2010年08月25日 01:19:27
「一色登希彦×佐藤秀峰 合作漫画製作ノート」を読みました。これは素晴らしい。
それぞれのネームの比較の後に、視線誘導やコマ設計の図解が載っていて、非常に素晴らしかったです。
また、一色登希彦と佐藤秀峰のマンガに対するアプローチも炙り出されていて面白かったです。
最大の違いだと私が感じたのは、キャラクターとの距離感です。
一色登希彦のネームは、読者とキャラクターの距離感が30cmぐらいの印象です。非常に近いです。この人のマンガは、読者の感情をマンガの内側(コマの境界の向こうのマンガの世界の中)にできるだけ引き寄せて、読者の心をマンガの中で動かそうとしている印象です。
そういった肉薄感が炸裂したのが、「日本沈没」のマンガ化だったと思います。ライブ感とは違う、引きずり込まれ感です。この人のマンガは、コマ内のキャラを躍動させ、表情を叩き付けることで、それを実現しています。
対して佐藤秀峰のネームは、読者とキャラの距離感が3〜4mという印象です。一色登希彦の「引きずり込んでやろう」という距離感とは違い、「見せてやろう」という距離感です。
この人のネームは、キャラクターで語るのではなく、コマで語っている印象です。コマの視線誘導と作用反作用でリズムを作っているように思えます。少なくとも、一色登希彦のように、キャラの動きと表情で鷲掴みにしようという気はなさそうです。
それは、技術として正しいと思うのですが、私がマンガで読みたいのは、技術ではなく、作者の情念や怨念だったりします。マンガという枠から、作者の何かが滲み出て、噴き出しているようなマンガを私は読みたいです。
そういう意味では、一色登希彦のマンガは、その「何か」が漏れ出しているように思えるので、私は強く惹かれます。
思い出してみると、佐藤秀峰の「ブラックジャックによろしく」の初期は、コマの印象が極めて強く、話の展開と合致して面白かったです。
でも、私が読まなくなった頃(腎臓編の途中)には、話が圧縮の連続になり、コマ力学による開放感がなくなっていました。
この人の持っている武器であるネームで語ることが、話の落差の鈍さ(落ちっぱなし)と、描き込みのせい(画面が真っ黒)でできなくなっているように思えます。結果として、画面は平板になり、展開は単調になってしまっています。
Webでの佐藤秀峰のマンガを見ていて、彼は真っ白な画面のマンガの方が面白いと思いました。読者は緻密な絵が見たいわけではなく、マンガが読みたいので。
というわけで、「一色登希彦×佐藤秀峰 合作漫画製作ノート」は非常に面白く、興味深く読みました。
これは、マンガ読みには必見の作品(?)だと思います。