映画「メトロポリス」を七月下旬に見ました。
1927年のドイツの白黒映画で、監督はフリッツ・ラング。原作・脚本はテア・フォン・ハルボウです。
● SFというよりは古典劇
この「メトロポリス」という映画は、映画黎明期のSF映画として名高い作品です。なので、SFとして見ようと構えてこの映画を見ました。
でも、映画を見た率直な感想は「これは、SFというよりは古典劇だよな」というものでした。
どういった部分がそう思ったかというと、二つの部分があります。一つは、階級闘争。もう一つは表現です。
● 階級闘争
一つ目の階級闘争ですが、「上流階級の男性と、下層階級の女性の恋」というのが話の中心になっています。それが、全てを表していると思いました。
この映画は、この中心軸から思いつく構造が、そのままの形で利用されています。「メトロポリス」の人間関係は、以下のようになっています。
・主人公は純真な上流階級の男性。
・主人公の父親は、重要な地位についていて、頭の固い上流階級の人間。
・ヒロインは、聡明で美しい下層階級の女性。
そして主人公は、女性との恋を成就させる過程で、二つの身分の間の対立を解決する仕事をします。
もう、コテコテの古いタイプの物語です。
● 表現
二つ目の表現ですが、もっとバンバンとSF的シーンが出てくるのかと思っていたのですが、そういった部分は想像以上に少なかったです。
ただ、アイデアとしてのSF要素は多く、下層階級の人々が働く工場や、人間そっくりのアンドロイドの登場など、そういった部分はSFっぽかったです。
ただ、それも、SFとして描かれたSFではなく、のちの人々がジャンルわけしたら「SFになるよな」というレベルのSFでした。
たぶん、本人はSFを撮ろうとして撮ったのではないのだろうと思いました(私の感想とは関係なく、SFを撮ろうとしたのかもしれませんが)。
そういったわけで、個人的な感想としては「SFというよりは古典劇だな」と思いました。
● 台詞
古い映画なので、シーンのあいだに、台詞や説明が全画面で入ります。
私が見たのは英語版でした。場所によっては、文字が多くて大変でした。まあ、理解できないほど複雑ではないので、意味はすぐに分かったのですが。
● フリッツ・ラングとテア・フォン・ハルボウ
フリッツ・ラング(監督)は夫、テア・フォン・ハルボウ(脚本)は妻です。
フリッツ・ラングはユダヤ人で、テア・フォン・ハルボウはナチスに傾倒し、二人は離婚しました。
なんというか、時代なのでしょうが、悲しい関係だなと思いました。
● アンドロイド
映画のSF的表現の中心となるのは、アンドロイドです。
この映画のアンドロイドは、現代の人がイメージするアンドロイドというよりは、フランケンシュタインを作る研究所などから誕生しそうな雰囲気の、クリーチャー的な存在でした。
マッドサイエンティストが、装置をガッシャンコすると、ウィーンと動き出す感じです。そして、起動後は、アンドロイドっぽい姿で動き回るのではなく、人間そっくりな姿に変身して活動します。
つまり、この映画のアンドロイドは、俳優が普通に、そのままの姿で演じているわけです。
なんだか少し、肩透かしを食らったような気分になりました。
● メトロポリス
巨大都市の描写なのですが、想像以上に場面が少なかったです。
もっと大都市が大写しになるシーンが多いと思っていたので、ちょっと残念でした。
ただ、エキストラはすごい使っているらしくて、Wikipediaを読むと、数万人も使っていたそうです。
□Wikipedia - メトロポリス (1927年の映画) - エピソード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83...
● 粗筋
以下、粗筋です(ネタバレあり。最後まで書いています)。
主人公は上流階級の男性。彼は下層階級の娘に恋をする。彼女は宗教的指導者で、人々の精神的支柱になっていた。
主人公は、彼女との交流を通して、労働者たちの実態を知る。そして、その改善が必要だと思うようになる。
だが、主人公の父親は、そんな主人公の行動を好ましく思っていなかった。そして、科学者に命じて、女性そっくりのアンドロイドを作らせる。父親は、そのアンドロイドを利用して、労働者たちを押さえ込もうとしていた。
だが、その計画は失敗に終わる。
アンドロイドは、女性に成り代わり、労働者たちを扇動して破壊活動を始めさせる。科学者は、メトロポリスの破壊を企んでいた。
主人公は、ヒロインを助け出し、下層階級の人々を救う。そして、科学者と対決し、勝利を収める。
主人公とヒロインは結ばれる。そして主人公は、二つの階級の調停者となる。
● 個人的な感想
映画は、今見るとさすがに古くて、面白いとは感じなかったです。楽しむために見るというよりは、勉強のために見るといった感じでした。
歴史的作品を抑えておきたい人は、チェックするのもありなのではないかと思いました。
逆に、そうでない人は、見る必要はないだろうと思いました。重要なのと、ある時代のある人間にとって面白いのは別の次元ですので。