映画「ギャングスター・ナンバー1」のDVDを、九月中旬に見ました。
2000年の映画で、監督はポール・マクギガン、脚本はジョニー・ファーガソン。
主演はポール・ベタニー(若いバージョン)と、マルコム・マクダウェル(年寄りバージョン)、共演はデイヴィッド・シューリスです。
マルコム・マクダウェルは、「時計じかけのオレンジ」(1971)のアレックス役の人ですね。
題名の通りギャング物の映画なのですが、主演のポール・ベタニーが怪演していてよかったです。
映画自体も、面白かったです。
まあでも、一番よかったのは主人公のキャラ立ちです。
この映画は、暴力の才能は有り余っているのに人望はまるでない主人公が、全てを持っているギャングスターに憧れて越えたいと願い、策を弄し、奮闘し、足掻く物語です。
持つ者と持たざる者、そして、何かを手に入れる者と手に入れられない者。その明暗を、軽快でありながら濃密な暴力とともに浮き彫りにしてくれます。
普通のギャング映画とは少し毛色が違いますが、よくできた映画でした。
以下、粗筋を書きます。ストーリーが気に入っているので全て書きます。
こういった狂気を孕んだ話は好きですので。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。最後まで書いています)
主人公は五十五歳になった。彼はギャングの世界の頂点に立っていた。
彼は、仲間たちとともにボクシングの試合を見ている。その彼の許に報せが届く。一人の男が刑務所を出所するというのだ。
その男こそ、主人公がかつて憧れ、追い落としたギャングスターだった。主人公は、彼のことを畏れ、敬っていた。
しかし、それだけではなかった。主人公は、彼と自分の違いについて悩み、その存在を否定したいと考えていた。
主人公は全てを手に入れていた。金も権力も名声も、全て手中に収めていた。だが、自分が憧れたギャングスターが持っていた精神の輝きだけは身に付けられなかった。
彼は、自分と、ギャングスターの違いについて考える。そして、彼との出会いと反目、そして自分が行った裏切りについて記憶をたどる。
主人公は町のチンピラだった。彼はある日、一人の男に呼び出される。
その男は、若くして伝説になっているギャングスターだった。彼は、知性と金と権力を持っており、そのことを誇ることもなく、周囲の人間に恐れられ、尊敬されていた。
主人公は、そのギャングスターの下で働くことになる。そして、彼に憧れる。
主人公は人望はなかったが、暴力の才能があった。そして、強い忠誠心を持っていた。彼はギャングスターの下で頭角を現す。そして彼の片腕に近い存在になる。
だが、二人の関係に変化が現れる。それは、一人の女性の登場のせいだった。
主人公とギャングスターは、ある日高級なクラブに行った。
そこでギャングスターは一人の女性と恋に落ちる。二人は瞬く間に接近し、愛を誓い、婚約する。
主人公はそのことで懊悩する。彼にとってギャングスターは天の上で輝く存在でなければならなかった。誰の手にも届かない孤高の存在でなければならなかった。
だが、ギャングスターは愛に生き、危険から身を引こうとしていた。
主人公は、ギャングスターを追い落とし、彼を超えることを誓う。自分の理想だった男をその座から落とし、自分が成り代わろうと決意する。
彼は暴力の才能を遺憾なく発揮し、敵対勢力との抗争にギャングスターを巻き込む。ギャングスターとその婚約者は銃撃される。
さらに主人公は、その襲撃の復讐を決行し、敵対勢力のボスを拷問の末に殺害する。そしてその殺人の罪をギャングスターに着せ、刑務所に送ることに成功する。
主人公はその組織のトップになる。そして、容赦のない手腕で組織を拡大し、ギャングの世界の頂点に上り詰める。
だが、主人公は尊敬もされず、憧れもされず、ただひたすら恐れられるだけだった。彼はギャングスターになることはできず、ただ暴力の化け物になっただけだった。
そして月日が経ち、かつてのギャングスターが出所してきた。
彼は刑務所の中で文学の学位を取っていた。そして、恋人との関係を続け、出所とともに結婚することになっていた。
確かに追い落としたギャングスターは、主人公の前では相変わらず輝いていた。精神の輝きを放っていた。
主人公は思い悩む。彼の手は血に染まっていた。彼は人々に恐れられていた。心を許せる仲間は一人もいなかった。
だがギャングスターは、一人の人間として精神の平穏と幸せを手に入れていた。
金も権力も仲間も奪ったはずなのに、自分は何も手に入れておらず、ギャングスターは全てを手に入れていた。
主人公は、手に入れた権力の全てをかなぐり捨て、単身ギャングスターの前に立つ。
そして、暴風のように悪意と殺意を撒き散らしながら、ギャングスターと対決しようとする。だが、ギャングスターは彼に対して冷めていた。全てを奪った男に対して、何の興味も示さなかった。
主人公は挫折感を味わう。そして、自分の人生を振り返る。なんと虚しい人生だったことかと絶望する。彼はビルの屋上で、そのことを嘆き、笑い、自らの命を絶つ。
映画を見ている時に思ったのは、主人公はギャングスターに惚れているなということです。
この映画は、ギャングスターとその恋人に横恋慕する主人公の三角関係の話だと思いました。
主人公の嫉妬を見ながら、ホモセクシュアルな恋愛を感じました。
まあ実際は、単純な恋愛ではなく尊崇という感じの感情なのですが。
自分が何かを手に入れるために奔走し、正しいと思ったことをし続け、その挙句、絶望を味わう。
こういった話は好きです。
人間は、欲望に忠実であればあるほど、幸せから遠ざかって行く存在ですので。
幸せになろうとすることは、幸せになれないことを意味しています。
最も幸せな人間は、自分の現状に満足する人間です。
しかし、それで満足できない人もいます。そういった人は、幸せになれないことを自覚し、その皮肉を噛み締めながら苦い人生を生きていく必要があります。
それは、狂気との戦いです。
幸せを決して手に入れられないことを自覚しながら、それを追い続けなければなりません。
自分自身を冷笑しながら、それでも馬車馬のように走り続けなければなりません。
そういった種類の人間にとって、走るのをやめることは、夢を見ることを諦めることです。
自分の人生を否定することです。これまでの生き方を、全て無意味にすることです。
そういった人間が幸せになるには二つの道しかありません。
人生を走り切り、崖から勢いよく飛び出し、そのまま人生を終えるか、自分の人生からリタイアするかです。
私は前者の人生を選ぶつもりで生きています。
この映画を見ながら、不幸を自覚して走り抜こうとしている自分のことを思い出しました。