映画「デルタ・フォース」のDVDを二月中旬に見ました。
1985年の作品で、監督はメナハム・ゴーラン、脚本はメナハム・ゴーラン他、主演はチャック・ノリスです。
うーん、何というか、脚本のレベルが低い感じでした。
● デルタ・フォースに作戦がない
この映画を見て、一番最初に疑問に思ったのは、リー・マーヴィン演じるニック・アレクサンダー大佐に、ことごとく作戦がないことです。
ありていに言えば、情報収集をほとんどせず、行き当たりばったりです。
その中で、チャック・ノリス演じるスコット・マッコイ少佐が、能力値の高さで正面突破をします。
これでいいのか、デルタ・フォース?
さすがに、もう少しどうにかしようよと思いました。
このお気楽さは、80年代映画の特徴なのかもしれません。1991年の湾岸戦争勃発以降の映画では、こういったお気楽さはだいぶ影を潜めたと思います。
そして、2001年の9・11テロ以降は激減します。
これも時代なのかなあと思いました。
● ハイジャック・パートと、救出パートにリンクがない
いちおう、現実にあった事件を参考にして、この映画は作られているそうなので、こういった突っ込みは野暮なのかもしれません。その前提を書いた上で、あえて突っ込みます。
この映画は、レバノンの組織によってハイジャックにあった航空機を、アメリカの特殊部隊が救うという話です。
映画は、ハイジャック・パートと救出パートの二面で進行します。
この二つのパートですが、普通に脚本を練り込むならば、リンク要素を設けます。たとえば、ハイジャックされた飛行機に、救出者の関係者を搭乗させるとか、救出者側の人間を乗り込ませるとか。
そういった要素が一切ないために、この二つのパートは感情的に乖離しています。
また、ハイジャックされた機内では、レバノンV.S.イスラエルという構図が設定され、さらにスチュワーデスにドイツ系がいることで、過去のナチスの話にも言及します。
その割には、そこからドラマが発展せず、消化不良の感じでした。
なんというか、道具立てに実感が伴っていない印象です。
でもまあ、アメリカが痛みを実感していないこの時期だと、こういった感じになってしまうのかなとも思いました。
● 終盤が、単なるドッカン映画
前半、ハイジャック・シーンで、少し社会派?と思わせる要素を見せていたのですが、映画の終盤は完全に火薬と弾幕の映画に変わります。
それならば、最初からこの要素に特化して、前半のハイジャック・シーンを圧縮して、変に政治的色彩を付けなかった方がよかったのではと思いました。
そのためか、ちょっとアンバランスな感じがしました。
あと、ラスボスとは、意味もなく拳で殴り合うとか、リアリズムではなく完全に様式美のアクションになっているなと思いました。
● 俳優
ハイジャックされる飛行機に、ジョージ・ケネディが乗っているのは、完全にファン・サービス(「大空港」(1970年))だと思いました。
他にも、そういった配役のファン・サービスがありそうな映画でしたが、私にはちょっと分かりませんでした。
● 粗筋
以下、粗筋です(ネタバレあり。最後まで書いています)。
主人公はデルタ・フォースの大尉。彼は凄腕だが、上層部の作戦のまずさを苦にして退役する。
その折、ハイジャック事件が発生する。主人公は、そのニュースを見て復帰する。彼は、復帰とともに少佐に昇進する。主人公たちは、アメリカを発ち、飛行機を追う。
ハイジャックされた機は、ギリシアを発ち、ベイルートに向かう。そこでユダヤ人は本部に連行され、機内にはテロリストたちが増員される。
ハイジャック機はさらにアルジェリアに向かう。そこで女子供は解放されるが、男たちは残される。
飛行機は、再びベイルートに向かう。主人公たちはイスラエルに飛び、そこからベイルートに侵入する。
主人公たちはテロリストたちの本部に突入し、人質を助ける。そして、飛行機に奇襲をかけ、奪還して飛び立ち、イスラエルまで逃走する。