映画「ラリー・フリント」のDVDを五月下旬に見ました。
1996年の作品で、監督はミロス・フォアマン、脚本はスコット・アレクサンダーとラリー・カラゼウスキー。主役のラリー・フリント役はウディ・ハレルソン、その妻役はコートニー・ラヴ、主人公に振り回される弁護士役はエドワード・ノートンです。
ポルノ雑誌「ハスラー」を創刊した実在の人物ラリー・フリントを描いた作品です。エロくて下品な映画と見せ掛けて、色々と考えさせられて、最後はホロリと涙が出る作品でした。
● ラリー・フリントという人物
まずは、ラリー・フリントという人物が、どういった人かを書いておきます。
彼は軍人を経て、バー経営を行い、そのバーの宣伝誌として「ハスラー」を作りました。その後、不況でバー経営から撤退して、出版業を中心に活動するようになり、ポルノ雑誌「ハスラー」で快進撃を飛ばします。
ラリー・フリントは、そういった仕事をしていたので、モラル・マジョリティやキリスト教徒、フェミニストに目の敵にされていて、よく裁判を起こされたり、銃撃を受けて半身不随になったりしました。
彼は、こういったポルノ王的な側面を持つとともに、もう一つ有名なことがあります。
それは、全米で信奉者のいる福音主義の牧師ジェリー・フォルウェルとの裁判での対決です。
ラリー・フリントは雑誌で、ジェリー・フォルウェルが「母親で童貞喪失をした」と、茶化す記事を書きました。それに腹を立てたジェリー・フォルウェルが、巨額の賠償を求める裁判を起こしました。
これは、二人の対決というだけでなく、有名な人物についてのパロディを書く「表現の自由」についての裁判として注目されました。
この映画は、この結末までを、ラリー・フリントが「ハスラー」を創刊した当時から一気に描いた作品です。
● 表現の自由と規制
この映画が面白いのは、「表現の自由」という近代以降の個人を守る権利を扱っている作品にも関わらず、その先端で戦うことになるラリー・フリントを美化していないことです。
ええ、単なるお金儲けが好きで、女が大好きなおっさんです。
でも、実はそれが非常に大切なことではないかと思います。
人々に認められるような「高潔な人」を守ることが、個々人の自由を守ることには繋がらないからです。
誰もが平等に権利を認められる。そうであってこそ初めて、名もなき個人が、国家や組織に押しつぶされずに自分の人生を幸福に謳歌する権利を得ることができるのです。
「高潔な人だから表現の自由を勝ち得た」では、お話としては、微妙に捻じ曲がって伝わってしまいます。
そういった意味で、この映画は、よくできていると思いました。
あとそういったことと関係なく、「人が成り上がっていく様子」は、非常に面白くて興奮します。
こういった「男、裸一貫、一代記」みたいな映画は、それだけで面白いよなと思いました。
● 弁護士の位置づけ
映画では、エドワード・ノートン演じる弁護士が出てきます。
彼はラリー・フリントが裁判で不真面目な行為ばかりするので、いつも苦しそうな顔をしています。
でも終盤に、微妙な距離感での友情のようなものも見せ、映画に欠かせない人物になっています。
この弁護士は、実在の人物ではないそうです。これは、映画を運ばせる上でよくできたキャラクターだなと思いました。
実在の人物を元にした作品でも、映画にする上で、こういった整理は必要だと思いました。
● コートニー・ラヴ
ニルヴァーナのカート・コバーンの妻であったコートニー・ラヴが、ラリー・フリントの妻役で出ています。非常によかったです。
彼女はこの映画で、ゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされています。
この「主人公の妻」は、映画で非常に重要な役割を果たしています。
それは主人公の感情表現を一手に担っているからです。
主人公は粗野でイケイケの女好きです。奥さんもビッチと形容されるような女性です。
でも、主人公は奥さんのことを愛している。心を閉ざしている時期も、奥さんだけは傍に置き続けます。
映画の終盤になり、彼女がHIVで弱っていきます。ここからの一連の流れが、裁判の対決と相俟って非常にドラマティックに感情を盛り上げてくれます。
この終盤の流れは非常によかったです。ラストシーンは、ホロリと涙が出そうになりました。
● 粗筋
以下、粗筋です(ラストまで書いています。裁判の結果は書いていません)。
主人公は複数店舗を持つバーの経営者。彼は自身のバーの宣伝のためにセクシーなミニコミ誌を創刊する。その雑誌が好評になり、不況でバーを閉じたこともあり、出版業を本業にする。
彼は、周囲のモラル派から叩かれながらも、過激な雑誌を作り続ける。そして「ジャクリーン・ケネディの隠し撮りヌード写真」を買い取って掲載したことで億万長者になる。彼は、バー時代から付き合っていた女性と結婚する。
彼は様々な敵を作りながら、雑誌を大きくしていく。だが、そんな彼も、変節した時期があった。ジミー・カーター大統領の妹、ルース・カーターに呼ばれて、彼女に感銘を受けてキリスト教徒になる。
妻は、そんな彼の様子が気に入らず、バー時代の仲間たちとともに雑誌を切り盛りする。
だが、主人公が信仰を捨てる瞬間がやって来た。彼は弁護士とともに銃撃を受けて半身不随になる。
彼は昔の自分を取り戻す。
多数の裁判を抱える彼に、大物の攻撃がやって来た。全米に信奉者がいる牧師からの訴えだ。その巨額の賠償請求は、彼の財産を吹っ飛ばすに足るものだった。
さらに妻は、主人公の痛み止めを勝手に利用して麻薬中毒になり、さらにHIVにも掛かり弱っていく。
主人公の妻は死ぬ。
弁護士は、主人公がいつも法廷で真面目にやらないので手を引くと告げる。
主人公は弁護士を引きとめる。「俺は、何か意義のあることで記憶されたいんだ」
それは、表現の自由を争う、最高裁での戦いだった。
主人公は弁護士に、裁判の結果を聞かされる。主人公は、亡き妻のビデオテープを見て、ありし日を偲ぶ。