映画「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のDVDを、三月下旬に見ました。
1968年の作品で、監督・原案はジョージ・A・ロメロ、脚本はジョン・A・ルッソです。
カルト的な映画で、そのうち見ないといけないと思っていましたが、ようやく見ることができました。
面白かったか、面白くなかったかの話で言うと、私はけっこう楽しめましたが、「ゾンビ映画の始祖」という前知識なしに見ると、さすがに今では退屈かなと思う内容でした。
● 展開の速さ
時間が96分ということもあって、無駄な部分を削ぎ落とした、非常にプリミティブな感じの映画になっていました。
ほとんど無駄がなく、どんどん話が進んでいきます。ただし、序盤は、あまりにも端折りすぎていて、さすがにB級臭がただよい過ぎるなと思いました。
しかし、舞台が固定されて、本編に突入してからは、そういった部分は影を潜めて、面白くなりました。
● 密室物
映画は、墓場から始まり、その後一軒家に移動します。それ以降は、家の中だけで話が進みます。
そして、家の周りには徐々にゾンビが集まってきて、情報源はテレビなどのメディアだけになります。
そう考えると、けっこう退屈な進行になりそうな気がするのですが、この映画ではそういった問題をうまく解決していました。
どう解決しているかと言うと、事前に家に隠れている人間が、徐々に家の中に出てくるのです。「実は家にいた」「実は地下室に隠れていた」といった感じです。
そして、人間V.S.ゾンビの構図だけでなく、人間V.S.人間の構図も作って、少しずつ事実を明るみにして、状況を変えていきます。
低予算で作っている割に、けっこう見られる映画になっているのは、この「人間V.S.人間」の部分が、徐々に展開していくからだと思います。
あとそこに、人種問題なども絡ませてあり、一致団結できない人間社会の問題をうまく描いています。
これは、映画の撮影当時、黒人人権運動が盛り上がっていたこととも関係があると思います。強い黒人と、弱い白人という組み合わせですので。
そういった社会背景が反映した「人間社会の縮図」が、この「小さな家の中」に表現されているのだろうなと思いました。
● 居場所が狭まる恐怖
この映画は、ジョージ・A・ロメロが、リチャード・マシスンの「地球最後の男」にインスパイアされた部分が大きいそうです。
そういった、「自分が寄って立つ社会が徐々に狭まって、生きる場所がなくなっていく」という恐怖を、この映画はよく描いています。
そう感じさせる理由の一つは、ゾンビが弱いからです。
ゾンビは人間よりも動きが遅く、冷静に対処すれば、それほど苦労しなくても倒すことはできます。
でも、とにかく数が多いために、どんどん自分たちの生存空間が狭められていきます。そして、人間がゾンビに、どんどん入れ替わっていきます。
この、じわじわとした逼塞感が、この映画の特徴だろうなと思いました。
でもまあ、「恐怖」という感じではなく「興味深い」という感じでしたが。
● ゾンビという名称
この映画では、ゾンビという名称は出てきません。
この名称は、次作からだそうです。というわけで、次作も見たので、もう少ししたら感想を書きます。
● 粗筋
以下、粗筋です(終盤の直前まで書いています)。
墓場に来ていた兄妹。その兄が、謎の人間に殺された。その謎の人間は、生きた死体だった。
妹はその場から逃げ、一軒家に潜り込む。そこには若い黒人男性がいた。彼は有能でてきぱきしていた。妹はパニックから役に立たず、黒人男性がその場を取り仕切って、家での防衛戦を始める。
しばらくして、地下室から数人が上がってきた。二人よりも前に逃げ込んだ人々だ。
上がってきたのは、傷ついた娘を抱えた白人の両親と、若い白人カップルだ。白人の父親は、ことあるごとに若い黒人と対立する。
彼らは放送を頼りに、少し離れた場所に避難場所が設けられていることを知る。
彼らは脱出してその場に向かおうと考える。しかしそのためには、危険を犯して車に給油をする必要があった……。
以下、ラストシーンのネタバレです。
● ラストシーン
けっこう衝撃的でした。
映画の終盤、ゾンビ狩りのために駆り出された町のハンターたちが、荒野を進みながらゾンビを射殺するシーンが始まります。
家の中で、唯一生き残った黒人男性は、そのハンターたちに、ゾンビと勘違いされて射殺されます。
物すごくダークで、救いようがない結末だなと思いました。
この結末があったからこそ、カルト映画として成立したのだろうなと思いました。