ここ数日、槇原敬之の「Traveling」を聞いています。原曲は宇多田ヒカルが作詞・作曲・歌です。(確か、作詞・作曲はローマ字表記でUtada Hikaruと、使い分けていたはず)
この歌詞中に以下の2節があります。
A.「どちらまで行かれます?」
B.「Travering 行くの?」
Aは「いかれます」と言っており、Bは「ゆくの」と歌っています。
このように、「行く」という表記には、「イク」と「ユク」の2つの読みがあります。
さて、1年ほど前ですが、最近まで主催していたPBM「史表」で、「行くぞ」という台詞を「ゆくぞ」と平仮名表記したことがありました。
その後、参加している先輩と飲む機会があり、「わざわざ"ゆく"と書いたのはよかった」と言われました。そしてそのまま、「イク」と「ユク」の語感の違いについて、熱く語りながら酒を酌み交わしました。
この語感の違いというものは、そもそもどこから来るものなのでしょうか?
それは、この「2つの読み方」の歴史が関係しています。
少し辞書を引いてみましょう。使うのは、手元にある「現代国語例解辞典」(第一版23刷 小学館)と、「旺文社 古語辞典 改訂新版」(改訂新版 重版 旺文社)です。(版や刷を書いているのは、辞書というのは、その間に手直しがされたりするものだからです)
まずは「現代国語例解辞典」から、現代における「イク」と「ユク」の解説を見てみることにしましょう。そしてそこから、今回の件に関係があると思われる部分を抜粋してみます。
--( 引用開始 )--
【いく 行く(往く)】[動五]
用法4:(「逝」とも)
補注1:「ゆく」より「いく」の方が話し言葉的な感じを持っている。文語的な言い回し、「行く秋」「行く年」「過ぎ行く」などは「いく」と読まない。
補注2:連用形が促音便となる場合は、常に「いった」で「ゆった」とはならない。
【ゆく 行く・逝く(往く)】[動五]
補注1:同義の語に「いく」があり、古くから併用されているが、現在では「いく」に比べて文章語的な感じで用いられている。
--( 引用終了 )--
これらの解説から分かることは、現代での用法としては、「イク」は口語的表現、「ユク」は文語的表現であるということです。
また、「イク」補注2からも分かるように、過去形では「イッタ」としか使いません。言語は単純化するという原則から考えれば、今後は「イク」という発音方法の方が優勢になるだろうと推測されます。
参考までに、他の日本語辞典での解説を見てみます。私が普段よく利用している
Yahoo!辞書(中身は大辞泉・大辞林。2つの辞書での内容を比較できるので便利)では、「イク」の中身はなく「ユク」へのリンクで済まされています。
これは、この2つの辞書の作者が「イク」は正式な使い方ではないと考えている意図が反映しているのでしょう。解説部分が参考になりますので、以下転載を行ないます。
--( 引用開始 )--
【以下、大辞泉】
「いく」の語形も上代からみられ、平安時代以降は「ゆく」と併用される。
「ゆく」「いく」はほとんど意味は同じであるが、古くは「ゆく」のほうがより広く使われ、特に訓点資料・和歌(「生く」との掛け詞の場合を除き)では、ほとんどすべてが「ゆく」である。
現在では「ゆく」に比べて「いく」のほうが話し言葉的な感じをもち、したがって、「過ぎ行く」「散り行く」など、文章語的な語の場合には「ゆく」となるのが普通である。
なお、「ゆきて」のイ音便形「ゆいて」も用いられたが、現在は一般的でなく、促音便形は「ゆく」のほうは用いられず、「いく」を用いて「いって」「いった」となる。
【以下、大辞林】
(1)同義の語に「いく」があり、上代から併用される。「ゆく」と「いく」は一般に同じ語の少し異なった語形とうけとられており、本辞典では、この「ゆく」の項で両方あわせて記述する。なお、現代語では、「いく」にくらべ、「ゆく」の方がより文章語的な感じをもつ。
(2)原則として「ゆく」「いく」どちらの形も使えるが、「立ちゆく」「亡びゆく」「更けゆく」「消えゆく」、「ゆくえ」「ゆく末」「ゆくて」「ゆく春」「ゆくゆく(は)」などは普通、「いく」の形をとらない。
(3)連用形の音便形は、現代語では「いく」の「いっ(て)」「いっ(た)」の形しか用いられない。ただし古くは「ゆく」にも音便形として「ゆい(て)」があった。
(4)平安鎌倉時代の漢文訓読では「いく」の例はまれで、ほとんど「ゆく」が用いられた。
--( 引用終了 )--
さて、続いて「旺文社 古語辞典 改訂新版」から、過去の用法について調べてみます。
--( 引用開始 )--
いく【 行く・往く】(自カ四)「ゆく」とも
参考:奈良時代から「ゆく」と併存していた。「ゆく」のほうが一般的。
ゆく【 行く・往く】(自カ四)
参考:「ゆく」と「いく」との違い──「万葉集」では「ゆく」が一般的で、「いく」はわずかに七例であり、一首中に併用されたものもある。「ゆく」に比べると、新しく、しかも俗なもの言いのようである。中古では、「いく」は口語で、歌の世界ではすべて「ゆく」である。
--( 引用終了 )--
これまで挙げたそれぞれの解説から、以下のことが分かります。
・過去においては「ユク」の方が一般的であり、現代へと時間が経つにつれ、「イク」への変遷が見てとれる。
・「ユク」は昔から、文語や歌に使われてきた。「イク」は口語として使われ、卑俗な用法と見なされてきた。
・「ユク」と「イク」は上代から、併用されてきた。
・「ユク」と「イク」は、現代においてはともに「五段活用」の動詞であり、過去においてはともに「カ行四段活用」の動詞であった。語形変化は、それぞれの時代で対応している。
さて、これらの情報を眺めていると、以下の推測を立てることができます。(ここからは、私の個人的見解が入ってきます。特に*印のものは、思考実験の領域です)
・「イク」と「ユク」は、「i」と「yu」の発音以外に、用例の差が基本的にはない。(ただし、現代において、促音便がつく場合は「i」の発音しか使われないという例外はある)
・「イク」と「ユク」は、記録時代以前の過去において同じ発音の言葉であった。
・ある時代において、「yuク」から「iク」という文化圏の分化が起こった可能性がある。(*)
・分化ののち、文化圏の統合が起こった可能性がある。(*)
では以下、なぜこういった推測を立てたかを解説していきます。
言語というものは、生き物のように、時代とともに変遷します。
例えば最近では、若者による「ラ抜き」言葉がよく話題にされます。「食べられる」を「食べれる」と言うように、「ラ」を抜かして使う用法です。これは、あと数十年もすれば「食べれる」のような「ラ抜き」の方が一般化するだろうと言われています。
このように、言語というものは、時間とともにどんどん変化していきます。
このことを逆手に取り、言語学では、いくつかの言語の類縁関係を、その発音の変化から探ることがあります。
これは、私たちの身近な例では方言を考えてみると分かりやすいでしょう。たとえばこういった方言があったとします。「動詞のバ行の音が、全てパ行になる方言」です。この方言では「食べる、喋る、威張る」は「たぺる、しゃぺる、いぱる」と言うことになります。
このような音の変化による差異は、ある言語が、地域的隔絶や身分的隔絶、時間的隔絶などにより、別系統の言語に分化した場合に起こります。これは、生物における分化と同じです。
同じ種類の馬を、アメリカとアジアにそれぞれ運び、互いに交配させることなく1万年や10万年など育て続ければ、違う種類の馬になる可能性があるのと似たようなことです。
・言語は分化する。
・分化の痕跡は、単語の発音の変化に現れることがある。
まずは、このことを理解する必要があります。
この前提を使い、「発音の変化」を元に、「2つの言語が類縁関係にあるかどうか」を確かめることができます。ただしこの手法を使う際には、最低限以下の注意が必要です。
・比較する語は、社会で多用されている単語でなければならない。
・音の変化は規則的でなければならない。
・実例が多数でなければならない。
ここで「イク」と「ユク」の話に戻ります。
「行く」というのは、社会で多用されている単語です。この重要度の高い単語に、「i」と「yu」の2つの音があるということは、同じ対応をしている単語が他にもある可能性が高いと考えられます。
実際に日本語のなかに、多数の「i⇔yu」変化をする単語があるようならば、過去において「イク」と「ユク」の2つの系統の文化圏があった可能性があると推測することができます。
そこで、この推測を検討するために、インターネット上で情報を調べてみました。
ヒントは、文化庁の
『国語施策情報システム』のWebページにありました。
「各期国語審議会の記録」の第5期、
「漢字表記のゆれについて(報告)2」の第10項「「イイ」と「ヨイ」(良い)」に、「イク」と「ユク」についての記述がありました。
以下、転載いたします。
--( 引用開始 )--
「イイ」と「ヨイ」(良い)——普通、「ヨイ」は文章語的で、ていねいであり、「イイ」は口頭語的で、そんざいであるとされている。
国研の調査によれば、採る形として「イイ」が多数(55〜79%)である。(ただし、第1回調査ではほぼ同数(46〜54%。)その理由としては、言いやすい45%、口頭語的39%、一般的30%、語感がよい16%、共通語的14%などがあげられている。使う形としても全般に「イイ」が多く、特に東京は「イイ」の率が高いが、西部に限って「ヨイ」が多い。
以上から考えて、口頭語の標準としては、「イイ」(ただし、連用形は「イク」とは言わない。)がよいかもしれないが、改まってものを言う場合や文章語では、「ヨイ」を使うことも認めないわけにはいかないであろう。
「イク」と「ユク」(行く)も同じように考えられ、標準的な形として口頭語的な「イク」を採るとしても、改まってものを言う場合や文章語では、やはり「ユク」を使うこともあるであろう。(ただし、「行くえ」「行く末」「行く手」「行く行く」などは「ユク」である。)
当用漢字音訓表では、「良」には「よい」、「行」には「ゆく」「いく」の訓を認めている。
同じ「ユ」「イ」(〔j〕〔i〕)相通の現象でも、「ユオー・イオー(硫黄)」「カワユイ・カワイイ(可愛い)」などは、「イオー」「カワイイ」だけでよいであろうし、(学術用語集<化学編>では「イオー」を採る。)「アユ・アイ(鮎)」「カユ・カイ(粥)」「カユイ・カイイ(痒い)」「マユゲ・マイゲ(眉毛)」などは、標準的な形としては「アユ」「カユ」「カユイ」「マユゲ」を採るべきであろう。
「ユダル・ウダル(茹る)」は〔j〕の脱落の現象であるが、これなども標準的なものとしては「ユダル」を採るとこになるであろう。
--( 引用終了 )--
この記述を見る限り、「i」と「yu」の対応は「行く」だけではなく、重要な単語において多数存在するものと推測されます。
上述の「漢字表記のゆれについて(報告)2」に出てきた単語を表にまとめます。また、別途「言う」についても重要な語ですので、表に加えます。以下、「活用詞」は、動詞と形容詞を含む、語尾活用を行なう単語を指します。
[ 活用詞A群 ]
良い ヨ(yo)イ イ(i)イ
行く ユ(yu)ク イ(i)ク
[ 活用詞B群 ]
可愛い カワユ(yu)イ カワイ(i)イ
痒い カユ(yu)イ カイ(i)イ
言う ゆ(yu)う い(i)う
[ 名詞 ]
硫黄 ユ(yu)オー イ(i)オー
鮎 アユ(yu) アイ(i)
粥 カユ(yu) カイ(i)
眉毛 マユ(yu)ゲ マイ(i)ゲ
(「良い」に関しては「yo⇔i」となっており、「yu」ではありませんが、この変化表に含めてしまいます)
(硫黄に関しては、「現代国語例解辞典」の以下の記述が参考になります。『参考:元々「湯泡(ゆあわ)」から、「ゆわ」「ゆわう」「いわう」と変化したとされる』そのため、この表に載せるのは適当でない可能性もあります。また、「yu」→「i」変化が他の単語でも行われやすいことも推測できます)
また解説文中から、以下のことが読み取れます。
・活用詞A群において、「yu(yo)」の音は文語的であり、「i」の音は口語的である。
・活用詞B群において、「i⇔yu」の価値判断は特にない。これらにおいては「i」音もしくは「yu」音のいずれかが一般的。
・名詞において、「i」音は廃れてしまった可能性がある。もしくは、硫黄のような「yu」→「i」の変化が起こりにくかった可能性がある。
これらの表を見ると、「i⇔yu」と対応する2つの文化圏がかつてあったのではないかと疑いを持ってもよいのではないかと思えてきます。
そう思うのはなぜなのか? それは、この表を見ていて私が興味を持った「活用詞A群」の存在です。
これは、2つの読みが単なる併存ではなく、価値判断を持っていることを示しています。
「yu」は文語的で格調が高く、「i」は口語的で卑俗である。過去においてこの2つの発音は、使う場所もしくは人が限定されていた可能性があります。
文を支配するということは、権力を握るということを意味します。
これらの情報から想像をたくましくするならば、かつて「yu」文化圏の一族が、「i」文化圏の一族を、闘争の末に支配した歴史があったのではないかと考えることができます。
また、「yu」文化圏の一族の許に、新興の「i」文化圏の一族がやって来たのかもしれません。
そして、この2つの文化圏は、同じルーツをもった兄弟のような関係だったはずです。
これは妄想の域を出ない、私の単なる想像です。
「i⇔yu」の発音のゆれに関しては、国語審議会の俎上にのるような重要度の高い、一般的な問題です。当然、日本語関係の研究者のあいだには研究論文も多数あるでしょうし、結論が出ていることなのかもしれません。
しかし、インターネットを簡単に検索した範囲では、ネット上にはそういった文献は見当たりませんでした。
現代はインターネット万能の時代のようですが、まだまだこんな簡単なことも調べられないのかと、少し落胆しました。
もし、日本語関係の研究者の方がいらっしゃいましたら、これらの「発音のゆれ」に関して、インターネットにも知識を露出していただければなと思いました。
私の頭のなかでは、「イク」と喋る一族と、「ユク」と喋る一族が、互いに争っている様子が勝手に描かれています。
単に、時代の変遷とともに、「yu→i」という音変化をしているだけなのも否定はできません。というよりも、むしろその可能性の方が高いと思っています。価値判断に関しても、「古い方が権威がある」「文の世界では前例が大切」というだけでしょうし。
今回の考察は、いつもの思考実験の1つにしか過ぎません。
「分からない」「知らない」ということは、「想像の余地がある」というのが、この文章で言いたかったことなのかもしれません。