2006年12月15日 10:28:41
映画「太陽がいっぱい」のDVDを十月下旬に見ました。
原題は「PLEIN SOLEIL」。1960年の映画で、アラン・ドロンが主演の作品です。
最初はちょっとたるいなあと思っていましたが、事件が起こってからはぐいぐい引き付けられ、最後は「ぐわ〜〜〜っ」と胸を掻き毟られるようなラストで終わりました。
なるほど、人気がある訳が分かります。
以下、粗筋です。(ミステリなので、終盤は書きません。中盤までのネタバレはあり)
主人公のトムは、富豪の息子のフィリップの幼馴染だ。トムはフィリップの父親から、「イタリアで遊び呆けている息子をアメリカに連れ戻すように」と、依頼を受けていた。
しかし、フィリップはトムの話に耳を貸さず、実家のお金を引き出しては好きに遊ぶ毎日だ。
トム、フィリップ、そして、フィリップの婚約者のマルジュの三人は、フィリップのヨットで洋上旅行に行くことになる。
フィリップは、お目付け役のトムを邪魔者扱いする。しかしその陰で、トムの恐るべき計画が進行していた。
トムはフィリップとマルジュが喧嘩するように仕向ける。その結果、マルジュは途中の港で船を降りる。
そしてトムは、洋上で、フィリップを殺害して海に沈める。彼は、フィリップが生きているように見せ掛け、富豪の息子の資産を徐々に引き出していく。
トムの悪巧みはそれだけでは終わらない。彼は、フィリップの婚約者のマルジュをも我が物にしようとして動きだす……。
それでは、この映画を三パートに分解して感想を書いていきたいと思います。
●1.序盤
序盤は現代ではだいぶ冗長だと思います。主役とその相方、そしてヒロインの関係(あと、伏線も少々)を見せるために、序盤は存在しています。
しかし、無駄なシーンがあると言えばあります。必要なシーンも、切り詰めようと思えば切り詰められます。
編集して、5〜10分ほど削ると、もっと引き締まったいい映画になると思います。最初は「外れかな?」と思いながら見ていましたので。
しかし、序盤最後の「洋上での事件」の辺りでその考えは一変します。ここから、“じりじりと太陽で炙られるような焦燥感を伴った緊迫した展開”が始まります。
まさに、終盤の「太陽がいっぱい」という台詞に通じるような“目眩を覚えるような物語”が始まるのです。
●2.中盤
まさに、“太陽でじりじりと炙られるような物語”です。
殺人を犯して、フィリップの人生を乗っ取ったトムが、真綿で首を締められるように、徐々に泥沼に落ち込んでいきます。
その“底無し沼”のような焦燥感を伴った展開は、一見の価値があります。
物凄く頑張って、どんどん問題を解決していくのに、その度にさらに自分の立場が悪くなっていく。
自分の境遇から逃げ出したいのに、逃げ道はなく、動けば動くほど“自分には逃げ場がないんだ”と確信していく。
その辛さがひしひしと伝わってきます。
無限に続く気だるさのなかで一瞬の解放に縋ろうとする。そして、すべてを忘れようとして様々なことをする。
しかし、“殺人を犯した”という自分自身の罪からは逃げられずに、どんどん自分の世界が狭まっていく。
よい映画でした。ここまででもう、高い評価が確定しました。
●3.終盤
凄い。
全てが成功しようとして、ようやく解放にひたる主人公。無限の闇のなかで、やっと見た光を仰ぐように言う「太陽がいっぱい」という台詞。その直後に待っている破綻。
この展開は、「シンプルでありながら、説得力のあるミステリとしての種明かし」と相俟って、「ぐしゃぐしゃになっていたトムの人生がとうとう崩れる」という“負のカタルシス”を強烈に味わわせてくれます。
よかったです。ぐっと来る映画でした。
序盤で「駄目だ」と思っていましたが、最後まで見ると「よい映画だ」に評価が180度反転しました。
これはいい映画だったと思います。
どうでもよいですが、ヒロインは最初の頃、特に可愛くも思えませんでした。
しかし、終盤になるに従い、主人公が執着を見せていけばいくほど、魅力的になっていきます。
あれは何なのでしょう?
フィリップのおまけだったヒロインが、徐々に主人公視点でクローズアップされていく。そのことによって、カメラとの距離が近くなり、じっくりとその姿を眺めるようになる。
そういうことが関係しているのでしょうか。
もう一度見れば、カメラでの撮り方が違っていたりなど、細かな技法が見えるかもしれません。
ストーリーの必然性以上に、ヒロインの画面での見栄えが、映画の前半と後半で違っていました。
これは、ヒロインだけでなく、主人公のトムに関してもです。
序盤はそれほど魅力的でなかったのに、終盤に行くに従って、どんどん画面映えするようになっていきましたので。
次に見る機会があれば、そういった点に注意して見てみたいと思います。