2007年07月24日 00:11:03
この記事を読んで思ったことを、少し書いておきます。
人間の心理的な面からだけ見ると、宗教も科学も、「個人としては脆弱な認識力しかない人間」の世界把握(この「世界」には、外界も内界も含む)を補助する資材にしか過ぎません。
例えばそれぞれの宗教は、その発生当初は、最先端の世界把握の手段だったわけですから。
でも、人間社会が加速度的に成長していく過程で、科学という、割と決定打的な世界把握の手法が出てきました。
そして、より高度化していく社会に適応するには、この世界把握の仕方が有利だという風になってきました。
じゃあ、過去において最先端だった宗教が死ぬかと言うと、リフォームを繰り返して、その時代の人間と相互関係を保ちながら存続しているわけです(リフォームせず、閉鎖的になり、補修だけで存続している宗教もありますが)。
また、「古い物は即、悪か?」というとそうでもなく、それはそれなりに使えたりするわけです。建築物と同じです。
なので、私は古い考え方も、自己の思考の幅を広げるという意味で好きだったりします。先人には学ぶべきところがありますので。
ただ、人間社会は規模の暴力というか、ある一定以上の人数が集まると先鋭化する傾向があります。そして、そういった先鋭化した人々は、変な重力を持って、周囲の空間を歪めたりします。
そういった人たちは概して、外部からのインプットが自家中毒的になっているので、何を言っても聞かないです。
こういった、キリスト教右派の活動なんかは、はっきり言って私の個人的な利害関係に対立するのでどうにかして欲しいところです。
重力を持たない範囲で、各個人が幸せに感じる範囲に留めて欲しいです。
私は多様性の信奉者なので、キリスト教右派などの「他の主張を認めず潰すぞ」的な活動は敵です。
私は自分が精神的なマイノリティーであることを自覚しています。なので、私自身の生存を守るために、多様性を許容する社会が必要だと考えていますので。