映画「最後の戦い」のDVDを、七月下旬に見ました。
1987年のフランス映画で、監督はリュック・ベッソン、脚本はリュック・ベッソンとピエール・ジョリヴェ。出演はピエール・ジョリヴェ、ジャン・レノ他です。
評論家などには高く評価されたようですが、私は面白くありませんでした。
● リュック・ベッソンの長編デビュー作
DVDには、バイオグラフィーが入っていました。以下、転載です。
1959年パリ生まれ。映画監督を志し、ゴーモン社でニュース映画の助手として働く。82年、アヴォリアッツ映画祭に出品した短編映画「最後から2番目の男」(81)で注目を集め、それを長編化した本作品で同映画祭の審査員特別賞と批評家賞を受賞し、本格デビューを飾る。
というわけで、短編が評価され、その長編化というのが、私が見た「最後の戦い」という映画だったようです。
● アートからエンタメへの転向
さて、この映画ですが、完全にアート寄りです。エンタメ的な面白さはあまり感じられず、かなり退屈です。
現在ベッソンが非常にエンタメ寄りなことを考えると、かなり驚きます。しかし、よくよく考えてみると、「フィフス・エレメント」(97)以前は、確かにアート寄りだったような気がします。
しかしまあ、面白くなかったです。何も起こらないシーンが多く、話が始まるまでが非常に長いです。
これは、エンタメの方にシフトしていって正解だったなあと思います。
● 白黒無声映画のノリ
映画は、白黒無声映画のノリです。画面は全て白黒。そして台詞はほとんどありません。
この映画を見て反面教師的に思ったのは、「非言語表現」は「台詞を削る」ことではなく「動きを増やす」ことなのではないかということです。
言語翻訳を経ないで世界に発信するコンテンツというのは、台詞を削って言語依存しないようにするのではなく、動きを増やして言語が分からなくても面白いと思わせるのが正解なのではと感じました。
この映画が非言語表現を目指しているかは疑問なのですが、「人々が声帯に異常を来たした近未来」が舞台になっているので、ある程度目指しているのだと思います。
しかし、それは表現としては、失敗だったなというのが、私の感想です。
言語を削るのではなく、動きで楽しませる──。そういった「非言語コンテンツ」のさいたるものは「音楽」だと思います。
歌詞が分からなくても「動き」(音の変化)で、面白いと思うわけですし。
そういったことを突き詰めていけば、シルク・ドゥ・ソレイユの「地球上に存在しない言語で台詞をしゃべる」という演出は、「非言語」の世界で戦ってきた人たちの明確な答えなのではないかなと思いました。
ともかく、「動き」が少ない映像作品やパフォーマンスは、見ていて辛いというのが、私の感想でした。
● 短編から長編への拡大による冗長さ
この映画ですが、非常に冗長です。ほとんど何も変化がない場面が非常に多いです。いや、微妙に変化はあるのですが。
これは、短編を長編にした際に発生した冗長さかなと思いました。
「リュック・ベッソンの長編デビュー作」という比較対象の意味はありましたが、この映画単体ではあまり見る価値はないなあというのが、私の正直な感想でした。
● ジャン・レノ
映画では、特徴的な悪役としてジャン・レノが出てきます。彼はこの映画で評価を得て注目されたそうです。
そうなのかなあ。
この映画を見て、「ジャン・レノすげえ!」とは感じなかったので、目利きの人たちの目はよく分からないなあと思いました。
でも、リュック・ベッソンもジャン・レノも、その後映画史に残る人物になっていったことを考えれば、この時の批評家たちの目は間違っていなかったのだと思います。
先物買いの難しさというのを、改めて感じさせられる一作でした。
● 粗筋
以下、粗筋です(ほぼ最後まで書いています)。
舞台は近未来。文明が崩壊した後の世界。
主人公は、飛行機を作っていた。彼はいざこざに巻き込まれて、老医師が篭城する病院に収容される。病院は、凶暴な男に狙われていた。
主人公は回復し、その病院に一人の女性が幽閉されていることを知る。彼は、彼女のためにプレゼントを用意する。
凶暴な男は病院への侵入に成功して、女を殺す。主人公は、凶暴な男と対峙して、戦いを繰り広げる。
● 冗長さ2
たぶん、今この映画を作りなおすとするならば、女性が幽閉されていることを知るタイミングを、映画開始から30分かそれ以前の位置に設定するのではないかと思います。
そして、残り60分をアクションシーンの組み立てと展開に回すでしょう。
そうすれば、もう少しテンポがよくなるのにと思いました。