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2006年10月27日 17:00:51
今日は少し、《美》について私が考えていることを、書いてみようと思います。
まず、その前に、娯楽全般について私が考えていることを書こうと思います。
映画、ゲーム、絵画、音楽、マンガ、小説など、世の中には多くの娯楽があります。人間がこれらの娯楽を享受しようとする目的は「楽しむため」です。
では、楽しむとはどういうことなのでしょうか?
これは、究極的に言うと、脳内の主観時間を短くしたり長くしたりすることです。
よく、映画などの理論書には、“圧縮と解放”という言葉が使われます。これは、観客を緊張させたり、リラックスさせたりさせることです。
圧縮と解放は、言い替えると、主観時間を短くしたり長くすることです。「早く過ぎ去る時間、ゆったりと流れる時間」を作ることです。
世界の時間は一定の速度で進みます(厳密に言うと違いますが)。しかし、主観時間は人間の一生において、その進み方は一定ではありません。
娯楽においては、この主観時間を短くしたり、長くしたりすることで、脳を活性化させ、快楽を得ることを目的としています。
これを図で描いてみると以下のようになります。
日常)
過去
│
│
↓
未来
娯楽)
過去
│
Z
Z
:
:
Z
Z
:
:
↓
未来
主観時間を縮めたり伸ばしたり。これが娯楽の基本構造になります。
次に、《美》とは何かについて書きます。
美術作品のよく聞く賛辞の一つに「時を忘れる」という言葉があります。
また、美術作品の賛辞には、「永遠を感じる」「無限に繋がる」「究極の一瞬を切り取った」といったものもあります。
これらの言葉は、《美》の目的を端的に物語っています。《美》の究極の目的は、「時を止めること」にあります。
もう少し丁寧に言うと、「主観時間を停止させること」です。
さらに言うならば、「日常の時間の流れから、一瞬にして違う時間に鑑賞者を連れ去ってしまうこと」です。
こういった《美》の仕組みを、図で表すと以下のようになります。
美)
過去
│
├─…
│
↓
未来
《美》の目的とは、主観のなかに、普段私たちが感じる時間軸から枝分かれした、その作品を見ているときだけのもう一つの時間軸を作り出すことにあります。
そして、この「もう一つの時間軸」が目指す究極のところは、日常に対して“垂直の時間軸”を立てることです。
“垂直の時間軸”とは、進まない時間であり、一瞬であり、永遠であり、無限です。
そして、この時間軸が完成すれば、そこには、閉じた世界が誕生します。
人間が、自分たちの脳のなかに、人工的に《美》を作り出そうとする究極の目標は、脳内にもう一つの世界を作ることに他なりません。
それは、ユートピアと呼ばれることもありますし、天国と呼ばれることもありますし、桃源郷と呼ばれることもあります。
完成した《美》は、以下の図で表すことができます。
完成した美)
過去
│
└─○ (瞬間の無限)(永遠の一瞬)
未来
究極の《美》は、主観時間を停止させて、人間をこの世から切り離します。
人間は、娯楽という形で、日常的に、自分の主観時間を短くしたり、長くしています。
《美》とは、そこからさらに一歩進んで、主観時間そのものを止めて、無限に引き伸ばそうとする行為です。
時間を停止させて、一瞬と永遠の価値を等価にする。そして、たったわずかな時間であっても、精神的な不老不死の世界を実現する。
それこそが《美》の本質です。
では、人間の、そういった「美を感じる」という現象は、どうやって起こるのでしょうか?
それは、私は「脳内の処理エラー」によるのではないかと考えています。
本来人間は、連続する時間のなかで生きている動物です。それは、自身の生命活動を維持することに必要なことです。
動物は、外部からの刺激を絶えず受容して、適切な反応をとっていかなければ生存することはできません。
そういった基本原則から考えるならば、「主観時間を停止に近付ける」という《美》は、人間の生命を脅かす危険性を持っています。
美しい光景に見とれて命を落とす──。
こういった現象は、明らかに生命体としては問題です。
そこで、「主観時間を停止に近付ける」ということは、脳内で何らかのエラー、つまり「処理落ち」が発生しているのではないかという推測を立てることができます。
私が、そのような、《美》≒「処理落ち」の可能性があると考えるようになった理由の一つとして、黄金長方形を人間が《美》と感じるという現象があります。
黄金長方形とは、辺の比が、約1対1.618の比率になっている長方形のことです。
この長方形を構成する黄金比(黄金分割)は、人類の歴史の遥か昔から、美の究極の比率として愛されてきました。
そして、この黄金比で構成された黄金長方形には、ある有名な特徴があります。
この長方形の短い辺と同じ長さの正方形を、この辺に沿うようにして描いた場合、余りの部分が、また再び黄金長方形になるという特徴です。
この「大きな黄金長方形のなかに、正方形と小さな黄金長方形を描く」という作業は、無限に繰り返すことができます。
そして、そうやって作った図は、無限に続く螺旋を描くことになります。
こういった無限に連続する構造というのは、自然界には溢れています。
多くの生物が、こういった黄金比で構成された肉体の構造を持っています。たとえば、巻貝の螺旋などはその代表例です。
また、人間の脳には、「存在しない物を補完する」という能力があります。
例えば視覚。
描かれていない線であっても、そこに連続するような別の線が描かれていれば、人間の脳は、「その線がある」と勝手に頭のなかで考えてしまいます。
こういった現象は、認知心理学関係の様々な図版でよく知られたことです。
人間はある対象を見たときに、たとえそこに何もなくても、脳に計算させることで、「そこに、何かがある」と認識してしまいます。
人間が、なぜ黄金長方形(黄金比、黄金分割)を美しいと思うかは、人間のそういった脳の処理方法に関係していると考えられます。
人間は、黄金長方形を「無限に続くらせんの一部」として認識し、無意識のうちに、脳内で無限のらせんを描きます。
こういったことをしてしまうのは、人間は普段自然界で、そういった比率のらせん構造を知らず知らずのうちに多数見ており、一つのパターンとして認識しているためだと推測されます。
そして、このらせんを認識したときに、人間はそこに処理時間を費やします。そして、このらせんは「無限に続くらせん」です。
プログラムの世界で言う、「無限ループ」の罠がそこに待っているのです。つまり、人間の脳は処理落ちする。
ただし、こういった場合の「エラー回避処理」は当然人間の脳内にもあるわけです。
また、脳は平行処理であるために、全ての処理が停止するわけではありません。
けれども、一瞬だけ何かが止まる。
脳が一瞬処理落ちすると何が起こるかというと、脳内の主観時間が変わります。一瞬だけ、時間が止まるのです。
そのため、人間はそこに《美》を見出します。
こういった人間の主観時間を止める(停止に近付ける)方法は、図形だけではありません。
たとえば、それは、過去にどこかで見たことのある景色かもしれません。人間の多くが体験している母子の関係かもしれません。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」のように、表情が湧き起こる一瞬なのかもしれません。
「何かが起こる瞬間」とは、「そこから何が始まるのかを考えなければならない瞬間」です。
人間は、動物の生存本能として、「何かが起こる瞬間」を見たならば、「そこから何が起こるのか」を予想しなければなりません。
それは脳の多大な処理時間を奪うことです。つまり、主観時間を止めてしまう。
そのため、世界の「何かが起こる瞬間」を描くことは、《美》に繋がる戦略として大変正しいことになります。
もしかすると、脳の処理落ちは、他の現象を引き起こしているのかもしれません。
たとえば、脳に多大な負荷が掛かることで、普段使っていない処理回路を開いて、瞬間的に処理能力を増加させるのかもしれません。
その場合は、時間が圧倒的にゆるやかに流れることになります。
そして、この場合もやはり、主観時間が止まったように感じてしまう──。
そこにどういった生理機構があるのかは、私には分かりません。
どちらにしろ、《美》の究極の目的は、人間の主観時間を止めることにあるのです。
では、なぜ人間は《美》を欲求するのでしょうか?
《美》とは、時間の停止を意味し、この世からの解脱を意味し、肉体の死ではない精神の死を意味します。
《美》を追求した先にあるのは、この世からの別離です。
肉体が存在するこの世界を捨てて、新しい世界に旅立つことです。
人間がこういった世界を欲求するのは、人間が外界からの入力に対して、過大な処理能力を持つ脳を持っているからだと推測されます。
人間は、生活のなかで認識している世界以外に、いくつか世界を認識できる能力を持っているのではないでしょうか。
そして、そういった世界が、自分のなかに存在しているのだと薄々気付いている。
《美》とは、その世界の扉を開けるための手段なのではないか──。
自分のいる時間軸とは違う、もう一つの時間軸に移動するための梯子なのではないか──。
私には、そう思えてならないのです。
娯楽とは、主観時間を長くしたり短くしたりすることであり、《美》とは、主観時間を停止することです。
つまり、創作とはすべからく「時間を支配」することに他ならない──。
そういった自分の考えに従い、私は自分が作った会社に「時間」と「支配」を象徴する「クロノス(時の神)」「クラウン(王冠)」という名前を付けているのです。