも、警察を出し抜き、猟犬のように犯罪者に肉薄していく……。
● アクション
けっこう痛い系の(痛そうに感じる)アクションでした。あと、記憶に残っている印象では、繰り返し描写が多かったと思います。
殴る、殴る、殴る、殴られる、殴られる、殴られる、みたいな感じです。映像的にも、ラスト付近は、編集でそういった部分を強調しているように感じました。
また、「上手いバトルをする」というよりは、「地べた這うような殴打、よろめき、反撃」を行うので、かなり痛そうに感じました。
最近の映画では、こういった「ある意味、格好悪い、素人臭い殴り合い」はあまりないので、少しもっさりしている印象はあったものの新鮮でした。