映画「ある日どこかで」のDVDを、十一月下旬に見ました。
1980年の映画で、監督はジュノー・シュウォーク、原作・脚本はリチャード・マシスンです。主演は「スーパーマン」(1978年)で有名な、クリストファー・リーヴです。
原題は「Somewhere in Time」です。
● 欠落した設定、失われた情動
原作の小説は2009年の一月に読みました。非常によかったです。その上で、映画を借りて見ました。
えー、原作の方が百倍よいです。
原因は、「ある重要な設定」が映画から欠落しているからです。原作の小説の冒頭の粗筋は、以下の通りです。
脚本家の主人公は、脳の腫瘍のために死を迎えようとしていた。彼は立ち寄ったホテルの展示室で見た写真の女性に恋をする。それは古い写真だった。彼女のことを調べていくうちに、彼は奇妙な符合を見つける。そして、彼女の許に、自分は時を越えて行けるのではないかと考えるに至る。彼は、必要な情報を集め、過去へと旅に出る。
映画では、この設定の中から「主人公が死を迎えようとしている」という設定がなくなっています。
そのために、切実さも、悲しさも、狂気もなくなっている。単にロマンチックなコスチューム・プレイになってしまっている。
これじゃあ、駄目だろうと思いました。
またそれだけでなく、恋をされる女優側の、その時代では先進過ぎた精神性など、そういった内面の描写も全て欠落しています。
おかげで、本当に上辺だけの作品になっていました。
● 許される嘘の幅
原作の小説では、主人公の死が近づいていて、脳に異常があるために、過去への旅立ちにそれなりの正当性が付加され、さらにそれが現実か夢か分からないという揺らぎが残されています。
つまり、ぎりぎりのラインで、嘘を吐いても許される綱渡りをしています。
でも映画では、この設定が欠落しているために、かなり無理のある強引な展開になっています。
残念だなと思いました。
原作者がそのまま脚本を書いているのだから、ここは削ってはならなかっただろうと思うのですが、リチャード・マシスンの心中を知りたいなと思いました。
小説の話を成立させている不可欠の要素を、なぜ映画で削ったのか?
これなら、わざわざ映画化する必要もなく、他のシナリオを用意した方がよかったのにと思いました。
映画の時間も103分で、17分足すことで、きちんと映画化ができたはずなのに。
主人公に死の陰がある暗い作品は駄目だと、出資者側から言われたのかなと勘ぐってしまいました。
● 粗筋
以下、粗筋です(ネタバレあり。最後まで書いています)。
主人公は脚本家。ある日、彼は老女から時計をもらう。
それから数年後、彼は脚本の仕事に煮詰まり、あるホテルに行く。そこで見た写真の女性に恋をして、彼女のことを調べ始める。そして、彼女が、時計をくれた老女だと知る。
彼は過去に、大学で時間旅行の話を聞いていた。そこで大学に行き、その方法を習う。彼は、過去の洋服などを揃えて、過去に行こうとするが上手くいかない。
だが、過去の宿泊者名簿の中に、自分の名前を発見して、成功できると確信する。
彼は過去に旅立つ。そして、写真の女優にアタックをする。彼女は運命の男性の登場を待っていた。二人は恋仲になるが、主人公のミスで、彼は現代に戻ってしまう。
時を隔てた失恋のせいで、主人公は衰弱して死んでしまう。
● 突っ込み
「結局、主人公死んでいるじゃん! それなら、オリジナルの設定を崩さない方が、よいシナリオだったのに!」と思いました。
あの改変は、何だったのだろう?
非常に謎の残る作品でした。