九月二日土曜日に、日本の伝統芸能である「能」を見てきました。
能を見るのは今回が初めてです。
以前から興味があり、「日本人として外人に日本文化を説明するときに、能を見たことがないというのはまずいだろう」と思っていました。
ドナルド・キーン氏の「能・文楽・歌舞伎」を読んでいることもあり、この機会に行こうと思い、いろいろと調べてから見てきました。
□能・文楽・歌舞伎
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061594850
さて、まずは能を見ようと思って、インターネットで情報を調べたときのことを書きます。
意外だったのは、東京で能を見られる場所が非常に多く、全体で見れば、週にけっこうな回数上演されていることです。
ざっと調べただけででも、関東には能楽堂が十六もあることが分かりました。そのうち、東京都だけでも、十二箇所もあります。
□全国の主な能楽堂
http://tarokaja.pupu.jp/nogaku_theater.html 国立能楽堂以外にも各流派の能楽堂もあり、私が考えていたよりも、能が世間的に盛んなことを知り、驚きました。
そして、いくつかの能楽堂のWebサイトを見ていき、観世能楽堂の九月二日の公演を見に行くことに決めました。
理由は、場所が近かったこと。
私がいつも美術展を見に行っている渋谷のBUNKAMURAの裏手にあります。こんな場所に、能楽堂があるなんて知りませんでした。
また、演目も「砧」「船弁慶」と有名所だったので、最初に見るにはちょうどよいと考えました。
□観世能楽堂
http://www.kanze.net/□観世能楽堂 - 演能予定(2006-09)
http://www.kanzekai.com/schedule/monthly/2006_09.html□加藤眞悟 明之会(九月二日の公演の主催者)
http://shingo.from.tv/noh/
ちなみに、能の流派のうち、四大流派は「観世」「宝生」「金剛」「金春」だそうです。
このなかでは、宝生のWebサイトが、いちばんユーザー・フレンドリーだなと思いました。
そのうち、宝生能楽堂にも行ってみようと思います。
□宝生能楽堂
http://www.hosho.or.jp/ また、能楽堂のWebサイトは、全体的に言って、ナビゲーションが悪いところが多かったです。
さて、能の話です。
ドナルド・キーン氏の「能・文楽・歌舞伎」によれば、能は以下の五つのものに分けられ、この順番で演じられるのが基本だそうです。
一、脇能……神々についての能
二、修羅物……武士(男)を題材にした能
三、鬘物(かづらもの)……女性を中心に置いた能、女物ともいう
四、現在物……現存する人物その他を描いた能
五、切能……悪魔や天狗を扱った能
そして、能の「序破急」の構成の通り、最初のものほどゆっくりとしており、最後にいくほど激しくなっていくそうです。
ちなみに、能の一つの演目はだいたい一時間から二時間掛かります。また、能では、演目と演目のあいだに狂言を一つずつ挟みます。
そのためこの五番をきちんと演じると、全部で八時間以上掛かります。
現代ではこれだけの長いあいだ見続けることが困難になっているため、だいたい能を二〜三つに、狂言を一〜二つ、という構成で演じられることがほとんどだそうです。
また、あまりにゆっくりとした演目は、現代人には耐えられないために、現在物や切能が選択されることがほとんどだそうです。
以下のWebページで調べたところ、私が見に行った「砧」は現在物で、「船弁慶」は切能になるということでした。
□間申楽「能楽の杜」 - 用語解説
http://www.webslab.com/kiso/enmoku/bunrui.htm
さて、実際に見に行った話に移ろうと思います。
九月二日の公演は、一時二十分開場、二時開演でした。そこで、開場三十分ほど前に能楽堂の正面玄関に着いたところ、七〜八人ほどが玄関で駄弁っていました。
どうやら開場までは建物内には入れないようです。
仕方がないので、近くの庭石に座って本を読んでいたら、十分ほどして来たおばさんから「列の最後はここですか?」と聞かれました。
どうやら、いつもは列を作って並ぶそうです。そういったことを知らなかったので、立って列を作って並びました。
開場十分前ほどになると、列はかなりの長さになっていました。どうやら、三十分ほど前に来たのは正解だったようです。
そして時間になり開場。チケット売り場で自由席を買いました。
自由席だから、後ろの方で、相当遠いところから見ないといけないだろうと覚悟していました。
しかし、自由席か予約席かの違いは、舞台からの“遠い”か“近い”かではなく、“正面からきちんと見られるか、どうか”という差でした。
つまり、舞台の横や、柱の陰になる場所は自由席になっているのです。以下の座席表の左上辺りが自由席でした。
□観世能楽堂 座席表
http://www.kanzekai.com/seatmap.html 私は、柱の陰になる場所の、一番前の席に座りました。
正直言って、能に強い関心でもない限り、自由席で問題ないと思いました。圧倒的に値段が安いのに、それほど悪い場所ではなかったですので。
会場は八割以上の席が埋まっていました。
また、その客の多くが台本を持って来ており、熱心にメモや書き込みをするなど、どうやら能を習っている人たちのようでした。
私が知らなかっただけで、能を習っている人はけっこういて、そのお弟子さんたちからのお金で、能の各流派は回っているようです。
ドナルド・キーン氏の本にもそう書いてありましたが、身近にそういう人を見たことがなかったので、信用していませんでした。
能楽堂内のおみやげ屋さんも盛況で、能の本やグッズ、反物や、能に使う扇子などが売っていました。不思議なものではクッキーもありました。
かなりの人が群がっていたので、いい売上になっていると思います。
帰りに何か買おうかと思っていたのですが、帰り掛けにはおみやげ屋さんは閉まっていました。ちょっとショックでした。
おみやげは、能を見る前に買っておかないといけなかったようです。
さて、二時になりました。いよいよ開演です。
この日のスケジュールは以下の通り。終了は六時でしたので、全部で四時間の長丁場でした。
・能「砧」
・狂言「呼声」
(休憩十分)
・独吟「最上川」
・能「船弁慶」
以下、「砧」の粗筋です。
郷里を離れて、京に訴訟に行った夫を思いながら、妻は砧を打って寂しさを慰めていた。だが「今年も帰れない」という知らせに絶望して死んでしまう。
夫の帰国後、妻は亡霊となって現れる。しかし、僧侶の供養によって救われる。
以下、「呼声」の粗筋です。
無断で休んでいる太郎冠者を、主人と次郎冠者が訪ねて来る。だが太郎冠者は「留守だ」と言って、居留守を使い、出てこない。
そこで主人と次郎冠者は一計を案じ、平家節で呼び掛けてみる。すると調子に乗った太郎冠者も、平家節で答えてくる。
主人と次郎冠者は、続いて小歌節、踊り節で呼び掛ける。
踊り節につられて踊りまくる太郎冠者は、いつの間にか家の前まで出てきて踊り、二人に居留守がばれてしまう。
独吟「最上川」は、生徒さん用の模範演技という感じでした。
会場に入るときに、歌詞と読み上げ方が書いた紙片を渡されました。
以下、「船弁慶」の粗筋です。
都落ちする義経。彼は途中まで付いて来た静御前に、これからの旅は困難を極めるから帰れと告げる。
静は悲しみのなか、義経を励ます舞を踊り、去っていく。
そして義経は弁慶とともに船に乗り、海に漕ぎ出す。
初めは穏やかだった海が突如荒れ狂う。平家の怨霊が現れたからだ。だが弁慶の調伏で怨霊は去り、彼らは再び旅を続ける。
さて、能といえば、「なんだか寝そう」というイメージがあるのですが、ドナルド・キーン氏の本には以下のようなことが書いてありました。
「専門家を含めて観客の中には筋書きが進行している間中居眠りをする人がいるが、それでも能が絶頂に達する頃には本能的に目を覚ましたりする。」(P30)
なので、「まあ寝落ちするかもしれないけど、専門家でもそうなんだから安心だ」という妙な安心感を持って見ることができました。
結果、「砧」は何度も寝落ちして、「呼声」は大爆笑して、「船弁慶」は寝ずに楽しめました。
また、本に書いてあった「能が絶頂に達する頃には本能的に目を覚ます」という意味も分かりました。
絶頂期には、今まで沈黙していた八人の地謡が急に歌いだすからです。声が今までの何倍にもなるので、「何事か」と思って目を覚まします。
ここで少しだけ、能の舞台に出ている人たちの役割について書いておきます。
「シテ」というのが主役です。それ以外は脇役です。
舞台の奥にいるのは、笛、小鼓、大鼓、太鼓といった楽器です。
小鼓、大鼓は椅子に座っており、ほぼ常時、音や声を出していました。
笛は時折、ピヒューッと、鋭い音を鳴らしていました。あまりメロディーを吹くという感じではありませんでした。
そして、舞台の右側には地謡と呼ばれる、歌を歌う人たちが八人(四人二列)並んでいました。
能が始まって最初に驚いたことは、まるで儀式のように人が入ってきて、次々に持ち場に着いていくことです。
そして演目の終わりには、順々に舞台から消えていきます。
その印象は「荘重」というものでした。
時の権力者の庇護のもと、その権威を象徴する芸術として発達してきただけあり、それはまるで一連の儀式を見ているような様式美を備えていました。
鼓の人たちが椅子に座る方法一つとっても作法がきちんとあり、地謡が口を開く前にも一定の動作がある。
また、演技をしている人たちだけではなく、楽器を奏している人や、横で声を出している人たちも含めて、能が演じられているのだなとも思いました。
能を実際に見るまで考えてもいなかったのですが、小鼓と大鼓の舞台での重要度の比率が極端に高かったです。
ほぼずっと、鼓を叩き、声を出し続けています。
動きを伴う役者と同等かそれ以上に、存在感を持っていました。
「砧」は、ともかく眠かったです。
周りを見ても、かなりの人がこっくりこっくりきていました。
まあ、あまり派手な話ではありませんし。私も何度も寝落ちしました。
見所としては、シテである妻が、状況に応じて着物や面を変えていくことでしょうか。あとは、はたっと杖を落とすところ。
正直言って、それぐらいしか記憶に残っていません。
間狂言の「呼声」が始まった頃にはかなり疲れていました。「このままもう一本か」と思うと、だいぶ気が遠くなっていました。
しかし、この「呼声」で大笑いしたら、そんな疲れも吹っ飛んでしまいました。
「なるほど、能で疲れたあとに、狂言で息を抜いて回復するのか」と思いました。
説明の必要もないほどに単純な滑稽話で、非常に面白かったです。
今でも、踊り節の楽しいメロディーが頭に残っています。
「船弁慶」は、前半の静御前の舞が長くてだいぶ眠くなりました。
しかし、後半の平知盛の霊の舞は、勇壮で非常に格好よく、興奮しました。
荒れ狂う海、薙刀を持って乱舞する平知盛の霊、刀を抜き、決然と立ち向かう義経、数珠を持って、一心に退散を念じる弁慶。
激しいシーンで、「これはさすがに寝ないよな」と思いました。
あと、この「船弁慶」は義経が子方(子役のこと)でした。
本で読んだ話では、能では性愛を感じさせないために、静御前に対する義経は子供(肉欲とは関係ない年齢)に演じさせるそうです。
(注:「船弁慶」は前シテ(前半の主役)が静御前で、後シテ(後半の主役)が平知盛の霊です。義経は主役ではありません。単なる脇役です)
その子方の声を聞いて思ったのは、「やっぱり、おっさんたちの演技の方が圧倒的に上手いな」ということです。
まあ、当然なのですが、女性を演じる“おっさん”や、亡霊を演じる“おっさん”、弁慶を演じる“おっさん”のなかで、“子供”の演技力の低さは浮いています。
でも、こうやって経験を積ませて育てていくんだろうなと思うと、まあ仕方がないのかなと思いました。
初めての能体験でしたが、異世界に迷い込んだようで、なかなか面白かったです。
また見に行こうと思いました。今度は宝生能楽堂だ。
でもその前に、来週は文楽を見に行きます。チケットも、もう買いました。