映画「オーケストラ!」のDVDを、一月上旬に見ました。
2009年のフランス映画で、監督はラデュ・ミヘイレアニュ、脚本はラデュ・ミヘイレアニュ他。主演はアレクセイ・グシュコフです。
いやあ、よかったです。
特に、ラストの演奏シーンは最高です。その部分だけ、映画が終わったあとに、何回か見ました。
非常によい映画でした。
● 政治による弾圧
この映画は、旧ソ連の指揮者とオーケストラ奏者たちが、政治的な圧力で閑職に回されて、現代においてリベンジを遂げるという内容です。
環境的要因で自分のやりたいことができないという状況は、歴史的にも地理的にもかなり普遍的で、その弾圧に対する怒りというものは、人類共通のものです。
現代の日本に住んでいると、こういった実感を持ちにくく、いつの間にかそういった「弾圧という普通の状態」に戻ってしまうことが懸念されます。
こういった作品を通して、「弾圧という普通の状態」の酷さや苦しさを知り、「自由という普通でない状態」の維持の大切さを知ることは大切だと思います。
日本も徐々に「弾圧という普通の状態」に移行しつつあると感じていますので。
まあ、この映画は、そういったことを抜きでも楽しめる娯楽作品なのですが。
● コメディから感動に
この映画は「コメディ」の楽しさに尽きると思います。真面目な指揮者の主人公に対して、周りのオーケストラ奏者たちは、統率がなく、適当で、自分本位でコントロール不能です。
この「ああ、どうしよう……」といった焦燥と、そんなことに全く構わない大らかな人々の対比が非常に楽しいです。
そして、この「どうしようもない人たち」が、オーケストラが始まると、徐々に昔を思い出して超絶演奏を取り戻していく。
その落差が、もう頬が緩むほどに楽しいです。そして、最終的に真面目だった指揮者も吹っ切れて精神を解放する。
この映画は、そういった落差で楽しませてくれるコメディ映画だと思いました。
● 評価軸
この映画で上手いなあと思ったのは、主人公とは別にキャラクターを出して、それを評価軸として設定していることです。
どういうことなのか説明します。
主人公とその周囲は「ソ連の政治的弾圧で封印された過去のオーケストラ奏者」たちです。これは、いわば「古の者たち」です。
この古参者に対して、「現代」の第一線のソリストを出して、「現代でも通用するかどうか」の評価軸にしています。
音楽などの芸術を題材にした映画の場合、その音楽が「よいものかどうか」を観客が判断できないという問題が発生します。
判断できる人もいるでしょうが、その素養を一般的な観客に求めるのは無理です。そして、もしそうしたならば、それは「映画」で感動させたのではなく、「音楽」で感動させたことになり、別に映画でなくても表現できる内容ということになります。
なので、そこに「物語として納得できる仕掛け」というものが必要になります。それが、評価軸です。
この映画では、ソリストを「現代の音楽を判断できる権威」として設定しています。
そして、そのソリストに認められるかどうかで、「主人公たちの音楽のレベル」を明確に観客に納得させます。
ただ「凄い」というのではなく、「このキャラが凄いと言っているのだから凄い」とするわけです。
こういった手法はマンガでもよく見られます。たとえば、「ミスター味っ子」の「味皇様」などは、その分かりやすい例だと思います。
この映画は、こういった手法を使い、音楽のレベルを、観客に納得させていました。
● 粗筋
以下、粗筋です(最後まで書いています)。
主人公は元指揮者。旧ソ連時代に彼は、仲間のオーケストラ奏者とともに職を剥奪された。仲間のオーケストラ奏者たちは、ユダヤ系が多かったために弾圧の対象になった。
現代。主人公は、コンサートホールの清掃夫をしている。そこで一通のファックスを受け取る。それは、そのオーケストラへの出演依頼だった。
主人公は、そのファックスをインターラプトして、過去のオーケストラを復活させようと目論む。主人公は、出演の条件として、高名な女性ソリストの参加を入れる。
主人公とオーケストラ奏者たちはパリに行く。
女性ソリストがまだ赤ん坊の頃、実は主人公と因縁があった。
主人公は、女性ソリストに認められようとオーケストラをまとめあげようとする。しかし、メンバーは主人公の言うことを聞かずに、てんでばらばらの行動をする。
そして、オーケストラの初演の日がやって来た。音はちぐはぐで会場は騒然とする。しかし、徐々に昔の勘を取り戻した奏者たちは、徐々に音を整えていく。
主人公は、これまでの鬱憤を爆発させ、奏者は最高の演奏を披露する。ソリストも、その能力をいかんなく発揮する。
公演は大成功に終わり、彼らのオーケストラは劇的な復活を果たす。