映画「小さな悪の華」のDVDを十一月上旬に見ました。
1970年の作品で、監督、脚本は「ジョエル・セリア」です。なかなか面白かったです。
DVDには監督や俳優、研究家のインタビューが付いていました。この映画は、自主制作に近いぐらいの規模の小規模予算の映画だったようです。しかし、その予算を感じさせない出来でした。
タイトルの「小さな悪の華」は、ボードレールの「悪の華」が元ネタですね。映画では、ボードレールの詩が重要な役割を持っていますし。
さて、この映画は、町山智弘さんのポッドキャストで知りました。
同じ経緯で、ピーター・ジャクソンの「乙女の祈り」(1994)も見ましたので、この映画も見ることに決めました。
この二作は、同じ事件を切っ掛けに作られた作品です。
「乙女の祈り」は、事件をそのまま映画化したもので、「小さな悪の華」は、事件をインスピレーションにして作られたものです。
その事件とは、1954年にニュージーランドで実際に起きた殺人事件です。
少女二人が、自分たちの心象世界を作り、それを引き裂く相手を殺したというものです。
「小さな悪の華」では、この事件をイメージの核にして、二人の少女が次々に悪に手を染めていく軌跡を描いています。
以下、粗筋を書きます。(ネタバレあり。最後まで書いています。事前知識を入れたくない人は、読まない方がいいです)
修道院の寄宿学校で暮らす二人の少女。彼女らは、修道院での禁書であるボードレール、ランボー、ロートレアモンなどの本を貪り読み、悪の快楽に憧れていく。
彼女らは、おおっぴらにばれないようにしながら、大人たちを混乱に導くような悪戯を繰り返す。
二人は、悪魔崇拝を望み、その儀式を行う。彼女らは、性的に大人を誘うことで、その反応を見て楽しむ。
だが、そのせいで二人は道を踏み外す。誘った末に、強姦されそうになり、相手の男を殺してしまう。
追い詰められた二人は、学芸会で詩を朗読しながら、自分たちの服にガソリンを振り掛け火を付ける。
映画の、日本公開時のキャッチフレーズは以下のようなものだったそうです。
「地獄でも、天国でもいい、未知の世界が見たいの! 悪の楽しさにしびれ 罪を生きがいにし 15才の少女ふたりは 身体に火をつけた」
「身体に火をつけた」って、壮絶にラストのネタバレです。
いいのか? と思いました。
さて、この映画なのですが、面白かったのは、少女二人の力関係です。
片方の少女が主導的立場で、もう片方の少女が、相方の少女に従う関係です。
男を誘って、からかう場合は、従属的な少女が誘う役で、主導的な少女がその隙に悪戯をする役です。
明らかに、手下扱いです。
でも、二人は非常に仲良しに見えます。
こういった関係の二人の内面というのは、実際のところどうなっているのかなと思いました。
明らかに対等ではないですので。
映画は、性的なイメージのシーンが多かったです。
しかし、そのシーンは、「体だけが大人に育ち」「内面は子供のままの少女たち」といった印象を強めるものでした。
そういった印象を受けるのは、「肉体的に、ある程度開花している体」を出しながら、そのギャップとして「小学生にしか見えないような行動」を見せているからです。
そのアンバランスさが、二人の少女の不安定さを際立たせて、「道から外れて転げ落ちそうなハラハラ感」を生み出していました。
そして、その振幅が、映画が進むにつれて大きくなっていきます。
性的誘惑が大胆になりつつ、精神年齢の釣り合いの取れなさ(無邪気な悪)が強調されていきます。
なかなか面白い仕掛けの映画だなと思いました。
ラストは、前述のように、詩の朗読とガソリンによる焼身と至ります。
その詩の朗読がなかなかよかったです。
現代の日本では、あまりそういった文化はないですが、詩の朗読も、芸としてなかなかよいなと思わせてくれるものでした。
そしてガソリンでの焼身自殺。
観客たちは、最初それが演出か何かと思って、喜んで拍手を送ります。
しかし、それが本当の焼身であると分かって、パニックに陥ります。
この感情の推移が、リアルでよいなと思いました。
人間は、予定外のことが起こった時に、すぐに現状を認識できませんので。
映画は、なかなか面白く、興味深い内容でした。