映画「自虐の詩」を劇場で一月下旬に見ました。
「オリヲン座からの招待状」とのセットでの鑑賞でした。
2007年の映画で、監督は堤幸彦。主演は、中谷美紀で、相方は阿部寛です。
堤幸彦は、「トリック」の人ですね。
映画は非常によかったです。特に後半からの「巻きの展開」が非常に素晴らしかったです。
原作は未見なのですが、これは原作もきちんと読みたいなと思いました。
さて、ネタバレを含む感想を書きます。
感想の中心が後半以降の展開についてなので、これはどうしようもありません。
というわけで、まずは粗筋から書きます。
以下、粗筋です。(ネタバレあり。最後まで書いています)
主人公は安アパートに住む若い女性。彼女はお金は持っていなかったが、働き者で周囲から愛されていた。
そんな彼女と同棲している男がいる。その恋人は暴力的で無口なパンチパーマの大男で、気に食わないことがあると、すぐにちゃぶ台をひっくり返す。
どこからどう見ても主人公は不幸な境遇だった。周囲の誰もが彼女はその男と別れるべきだと思っていた。
しかし彼女は恋人を愛していた。周りの人たちにはその理由が分からなかった。
男はまともに働いていなかった。そして舎弟たちとパチンコに行っては金を失う生活を繰り返していた。だが、男はヤクザ者ではなかった。
ある日、町にヤクザがやってきた。そして、男の前で主人公を馬鹿にした。あくせく働く彼女の姿を見て、あざ笑ったのだ。
その翌日から男は工事現場に働きに行きだす。しかし、ヤクザに絡まれ、恋人を馬鹿にされたせいで喧嘩して首になる。
主人公は男に怒りをぶつける。しかし、無口な男は理由を語らなかった。
男はヤクザの事務所に呼び出される。彼はかつてヤクザだった。そして、亡父は有名なヤクザだった。
事務所の親分は男にヤクザになれと言う。男は悩む。自分の稼ぎで恋人を食わせたいと思っていたからだ。
そんな折、主人公の妊娠が発覚する。だが男は祝福の言葉を掛けられない。なぜならば、彼には稼ぎがなかったからだ。彼の心は、ヤクザとカタギの間で揺れ動く。
主人公は、祝福してくれない主人公の愛に疑いを持つ。そして彼女は事故に会い、意識を失う。
男は必死に病院まで駆ける。そして主人公は、夢の中で自分の過去を走馬灯のように思い出す。
彼女はいつも不幸だった。
何をしても上手くいかなかった少女時代。そして、変わろうとして出て行った故郷。しかし、都会で彼女は売春婦となった。そして覚せい剤に溺れた。
そんな彼女を救ってくれたのが今の恋人だった。彼はどこからどう見ても駄目だった女に「愛している」と告白してくれ、どんなに罵倒されてもその愛を貫いてくれた。
彼は主人公のためにヤクザから足を洗った。そして、彼女が新しい人生を歩むために、一緒に町を出てくれた。
主人公は病院のベッドで目を覚ます。そして、恋人の男は彼女の前に立ち、愛を告げる。
二人にはお金はなかった。周囲に比べれば決して幸せではなかった。
だが二人は幸福だった。それは、相対的な幸せではなく絶対的な幸せだった。互いに手を取り合う二人の間には真の幸せがあった。
普段、恋愛系の映画にはあまり評価を与えない私ですが、この映画は非常によかったです。
それには理由があります。
それは、「愛がどうこう」という部分は映画の要素の一つにしか過ぎず、「人間の幸せとは何なのか」ということにスポットを与えていたからです。
人間は周囲との相対的な関係で自分の幸福を計ります。
周りよりもお金を持っている。他人よりも美人。周囲よりも地位が高い。そういったことに一喜一憂して人生の大半を過ごします。
しかし、それは比較の結果でしかありません。例えば物質的な豊かさを見てみたとします。比較の対象を百年前、千年前にしてみれば、ほとんどの人が豊かな生活をしています。
幸せとは、本来主観的なことでしかありません。それは、金銭や美醜、地位や身分で換算した瞬間に薄っぺらなものになってしまいます。
それは比較の対象によって価値が増減するからです。そしてその比較対象は、単にその人がどこを見ているかという視点の向きにしか過ぎないからです。
私が恋愛系の映画に対して著しく評価が低いのは、その手の映画の多くが、この「主観」が「世の中の全て」であり、その「個人的な価値観」を、さも「絶対的な価値観」のように他人に押し付けてくるからです。
私が宗教や神を語る人間が嫌いな理由もそこにあります。
「お前の価値観は、お前の価値観にしか過ぎない。それを聞くことは世界を広げてくれるが、それを絶対的なものとして受け入れる理由はどこにもない」
だから、恋愛至上主義や宗教や神や全体主義や言論統制は、私の明確な敵です。
しかしこの作品は違います。その主観の皮を一枚剥いで、その下の何かを抉り出そうとします。
だからこそ、私はこの映画を評価しました。
これは多分、原作が持っている力なのだと思います。なので、原作も見てみたいと思いました。
映画は構成もよくできています。
まず、映画の導入部分では、この映画のビジュアル的な楽しさである「ちゃぶ台返し」を、これでもかと見せて観客の笑いを誘います。
ハイスピードカメラで写した映像、様々な仕掛け、「ちゃぶ台返し」にまつわる駆け引きなど、繰り返しギャグとして、徹底的にこの部分で笑いを取ります。
そこで観客の心をほぐした後、徐々に主人公の女と恋人の男の関係を掘り下げていきます。
そして、ヤクザの勧誘と主人公の妊娠で恋人の男を追い詰めた後、話を展開させるために主人公の事故を起こします。
その後は怒涛の回想シーンで、主人公の過去を、そして二人の過去を明かしていきます。
この回想シーンで、主人公と恋人に対する観客の主観が逆転します。
それまで観客は主人公の女のことを「恋人に無償の愛を注ぎ続ける盲目的な女」、恋人のことを「その愛情をいいことに好き放題する男」と思っていました。
しかし、この回想シーンが終わった後、本来無償の愛情を注いでいたのは男の方で、その愛で立ち直ったのが女の方だと知ります。
そして、薄っぺらな恋愛感情は引っぺがされて、映画のテーマである「幸福とは何なのか」という問題が観客に突きつけられます。
この「前提の逆転」が非常に上手く描かれていて感心しました。そして「これはよい映画だな」と思いました。
また、映画は、この後半の逆転の正当性を与えるための伏線が無数に張り巡らされています。
本当に「無数に」という言葉がぴったり来るぐらいたくさんです。
その中でも、後半の立場の逆転現象を予感させるシーンとして、非常に心にぐっと来たシーンがあります。主人公がヤクザを殴った後に職場を首になった後の一場面です。
「なぜそんなことをしたのか」と女に責められ、男が彼女から離れて夜の町に行こうとするシーンです。
女は男に「あんたお金がないんでしょう」と言って、お金を渡そうとします。
そのシーンを見た瞬間に、男がずっと荒れているのは「これ」かと分かります。そして、映画の後半には、「その理由」が明かされるはずだと直感します。
「これ」とは「プライド」です。
自分は彼女を愛していて幸せにしてやりたい。それなのに、不器用でお金がなく、結局彼女に頼っている。そのことに対して、最後の一線で守りたい男の意地です。
それがずたずたになっている。だから荒れている。
男にとって一番大切なのはプライドです。男はそれだけで生きている動物です。
子供を生むこととも育てることとも本質的に無縁な男にとって、それでも生きている価値があると思える理由はプライドです。
自分は何かができる、何かをしてあげられる、生きる価値がある。そう思えるアイデンティティです。
それがぽっきりとへし折られている。
「あんたお金がないんでしょう」
愛していて守ってやりたいと思っている相手から言われる言葉として、これほどプライドを傷付けられる言葉はありません。
このシーンは非常に印象的です。そして、男から見た男女の関係をよく表しています。
言っている女は、自分が言っている言葉がどれだけ相手を傷付けているのか全く分かっていない。
そして、プライドのためにそのことを相手に言うこともできない。
窮地に立った男の内面の葛藤がこのシーンに集約されています。
残酷なシーンだなと思いました。男にとっては、気が狂いかねないシーンだと思います。
男はプライドだけで生きている動物です。本当に辛いだろうなと思いました。
さて、この映画は、深刻なテーマの映画ですが、基本的には非常に楽しい娯楽映画でした。
その重要な要素になっているのは、脇役キャラたちが作る笑いの要素です。
脇役キャラの中の最高峰は、カルーセル麻紀です。
アパートの管理人の彼女は、男がちゃぶ台返しをするたびに「正の字」を書いていきます。さらに、セックスの回数も「和合」という表に書き込んでいきます。
その様子が物凄くおかしかったです。
他にも「熊本さん」というキャラが出てくるのですが、そちらも面白かったです。
基本的にこの映画は、脇役は全て飛び道具です。奇妙奇天烈、変でおかしな人間大集合といった感じでした。
この脇役で笑わせながら、深刻で泣ける後半に怒涛のように流れ込んでいく。
非常に楽しめた一作でした。
おまけ:
今日、「自虐の詩」の原作を買いました。時間を見つけて読んでいこうと思います。