映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」のDVDを四月上旬に見ました。
1985年のスウェーデン映画で、監督・脚本はラッセ・ハルストレム。原作はレイダル・イェンソン。主役の少年はアントン・グランセリウスで、女の子はメリンダ・キンナマンです。
監督のラッセ・ハルストレムは、「ギルバート・グレイプ」(1993)や「サイダーハウス・ルール」(1999)の監督です。心に染み渡る非常によい映画でした。
● 子供が持つ、自分の心の中の世界
この映画は、冒頭で主人公の子供が「自分の見ている世界」を語ります。
「人工衛星に乗せられて地球最初の宇宙旅行生物になったライカ犬の運命を思えば自分はちっとも不幸ではない」と……。
子供は、大人よりも強く「自分だけの世界」を抱えています。そして、その世界を通して世の中を見ています。この映画は冒頭で、そんな「自分たちの子供時代」を思い出させてくれます。
そして映画は、様々な苦難や出会い、別れを通して、徐々に子供の心の内面が変化していく様子を描いていきます。
私は常々、「ある作品があり、その作品で表現していることが他の言葉で置き換えられえない場合、その作品には存在する意味がある」と思っています。
この作品は、そういった感覚を味わわせてくれる作品でした。
この映画は、世の中がまだ混沌としていて腑分けされていない子供の心から、様々な傷を負い、別れを体験し、世界が明瞭に切り立ってくる、そういった過程を繊細に描いています。
それを象徴するのが、第二の主役とも言える少女です。彼女は男勝りで、男たちに混じってサッカーやボクシングをしています。そして主人公と仲良くなります。
その彼女が、男でも女でもない「子供」から、映画の終盤には「少女」に変化します。
世界が一つ一つ「現実」として固化していく。そして子供時代を少しずつ通り過ぎていく。少年が、まだ少年のまま、少しだけ大人になる。
よくできた映画だなと思いました。
● 第二の主役の男勝りの女の子
実はこの映画は、主人公よりも強烈な女の子が出てきます。
男勝りの彼女は、自分を女と思いたくなく、サッカーでもボクシングでも男に負けじと頑張ります。
そんな彼女と主人公は「友達」として仲良くなります。
そしてしばらく経ち、自分の体が女として変化してきた彼女は、主人公に女として引かれ始めます。
彼女は、膨らみかけた胸を見せて主人公に触らせようとしたり、他の女の子に嫉妬したりします。
その様子が、非常に可愛らしいです。かなりやばいです。
中性的な美少年のような少女が、自分の変化に戸惑いながら焼きもちを焼き、主人公を自分のものにしようとします。
うん、いい映画だ。
私は途中から、主人公の物語よりも、少女の恋の行方の方が気になりました。
● 粗筋
以下、粗筋です(ネタバレあり。最後の方まで書いています)。
主人公は少年。彼には意地悪な兄がいた。また、主人公はドジで、お母さんによく怒られていた。
彼の母親は神経症気味だった。彼女には療養が必要だった。
少年が母親に無用な刺激を与えないように、少年を母の許から一時的に引き離すことになる。
彼は田舎の叔父さんのところに預けられる。これまでの抑圧から解放された少年は、周囲とも仲良くしてのびのびと生活する。
また彼は、男のように振舞う少女と親密になる。
時が過ぎ、主人公は故郷に戻る。彼は兄や母と再会する。母の病状は思わしくなかった。そして母は死んでしまう。
主人公は再び叔父の許に引き取られる。
しかし、前とは状況が違っていた。社宅に住んでいた叔父は、他の住人が増えたせいで家の面積が半分になっていた。主人公は自分の居場所がないことを知る。
主人公は、母の許にいた「自分が大切にしていた犬」を引き取りたいと言う。だが、叔父にはぐらかされる。
主人公は、ふとした切っ掛けで、大切な犬が亡くなったと聞く。彼の望む世界は現実と大きく違っていた。彼は自分の殻に閉じこもり、東屋に立てこもる……。